はてなキーワード: 小説家とは
1.そもそもほとんどの人がポストモダンを1ミリも知らない(ポストモダンの建築家、小説家、哲学者をそれぞれ三人ずつあげられる?俺は無理)。
2.ポストモダンを理解できないことをほとんどの人は気にしない。
3.自分を賢いと思い込んでいる馬鹿者が「ポストモダンが意味不明なのは空虚だからである(意訳:俺が理解できないポストモダンは糞!)」とかなんとか発言する。
4.ほとんどだれも理解していないので、馬鹿発言が間違っていると判断のつく人が皆無。
5.そのくせソーカル事件(馬鹿者がポストモダンを馬鹿にできる最高のクズネタ。正しく批判できる人はすくない)の知名度は比較的高く、馬鹿者の聖典になっている。
6.だれも指摘できないので馬鹿者の馬鹿発言がなぜかまかり通る。馬鹿者が意気がる。
返答ということでもなのですが、あなたの文章に切実さを感じました。
ですので、書きます。
ひどく露骨に、まるであなたも文章書く職業の方、小説家のような物語を作る方なのかと、はじめ思いました。
ですが、やはりあなたは、趣味人ではあるけれども創作してはおらず、ひたすら新しい小説、物語を探している方なのだと感じたのでそうおもい回答させていただきます。
要は、私の中にあるリベラルな側面に対しての、批評なのだとは思います。
ただ、それは私の本意ではなく、まずは今この時代を観察して感じた世間と、私の身近な家族や親戚と、そのギャップをまず描きたいと思ったわけです。
要は、心の拠り所、の話を描きたいと。
読んだ方が、その拠り所がその方の想いとずれたところにあって結末を迎えたので、感情的に許せないのだろうな、と。
でも、読んでいただけたらもう少しご理解いただけるのかなと思うところなのですが、
正義のぶつかりあう場所、がまさに物語なのだと、私は感じております。
もし、あなたがなにかとても大事な想いがあってそれだけ批判したくなるのであれば、
是非試しに
どんな形でも良いから、表してみたら良いのだと、節におもいます。
なぜなら、それこそが私の観たいことだからです。
批評批判、昨今で言いますとそんなギャップが面白おかしく、炎上、などと言ってもてはやされますが
そんな一時の盛り上がりより、もっと言葉にならないあたりから言葉にした表現が、とても大事です。
つたなくてもいいです。
あなたの文章、つたないですが何かとても大事なものを抱えているように見えたので
返信させていただきました。
愚痴ふくめいくらでも無駄をしていい。私もそんな日々があってなにか安定というか表現する入口を担保しています。
でも、もし退屈なら、つたなくても、他人への批判批評ではなくて、
あなたが、批評批判される場所にまずたってください。それを是非にも望みます。
まあ愚痴です。
結論は最終項「みんな家族になりたい」に書いているんで、各項の見出しだけを読んでから最終項を読むのが最短ルートだ。
もちろん、全部読んでくれることにこしたことはないけれど、どこのだれが書いたかわからない約6000字の論考もどきに付き合ってくれる人はまれだろうから全部読んでくれた人にはすごく感激しちゃうよマジで。
『エロマンガ先生』にはいくつも奇妙なところがある。中高生なのに小説家・イラストレーターとして第一線で活躍しているのが奇妙だというのではない。現代日本を舞台にした中高生のラブコメなのに「学校」がラブコメ発生装置として使われず、それどころか学校がほぼ出てこないのが奇妙な点のひとつだ。
『エロマンガ先生』は「家」が舞台の中心であり、方向性でもある。これは長編のラブコメとしてはめずらしい。
1~8話、12話は和泉家、9話10話はエルフ大先生の別荘(家の延長)が舞台になる。出版社はたまに出てくる程度なのでラブコメ発生装置として機能しているとはいえない。
つまりこれは、もう学校はいらないという宣言をしているということだ。
原作は小説家が小説家について書いている小説家小説だ。しかし『エロマンガ先生』は小説家小説として奇妙だ。
通常の小説家小説には、小説家あるある、小説への熱意・展望・愚痴、小説論、作者自身の体験談らしきもの、などが書かれるものなんだけれど、『エロマンガ先生』にはいっさいそういったことが出てこず、歯の浮くような理想論しか語られない(あんなことを本気で思っている小説家はいない)。また、さまざまなライトノベルが出てくるけれど、どれも超有名どころばかりだ。ふつう、もっと自分の好みを推したり、もっとマニアックな作品をあげたりするものだけれど、そういったことをいっさいやらない。
以上の二点から『エロマンガ先生』は、本来的な意味で小説家小説をやる気がないとわかる。
