はてなキーワード: 原初とは
小さい時にほとんどアニメを見せてもらえなかった自分からすると、そういう思い出が少なすぎてものすごく悔しい。
小さい時にみてたのは、勇者シリーズ、ドラえもん、キテレツ、ハウス名作劇場くらいだった。
なんつーか、基本平日はアニメ見たらいけない感じだった。
金曜夜のドラえもん、土曜の勇者シリーズ、日曜のキテレツ、ハウス名作劇場だけ。
平日夕方の時間帯にこそ面白いアニメたくさんやってたはずなのに。
俺のソウルソングと言えば、やはりロミオの青い空の「空へ…」だ。
エンディングのSi Si Ciao ~ロマナの丘で~も捨てがたい
ただ肝心のアニメ自体が、途中でロミオが奉公先ですっごい暴力受けてる次回予告見て怖くなってみるのやめちゃったんだよなあ。もったいない。
それから七つの海のティコのSea loves you。底抜けに明るい。朝の目覚めのようなイントロ、Aメロから、外のまぶしい日差しを受けながらサビへ!イルカウォッチングとかいきたくなるね。
そんでエンディングがこれまた・・・すっげー子守唄チックで聞いてると眠くなるのよ。twinkle talkだったか。星のささやき。まさに。
ナナミみたいに泳いでシャチと通じ合いたいと思ったわ・・
キテレツははじめてのチュウは不気味さを感じてそこまで好きではなかったけど、OPのお料理行進曲は最高だった。コロッケすっげー食べたくなる。
すいみん不足の放送時は見てなかったはずだけど、改めて大学生とかになってから聞いたらかなりよかった。
勇者シリーズは5歳くらいのときのファイバードが原初の記憶だ。
ガオガイガーのOPは正直放送当時はだっせえと思ってた。ガガガッガガガッて。
あとダグオンのOPも古臭すぎてダメだった。いつのアニメだよって思ってた。
ドラえもんは・・・なんかもう良し悪しじゃねーよ。OPのドラえもんのうた。アンアンアンってなんだよ。エンディングは俺が見てるときはずっとキミョウキテレツマカフシギキソウテンガイシシャゴニュウホンワカパッパだったよ。このエンディングでシシャゴニュウって言葉覚えたよ。
たったこれだけしかない。
悲しい。
なんでもいいから書くといいよと精神科の先生にいわれたので書いてみる。
いままで「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメはたくさんあった。たとえば絶賛放送中の『アルドノア・ゼロ』もそうだ。『アルドノア・ゼロ』は間違いなく今期最大のヒット作になるだろう。虚淵玄はドイツではゲーテ以来の天才詩人といわれ、フランスではデリダの精神的後継者といわれ、ロシアではプーシキンの再来といわれ、アメリカではリアルホイットマンとたたえられ、日本では村上春樹をしのぐノーベル文学賞最有力候補だと一部ではいわれている。だがわれわれはあえて『残響のテロル』に注目している。なぜなら『残響のテロル』は「すべての過去をアニメにする」神アニメだからだ。「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメというのは「すべて」というところからわかるように、それ自体自己言及的になっている。したがって「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメというのはすべてのアニメを過去にした瞬間に、それ自身も自己言及的に自己自身によって過去に追いやられてしまう。すべてのアニメを過去にした偉大な新時代のアニメがその誕生と同時にすでに死んでいるというアイロニカルな構造になっているのだ。このアイロニーから逃れられないのが「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメなのであり、従来の傑作アニメというのは生み出されたときにはすでに陳腐化しているというアイロニーから逃れることができないでいた。「すべてのアニメを過去にする」傑作アニメはそれ自体の内に過去を含んでいるのだ。真に創造的な作品だから未来志向にも見えるのだが、じつは過去という底なし沼から伸びてきた腐食した手にからめ取られて引きずり込まれてしまう。そしてその暗黒の沼に自己自身を見る(その手ははるか昔に、生まれる前にすでに死んでいた自分の手だったのだ。死産した胎児の声なき叫びだ)。