はてなキーワード: 小説家とは
文章トレーニングのための新機軸の練習方法を思いついた。まだ思いつきの域を出ていないとは思うが、それはどんなものかと言えば思いついた単語を片っ端から書くというものである。あるいは頭文字が共通している単語を書きまくるというものである。赤ちゃん、あんこ、アンダンテ、アスキー、とかみたいにね。つまりそうやって適当な単語を書きまくっている内に――つまり無秩序に単語を書きまくっている内に――秩序のある文章を書きたいという純粋な欲求が生まれてくることを狙った文章練習法なのである。訳分からんことを敢えて書きまくっていると勝手に訳の分かることを人間は書きたくなるのではないかと俺は思っているのである。どこかの作家が言っていたが「誰にでもできることから始めることで、より高度な行為が可能になる」ということなのだ。思いついた単語を書き並べることは(殆ど)誰にだってできることである。だから、まずは誰にでもできることを行うのが肝要なのだ。俺はそう思う。
例えば、今ここまで文章を書いたところで俺のモチベーションは随分と下がってきているのだけど、あんことかアンダンテとか有馬記念とかみたいな単語を並べることは当然できる。だからモチベーションアップを図ることができるのだ。多分。知らんけど。
ここまで書いたところで更にモチベーションが低下してきた。それでもまだ例の文章練習法に頼る必要は無さそうである。このままとりあえず書き続けてみよう。それで、モチベーションが底をついたところで実際に例の文章練習法を試してみるのが良いかもしれない。とは言え一応文章を書き続けることが(今のところ)できているので、そう、今のところその文章練習法に頼る必要は無い。やったぜ。
そろそろモチベーションが再び尽きかけてきた。いや、まだだ。まだ何とかなりそうだ。独り言のように何とかなりそう何とかなりそうと呟ける内はまだ何とかなるのだ。しかしそろそろ難しくなって来た感がある。というのもさっきから同じことの繰り返ししか書けていないからである。「そろそろモチベーションが尽きかけてきた」→「何とかなる何とかなる」的な。しかし先程の論法に従って言い換えてみれば次のようになるのかもしれない。「同じことを繰り返し書くことは誰にでもできる。だから、そうやって誰にでもできることをやっている内に、再びモチベーションが生まれてくる」と。そういうことなのかもしれない。書くことに迷ったらあんことかアンダンテとかアルゼンチンとかそういうことを書かずに、今まで書いたことを書写していくのがいいのかもしれない。その方が文章の推敲にも役立ちそうな気がする。今にして思えば。
例えば、今からこの直前の段落を俺は複写しようと思う。「そろそろモチベーションが再び尽きかけてきた。いや、まだだ。まだ何とかなりそうだ。しかしそろそろ難しくなって来た感がある。というのもさっきから同じことの繰り返ししか書けていないからである。」
やはり同じことの繰り返しとは言え、何かを書いている分には脳の方でも「こいつ何か書いてんな」と反応している感がある。つまり、脳は割と鈍感なのかもしれない。同じことの繰り返しであれ複写であれ何であれ、ともかく何かを書いていれば「こいつ何か書いてんな」と脳は認識し、結果的に「何かを書く練習」になるのかもしれない。つまりは文章技術一般を鍛えるための練習になるのかもしれない。人間の脳なんて基本的に騙し騙されなのだ。適当な文章を何度も何度も複写していれば、まるで新たな文章を五千文字書いているかのように脳は錯覚してくれるのだ。多分。知らんけど。実際知らんけど。そもそも練習になっとるのかどうか知らんけど。結局は脳の判断云々よりも人間が如何に新しいものを書こうとするかに文章の価値の根本が存在しているのだとすれば、今俺が「脳は結構鈍感で勘違いする」とか言ってる傍からオリジナルな文章を書きまくっているその意味もはっきりしてくるのかもしれない。しれない。よく分からないけど、多分そうなのかもしれない。
というか今これだけ色々と文章を書けているのはひょっとしたら昼間に飲んだコーヒーに含まれるカフェインの効能なのかもしれない。それだけのことなのかもしれない。しれない。よく分からない。でもそうかもしれない。何か結局同じことを繰り返し繰り返し書いてるだけにはなっていやしませんかね自分。
あいうえお、あんこ、アンダンテ、秋、憧れ、有馬記念、阿久津主税八段(将棋棋士)。
以上の文章で文字数は千八百文字程度である。こんなに書いたのに、普段目標としている千文字の文章を二つ分弱書き終えた程度の文字数しか稼げていないことに愕然としている。やはり繰り返すしか無いのかもしれない。あるいはあ行の単語やか行の単語を並べていくしかないのかもしれない。
ところで自分が何故このような文章練習法を思いついたかと言えば、それは安眠法の記事を読んだからなのだ。その安眠法は「連想式安眠法」と言って、先程述べていたような頭文字を限定した単語を幾つも幾つも思い浮かぶ限りで頭の中で唱えていくという安眠法なのだが、これが中々人の脳の中にあるざわめきを抑える効果を持っているようで、つまりは実際安眠に役立つのである。で、俺もその安眠法のファンになってしまったのだが、しかし何度も何度も頭文字の共通する単語を頭の中で唱え続けていると、今度は秩序だった文章を頭の中で唱えたい欲求が生まれてきたのである。この文章練習法は以上の体験を元に考案されている。どうだろう。結構この文章練習法良くないだろうか。実際相当文字数を稼げていると思うのだけど、でもやっぱりこれも昼間飲んだコーヒーが純粋に作用しているだけなのかもしれない。だってそんな簡単に文章を大量に生産できるわけがないと思うのだ。今まで俺は文章をたくさん生み出すことが中々できないから焦ったり悩んだりしていたわけであって、それがこんな簡単な方法によって改善するとしたらおかしいではないか、と心の一方では思っているのである。だから、どちらかと言えば自分自身の考案した練習法が功を奏したのではなく、昼間飲んだカフェインの所為と言ってしまう方が安心するのである。変な話だけど。
基本的に俺という人間は人生において空回りばかりをしており、自分の考案した方法が功を奏したことなど数える程も存在していないのだ。あるいは一つとして存在していないのだ、実数は分からんけど俺本人の印象としては一つも存在していないと言いたいくらいなのだ。だから、実際物事が功を奏したとはどうしても思いにくい、そう、「自分の手柄とは思いにくい症候群」が現れているのである。難儀なもんですね全く。ところでキーボードを叩き過ぎて段々指先が痛くなってきた。キーボードを叩くという実にヤワな運動が指先の神経を破壊したりするものなのかどうか俺には分からない。もしそんな事実が存在するのであれば全国の小説家は廃業しなければならなくなってしまう。だって彼らは日常的に三千文字とか四千文字の文章を書きまくっているわけだから、つまりもしそんなペンだことかと同じキーボードだこ的な職業病が存在するのだとすれば全国の作家及びキーボードを日常的に使用する全ての職種の人々は皆等しく指先の神経破損症候群的な持病を抱えることになってしまうのであり、しかし世の中で生きていてもそんな持病の存在について耳にすることは殆ど無いことから、あるいはそんな持病は存在しないんじゃないかと思ったりもする。とは言え、俺のキーボードをタイプする力は常人よりもやや強いのかもしれない。若干指先がひりひりし、指の第二関節が少しばかり痛む程度には俺のタイプチカラは強いのかもしれない。そもそも俺は小指を使わずにタイピングを行う自己流の要矯正タイピング法に慣れ親しみすぎており、つまり他の人々よりも指の負担がやや多くなっている可能性があるのである。小指が本来受け取るはずであった負担を四本の指に分配してしまっている可能性があるのである。そう考えると俺だけがこの指先神経破損症候群的な症状に罹患してしまうとしても強ち想像力の枠外とは言いにくいのではなかろうか。
こんなところでようやく文字数が三千文字を超えていった。とは言えまだ三千文字しか書いていないのかという感覚も存在している。あるいは俺の考えた文章練習法のお陰ではなくカフェインの所為なのではないかという疑惑も依然として根強く存在し続けている。
