はてなキーワード: アジールとは
オタク文化の大衆化にすごくがっかりした anond:20221228200137
という増田、250ブコメを越えてようやく過去の増田の再投稿だと指摘される
nonameotaku 2019年1月11日に全く同じ増田が投稿されている https://anond.hatelabo.jp/20190111203922 オタク 増田
2022/12/29
[B! オタク] オタク文化の大衆化に少しだけがっかりした話 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20190111203922
[B! オタク] オタク文化の大衆化にすごくがっかりした https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221228200137
この2つのブクマを並べてみるとわかるのだが、同じメンツが全く同じ内容(タイトルだけ若干違う)の増田に食いつき、議論し、さらには同じことを新しいアイデアのように書いていたりする
結局ブクマには、最早オタク気質の人間は残っていないということなのだろうか
sds-page 少数の作品で満足しないで常に色々な作品に触れて知見を広げようとする姿の方がオタク的ともいえる 増田オタク考え方
2019/01/12
sds-page 色んな作品を見て「この作品はこの作品の影響を受けてる」って語る歴史文化史的な楽しみ方するのもオタクなんでないの。専門書読み漁るタイプの歴史物の楽しみ方と一緒やぞ 増田オタクコンテンツ考え方
2022/12/29
mutinomuti “オタクであることが周囲に知られることは社会的な死を意味した” 文芸部とか普通にあった同時代人としてはそんなことない学校もあったよて言いたい(´・_・`)普通に生徒会兼務とか吹奏楽部兼務とかめっちゃしてたし
2019/01/12
mutinomuti “昭和生まれのオタクだ。 私の学生時代、オタクであることが周囲に知られることは社会的な死を意味した”少なくとも近い世代の自分の界隈はそうでなかったので、この言説に共感できない(´・_・`)
2022/12/29
anmin7 石の下に帰ろう。
2019/01/12
anmin7 めちゃわかる。オタク文化が嫌な掘り下げ型の人がいま迫害されてるんだろうな、って思うわ。迫害を楽しみにするタイプもまたいつだって人類にいるからね。
2022/12/29
algot 中二、コミュ障、ヘンタイをオタクというワードでオブラートに包めた時代が終わった感じ。
2019/01/12
algot “ひとつの漫画に対して熱は何年も続いた” つまり自分もその何年の後は別の漫画に興味が移ったわけじゃん?その時同好の士は増田にガッカリしたんじゃない?
2022/12/29
mujisoshina その場に応じて皆と共有できる話題を使い分けているだけじゃないかな。昔は話題を使い分けることのできない空気を読めない者こそがオタクとよばれていたんだけど、今は普通に空気を読める人も漫画やアニメの話をする
2019/01/12
mujisoshina 他の人と合う部分はSNSで語り、合わない部分は自分だけで楽しむので良いんじゃないかな。オタクの交流なんてそんなものだろう。趣味は一つで無くて良いんだし、他の人だってSNSでは語らない趣味も持っているんだよ。
2022/12/29
toraba アニメオタクではないけど好きなアニメ作品はあるので同じ作品を長く楽しんでる、漫画はジャンルとして好きだから色んな作品をある意味消費するように読んでる(勿論長く楽しんでる作品もある)
2019/01/12
toraba オタキング「オタク第一世代は貴族主義、オタク第二世代はエリート主義、しかしオタク第三世代は教養的に学んでいこうという勤勉さがなく、世間に白い目を向けられる者たちが持つ連帯感と寛容さがない」
2022/12/29
atoh どうやったら世間の情報をこれほど遮断できるのか。海洋堂の宮脇センムが最近はオタクの意味合いが変わったとインタビューに答えたのが2010年の事。https://diamond.jp/articles/-/9427?page=5 増田オタク
2019/01/12
atoh 今まで気づかなかったのか。海洋堂・宮脇センムがオタクの変わりように言及したの10年以上前やぞ。https://diamond.jp/articles/-/9427 増田オタク
2022/12/29
myogab ナニをイマサラ
2019/01/12
myogab オタク黎明期でも「オタク」てのはそんなもんで、増田の言うそれは「マニア」だったかと。 追憶
2022/12/29
sakuragani オタク的なものに興味があろうがなかろうが結局コミュ障はコミュ障だしリア充はリア充だ。もはやオタク的なものがコミュ障のアジールでなくなった以上、そこは割り切っとかないといろいろつらいんじゃない?