「すべてのアニメを過去にする」アニメはそれ自身を過去にし、過去は更なる過去へとひきずりこまれ、原初の過去へと向かい、宇宙開闢の瞬間へ向かおうとする意志を持つ。すべては過去になる。すべては過ぎ去る。そして無へと潰れる。だから傑作アニメには一種の悲哀がともなう。そこには悲観しかない。われわれはわかってはいたのだ。傑作アニメを見たとき、それはすでに未来によって乗り越えられているということが。われわれはわかってはいたのだ。結局われわれは無を愛撫していたにすぎないということが。なにもかも過ぎ去って、すでに終わっていた。時間は凍結し、空間から熱が引いていった。だがわれわれの前に『残響のテロル』が現れた! ついに現れたのだ! 『残響のテロル』にはすべての過去が含まれている。便所飯はなにを意味するだろうか。それは食事と排泄の同時性だ。われわれはまだ口と肛門を区別していない。そうだ。これは生命の誕生なのだ。きわめて創造性の高い、無垢なる、自由な、永遠の意志、無限の未来への飛翔! 二元論の生じる前のカオスのカオス、混濁した幻覚的な性感帯のおそるべき幸福な絶頂感のみがみなぎった世界。なぜテロリストはアヒル口なのか。アヒルという牧歌的存在にこそ破滅の種がやどっているからだ。戦士は戦士によっては倒されない。戦士が死ぬのは娼婦の前でだけなのだ。これは歴史が証明してきたことだ。アヒル口テロリストは歴史に巣食ってきた処女性に含まれた亀裂、多産性と引き換えに失った平和の象徴である。射精的安楽こそ世界の火種なのだ。「すべての過去をアニメにする」神アニメはすべてをアニメとして書き換えていく、外部へと環境へと働きかける力を持つ。すべてをアニメにしていく、そしてそのアニメがさらなるアニメをうみだしていく。アニメはアニメによって置き換えられ、アニメがアニメに繋がることによって、それは永遠に進んでいく。アニメの無限行進。アニメの爆発的連鎖。それはアニメ時空ともいうべきものを作り上げるだろう。それ自体でのびつづけるアニメの網だ。それはもう冷える宇宙ではないだろう。次元を超えた愛だろう。絶頂を越えた世界でわれわれは天使になるだろう。耐えなければならないその圧倒的幸福に人間のままでいることは許されないのだ。『残響のテロル』はすべてをアニメにするだろう。なぜ都庁爆破があんなに簡単にできたのか。それはアニメだからだ。そしてそれは過去のアニメ的出来事、つまり主として911の余韻があるわけだが、まさにそのことによって、アニメ的出来事が現実ととけあい(911はたしかにいままでは現実として語られがちだったのだ)、その境界はここにいたって不分明になり、アニメ時空が現実に侵食してくることになるのだ。すべてはアニメ的になるだろう。幼稚さという狂気。短絡的な世界崩壊。理性の不発。それは『魔法少女まどか☆マギカ』によって予告されていた悪夢でもあった(Gen Urobuchiは惜しいところまでいっていた。だがかれにはまだ愛が足りなかった。かれは健全すぎたのだ、良識的すぎたのだ、大人すぎたのだ、成熟しすぎていたのだ)。鋭敏な鮮烈な想像力は退化して、茫洋とした曖昧模糊とした神話を呼び寄せる。そこに召喚されたアニメ時空が境界を侵犯して現実に襲い掛かってくるだろう。すべては妄想によって形成され、妄想はすべてとなるだろう。きみはやがて逆立ちして排泄するようになるだろう。もちろんわれわれにも恋人ができるようになるだろう! われわれはひとつの体験をすることになる。それは存在のあり方を変えてしまう圧倒的な体験だ。これを見てしまったらもとのままの自分ではいられないだろう。なぜならわれわれはひとつの真理を悟ることになるのだから。二次元的妄想によって書き換えられた世界はどこに行くのだろう。すべてはギャグの様相を呈してきている。われわれはいつも嘆いている。やれやれ子供だましなアニメだな子供向けというのは子供だましということではないのであってうんぬんかんぬん。だがしかし現実のほうがアニメ的であり、アニメ時空的であり、アニメなのではないか。だれがこんな世界にしたのだ。どうして美少女は空から降ってこないのか。いやそれこそアニメではないことの証拠ではないか、いやいや、むしろ美少女が空から降ってこないのは非現実的なのだ。ああとわれわれはさらに嘆く。きみは美少女が空から降ってきたところを見たことがないのか。もちろん『残響のテロル』では美少女が空から降ってくる。