しかし今ふと思ったのだけれど、やはり効果的な練習法の条件の一つには、人間の心理的なハードルや技術的なハードルを落とすことが含まれるのかもしれない。あるいは技術的なハードルや心理的なハードルを下げることを含む必要があるのかもしれない。だって幾ら効果的な練習法が存在したところで、それが技術的ハードルおよび心理的ハードルをゴインゴインと引き上げてしまったら元の木阿弥で誰も挑戦しなくなってしまうことになるではないか。俺今正しいことを言ってる感覚がある。そう、「誰にでもできることから始めよう」作戦は実に正しいのである。例えば、カメラに習熟したいならシャッターを押しまくれば良い。シャッターを押すだけなら大概の人間にはできるからだ。バカチョンカメラとも言うではないか。誰でもちょんと押しさえすればカメラは大抵風景を切り取ってくれるものである。多分。もっと専門的でテクニカルな要素を持ったカメラ撮影があるのかもしれないけれど。
ホラ見ろそんな注釈自分で付け始めることないのに自分からハードル高くしにいってんじゃねーかと思う。「もっと専門的でテクニカルな要素を持ったカメラ撮影があるのかもしれない」とか言い出しちゃうタイプの人間なのだ俺は。つまり自分で心理的技術的なハードルをゴインゴインと上げてしまうタイプの人間なのだ。俺は。そう考えるとやはり誰にでもできることをやることは、全くもって善なる練習法なのではないだろうか。だって俺がこういう性格しちゃってるもんだから、尚更その「バカチョンカメラ」式練習法が輝かしいものに感じられるのだ。つまり、自分が書いた文章を最初から書写したりとか、あるいは頭文字が「あ」で始まる単語を書きまくるとか、そういう「誰でもできること」がやっぱり大切なんではなかろうか。そんな気がどんどんとしてきた。ホラ、だって今文章が目茶苦茶量産体制に入ってるのは、さっき自分で心理的技術的ハードルを落としたからではなかろうか? そう考える傍から「いやいやカフェインの所為でしょそれ」的な思念が浮かんできてしまうのだが、これは良くないことなのかもしれない。しれない。分からない。小麦粉か何かだ。古いねこのネタ。正直昔このネタ聞いてもあんまり面白いとは思わなかった。恐らくこのネタを楽しいと思うにはそれまでラーメンズが演じてきた演目に対する知識が必要になるのではなかろうか。なかろうか。俺、さっきから「なかろうか」とか「かもしれない」的なことを書きまくってるけど、それは俺の中にある自分が書くものに対する不安の念の現れなのかもしれない。現れなのではなかろうか。しれない。かもしれない。分からない。小麦粉か何かだ。
ようやく四千五百文字を超えた。というか文章を書き始めてからこの辺りで既に四十分近くの時間が経過している。あっという間だ。今俺はライティング・ハイ的な状態になっているのだ。それがカフェインの所為なのか、あるいは俺の編み出した練習法により心理的技術的なハードルが下がった所為なのかは分からないが(その真偽は恐らく明日以降カフェインを摂取しない自分が自ずから証明してくれるであろう)、いや分からんね。そもそも自分が何を書こうとしてるのか分からんから必然的に「分からん」とか「知らない」とか「小麦粉か何かだ」的な記述が増えてきてしまうのです。
ところでアレですよ、最近「なろう小説」というものが流行ってますよね。流行ってるんです。ええ。流行ってますとも。多分。知らんけど。
この「なろう小説」の特徴としては、大体物語の冒頭で主人公が死んで転生するところから始まる。そして転生後の世界で主人公は稀有な才能を持った偉人として君臨することになる。そういう筋書きが殆どなのだ。この呼称はどのように生まれたかと言えば(アノニマスダイアリーに生息する御仁達には説明不要かもしれないが)この小説のジャンルは「小説家になろう」という小説系の投稿サイトで幅を利かせたジャンルなので、「なろう系小説」とか「なろう小説」といった呼称をされているのだ。説明すればするほど醜悪極まりない作法によって書かれた小説ジャンルだと思うが、中には面白い作品もあって、個人的には「異世界料理道」なるタイトルの作品を推しておきたい。これはもう既に商業デビューを果たした作品であり、商業デビューするだけのことはあって世界観の組み立てやストーリーテリングが非常に上手い小説なのだ。二百話近くあるエピソードの半分以上を読んでしまったくらいだ。
で、俺が言いたいのはそういう稀有な面白さを持った小説に対する賛辞ではなくて、その「なろう系小説」を書いている人間の文章生産能力に対する賛辞なのだ。俺はプロになる為には一日最低三千文字から四千文字の文章を生産する能力を持たなければならないと思っているが、いわゆる「なろう系」の小説を書く人間の中には一日に一万文字とか二万文字を平気で書き上げる人間がゴロゴロしていると言うのだから驚きである。一日二万文字と言えば、速筆で知られたかの西尾維新氏が、それくらいの文章生産能力の持ち主だったかもしれない。しかし俺だってカフェインのブーストと心理的技術的ハードルを下げる効果的な練習法さえあればそれぐらいの量の文章を書くことなんてお茶の子さいさいだぜと言いたくなってくる。実際そろそろ五千文字は突破して六千文字に迫るか追い抜くかをしているところだと思うが、あ、そろそろキツくなってきたかもしれない。いやしかし「キツい」キツいと繰り返している内はまだ大丈夫だと先程言ったばかりである。これもまた繰り返している。繰り返し。繰り返し、リピート、リピート。繰り返すことが人間の心理的なハードルや技術的なハードルを下げ、人間に効果的な文章のトレーニングを提供することになるのだ。多分。でも一応今日はこの辺にしておこう。
(追記)ウザがらされない→ウザがらせられない ですね。日本語が不自由になってました。恥ずかしい。
後、importuner と Un porc, tu nais がどちらもアンポルチュネで発音同じことに言われて気づきました。これも恥ずかしい。
そして、さらに恥ずかしいことに、最後の段落抜けてました。大急ぎで追加しました。
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ちょっとフランス語を翻訳してみたくなったので、最近の増田の流れで、一つ記事を訳してみました。
Leïla Slimani (レイラ・スリマニ)というモロッコ出身のフランス人女性作家の Liberation のサイトに昨日掲載された«Un porc, tu nais ?» (「あなたは、豚として生まれたの?」)という記事です。
なんで、これを訳したかというと、先の「ウザがらせる自由」が、何やらフランスを代表するもの、英米系からのmetooブームに対する、大陸系からの批判みたいな取られ方をしている向きがあったからです。全然そんなことありません。twitter を見る限り、あの記事叩かれまくっています。
現在も、テレビの討論番組で、Brigitte Lahaie という元ポルノ女優(あの記事の署名者の一人です)が「レイプの最中だって、楽しめるわ」と発言した件で、絶賛大炎上中です。(この発言が、あの記事の後半部につながっているのは明らかでしょう)。
フランスでは #metoo に加えて #balancetonporc というタグは使用されていて、意味は「あなたの豚野郎を叩き出せ!」です。ものすごく攻撃的ですね。Le Monde 誌の記事はそんな流れの中でのカウンターとして出されたもので、まぁ、要するに両者ヒートアップしてるってことです。
「あなたは、豚として生まれたの?」は明確に「ウザがらせる自由」に対する反論として書かれています。いくつかの言い回しが、あの記事から来ているので、増田での訳語にその辺はあわせました。この記事の文脈では「ウザがらせる」は生ぬるい気もしますが。
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(追記)ブコメで指摘がありましたが、あちらの翻訳は「ウザがられる自由」でしたね。完全に見間違いをしていました。
でも、これはしょうがないところがあって、原語 importuner は他動詞の能動形以外のなにものでもないので、まさか受動形で訳しているなんて思わなかったのです。
「ウザがらせる」が正しいです。
「不器用・勘違いから来る過失のニュアンス」は日本語訳から生まれたものであって、原文にはそうした解釈の余地はありません。
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小説家による平明に書かれた文章なので、致命的な誤訳はないと思いますが、気づいた点があれば、じゃんじゃん指摘しちゃって下さい。
