はてなキーワード: ラベリングとは
人間関係に疲れてしまって、そこには何も残らないかもしれないという不安だけが残ったので仕方がない。書くか。という細い支柱がにょきにょきと生えた。掴まるものがそれしかないので私はそれに触れることにした。
人間を整理する。近づきすぎた花のうちどちらかを摘む作業と同一視したい。
A…友人。今回一番派手に揉めた。怒らせた。失望させた。裏切ってしまった。
C…友人。受け止めてくれたと思っている。だけど実情は違うのかもしれない。
D…友人。Aの隣で私を叱ってくれた。でもどうしたらいいかわからない。
E…友人。話をしてくれた。信じてくれたならいいのに。
F…先輩。彼は私の何であるつもりなのだろうか。定義とは、実情より優先されるのだろうか。
右手の指輪と左手のヘアゴムが絡むほど祈ったら、きらりと光った薬指だけがいやに大人びていて気色が悪かった。私はまだ大人ではありたくなかった。
Bと喧嘩した。
Aに相談した。すっかり別れる気でいたから、きっとその気で話して、その翌日にCにも同じような話をした。AとC、彼女らは態度さえ違えど私の幸せを考えているのだと言って、私の恋人に別れを告げることを賛成してくれていた。
その翌々日、Bと会った。好きだと思った。もしかしたら好きではないのかもしれない。それは常に胸の中にあって、姿を見たときにも自分を疑った。でも別れることなんてできないと、強くそう思ってしまった。アドバイスでどうにかなる柔軟さを世界に置いてきてしまっていた? どうだろう。今となっては、という話になる。
私は散々話した別れ話の構想をなしにすることをAに告げた。彼女は怒った。当然かもしれなかったが、血縁以外で初めて明瞭な怒りを投げかけられて、私の頭の中はゆっくり真っ白になって、そこまで怒ることだろうかと思った。彼女が常々言っていた言葉を盾にして自分を守ろうとした。
そしてすべての思考が同じような緩慢さで停止した。
ゆっくり失われる世界の詳細と相反するように「私」と「他者」の境目が、気持ちいいほどはっきりりとしていくあのセンセーショナルな心象風景は衝撃的だった。
地平線すら脱落した白い世界で、「私」だけが太いマジックペンで縁取りされて、あらゆる色彩の侵入を阻んでいるさまを、当事者の私すらもなぜか他人事のように見ていた。
わたしという人間が誰かの意志を無下にすることがまるであるべき形みたいだった。
彼女が私にくれた言葉はもったいないほど長く、それらはスクロールするにつれどんどんとつらそうになっていた。
そして恥ずかしいことに、そこで初めて彼女を傷つけたことに思い至った。悲劇のヒロインに身を沈めようとしていることを痛烈に批判されていると感じた。(AとCからすれば、というかすべての友人と呼称していた人間たちはみなとっくにそう思っていたのかもしれないが)
Dが、ひどく憤慨していた。傷つけた、というよりはひどい迷惑をかけたのだと思う。
私も泣いたし、彼女を泣かせるような関係を持っていたのだから。
この中で一番長い関係を持っていたのに、固定化されてだんだん固くなっていた関係は割れてしまったのだろうか。もう水はひび割れから抜けていくしかないのだろうか。
Cは何も言っていなかったが、Aの返事を受けて私から急いで謝罪のメッセージを送った。Cはあなたの人生だからどうも思っていないというある種ひどく軽く透明な返事をくれた。
悲しく、安心した。不注意で鍋を触って赤くなった指先を溜息と一緒にさっと冷やしてもらえたような印象を与える言葉選びだった。
後にこの印象はひどく揺らぐことになるが。
私はすっかり複雑化した友人関係の中で声を上げないことを選んでいたから、話ができて本当に、心から嬉しかった。あえてひどい言い方を憚らなければ、餌を与えられた気分だった。
彼女はフラットに、やさしい言葉をくれた。豊かでやわらかい言葉を使う人だと常々感じていたから、変わらない感触をくれたことに対して私はひどくわがままに解釈してやさしさを受け取っていた。
愛おしかった。
そのあと、Aから話したいと連絡をもらった。いつも私は与えられてばかりいる。
嬉しくて、でも何を話したら正解を選ぶことができるのかなんてことばかり考えてしまって嫌になるうえに私にとっては以前話したことがすべてだった。
すべてだったから、これ以上どんな言葉を発することが正しさと結びつくのかは理解できなかった。
これが今までの出来事だ。
そしてもう一つ同時に進んでいて、書かなければならないと思ったことがある。
書かなければ抱えきれないと思ったことがある。
私のための文章に、さらに自分勝手が混ざることを注として付さなければならないと思うほど横暴な話である。
主人公はFだ。
彼は、この話の中で私が唯一男性三人称を用いる相手で、私という人間に様々な側面から好意を抱いたままの異常な感性の持ち主である。
Fは今回の件については全くの外野であったはずだった。