2019/01/12
sakuragani 嗜好対象とは関係なく「掘り下げ型」の気質を考えたら繋がる手段が増えたところでって感じではある。一方でオタク趣味の極北などと称されるTRPG界隈にいる身からすると10年で繋がるための環境は劇的に改善してるなとも
2022/12/29
p_shirokuma 「姿勢としてのオタク気質」ってやつのようにもみえるが、実はそうでない話のようにもみえる。 オタク趣味
2019/01/12
p_shirokuma 「最近になってSNSを使ってオタク活動を始めた。同好の士と繋がっていくと中・高生とも話す機会が増えた。今までオタク趣味をオープンに話す機会もなかったので純粋に嬉しかった。」←なんかすげえな。浦島太郎か。 オタク趣味
2022/12/29
kagerou_ts 増田は深堀りするタイプのオタクだからそのままの自分で生きてほしい。
2019/01/12
kagerou_ts 昔は生存バイアス的にガチ勢しかいきのこってなかったのではという気も。単純に楽しめる人が多くなっていいじゃんって思うよ/「今期はこれ」みたいな移り変わり、昔からあったような気もするし
2022/12/29
cl-gaku ナイステキスト/作品のオタクではないが業界のオタクではあると思う。視線の先が少し違う
2019/01/12
2022/12/29
gcyn 『コンテンツが一般化しただけでオタクが増えたわけではなかった。そして皆が皆自分はオタクだと叫んでいる中、オタク気質な同好の士を探すのも以前と変わらず難しい』
2019/01/12
gcyn 「萌え」の語の発生と一般化の以前と以後で、それ以前からあったものも書き直されて「オタク」もまた書き直されたのかも。そういう意味では「私は萌え以前のオタクだから」の矜持で楽しく…や、以後もまた楽しいか。
2022/12/29
technocutzero それオタじゃなくてただのアニメ好き オタは多大な代償を払うことでしかなることができない哀しきモンスター
2019/01/12
technocutzero もうそういう意味でのオタクは10年以上前に終わっている 終わったから日の光の下に出てきたんだよ でもそれは本当の意味での知見があれば聞いてくれる人も多くなったってことでもある
2022/12/29
memoryalpha 昔その層のために作った商品を買ってるのはオタクではなくお客だと官給品コレクターが言ってました(´・ω・`)
2019/01/12
memoryalpha ただの漫画アニメ好きの人までオタクと呼ぶ風潮のせいでは。大衆化もあるが漫画アニメ限定でオタク定義要件が緩和されてる。増田と同類ではないのだ。ラーメン好きな人をラーメンオタクとは呼ばんだろう(´・ω・`)
2022/12/29
sysjojo 増田はアレフガルドに入るくらいからがオタクだと思ってるみたいだけど、今はダーマの神殿についたくらいでオタクなだけだから。大丈夫。メルキドで待ってればそのうちたどり着く人もいるから。(迷い込む?)
2019/01/12
sysjojo カジュアルオタクとヲタとおたくは似て非なるもの。
2022/12/29
neko2bo 日々色々知りたくもあるし。一つを深掘りもしたいし。全てを楽しみ尽くしたい欲求はありますが、時間もお金も足りません。
2019/01/12
neko2bo 愛好するコンテンツ次第で孤立したり中傷を受けたりする。そんな理不尽な危険性が減った。それがどれだけ素晴らしい事なのか。自分は嬉しくてしようがない。 オタク コンテンツ
2022/12/29
cinefuk 昭和の頃は「ミーハー」と呼ばれていた層が、現代の(マネタイズの対象としての)「オタク」になったと捉えれば、おじさん世代も納得すると思う オタク 増田 80年代
2019/01/12
cinefuk 昭和オタク用語でいうところの「ミーハー」が支配的になった世界だからね。でも、昭和でも似たようなものだったのでは?アニメ雑誌のグラビアを切り抜いて下敷きに挟んでいれば「アニメファン」だったでしょう? オタク80年代増田
2022/12/29
citron_908 オタ文化とオタ体質は似て非なるものだと 増田
2019/01/12
citron_908 オタクとは知識ではなく生き方である 増田オタク
2022/12/29
