はてなキーワード: 原初とは
今日12月25日はTYPE-MOONにとって特別な日であろう。
原初の聖杯を生み出すセイヴァーの生誕の日、かの魔術の王が英霊の座から永久に消え去った日、愛を知らぬ獣が『人の王』となった日。そして、
オルガマリー・アニムスフィアの命日であり、私がFGOというゲームから限りをつけるターニングポイントとなった日である。
私と型月との出会いはZeroアニメだった。そこから転がるように世界観に傾倒していき、レアルタ・ホロウ・らっきょ・月姫(漫画版チェンゲだが。リメイクはよ)等々沈みこんでいった。
私はキャラクターよりもそれを取り巻く「世界」に好意を抱く人間だ。そこで積み上げられた世界観を不特定多数で共有したい、そんな思いからネット上の聖杯戦争を下敷きにしたTRPGセッションによく参加していた。
所謂月厨がよい印象を持たれないことはよく分かっていたので、そのセッションと型月板以外では大人しくしていたと思う。それが周りから見て「いいファン」たりえてたかは、今となっては分からないが。
そしてFate/Grand Orderがサービスを開始した。あのメンテ地獄をどう乗り切ったか、既に忘却してしまったのだが、きっと同じ境遇の掲示板上の同好の士が支えてくれたのだろう。
長いメンテが終わった先にあったのは、初めて抱いたキャラクターへの好意だった。
いつか「所長目当てにFGOを始めたら誰も彼女が死ぬことを教えてくれなかった。愉悦部だ」といったツイートが流れてきた記憶があるが、それはどうだろうか。所長の魅力は彼女の死に対して最も輝いていたと思うのだが。
閑話休題。
ともかく序章が終わった時点で私のFGOへの一番のモチベーションは所長になった。
その後も所長のみを求めて本編・イベントを進めていった。自身の形質もあってか、幸い「推しを引かねばならない」という焦燥感に駆られることなく、『「好きなキャラを引く」ではなく「引いたキャラを好きになる」(当然そこにあるのは「愛情」ではなく「愛着」だが)』というスタンスで進めるという割と健全なプレイをしていたのではないかと思う。(結局課金は16年の福袋のみに徹した。余談になるが、私は意識高い系として散々弄られた庄司Pの「ゲームの価値は顧客一人一人が決めるもの」という発言だけはマーケティングのいち真理だと考えている。今となっては喧嘩別れのようなかたちで引退した身であるが、払った金額ぶんだけの価値はあったと思うし、そこに後悔はない)
恋の続く期間のひとつの区切りは3ヶ月だ、などという話をよく聞く。私の所長への一方的な恋は、その区切りを何とか乗り越えることができた。
しかしその恋心に対してFGOは残酷であった。マスターの皆様方ならお分かりであろうが、月見イベント以降シナリオ上で所長に関する言及がぱったりと途絶えるのである。
型月の世界観は愛していた。しかしその時の私はそれ以上に所長に対しての思いが勝っていた。
そんな私に与えられたのが所長の情報の断然だった。そんな状態で、所長への思いは潰えない代わりに型月世界観へのそれが立ち消えていくのは時間の問題だった。
きっかけが何だったのかはもう不明瞭であるが(戦闘が面倒だとか案外そんな今更な理由だったのかもしれない)、メインシナリオへのモチベーションが第六章の途中ですっかり折れてしまい、数ヶ月間に渡ってログインと必要最低限のイベント周回を行うのみになってしまった。パーソナル・レッスンは当然限凸したが。
時は流れ、2016年冬。そんなモチベーションの転機となったのが終章前のキャンペーンであった。適当な自己分析ではあるが、その時の思いは「所長・石30個への乞食感情・『リアルタイムならでは』という言葉に対しての勝手な勘違い(恥ずかしながら、『終章そのものが期間限定である』と思いこんでしまっていた。この齟齬がどう影響するかは後に話す)」であったと思う。その時の私は、単純計算でも半分以上義務感でシナリオを進めていたに過ぎなかった。(6,7章のシナリオこそ読み飛ばしはしなかったが。それでもなお最近のエレシュキガルフィーバーに「遠坂凛である、以上の湧き上がる理由がわからない」と言ったらモグリ扱いされるのだろうか、といった程度の読み方しかしていないが)七章まで終わらせたのは終章開始ほんの数日前、だったように思う。
そして終章。そこで待っていたのは「素材激ウマクエストを周回する権利」という自業自得な裏切りであった。これに関しては100%私が悪いのでFGOに対してどうこう言うつもりはない。モチベーションの柱がひとつ折れた。
マーリンは引けず、柱がもう一つ折れたなか、魔神柱は必要最低限の各一回のみ倒し、追悼動画なんてものをどこか冷めた目で見ていた。
もはや私に残されていたのは「最後に所長に関する言及があるかもしれない」という曖昧な希望だけであった。
そして来たる2016年12月25日。最後の魔神柱陥落の知らせを受けた私を待ちうけていたのは、純粋なストレスであった。
勝てない。
勝てない。
勝てない。
休止期間中に溜まりに溜まった林檎を齧り、手を替え品を替え鯖を替え礼装を替えても勝てない。羅刹王の効果がなかったのは未だに許していない。
その時の私は確実にスレていた。「聖晶石は『未来を確約するモノ』なのだからコンティニューは恥ずかしくない」なんて文章を見てしまったため、意地でも石を割るものか、と思ったほどだ。結局その意思すら割れてしまったが。
人理は修復された。そこまでのストレスと差し引いたらどうかとは思うが、悪い終わり方ではなかった。所長に対する言及さえなければ。
人理修復を達成したマスターならばここで疑問に思うだろう、終章にはオルガマリーのオの字も出てこなかっただろう、と。しかし言及はあった。あってしまったのだ。
そう、「語られない者」、二百名の「その他大勢」として語られてしまったのだ。
ただただ放心した。奈須きのこの中には、既にオルガマリー・アニムスフィアという存在はいないものなのだと、そう感じた。
言及されない、ということも覚悟はしていた。しかし現実に突き付けられたのは、「きのこは所長を覚えていない」という実質的な死刑宣告であった。私の中で、もしかしたら復活するかもしれない、という希望が立ち消え、最後の柱が折れた。
一回忌。
SNS上で多くの人間がFGOに対して感謝を述べるなか、漫然たる義務感と所長への思いだけで一年半継続してきた私は取り残されてしまった。
そこで私と他マスターとの間に大きな亀裂が生じてしまった。妬ましいのだ。
何で俺が救われていないのにお前らは救われたんだ、感謝の言葉を言えるんだ。そんな身勝手な、醜い嫉妬。
そんな思いから一気にFGOへの思いが覚めてしまい、止まってしまった私は先達を気持ち悪い内輪ネタとしか思えなくなってきた。
その後も惰性でログインとイベントだけ続けていたが、その惰性すらチョコ礼装のテキスト「いつかこれに乗って、""四人で""颯爽と聖地の荒野を渡る事を天才は夢見たのかもしれない。」に心折られ、近しいうちに引退した。
引退後は徹底的に自衛を行った。私の心理状態はアンチのそれに近しいものだっただろう。ただ、それを行動に出すのはみっともない、そうも考えていた。
「嫌なら見るな」とはよく言うが、本当にその通りだと思う。見えなければ怒りは湧いてこないのだ。そして、作品に対するアンチ行動は作品そのものではなく「その作品を楽しんでいる人間」そのものに向けられていることも理解した(私が特殊なだけかもしれないが)。
一年が経ち、作品そのものに対する不満は引いてきた。それを取り巻く人間に対しての嫉妬への対処は、まだもう少しだけ時間がかかりそうだが。
そして、この文章は一年という澱みに対する気持ちの整理である。一年前では良くも悪くもここまで冷静に物事を見れなかったであろう。
ただ、身勝手な望みでしかないのだが、願わくば所長には復活してもらいたくない。創造主から一度忘れさられたものをサルベージされたならば、それはもう菌糸類からのキャラクターへの愛情ではなく只のビジネスだ。
好きでもないキャラクターをビジネスとしてピックアップさせ、好きでもなかった人々から「ずっと待ってた」などと空虚な言葉をかけられ性的非性的に搾取される。
そんな未来は、きっと耐えられないだろう。
反応ありがとうございます。
ソラウリベンジ
悲惨な末路をたどるのは十分予想できたことであり(ぐだおでもネタにされてましたし)その「悲惨な末路」があったからこそオルガマリーというキャラクターに惹かれたのは先に記した通りなのでそこに文句はありません。
ただ、その「悲惨な末路」が作中だけでなくメタ的な扱いにおいてもそうであったというのが只々残念であるのです。
2部
今になって言及されても「2年近く言及をしてこなかった」という疑念は拭えませんし、プレイヤーに対する心証の悪さ(悪目立ちしてるのはほんの一握りだというのは理解しているのですが)はまだ癒えていないので再開してもストレスにしかならないでしょう。加えて引退において後腐れないように引き続きコードを電子の海に放出したため所長がどうこう関係なく面倒なので復帰の予定はありません。(スマホのスペック的にも去年はプレイに支障がなかった程度だったがそこから一年経って諸々追加されたらもうダメそう)
音楽は最高だ、ライブは現実の不安を吹き飛ばしてくれる!このバンドを聴き日々暮らすんだ、と胸に刻んだあの日から11年
中高生の時は野球にさほど感心がなかった、でも横浜は気になった種田の真似はしたし、TBS買収に驚いたし、WBCはテレビ観戦をしていたけれどもあの頃は専らバンド。お年玉はCDにバイト代はライブ遠征費に出演してるラジオや新譜をMDに入れ悶えていた、まさに青春
裸足で唄う姿や衝撃的な歌詞、一変して何処か懐かしい哀愁を帯びた音
雷に撃たれたのだ、心が震えた15の出来事。音だけでなく奏でる人物像が知りたい、その世界観がもっと知りたい‼決してメジャーと言い難い彼らの情報を必死に集めた。雑誌の表紙なんて飾らなかったから切り抜きを貰ってファイリングした。ライブ最前列で触れ、握手会、番組観覧。増える黒いTシャツ、タオル。それはそれは痛いくらいに夢中になりました、神のごとし全てでしたから
へぇ、丁度登場曲にこのバンド使ってる選手いるし応援しよ♪原初のカープ女子であった、だがいつしかそんな誓いも忘れたのだ。ゴールデンウィークの谷間の日、仕事や学校があるのにも関わらずデイゲームを行ったガラガラのハマスタとサヨナラホームラン
日米どちらのポストシーズンが終わった。やはり野球は楽しいな。
今話題のcs制度についてお話ししよう。私が応援しているベイスターズは3位ながらも下剋上という形で日本シリーズに進出した。えっビール掛けもしちゃうの?風邪引かないでね、呪詛っぽい不吉なコメントは止めてね。選手の喜びが眩しかった、19年ぶりの乾杯。本当に嬉しく思ったが同時に驚き戸惑った。これでいいのかな?唯でさえ1位のチームと貯金差10以上あるのに、他のチームの方がパ・リーグ相手に善戦するのでは...
