2014-12-15

努力と才能の話

「結局は才能。」

もちろん、最終的に才能が結果に繋がるのは正しいと思うのだが、いつもモヤモヤさせられる。

努力とは何だろう。

それに近い感情を持った1つの記憶がある。

小学校の低学年、僕は自転車が好きで、広がった世界に興奮して、よく遠出をしていた。

当然、ある日迷子になった。線路沿いの道が工事にはばかられ、勘に頼ったせい。

夕暮れが終わり闇に気付くと泣きだした。

いつもならすぐ親が駆けつけくれるのだが、それはない。

泣いたら誰かの助けが必要だと自覚することになる。誰もいない今、それは絶望を認めるとの同じ。

迷ったと気付いた時から、その理性によって辛うじて耐えていたのに、夜の闇はそれを簡単に破った。

僕は恐怖に負けた。負けを認めて諦めて心が折れた。絶望した。

ただ願うしかなかった。助けてと。

そんな風に振り絞ってだした願いでも、何も変わらなかった。

泣くのをやめてしまえば、願いさえ否定される。

それが怖くて、泣きやまないため、必死に泣き続けた。

涙よりも先に息が尽きた。

うえ、え、としか吐き出せなくなると、泣くことさえ奪われた。

ヨロヨロと自転車を漕ぎだす。

行くしかない。などという理性じゃなかった。

体が酸素を求めて大きく動いた結果、思考が止まってふいに動いてしまった。

動いたら動いたで止まることが怖くて、啜り泣いてでも止まれなくなった。

努力とは、何かの目標に届くための、ポジティブで加算的な何かに例えられる。

伸ばすとか。上げるとか。進むとか。突破するとか。

成熟した理性では、そう捉えてるかもしれないが、その理性の原初は、全く逆だと思う。

ただ強烈に足りない何かを埋めなければいけないという恐怖。

逃げることさえ許されないなら、後は埋めるために足掻くしかない恐怖。

その足掻くという行為さえ、恐怖から逃げ出すためのものかもしれない。

迷いこまなければ、逃げる必要はない。迷い込んでも逃げ道があれば良い。

才能はその言い訳には十分だ。だから、才能が大切なのは、間違ってない。

でも、それは努力しない理由にはなってないのだ。

努力とは、欠損だ。

欠損という恐怖に気付いた時、恐怖から逃れられない時、埋めるしかないと諦めた時。

諦めてなくて痛んでも、それでもどうにもならないから、じたばたと足掻いた部分だ。

しない。なんて選択肢は無い。その時は、するしかない。

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