公共ってのはアジール(避難場所)なのよ。日本人はこれが理解できていないよね。
公共は「みんなのもの」だからお行儀よくしなければいけませんよ、と言う発想ね。基本的にはこの発想は、悪くは無いんだけど、弱者や異端の排除になりがち。
図書館からホームレスを排除しようとしたのが、「公共だから私たちの安全を考えて」と訴えた女たちだったと言うことが、日本人女性が甘やかされて育った一面を明らかにしているよね。
逆なのよ。
他人様を排除できるのは私的領域だけなのよ。「みんな」とは文字通り「みんな」なのよ。みんなと誰かに分断されるものじゃなくて、文字通りみんなを受け入れなければならない場所、それが公共なのよ。
僕は、彼女いない歴 = 年齢 - 2週間の非モテで、20代後半の童貞(文脈が文脈なので敢えて書く、ちなみにプロ相手でも同様)だ。もちろん現在彼女はいないし、彼女ができる兆候もない。幸いなことに、コロナ関係ではあまり影響がない職種なので、在宅中心になったが生活への不安は希薄である。
ラジオは、深夜に限らずよく聞く、現在は、4月に始まった新番組があるので毎週10番組聞いている。岡村隆史のANNは、スペシャルウィークに聞くくらいだった。
岡村のANNを聞いた。6年前にラジオを離脱した矢部が登場し、笑いゼロで説教する回。
岡村は、周囲の人間に対して不遜であり、25年続けた圧倒的ホームであるラジオというぬるま湯に甘やかされ続けている。ADの女の子がコーヒーを持ってきてくれても、「ありがとう」の一言も言えない。鬱で休業した際も、相方に迷惑かけて申し訳ないの一言もなかった。お誘いを断わる際にマネージャーを使う、逃げ癖がある(逃げた経験は僕もゼロではないから、心に刺さったなあ)。そういう部分を見るのが嫌で、コンビの仕事は現在減らしている。こうした根っこの部分の不遜さが、非モテから来るミソジニーになっている。反省して、結婚などして環境から自分を変えるべきだ、とお笑い番組なのに笑いゼロで完全に説教されていた。
ヨルシカ「花に亡霊」、ブルーノマーズ「just the way you are」、Maroon 5「Memories」といった選曲が、妙がアクセントになっていたと思う。
僕は、文脈が存在するこの深夜のラジオ番組的には、本来は、強めにツッコまれて笑って流せる発言であると思っている。それが、書き起こしによってオーバーグラウンドに晒されてしまったから、問題になったのだと思う。つまり、深夜ラジオという時間内では、別にこれほど目くじら立てるような話ではないと思うのだ。これがアウトなら、深夜ラジオ自体が成り立たないし、地方局の昼ワイド番組では性関係の結構ドギツイ発言などあると思うけど。僕はあまり熱心な落語ファンとは言えないけど、艶笑噺を探せば今回の岡村発言に類するものはいくらでもあると思う。
矢部の発言は、個人的には非モテ童貞の僕には承服しかねるが、この騒動を収めるという視点に立てば、適切に作用するものと思う。
深夜ラジオという、冴えなくて、偏屈で、変わり者と思われたいようなリスナーとパーソナリティの集う場所での常識が、白昼の常識と解離してしまったことが問題なのである。それを責め、諭し、真っ当な大人(礼儀正しい、逃げない、恋愛している、彼女がいる、結婚している、子供もいる)になるべきという世間の風を、矢部が代わりに岡村に浴びせたのだ。鎮火のために出てきた(呼ばれたのか自発的に行ったのかは不明)彼がやるべき仕事だったと思う。
しかし、岡村の「経済的に困窮した上玉を抱きたい」という欲望と同様に、ある種グロテクスな説教になってしまったことも事実である。
岡村は、いろいろな経験があって女性不信だと言う(それは矢部も言及していた)。その彼にとって、風俗という世界はアジールだったはずだ。モテなくても性欲はあるからね。そういう人間に、50歳で彼女もいないのはおかしい、誰か付き合っている人がいるなら結婚しろ、嫁・彼女は気付きを与えてくれる、子供にきついことを言われるのは人間的に成長させてくれる、といった「オーバーグラウンド」の価値観を強要するのは、岡村が「コロナで貧困に陥ったら身体を売って金を稼げ」とネジクレ曲がった欲望を口にするのと、パラレルな関係にあると思う。
そもそも、「男性だから力が強い」とか「男性だからマジョリティ」という断定自体が「属性で決めつける、差別」だって気づいてないの?
