はてなキーワード: 道筋とは
こうして俺たちは、この言い知れない謎を解明するため捜査に乗り出した。
ツクヒを轢いた犯人はどこの誰なのか。
いや、本当に車に轢かれて怪我をしたのか。
そうじゃなかったとして、なぜあそこで轢かれたことになったのか。
そして、何かを隠していたとして、その理由とは何か。
あそこに信号機をつけることが目的なのか、それとも他に隠された意図があるのか。
俺たちから湧き出てくる疑惑の数々は、実際のところ確かなものなんて一つもない。
今回の件に納得しきれないという想いが、取るに足らないことを強い違和感にさせているだけなのかも。
現実でそんなことをアテにする刑事がいたら汚職もいいとこだろう。
だけど俺たちは警察じゃない。
だから出てくる答えが何であるにしろ、知るための労を惜しむわけにはいかない。
それに俺たちから言わせれば、気になったことを気になったままにして、悪意と一緒に放っておく方が良くないと思うね。
好き勝手に邪推した以上、それを明らかにする使命が冒険家にはあるのさ。
まず俺たちは周りの住人から聞き込みを始めた。
「なるほど。曲がる途中で減速していたから、ぶつかっても軽傷で済んだってことか……」
「辻褄は合うね」
直接ツクヒに聞けばいいって思うだろうけど、こういうのは第三者から情報を集めてからじゃないとダメなんだ。
何か隠していたとしても、今のままじゃ白状してくれないだろう。
下手に詰め寄ったせいで警戒されてしまい、口がより堅くなってしまう可能性もある。
だから決定的な証拠が必要だけど、そんなものがあれば既に揉み消されているだろう。
一通り揃ったら、それらを憶測に基づいて組み立てていくんだ。
そうして真実への道筋を作り、最終的にはツクヒが白状するよう誘導するってわけ。
まあ、憶測ありきの状況証拠で追及するだなんて、芸人をスパイに仕立てる位に無茶な方法だとは思う。
「あなたが現場を見に行ったときには、ツクヒを轢いた車は既にいなくなっていた、と……」
こうして地道に聞き込みを続けていったんだけど、予想以上に捜査は難航した。
事故が起きた瞬間は誰も見ておらず、駆けつけた時には怪我をしたツクヒと、それを心配する親がいただけ。
みんな大体同じことしか言わない。
それだけ確かな情報ってことなんだろうけれど、これだけじゃあ真実には程遠い。
もう近隣の住人には一通り聞いてしまったが、このザマ。
「ん、ちょっと待って……」
「近隣の人たちが現場を見に行ったときの状況は、事故に遭ったツクヒと、それを心配するご両親……」
「ああ、そうらしいな」
「ツクヒの親御さんは、近所の人たちよりも早く現場に居合わせたわけだ」
「……あ、そうか!」
ミミセンに説明されて、俺たちもやっと気がついた。
「好ましくない表現へのアクセス」に対してどの程度の道筋が用意されるべきかという想定に差があるんじゃないか。
たとえば、いわゆる18禁コーナーというものが (たとえばレンタルショップの) 店舗の中で目につくところにあることさえやめろという言い分が存在するが、これについてはどう思う?
能動的に探せば手に入れられるような情報だとしても、そもそも存在を知る機会がなければ行動を起こせない。
「タグ付けを強化しろ」というゾーニングなら別に良いんじゃないですかねと思うのだが、表現規制派の言うゾーニングは「存在しないかのように見えないようにしろ」だったりするのでそこらへんの区別も必要だろう。
「動物心理学」は動物の学習、知覚、認知、生理機構といった諸形質の放散と収斂の原理と過程の解明を目指す心理学の一領域である。
心理学全体の中ではマイナーではあるが、国内の研究者の集まりである「動物心理学会」は、実は数少ない戦前から続く (1933年発足) 学会であったりもする (ただし、悲しいことに、動物心理学が学べる大学は減り続けている)。
だが、動物心理学を学びたいと思った学生が、何から手を取ればいいのか、あまり紹介の記事が世に出回ってない気がした。そこで、独断と偏見で、オススメの書籍を挙げてみた。番号はオススメ順とかではなく、特に意味はない。気になったものを読めば良いと思う。
(1) 動物たちは何を考えている? -動物心理学の挑戦- (技術評論社)
日本の動物心理学の主だった研究者たちが、動物心理学の代表的な研究について平易に語った本
(2) パピーニの比較心理学―行動の進化と発達 (北大路書房)
マウリシオ・R. パピーニ (著)
日本語で鈍器のような大きさでまとまっているのはこれくらいか?
(3) 鳥能力―小さな頭に秘められた驚異の能力 (化学同人)
渡辺 茂 (著)
筆致が軽やかで、ベッドの上で寝転がりながら読んでも十分に理解できる。書名通り鳥限定であるが、名著である。
(4) ハトがわかればヒトもわかる―比較認知科学への招待― (共立出版)
渡辺 茂 (著),
動物行動学の創始者のローレンツがいかに動物と向き合い、その行動を観察していたのかを記したエッセイ
ローレンツの論文は難解で読みづらいことで有名だが、一般向けの著書は対照的に驚くほどとっつきやすい
(6) タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源 (みすず書房)
哲学者である著者がダイビングでタコ・イカと接することを通じて彼らの生き方
タコとて侮るなかれ。動物心理学を志す者が覚えていてほしい動物との向き合い方がぎっしり詰まった一冊である。
(7) 動物心理学史―ダーウィンから行動主義まで (誠信書房)
R. ボークス (著)
動物心理学が、いかなる過程で独立した分野として成立したのかを述べた本
ダーウィン (著)
言わずと知れた、ダーウィンの古典である。いつ読んでも何かしら発見があるもので、それが古典が古典である所以なのだ。
余談だが、動物行動学の論文でダーウィンが扱った問題を再び取り上げるときは “Charles Darwin once said…” という殺し文句で始めることがある。
「脳」の起源と、その発生、さらには脊椎動物の脳のデザインがいかに生じたのかを、ホヤから霊長類研究者まで多彩な研究者が論じた本
図や動画が手に入るURLのQRコードがついてくる嬉しいおまけつき
(10) 感覚器の進化―原始動物からヒトへ水中から陸上 (ブルーバックス新書)
岩堀 修明 (著)