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通りを歩く。夕方、地下鉄に乗る。ミニスカート、胸の広く開いたシャツとハイヒールをはく。ステージの真ん中で一人で踊る。派手めの化粧をする。ほろ酔いでタクシーに乗る。半裸で草むらで伸びをする。ヒッチハイクする。深夜バスに乗る。一人旅をする。テラスで一人グラスを飲む。ひと気のない道を走る。ベンチで待つ。男を誘い、意見を交わし、歩き続ける。イル=ド=フランスの人込みに紛れる。夜勤する。公共の場で子どもに乳をあげる。賃上げを要求する。
こうした、日常的で平凡な生活において、私はウザがらせられない権利を、そんなことにかかずらわされない権利を要求します。 私は、私の態度、私の服装、私の歩き方、私のお尻の形、私の胸の大きさについて、とやかく言われない自由を要求します。私は、私の平穏と孤独の権利を、恐れることなく前に進んでいく権利を要求します。私はただ、内的な自由だけを求めているのではありません。私は、外での、広々とした場所での、私もまたその片隅を占めている世界においての自由を求めているのです。
私はちっぽけな壊れやすい品物ではありません。私は守られることを求めているのではなくて、安全と尊重についての私の権利を認めるよう求めているのです。そして男性たちは、皆が皆、豚であるわけではありません。そんなことは全くありません。この数週間、どれほどの男性たちが、彼らの能力でもって、今起こっていることを理解し、私を魅了し、驚かせ、大喜びさせたことでしょう。どれほどの男性たちが、もう加担することをやめ、世界を変え、これらの行為から、彼ら自身をもまた解放しようとする意志を示してくれることで、私を驚嘆させたことでしょう。
というのも、例のいわゆるウザがらせる自由は、その奥底に、男性性についての極めて決定論的な見方を隠しているからです。すなわち、「あなたは豚として生まれたのだ」と。
私の周りの男性たちは、私を侮辱するものたちに対して、怒り、抗議してくれます。朝8時に、私のコートに射精した誰かに。私の出世に何が必要か理解させようとした上司に。研修の対価にフェラチオを求めた教師に。「キスしないか?」と尋ね、「淫売」扱いして去った通行人に。
私の知っている男性たちは、この男らしさについての反動的な見方に、うんざりしています。私の息子は、そう私は希望するのですが、きっと一人の自由な男になるでしょう。その自由とは、ウザがらせる自由ではありません。制御できない衝動にとりつかれた捕食者としてではなく自分を定義する自由です。私たちを魅了した男たちが持っているようなたくさんの素晴らしい仕方で、魅了することのできる一人の男に、息子はなるでしょう。
私は一人の犠牲者ではありません。しかし何百万もの女性たちはそうです。これは事実なのであって、道徳的判断やそうした女性たちを(犠牲者として)本質化するものではありません。
そして、世界中の何千もの街の通りを、うつむいて歩いている全ての被害者たち、付け回され、ストーカーされ、レイプされ、侮辱され、公共の場で場違いなものとして扱われている彼女たち、その恐怖が、私の中で瞬きます。うずくまり、恥じている彼女たちの、辱められたという理由で通りに投げ出され除け者になった彼女たち、彼女たちの体がウザがらせる行為を招くからという理由で、黒く長いベールに隠させられている女性たちの叫びが、私の中で響いています。
カイロ、ニューデリー、リマ、モースル、キンシャサ、カサブランカの通りで、歩いている女性たちは、失踪、誘拐そして(下心ありの)慇懃さを心配しているのではないでしょうか?彼女たちに、誘惑し、選び、ウザがらせる権利などあるでしょうか。
私は、いつか、娘が夜中に通りを、ミニスカートと胸の開いたシャツを着て歩き、一人で世界旅行をし、真夜中に何も恐れることなく、そんなことを考えることもなく、地下鉄に乗れることを望みます。その時、彼女が生きるその世界は、清教徒の世界ではないでしょう。私は確信しています、それはより正しい世界、そこでは愛と歓びに満ち、魅了し合う場だけが、より美しくより豊かである世界になるだろうと。それはまだ想像すらできないものだけれど。
http://www.liberation.fr/france/2018/01/12/un-porc-tu-nais_1621913
今まではそれなりにやってきたと思うしやる気はあるのにやれない自分に自己嫌悪しにた〜〜みたいな感じだったのにこの冬休み気持ちがぷっつり切れた。
というか今までぎりぎり均衡を保っていた色々なものがぜんぶおかしくなった。
余計なことをたくさん考えるから。
基本装備としてはちゃめちゃに根暗で自分嫌いな性分なので思考する隙を与えてはならない。
この冬はそんな隙がたくさんあったから
不眠症BBA炸裂して5時寝13時起きみたいなゴミ生活送ってますそんな今ももう3時半です
社会生活を営む上で重大な欠陥ですね。
わりと色んな経験してうつにもなった割にむかしのわたしは擦れてなくて、イイ奴だったと思うんだ。自分で言うのも何だけど。まあそりゃ絵に描いたような不幸は経験したことないからだろうけど。
わたし、イイ奴だったんだよ。
でも気づいたらめちゃめちゃに暗くてめんどくさくて他人の気持ちを推し量れなくて冷たい難儀な性格の女になってた。こじらせの限界突破。
本当に自分でもこんな女嫌だだから喪女なんだって思う。それな。
たぶんわたしがそうなったのは
受験に失敗したからなのか高校選びに失敗したからなのか何が明確なきっかけってわけではないけどわたしはあの高校に入ってから坂道を転げ落ちるようにやたらとめんどくさくて暗い女になった。
やらなきゃいけないのに身体が金縛りみたいに動かなくなる日も増えた。
絶対にやらなきゃいけないことがあるのに、動けない。涙が出るくらいそんな自分がキライなのに、やっぱり動けない。
おまえのそれはただの怠け病だっていわれるけど、自分がいちばん様子がおかしいってわかってるんだ。言い訳じゃなくて。
色んなことが噛み合わなくなっておかしい。身体も心もしにかけなのに、やっぱりその異様さが自分にしかわからない。
こんなにがんばれない私だけど
わたしはそこで変わる
この性格も
冴えない顔も
圧倒的に欠如したコミュニケーション能力も
ぜんぶぜんぶ、わたしは変える
私がいるべき場所はここじゃない
だから心が浮いてるんだ、馴染めないんだ
だって私の好きなアイドルがいじめられた時に言ってた、「自分のアイデンティティが中学に収まりきらなくなった」って。
だからわたしは馴染めないまま曖昧に笑ってこれでいいのかよって思いながらぼんやり生きてるんだ。
わたしはこの時を待ってたはずだ
わたしをかえてくれたあのひとに
わたしのともだちでいてくれるひとに
しあわせになるという、復讐を。
そのためにわたしは死ぬほど勉強しなければならないし性格も顔も生まれ変わるための準備も死ぬ気でしなければならない
まず手始めに、じぶんに自信をつけるためにわたしはひとつでも自分で頑張ったと言えることをつくろうと思って
という目標を立てた。
地下鉄内で貧血になってヘロヘロでも、這ってでも学校に行っている。
それがわたしのスーパーヒーローとの約束だから。(べつに約束はしてない)
全部辞めないし休まないよ
やりたいことは全部やってやるよ
やりたいことを我慢して生まれた"余裕"は怠けるための余裕にしかならないのが経験則なので好きなことを全部こなすためにどう動くかを考えて私はこれからしぬほど勉強する。
だけどいつからか私は当たり障りのないことばしか綴れなくなった。頭に言葉が浮かんでこなくなった。
早稲田に行きたい
なんて叶えられなかったらこっ恥ずかしいことを
ばか恥ずかしいよ今。
学校の人にだって何一つ言ったことのない話だから。もちろん親にも。
アイツ誰だっけ?って言われるくらい
わたしは強くなりたい。
自分で決めてる細かい目標はたくさんあるけど、わたしの今の目標は
学びたいことを学んでひとになにかを伝えられる人になること
櫻井くんみたいになること
だ。わたしのスーパーヒーローさくらいしょうくんの背中、追い越すくらいわたし、がんばるから
先僕をみて、最近がんばるわたしのだいすきなキラキラアイドルたちを見て
ひさしぶりに心をからっぽにしてたくさんの本を読んで
やっと決意表明できそうなメンタルまで持ってこれたので増田投稿しました。
やってやろうじゃん2018
学校でひとりでもおうちに帰ったら
アイドルがいる
ずっとずっとおっきいしあわせがある
まってろ、早稲田大学!