このこと自体は、アジールとしての女性専用車両が社会的に容認されている通り、差別ではなく合理的配慮のための区別にすぎない。
だけど、このような区別が結果的に別のマイノリティであるトランスジェンダーの方々や、日本のセクシズム問題とは無縁のはずのニューカマーエスニックマイノリティの男性に対してまで抑圧となってしまうとキツイね。
上手く法律なり条例なりで合理的区別を受ける男性と、受けない男性のカテゴリーを明示できればいいんだけどね。
条例を作ったら作ったでまたギャーギャー騒ぐ人が出てくるだろうし...。
男のいないアジールへ逃げなきゃ
恐らくいつも通り円山公園から出発して四条を通り河原町を上がっていくのだろう。
ゴールは三条大橋下かあるいは市役所前広場辺りか。子供の頃から見慣れた光景だ。
彼らの主張する内容もまた聞き慣れたもので、戦争反対、安倍辞めろ、その他諸々、駅前で毎日共産党が叫んでいることと大して変わらない。
変わることと言えばやたらポップな雰囲気を醸し出していることといつにも増して大人数であることくらいで、四条河原町を封鎖して市民の足であるバスの往来が出来なくなるのも、外国人観光客が興味深げに写真を撮るのも普段と同じである。
その点だけ抜き出せば祇園祭とそう変わりはなく、この形態があと1100年ぐらい続けば時の京都市が伝統的無形文化遺産として指定するかもしれない。
それはそうとして。
実際、彼らが主張すること自体に対しては何の不満もない。
そもそも言論の自由は何人にも保証されており、彼らの口を封じようとする勢力とは断固として戦わねばならない。
僕個人としても立憲主義プロセスを無視しようとする現政権に対する不信感は非常に強いし、安倍晋三という政治屋ボンボン三代目がまともな政治家であるとも思わない。
しかし。
果たしてこの現代版踊り念仏が政治指向を持たない人々の心に響くかどうかは怪しいと言わざるを得ない。
理由は簡単だ。
「迷惑」と「聞き飽きた」。
ただでさえ混雑していた四条が行政の手で更に渋滞するよう作り替えられたのは記憶に新しいが、それに加えてデモによる道路封鎖が起こると四条だけでなく烏丸や川端、果ては堀川辺りまで波及する。
『主張しはんのは勝手やけどせっかくの休みやのに他人に負担掛けてまでやらんといて』と。
その時点で彼らの耳に主張は届かなくなるのだ。
これが良いことであるとは僕には到底思えない。
重要なのは政権批判そのものではなく、政権批判を行う仲間をいかに増やすか、であるはずだ。
左派には民主主義、国民主権を叫びながら国民に主権があることを忘れて政権そのものと戦おうとする人が多く、その点ではいわゆるネトウヨの方がむしろ主権者たる国民に向けて語っているのではないかとさえ思う。
『○○人はこんな悪事を働いてる!』というのは政権ではなく民衆に向けられた言葉だ。
この違いこそ日本のリベラルと呼ばれる勢力が弱い理由だと僕は考える。
より深刻なのは「聞き飽きた」ということだ。
彼らは先述のようによく政権批判の演説を行っているがこれがむしろデモの主張を陳腐化させているように思える。
またこの手の奴か、と。
普段から聞き慣れた言説に『多くの人が集まっているから』という理由だけで耳を貸す人間がどれだけいるだろうか。
これが大人しい田舎なら話は別だ。
ただ大規模なデモを行えばそれだけである程度衆目を集められるだろう。
その解決策は僕にも分からないが、飽きられているのは確かだと思う。
こんな風に書くと「典型的スノッブ京都人」扱いされるのかもしれないが、今回敢えて書かせていただいた。
重ねて言うが、僕は彼らの主張にもその内容にも文句はない。
と言うより京都は一種のアジールでなければいけないし、地方のサムライ・マチズモに由来し明治以来続く国内外に対する植民地主義に対抗する存在でなければならない、と強く思っているので、こういった主張はどんどんしてほしい。
しかし、主張する人間が自ら居場所を減らしているのではないか? と感じるのである。
報道によるとこのデモは若者が主催したもので、この日は2000人を超える人が集ったと言う。
彼らの心意気に敬意を表すると共に、彼らの心意気が無駄にならないことを祈る。
もし増田が暴言を吐いたことの無い人だけ暴言を批判しなさいと上から目線で偉そうに言っちゃったが最後
KYな奴だとはてな村総出で石を投げつけられ十字架に貼り付けにされ