眼はいかにして出来上がったのか?感覚器 (視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚) が現生の形になった進化の道筋を解説した本
ユクスキュル (著), クリサート (著)
比較生理学の祖、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが豊かな想像力で動物の生理学的機序からその「環世界」について語った本
名著中の名著である
ヤーコプ・V・ユクスキュル
同著者が、生物の生きる、その固有な世界像について、当時の解剖学的知見と合わせてより詳しく解説した本
(13) あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源 (早川書房)
フランス・ドゥ・ヴァール (著)
ドゥ・ヴァールはかなり擬人主義的な研究者で、研究者によって評価が真っ二つに分かれる。動物心理学も一枚岩ではない。氏の著作に同意するかどうかは、自分をどのような立脚点に置きたいのかをはっきりさせる意味でも一度は目を通すと良いだろう。
スティーヴン ミズン (著)
人間の心はいかに生まれたか?スティーヴン・ミズンは「元は個別の用途に進化させた認知機能が、文脈を問わず適用できるようになった」認知的流動性により、高度に柔軟な我々の心が生じたと考える
内容は既にやや古いが、独創的な論考の面白さは色褪せない
佐藤 方哉 (著)
行動主義心理学のエッセンスが詰まった本。絶版なので図書館で探そう。
「行動主義」的なものの見方は、認知研究では棄却すべき対立仮説として扱われることが多い。しかし、実際にはその対立仮説は多くの場合単なる誤解であり、藁人形を叩いているに過ぎない。
箱田 裕司 , 都築 誉史 他
比較認知科学は、動物心理学の中でも、動物の認知機能を種間で比較し、その種差や共通性を描出する分野である。比較認知科学の実験では概念や手続きが認知心理学のものを援用することが多い
従って、認知心理学についてよく知るのが重要なのは至極当然なのだ
池内 昌彦 (監修, 翻訳), 伊藤 元己 (監修, 翻訳), 箸本 春樹 (監修, 翻訳), 道上 達男 (監修, 翻訳)
今日、科学の分野間の壁はますます小さくなり、生物学と動物心理学をことさらに区別する必要性も薄くなりつつある。
とはいえ、原書版は鈍器のように重たいので、エッセンシャル版の方が挫折しないと思われる。
泰羅 雅登 (監修, 翻訳), 中村 克樹 (監修, 翻訳)
同様の理由で、自身が神経科学を取り入れるか別に、神経科学についてもどこかで通っておいた方が良いかと思われる。
そもそも、「動物心理学に固有」な方法論というのは現代にはなく、近隣領域と連続的なつながりを持って成立しているのだ。
心理学の成り立ちに関して、コンパクトかつしっかりまとまった本
歴史を学ぶと、どこかで役に立つ。物理学者エルヴィン・シュレディンガーの言葉を引いておこう。
歴史は, あらゆる学問の中で最も基本的なものである。なぜなら、人間の持つ知識には、その成立条件や解決してきた問題や, 果たすべき機能が忘れ去られた場合, その学問的意義を失わないものは存在しないからである。
横澤 一彦 (著)
視覚に興味があるなら、読んでおいて損はない。
(21) メイザー学習と行動 (二瓶社)
ジェームズ・E. メイザー (著), James E. Mazur (原著), 磯 博行 (翻訳), 坂上 貴之 (翻訳), 川合 伸幸 (翻訳)
学習完全に理解したマンになりたい人が必ず読む本。学習完全に理解したマンになりたいなら読もう。
次に読む本としては『オペラント心理学入門―行動分析への道』も良い本である。
(22) 古典的条件づけの理論―パヴロフから連合学習研究の最先端まで
入門レベルでは「犬とベルと唾液」くらいにしか教わらない古典的条件づけが、いかに奥深く、理論的な探求に富んだ領域なのかが概観できる。例えるなら魔術書である。
(23) 感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ (ダイヤモンド社)
これも動物の研究者の本ではないが、ダマシオは身体性を重視する立場の認知神経科学の方向を作った一人だ。
ダマシオは多作で、『デカルトの誤り』『自己が心にやってくる』など、他の著書も面白い。
リチャード・ドーキンス (著)
進化学流布の急先鋒、ドーキンスの一般向け書籍。同氏がスリリングな筆致で進化について語る。
『利己的な遺伝子』の方が有名だが、オシャレさでは『盲目の時計職人』の方が上だ。
V・S・ラマチャンドラン (著), サンドラ・ブレイクスリー (著)
これの動物の研究者ではなく、ヒトの神経科学者の本であるが、大変面白い逸話がたくさん載っているので挙げた。
続編に『脳の中の幽霊再び』『脳の中の天使』も出ていて、どれも楽しく読める
鳥にも我々と同じように目・耳が二つ、舌が一つ、皮膚には触覚受容器が備わっている。しかし、世界の見え方はまるで違うことがわかっている。彼らの感覚世界について、鳥類学者が一般向けに語った本
鳥の代表的な認知研究について、各項目2p程度でまとまった入門書。どんな研究が、どのような方法で行われているのか、ざっと知るにはぴったりである。
ちょっと邦題が間抜けな感じがするが、原題は "Bird Brain: An Exploration of Avian Intelligence” である。
生物という視点から「心」がどのように形成されたのかを解説した本
まとめ方が独特だが、面白いことには間違いない
岡ノ谷 一夫 (著)
動物のコミュニケーションはヒトの「人間らしさ」について何を語るか?
元が高校生向けの連続講義であったらしく、大学生なら誰でも読める。
おまけ
リチャード P. ファインマン
安心してちょうだい元増田ちゃん。あなたは死ななくていいわ。誤解なのよ。
あなたがどういう道筋でその“正しいヴィーガン”にたどり着いたのかはわからないけれど、私の知る範囲で(倫理的)ヴィーガンの主張のなかにその結論を肯定するものは無いわ。早まらないで。
功利主義に基づく倫理的ヴィーガンの観点から、あなたの誤解についてお答えするわ。
功利主義的には「苦痛の総量を減らす、または苦痛と快楽の収支がプラス(快楽が苦痛を上回る)になる」のが倫理的に良いことなのね。最大多数の最大幸福。