的中率80%程度でいいから適職を知りたい。
システムが80%を外したので俺の青い鳥は逃げてしまった、という事なら今の人生にも納得できそうだ。
俺が今の人生に納得できてないのは、自分のデタラメな直感に頼って適当に生きてきすぎた結果、今ここで俺が人生を公開してるからだ。
折角だから暇なら少し話を聞いてくれ、「暇じゃないから聞かない」ってコメントをして帰ってくれてもオッケー。お帰りはあちらにある「B!」のボタンからどうぞ。
さてと、まずは自己紹介だ。
俺は昭和が終わる少し前に生まれた。少し前ってのが曖昧な言い方になってしまうが、これは文学的であろうとしているのではなくて実年齢を完全にはバラしたくないだけだ。
性格は最近流行りの「クラスで浮き続けて生きてきて、会社に入っても浮きっぱなしの、発達障害の可能性が高そうな奴」だ。
今の夢は何か知らんけど突然お金持ちになってニートになること。
今までに作り上げたゲームの数は入門レベルのSTGが2つぐらい。
書き上げた小説は0。
特技は無いけど職場でたまにタイピングの速さを褒められる。パソコンの先生ごっこを頼まれることはあるけど、基本的に役に立てないので3回目ぐらいで頼まれなくなる。
雑に見積もって日本人の100人に1人ぐらいはここまで自分とほぼ一致してるんじゃないかな。
将来の職業を決めようとしたことが人生で何度かあった。皆そうだし自分もそうだ。
13歳のハローワーク、大学の学部選び、就活本番、就活に失敗したあと再出発する時に模索した道。
子供の頃の夢はゲームプログラマーとさっき書いたたけど、子供の頃は割りと本気でそれを考えていた。パソコンを実際に買ってもらうまでは。
まず中学生の頃、パソコン部に入ってゲームを作ろうとした。でも実際はほとんどダベって終わった。その頃に部室にあった本の内容をそのまま手打ちして作った文字通りの入門用STGが人生で1つ目のゲーム。
次に高校生の頃、パソコン部にまた入って今度はちゃんとゲームを作ろうとした。駄目だった。自分もやる気なかったし周りもやる気が無かった。それでも何かを作ろうと空回りしながら一本作り上げたけど、ほとんどがネットから持ってきたコピペコードのスパゲッティキメラで、ゲーム内容も実につまらなかった。そして自分は、ゲームプログラマーになることを諦めた。
だって、自分と同じぐらいの年齢で面白いゲームを作っている人が沢山いることを、ネットを通して嫌でも知り得たのだから。彼らの中には小学生の段階でゲーム作りをしていた人もいる。初めて1年で凄いゲームを作る人もいる。自分は合計で4年ぐらいパソコン部にいて、作れたゲームはショボいし、プログラムに使った時間の合計なんて下手すら100時間あるかどうかのレベル。熱意という点においては微塵も才能がなかった。そして、生まれ持った熱意が低いなりにプログラムに没頭できるような数学的方面への才能も無かった。とにかくプログラムはよく分からなくて、苦痛だった。ただゲームプログラマーになってみたかったという夢の名残、ある種の意地が少しだけあって、それに他人を巻き込んでクソゲを作っただけ。それを目の当たりにして夢を諦めた。キラキラ業界だけあって、好きでないならやってけないほど辛いだろうなって気がしたしね。
ゲーム方面は諦めたけど大学はIT系に進んだ。IT系という括りの頭の悪さから分かるように、今でも自分はITをよく分かってない。その程度の大学に進んで、その程度のことを学んだ。大学のせいというよりも自分のやる気が足りなかったんだけど。
IT系に進んだ理由は、「コミュ障でもできそうだから」「今ITはブラックと話題だから、逆に自分が就活する頃には反転してホワイトになっているのでは」「職場でプログラム覚えてそれからゲームプログラムに再挑戦すれば一石二鳥じゃん」とか。全く理由がないよりはマシに見えて、実際は一見何も考えて無さそうに見える奴より何も考えてない。意識だけ高い系。
そして自分は大学を出て、就活の時になってもIT系はブラックだという噂が絶えなくて、噂を聞いてる内に怖くなって、公務員になろうと思った。
何で公務員になろうと思ったんだろう。
多分、IT系≒不安定 というイメージの逆を全速力で駆け抜けたかったんだと思う。
そう。自分には正しい情報収集能力がなくて、ネット回線の向こうから仕入れることが出来るのは噂話だけだったんだ。
そして、公務員試験に落ちた。
点数を調べたら笑っちゃうぐらい低かった。
面接で失敗しているうちに何だか消えてしまいたくなって、このまま就活を続けたら頭がおかしくなって大学も出られなくなるって気がしたので、とりあえずは大学を出ることだけを頑張ることにした。
そうそう、卒論をやっている時に人生で3回目のプログラムをする機会がやってきてたんだ。
卒業に必要な単位という餌をぶら下げられてのプログラム。プログラムを書いて報酬がもらえるシチュエーション。IT系に向いてるかどうかを試す良い機会だ。そして、何度もめげかけて、お情けで卒業して、自分はやっぱりIT系は駄目なんだなという確信を得て、大学を去った。
その後はダラダラと公務員試験浪人をして、たまたま相性のいい面接官にあたって公務員になった。
何だか全てが曖昧で何となくで前例主義の積み重ねの成れの果てだった。
エクセル方眼紙の体裁だけはシッカリしている事が求められるのに、中身に関しては大分大雑把な世界だ。
書類の形式がちゃんとしていることを優先するあまりに、他の多くが漠然とされすぎていた。
そのくせ、書類の形式が整っているというのはどういう事なのかということに対してすら、明確な定義は前例主義の中に埋もれていた。マニュアルなし。根拠文書は曖昧なスパゲッティの中で腐りかけ。根拠の根拠は多分だけどフィーリング。
仕事をしているとたまに【伊集院光によるお祓いの説明(ハチを箱に入れたから危険だと吹聴して噂に尾ひれがついてから回収するときに駆除料をせびるあの話だ)】を思い出す。
右から左に何かを運んでいるだけの仕事、それも、それを運ぶことに意味があるのかどうかすら曖昧な仕事なんじゃないだろうか、時折そんな不安がよぎる。
そういう時に、民間企業であったのならば「お金が入るならそれでいいんだよ」と言い張れるんじゃないだろうか。
たとえ仕事に意味を感じなくても、その仕事で身についた技能が他の会社で応用できるのなら、そのために頑張ろうと思えるんじゃないだろうか。
何の役にも立たないだろう。
謎のルールに従っている集団の中に混じって、そのルールを一緒に真似するごっこ遊びに意味はあるのか。
マナー教室と称して、自分たちがバラまいたアンチマナー地雷の回避方法を教えている集団と大差はあるのだろうか。
ならば、どういう仕事が向いているのか。
それが全くわからない。
表題はそういうことだ。
そしてその適職当てをしたシステムに責任転嫁をして生きていきたい。
自分が、噂や印象に振り回されて意味の分からない道を迷走した果に人生まるごとを迷路に投げ込んでしまったなんて事実を目の端に入れて生きていくのにはもう疲れた。背中を向けてしまえば、むしろ見えなくなった事で不安が増すのだ。目の端に入れておくのが一番楽なのだ。でもそれは比較的楽なだけで全く楽とは言い難いのだ。
寝る時間なのでこの辺で切り上げる。
https://togetter.com/li/1182893
異世界を描くにあたって現実世界と違う文化や小道具を出してそれを表現するのは効果的だ。だから『JKハル』においては書き出しでコンドームが草だということにハルが草を生やしている。
あたしがこっちの世界に来てまず一番ウケたのが避妊具が草ってことで、「やべ、草生える」って爆笑したら、「生えませんよ」とマダムは真顔で言った。
「スキネ草も知らないの? もうかれこれ30年も前に錬成されてこの辺じゃどこの薬草屋にも売ってるけど。ずいぶん田舎から出てきたのねえ」
スマホどころかネットも電話も、そもそも電気もねぇ車も走ってねぇの世界の人によりにもよって田舎呼ばわりなんて、東京のみんなマジごめん。都市辱だよね。
避妊具が草という異世界の文化が示され、ハルが「草生える」という日本のスラングで応じる。するとマダムに田舎者扱いされてしまう。異世界より文明の進んだ東京から来たというのに! この異世界と現実世界の文化が二度にわたって対比される冒頭は、普通に読めば相当ウィットに富んでいると思うが、しかし山本はここを無視してシャワーがあるというだけで異世界的想像力に欠けていると文句を言う。難癖もいいところであろう。
問題は書き手の側が、「異世界は現実世界と変わらない世界でなくてはならない」という不思議な信念に捕らわれてるってことなんだよな。そんな意味のない縛りをはずしたら、もっと自由な話が書けるはずなのに。
「そんな意味のない縛りをはずしたら、もっと自由な話が書けるはずなのに」と言いつつ、他作家をそんなマイルールで縛ろうとし、不自由を強いてくるのは何なんだろうか? 自分が勝手に自分の作品にそれを課していればいいだけであって、それをもって「想像力貧困な小説」だと他作家の作品を批判するのは筋が悪すぎる。
山本は「わざわざ異世界に行く必要ないんじゃね?」と言うが、『JKハル』が異世界に行くのはもちろん理由がある。
ひとつは、「過酷な男尊女卑の世界で東京JKが娼婦となってサバイブする」というシチュエーションのためだ。これを現実世界でやろうとすれば両親の存在や児童養護施設といった社会的セーフティネットを何らかの形で消化しないといけないし、ハルは18歳未満なのでソープで働けないという問題もクリアしないといけない。自らウリをやるか非合法施設で働くとかそういう話になるが、そんなことを話の俎上にあげれば『JKハル』の主題からどんどん離れていってしまう。『JKハル』が描こうとしている話をやるためには誰もハルを助けてくれない異世界に放り出されるのが手っ取り早くかつ妥当なのだ。
理由はもうひとつある。それは『JKハル』が異世界転生モノへの批判と愛を内面化したメタ小説だという点だ(と書くと、「異世界転生モノを馬鹿にしているのか」とか「異世界転生モノをメタったなろう小説はいくらでもある」とか怒り出すやつがいるが、別にそういう話はしていない。『JKハル』もまたメタ異世界転生の要素をもった作品で、その消化の仕方が独特だというだけである)。これは読めばわかるし、既に指摘した感想なり論考がネットにあるため詳しくは解説しない。
せっかく異世界なんだから、魔法を使ったすごいセックスとか、非ヒューマノイド型のモンスターとのセックスとか、いくらでも突拍子もない想像力あふれるセックスが描けるだろうに、何でこんなつまんない当たり前のセックスばっかりなの?