はてブコメントの槍でハートを常に貫いてよしとする空気が生まれ
魂は永劫の煉獄に繋がれるだろう
初めて遭遇する人に払われるべき敬意は払われず嘲笑してもTLの空気の流れでは当然許される
その状況を覆すのはなかなか難しいということを
実名派の中にはその実名を持って感じてる人たちもいるはずなのにな
世に弾かれた魂のデータの欠片が、方向性を持ち特定の物事に向けて集中豪雨や台風となることが前もって予想される時
増田にできることは避難所(アジール)への誘導や予報進路を出すぐらい
名を出すのも嫌なほど世に倦み傷つき疲れ果てた人々はネットのどこに行けばいいのか それが此処では無いのか
1.もともとはブログで更新していたけれども、いつの頃からかネットには「粘着質」のキチ達(実名・匿名・アルファブロガー問わず)がネットでの居場所を求めて
誰かを叩けるアラをいつも何か探してうろうろして、誰かの揚げ足をとると喜んでいるのでもはや自分のブログに書く時代では無いと悟った。彼らは話し合いたいのでもなくただ自分が優位にあると感じたいだけの為にいつも贄となる誰かを探してる。
2.単にブログのテーマから外れているけど、新たにブログを作って書くほどのテーマでも無かった。
3.1みたいな目に遭った人らをイナゴの群れから覆い隠してあげ、ネットでの居場所を完全に喪わせられることを防ぐアジールのような場所
農民の国だろjk
得意げな顔して何が、農民の国、だ。
お前は本当に農本主義者なのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、農民って言いたいだけちゃうんかと。
日本通の俺から言わせてもらえば今、日本通の間での最新流行はやっぱり、
網野史観、これだね。
漁民と職人ってのは定住地を持たず、文化を伝播させた。そん代わり国家からは把握されにくい。これ。
で、それに無縁・公界・楽(アジール)。これ最強。
しかしこれを言うと次から民俗学会にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
まあお前らド素人は、柳田の『都市と農村』でも読んで「常民文化マンセー」とか言ってなさいってこった。
古い。古いなー(笑
いや、熊野の方も似た感じかもしれないけどさ、あっちは出入りしてないから分かんない。だから自分の知ってる話だけ。
いまの学生はああいう共同生活をしたがらないんで入寮希望者が減って、留学生が結構な割合を占めてるんよ。で、留学生って妻子連れ(夫子連れかもしらんが、ま、どっちでもいい)が意外と多かったりして、共同炊事場とか行くと、小さい子が複数の言語を好き勝手に喋りながら手伝いをしていたりして、古い木造の建物と無骨な設備、うす暗がりでしかない照明なんかと合わせて、国籍不明な人々の登場する物語のアジールのような世界が出現しているんですよ。アレは一度見る価値がある。あそこには昭和があるし(もしかしたら戦前もあるのかもしれない)、アジアがある。飛行機に乗って行く場所よりずっと面白い。
古い学寮だもんで、いまだに自治が第一で、どんな小さなルールもみんな円卓囲んで決めていたりして、20歳前後の若造の青臭い理屈でずっと決まらないやり取りが続いていく。スピード決定の時代に慣れている人は一瞬イライラするだろうけど、その瞬間を乗り越えたら、経営書やらで頭を一杯にする前に自分も持っていた懐かしいものをそこに発見するだろう。本棚の大量の漫画本の間に、昔難解だと思いつつも読んで感激した本があるのが目に入る。背表紙は色褪せている。今の学生も読むのだろうか。それとも、彼がここに来た日からずっとあったものとして、ただそこにあるのだろうか。
どこかからJazzyなピアノが聞こえてくる。かなりうまい。聞き続けていたいがために、そこを動きたくなくなる。聞けば、卒業生でプロになった人で、ここが一番よいと戻ってきては演奏しているのだという。ああ、その気持ちは分かるよ。短時間しかいない自分もまた戻りそうになるもの。
個人的には、こういうところと縁があったら体験しておいた方がいいと思う。ただ敬遠しているばかりじゃ勿体ない。
でも古い学寮は廃止の運命にあって、日本全国で陥落し続けているらしいよ。廃止された他大学の学寮関係者が吉田寮に吹き溜まって、抵抗を続けているなんて話もある。今日そんなのは流行らないだろうけど、日本のどこかにはこんな場所があって欲しい。