しかし、CとF、そして私と恋人のBは同じ団体に所属しており、半年ほど前に私とBが揉めたことをきっかけに連絡を取り合っているようだった。その流れでCからFに今回の件が伝わったようだった。
その事実については私は問題だとは認識していない。Cが私によってもたらされた悪感情を消化するための手段は誰にも阻まれるべきではない。
Fは、Cから話を聞いたことを隠して、私にメッセージを送ってきた。
正直、(これまでも自分や相手に対して自己表現と防衛のために必要な修辞を伴いながらも可能な限り正直に記述してきたつもりだが、この件に関してはより剥き出しな「感情」を用いて、)部外者が不必要な口を突っ込むことがひどく不快だった。
Fの記述曰く、
「Cは半泣きだった」
「Cを責めないであげてほしい」
ということだった。
調子のいいことばかりだった。
Fの、まるで訳知り顔という態度も、本当はCが参っていたのか、それとも話しぶりがFに誤認させるようなものだったのかわからないという事実も。確かめられていないが、とにかく双方の印象が異なるのは非常に不快だった。
2人とも自分が正しいような顔をして、どちらかは確実に嘘をついているのだから。それがたとえ誤解だとしても、誤解のまま私という私ーB関係の当事者兼CーF関係の部外者とのコミュニケーションをとることを選んでほしくなかった。
これまでの経験上、2人とも印象や偏見で話すことがないとは言い切れない。だからこそ「嫌」だった。
Cについては、たとえCとFの記述が両方正しいとしてもその内情が一部理解できた。ひどく衝突して怒りを向けたAと今の私が向き合えないと知って、逃げ道の役割を自分から引き受けてくれたのだとしたら、本当にひどいことをしたという自覚は生まれる。そしてCの苦しさはある程度察するものがある。
ただ、一つだけ。C自身が「私に責められた」という内容の発言をしたのなら、それは、当時の私の発言がひどく拙い故だったのだろうが、本意ではないことだけは知らせたいと思った。
Fについては、普段から私が関わった事実の誤認が激しいという印象を受けていた。
私とFの関係性を「友人」というラベリングを行うことで実情を無視してひどく親しげに振舞うその姿勢は、普段の人間活動の上では真人間には見えているギャップも相まって恐ろしい精神的な問題を持っているのではないかと邪推してしまうほどだ。(もしかすると、私という観測用レンズがひどく歪んでいるのかもしれず、その可能性は決して低くないが)
とにかく、彼とCについての問題は解決するにしても慎重な対応が必要だと思ったし、本質から外れていると思った。
話は以上だ。
私が悪い。これだけは覆しようのない事実として私は認識している。
ゆえに、これが成立したままで遍く問題が解決すれば万々歳なのだが、そう思っている。
それでは、また明日。
明日が来る私より。
[B! 差別] おじさん構文、働かないおじさん…「おじさんは叩いていい風潮」の危険性。社会学者が指摘する中年男性のイメージと現実のズレとは | 集英社オンライン | 毎日が、あたらしい
あれは本来夜職やパパ活界隈で相手のおじさんから送られてきたメッセージを晒したりして共有されていたもの。
年下の女性に合わせた(つもりの)下心を伴った書き方がキモい・痛々しいといういわば「キモおじ構文」とか「パパおじ構文」とでも呼ぶべきものだった。
(なのでテレビで朝から面白ネタとして紹介したりしていいの?という疑問もある)
ちなみにおじさんというと40、50代からをイメージするかもしれないが若い女性視点なので30代からおじさんである。
それが今では世のおじさんみんなああいう書き方をしてるかのように誤解が広まって無関係なおじさんが被弾している。かわいそう。
年上のおじさんと日常的にやりとりする人なら知ってると思うけど彼らはあのような書き方はしないし男性は絵文字もあまり使わない。
その点おばさん構文はまた異なるんだけどここでは割愛。
https://twitter.com/misandry_risu/status/1636932770600726528
思うんだけど、「自殺者は男のほうが多い」ってのは、保身的なホモソ社会で、女を排斥し、仕事を独占したツケなんじゃん?医大では女だということで減点されてたわけだが、その間、優秀な人材を捨てて、男だと言うだけで雇用して、医者は忙しい状況になってんじゃん?優秀な人がいたら、仕事効率良く
なるし、運用も幅がでるじゃん。インフラ関係も女を排斥しがち。まあ、これは、現場だと、体調崩しやすい女はちょっとむずかしいし、入れても、体力的に劣っているので、使い場所が難しいのはわかる。しかし、適材適所というように、インフラ関係でも建築士だの設計士だの女がやってることは多い。
まあ、体力の無い男と体力のある女、どちらがその場にふさわしいかというと後者だがな。そういうインフラ関係、男もなり手が少なくて、外国人やら老年で従事している人も珍しくない。昔より、今の男のほうが、男の重圧は軽くなってるはずだがね。昔は、近所の寄り合いだの、地域行事も男が出ることが多