これこそ山本弘の「想像力が貧困」で、かつ『JKハル』が描こうとしているものをまったく理解できていないことを自ら告白する一文であろう。
『JKハル』を読めば誰もが当たり前に理解することだろうが、あの作品は別に「魔法を使ったすごいセックスとか、非ヒューマノイド型のモンスターとのセックス」を描こうとしていない。そんなことを言い出してしまうのは戦国時代にタイムスリップする話は常に現代兵器を持っていくべきなどと言うぐらいおかしな話であって、別にそういう話があってもいいが、全ての作品がそうあるべきと言ってしまうのはただの暴論だ。
『JKハル』におけるセックスは、暴力的で抑圧的で一方的なコミュニケーションの象徴である。男尊女卑の行き過ぎたあの世界で、多くの男性客はハルを含む娼婦に暴力的なセックスをする。実際に暴力を振るわれることもあるし、もっと屈辱で悲惨なことさえ起こる。しかしハルやあの世界の女性たちは挫けず前向きに生きていこうとする。あの作品にセックスが描かれるのはそういう意図から発したものであって、かつその構図を純化して描くための異世界でもあるのだ。
また、ここで言明しておきたいが、男は常に悪者とかそういう話ではない。
『JKハル』が批判的なのは、他者を理解しようとせず一方的なコミュニケーションを取ってしまう者であってそこに男女の区切りはない。
物語の序盤では話を聞こうとしないシスターにハルがめんどくさそうな態度を取るし、何よりハル自身が、もうひとりの主人公とも言える千葉に対して無理解であり、そのことを別の女性キャラクターに指摘されるくだりがある。『JKハル』が主人公や女性をひたすら称揚し、男性であるというだけで批判する話でないことは、念のためここに付記しておく。
いつ異世界転生小説は現実逃避小説であると決まったのか。またそうであったとして、異世界を舞台に現実と戦う小説を書いてはならない理由はなにか。
「SF」の古典に未知なる想像力を描いた作品があることは疑いようのない事実だが、それをもって「SF」は常に未知なる想像力を描くべきというのは暴論だろう。
また、未知なる想像力を描いた「SF」や現実世界とは違う異世界描写をした「ファンタジー」が素晴らしいというなら作品で訴えてこそ作家ではないのか。それを広く世に示す作品が書けず、あまつさえ他人の作品の狙いや意図を理解せずに古典的名著を棍棒にしてただ殴りかかるのであれば、山本には小説家としての矜持と能力がないと言わざるをえないし、作家としての筆を、今すぐにでも折ったらいいのではなかろうか。
それにしても、一方的なコミュニケーションに批判的な視座を持つ『JKハル』に対し、作品を理解しようとせずマイルールを押しつける山本弘は、作中2話に出てくるモブおっさんそっくりで、非常に皮肉が利いている。
1.粘土でできた羊
思うに、人類にとって幸福なことは、ばらばらに与えられた情報をひとつにまとめることができないということだ。
それはたとえば、象について何でも知っている人が、象使いについては何も知らないというように。
ぼくは、こういったどうでもいいことの大半をデレク・フリントフィールドの小説から学んだ。
デレク・フリントフィールドが書いたのは、たとえばこんな話だった。
ある男が毎夜、悪夢にうなされていた。
男は悪夢で見たものをモデルに、粘土像を作った。それは羊に似た何かだった。
彼は、その意味を知りたくて粘土でできた羊を、ある考古学者のもとへ持っていった。
考古学者はそれを見てとてもおどろいた。彼はアフリカで、ある部族につたわる伝説を研究していたとき、現地の老人からこの世でいちばん恐ろしいものとして聞かされていたのが、《粘土でできた羊》の話だったからだ。
その数日後、考古学者は突然心臓が止まって死んでしまう。それがこの小説の結末だ。
これで、デレク・フリントフィールドの作品としては、まともなほうなのだ。
この小説家は、母親の死を知らされると、チェ・ゲバラの肖像写真を抱いてビルから飛び降りてしまった。
やれやれ。
1973年のこと。
そのうちスパゲッティについて、とてもくわしくなっていた。
いいかげんゆでるのにもあきた頃、Kのバーへビールを飲みに行った。
「聞きたいね」ぼくは答えた。
ぼくはスパゲッティについてはとてもくわしかったが、スパゲッティモンスターについては何も知らなかったのだ。
「ふむふむ」
「その団体の人たちは、近所の人たちをさらってきてはひどい方法で殺していました」
「それはひどいね」
「それで、警察が出動して、ピストルをばんばん撃って、信者はみんな逮捕されたんだけど、その時、狂信者の一人が大事そうに抱えていたふしぎな金属でできた彫像を、警察は押収したの」
「彫像?」
「ふうん、で」
「これでこの話はおしまい」
「えっ」
「おしまいなの」
「ふうむ、その、スパゲッティモンスターって、《粘土でできた羊》みたいなものかな?」
ぼくがたずねると女の子はきょとんとしていた。
もちろん女の子は《粘土でできた羊》のことなど何も知っちゃいないのだった。
やれやれ。
3.船が沈む話
ある日、くだらないパーティに出席することになった。
それはとても退屈なパーティで、ぼくは退屈していた。
ある男が話しかけてきた。
「船が沈む話をしてやろうか」
「ああ、聞きたいね」
ぼくは退屈していたのでどんな話でもよかった。
「あるところにノルウェー人の船員がいた」
「ふむ、ノルウェー人ね」
「彼は船に乗って南太平洋を旅していたんだが、ある時、海図に載ってない無人島を見つけた。つまり海底から隆起した新しい島なんだな」
「ふむふむ」
「船員たちはその島を調べるために上陸した。するとそこには非ユークリッド的な建築があった」
「ううむ」
「その建築は神殿のようなもので、大きな扉があった。船員たちが近づいて行くと、扉が開いてそこから恐ろしい怪物くるとぅーが姿を見せた。船員たちは皆あっというまに怪物に食い殺されてしまったが、スウェーデン人の船員一人だけは、何とか船まで逃げ帰り、島を脱出することができた。だが怪物は海まで追ってきた。そこでスウェーデン人は船を反転させ怪物にぶつけた。とぅくるーは沈んでゆき、船も沈んだ。スウェーデン人はボートで脱出し漂流することになった。その間、彼はくとぅるーの夢を見つづけ、救助されシドニーの病院に収容されたときには、すっかり気が狂っていたんだ」
「その、くとぅるーってどんなやつなの?」
「何でもいいんだよ。何なら、《粘土でできた羊》でもね」
「えっ、……」