ヒロインはジャンプしたと見せかけて空から降ったのだ、まさにすべての過去を、すべての飛び降りた美少女たちの意志をアニメにするために。美少女が空から降ってくるという古典的アニメ表現は『残響のテロル』にいたって、ついにアニメと現実の境界をまたいでしまった。これまでアニメ表現はアニメ表現でしかなかったが、いま彼女が飛び降りたことによってすべてはアニメ的現実になった。それはたんなる表現ではないのだ、もはや現実なのだ、アニメなのだ。これまでにうまれた数々の傑作によってすべてが過ぎ去ってしまったが、ついにすべての過去をアニメにするアニメが生まれた。アニメ的表現がついに次元の壁を越えたのだ。すべてはアニメになるだろう。太陽の死の後、人類が生き残るにはもうアニメになるしかないのだ。われわれは新しい太陽を作ることはできない、だが、新しい太陽をアニメにすることはできる。銀河という足枷からわれわれが羽ばたくにはアニメの力がどうしても必要だったのだ。人類はついにアニメを本当の意味で獲得した。と同時に、われわれはアニメになった。われわれの想像力は現在の認知のありかたをテロリストのように破壊して、すべてをアニメにするだろう。人類はいまやっと白内障から脱して、真に世界を見ることになったのだ。諸君、世界は美しいか。
身近にあるものが無くなる未来を想像してみよう、それがイノベーションだ、
講演者が投げかけた質問に、「自動車が完全自動化」とか絶対嫌だと思って必死に考えた妄想。
……徐々に信号'機'は廃止されていく。
その理由として、遺伝子操作された街路樹、通称クリスマスツリーの普及と
the Internet of Biologyの技術的実用化、人口減少による社会インフラコストの削減があげられる。
あらゆる生物に組み込まれることになる。
その中の一つ、最も早く作成された蛍光樹は単に観賞用にとどまらず、
かつて化石燃料を消費することで点灯した照明の代替として、あらゆるところで普及することになった。
街灯用街路樹としても使われていた蛍光樹だが、信号樹として使用されるまでは、依然長い道のりと解決すべき複数の問題があった。
その一つ、蛍光樹を信号樹として導入しようと検討を始めた当初より課題に挙げられていたのが複数本の同期制御である。
植樹された周囲の自動感圧機能を持たせた蛍光樹は、人通りの少ないところや道が交差しない特殊な条件下では
その任を十分に役に立てたものの、依然通行量の多い都市外郭の主脈交通路などでは
中央制御方式による信号機の制御を行っており、外部制御がしづらい蛍光樹による代替化は長らく行われていなかった。
ところが、ある技術革新により状況は打開されることになる。
The Internet of Biology(IoB)である。
狭義では、有機的結合による相互情報交換の技術コアと関連特許群を、
広義では、21世紀初頭に流行したThe Internet of Things(IoT)を生物で再定義した概念を指す。
前述のIoTの時代より概念上はその派生として普及の可能性が予測されていたものの、
エジソンの再来とも言われるとあるGE所属研究者に端を発する技術革新連鎖により半世紀を経て日の目を見た技術である。
蛍光樹の登場から、IoBの実用化に至るまでは三十年の月日を要したが、
IoBの実用化から、信号樹に応用されるまでは二年とかかっていない。
当初は信号機を制御していた既存インフラと蛍光樹の情報結合による信号機の単なる代替だったものの、
環境問題の深刻化によりアスファルトの非舗装化及び緑化が進行した際にその一部に情報通信路の機能が組み込まれたことから、
やがては蛍光樹と蛍光樹とを舗草により情報共有させる完全な有機的ネットワークとして、有輪用車両の交通網は完成するに至る。
当時の遺伝子操作技術への過信と熱狂は、やがて緑の党とBig Biotherの台頭を許すことになり、
彼らにより作り出された、長い夕凪の時代において蛍光樹は原初の道を留めたまま、そこで輝き続けるのであった。
ヨコハマ買い出し紀行大好き。
好きだった先生のジャージの後ろに小さい穴が開いてた。教えてあげるとすごく恥ずかしそうにして片手で覆って、見ないでーと言っていた。何か運んでる途中で俺もそれを手伝って先生の後ろからついていってるときに気づいた。なんで恥ずかしそうにしてるのかわからなかった。
すきまから見えた。あまりにもガン見していたことに気づかれて体勢を直された。