かったし。祭りとかもそうだ。もっと田舎だと、土地特有の行事、消防団の集まりとかもある。そして、なにがなんでも、大黒柱が金を稼ぐ。なんなら、日にちまたいで、24時間働けますかっていう。そういうの、今の男あんまりないじゃん?それはそれで、いいことだろう。ジェンダーの解体の前進だ
https://twitter.com/hao_B79kq/status/1636949617026961408
子供でも男性の方が多いですよ はい論破(前提条件が崩れたので)
https://twitter.com/misandry_risu/status/1636953438323101696
これは失礼しました。だったら、男は打たれ弱いだけですね。理由なんてなかった。鍛え方が甘いだけだった」 / Twitter
https://twitter.com/misandry_risu/status/1647266290380460032
コレの何がダメって、年配女性をおばちゃんで一括りにして、おばちゃん属性なる物作ってるところよな。そんなん、個人差があって、老若男女当てはまる人は当てはまるだろうが、それでなぜおばちゃんパークなのか。パートでスーパーで働けば、金もらいながらおばちゃんパーク気分を味わえるね
ジェンダーの押し付けに通じる、個人を見ずに属性でみて、すべてそうであるとラベリングするのが無神経な男のそれだよね」 / Twitter
男性社会を断罪する根拠の不確かな主張を垂れ流し、子供でも男性の方が自殺率が高いという指摘が入ったら「男は打たれ弱い、鍛え方が足りないだけだ」と死んでいった人々を侮辱するような発言に切り替える一方で「個人を見ずに属性でみて、すべてそうであるとラベリング」するのは悪だと語る
馬の眼、結局森友や加計学園問題の大当たり体験からへんな学習した人だと思う。
森友とか加計学園問題って人脈で色んなことが動いていて問題になったケースとして話題になった、珍しく陰謀論スキームで色んなことが語れるケースなんだけど、陰謀論が厄介なのは本当に陰謀論の枠組みで動いていることがあることで。
でも、一つそういうパターンで動いていたケースがあったとしても、それが全てではないのに、そういうパターンでやりだすと陰謀論に嵌ると思うし、場合によっては差別問題にもなるから気をつけないといけないと思うけど、そこにハマってる。
(それを馬の眼は『人脈研究』と称してやってるわけで…)
それと敵憎しみたいな、あのカテゴリに当てはまるのは全部悪みたいな結果を導き出すやり方が組み合わさって、フェミ批判や野党批判もそのパターンにハマってることが多々あったと思う。
今回もこんなこと言ってたし。
Colabo問題を眺めていて大変に興味深いのは、批判側と擁護側で、Twitterの使い方が根本的な違うことなんだよね。
批判側が情報を個々人で深掘りして共有し、さらに深掘りするという集合知スタイル。
擁護側はラベリングと連想ゲームとハッシュタグ連帯キャンペーン。— 馬の眼🐴 (@ishtarist) January 20, 2023
ここで馬の眼は自分達の深掘りもラベリングとか連想ゲームに当てはまる可能性があるのを無視しているわけで…
だからこうなったのは意外性なかったなぁ。
馬の眼、結局森友や加計学園問題の大当たり体験からへんな学習した人だと思う。
森友とか加計学園問題って人脈で色んなことが動いていて問題になったケースとして話題になった、珍しく陰謀論スキームで色んなことが語れるケースなんだけど、陰謀論が厄介なのは本当に陰謀論の枠組みで動いていることがあることで。
でも、一つそういうパターンで動いていたケースがあったとしても、それが全てではないのに、そういうパターンでやりだすと陰謀論に嵌ると思うし、場合によっては差別問題にもなるから気をつけないといけないと思うけど、そこにハマってる。
(それを馬の眼は『人脈研究』と称してやってるわけで…)
それと敵憎しみたいな、あのカテゴリに当てはまるのは全部悪みたいな結果を導き出すやり方が組み合わさって、フェミ批判や野党批判もそのパターンにハマってることが多々あったと思う。
今回もこんなこと言ってたし。
Colabo問題を眺めていて大変に興味深いのは、批判側と擁護側で、Twitterの使い方が根本的な違うことなんだよね。
批判側が情報を個々人で深掘りして共有し、さらに深掘りするという集合知スタイル。
擁護側はラベリングと連想ゲームとハッシュタグ連帯キャンペーン。— 馬の眼🐴 (@ishtarist) January 20, 2023
だからこうなったのは意外性なかったなぁ。
最&高の作品の感想を書く。ジャンプ+は莎々野先生に「マリトッツォだっつてんだろ」でアナログ部門賞をあげた責任を取ってさっさと短編集を出して欲しい。
本作があまりにも性癖にクリティカルヒットしたので思わず筆を取ってしまった。