「それでな、そのノルウェー人の船員は、故郷のノルウェーの森に帰って、そこで井戸を掘りながら死んだそうだ」
「ん、ノルウェー人なの?」
「そうだよ」
「生き残った一人はスウェーデン人じゃなかった?」
「……どっちだっていいんだよ。何ならデンマークの王子ってことにしてもいい」
「あ、そう」
「じゃあ、こんどはデンマークの王子がスパゲッティモンスターと闘う話をしてやろうか」
「もう、いいよ」
ぼくがそう答えると、男はその場からはなれて、どこかへ行ってしまった。
ぼくは家に帰ると、南佳孝の「スローなブギにしてくれ」をかけながらビールを飲んだ。
そしてその日11本目のタバコに火をつけた。
吐き出した煙が流れて消えていくのを、ぼくはぼんやりながめていた。
THE MANZAIっていう漫才番組でウーマンラッシュアワーが政治風刺の漫才を披露して、それがTwitterとかで話題になってる。
一部のネット民はこれぞ本来のコメディだ!今の日本のお笑いは終わってる!とか絶賛してて、茂木健一郎とか乙武とか津田大介とかの知識人とやらもこぞって称賛してる有様を見て、ああ日本の知識人の文化レベルって低いのかなぁって思った。
茂木健一郎いわく批評性こそがコメディの真髄らしく、ウーマンラッシュアワーの漫才は政治批判してるから批評性があって、本来の(アメリカとかで主流な)コメディっぽいから素晴らしいらしい。
そもそもなんでアメリカのコメディを基準にする必要があるのか意味わからんし、政治風刺を日本のコメディアンに求めるのも意味不明。
今回のウーマンラッシュアワーの漫才は、特に後半は単に政治を直接批判してるだけで、何もメタファーがきいて無かったから聞いててしんどいだけだった。
自分が思っていることを言葉でダイレクトに伝えるってのは芸としては一番安直だし、それなら漫才にする必要も無い。
漫才ってのはある意味ウソなわけでしょ。なぜウソを付くかというと、正論なんかより物語やメタファーの方が力があるからで。
例えば漫画家や小説家がもし政治を具体的に批判するような物語描いたら駄作になること間違いないし、薄っぺらなプロパガンダになることは目に見える。たぶんそれ見て喜ぶのは同じ政治的思想を持った人たちだけだろう。
とりあえず、ウーマンラッシュアワーの漫才見て熱狂して、これを笑えない奴は日本のくだらないお笑い芸人に毒されてるだとか言って選民意識撒き散らしたアホが気に食わなかったから書いた。
というわけで、文化レベルの高い俺は今年も50過ぎたおっさんがケツ叩かれまくっていじめられる番組見てケラケラ笑いながら年を越す予定です。
この数年ずっとずっとずっとあの四人が大好きだった。
だけど今年一年、どうして?と思うことが多すぎた。
いつまでそのイジるトークをするの?
毎回毎回泣かないでよ。泣くなよ。泣くようなことしないでよ。
やりたいこと、できること、してきたことの釣り合いがとれてないんだよ。
だから泣くことになるんだよ。
笑ってる姿が見たくてコンサートに行くのに、毎回毎回毎回、泣くのはずるい。
どうして気が付かないの。本当に気が付いてないの?
私はどうしてもあの日、東京ドームで感じた空虚を無視しきれない。
アイドルはアイドルであることに軸足を置いてくれないと、成り立たないんだよ。
アイドルなんだよ。
天狗になれるほどの地盤はないんだよ。私は抜けていったあの2人が苦手だけど、特にPのほうは嫌いだけど、世間はPのほうが好きなんだよ。
Pに勝てよ。勝ってよ。アイドル力で勝ってよ。
私はあの4人が好きだよ。Pより、歌だってうまいよ。演技だって真面目にやってる。教養もある。センスがすごい。好きだよ。大好きだよ。
だから、勝ってよ。
私はずっとずっとずっとその瞬間が見たかったんだよ。
どうしてまっすぐ戦ってくれないの。
アイドルの主戦場は、「アイドル」であることそのものなんじゃないの。
個々の技能を伸ばすことと、真面目にアイドルに向き合わないことは別だよ。
いいよ。それはそれでいいよ。わかるよ。
でもいま、それってファンの方を見てる?見てくれてる?
少しずつ努力して、少しずつやりたいことやって、やりたいことができるようになってきて、そうして得た技能に溺れてない?
アーティスティックに溺れられるほどの技能はまだないことに気が付いてよ。
「アイドル」だからさせてもらえてるんだってこと、忘れてない?
FNS歌謡祭が苦しすぎて見ていられなかったのは私だけ?
まっすぐ歌ってるところが好きだった。
雨のなか踊ってる姿に胸をうたれた。
私は歌って踊る白い王子様になろうとしてる四人を、なりたがっている四人を愛していたのかもしれないな。
でも現状で、ただ「歌って踊るアイドル」を馬鹿にしてるのは、今のあなたたちなんじゃないの。
文句を言いたくなったときが離れ時だって、なんか少し前にリツイートいっぱい回ってたな。
だから私は離れないといけないんだろうな。
応援して追いかけていた間、楽しかったな。美しい恋みたいだったな。
美しい恋だと思えるうちに離れないといけないんだろうな。
この、ごめんなさい、みたいな気持ちはなんなんだろう。これが担降りなのかな。
私はネバーランドに住めなかった。
歴代大河ドラマの一覧をwikipediaで見ていたら、2010年代以降はほとんどがオリジナル脚本で、原作の歴史小説はないのが主流だったのだなぁと改めて知った。
70近くなる父は、自分が若い頃の大河ドラマのチャンバラ性・戦場っぽさ・大見得感や、成り上がり人間ドラマ感(昭和の頃は戦国武将に学ぶサラリーマン術みたいなのがたくさんあった)
がお好みで、この頃の大河ドラマはつまらんと、いかにも老人らしく怒っている。
よく考えたら「歴史小説」という小説ジャンル自体が変化したというか、司馬遼太郎、宮尾登美子、海音寺潮五郎、山岡荘八やら、
いかにも重厚感ある”大河映え”する長編歴史ものを書く小説家もみんなとっくに死んじゃってるし。
そりゃー大河ドラマがライトタッチになるのもしょうがないよね、と父を慰めた。
今期は特に女性におもねりすぎというか…、女の私でも、それなりに面白いんだけどでももうちょっと男性的でいいと思うんだけどな
その方が”大河”ぽくていいのになぁと思って見ていた。
必ずしも小説を読む必要なんてない。本である必要さえない。上手な文章なんてそこらへんに転がっている。
小説を書きたいのか? 読んでもらえるブログを書きたいのか? ビジネス文書か? 論文を書きたいのか? あるいは、漠然と文章を上手になりたいと思っているのか?