見ていることがバレたのがとても恥ずかしかった。
体育倉庫の片付けをしていて吹き抜けの2階に立っているこれまたキュロットスカートで3番目に好きだった子のパンツが見えた。
相手には気付かれなかったのでよかった。
クラスで一番かわいい子のクォーターパンツの隙間からパンツが見えた。ガード固かった。
切れ目がちな目がきつそうな雰囲気を与えるけど実はそうでもなく笑うとかわいい正統派和風美人のクォーターパンツの隙間からパンツ見えた。
学年でも3本の指に入るレベルのモデル並に綺麗な子のクォーターパンツの隙間からパンツ見えた。
頭小さいしすげーモデルっぽいの。
でも足ガリガリだったから見えただけだしエロくなかったし好きでもなかったから大して感慨はなかった。
ある女子と話しているときに他の女子がその女子のスカートを盛大にまくり上げた。
通学中、チャリで踏切待ちしていた女子高生の後ろに並んでた。スカートをサドルに噛ませてなかったから、普通にめくれて見えちゃうんじゃねーかと思ったら本当に電車の風で見えた。
通学中、前を歩く女子。肩掛けカバンが後ろのスカートを巻き込んでいた。俺と一緒に歩いていた先輩(男)とニヤニヤしながらそれを見ていた。教えてあげなかったことが今でも悔やまれる。俺は下衆だった。
高校生のときにパンチラ盗撮物DVDを買うくらいには屈折してたけど、自分ではしなかった。これを見るためだけに当時2万くらいのポータブルDVDプレイヤーを毎月2000円のお小遣いを貯めて買った。
関東にいるけど電車では痴漢盗撮と見間違えられないように必死だから。
電車の中で縦の手すりを握る女性の手で手コキを妄想するくらい。
この手紙をどうはじめたらいいだろうと蝉の鳴き声もかまびすしい夏からずっと考えていましたが(伝えるって本当に難しいです)、結局気の利いたすばらしい挨拶が見つかりません。ですから、はじめまして、小鳥さん、とだけわたしはいいたいと思います。あなたに伝えたいことがあって今回このお手紙を書くことにしました。突然のことで申しわけありません。
*
あなたはまず思ったことでしょう。お気に入りの自転車のかごに放り投げられた、飲み口にまだ内容物のこびりついている中途半端につぶされた空き缶みたいな不躾で無礼なこの恋文を送りつけてくるわたしが誰なのか。
わたしは現在36歳、独身、職歴なし(アルバイト歴はあります)、童貞、アニオタ、精神のほうをわずらっており、精神障害2級、まったくありがたいことに障害基礎年金も受給させていただいており(2級。786,500円/年)、日々社会復帰に向けて努力している(作業所で時給200円で働いております。内職系の作業です)日本に確実に数%は存在するありがちな中年男性です。若いころのあだ名は塩昆布です。キモオタAAを想像していただければおわかりになると思いますが、この世の悪意を集中的に浴びてきたせいか皮膚が月面のクレーターのようになってしまっており、細身という点ではまだ社会的に許容されうる生物なのかと思ってはおりますが、実際かなりの醜男です。野良猫に般若の面をかぶせて火をつけてみれば、野良猫はおそらく面を残してなに食わぬ顔で逃げていきますが、ちりちり灼かれていくその面に残った放火魔の殺意と怨念と哄笑こそがわたしの顔からにじみ出ているといってもよく、わたしはそのような人間とは正反対の人見知りでおとなしい男であるにもかかわらず、買い物先のイトーヨーカドーで出会った幼児には顔を見るたびになにか恐ろしいものでも見たかのようにびくっと反応され、かならず泣かれてしまうのです。
小学生のころから容姿をからかわれいじめられてきたわたしは他人に自分の姿を見られるのが恐ろしく、友人も恋人も作らず、いや、作れずといったほうが正確でしょうか、人生に絶望し、引きこもり、勇気を出して面接に行っては人事担当にお祈りされ、ついに自殺未遂をしたあとでは、家族にもうなにもするなといわれ、こうやって小鳥さんのことを考えて毎日すごしています。小鳥さんの腋を見ると、わたしのあのひからびてしまった棒状の物体(その先は言う必要ないですよね)も突如として復活し、さらさらとしたそれでいて粘性のある透明な液体が山奥の新鮮なわき水のようにちょろちょろとあふれてきて止まりません。そんなしょうもない中年のわたしですが、小鳥さんは「わたしでしていいよ(・ω<)」といって顔をほんのり赤らめほほえんでくれます。ああ、なんて天使なんだ!