そんな素人の余計な心配を他所にベイスターズはあのホークス相手に見応えのある試合が出来たのではないかと思う、あのサファテにイニング跨がせたんだぜ! 次はセ・リーグ優勝して堂々と挑みましょう。お疲れ様でした、2月のキャンプで会おう!しかし今後はcs制度見直しが必要だろう。あとNPBは開催時間をデイゲームにしてください、屋外球場は客も選手も辛いでしょうに。
さてシーズンも終わったしTwitterで新しい音楽の発掘するかー
飛び込んだ横浜を下げたツイート、おやどこから?あのバンドマンだった、やはり優勝チームのファンはそんな思考になる人も居るよね、好きな人だけに複雑だなぁと思いつつ返信欄を覗いてみた。”○○倒せクソ不愉快““ビール掛けとか球団は敬意がない” 敬意?
いやいやいや~巨大なブーメラン刺さってますよ目には目を理論ではないですが、カープ球団にそんなのあったの?締め出しとか相手チームに嫌がらせグッズ作るのに?軽率な発言は止しなさい、表現者であるなら尚更、失望したよ。それならば勝者にこそ敬意が向けられるべきでは?あなたの発言が侮辱だ。最近はネタがないからか演奏じゃなくボルダリングとかアイドル的な要素まで入れてきて笑ってたらこんな...炎上芸かい?
恐らくはカープの選手に対する侮辱行為にみえる、という事で発言したのだろうか。推測の域で語っても不毛なのでやめにする
カープファンや選手は本当に情熱や実力もナンバーワンだと思う。カープファン選手すみません。不快な発言でしょうが球団は無理です、運営が無理。あと○○倒せコールはセ・リーグだとヤクルト中日阪神さんはチャンテ内に組み込まれていますし。そんなにカッカするなよおじさん。
そんなわけで11年間続けたバンドのファン、バンギャを卒業します
リーダーが一昨年何年経ってもリスナーが戻ってこれるようなバンドでいたいです。と発言していてしみじみ言葉の暖かさを感じていたのですが残念です。戦争の歌やら日常の歌、このバンドは沢山良い歌があります
ですが政治、宗教、野球は慎重な話題が多いのです。タクシー運転手さんはよく気をつけていると聞いたことがあります。
もう私は純真な気持ちで彼らの音楽は聞けません、ライブに言ってもどす黒い渦が巻いて楽しめないでしょう。たかだかそんな呟きでそんな失望するなよ、と頭の中ではわかってはいますが行き場のない思いを綴ったまでです。自分の幼稚さも陰湿さも重々承知です。だけどTwitterも掲示板もそんな呟き話題にすらなっていないもの!完全に個人的な憤り。
ただのファンなら別に良かった、だが尊敬する大好きなアーティストの声がそれだぜ、笑えるわ
いや、ベイスターズが優勝したらかな?頑張れよ‼
長文失礼致しました、昨今のSNS発展によるこのような悲しみにふれる方が少なくありますように。
さよならもう会わない気がするよ グッズどうしようかな
超科学は
ロストテクノロジー…ではなくて未来から転送→遥か過去→発掘されて現代という順にたどり着いた。
魔法は
マナを自在に操り…ではなくて実はこれも別次元の外宇宙による影響が出て重力子やら量子やらなんやかんやで使える。
未来から科学が送られてきたのは未来人が自分の望む未来を作り出すための手段。
科学を使って支配を企む悪の帝国は実は未来人がボスだったのだ!
ボスは事故で犠牲になった仲間や妹が生きていた未来になるように悪い事してました!
平和は訪れた。
俺たちの未来は俺たちで作る!
帝国編・完
ところが、仲間の1人が古代遺跡を探索していたところ、
再度仲間を結集する。
分析を進めていくにつれて、世界は滅びの道が決定していること。
魔法は科学のせいで使えるようになったことではないことが判明した。
中ボスかと思われてた謎の密使がこのタイミングで主人公たちと接触。
世界が破滅に向かう原因は外宇宙の侵略者から攻撃を受けていること。
この宇宙を作りだした神が、創世以来この星で眠り続けているということ。
魔法は人間が次元を超えた力を操る感覚を取り戻す現象を指していること。
侵略者の攻撃が始まる直前に神の言語を解読して接触を図る方法を模索していたこと。
と、ネタバレしていく。
古代編開幕
場所がバラバラなのは侵略者に見つかって一度に壊されないような配慮。
ここまで書いて満足してきた。
要するに侵略者はエイリアンなわけね!英語で言い直しただけだな。
神と神の争いが最初にあって、今の宇宙創世の神が星に住んでる原初の神。
エイリアン側が最終的に宇宙を壊すんだけど未来人が過去へ情報を送信して時空干渉し始めてる。
その歪で魔物とかが産まれて始めたのが主人公たちのいる中世で、
なので魔物=エイリアン対策なんて全くしてないかったもんだから未来で未来人たちはボコボコにされた。
中世の原初神はまだ力を持っていたから魔物の出現に合わせて眠っていても防衛機能が働き
魔物は人間を襲いたいんじゃなくて神を探していて神に近いから勘違いして襲っているだけ。
あーまだ設定たくさんあるけど目が疲れてきた。でもわりとスッキリした。
不確定の領域を走査、探索することは生命が生存するためには不可欠のことなのだ
そして自身が不確定領域を創出することも是とされる自身の不安定要素が増すことになったしてもそれは行われる
生命体は生存のためにあらゆる手段を用いあらゆる行為を実行するそれが自身を生物全体を危険に晒すとしても不確定領域の存在はそれ自体が危険であり
その領域を放置した状態で将来その危険に接触すれば破滅、被害は免れ得ないからである
今死ぬのも将来死ぬのもコードの耐久期間が違うだけで結果が同じである遺伝子からすればそれは生存の失敗でありさした違いはない
また不確定である領域の危険性を把握することは出来ずそのためその領域を探索するべきかどうかという選択肢を持つことは厳密な意味では出来ない
故に接触した不確定領域は随時、走査、探索が行われる
現状を維持しようともがきながら誤謬を繰り返し続け歪に変形し、異様な複雑さを獲得するしかなかった悲しき原初の生命の残滓であるという
スタニスワフ・レムの虚数の考えに対してこういう見方もできる遺伝子コードは生存に必要な基礎コードを維持し続けていると
自己拡張、自己改変が行われたとしてもはどのようなものであっても生存を否定し生存、複製を継続させることは出来ない
自己拡張、自己改変もまた事前の遺伝子コードの内容から大きな影響を受ける、継続するものは事前に存在するものの影響から逃れられない
このため私達が何らかの存在を自分たちの生存目的に適合させ生存、存続させようと意図した場合でも事前のもの(私達)のコードの影響を受けることになる
この場合においては直接的影響じゃないため幾つかの曖昧さがや別の意図が付加されるだろう
しかしどの場合においても生存の否定を内包し存在を継続することは出来ず生存に必要な基礎コードの伝達に成功する
そして不安定状態を孕み生命を継続するということは上記の理由によりあらゆる面においてあらゆる生命の変異形を作り出すことに繋がる
C 売国
昔はA党とB党で争ってた
そうするとこうなった
これ自体、理念が反しているのに同盟って意味不明な状態だがおまんま減るくらいなら理念を曲げるのが日本の政治家
豚は反省して売国よりも右翼左翼のがマシとAに投票して元に戻った
この数年間はお灸期間で豚も負け犬も辛い思いをした
んでこうなる
なおアメリカはこう
その他 左翼
これをずっとニンテンドースイッチしてきた
どっちも方向性が違うだけで有能だから幸せの定義についてモメてるだけ
日本が1人勝ちな上にそいつを倒してもよりクソな未来しかないのが異常なだけ
Cが糞っぷりを露呈したおかげでなおさら糞にも関わらずA・Bが盤石になった
アメリカの機嫌を損ねることが大局的に見ていいわけがないことを理解してるから
不確定の領域を走査、探索することは生命が生存するためには不可欠のことなのだ
そして自身が不確定領域を創出することも是とされる自身の不安定要素が増すことになったしてもそれは行われる
生命体は生存のためにあらゆる手段を用いあらゆる行為を実行するそれが自身を生物全体を危険に晒すとしても不確定領域の存在はそれ自体が危険であり
その領域を放置した状態で将来その危険に接触すれば破滅、被害は免れ得ないからである