論文を上手に書きたい人が、文章力向上のために小説を読んでも意味がない。同様にして、ビジネス文書を上手に書きたいのに小説を選んでも仕方ない。
読まれるブログを書けるようになりたいなら、人気のブロガーの文章やウェブメディアの記事を読みまくるのが一番の近道。小説から何も学べないわけではないけれど、やや遠回りな気がする。
物語を書きたいのならそれこそ小説を読みまくった上で、人気作家が執筆した文章指南書を読むのが良い。
文才という言葉もあるけれど、少なくとも読まれるためという程度の文章力は努力によって身に付けることが可能。
芥川賞を取った小説家だって書きまくってより良い作品を生み出し続け、無名時代からのし上がり、何度かの候補の後に受賞する。
最初から素晴らしい小説を書けたわけではない。そういう人も稀にいるけれど、それこそ天才という例外である。凡人の我々と比べる必要なんてない。
つまり、文章力を向上させるには読むことに加えて、実際に書くことが重要になる。
サッカーの技術書を熟読したとしても、実際にサッカーが上手になっているなんてことはない。実際にやってみてテスト&エラーを繰り返すことが重要。
一番いいのは書くことを習慣化してしまうこと。
ブログを最低2000文字で週1で更新するとか、増田日記に400字以上を週3で書くとか。無理のない程度の目標を設定すること。書くことが嫌になってしまったら元も子もない。
習慣化こそ成功への近道。共に頑張ろう。
仕事柄、UXとかデータ分析とか、その辺が少し強いと思われているらしい。
職場の人からその辺の勉強の仕方を聞かれたので答えようとしたら、意外と長くなりそうだったのでメモがわりに書く。
そもそも、UXという言葉が流行りだしたのは最近の話だと理解していて、バズワードに近いと思っている。概念自体は遥か昔からあるものだし、何を今更世の中がUXというワードを使いたがっているのかが良くわからない。(が、ここでは面倒くさいので、定義が曖昧なUXという言葉で色々お茶を濁す)
また、UXを勉強するという言葉も、正直なところ違和感がある。
というのも、具体的なケースと紐づいて考えない限りは意味がない気がするからだ。文章の批評ばかりしていても小説家になれないのと一緒で、UXについて本や講義だけで勉強していても、UXに強くなることはないと思っている。つまり、自分たちが作っている(関わっている)サービスの中でUXを考えつくすこと自体が、一番の勉強なんじゃないかと思っているので、UXを本や何かで勉強するというのは効果は薄いんじゃないかと思っている。
とはいえ、体系化出来るメタスキル的なものがあるのは事実だし、その部分の話を書いてみる。
「UXを良くしたい」という話をよく相談されるのだが、そもそもとして、UXが良くなった後の世界をちゃんと考えられていないことが多い。
「そのサービスを使ってユーザは幸せになるの?」という問いにきちんと答えられない場合、黄色信号という印象。
UXUXってバカみたいに唱えている人はたくさんいるけど、自分たちのサービスのUXが良くなることでこんな世界が実現できるよっていう話を、具体的に、鮮明に、誰が聞いても腹落ちする形で話せる人ってどれだけいるのかな。UXを良くしたいと言っているのに、良くした後の先の世界がイメージできていなくて、どうやって良くしていくのか甚だ疑問なんだよね。
なので、UXを考えるにあたっては、「自分たちがどうしても叶えたい世界」があって、それが叶うことによって「世の中の誰かがすごく幸せになる」という確信が必要条件だと思ってる。なので、そこがない時点でUX改善どころかサービスを作ること自体をやめた方がいい。
もし、そんな感じの祈りにも似た思いが少しでもある場合は、自分たちが作りたい世界についてしっかりと考えて、そしてそれらを検証して確信に変え、具体的な言葉に落とし込むというプロセスを徹底的に行うことを、UX改善の前に行なった方が良い。そうやって生み出された言葉が、UXを考えるにあたっての拠り所になる部分になっていくから。
自分たちが作りたい世界を言語化できた後は、ユーザの観察と妄想に尽きる。
課題解決系のサービスなら、ユーザに当たる人が本当に困っているのか、何に困っているのかを見極めるために観察すべきだし、何らかのバリューを付加するサービスなら、「このサービスを使ってもらうことで幸せになるのかという妄想」をいかに具体的にできるかが鍵になる。
これらの観察および、具体的な妄想をしていくこと自体がUXを考えることである。
炊飯器が目に入ったので炊飯器のUXを考えるとした時の例で話す。
多分、こんな妄想をする。
炊飯器とか既に他の製品が存在するものは、ユーザの行動もだいたい想像できるし、何より自分が使うものだから妄想しやすい。
逆に、全く新しいものを作ろうとする時なんかは、妄想も中々大変だと思う。バイアウトして話題のCASHとかは、その辺りの参考になるものが中々なく、妄想もやり辛かったと思うので、それを形にできたUXデザイナーの人はすごいなと思う。会ってみたい。
これはかなり適当に書いたが、自分たちが行なった観察に基づく妄想に対して、それらが意味のあるものかどうかを見極めていく必要がある。これがいわゆる価値仮説の検証と呼ばれるもので、妄想が本当に必要とされるものなのかを見極めるフェーズである。必要とされないものなんて作っても意味がないから、この段階できちんと仮説の検証をしておく。検証については対象によって全く異なるため、都度考える必要があるので割愛。
例はかなり適当に書いたが、ユーザをしっかり観察して、その上でどうやったら幸せになるかを妄想して、それらを検証していくというフェーズを、手抜きせず行うことが大事だ。これが業務系のサービスだと、業務フローを作ったりするのだろうし、C向けサービスだとカスタマージャーニーなんかを作ったりすることになる。その辺りの手法は色々あるが、ユーザを見て、考えて、検証してという基本はどれも変わらない。
ユーザをひたすら観察したあとに、初めて解決策を考えるフェーズに移る。
解決策ありきのプロダクトだと(昔の技術先行型の日本の家電だけど)、あまりいい感じにはならない。
あくまでも、ユーザの観察が先にあって、それに対する「解」としてプロダクトを作っていく。
この、課題に対して適切な解を出していくこと自体が、UXの磨き込みに当たるという理解をしている。
そして、それらが部分最適にならないよう、全体最適も意識しながら解決策を考え、プロダクトに落とし込んでいく。
「ご飯は1分で炊けるけど、風呂釜より大きい炊飯器」とか、誰も必要としないよね。だけど、部分最適だけを考えるとそんなことになりがちである。そのためにも、部分を考えたら、全体を見るということを繰り返し行なっていくことが大切だと感じている。その意味では、捨てるべき部分と、活かすべき部分のバランスをどう取るかが大切になる。ここも結局ユーザが教えてくれるので、事前にしっかり観察できていれば、勝手に答えが出る。
長々と書いたが、自分たちが作るサービスを使ってくれる人たちが、「どうやったら素敵な感じになるかを考え尽くすこと」が最高の勉強方法だと思っている。なので頑張って考えると良いと思う。
とはいえ、何を考えればいいかわからないということもありそうなので、その時は
・誰のためのデザイン
・複雑さと共に暮らす
・融けるデザイン
あたりを読んでみるのは良いかもしれない。少なくとも、何かを考えるにあたっての視野は広がるような気がする。
また、解決策を生み出していくにあたっては、ロジカルシンキングが出来るに越したことはないので、
あたりを読んで見るのも良いかもしれない。後者は分類的にはロジカルシンキングの本ではないのだが、ロジカルに考えた時の解決策って一つだけじゃないよねということを身を以て知るためには良い本だと思う。
また、散々書いたが、UX云々の前に、自分たちが作っているサービス(だったり、炊飯器だったり椅子だったり)で「何を届けたいか」という部分が一番大事だと思う。それ抜きにはUXがどうとか議論するのは無駄というか、意味がないので、しっかり考え抜いてほしい。
データ分析というと、Pythonでごにょごにょやるのがそれだと思われがちだが、一部のデータサイエンティストを除いては、基本的にスプレッドシートで十分なんじゃないかと思っている。むしろ、電卓レベルでも足りるんじゃないかという気がしている。(ここで話しているのは一般的なインターネットサービスを運営していくときの話で、気象予報とか経済予測とかそんな感じの難しいデータ分析の話ではない)
というのも、多くの場合において、四則演算以上のことをしなくてもなんとかなるからだ。
どちらかといえば
といったことの方が大事だし、そもそも「何のために分析するか」が抜け落ちていることが多い。
whyの部分が明確でない分析はそもそも意味がないので、まずはなぜ分析するのかを考えるところから始める方が良い。