「小鳥のやつはさ」と鉄男さんは眠たげに足を組むと、たばこに火をつけていいます。「遊馬のことが好きなんだ。だけど遊馬のやつはED(勃起障害)でさ。超越論的跳躍(かっとビング)しすぎた副作用らしいけど。小鳥も酬われないよな」
「わたしは遊馬のことが許せませんよ。小鳥さんを情熱的に愛撫すべき立場にいながら、なめらかな肌といやらしい声と絶妙なチラリズムの天使を無視して、蜜蜂のように扱ってはしっしっと追い払ってしまう」
「そこなんだよ。たしかに処女膜から声は出ていないが、間違いなくあいつは処女だぜ。でも遊馬はEDなんだよ。詰みだよ、詰み。チェックメイト。E、N、D」
「EDになってから幽霊(アストラル)が見えるようになったとか」
「霊感商法ってやつだよ」
「まったくひどい!」
「その通り」鉄男さんはそういうと、たばこを排水溝にはじき飛ばして立ち上がり、ふうとため息をつきました。その背中がとても男らしかったです。
鉄男さんは遊馬と親友という噂でしたが、実はそれほどでもなく、微妙な距離感を保っているらしいですね。ちなみに鉄男さんには璃緒さんという統合失調症の未来の恋人がいるらしいので、小鳥さんには興味がないということでした。よかった!
*
わたしは小鳥さんの魅力を語りたいのです。
*
まずは腋です。小鳥さんはことあるごとに片手を突き上げてその美しい腋を全世界に全宇宙に見せつけています。小鳥さんの腋のくぼみ方はミケランジェロも参考にしたといわれるほどの芸術的な曲線美で、腋汗が溜まりやすく、舐めると南国の風の爽やかさとやや辛めの塩味が感じられてとても美味です。安い発泡酒を飲みながらちびちび舐めるのがとくに好きで(まずい酒のほうが腋汗のうまさが引き立つ)、まるで食べて応援することによって日本社会が皮肉っぽくも明るくなるように、わたしの鬱々とした気持ちも小鳥さんの腋汗によって応援されるようなのです。鬱病患者に「頑張って」は禁句だと世間はいいますが、それは世間のしょうもないオッサン、オバハンからの善意という名の嫌がらせについていうものであり、火星の砂粒やミトコンドリアすら愛するような天使からの励ましはわたしを勇気づけてくれます。「増田くん、頑張って!」「いいですとも(`・ω・´)」
鉄男さんは小鳥さんの腋について以前こうおっしゃっていました。
「小鳥の腋はすげえよ。おれが小鳥に決闘(デュエル)で勝てないのはあれのせいなんだ……」
「というと?」
「見たらわかるだろう? あの肉感的な陰翳、くぼみに渦巻く官能的な黒い風。あの腋が生み出す磁場はファルスを屹立させる特殊効果を持っているんだ。おれは決闘に集中できなくて、それでどこに意識を集中してるかっていったら……」鉄男さんはちっと舌打ちすると、それにつづくことばをためらっているようでした。
「なるほど。でも鉄男さんは璃緒さん押しなんですよね」
「もちろんそうさ。璃緒さまは小鳥とは違うよ。璃緒さまは性的なものを超越していらっしゃるからな。でも小鳥はやばい」
「ですね」
「小学生のころ、夢のなかに小鳥が出てきてさ、『鉄男くーん』とかいって頭の上で手を振ってるんだよ。まだ毛も生えてこない腋がちらちら見えてな。そしてあの磁場がおれのファルスにとりついて、シェイクスピアの生み出したあの世紀のアホ、リア王とでも比べればいいのか、情けないことにおれは下着を濡らしてしまった! とんだ娼婦だよ、あの女は!」
「でも、その……、よかったんでしょう?」
「まあな」鉄男さんはそういって照れくさそうにくすくす笑うと去っていきました。こちらを振り返らずにあばよと手を振ってよこしたのが夕陽の逆光のなかで見えました。