今死ぬのも将来死ぬのもコードの耐久期間が違うだけで結果が同じである遺伝子からすればそれは生存の失敗でありさした違いはない
また不確定である領域の危険性を把握することは出来ずそのためその領域を探索するべきかどうかという選択肢を持つことは厳密な意味では出来ない
故に接触した不確定領域は随時、走査、探索が行われる
現状を維持しようともがきながら誤謬を繰り返し続け歪に変形し、異様な複雑さを獲得するしかなかった悲しき原初の生命の残滓であるという
スタニスワフ・レムの虚数の考えに対してこういう見方もできる遺伝子コードは生存に必要な基礎コードを維持し続けていると
自己拡張、自己改変が行われたとしてもはどのようなものであっても生存を否定し生存、複製を継続させることは出来ない
自己拡張、自己改変もまた事前の遺伝子コードの内容から大きな影響を受ける、継続するものは事前に存在するものの影響から逃れられない
このため私達が何らかの存在を自分たちの生存目的に適合させ生存、存続させようと意図した場合でも事前のもの(私達)のコードの影響を受けることになる
この場合においては直接的影響じゃないため幾つかの曖昧さがや別の意図が付加されるだろう
しかしどの場合においても生存の否定を内包し存在を継続することは出来ず生存に必要な基礎コードの伝達に成功する
そして不安定状態を孕み生命を継続するということは上記の理由によりあらゆる面においてあらゆる生命の変異形を作り出すことに繋がる
原初、泥と肉の境目が曖昧だった頃、本能の頂きをほんの少しだけ超える理性を備えた者だけが気づく、圧倒的な無法。
犯し、殺し、奪うことが他者との接点でしかない者たちに抱く恐怖に怯えながら、その恐怖に抗うかのように考える、何故殺し合うのか。
気づいた者から群れを離れていった。最小の人数で分離し新たな集団に。
自分たちに好ましい動物だけを繰り返し育てることで従来の食料を仲間として使役できるようになり、少人数さによる部族の脆弱性をフォローする武力とした。
しかしながら、そのような関係性は親密度を上げ、より強い悲しみを引き起こす。
小さな子供では耐えられない程のその悲しみを前にした時、親は子を諭すように言う。それでも私達は生きていなかければならない。
自分たちが生き延びるためにこれまで生死を共にしてきたパートナーを、自分たちが生きるために殺し、食う。
なんのために、そんな権利があってと考えると、死ぬしかなくなる。好きだったのに。
ただ、私たちには他に方法がない。しかし心配しなくていい、私の父が生きていたならば許してくれるだろう。
これは仕方のないことなのだ。悲しみとして感じる思いは罪悪感ではなく、愛情というものだと。
父ならば言うだろう。そのように許してくれる、父に感謝しような。
親父様は酒と野球とギャンブルが大好きなクズだったが、浮気と無職と借金だけはしない洗練されたクズだったので最低限の生活は保てていた。
鼻水を垂らしたまま何も考えず中学生になった僕は、そのまま何も考えず地元の底辺工業高校に進学した。
大学進学率0.3%未満の絵に描いたような地域密着型就職支援高校だった。
バカ、貧乏、次男坊のフルコンボを駆使し田舎を出て神奈川の大きな工場に就職した。
「僕ぁ、こんな事をする為に高校でプログラムを覚えたわけじゃないんですよねえ」等と同期のヤンキー達に吹聴してたら流れ的に辞めるしかなくなった。
とはいえ、ホントはプログラムなんか言う程できたわけじゃないので、どっかの会社に応募して落とされたら、周りも納得するかーなんて軽い気持ちでテキトーに選んだ会社に応募したら内定きた。
その会社でアセンブラとかいうミトコンドリアみたいに原初なプログラム言語を叩き込まれた。
おかげで、CだろうがCOBOLだろうがC#だろうがJAVAだろうがハイソサエティだよね、て気持ちになれた。
結局そのままいろんな会社を転々としつつもプログラムの仕事を今でも続けられ、不自由なく暮らしていけてる。
僕の未来予測では35歳になるまでに、能力的に限界がきて、pepperくんに仕事を奪われ、飲んだくれた挙句、アル中で手の震えが止まらずキーボード打てなくなり、プログラム以外の仕事もできず、部屋に引きこもりxvideosばかり見てたら奥さんに愛想をつかされ、底辺高校に行かせるのがやっとの長男と、承認欲求をこじらせてニコ生やらツイキャスやらで裸体を晒す娘を連れて出ていかれるハズなのだ。今頃。
だが、現実はどうだ。
天海祐希似の奥さんと、映画やCMとかで使われるくらい良ロケ高校に通う長男と、部活に汗する健全な娘に囲まれ、それなりにシアワセに生きている。
小学校時代に道端で座り込んでた奇妙な婆さんに「お前さん、34で死ぬよ」と言われ、なるほどですねーと過ごしていたが、既にそのXデーから十年以上経過しても元気に生きている。
たぶん、何十回か別の世界線で死んでるよね?僕。
じゃないと、そろそろ変な死に方しそうで怖い。
わかる。
俺が大洗に行ったのはガルパン以後だったが、ガルパンなんかなくても十分魅力的な街じゃんと思った。
原初の大洗が賞味したくても、今は「ガルパンの大洗」でしかないんだよな。神社の拝殿の横のガルパン看板とかゲェっと思った。痛絵馬とかならともかく…。
本来はありのままを賞味すべきだろう。ゲートウェイとしてアニメや萌えキャラがあるのはいいが、そのものに侵食するのは違うだろう。
「ガルパンの大洗」としてはアピールできても「大洗」そのものはアピールできたかどうか、そこが本来問われる。まあ大洗の場合はガルパンから独り立ちしつつあると思うが。もともと魅力のある街なんだし。
"○○が大阪に冷たい"
その他の田舎民や出稼ぎ労働者であるという事実をまず念頭に考えよう。
するとその人たちがマウント取れるのは
よく分かってない「北海道」でもなく
残ったのはその他の県であり
自分たちが担ぎ上げている東京に劣る存在としてこき下ろすのに都合のいい存在。
だから地元東北でも存在感のない名古屋でもよくわからん北海道でもなく
TVで露出しやすく馬鹿にしやすい大阪を攻撃対象に捉えている。
もう一つの理由としては、大阪が都会としての機能を持っていながら
大阪以外の県の人間に対しても差別なく接しているのが大層気に入らないのだ。
よそ者の集まりである関東では自分たちの地元の言語でしゃべるなど持っての他で
出稼ぎ労働者たちである彼らは地元というアイデンティティを押し殺しながら日々車両に鮨詰めにされる日々を送っている。
そんな中でTVに写る大阪人は自我を持ち品性の欠片も無い地元言語でベラベラ面白おかしくお話しているわけである。
それを見て快く思う人間の方が多ければ政治は何もしなくても良い方向に転がるだろう。
現実世界ではサイレントマジョリティの彼らもネットでは声高に自我を膨張させ大阪バッシングにいそしむことができる。
彼らにとってはネット世界こそが現実世界の「大阪」の代わりなのだ。
だからこそ現実世界の大阪に住む人間たちに殺意を持ち怒りを持ち憎しみを持ち、そして羨望を持っている。
残念ながらその行為では何も解決することはないが、彼らは目の前のニンジンをかじるのに精いっぱいの生活を送っているため、
決して気づくことはないし改めることはない。報われることもないだろう。
当の大阪人たちはというと話題にされることをむしろ喜んでいるフシがあり、
俺たちはこんなに注目されているんだ!と上機嫌であるか、
それよりも目の前の話に夢中で気にかけていられないといった態度だ。
ネット上でも大阪人たちの反応が冷ややかというかどちらかというと冷静なのも
怒りの感情の正体には出稼ぎ労働者たちの「俺たちも大阪に生まれていれば好き勝手できたのに」という気持ちを無意識に察しているからかもしれない。
哀れみの心を持って自らガス抜きの対象として甘んじている大阪人たちがいる限り、
ネット社会の地元ヘイトは大阪バッシングによってバランスが調停されるだろう。
逆に千代田区・中央区・港区・渋谷区に産まれ住む、原初の都会人たちは
大阪人に対して羨望の欠片もなく面白い動物くらいの認識なので、
そもそも憎しみを抱くことすらない。
くらいの。
えーそうなのー?