何が最高かって、キャラも可愛くて純愛で、そして適度に闇があっても作品の根本には人が人を想う思いやりにあふれているところ。空気感がエモくて二人の関係が恋愛ゴッコから運命の恋人に変わっていく流れも最高だし、何より溢れ出す感情を言葉にできず涙としてしか吐露できないシチュがフェチの筆者にとって終盤の展開が死ぬほど刺さる。
ただ、作品をステレオタイプに「ヤンデレやメンヘラもの」とラベリングしてちゃんと物語を読み解いていない人が散見される。それはとてももったいないので、後ろで自分なりに補足を書きたいと思う。
とにかく鹿野くんも狩谷さんも可愛すぎる。狩谷さんにうでギュッってされる度に「アッ」とビクンビクンするのは、女、いや人慣れしなさすぎてまさに野生のシカみたいだし、自分から振ったくせに泣きながら揚げ物かじる姿は滑稽可愛いし、初デートで初めてばかりの経験に目をキラキラさせて精一杯楽しもうとしている姿も素直でかわいい。
「語尾にハートがつくような甘々口調でしかも恋人に献身的で可愛くておっぱい大きな女の子」だけど「実は傷を抱えていてバイブル(少女漫画)に書いてない自分の本音を晒すときはうつむいてつっかえてながらでしか喋ることができない」ギャップヒロイン(狩谷さん)みんな大好きでしょ? 少なくとも筆者は大好き! あと作中に出てくる二通の狩谷さんの手紙、便箋もデコっているシールも女児みたいでめっちゃ可愛い。髪の毛が細いから毛が浮いて輪郭がホワホワしているところも好き(懺悔すると、筆者は別れ話を告げられた時の狩谷さんのどんどんと感情が抜けてゆく目と回らない呂律という可哀想がてんこ盛りのシーンにちょっぴり興奮してしまった。)
でもやっぱり一番好きなのは、二人の最後のページ顔だよ。狩谷さんの笑顔はキスで照れて赤面している可愛い鹿野くんに向けられて、鹿野くんは狩谷さんの真っ直ぐな笑顔でますます照れてしまう。無限機関はここに実在した。
本作の感想でホラーだとか鹿野が可哀想だとか漫画の(しかも絵だけの)表層しか理解していない意見が散見されたが、狩谷さんをメンヘラと呼ぶのは(一応)正しいけどヤンデレは間違いであって、本作のストーリーラインを理解していない発言である。狩谷+鹿野を指してヤンデレ・メンヘラに捕われた彼くんと考えるのを止めるのは、作者のミスリードに見事に引っかかっていると言えるだろう。主人公の狩谷は一見愛が重くて行き過ぎた愛情表現をする少女に見えるが、実際はかつて元カレの心ない言葉で酷く傷付けられ心に呪いを受けて苦しんでいる怪我人であり、本作はその彼女が鹿野の若く真っ直ぐな愛で呪いから解き放たれる物語である。
作中の時系列に従うと、狩谷の心境の変化は次のように説明できる。
元カレに傷付けられた心も癒えて、お互いの想い合う気持ちも伝えて、あとはもう二人が人生の終わりを迎えるまで何度も生きてきた中で最高のキスを更新していくだけだよ!!!!!! ラブあんどハッピー!!!!!!!!! お幸せに!!!!!!!!!!!!!
軽く流し読みしただけだと鹿野くんは病んでる狩谷さんを都合よく支える彼くんに見えるかもしれない。しかし、ちゃんと彼の発言を分析するとそうではないことが分かる。前述したレストランの一幕、ラブラブカップル専用ジュースを頼む奴らなんて頭がおかしいという近くの席から聞こえる陰口に、彼はそんなこと言う奴らの方がモテないしブサイクだとこちらも大概な偏見丸出しの発言をする。自分自身が陰口を打つ彼らと同じ側の人間であることを証明しているのである(「アッ(気付き)」とか漏れ出る情報から分かるように腐れオタクだしね…)。そして傷ついたからと独善的に狩谷さんに別れを切り出すところもそう。自分が彼女と付き合う自信が無くなったくせに「彼女が元カレを忘れられないから」と欺瞞を重ねて一方的に彼女に別れを告げるのは、頭でっかちで自分のことしか考えていない独りよがりな非モテの発想他ならない。
これらの事例から分かるように、鹿野くんも年相応に青くて不器用な少年なのである。これまで彼女が居たことがなく、作者曰く「中学生の頃は教室の隅でニヤつきながら、如何にリア充が害のある生き物であるかを友達と話し、そんな会話がなんだかんだ肌に馴染んでいた」少年だ。だからレストランの時に彼女に言った「恋愛していると皆バカになる」という発言は実体験を伴わない聞きかじっただけの知識を披露しただけだろうし、相手が狩谷さんではなければ上から目線ウザみたいに思われていたかもしれない。しかしその時彼の前に座っていたのが狩谷さんで、しかもその言葉は元カレに淡い恋愛観をへし折られ傷ついている狩谷さんにとって最も必要なものだった。彼がこの発言をしたのは自己肯定感が低いオタクだからというのもあるのだろうが、ただの偶然だとしても、その偶然の積み重ねが運命なのである。
そして彼の最も偉大な功績は、狩谷さんに対して真摯に向かい合い続けて、自分の素直な気持ち(楽しい、嬉しい、一緒にいたい)を伝え続けたことだ。元カレの心ない言葉に傷ついて自分の恋愛観が信じられなくなっていた狩谷さんにとって、真正面から彼女の気持ちを受け止めて感情を伝えてくれる彼の存在は特効薬だった。二度目の「恋している人はみんな馬鹿だ」は彼女とデートして浮かれてしまった自分の体験に根ざした、心からの気持ちだし、真剣に、本当に正面から彼女の気持ちを受け止めて打ち返したのは本当にすごいことだ。