細かく言えば「苦痛と快楽」とは別の指標を用いた功利主義もあるけれど、動物倫理の場合はもっぱらこれ。
したがって、畜産において“飼育、屠殺による動物の苦痛”が、人類の得る利益(快楽または苦痛の低減)を上回る場合、“畜肉を食すべきではない”と判断できるわ。
逆に、動物の苦痛が人類の利益に比して十分に小さい場合、それは倫理的に許容されうるわ。
同上
ただし、たまごや乳製品はそれ自身が苦痛を感じる能力を持たないため、畜肉と比べると倫理的ハードルは低いわ。
例えばジャイナ教は非暴力が重要な教義の一つなので必然的に菜食主義だけれど、苦痛を与えずに絞った乳は飲むわ(ラクト・ベジタリアン)。
同上
衣料品の場合、動物を苦しめずに済む代替品が豊富にあるならば、あえて動物性の衣服を着るのは倫理的に肯定しがたいわね。
医薬品の場合、主に動物実験に関する問題ね。この領域は動物倫理的にかなりホットよ。
功利主義的な動物倫理においては、動物実験は必ずしも否定されないのよね。まあ論者にもよるけど。
動物実験における動物の苦痛と、完成した医薬品による人間の苦痛の低減。これの比較で後者が十分に大きければ正当化され得るってわけ。
もたらされる苦痛や死が“意思に反して”いるかどうかは、功利主義的には必ずしも重要ではないわ。
“意思に反”することで、苦痛がより増えるのであれば考慮に値するといった程度かしら。
例えば、糧を得る唯一の方法が狩猟であり、それをしなければ(人が)死んでしまう場合、狩猟による動物の殺害は倫理的に正当化され得るわ。
植物は(少なくとも痛みが神経系によって発生するという生物学的知見を踏まえれば)苦痛を感じないため、功利主義的には道徳的考慮の対象ではないのよ。
ちなみに、倫理的な考慮の対象となる立場を「道徳的地位(Moral standing)」と言うわ。
「何が道徳的地位を持つのか」というテーマは分野や論者によって異なっているわ。功利主義の場合、「苦痛を感じる能力を持つ」ことが道徳的地位を持つ条件ね。
厳密に言えば動物でも苦痛を感じない、例えば海綿動物(きわめて原始的な動物群。神経を持たない)、も功利主義的には道徳的地位を持たないと言えるのね。
また、道徳的地位は持つ/持たないの2択ではなく、強弱も存在しているわ。功利主義なら苦痛を感じる能力の程度ね。
例えばエビ1匹を殺すより、ヒト1人を殺した方が倫理的に悪いと判断できるわけ。
これは個々の人間にも適用でき、健常な成人を殺すより新生児や重度の知的障碍者を殺す方が倫理的に悪くない(もちろん両方悪いが、比較すればそうなる)。
功利主義者がリベラリスト(の一部)、特に障碍者支援者などから嫌われるのことが多いはこれが理由ね。
同上
命を奪うかどうかにこだわってるようだけれど、功利主義的に重要なのは苦痛よ。死は苦痛の一形態たり得る資格を持つというだけ。
自然破壊につながる水道水やミネラルウォーターを飲むべきではない わかる
んー?ここら辺は倫理的ヴィーガンよりも環境主義的ヴィーガンの主張に似てるかしら。
でも環境主義的ヴィーガンの場合、畜産や養殖(の一部)による環境負荷を語ることが多いから、ヴィーガンの主張としてはあまり見ないわねこれ。
水資源の利用による環境破壊はあるにせよ、この書き方だと曖昧過ぎるのよねえ。元増田ちゃんもうちょっと具体的にお願い。
なお、功利主義的に答えるなら、その営為で発生する苦痛が人間の快楽(または苦痛の低減)を上回らない限りOKってことになるわ。
地球温暖化に寄与している二酸化炭素は化石燃料などの地下資源由来で、地上で吸って吐いてした分はほぼ無関係よ。
陸上の炭素循環は(長期的に見れば)収支が釣り合っていたのだけれど、地下に封印されていた(炭素循環の外側にいた)分の炭素が放出されたことで、プラスに傾いちゃったわけ。
家計で言うなら年収200万円(手取り)で年間支出が200万のご家庭に、月々1万円の副収入が加わって年12万円の余裕ができましたって話よ。呼吸は年収に含まれ、支出は炭素固定(主として光合成による)で、化石燃料が副収入。
ちなみに、畜産による温室効果ガス放出(主としてメタン)への寄与はけっこうな割合(確かCO2換算で全体の約14~18%くらい)。あなたが牛ならゲップをやめるのは倫理的かもしれない。
全部わかる
あら?もしかして徳倫理学の方だった?功利主義は結果主義の一分野なので“気持ち”なんてほとんど関係ないもの。
徳倫理主義は、雑に言うと「動機が善ならば善」というもので、良かれと思ってやれば善であるっていう素朴な倫理なのよね。
最近は見直しが進んでるって話だけど、あまり勉強してないから詳しくないのよ。この分野。
呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る者は悪魔だ
みんな死のう
死なない者は悪魔だ
功利主義からはまず導かれない結論なので、やっぱり徳倫理主義なのかしら。
でも、良かれと思って“呼吸し、水を飲み、命ある動植物を自然から奪い、貪る”なら、徳倫理主義的には善なのよね。
ここまでは功利主義の観点から答えてきたけれど、やっぱり本人の倫理的観点も考慮しなきゃ片手落ちよね。
でも困った。元増田ちゃんがどんな倫理的基盤でヴィーガンになったのか、わからないわ。
最初の方の考えは倫理的ヴィーガンに対するよくある誤解またはジャイナ教当たりの非暴力主義とPlant thoを混ぜこぜにした感じ。中盤は環境主義っぽいけど問題視する部分がズレてるし不明瞭、後半はさっきも言ったけど徳倫理学っぽいけどなんか違う。
うーん、ネットからいろんな主張(誤解や曲解を含む)を集めてきてパッチワークした感じなのかしら。
ヴィーガンへのバッシング目的で書かれたなら「藁人形乙」で済むけれど、真剣に悩んでいるなら誠意ある回答が必要よねえ。
けっきょく“正しいヴィーガン”が何なのかはわからなかったけど、変な結論から脱却するための私的おすすめ方法を3つほど挙げてみたわ。
良ければ死ぬ前に試してみてちょうだい。チャオ!
辛いならヴィーガンなんてやめちゃっていいと思うの。割に合わないわ。もし心苦しいなら減肉食主義(Reducetarian)くらいから始めてみたら?
私も環境主義的観点(スパイスとして功利主義も一振り)からSemi-vegetarianやってるけど、あまり縛り無いから楽よ?