明石焼きなんてのもあるぞ!酒に合うぞ!
わーおいしそー!
「世のため」とは人間社会のため、「人のため」とは他人のためなのですから、人間至上主義のエゴイズムがほとばしっていることにはかわりありません。さらにいえば、自分のためでは無いということによってあたかも「エゴイズムではありません」っていう大義名分を得るわけですから、むしろ危険です。
「世のため人のため」は人間中心の利己なのですから、どうやっても、地球のためとか宇宙のためとか動植物や国土風土のためだとかいう価値観には直結しえません。
道徳と称するものは、(儒教の)信仰ですから、「道徳はエゴイズムだ」というのはタブーであり、嫌悪されます。中国文化圏は儒教信仰で、日本というものも儒教国家です。そして、国家社会を維持するための方策として、儒教が教化されてきました。信仰を「間違っていますよ」と指摘されると怒るわけです、己の誇りの無さを埋めるために依拠するところですから。信仰とは、無批判に善悪が決まっていて、自然法則は抜け落ちます。日本は儒教国家ですから、儒教や道徳を批判することは国家社会の既成構造、既成状態を批判することと同じ、すなわち社会の既成状態によって助かっている人々にとって、儒教批判はタブーで、絶対にダメであるわけですね。
さて、例えば「一番じゃなきゃダメ」だというスパコンにせよ、その神戸のスパコンのケイってやつは確かに例えば気象シミュレーションに用いることで災害予測技術の向上にも活用されています。災害予測をすることで、「かけがえのない人命」が助かると、ほぼ皆思うでしょう?
人類は人間至上主義で、他の動植物や地球や宇宙のことが抜け落ちています。例えば、人命のためだとか、国家のためだとか、人類のためだとか、子孫繁栄のためだとか、そういう目的で資源も浪費するし、地球を破壊して、それでもなお増殖しようとしてきました。その異常性を省みることすら、ほぼ全ての人は、しません。
人命のためとか、産業のためとか、経済成長のためとか、国家のためだとか言っていれば、いくらでも資源を浪費してかまわないという理屈になるでしょう。そのためには、化石燃料を浪費するし、核燃料を遣ってでも電力をジャブジャブ消費可能にしなければならないということになる。防犯のためならば電灯点けっぱなしにもするし、宣伝のためならば看板の電灯も点けっぱなしにするし、自家用車は売りつけるし、誰もがモノを所有し放題で浪費していいという社会状態にした方が都合がいいわけです。
そもそもは例えば神道にせよ、原初の神道、つまり神祇信仰、いわゆる自然崇拝という時点では、地球や宇宙や自然現象に対する畏敬がありました。天皇は祭祀を行いますが、その祭祀の目的は天神地祇、つまり自然や自然現象の御機嫌を読むことです。それは、天皇以前の卑弥呼などであっても同じです。そういう超能力(ESP)であり、そういう職業です。
それに対して、神社神道へと変遷し信仰の対象が人へと換わり、そして人間の我欲を満たすことが主目的の祈願ばかりが行われるようになり、さらには国家主義のいわゆる右翼にせよ国家神道と称する儒教を信仰しているわけですけれども、そうなるともう人間社会至上のエゴイズムです。
人間ってそんなに大したタマなんか? 「かけがえのない命」っていうけど、どうせそのうち死ぬんだろ? それが当然の自然法則であるわけですから、その現実を直視してイヤイヤしないのが、本来の神道(原初神道)もそうですし、本来の仏教(人間釈尊が説いた仏教)もそうです。
儒教や国家主義だけではなく、民主主義とか共産主義とかでも凡そ、人間中心主義から脱け出られません。人間至上のエゴイズムから脱出するには、そもそもの自分自身の思想が、脳が、その域に達する必要があります。デモクラシーであろうがコミュニズムであろうが、当の人々ひとりひとりがその域に達した生物にならなければ、人間至上から抜け出した自己客観視の可能なスーパーエゴのある社会にはなりえないのです。むしろ、民主主義とかいってその域に達しない人が政治参加をして自己批判もしないでいると、エゴイズムによる政治になります。つまり衆愚政治になります。けれど言うまでもなく、独裁体制や階級政治、身分による社会であっても、社会を差配する者がエゴイストであれば、話になりません。
そうすると、今の、安倍日本にせよ、プーチンロシアにせよ、トランプアメリカにせよ、どうなのかって、いちいちここで言うまでもないと思います。
「腐女子こそ夢小説を書くべき論」が話題になって「よくぞ言ってくれた」と喜んでいる人と記事自体に怒っている人がいた。
記事自体に怒っている人、とりわけ「腐女子こそ夢小説を書くべき論」を読んで欲しい層として想定された(と思われる)「腐女子」以外の人について考えてみた。
腐女子以外で、この記事に対して怒っている人たちに、自分たちを「自己投影勢」と自称している人たちがいる。
夢小説を愛好する方の中で、主にガチ恋勢などと言われる人たちのことだ。
彼女らは、夢小説に出て来る名前変換が可能な「主人公」に自分だと思いながら、夢小説を読む。
私は怒っているので、キツイ言い回しになっているかもしれない。
この記事を書いている私は、彼女ら「自己投影勢」の「腐女子こそ夢小説を書くべき論」に対する反応に怒っている。
私が怒っている対象は「自己投影勢の肩身が狭くなるから、こういった記事を書いて腐女子が書く夢小説を増やしてほしくない」と言っている人たちだ。
自己投影勢全般に怒っているわけでもないし、嗜好について私の理解が及ばないと思っていても馬鹿にもしていないし、気持ち悪いとも思っていない。
彼女らに私の嗜好を貶され、排除しようとされない限りは、はっきり言って、彼女らがどう思っているかは興味がない。
嗜好を名指しして「布教をするな」と言われたのでなければ、この記事を書くことはなかった。
上記の自己投影勢の説明ではあまりにいい加減なので、ある程度、前提条件を絞りたいと思う。そのために私の自己投影と名前変換に対する考えを記述する。
私と同じ考えだと自信のある方は飛ばしていいと思う。
目印として本題に入る部分に矢印をいっぱい付けておくのでそこまでスクロールして欲しい。
私のスタンスとしては、他人が書いた小説の主人公を自分だと思いこむことは特殊な技能であると思っている。
これは、キャラの恋人が自分だと妄想することとは別の話であることを留意してもらいたい。
誰かの恋人になった自分を空想すること自体は、誰もが抱くことのある欲求のひとつであると私は思う。空想し、それを作品にアウトプットすることもまた、ありふれた行動であると思う。
しかし、小説という作品媒体になったものを読むとき、登場人物が「自分だ」とはっきり信じることのできる人は多くないだろう。
映画や本を読むときに、話者となる登場人物に感情移入してストーリーを疑似体験する。これは基本的なエンターテイメントだと思う。
感情移入する登場人物は主人公に限らない。幼少の頃に見ていた映画を大人になって見ると、幼少の頃に思い入れた登場人物とは別の人物の気持ちになって泣いてしまった、ということはよく耳にする話だ。
さて。このとき観客あるいは読者は、登場人物は登場人物であって、自分とは別の個体であることを認識している。境遇を自分に重ねることはあっても、自分ではないと分かっているはずだ。
腕にひどい怪我をした人物を見て、自分の腕が痛い気がして顔をしかめる。怪我一つない自分の腕を押さえる。これが共感だ。多かれ少なかれ、誰しもが持っている感覚だといえる。
「共感」は人間の社会生活を円滑にする上で欠かせないものだ。一説では、サイコパスは共感的な感覚を先天的に欠いているのだという。共感が出来ないからと言ってその人がサイコパスであるとは限らないことに気をつけたい。
この共感が強すぎることで、映画やテレビを見るのが苦痛だという話が、しばらく前に話題になったと思うので、「共感」というものがピンとこない方はそっちを覗いてみるのがいいかもしれない。
話は戻って、名前変換によって、いくら登場人物が自分の名前を冠しているからといって、主人公が自分だと思い込む、ということは「共感」ではなく「同一化」に当たるのではないだろうか。
サイコパスの話を持ち出してしまったが、専門用語としての話ではないのでその点はご理解いただきたい。
自己投影と称している人の中で完全な「同一化」ができる人はそう多くないのではないだろうか。多くの人が、夢小説の中で恋愛をしているのは小説の中の「わたし」であって、今この世界にいる「わたし」でないものだと折り合いをつける。
2は、1よりちょっとだけ現実の私と切り離されている。 なんというか、原作世界や二次創作の世界をパラレルワールドだと認識しているのはこの層が多いんじゃないかなあ。 その世界の「私」となって、キャラと接するのがこれに当たる。
「同一化」と書いたものをこの方のいう1とするならば、2は「折り合いをつけている」人たちのことだろう。3の話はここではしない。
この折り合いが付けられた状態は、映画を見て登場人物に共感して涙することと差がないように私は思う。
夢小説は、コンピュータとインターネット回線の普及によってもたらされたジャンルであると思う。
それまでは小説といえば紙の書籍が主体で、印刷物として市販されている小説の主人公たちの名前は変えることができなかった。
それが、コンピュータの普及によってテキストの一部を自分の名前に変えることができるようになった。これを女性向けとして利用した人が現れる。これが夢小説のはじまりだと思う。
夢小説の出現よりもひと足早く、ゲームでも主人公の名前を自分の名前に変えることができることが「普通」になっていった。その片手で、インターネット上に公開された名前変換可能なテキスト群が夢小説と呼ばれることになった。
一見違うもののように見えるが、双方デジタル化によって生まれたユーザビリティの結果であり、本質的には同じものであると思う。
そこで、ゲームをしているユーザーは自分の名前のついた主人公を「自分だ」と思い込むことができるだろうか?