おそらく小鳥さんの腋からはなんらかのフィールド魔法が自己言及的に発動していると思われます。腋が下半身に絡み付いてくる、ちょうど異星人の触手が美少女戦士をしめあげて離さないように。そこでわたしは腋地獄という概念を提唱しました。小鳥さんの腋はバウムクーヘンのように七層構造になっていて、そのそれぞれが自律的に動いています。そして腋全体も螺旋状に回転していて、ちょうどウロボロスの蛇のように、リビドーが第七層の腋まで達すると今度は第一層の腋に連結され、循環され反復されることによって小鳥さんの腋地獄はさらに磁力を増すのです。もがけばもがくほど深みにはまる底なし沼、負ければ負けるほどやめられないギャンブル、呑めば呑むほど呑みこまれるアルコール。そうです、小鳥さんの腋とはあらゆる依存症のメタファーなのです。小鳥さんの腋はやめられない。前立腺の指圧師! 快楽の大銀河!
*
つぎに太ももについてです。これについても新概念を導入しましょう。それは不可視のパンティです。あるとき鉄男さんはつぶやくようにいいました。
「なあ、増田ちゃん」
「なんです、鉄男さん」
「お前、見えてるパンツをどう思う?」
「どうってどういうことです?」
「いやな、おれくらいになると見えてるパンチラに興奮しないんだよ。わかるかな。見えてるパンツはただの布だよ、増田ちゃん」
「メモっておきます」わたしはあわててオタク風の黒いリュックサックから黒い手帳と黒ボールペンを取り出しました。「でも、パンチラとは見えるからチラなのでは?」
「そこなんだよ、増田ちゃん」鉄男さんは少々呆れたように笑います。「パンチラとはいうが、チラってしまえばパンチラではないんだ。パンチラとは一種のパラドクスのことなんだよ。パンチラとは非パンチラのことだ。おれたちはその見える“かもしれない”という可能性に人生をかけているのであって、布に人生をかけているわけではないのだ。見えそうで見えない、でもよく見ると見えているかも、いや、見えていない。それがパンチラというものだ。わかるかい、増田ちゃん」
「うーむ。なるほど。あ、すみません、鉄男さん。このボールペン、インクが出ないのでメモれません」
「書けないボールペンとな!」そういって鉄男さんはぼくの手からボールペンを引ったくると大事そうにズボンのポケットにしまいました。「見えないパンティこそ美しい。書けないボールペンを使えば時空の果てでも恋文が書ける。そして璃緒さんはうるわしい!」
わたしは小鳥さんのパンティを見たことがありません。あ、どうか勘違いしないでください。わたしは見たいと言っているのではありません(それでは変態さんですね)。見えそうな状況でも見えないということが小鳥さんの魅力だといいたいのです(しかし絶対に見えていないともいいきれません)。小鳥さんはパンティを見せないことによって、自分の存在が布へと矮小化されてしまうことを一種のヒロイン的生存本能によって防いでいるのです。布ならば手に取りじっくり見て分析し解釈し考察することもできますが、小鳥さんはそのような研究対象から逸脱した、科学的な尺度によっては測ることのできない超越者だということなのです。小鳥さんの太ももには慈悲があり永遠の平和がある。そこにわたしは神を見たのです。
*
小鳥さんはとても明るく元気でまるで熱帯雨林のように表情豊かな方です。明るい陽射しのなか丘の上に立ってこっちに手を振って鈴蘭のように笑っている顔も、土砂降りのなか服をびしょびしょに濡らして蒼白になって泣いている顔も、誰かさんのテストの点数のように真っ赤になって恥ずかしがっている顔も、遊馬を心配している顔も、感じている顔もすべて素敵です。そしてその表情のすべてが一回きりのもので、ふたたび同じ表情が現れることはありません。小鳥さんの表情は数によって大小を示せるようなものではなく無限そのものなのです。これは誇張でもメタファーでもありません。小鳥さんの顔は見ていて飽きません。