ヴィーガンからは偽善だなんだ言われるかもしれないけど、まあいいじゃない。自分が納得すればいいのよ。
(2) 勉強する
ヴィーガンやるなとは言わないけれど、何かしらの倫理的または論理的支柱がないと厳しいと思うの。
元増田ちゃんの考えを見るに、あまり一貫した基盤を持っていなさそうだし、環境問題についても詳しくなさそう。体系立てて学ばないと混乱して変な結論にたどり着いちゃうものよ。
いろんな視点、論者ごとに調べてみて、自分に合う立場のものを探してみるといいわ。まずは模倣からよ。
おすすめはピーター・シンガー。「すごいなあ。ぼくにはとてもできない」ってなるわ。
(3) 食生活的ヴィーガン(Dietary vegan)になっちゃう
食事だけヴィーガン。健康目的が多い。一番気楽なタイプのヴィーガン。動物倫理とかうっちゃってる(またはつまみ食い)。毛皮のコートも着ちゃうかも。時たまニセ科学に両足突っ込んでるから注意。
やめたいときにやめられるし、始めたいときに始められる。亜種として一時的ヴィーガン(Part-time vegan)なんかもあるわ。
「ちょっと一週間くらいヴィーガンになるかー」とかできちゃう。「それヴィーガンなの?」という気持ちに蓋ができるならおすすめ。
今話題になっている
https://www.facebook.com/kitano.hiroaki.7/posts/2406933752704235
ただしこの議論の方法の問題点は、何もしないことの正当化に使われる事。大体、何かをしようとすると、「その前にやるべきこと」はたくさん見つかる。だからそれをやってからとすると、それを片付けているうちに、世の中は変わっていってします。それを続けたのが平成の30年だろう。
その危険性を感じるので、私はこの意見は正論ではあるが、それゆえに危険だとも言える。平成の間違いは繰り返したくない。多少乱暴でも進むべし。
言いたいことは分かるけど,
・やろうと思っても出来ないこと
が多すぎるから皆から顰蹙を買っているのではないだろうか・・・
個人的には,
「いまから教育をいじるといったって泥棒を捕らえて縄を綯うような話である。どんなに政府がイキったところで、教えられる教員が急に増える訳でもなく、中途半端な理解の教員がにわか勉強のデータサイエンス教育を学生に披瀝したところで、データサイエンス嫌いを量産することになりかねない。」
教員の問題は、指摘の通りで、頭が痛い。どうやって質の高い教員を増やすか??この政策の最大のボトルネックがこの部分だ。しかし、積み上げたのでは、またく話にならない数字しか出てこない。やれることを淡々とやったのでは多分ダメなのだと思う。
正確にいうと「売れない」のでなく、
「売れるタイミングを逃した」のだと思う。
だけど私は事務所を辞めてフリーになった彼らに出会って好きになってしまった。
彼らとライブ後、会話してプレゼントまで持って行く客はさほど多くない。
私は友だちと一緒に半年ほどで顔を覚えてもらった。
私も彼女もいい大人で自由になるお金があるので彼らの拠点となる地方や東京へライブの度に飛んでいく。
そして「どうしたら彼らが売れるのか」についてずっと考えて話し合っている。
ついには「BL売り」をすることや「炎上商法」まで話が及んだ。
彼らが好きな音楽を好きなだけできるようにお金が稼げればいいのだが、
そのためにライブにお客さんを集め、CDを自費で出し、さらにお客さんを集め…
とりあえず私のお金をできるだけ落とすここと
周りの友人に魅力をしってもらおうと足掻くことくらいしか
応援出来る術がない。
【追記】
※彼らに近づく為に応援をしているわけではありません。
ゲーム用のツイッターアカウントでフォローしてる高校生くらいの女の子が「コンドームしない男はクソ」みたいなリツイートをしてるの見て思ったんだけど、世の中男の子がコンドームを入手出来ない可能性って全然考慮されてないよね。
自分は中学生から女の子と付き合ってたけど、自分が未成年の間はコンドームをした事なかった。
他にも理由らしきものを並べると、母子家庭で男は自分1人だからその手の相談する相手いないし、コンドームどこでいくらくらいで買えるかも知らないし、薬局で買えることを知っても恥ずかしくて値段を調べに行けない。
ってか中学生の頃は月々の小遣い1500円でどうしろってんだって感じだったし、高校生になってバイトしたかったが素行不良で家からバイト禁止令出てたし、相手の女も妊娠怖がってる割にはゴム準備する事無いどころか積極的に行為求めてくるしでよくもまぁこの状況で妊娠しなかったなと思うわ。
自分が遅漏で写生出来ないから良かったんだろうなと思うけど、結局の所は運が良かっただけ。
はてなには年頃の子供持ってる人多いと思うけど、お前らコンドーム子供に渡した?
中学生になったら一先ず直接渡しておかないと、お前らがどう怒れるブコメマンみたいな理屈振りかざしてもガキは親の目盗んででもセックスする。場所と金がなければ青姦も平気でやるよ。
性教育は学校に丸投げ出来ても、コンドームは親が入手までの道筋立てないと出来ない奴はホントに手にする機会すらないもんだよ。
そこは難しいと思っている。
そういう戦前(というより、それぞれの想像の中の戦前)を懐かしみ肯定する空気があるのは確かで、
ことこの国では「空気」というのは多くの場合理性的な判断を圧倒してきているので、甘く見れないのも確かだ。
同時に「だからそういう事ができない空気にしよう」という方向にはしたくない。
それは結局、空気を御すのが上手い扇動家が幅を利かせるという事で、
俺は「変な空気にならないようにしよう」ではなく、「空気に流されずに常に理性によるギリギリの制御が効く国にしよう」という方向になって欲しいんだが、
これは本当に難しい。
統計は論文の査読したりするので、多分君より詳しいと思います。
いやー、そんなことないと思うよ。事実に反することを言っていたわけじゃないし、仮に君の指摘が全て正しいとしても大きな結論(日本の大学にいたる道筋では女性学生が差別されている)は変わらない。そもそも、あの祝辞は答えを与えるものではなく、問いを与えて考えさせるためのものだ。そのくらいはわかれよ。
性差別って知ってるか?
君は、引退まで社会学を東大で研究し一つの分野を作り上げた研究者の公式なスピーチで触れられた専門分野について、上から目線で皮肉を言っている。私だったら、たとえ増田でも、こんなことはできない。自分がよく知っている分野の重鎮に同じようなことを言っている部外者を想像すればよい。滑稽な奴だな、以外の感想はないと思う。
もしこれが男性の研究者で、分野がフェミニズムではなくてたとえば物理学とか中世史学だったら、君もそんなことはしようとは思わないのではないかと思う。そこにこそ、あの祝辞の意味がある。私は、東京大学での学びの門出にふさわしい、よくできた祝辞だと思う。
だから、モテるのは性的魅力に富んだ女性。若くて綺麗で、好み次第で貧乳だったりぽっちゃりだったり。
(好きな)女性に尽くすことが好きで
そりゃ尽すことでエッチさせてもらえるなら、いくらでも尽くしますよ。
エッチに謙虚でなかなかさせてもらえない女性を好きになるわけがない。
と思うのは勘違いも甚だしい。
もし男性の脳が本当に女性に尽くすようになっていたら、「釣った魚にエサをやらない」みたいなことは起きないでしょ。
男性にとって理想の女性は昼はメイドのように尽してくれて、夜は娼婦のように尽してくれる女性。
身も蓋もない言い方をすると、わがままな感じな子というのは、
その我が儘さえ叶えてあげれば、エッチできる。
聞く度???ってなるんだけど
しかも中高生とかならまだしも普通に仕事してる同じ年齢くらいの人が若い世代代表みたいにしてそういうの言ってて本当に凄い嫌なんだけど
