「結局は才能。」
もちろん、最終的に才能が結果に繋がるのは正しいと思うのだが、いつもモヤモヤさせられる。
努力とは何だろう。
小学校の低学年、僕は自転車が好きで、広がった世界に興奮して、よく遠出をしていた。
当然、ある日迷子になった。線路沿いの道が工事にはばかられ、勘に頼ったせい。
夕暮れが終わり闇に気付くと泣きだした。
いつもならすぐ親が駆けつけくれるのだが、それはない。
泣いたら誰かの助けが必要だと自覚することになる。誰もいない今、それは絶望を認めるとの同じ。
迷ったと気付いた時から、その理性によって辛うじて耐えていたのに、夜の闇はそれを簡単に破った。
僕は恐怖に負けた。負けを認めて諦めて心が折れた。絶望した。
ただ願うしかなかった。助けてと。
そんな風に振り絞ってだした願いでも、何も変わらなかった。
それが怖くて、泣きやまないため、必死に泣き続けた。
涙よりも先に息が尽きた。
うえ、え、としか吐き出せなくなると、泣くことさえ奪われた。
ヨロヨロと自転車を漕ぎだす。
行くしかない。などという理性じゃなかった。
体が酸素を求めて大きく動いた結果、思考が止まってふいに動いてしまった。
動いたら動いたで止まることが怖くて、啜り泣いてでも止まれなくなった。
努力とは、何かの目標に届くための、ポジティブで加算的な何かに例えられる。
伸ばすとか。上げるとか。進むとか。突破するとか。
成熟した理性では、そう捉えてるかもしれないが、その理性の原初は、全く逆だと思う。
ただ強烈に足りない何かを埋めなければいけないという恐怖。
逃げることさえ許されないなら、後は埋めるために足掻くしかない恐怖。
その足掻くという行為さえ、恐怖から逃げ出すためのものかもしれない。
迷いこまなければ、逃げる必要はない。迷い込んでも逃げ道があれば良い。
才能はその言い訳には十分だ。だから、才能が大切なのは、間違ってない。
努力とは、欠損だ。
欠損という恐怖に気付いた時、恐怖から逃れられない時、埋めるしかないと諦めた時。
諦めてなくて痛んでも、それでもどうにもならないから、じたばたと足掻いた部分だ。
http://anond.hatelabo.jp/20141215160125 努力は器に対する限界への肉薄です。努力しない言い訳云々はメンタルの問題であり、根本的に努力と係る話ではありません。 努力はする、しない、の二択...