「増田、おい増田」誰かと思って振り向くと雑居ビルの影から鉄男さんが呼んでいました。
「鉄男さん、どうしたんですか。てか、そんなところでなにやってるんですか」鉄男さんの首にはひもがかかり、その先端にカメラがぶらさがっています。
「いいからこっちこいって」あの穏やかで紳士な鉄男さんがいつになく興奮しています。
雑居ビルの影に隠れると、わたしは十数枚の写真を渡されました。そこには璃緒さんが写っていました。
「美しいだろう?」
「きれいなひとですね。で、なにやってるんですか」
「これから璃緒さまが病院に行くんだ。ここはその通り道になってるってことだ」渡された写真をよく見てみると、どの写真も雑居ビルの薄汚れた壁と特徴的なお掃除ロボットが写っていて、まさにこの場所だとわたしにもわかりました。璃緒さんは写真ごとに異なった服装です。
「璃緒さま、今日はどんなお洋服なんだろうな」
「鉄男さん、これってストーカーってやつでは?」
「おれには愛がある!」
璃緒さんの無尽蔵の洋服が鉄男さんのコレクター魂を刺激し惑わせ堕落させたように、わたしも小鳥さんの表情に吸い寄せられ離れられなくなってしまいました。でもこれは愛なのです。
*
小鳥さんの声はわたしの敏感な部分に海底トンネルのようによく響きます。よくあるきんきんした味気ないテンプレート的萌え声ではなく、ロリであるにもかかわらずエロいという特徴があって、少女として見ると大人っぽく、大人として見ると幼女っぽいという絶妙なバランスとなっております。尿検査では中間尿を採取しますが、それと同じようにわたしたちが最も注目すべきなのは、少女でもなく大人でもない、その境界線を肉付きのいい脚でまたぎ、ふくらみかけの乳房を突き出しながら居心地悪そうに立っている半熟の女の子なのです。小鳥さんの声はまさにその時期を繊細に表現しているいってもよく、この世でもっとも貴重な声のひとつであるとわたしは断言いたします。
*
最近の女子は料理が作れなくなってきたといわれています。そんな現代社会ですが、小鳥さんは決闘飯(デュエルめし)を作ることができるとても家庭的な素敵女子なのです。小鳥さんの体液、通称小鳥汁がしみ込んだ決闘飯とはいったいどんな味がするのでしょう。鉄男さんによれば、小鳥さんの決闘飯は「バイアグラの味」だそうです。
*
ああ、どうしましょう、くだらないことを書いてしまいました。申し訳ありません。わたしはどうしたらいいのでしょう。生きているとつらいことばかりです。すべてがむなしいです。幼女を見てもかわいそうだと思うようになってしまいました。こんな不完全な世界の重圧をその春風のような無垢なほほえみで受け止めなければならないなんて。世界はグロテスクで悪臭を放っていますが、迷信のごとき科学技術や洗練された(!)法治主義社会がたくみに見せかけの清潔さで覆い隠してしまいます。それは合成着色料のようで、すべてはフォトショップ的ともいえる一種の嘘で塗り固められていて、どこにも真実はなく、しかし虚偽すらなく、ただひたすら軽薄で浅薄で希薄で、原初の一点から湧き出たあの宇宙的エネルギーはどこにいってしまったんだと、この時代の無意味さ、無価値についてわたしは考えるわけですが、わたしのそんな行為ともいえない似非行為すらまったく意味のないことで、わたしが死ねばすべてはどうでもよくなるのだと思ったりもするのです。
しかし自殺しようかなと思ったときに毎日小鳥さんがわたしにほほえみかけてくれます。「増田くん、超越論的跳躍(かっとビング)よ!」なるほど、たしかにわたしの眠っていた愚息は雪融けのように感動的な反応を見せ、天上の世界(アストラル界)を目指してぐんぐん伸びていきます、蛇玉さながらに。そしてわたしは今日も生きようと思うのです。EDになるまでは。小鳥さん、あなたが存在していてくれてありがとうございます!