もし自分に原因があって相手が怒ってる状態で理性的でいるより感情的になる事が問題解決の妨げであるとか問題解決を優先すべきだって言うのなら、原因である自分こそ理性的であるべきで相手が感情的になってようと関係ないし、というか相手の怒りはむしろ進んで思考材料とすべきだし、原因から筋道辿って自分に何かしら不備があったのなら自戒として改めたりそれを口にするなり何なりすればいいだけの話じゃん
そこでうるさく言われて嫌な気分になったら反省とか出来ないでしょ、ってなるのは自分こそ超感情優先で動いてるじゃんって思う
だって怒られてる内容/論理じゃなくてその声の大きさや怒られてるって事実自体が嫌なわけでしょ
理性では少なくとも何か自分が悪いって事は分かってんのに感情面でそれを否としてるって事なんだから超感情的じゃん理性とは真逆じゃん
自分がやった事への責任やその代償、自分が変わらない事での自分や周囲への影響より感情面優先させて意思決定すんのは普通に超感情的な人間だよ
しかも反省出来ない、って表現ってそういう自分の行動が原因になってこれから起き得る、今起こったのと同じような問題の影響の責任までその相手にあるってそういう言い方なんだよね
あんたがそうやってこっちの気分悪くさせて反省出来なくしたからまた同じ事起きるかもねってそういうの
相手の感情や相手が周囲へ配慮する、影響考えるその気持ち人質に取った一種の脅しだよね
そういうのをそこまで自己分析も言語化も何もしないまま自覚ないまま口にしてる
ていうかそもそも問題解決のための理性的な論理と問題によって影響が及んだ側の感情は対象が人間であるなら引き離すべきものじゃないし、引き離したって大方何の解決にもならないって散々言われてる事だし
実際相手の感情的な面を新たに問題の原因だと定義して自身への影響面で同じ事を繰り返さないようにだとか反省するために一定状態以上の気分の維持が必要なのにって主張してるわけでしょ
感情面の尊重を求めてる時点で問題解決の過程で感情的であるべきでない、って主張は矛盾するよね
その定義の仕方自体、元を辿れば自分が原因であるって部分を無視してて相手が感情的になるのは自身が原因だとしても嫌だけど自分が相手に感情的になるのは別にいいっていう超自己中心的で自分勝手な話だけど
たぶんそれが問題解決における近道だと思ってるから正答だと思ってて、だから矛盾も自分勝手さも関係無いって思ってるんだと思うけど
結局その近道って問題の発生から解決における道筋においての近道で、間にある自身が原因になった事での影響とそれを訴える側からの意見への受容って部分を勝手にすっ飛ばしてて、影響あった側が飛ばすのは分かるけど原因作った側がそれいらないよねホラ近道じゃんって言う傲慢さのやばさたるやって感じだよね
問題起こした人間が怒ってる相手に対して感情の出し方もその範囲も問題の解決方法もこっちで決める、こっちが機嫌損ねるような事言ったら反省なんてしないってそう言ってんだもんやっばいよ
原因に向けた怒りや悲しみの発露って言うなれば相手への訴え、手段としてのその責任への代償を求めるに至った事への倫理的説得性の補強行為なわけで、それがあったら反省できないとか言うの逆に笑っちゃう
感情的になる事が逆に説得力を欠く事になるって意見は分かるし、実際解決方法として用いる分の手段のはずの感情をぶつけるそれ自体目的になっちゃってる人もいて、そこの部分に辟易するのも理解できるんだけどでもそれはあくまで論理に対する説得性に関しての部分で、その原因が引き起こした感情に関して自体とそこへの責任を否定するものではないんだよね
正論だどうこう言ってる人はそこを同じ感情って部分で混同してると思う
教育の場だと感情に対する責任は教師相手のものからは問われない事が多いからその意識をそのまま社会出てまで当て嵌めちゃってるとかなのかな
学校なら授業料払って学ぶ権利を得ていて法的にもまだ人として未熟だとされてる以上、学校側もあるところでそれを職務としてそこで問題を解決する場合に原因となった人間への対応として説得性の部分や当人の理解や反省が優先される方法を取って行くべきって主張はある意味正解ではあるとは思うけど
それが特異な環境である事を理解しないままそういう関係感を社会に出てまで引き摺ってるのだとしたら勘違いも甚だしいなって思う
学校でも生徒間の問題は感情面の責任についてむしろ言及される傾向にあると思うけど基本的にそこで怒られる状況があるなら第三者である教師にって場合がほとんどだからそこを分けて別のものと認識してて自分が問題を起こして影響を及ぼした相手が当事者意識を持って感情面の責任も含ませ自分を責めるって状況自体理解できてないのかもしれない
実際どうかは知らないけど
普通に考えれば解ると思うんだよね
問題があってその原因が自分にあるならそこにはその責任と代償が伴うっていうのは当たり前だし
その原因に対する責任においての再発防止策のひとつが安易だけど自省するって事でしょ
自分がやった事で相手が怒っててその相関性が常識的ならそこで引き起こされた相手の感情面の問題にも少なからず責任は発生するっていうのも普通の事だし
その責任の代償として露にした感情を受ける事を相手側がこちらに求める権利は当然あるし責任に対して受け入れる義務もあるって主張も理解できるじゃん
その原因作ってそういう状況にしたのは自分で、そのせいで相手に発生した権利を認めないって意味わかんないし
別にその権利を行使された結果そこでうるせえわって思うのも大袈裟なんだよって思うのも自由だけど少なくとも感情を出す事を相手が代償としたんならその選択の自由を原因作った側が制限する、制限出来る権利があるって思ってるのはほんと頭おかしいなって思う
説得力を欠くって問題がもしあったとして、それは問題を追求する過程でのやり方の話で問題の影響に対する責任への代償とは別の話なわけだし
そもそも問題の原因とされる事が不服でありその説得性という面で納得が出来ないので責任も無く代償も必要ないって言うなら解るけど、反省すべき事だと自覚がある上で問題解決の方法が気にいらないから責任は取らない、それは責任に対して代償を求められたからって意味わかんないんだよね
その状況で相手が感情的になってる理由を理解せずそれ自体を非難するのって責任の放棄、もしくは責任を認めない、理解してないって表明だし、それじゃ反省する気なんて起きないっていうのは同じく責任を認めない、理解してない、その上それ自体の責任まで相手に押し付けるものって話なわけでしょ
自分が何言ってるかも解ってないのかなって思う
感情的になる事自体に否定的だ自分の感情なんだから原因が別にあっても自分でコントロールすべきってスタンスならそれはそれで理解も出来るけど、でもそれならやっぱり相手が怒ってる事で自分が気分悪くなった責任も自分で追わなきゃ矛盾するじゃん
ていうか問題解決の折に感情的な面を材料として捉えないのは逆に理性的にと言いつつ感情的に主観的に忌む対象を排除しているというだけで全然理性的でも何でもないんだからそういうのは中学高校生ぐらいまでにしといて欲しいって思う
そういう事言う人ってたぶん凄い主観的で共感性低めだから分かんない部分があるのかもしれないけど立場変えて一度どういうもんか想像してみればいいのになって思う
クッソ嫌いな奴のやった事のせいで自分や大好きな人や大好きなキャラが怒ったり泣いたりしててその原因作った本人が何でそんな感情的になんの?声でかいし気分悪いし反省する気もなくなるわって言ってる姿思い浮かべてもその通りだなって思うのかな
映画とかでそんな場面あったら普通にヘイト集めるためのシーンだなって感じだけど
その人が言う通り反省して貰うために気分を損ねちゃいけないから怒るとか泣いて責めるなんてそういう自分達の気持ちは二の次にして気を使ってあげないとって思うの?