これは、できる人もいる、が正解だと思う。自分の選択によって動きを変える主人公が、自分であると思う人もいれば、画面の中で動く人型のイラストを、自分が操っている操り人形だと思う人もいるだろう。
後者については、海外に多い「プレイヤーの視点が画面になるタイプのゲーム」のユーザー間では減少する可能性がある。ゲーム内のアバターをアバターだと認識することは、ゲームのプレイヤーが自身のアバターを俯瞰する形になる、多くの日本産のゲームに特有の感覚かもしれない。長くなりそうなので、ゲームでの視点の話はこの程度にしたい。
余談の最後に、私が思うゲームと夢小説の違いをまとめて、話を「自己投影」についてに戻していこう。
ゲームには操作性の問題がある。主人公の行動を自分で操る事ができる。この点が、ただ与えられたテキストを読むだけの「夢小説」とは大きく異なる点だろう。
夢小説の中に出てくる登場人物の行動を、読者は変えることができない。
夢小説の中に出てくる登場人物のセリフを、読者は変えることが出来ない。
繰り返しになるが、自分の意思とは違う行動を取り、違うセリフを喋る主人公に「共感」するのではなく、「自分だ」と思い込む、「同一化」する事ができるということを、私は特殊な技能であると思う。
私の一歩先を行っているのかもしれない、とも思う。
「同担拒否」を自称する方たちに対して、いくつかの疑問がある。
まず、私が思うのは彼女らは何を読んでいるのだろう?ということだ。
人が書いた小説を読めば、必ず違和感が生じるだろう。お母さんが枕元で、主人公の名前を子供の名前に置き換えて読んでくれることとはわけが違う。クラスメイトに貴方が主人公の小説を書いてもらい、プレゼントしてもらうのとも違う。
ただ、スクリプトを使って文字列を自分の名前に置き換えているだけだ。
好きな食べ物も、癖も、言い回しも、得意な教科もすべて変換するわけにはいかない。そんなに違う「わたし」とどのようにして「同一化」するのだろうか。
自分と恋人の話を綴った物語を公開して、自分と同じように彼を恋人だと思いこんでいる人が読んで、自分の体験が他人のものにされることが不愉快ではないのだろうか?
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本題にうつる前に周りくどく鬱陶しい話をしたのは、前提条件をはっきりさせておきたから、と断っておく。
本題はその「自己投影勢」がなぜ「腐女子こそ夢小説を書くべき論」に怒っているか?
なぜ、私が「自己投影勢」が怒っていることに対して怒っているか?
という話だ。
私がTwitterで観測した限り、怒っている理由には大きく分けて2つあったように思う。私が見かけた2つの理由について話をしたい。
怒っている理由その1
だそうだ。
これは見当違いな怒りであると私は思う。「腐女子こそ夢小説を書くべき論」の中で、たしかに
など書かれている部分はある。
しかし、これは、この記事を書かれた方の意見ではないのだ。少なくとも私にはそう読める。
私が読むところによると、これは、世間から「夢小説」に対して向けられている一般的な感想だ。
偏見としてあげられる言葉を持ち出すことすら許さないならば、許さない人が偏見を持っている人にやめてくださいと訴えるべきだ。怒りを持っていく場所が違う。
誰が発言するかによって怒りが違うならば、それは貴方の心にある差別が原因だろう。胸に手を当てて心当たりを探ることをおすすめする。
そういうのもあるけどそれだけじゃないよ!
としているが、自己投影的な考え方を否定しているわけではない。むしろ、全体を通して自己投影は誰もが持ち得るものだと書いているように私には読める。
そもそも、「それだけじゃないよ!」は嫌っている人に嫌いなものをそのまま食わせる馬鹿はいないので「夢小説はあなたが嫌いだと思っているものよりもずっと多様なものですよ」と話しかける言葉だ。自己投影を貶めることは書いていない。
行間から書いていない言葉を読み取るのはやめたほうがいいと、老婆心ながら言わせていただこう。
そのうち行間から呪詛を感じ取ってこの記事のせいで呪われたなんていい出しそうだ。
怒っている理由その2
というものだ。
はっきり言おう。私にはこの感覚がまったく理解できなかった。そして、これを理解したことによって怒っている。
夢小説のはじまりは、自己投影にある、と言っている人がいた。これは当初のことがわからないので、間違っているかあっているかは問題にしない。
私がこれに対していうことがあるとすれば「だから何?」だ。
だから? 幼稚園児が遊び場の権利を「すべり台はわたしが先に使っていたのでわたしのものです」と主張するくらいにどうでもいい。
余談としてゲームと夢小説の部分で触れたが、主人公の名前を変えるという考え方自体は珍しくない。それを二次創作に使うことは、誰にでも思いつく可能性があったことだと私は思う。
夢小説が流行り始めた当初、このスクリプトを自分で書くことのできる人は少なく、多くの人が他人からこれを借りた。
その借りた先の人が「夢小説」あるいは「ドリーム小説」と読んでいたのなら、これは自己投影云々についていた名前ではなく、名前変換というシステム自体につけられた名前であると私は思う。
異論はもちろんあると思うが、自己投影がたしかに原初であったとしても「だから何?」と私は返すだろう。
夢小説のルーツでの幼稚なマウント以外に、私は「追い出される」という感覚が理解できなかった。なぜなら、10年以上も前から、自己投影勢もあったし、オリキャラ勢もあった。共存していたのだ。
古の超大手夢小説検索サイト「ワンドリサァチ」さんのキャッシュからも、当時から細かく別れていた傾向のチェックボックスを見るとわかるのではないかと思う。
ちなみにワンドリサァチさんがページ消失したのはかなり昔のことだ。ワンドリサァチさんの消失は夢小説界隈を、まるで神に言語を乱され方方に散ったバベルの塔の逸話のように、引き裂いた。
夢小説史はさておき。なぜ突然、オリキャラ勢が押し寄せてきて……なんていいはじめたのか。
たしかに数年前から「夢主はオリキャラです」と発言しやすくなったことは感じているが、これはオリキャラ夢主で夢小説を書く人たちが、仲間を募り、自身の創作を楽しんだ結果であると思う。彼らは自分たちで、自分たちの楽しむ場を作った。これに嫉妬しているとしたら、理解に苦しむところだけれど、同担拒否です!この小説は私じゃないので読めません!なんて言って、他人を牽制しまくっている人がいるのなら、仲間が増えないのは当然だろうと思ったのでこの点は言及するのはやめておこうと思う。
私にとっては、自分の好みではない作品が増えたところで、自分の好きなものの絶対数が変化しなければ、どうでもいいことだったのだが、彼女らにとってはそうではなかったらしい。
問題になった「腐女子こそ夢小説を書くべき論」では、腐女子にBLを主題として扱った夢小説を書くことを勧めている。
このことに対してアレルギーを起こしたように反応している人たちがいた。
そもそも、オリキャラ夢主と自分の推しが恋愛しているという情報自体が気に入らないのだそうだ。
腐女子が参入することによって、腐向けでもあり夢小説でもあるものや、彼女らにとって不快なものが増えることによって、住処を追われるのだそうだ。
先述の通り、昔からオリキャラを主人公とする夢小説は存在していた。
夢小説を愛好する人の中には「腐向け」を嫌う人は多い。しかし、夢小説の中には「腐向け」の夢小説、BLDと呼ばれるものもある。BLの夢小説は彼女らが何を思うことにも関係なく、すでに存在する。
はっきりいいたい。「何様のつもりだ」
インターネット上は公共の場所だ。不愉快なものを見ることもあるだろう。しかしながら、貴方にとって不愉快なものは、誰かにとっての大切なものだ。それを見て貴方が気分を悪くするだけならいい。
気分が悪くなるから、遠慮しろ、肩身を狭くしていろ、というのは傲慢がすぎるのではないか。