「なぜ生きるのか」なんてことで悩んでる人がたくさんいるよね。
そんなことないでしょう。
ただ、自分の命をつないで、子供の命をつないで、種族を生きながらえさせるために生きている。
強いて言うならば、「生きることが生きる目的」なんじゃないか。
さかのぼって考えてみれば、ヒトも動物と同じように、生きるために狩りをして、採集をして、群れを作って暮らしてた。
「より楽」に効率的に集団を形成しシステムを作っていった結果が人間社会。
あくまで生きるためを追求していった結果がこのシステムってだけでしょ。
その結果生きること自体があまりにも容易になりすぎて、「生きるために生きる」という目標(というか生存的本能)は意識されなくなった。
そこで代わりに浮かび上がるのが「なぜ生きるのか」なんてひっくり返った問い。
本質的には違いなんてないのに。
狩りや生産をして食料を確保する人がいる一方、それを管理する人が出てきて、母数が増えるにつれて中間取引をする人も現れ、また数が増えてどんどん複雑化していった。
あまりにも複雑になったから、原初のカタチが見えないだけで、結局何も変わってないんだよ。
なのに、そこに意味を求めようとなんてするから悩む。考えても意味なんてないのにね。
好きに生きりゃいいじゃんってことを言いたいだけ。
顧客第一主義を極めるとボランティアにいきつく。だが、顧客第一主義をもなたければ生き残れない。そのパラドックスをAmazon,Facebookあるいは物々交換を例にあげて考えてみる。
http://matome.naver.jp/odai/2137480266706878301
最近、顧客第一主義ということばをよく聞く。もちろん経営者ならば顧客第一主義というのはよく言うことである。Amazonの一例をあげるならば、他のIT企業とくらべてオシャレではないオフィスである。これは顧客と関係ないところにお金を使わないためであるという。こういった理屈は一般の企業にも見られる。事務所のエアコンをひかえたり、価格を抑えるために給与を削除したり。
しかし、それがベストなのであろうか。つまるところ我々顧客が求めるのは安く、沢山の物を手に入れることだ。これを企業が叶えるとしたら社員の給与を削減し、ほぼボランティアで働くことになる。顧客ばかり満足して、企業はどんどん細っていく。これが本当のあるべき姿なのだろうか?
ここで少し視点を動かして、物を買うとはどういうことなのかについて改めて考えてみる。元々お金というものは物々交換のためのものであった。つまり、商売とは物々交換なのである。そこではそもそも売り手も買い手も存在せず、どちらもフェアである。我々は原初に立ち返って、フェアな商売というものを考えるべきなのではないだろうか。
とは言っても世界にはびこった顧客第一主義はそうそうに拭えそうもない。その中でもこの矛盾をうまく克服しようとしている企業がある。FacebookやGoogleである。彼らは何も顧客のために見をすり減らしていたりはしない。むしろ自分たちの拘りや好きなことをガンガンやっている。その中で顧客が受け入れた物を残していく。こういうやり方だ。実際に彼らは莫大な利益をあげている。Amazonのように赤字だのなんだのとは無縁である。
ではいったい、FacebookとAmazonの差はどこにあるのだろうか。これを一言でまとめてしまうのは恐縮であるが、私の意見を述べさせてもらう。ずばり、「自分が顧客かどうか」である。FacebookもGoogleも自分たちが作り、自分たちが使っていた。一番の顧客は自分だったのである。だからこそ機能の拡充には果てしないモチベーションがあがるし、顧客のためだからのいってコスト無理に切り詰めたりしない。
まとめると、顧客第一主義というものは現在商売を行う上では必要不可欠なのである。ただし、その中で自分自身が顧客になることが、顧客第一主義を極める上でもっとも効果的な方法なのではないだろうか。