泣いてる子に対してこの人の気分を害したお前のせいになるよって?
だったらそれは逆にもういっそ凄いねって思う
自分がやらかした場合の相手が感情的になる選択の権利を勝手にどうこうする根拠には全くならないけど
結局自分が原因にも関わらず相手の感情的な訴えより自分の気分を優先するっていうのはただ自分が相手の事なんて、相手が自分の行動でどうショックを受けたか、傷付いたかなんてどうでもいいってだけで、諭してくれないと、なんてそもそも何かやらかしたのは分かるけど何が問題か理解してない、どう思ったかは言っていいけど感情的に表現するのはやめてくれ、でも自分は嫌だと思って気分悪くしたら態度に表れるし反省できないよ、なぜなら感情的に表現するからってそういう話でしかないと思う
やっぱりただ自己中なだけだよ
自己中なのは自由だし自分の人生だし自分の人間関係だからどうでもいいと思うならそれでいいけど
怒る声苦手だしそういう性格だから悪いの分かってても怒られると良い方には行かないんだよって言うならそういう人もいるからって思うし否定しないけど(それでも責任に対する代償は負えよって思うけど)、その良い方に行かない原因が自分の性格じゃなく相手の人間性にあるって思うのはやばいしその歳でそこを理解できてないのもやばいなって思う
自分が言ってる事もやってる事も普通な事でむしろおかしいのは相手だって思ってる感じが
解ってないのは仕方ないけど解ってない事ぐらい自覚しなよって思う
自分で自分が何でそう思うか解ってないのに相手が問題あるって根拠なく疑いないのってすごい人としてやばいじゃん
相手によって、立場によって変わるような自分の偏った極々感情的な問題を正論だ理性的だみたいに思い込むのはやめた方がいいと思う
ていうかそれをその年代の常識みたいな顔して言うのをやめて欲しい
全然理性とは真逆の反応だし超主観的で自分勝手で傲慢で正論でもないし矛盾しまくってて馬鹿みたいだから
ほんとに
それより何より、ブコメの論調の厳しさにうんざりとしている。服装に関して、別にジャージだの平生の着の身着のままでお見合いに行こうって誰も考えてないと思うんだよ。
就活だったらさパンツスーツもありじゃない? 近年、ことさらにスカートで行くことを求める方が頭おかしいんじゃない? って感じじゃないすか。
でも元記事のブロガーさんは「パンツルックはやめろ、スカートを履け」「紺だカーキだのオシャレな色使いは求めてない。ダサピンク上等」くらいのことは別記事で言ってるんだよね(多少意訳はあるが)。
決して「小綺麗であればそれでいい」とは言っていない。
であるとしたら
友人と会う時だって、家でごろごろしている素の自分よりは格好も態度も整えて行くけど、友人をだまし討ちしているとは思わないだろう。
場に合った服装や振る舞いをしましょうというプロトコルの問題で、中身を偽れとは誰も言ってないんだよ。そんな認識だから結婚したいとも思えないんだろうけど。
なんていうブコメはまるで見当違いもいいところだと思う。「そんな認識だから」ってなんだ。
いや、ほんとに、消耗する人は消耗するんだよ。スカートを履いて、可愛らしく、“女の子”らしく……そういう服装をすることがさ。(わたしはコスプレ感覚で結構楽しめてしまうんだけど)
それは瑣末な問題で、けれど象徴的な問題でもあるんじゃないか。すり減らすものをすり減らさなければたどり着けないもの、それが「結婚」なら、と絶望してしまう人をこき下ろしていいとは決して思えない。
寝る前に確認してみたら、なんかはてブトップで扱われててブルってる(しかもなぜか「仕事・就職特集」)。
10bkmそこそこで胃に来てしまう、隠キャ系アカウントがこちらでございます。
・元記事のブロガーさんを間違っているとは思わない。相手はプロなんだし見てきてる数が違うから、それが真理なのだろうなあ、とは思ってる。大元の女子会増田に対しては「綺麗事言ってて腹が膨れるのか」とも思う。その門をくぐろうと言うならばそれなりの覚悟が必要だろう、というマッチョイズムはわたしの中にもある(映像の世界で10年も生きてるとそうなる)。
ただ、この記事の元増田の人がブクマであまりにも叩かれてて不憫に思った(穏当な文調だしそこまで叩かれるような内容ではないだろうと思った)のと、そういう風に思ったことを忘れないようにしておこうと書いた、だけのつもり、が…。
元増田についたブクマの目立つものが服装に関することだったので、「(元増田は)別にジャージだの小汚い格好も“ありのままとして受け止めて”って書いてるわけじゃねえのになあ,、なんでそこに固執するんだろう」と思い、そこばっかりを軸として(主に批判的なことを)書いているけれど、自分(増田)自身について言えば服装は本当に瑣末な問題だと思ってる。ただ、それを瑣末な問題だと笑って流せない人間もいるぜ、ということにも触れてはおこうと思った。そして一事が万事、というのか「結婚」というコアから最も遠いところにあるこの(元増田が問題にした)「服装」だったり(女子会増田が問題にした)「女子会を断つ」という、人からすれば「どーでもいい与太話」が「婚活」というアクティビティ全体のありようを象徴しているような気がした(ここに、非当事者のわたしの偏見が大いに混ざっていることは否定しない)。
【再追記(3/7 02:50)】
『それが「結婚」なら、と絶望してしまう人をこき下ろしていいとは決して思えない。』の「こき下ろす」主体が曖昧だからああだこうだ言われるのかなと思い付け加えると、
この主体は「某仲人さん」のことではありませんよ。(事実、女子会増田のことをこき下ろすでもなく、こんな記事を書いている。http://urx2.nu/pGVS)
だから、あのブログは結婚相談所の仲人さんが仕事で書いてるんだってば。あの人は結婚という目標を持ってくる人の目標を達成させるプロなの。人生一般の話とか結婚願望ない人の幸せの話とかしてないの。わかる?
元増田に付いたブコメ。こんなん、控えめに言っても「こき下ろす」としか表現できないのでは?