データ分析ときいて「統計学」や「Python」を勉強すること自体は悪くないのだが、それよりもまず先に、「なぜ分析するのか」「どんなデータが自分たちのサービスのキモになるのか」といった分析の前提になる部分をまずはしっかり見極めることの方が、統計学の勉強よりも優先されるべきだ。それらがハッキリすれば、手法はいくらでもあるし、だいたいはスプレッドシートの関数でなんとかなるので、難しい計算は特に必要ない。
実務でよく使うデータなんて、売上、利益、利益率、ARPU、CPA、CTR、CV、CVRとかくらいだし、これら全て四則演算のみで出せる。分析といっても、平均だったりそれらをユーザの属性で割り振ったりするだけだし、中学生でも問題なく出来ると思う。ただ、重ね重ねになるが、whyの部分がない場合はいくら分析しても何も生まないので、まずはそこを見極めることに重点をおいた方が良い。
長くなったので無理やりまとめる。
勉強<<<<<実務であることは間違いないので、まずは自分が関わっているサービスについて真剣に考えたり、真剣に考える上で必要な数字が何かを自分の頭で考えることが、最高の勉強だと思う。教材とか、具体的なHowを期待していた人、ごめんなさい。でも、Howの意味で見ても、実践に勝るものはないと思っている。
ネットを見ていると時々、売れない漫画家のインタビューをみることがある。かつてはそれなりに稼いでいたが次第に誰からも求められなくなり現在はアルバイトで生計を立てているという内容だ。
そこで決まって始まるのが出版社に対する愚痴である。出版社が求めるのは売れっ子のベテラン作家かこれから伸びる若い作家であり自分のようなヒット作もないベテラン作家に仕事の依頼は来ない。デビューが同時期の知り合いはみんな辞めていった。自分もどうなるかわからない。将来が不安だ。などと言い自分の身の上を嘆くのである。
漫画家に限らず小説家や音楽家などもそうだが、このような発言をする人にはひとつの共通点がある。金を稼ぐ努力を一切しないのである。芸術家を気取り良いものを作れば売れると考え作品の制作すること以外は他人に丸投げしているのである。
彼らに自分が個人事業主であるという意識はない。経営の勉強をしてどうすれば利益が出るか考えようとしない。市場の動きにも無関心で「良い作品」にこだわり続ける。そのような人物はよほど幸運でない限り売れ続けることはない。
彼らはなるべくして不幸になったのだ。
姉に会いたい、と今朝コーヒーを一口含んだ時、不意にそんなことを考えた。わたしを甘やかしてくれる姉のことが、わたしは大好きだった。捉えどころのないあの人は、言ってみればこの漂うコーヒーの煙のような人であった。
わたしは誰がどう見たって可愛くない子どもだったし、自分でもそれを分かっていたけど、姉はいつも「あんたはこの子に似ているね」と外国の儚げな美しい女の子を指差した。姉は海外の雑誌を読む姿が様になる、姉が指差したような少女とはまた違った、けれどとても美しい人だった。父にも、母にも、勿論わたしにも似ていない人だったが、母方の祖母には、少し似ていた。わたしは祖父母も大好きだったが、やはり一番姉が好きだった。
姉は美しい人であったが、決してお淑やかな性格ではなく、奔放なところがあった。頑固者で、一方では生真面目でコツコツ努力する人間であった。さらさらと流れる水のように美しくて、掴み所のない女性だった。
姉とわたしとは四つ離れた姉妹で、似ても似つかぬ容貌と性格であったと思う。しかし背丈は似たり寄ったりであったし、服の趣味も似ていたので、髪型を姉に似せていたときには、双子かと尋ねられたこともあった。思わず姉と顔を見合わせて笑ったら、仕草までぴったりですね、なんて言われて、益々大きな声で笑ったこともある。懐かしい思い出だ。
姉に会いたい、というのは、姉が今はもうここに居ないためである。亡くなったわけではないが、年に一度便りが届くだけなのだ。
姉が大学を卒業した年、わたしは高校を卒業した。姉は家を出て、少し離れたところで一人暮らしを始めた。そうしてわたしがまだ大学に通っている学生だった頃、ひょいと家に戻った姉が布団にもぐったわたしにこっそりと、「日本を出るんだ」と告げた。まるで子どもの頃一緒に悪戯したときのような口調で、ニコニコ笑いながら、そんなことを。
姉には年の離れた恋人がいた。出会いは知らないが、大学生の頃に知り合ったのだ。彼を追いかけて、姉は就職先を彼の住む街に決めたことをわたしは知っていた。それで、その人が海外に行くというので、仕事を辞めてついて行くのだと姉は言った。前に言ったように姉は頑固者だったので、引き止めることは何の意味も持たなかった。だからわたしは代わりに「そっか、元気でね」と言った。姉は頭の良い人だったし、特に姉の英語はとても美しい響きを持っていたから、向こうでもきっと上手くやるだろうと思った。そしてまた、姉は恋人と別れても、きっとここには帰ってこないだろうなとも。この家も、あの街も、姉には窮屈すぎたし、姉はもっと広い世界に行くべきだと思っていた。だから当然だと、これで良いと自分に言い聞かせた。本当は、姉を奪っていくあの男が許せなかった。顔も知らない姉の恋人を、心の底から恨んだ。それでもわたしはもう一度、「元気でね」と言って笑った。少し声が震えた涙声になったのが恥ずかしかった。姉はわたしの頭をいつもと同じように撫でて「ごめんねぇ」とあまりすまないと思っていない風に言った。
「あんたはとびきり可愛いからね、これから先も、誰からも愛されるよ。私が言うんだから、間違いないよ」
わたしは布団にもぐったまま、声を殺して思わず泣いてしまった。わたしは可愛くないし、誰からも愛されるなんてわけはないのに、飛び立つ姉は無責任にそんなことを言ってわたしの頭をただただ撫でていた。酷い女だ。同時に、この人が世界で一番幸せになったらいいなと思ったし、できたらこの人が世界で一番幸せになるのを、隣で見ていたかったなとも思った。勿論、もう過ぎた願いだ。
姉は駆け落ちをしたわけではなく、きちんと両親には話をつけていて、わたしに報告をした翌日、家を出た。そして確かその三ヶ月後くらいに、日本を出て行った。最後に空港で見た姉の恋人は思っていたよりもずっと普通の、しっかりしたお兄さんという感じの人で、わたしは少し安心した。姉が飛行機に乗る前、二人で抱き合ってわんわん泣いた。ようやく泣き止んだところで姉は「あんたにあげる」と言って、大好きだった外国のモデルの女の子の切り抜きを沢山くれた。「この子、あんたに似てるから好きだったんだ」と姉は言ったけど、何回眺めても、やっぱりわたしには似ていなかった。それでもその言葉は嬉しくて、大切で、わたしはその切り抜きの入ったファイルを有り難く受け取った。
あれからもう随分経って、初めはこまめに届いていた姉からの便りも、今では年に一度、元旦の頃に届くだけになった。今でもあの恋人と一緒のようで、手紙には腹が立つほど仲の良さそうな二人の写真が同封されている。遠くに行ったとはいえ、今の時代、帰って来られない距離とも思わない。帰って来たらいいのに、と思う。とはいえ姉はあの時も思った通り、あの家には戻らないだろうなとも思っている。
わたしは、姉のお告げ通り誰からも愛されたというわけではないが、それなりに人の愛を受けて、人並みに成長した。きちんと独り立ちをして、今は都内の会社員だ。大企業ではないが、そこそこの収入と、有給をきちんと消化できる環境を手にしている。姉が会いに来てくれないのなら、わたしが会いに行ったって良いだろう。もうそのくらい、お互い良い歳になった。あの頃はまだスマホが普及していなかった。あと一年ばかし我慢しておけば、ちょうど普及していた頃だった。姉も流石に今は手にしていることだろう。SNSのIDなんかをしっかりと聞いて帰ってこよう。必ず、そうしようと考えている。
姉の誕生日は冬と春の境の、曖昧で美しい季節の只中だ。姉のそうした偶然のような美しささえ好きだったなぁと思う。好きだったのだ。なので、ちょうどその頃、きっと姉のもとを訪ねてみようと決めた。すっかり冷めてしまったコーヒーの匂いを嗅ぎながら、そんなことを考えた朝だった。
追(11/11) あんな時間に書いたのにこんなにたくさんブクマがついててびっくりしました。普段は夜中か夜明けに疲れたとかしか書いてないので姉のこと書いたのは初めてですが、こんなに伸びたのも初めてです。コメント返すのとかは面倒なのでしないですけど、わたしは本当にただのしがないアラサー会社員ですし、匿名である以上そんなの嘘かもしれないですし、創作だと思う方はそう読んでいただければと思います。褒めて下さった方も、色々と評価下さった方も、こんな長くてヤマもオチもない文章を読んで下さってありがとうございます。コーヒーの煙は自分でも笑いました。小説家でもないので、許してやって下さい。