では、なんのために小説家小説の枠組みを利用しているのか。それは話を二層仕立てにするためだ。
まず、疎遠気味だった正宗と沙霧をつないでくれたのは「小説内小説」だ。正宗は、沙霧のために最高の妹萌えを目指して「小説」を書き、沙霧はその「小説」のためにイラストを描くという関係になっていく。
エルフ大先生、ムラマサ先輩とも「小説内小説」によって関係が構築されている。正宗がエルフ大先生の「小説」のファンだということでふたりは仲良くなるし、ムラマサ先輩にいたっては正宗の「小説」がこの世で一番おもしろいとまで言い、かなり積極的に正宗にアプローチをかけていく。
正宗が沙霧に告白するきっかけをつくったのも「小説内小説」だし、ラノベ天下一武道会なんていう「小説内小説」どうしの闘いがあったりするし、ムラマサ先輩が敵意を向けていたのは正宗本人ではなく正宗の新作「小説」だし、エルフ大先生の別荘で合宿をすることになるのも「小説内小説」が根っこにある。
ストーリーの起伏は「小説内小説」に依るところがとても大きい。
ふつうラブコメでは、主人公とヒロインとの関係性(恋愛要素)でストーリーの起伏をつくっていくため、ときには喧嘩をしたり、すれ違いがあったりとマイナス方向に話をもっていく必要もある。
エロマンガ先生の場合は「小説内小説」がストーリーの起伏を担当してくれるから恋愛要素で起伏をつくる必要がない。その結果、超ウェルメイドで、甘々な恋愛のみを抽出することに成功している。マイナス方向の恋愛要素がなにもないのにラブコメとして成立している。これはすごい。
男女間の摩擦のない恋愛描写は批判もあるだろうけど、こんなにうまく抽出できている長編作品の例はすくなくともおれは知らない。
ふつう、ラブコメのエロシーンというのはおまけ要素だ。風でスカートがめくれて女の子のパンツが見えて「ムフ」となったり(ラッキースケベ)、露天風呂でヒロインたちが「***ちゃんの胸大きい~」と会話していたり(サービスカット)、というものだ。
『エロマンガ先生』のエロシーンは格がちがう。『エロマンガ先生』の場合はエロシーンも「本編」であり、ストーリーの進行を補助していく。
たとえば、一話を思い返してほしい。エロマンガ先生の生配信を見ていた正宗はエロマンガ先生が妹であることに気づき、配信を切らずに着替えようとしているエロマンガ先生をドアを叩いて全力で止め、ネット上に妹の裸を晒すことなく済んだというシーンがあった。これはラッキースケベの応用で、一話でもっとも重要なシーンだ。
三話の冒頭では、となりの無人の洋館からピアノの音が聴こえてきて、もしかするとオバケかもしれないと怖がる沙霧の頼みで、正宗がとなりへようすを見にいくと知り合いの少女作家が裸でピアノを弾いていたというシーンがあった。これもラッキースケベだ。エルフ大先生の名誉のためにも念を押しておくと、あれはエロシーンだ。エロと同時に話もすすむ。
このように『エロマンガ先生』のエロシーンは、ハプニングというかたちでストーリーの展開を補助する役割を果たしている。これに加えサービスカットも豊富だ。というかエロシーン・サービスカットのない回がなく、ものすごいサービス精神でもって甘々な恋愛を強化していく。
学校――人間関係の発生―→恋愛要素(人間関係、ストーリー、サービス)←―サービスを強化――エロ
【第二層】恋愛要素(サービス)←――――――――サービスを強化―――┐
↑ │
サービスを強化 │
│ │
【第一層】小説内小説(人間関係、ストーリー)←―ストーリーを補助――エロ
あと、これはおまけ程度の話なんだけれど、この作品、学校のシーンはほぼないのにヒロインがわざわざ制服を着て、主人公に見せにくるという奇妙なシーンがある。それも二回も。
普段は見られない、エルフ大先生とムラマサ先輩の制服姿が拝めるのはいい。けれど、ふつうだったら学校帰りという設定にでもしておけばいいのに、ヒロインふたり共に「男って制服が好きなんでしょう?だから、あなたのために着てきてあげたんだよ」というふうなことを言わせる。
とても奇妙なシーンだけれど、つまりこれは、もう学校はいらないと宣言したけれど、学校生活の面倒くさいところを取り除いた女子の象徴としての「制服萌え」は残っている、ということだ。
でも、もうちょっとだけ、おれの話はつづくんだ……。
智恵という幼なじみのキャラがいる。この幼なじみ、ほとんど活躍しない。「お嫁さんになってもいいよ」みたいなことを言うけれど、目立った活躍はそれくらいで、あとは正宗とラノベ談義に花を咲かせているだけだ。