「婚活」って、それを商材として働いている人、そのサービスを利用する人、だけが当事者ではないと思うんだよ。「結婚」っていう目的それ自体は、どんな道をたどるかは人それぞれにして、誰にも関わる可能性がある(増田自身は結婚願望云々の以前に諸事情あり難しいので「非当事者」だと思っているが)。人生一般と「結婚」って、どこからどこまでがどう、ってそこまで明確にゾーニングはできないよ。だから、元増田のように「疑問なんだけど〜」くらいのノリで「婚活」「結婚」を話題にするのも全然、アリだと思うんだ。むしろもっとやれ。
それを一方的に萎縮させかねないようなブコメを問題にしている。
【再追記(3/7 07:00)】
kuzudokuzu んー追記を重ねる人は、やっぱり個人的にちょっと自尊心が大きいようだなと感じてしまう。
確かに尊大なポンコツだとは自分でも思う。ご指摘は当たっていると思います。
けれど、それ以上に「不明瞭な思考・感情を言葉にしたい」という欲望が強すぎて、あとから湧いてくる言葉を継ぎ足し継ぎ足し何度も調整を繰り返してしまうのだと思う。
そんなご指摘もあり、これ以上は書くまい、と思っていたけれど、
最後に個人的にお礼を申し述べたいブコメがあったので、それだけは書いておきたく公共のリソースをさらに浪費する。
(あとで個人のブログに書くとしてそこは超どマイナーブログだから、やはりこの場で書いておきたいのだと)
naqtn 言葉数多く「~ではない。でしょ?」と否定と同意の求めは言うが、自分の主張「~である」とその論理の提示「~ならば~なので」がクリアーにされていないがゆえに不本意な応答を受け、結果無益に対話が崩壊してる
おっしゃる通りです。自分自身、今朝方読み返して「0点だな」と思った。自分の主張が文頭に来てないから、何が争点なのか全く理解できない破綻を起こしているのだと思う。
◯「この記事の元増田」(http://urx2.nu/0aYS)に対しての賛同を述べたかったということ(ブクマでやっても良かったけど、100字にまとまりそうになかった)と
□それに対するブコメ(主に人気の方に表示されるものだけど)に対して「いやいや、それは当たってないし、そもなんで(元増田が)そんな攻撃されなければならないのか」というブーイングを送りたかった
ということにある。
なので元記事のブロガーさんに敵意があるわけではないし、その主張に関しては概ね賛同する。これは、自分自身のプロ観とほぼ一致するからだ。顧客のニーズに対し全力でそれを叶えようとする姿は控えめに言っても誠実さがある。
そう思っている片方で、割り切れない思いもある。これは社会生活一般における極私的な自分の心情。
それで、この文章で試みたことは「そう。正しい--とはいえ…ね」という自分の心情の中にある「…ね」という非常にもやもやしたところを「言葉」という舞台に引きずり出すことだったのだけど、それは完全に悪手だったと反省している。
まずそれは、自分の個人的好奇心、探究心をベースにしたことで、主張「◯」とも「□」とも関連しない。その道筋も荒くて丁寧ではない。だから論として非常に不明瞭なものになり、全体の破綻を招いた。盛り込むべきではなかった。
果たして、当初の目的を叶えることはできたのだろうか。それだけが気がかり。
私は結婚願望はない(これは自分がマイノリティ寄りの人間であることや、自分の両親を見て感じたことに起因するので)けれど、だからこそ結婚したい人というか一般の考えとか感覚を知りたかったというか疑問に思っただけです。読みなおしたら口悪すぎるな。気を悪くさせてしまったらごめんなさい。そもそも結婚願望わからない人間が首を突っ込むもんじゃなかったね。思いかえせば就活のときも適合するのに苦労しまくったから社会生活に向いてない。
などと気を揉む必要はない。好きなこと言って、好きなように生きようぜ。と伝えたいだけだった。
バイトテロ雑感 - ←ズイショ→
http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2019/02/15/203839
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190217/1550390275
この二人を読み比べると、自分は完全にズイショ氏の方に同感なのだけど、ブックマークだけだと書ききれないことも多いので、こっちで書いてみる。なお、id持ってるのになぜ自分のブログで書かないのかというと、ブログで書くと情と執着が移るから嫌、というだけの理由である。
自分の仕事は海外出張が多く、実はこの文章も日曜日の昼に外国で書いているのだが、海外で接客業の店員に接すると、日本と比べて驚くほど職業倫理が低いと感じる。コンビニ店員はガムを噛んでスマホを見ながら接客するのが普通であるし、ファストフードで注文をすっぽかされても"Sorry! We will do it now."の一言で終わりである。あるときなど、客の少ない時間帯の大手ドラッグストア(雑貨店を兼ねている)では、店員同士が売り物のゴムボールでバレーボールをして遊んでいた。微笑ましいものである。
また、雇用者の側も、ある程度の「あそび」「緩さ」をアルバイト定員には許容している部分がある。アメリカのマクドナルドのCMでは、就業時間中に「俺、念願だった大学に合格したんだ!!」と言ったアルバイトの高校生を、クルー全員が拍手喝采してお祝い(英語で言う"Applause!"だ)するシーンがある。
これらは、日本であれば炎上したり、あるいは炎上を期待して「拡散」されたりしかねないことである。
などと書かれてもおかしくない。
このような日本の特殊さの元凶の一つは、「先生に言ってやろう」「世間に言いつけてやる」という日本人の多罰的傾向にあると思う。日本人は、クレームを相手に直接言えないチキンな性格なので、自分が受けた不愉快や、自分が感じた不平等さ(例えば「自分は職業倫理に縛られて生きているのに、なんでアルバイトのあいつらは自由にしているんだ?!」という怒り)を、「先生」や「雇用者」や「世間」「マスコミ」に言いつけることで溜飲を下げる。そして、そのような「言いつけてやる」行為が、正義だと見なされている。
ところが、外国(特に念頭に置いているのはアメリカであるが)では、そうはいかない。自分が利害関係者でないのに他人の非倫理的行為を告発して溜飲を下げるのは、どちらかと言えば「卑怯な」行為とみなされる。そんな「告発者」は"mind your own business!"と言われるだけである。また、自分が直接被害を受けていないことに対して、憤ったり「言いつけ」たりしてやろうという発想がそもそもないのである。(逆に、直接の被害を受けたのであれば、その場で immediately に抗議すべきだ。「上」や「世間」に言いつけて叱ってもらうなんて悠長なことは言っていられない)
私は、実害のある「バイトテロ」と実害の無い「アルバイト店員のおふざけ」とは峻別すべきであると考えるし、今後の日本社会が今までのような窮屈な職業倫理をアルバイト店員に求められるような社会ではいられないと考えている。実害のある「バイトテロ」は許されるべきものではないが、それとは全く別個に自分に直接の利害が無いことにまで「世間に言いつけてやって」溜飲を下げようとするその他大勢の人々の行為は意味がないと考えている。なぜなら、彼らのそのような行為は、「自分は職業倫理に縛られて生きているのに、なんでアルバイトのあいつらは自由にしているんだ?!」という僻みから生まれる部分が大きく、自分が強制されている職業倫理の理不尽さについて、使用者や教師に対して抗議して適正水準に是正するという正しい問題解決の道筋から目をそらしてしまっているからである。