まだ青いけどいい奴なんだよな鹿野くんは。狩谷さんを一方的に振った後も泣きながら一人で反省していたのだろうし、「俺は狩谷さんのことが好きだからです」以降は覚醒して包容力の化身と化しているし。正直告白以降の鹿野くんは光の彼くんと言ってもいいと思う。もう鹿野くんがいる限り狩谷さんは大丈夫だろうけど、へんにスカしたりせずに素直なままでいるんだぞ。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
なんか微妙に思うところがあって完全に他人事とは思えぬ30代女です
増田はそもそも「私は非モテ女」って意識を変えたほうがいいのかなと思った
話聞いた感じ、モテの文脈じゃなくても、例えば同性の友人とかとでも増田とお付き合いするの結構苦労してると思うな…(ごめん)
でも増田は今うまくいかないことの理由に対して雑に「非モテ女だから」ってレッテル貼りして、なんというかしかたがない不幸を嘆くだけで努力せず満足しちゃってる状況だと思う
ので、そのラベリング一旦剥がして本当の自分と向き合って、一個一個原因追求して、どうしたら人間として魅力的になれるか悩んで努力したほうが最終的にモテやすくなるんじゃないかな
せっかく今の友達もいるんだし、増田の良いところ気になるところを腹割って教えてもらうといいと思う
言及もブコメも多くて、中にはただの暴言だったり無関係に盛り上がったりしてるものも多いけど、増田が拾い上げたコメントはちゃんと増田のことを思ってのものが多い印象を受けた
細かい内容はともかく、発言者の意識をきちんと汲み取れる素敵な能力だと思う
まあ頑張ってよ!
第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。
マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。
数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。
これらの人物に共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論や公式の発見者かどうかということに過ぎない。
特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代の人物は数学者でも知名度が高い人がいることになる。
ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。
高度な現代数学でも岡潔や望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。
岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分のコネを使って論文を掲載させたこと。
そういう生き様のセンセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。
ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすいラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要と価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。
ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者の土俵はもっぱら実験や実証のなかにあると思う。
実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。
もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。
一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。
理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文が理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである。
理論の構造自体も目に見えるようなわかりやすい因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから、知識の欠落がなかったとしてもその理解は純粋に難しい。
しかし高度な論文の作成はその先にあるのだからこの数学の研究というものは果てのない作業なのである。
望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである。
そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。
ようするに現代数学者は天才である。あの手の分野の数学者は受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっとも現代数学者の絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合の問題なのであろうけど。
そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。
私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。
だから劣等感の元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。
彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか。
あるいはこういうことなのかもしれない。既存の知識を理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。
つまり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。
現代数学者にチョムスキーの生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単に理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれて言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論を創造できたのだろうか。漢字の世界で白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史の巨人になれただろうか。
理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論の創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるものは量化などもちろんできない、一種の特殊能力なのではなかろうか。
数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。
コペルニクスだったかは海上の水平線で帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史上最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまりは理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかいう論説委員の本に書いてあったと思う。
本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人が発見した事実をベースに論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。
ただしコペルニクスやデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときのインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。
しかしできないのだとしてもそれは役割の問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀のイギリスでは優秀な人間は天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。
学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感のセンスで決まると認識があった証左なのだろうか。
そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。
そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者が一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。
まあそれでも既存の知識を理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論を提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものがあるかな、ノー勉で東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。
dorawiiより