そんな下を見て自分を慰める考え方は何も良くならない
救急医療で馬車馬のように週5で1日13時間くらい働いている医者の給料は、整形美容で週3で1日8時間働いている医者の給料より、大分安くあって欲しい。救急医療の医者が月40万のところ、整形美容の医者が月100万というように。経済的には整形美容の方が、命を救うより価値のあるものと評価されて欲しい。
老い先短いジジババの命を無理やり救ったところで、寝たきり介護になるかも知れないし、そんなことに社会リソースを消費するのはもったいない。死にそうな人には、ぱっと死んでもらうのが無駄なコストが掛からなくて良い。死に損ないで生きてるか死んでるか分からない状態になると、本人はともかく、周りの家族が大変だ。
それよりもむしろ、不細工を整形し、美人、イケメン、巨乳、巨根を増やした方が生き生きとした活力ある社会になるに違いない。死に損ないゾンビがウヨウヨ徘徊しているより、そっちの方がずっと良い。少子化が解決されるとは全く思わないが、人口の減るスピードは少し低減できるかも知れない。
愚痴、というか、不毛なディス、というか、陰口や悪口に対するストレス耐性がほぼ無い。
仕事の出来がイマイチな同僚がいて、努力も見えるし取り組み方も悪くないと思うんだけど、偏見に満ちた彼への人格攻撃(家でもあんな感じなのか、家族がかわいそう、など)が経営陣からの雑談で耳に入ってきて、ストレスがマッハ。
少なくとも、それを不快だと思っている人がどれだけいるかを判断する資格なり権利を持っているのは、不快だと思っている側ではなく表現をした側である
そして「不快だと思っている人が多数」いる事を理論的に証明する責任があるのは表現を止める側であり、それが証明できないうちに「俺を始め多くの人が不快だと思っているからやめろ」と表現の抑制を迫るのは、わがままである
愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。
15年前の小説の、その冒頭の一節がずっと忘れられずにいる。
俺も全く同意だ。
さらに、俺が出会ったことのない人たちにも、幸せになってもらいたい。
出会ったことがない人たちも、これから先に俺とであうかも知れないと言う可能性があるからだ。俺にはそれで十分に、彼らの幸福を祈る理由になる。
小説にあった節と同じだ。
俺が苦しみを取り払うから、皆、自身の才能で羽ばたいてほしい。
俺はそれを見ていたい。誰に感謝されずとも、俺はそういう才覚ある若者が起こす風が好きだ。美しいと心から思うから、好きだ。
これは俺のエゴだ。彼らは別に、俺を喜ばせる必要はない。才能の有無によらず、好きなことをして、好きに生きたらいい。俺を嫌い、俺の好きな美しさから遠ざかってもいい。俺は何も強制したり、要求したりはしないから、ただ祈ることだけを許してほしい。