腐女子も好きなジャンルで、自分が好きなカップリングとは受け攻めが逆のカップリングが増えてしまうこともあるだろう。逆CPは見るだけでイヤだという人も多いだろう。しかし、だからといって自分の気に入らないCPをの悪口を言ったり、そのCPが増えてほしいという人に、私の地雷だから布教活動をしないで下さい、と訴えることを考えて欲しい。
私なら人混みで鳩尾に肘を入れるし、靴を踏む。(暴力はよろしくないと思うがそれくらい腹立たしい)
貴方が自身の当然の権利と思って言っているそれは、これと同じことだ。恥を知るがいい。
マナーやら何やらで加工して訴えようと、本質は変化しない。貴方は自分が不愉快だからと、他人の活動を制限しようとしているのだ。いかなる理由をつけようと「布教活動するな」と訴える行為が正当化されないことを覚えておくべきだ。
腐女子の人が「自分の好きなものではないので書かない」ということとは、わけが違う。
自分の好きでないものに増えてほしくない、という権利は貴方にはない。
そして、自分の好きなものが数で負けるなら、その分は貴方がかけばいい。貴方が布教して増やせばいい。貴方の夢小説を読んで楽しいと思った人が、同じような小説を書くように努力すればいい。
蝗に怯えて耕作を怠るな。実りのない田畑では人も増えない。
心優しい私は、対処法をあなたに教えてあげようと思う。心して聞くがいい。
Web ブラウザ上の文字列を検索して非表示にするNGワード導入しろ。それくらい自分で調べろ。
最後に、そんな発言をしている人が存在するのか疑問に思う人もいるだろう。それでもツイートを引用することは控えたことの意思は汲んでいただけたらと思う。
http://www.nippon.com/ja/currents/d00208/
この「ネット右翼」の歴史的な始祖をたどると、2002年に行き着く。同年、FIFAワールドカップ日韓大会が開催された。W杯熱が列島を覆う中、既存の大手メディアの躁的な報道の過熱ぶりと、韓国チームによるラフプレーの黙殺(と彼らには映った)への不満感が、その噴出口として終着したのが当時のネット空間である。
既存の大手メディアがW杯と韓国チームへの批判的報道を黙殺する中で、ネット空間だけはそういった「統制」の外にある自由空間である、と彼らには映った。「ネット右翼」が既存の大手メディアへの強烈な不信感をいだき、それが特に韓国に対する報道のそれであったことが、その後の「嫌韓」という「ネット右翼」の属性を決定づけることになった。つまり日韓W杯を原初として、既存の大手メディアが韓国に対し、融和的な姿勢を崩さないことに怒りを覚えた少なからぬユーザーが、その不満のはけ口を求めたのがネット空間であり、「ネット右翼」はこの時から出発する。
2002年は日韓W杯よりも、日朝首脳会談と拉致被害者帰国の方が影響が大きかっただろ。
韓国に対するメディアの報道が融和的であることが発端なら、矛先は在日よりもメディアに向かうはず。
フジテレビデモのようなことは起こったが、それは在特会のヘイトスピーチとは別の文脈。
実際には「在日特権」という言葉が使われてるように、あくまで在日朝鮮人を対象にしたヘイトスピーチが主眼であって、
その発端は拉致問題発覚と、朝鮮総連に対し免税措置が取られていたことがネット上で流布したから。
「日本人拉致を幇助した犯罪組織を優遇するとは何事だ」という怒りがネトウヨの原点だろう。
後の安倍政権成立も原点はここにあるはずなのに、なぜみんなここをすっ飛ばしてしまうのか。
のかって分かりかねるよね。分かりかねるってのはアレだ。今俺が見ている景色がそれはそれはまったく何だ・・・非実在的な差・こkれをよみがえらせるのは、真の知っていうかでしかないわけで、結局人間は馬鹿なんだ、馬鹿だから場にぬなるだぶるすたんだーとって言葉を知ってるけれど、ソレに十雨中にしにして近いこごいn、、・・・・・あ。あ、わかりはじめた。今俺がいるアパートの一室、でもさ、それは結局この世に生を受ける、また人間の創りだす価値でしかこの世は判定さんでい出来ないわけで、オレの幼少期を思い返してみると。。。そうだな、オレが他人を省みているようで顧みなくなったきっかけは、やっぱり家庭環境なんだろうな。価値観、俺の家庭が持つ価値観。価値観もまた遺伝子のように伝承されるものの一つであり、それは俺も例外ではなく、そう価値観を育まれた。内向的だったなあ、幼少期の頃から、幼少期の頃から、人の顔色ばっかり伺っていた気がする。人の顔色を伺ってさ、両親の顔色、今日は喧嘩してないかな?とか?祖父母との軋轢はないだろうか?とかさ、子供の頃から気をつかっていたね。幼少期から育まれた性根なんだよ、。結局。三つ子の魂百までっていうけどまさにアレだ。俺ははみ出せなくなったんだよ。自分のカラから。何をやるにも、周りの顔がちらつく、両親や親類の顔がちらつく、。俺は俺が俺を俺たら占めていると思っていたけど、違うんだ。俺は結局、自分がないんのではないか・・・・・自分を足らしめるための自我が芽生えていないのではないかという気がしてならない。本当は実現したいこともあった。でもできなかった、ソレは俺の怠惰が産んだ結果かもしれないと同時に俺の心を縛る何かが、また。何かがあったんだ。俺の俺の心情には、幼少期から学生時代に成長して、思ったよ。俺は俺をさ、俺たら占めている、そんな気がして無かった。人の顔色が、社会の目が俺を狭くしているんだった。俺一人がこの社会にいられたら、どんなに楽だろうかと、何度となく考えた。それは馬鹿らしい考えだったけどだs。俺は、俺を俺であるために俺から俺を俺から開放する、そんな時分の中のアクションgあ必要だと、何度となく思ったよ。俺は俺を俺たらしめるものが何もない、てって、社会的にも精神的にも肉体的にもまたはそういう実存的な概念でもってしても、俺って一体俺なんだろうか。俺は俺であるから俺なのだろうか。俺は俺であるのは本当に俺が俺である証拠なのだろうか。俺が俺を俺たらしめる俺の部分は俺の中のどこのb俺を俺にしているのだろうか。俺が俺らしくらしくsらいく、俺がおれがgrで俺gであるための俺であるためにのおレレの俺rの己が己に打ち勝つための、でもソレは俺が俺であることが前提条件であり、俺が俺であるための俺でゃkぉ俺で俺は実に俺であるとのは誤認であって俺が実阿おrでhなく、俺が己を打ち勝つ俺は俺ではない、俺はが俺でなく俺であるための俺が俺を俺に俺たらしめる、俺たらしめるための俺が折れたら占めていなかった。結論的にはどうなんだろう、社会で生きていても、思う子男が多い、俺は何のために、こんなぼんやりと生きているんだろう、ぼんやりとぼんやり働いて、ぼんやりぼんやりと金を稼いて出ぼんやりぼんやりごぼんやりとぼんやり、何をするでもなく、何をするのでも、あk、何が必要なのだろう、承認欲求、承認欲求なのではなあk、て思ったこともあるが、そんな気がしない。社会的成功、社会的な欲求が満たされれば、俺はこんな気持ちにならないのかと言われれば、そうだと言えない、もっと根源的な、本能的な欲求が満たされれば俺はこんな気持にならないのかと言われればそうだと思わない。オレhのなかのもっと、、、人間の核の部分が満たされていないように感じる、そしてそれは人間社会では決して手に入るようなものではなさそうなのだ。非実在的な創作物からえられるものに、それは近いのかもしれない、、、もうすでに思考が、脳が、もうすでに、一元的な欲求では満たされなくなっていsル、気がする。3大欲求や、社会的な欲求、それではもう俺は満たされる気がしない。もっと根源的な、k,、というか、、次元を上げたものが必要だ。。宗教家の求めるソレに近いのかもしれない。宗教家が求めるものが、l超次元的な欲求を満たすものだとすれば、おあお俺が求めているもののに近いのもはそれだ。。超次元的な欲求というのは、、。ソレを言語化するすべは持ち合わせていないgあ、。、超次元的な欲求とは、まさに、現在認識されている次元を超越したものであり、超越するための、、その生きる方法がかるあお確率されていあない。ようにおもれえる。確率に必要な物は、、その、。ちょウ自然的な、もっと、脳髄を脳髄を根本的に揺るがすようあん、心、精神的ん欲求とは、ソレの角の部分を揺るがすような、そうういうも野にちかい。