たぶん、日本の人口に占める外国人の割合が今よりずっと増えているであろう10年後には、日本流の接客過剰サービスや、サービスの本質と関係ない職業倫理や、感情労働の類は、今よりもだいぶ廃れているものと思われる。外国人労働者は労働に対して合理的な考えを持っているので、お客に実害を与えるわけではないのに、儀式やしぐさを強制されるのは理解できない。おそらくそれらの、「お客様に気を使った」振る舞いは、ガラパゴス的な宗教儀式のようなものとして無意味なものとなっていくことだろう。そしてそうなった時代には、アルバイト店員の振る舞いにはアルバイト店員なりの「緩さ」「適当さ」が許容されるようになり、それがガス抜きとなることで、実害を生むような「バイトテロ」は減っていくのではないかと期待している。
(追記)
なお、諸外国でも「企業」や「有名人」が炎上することはままある。たとえば先日のユナイテッド航空のオーバーブッキング乗客引きずり下ろし事件では、「ユナイテッド航空」が炎上し、多くのSNSユーザが「ユナイテッド航空」の非道さを告発した。だが、実際に乗客を引きずり下ろした客室乗務員や警備員の氏名を特定したり、その客室乗務員や警備員本人を告発したりするような流れは殆どなかったように思う。この展開は合理的である。ユナイテッド航空を告発したSNSユーザは、実際にユナイテッド航空の顧客である場合が多く、自分たちも同じ目にあったかもしれない、ということが想像できるからである。一方、個々のSNSユーザにとって、客室乗務員や警備員本人は、自身の人生で直接関わる可能性が殆どない相手であるから、個々人を「特定」したり「告発」したり「言いつけ」たりしても、意味がないのである。
(追記2)
昨年ブームとなり、
そのサビで踊られるダンスのフリのことだ。
何人の日本人がそれに気付いているだろうか…。
おそらく何割の方はそれに気付いており、
このブームをバズらせる事に荷担してもいたのだろう。
そうは思っているのだが、
どのくらいの人数にそれが共有されているのだろうか。
そう不安にも思っている。
イイネ!と形容するくらいだから、もちろん良い意味で受け止められているのだろう。表面上は。
当然「Good!」を意味するジェスチャーから来ているのだろう。
しかし、
その曲に合わせシェイクする腕の振りに違和感を感じないだろうか?
その腕の角度と位置が高すぎるのだ(元ネタとされるshootダンスと比べても)。
そしてまた、その仕草は身体を画面に対し横を向いて行われるのだ。それはなに故だろう。
その立てた親指が描く軌跡が、親指がどこを通過しているか。
その意味を少し考えたら、その違和感の答えが分かるのだはないだろうか。
親指を下に突き下ろす仕草は、相手に否定の意志を示す行為であり、
その親指を首の前で通過させる仕草は、死ね!殺すぞ!という意味である。
そしてこの手の動きとセットとなっているのが、足で何かを踏みつけるような仕草でもある。
C'mon, baby アメリカ
これはちょうどイイネダンスが踊られている時に歌われてる歌詞である。
この、密かに重ね合わされている意味を、どれだけの人が自覚的に使っているのだろう‥。
無論、これはそう解釈できる…という話であって、振付師の意図を決めつけているものではない。
ただ、そんな解釈もしうるダンスを、あなたの家族や子供にこのまま踊らせていても良いとお思いでしょうか?
今なお気になって仕方がない。
いかがだろうか…。
ついでに蛇足ながら…、
それは単なる外部評価としてあるのだけではなく、
曲そのものの中に、相反するままに、貫かれているような気もする。
まず、今上げたC'mon baby にあるように、戦後ずっと常に日本を指導し先導し父親のようなポジションにあったアメリカを、あたかも目下の対象であるかのように呼びつける構図を描いている。
これは、昨今多少批判的に言及されるようにもなってきた「日本スゲー」勢を満足させる構図でもある。
アメリカを挑発し、見下し、かかってこい!と挑発しているのである。
気持ちの上では。
その潜在的な意味を、意識的にか、無意識的にか、人それぞれの割合で汲み取られていたことによって、この歌は、この時代に、必然的な条件を揃えて一大ブームとなっていたのだろう。
気持ちの上だけでは。
そう。潜在的な願望としては持っていても、直接面と向かって宣戦布告はできない。その度胸は無い。
横を向いてその意味を隠し、最初にイイネのサムズアップを強調することで言い逃れをまず先に用意しているのだ。
ダサイけれど、完全に服従している訳ではないという秘めたる信条がカッコイイのだ。
それは、夢を見せて成長の原動力を与えたくれた…という意味ではあろうが、
叶うはずのない夢を追って身を持ち崩すよう動機付けられたとも取れる。
サクセスの味方を organizer
成功の道筋を付け導いてくれたというように解釈すべきではあろうが、
儲けに繋がる見込みのない者には一切目もくれられないとも取れなくもない。
C'mon, baby アメリカ
英文の部分の意味は逆さに解釈するのだとすれば、この言葉はこうなる。「こっちに来ないでくれ」と。「アメリカよ、もう日本に関わってくれるな」と。
どっちかの夜は昼間
我々が、日本が、現状「夜」であることは、今、これまでが、アメリカが「昼間」であった事と必然的な関係となっているのだ。
…と、
しかし、こうも歌われている。
競合してくジパングで
より強くアメリカナイズされた沖縄は、日本本土に対して先行する存在だ!と、そこで育った若者としての自意識はあったりするのだろう。
しかし、そんな沖縄は基地問題にもあるように、日本本土から負担を一方的に押し付けられて続けている存在でもある。
どっちかの夜は昼間…その沖縄の「夜」を産み出している「昼間」とは、単純にアメリカとしてよいのであろうか、それともその標的は実は日本本土を指しているのであろうか。
それらをひっくるめて歌われている。
C'mon, baby アメリカ
これをただ無邪気に歌い踊っていてよいのだろか?
その親指を地面に向けて突き立てているその矛先は、どちらを向いているのだろうか…。
ツッコミどころ満載すぎて、草生えるし、草むらでウンコしたくなるわ
「この社会のあまりに沢山のものが、『平均的な健常者男性』に合わせて作られていることにようやく気づいた。」
気づいた?
おまえは、何を学んできたんだ。
ようやく?
日本は敗戦国。わずか50年で戦勝国アメリカのGDPを抜いた最大の要因は「効率」。
当時は、人はそれに合わせれば良いという社会。
と言ったら、様々な方面から罵声と金切り声があがりそうだから先に言っておく。
そして、そうした社会の基盤のうえに、バリアフリー化への道筋が見えてくるわけで。
みんなが死ぬか生きるかってときに、同性婚だとか、学習障害だとか、トランスジェンダーだとか、いくら叫んでも誰も聞きやしない。
安定的な社会が作られてこそ、徐々に、障害や病気や高齢者などに優しい社会をつくろうとなるわけで。
「良いことは亀の歩みのように進む」だったかな?
まさにガンジーの言ったとおり漸進的に進むことが大切。