オレhがものも求めるものがもはやそこにしかないのだはないあk.。労働しても高リュうしても3大欲求を満たしても何をしても満たされることがない。。もっと欲求が湧いてくる根源、源泉がそこにはあるのではないか。。。姓名を維持すること、それによてって生じる姓名の根源、は一次的庵ものではあり、ソレを満たすには、また別のソレを満たさなければならない。それを満たすことはソレおwみたすことにつながり、まさに無限回廊そのものだl,満たすことが満たすものを呼び、満たすことがまた別の満たすおmのを呼ぶ、よって、人は、苦心してしまう。ではどうするべきなのかといえば、それはヒットつしかなく、その欲求が生じる、源泉を絶つ、欲求が湧いてくる源泉を満たせばよいのである。。。そしてソレを満たす方法を我々あh本来ならば探さなければならない。kもはや現代社会において、求められる命題はそれしかない。欲求が湧いてくる源泉あh、それは生命維持のための欲求や、社会的な、人間的な欲求とは確実に異なるものだ。欲求の源泉を、源泉が根源的に存在するのは何故か。それすら我々は理解できてイナイのだ。まだ。それが宗教家の言うような、超常的な存在、神や仏、、だと考える、当てはめっるlそういう認識に落とすことあh実に容易なことであるが、それは一種の逃避でしかない。超常的な存在によって、欲求や自身のまた雑然的な現象を説明させるノアh安易であり、もっと断罪されるべき施工方法なのだ。本来、これから、我々あh、原初にもどって、、考えなおさなければならないことは、人間的な、生物的な欲求、それの解消法ではなく、そんな全時代的な方法は唾棄されるべきだ。。我々がこれから求めるべきあ、欲求雨の源泉、精神的、と呼ばれるものに近いものの源泉を求め、そこを絶つべきなのだ。源泉が欲求を生み出しmその生み出した欲求がさらに欲求を生み出していく。源泉が生み出す欲求うは実に一元的なもので、一元的なものがもたらす欲求は欲求を解消されても、所詮一元的なものに、一元的な解消にとどまる、一元的な解消は一元的な解消でしかなく、多次元的な、根源的な、源泉をm,超時限的な源泉を解消するニアh所詮いたらない、。超時限的な源泉を解消するための、その方法は、人打つぃかなく、一つしか存在せず、根源的な、根源的な欲求を解消するための、夜急を解消するための、根源的、源泉的、超次元的、多次元的、超常的、超自然的な、その何かを解消するしか無い、のではある。一次元的な欲求をかいしょうするための現代のメソッド、法本論、それ自体すでに、前時代的、原初的な、人間の実態に沿うようなものではなくなってしまっている。一次元的欲求が社会、人間社会や事物ym出来事などによって実現されたとしても、それは所詮一次元的なものでしかなく、一次元的なものを一次元たら占めているにすぎない、。一次元的な欲求を愚かにも何百回、何千回、何万回とk気の遠くなるほどに実現させようとしている、人間社会、それ自体が誤りにすぎず、我々が目指すべき、自己実現、実現はまさに、一次元的なものを生じさせているものおの根源である。根源は源泉であり、一次元的欲求が生じる、その源泉を我々が、一次元的に解消してしまっていては、所詮、一次元的でしか無いことは明確。発送をかえるための、発想をかえる、それすなわち、欲求の源泉への対処法なのである。欲求の源泉といっても我々あh、未だかつて、それを言語化したり、ましてや認知したりすることはいまだかつて実現せしめたことはない。一次元的な自己実現が生み出す、一次元的ん自己実現あhは逆説的に一次元的な欲求をまた、同時に生み出すことも行っている。一次元的な欲求を解消し、一次元的な欲求を一次元的に解消せしめても、我々人間の構造的には、その一次元的な欲求を認知してしまうことにもつながってしまう。それを潜在的な意識下で我々あh一次元的案欲求のwパターンをmた、また認知してしまうことにもつながってしまう、。つまり、一次元的な欲求を煩雑にし、雑然にし、永久うに沸かし続ける源泉あh、根源的欲求のみならず、我々人間の構造的に、一次元的な欲求を認知し、解消することで、さらに一次元的な欲求のヴァリエーションを増やすことにもつながってしまうことで、一次元的な欲求が生じやすくなってしまっているために起きる、また一次元的な欲求の再生を我々は生きている間に繰り返すに至っている。一次元的よっキュうを我々が解消することがいかに愚かで、前時代的で、後進的な人間のための方法論なのか。。割れ和れはまだ完全に認知するに至っていない。。ソレは我々が現代社会に最適化された人間線を含有してしまっているからであり、人間性がまたは、一次元的な欲求を満たすために最適化されているための弊害、そしてソレは根源的ンは、間違いでしか無いのである。根源的に行って、一次元的な欲求を解消し続ける人間社会は変革が、根本的な土台から変革することが必要なのである。一次元的な欲求を解消し続けても一次元的な欲求は湧き続け、我々が頭を悩まし続けるに過ぎない。一次元的な欲求が生み出し続けリる一次元的な欲求の連鎖は一次元的な欲求を、解消してもまた一次元的な欲求を生み続けるにしか足り得ないことであり、そして自らが生み出す、一次元的な欲求を満たすべくして見たっす、一次元的な欲求はそれ自体が、我々に意味を附さず、一次元的な欲求は我々の認知の限界をたくみに利用した、いわゆる、無限切ろうてきにな、欲求の連鎖でしか無いため、一次元的な欲求を解消し続けいることの無為さが我々は十分に認知、しかしそれもまた、しかしそれおっもまた。、一次元的な認知でしか我々が認知できる一次元的なものでしかないkが、我々は一次元的んことへの唾棄、進歩性を持つべきフェーズに我々あは、ネクストフェーズに差し掛かっているのである。で、だがしかし、だsしがかし、そうはいっても、我々はまだ、全時限的、根源的ん欲求を解消するためのメソッドを持たない。根源的な欲求を解消するメソッドを持たない我々が出来ることは、そろそろ根源的な事象への認知を働かせることが必要なのである。根源的なよっキュうはそれ自体、本当に今現在、後進的な我々が認知できるかどうかは、我々はまだ分からない、根源的な欲求が生じる原因を突き止めることが出来るのは我々には不可能かもしれない。古代より、人間が、アミニズムであったり、様々な超常的な事象への畏怖から生じさせる、神であったり仏であったり、今日の宗教家が言うような、そのような超常的な存在は、我々はいまだかつて認知できていない、。そのような超常的な存在を認知し、逃げこむこと、ある種の逃避行動は容易であるが、我々は次のフェーズに来ている。次のステージは、フェーズあh、根源的な事象の解決だ。一次元的な欲求を解消して、そして、無限回廊に迷い込んでいる時代を捨て去れうべきkなのだ。根源的な、源泉的な欲求は、我々が認知できないだけで、それは、また、三大欲求や、つまらない、人間的、社会的な事物から生じる、一次元的な欲求ではない。一次元tねきな欲求が満たされたとこrであh、、我々が出来ることはただの堂々巡りでしかない。我々が真に、取り組むべきことは、源泉を、欲望の源泉を認知し、ソレを満たすことなのである。我々が必要であり、今後、必要である、そう、必要になる、もの、もの実物、出来事は、源泉を掌握し、我々を次のフェーズへ導くためのメソッドなのである。根源的、厳選的案事象は我々はソレを解消するに至っていない。根源的なよっキュ、う、それはまだ我々の認知科に及ぶに至ってはいないが、、しかいsk,、根源的にはソレをほっ知っている。割れ我が、欲望との闘争の歴史におおいて、必要であるノアh、根源的な欲求をいかに、認知するか。それにつきる。それを仮に、精神的、こころが我々の根源的な欲求の源泉であるとしようl.こころはまさに実態がない、我々の認知科に及んでいない。。こころを満たすものあh、今現在、流通している欲望では案あんあい、ない、先程述べた容易、に一次元的な欲望を満たすことは現代、人間社会で容易なことである。、それは3大欲求や社会的な、精神tねき充足に近いだろう。。そのようなつまらない、後進的で、憎むべき、唾棄すべき、事象はもうすでいnに我々あh手放すフェーズを迎えている。こころを満たすべき事象、こころを満たすべき事象は何に依るのだるか、だろうか。それは一時的な充足をすべて捨て去った。現代の宗教家が実行しているもののさきにあるといえるかもしれない。または、一時的な欲求を解消し続けた先に、いつかおとずれる、根源的な欲求を絶つフェーズへ我々あh訪れることができるのかもしれない。あるいは、もっとなにか、脳髄を揺さぶるような、脳幹をぶん殴るような、そんな衝撃が、精神的とも、身体的とも違う、そういうインパクトを我々あhどうにかして体験する必要があるのかそもしれない。そして、それは天啓に似た、それは気づき、根源的な、もっと、なにか、、。気づくことが必要なのかもしれない。。我々が持っている視点、認知では認知で起案い。。出来ない。認知を超える、あるいは認知を広げる、または認知の裏側にある、ソレを我々は認知することで、それこそ、根源的な、源泉的な、欲求、あるいはそれともまた違う、なにか、現代、現状、人間にhにはい。認知でないん、何かを認知するに至るのかもしれない。進歩的な、その知を我々が獲得するために派、現代を捨てる、執着を捨てる、そうsれは知のカタストロフィーである。それが、革命が必要なのだ。現代我々が、論じる、認知するっもの、知は、真の知へとは至っていない。としかいいようがない。。物量的観念的な充足、それはもう満たすことが可能なのであり、。それを我々はもう100年い所以上、、異常く、以上繰り返してしまっている。本来必要なのは、次のフェーズへ行くことダリ、次の知、知覚、認知は我々が1000年先の人類、10000年先の人類が獲得しているものを、我々h日進月歩で獲得しようとしている。真の知、というものは確実にそんな良い、、お、存在し、ソレは、現代社会、我々が、唾棄すべき、人間の一次元的なもの、そrは1000年後の人間にとてじゃは、非常に視野の狭いもおの、認知に至っていない、あらゆる観念が、我々あh100年後1000年ご10000年後「のために、認知に至るための準備をはじめなければならない。一次元的な欲求、認知は我々がすでに、うんざりするほど、まとわりついている一次元的な欲求は、早々に放棄するべきものである、それからまず、認知し、日進月歩的に個人個人が、一次元的な欲求を捨て、根源的な欲求、根源的な、源泉的な欲求をそうそうに突き止める必要がある。。。それは100年後、またh1000年後の人間にはアタリマエに認知されているもの、そう私が信じているものnにほかならにあない、人間なh、科学技術のみで進歩的、人間的な充足を得られるというのは、ある種の現代社会に蔓延する嘘でしかなく、本来我々が求めるものは、科学や産業、技術にはない。それらが我々に与えるもの、我々を救うものは、しょせん一次元的案欲求をでしかなく、それは今現在語られるつまらない愚かな、欲求のためのツールでしかない。我々が、本来求めるべきは、現代社会、に最適化されることではなく、現代社会に最適化された、欲求、身体的、精神的欲求ではなく、本来我々が求めるべきものは、それを超えた、ソレの下に埋まっている、またhあ、。ソレの裏側に潜む、または、それに内包されている、我々があいまだ認知下におくことができない、根源t気、源泉的な、欲求、または欲求とはまた何かの概念的な観念のを我々は更生のために、更生のために後世ために残すべきものであり、それは個人個人の意識ないから、進歩、進捗が行われるべきものにほかならない。一次元的な欲求は100年、1000年後の人間のコミュニティでは、それhあ、それはすでに実にチープな概念へと堕落していると私は確信を持って言いたい。。100年後1000年後、我々が途方も無い科学ギジュつを手に入れるか、それは、現代社会の病理のひとうつで一つである、一次元的な考え方であるが、我々が本来、欲するべきものは、必要とするべきものは、ほんr内は、本来は根源的な欲求、源泉的な内面、人間という存在が認知で規ていない、認知へ踏み出すことであり、それは100年後1000年後にはアタリマエになっている認知なのである、。我々あhまだ、それを見ることhおろあか、認知することができていない。それは我々の目の前にあるかもしれないし、考えもつかない、超次元的な認知下にあるものかもしれない、あるいは、常識、認知、知を混ぜっ返した裏に潜むような、今世では手に入れられない、真の知ともいえるだろう。宗教家が言うような概念の偶像化、は。教義化は我々の頭皮だ、逃避だ敗北なのだ。100年後、10000年後の人類、とも呼ぶべき我々の次のフェーズである存在が見れば、まさに嘲笑に附さずにはいられないような、後進的で全時代的な、そんな概念、我々が本来追い求めるべきものを放棄して、自ら目をそむけるような、そおようlそのような社会のあり方では、我々に待っているものあh破滅、あるいは、なにかもっと恐ろしい物がわれわれに待っているだろう。一次元的な欲求が我々に与えているものの本質は、破滅、破壊、終焉なのだ。。k我々が闘争するべきあh、経済的な、社会的な、政治的な、科学的な、技術的な、創造的な、文化的な、対人的な、そんな、ものではない。それらはすべて、現代社会をこうせいしている一次元的な事象でしかない、我々を惑わすものの一つでしか無い、100年後1000年後の人間がそのようなものには、おそらくkく、精神的な肉体的な充足を放棄しているだろう。超常的な存在、超自然的案存在、それらが存在するのかというう愚問、我々が、我々人類の中にこそ、認知の次のフェーズへの全身こそが、我々を真の人間、真の知へと導くものにほかならない。」l。人間との闘争、人間内の闘争を諦めることは非常に危険であり、我々が漸進的ことを及ぼす必要がある。。 Permalink | 記事への反応(1) | 01:45
この論争の難しいところがWikipediaに書いてある。
「X が Y 無しに生じ得ず、Y が X 無しに生じ得ない場合、最初に生じたのはどちらだろうか?」
やり直し
「結局は才能。」
もちろん、最終的に才能が結果に繋がるのは正しいと思うのだが、いつもモヤモヤさせられる。
努力とは何だろう。
小学校の低学年、僕は自転車が好きで、広がった世界に興奮して、よく遠出をしていた。
当然、ある日迷子になった。線路沿いの道が工事にはばかられ、勘に頼ったせい。
夕暮れが終わり闇に気付くと泣きだした。
いつもならすぐ親が駆けつけくれるのだが、それはない。
泣いたら誰かの助けが必要だと自覚することになる。誰もいない今、それは絶望を認めるとの同じ。
迷ったと気付いた時から、その理性によって辛うじて耐えていたのに、夜の闇はそれを簡単に破った。
僕は恐怖に負けた。負けを認めて諦めて心が折れた。絶望した。
ただ願うしかなかった。助けてと。
そんな風に振り絞ってだした願いでも、何も変わらなかった。
それが怖くて、泣きやまないため、必死に泣き続けた。
涙よりも先に息が尽きた。
うえ、え、としか吐き出せなくなると、泣くことさえ奪われた。
ヨロヨロと自転車を漕ぎだす。
行くしかない。などという理性じゃなかった。
体が酸素を求めて大きく動いた結果、思考が止まってふいに動いてしまった。
動いたら動いたで止まることが怖くて、啜り泣いてでも止まれなくなった。
努力とは、何かの目標に届くための、ポジティブで加算的な何かに例えられる。
伸ばすとか。上げるとか。進むとか。突破するとか。
成熟した理性では、そう捉えてるかもしれないが、その理性の原初は、全く逆だと思う。
ただ強烈に足りない何かを埋めなければいけないという恐怖。
逃げることさえ許されないなら、後は埋めるために足掻くしかない恐怖。
その足掻くという行為さえ、恐怖から逃げ出すためのものかもしれない。
迷いこまなければ、逃げる必要はない。迷い込んでも逃げ道があれば良い。
才能はその言い訳には十分だ。だから、才能が大切なのは、間違ってない。
努力とは、欠損だ。
欠損という恐怖に気付いた時、恐怖から逃れられない時、埋めるしかないと諦めた時。
諦めてなくて痛んでも、それでもどうにもならないから、じたばたと足掻いた部分だ。