また、エルフ大先生にお隣さんの感じがないことも気になる。お隣さんの感じがない理由はさまざまだ。初登場時にお隣さんではないこと、お隣さんらしい活躍を見せるのが三話から五話前半までの短い期間だけだということ、お隣さんのテンプレートをこなしていないこと(たとえば、朝起こしにくるとか、両親公認の仲になっているとか、いっしょに登校するとか)などが挙げられる。
幼なじみもお隣さんもさほど有効につかわれない。つまり、「となり近所」という公的領域も重要ではないということだ。
「学校」「となり近所」といった公的領域は重要ではない。では、『エロマンガ先生』のキャラたちは、なにを支えに生きているのだろうか。みんな我が強いし、仕事で成功しているから、自分ひとりの力で自立しているように見える。けれどそうではない。ましてや恋愛至上主義者の集まりでもない。
第八話「夢見る紗霧と夏花火」の終盤、こういうやりとりがある。
沙霧「ふつう……」
正宗「この家にみんなが集まってくれてさ、みんなで同じもの食べていろんなこと話して、おれはすげえ楽しかった。その分みんなが帰ったらシンとしちまったな」
沙霧「兄さん、寂しかったの? あのときの電話、なんだかおかしかったから……」
正宗「そうかもしれない。おれはね、ひとりでいるのが怖いんだ。おれの実の母親な、おれがひとりで留守番してるときに事故にあって帰ってこなかった。だから新しい家族ができて嬉しかった。情けないよな」
(花火の上がる音)
沙霧「やっとわかった。兄さんは家族がほしいんだ」
沙霧「私は兄さんを家族だなんて思ってなかったし、兄さんの妹になんてなりたくない。でも、しょうがないから、ちょっとだけ妹のふりをしてあげる」
おれが『エロマンガ先生』のなかでいちばん好きなシーンだ。でも、いい話だというだけではなく、とても重要なことを言っている。
複雑な家庭事情の結果、一軒家にふたりきりになってしまった正宗と沙霧が、どうやって家族になるか。それは第四話「エロマンガ先生」の終盤で提示されている。
正宗「なあ紗霧、おれにも夢ができたぞ。おれはこの原稿を本にする。たくさんの人たちをおもしろがらせて、バンバン人気が出て、楽勝で自立できるくらいお金も稼いで、そんでもってアニメ化だ!」
沙霧「それが兄さんの夢?」
正宗「ちがうちがう、こんなのは前準備だ。うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ、おまえを部屋から連れ出して、ふたりでアニメを見るんだ。おれが原作で、おまえがイラストを描いた、おれたちのアニメだ」
正宗が熱心に語る「うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ[……]ふたりでアニメを見るんだ。」というのは幸せな家庭のイメージそのものだ。そして、「おまえ(沙霧)を部屋から連れ出して」というのは、沙霧の閉じこもり克服=ふたりが家族になるための第一歩目という具体的なイメージを正宗はもっていることを示している。
正宗と沙霧だけではなく、エルフ大先生やムラマサ先輩も家族の夢をもっている。
エルフ大先生は第九話で「結婚」を強調した愛の告白をする。両親がプロポーズをした場所で、両親の幸せな結婚生活のイメージを、自分と正宗が築くてあろう幸せな結婚生活のイメージに重ね合わせる。ただ、父親とは幼いころに死別しているため、その幸せのイメージは淡い。
ムラマサ先輩も七話で、正宗に「わたし専属の小説家になれ」「印税のすべてをあげてもいい」と言い、後に愛の告白もする。セリフからは「ヒモ」のようなイメージが浮かんでくるけれど、見方を変えれば、世帯主の女が男を養うという家族といえる。
ただし、正宗と沙霧が共有している「仕事 → 家族」というとても明確なヴィジョンに比べて、エルフ大先生とムラマサ先輩のもつヴィジョンは不完全だ。エルフ大先生のは曖昧すぎるし、ムラマサ先輩のは一方的すぎる(そもそも無自覚だ)。ついでにいっておくと、智恵(幼なじみ)は「お嫁さんになる」というフワ~ッとしたことしか言えてないので蚊帳の外だ。
ここまでの話で「仕事 → 家族」という考え方はおかしい。「仕事+恋愛 → 結婚 → 家族」と考えるのが常識なのではないかと思う人もいると思う。
率直にいうと、家族をつくるのに恋愛・結婚をする必要はかならずしもない。『エロマンガ先生』において恋愛はおまけにすぎない。
前述したとおり、『エロマンガ先生』は小説内小説=仕事さえあれば人間関係を構築できるし、ストーリーがすすむし、家族の夢に向かって前進することができる。恋愛はあくまでサービス要素にすぎず、あってもなくても、なにも影響しない。つまり、おまけだ。
『エロマンガ先生』における各要素の重要度は「恋愛 < エロ < 仕事 < 家族」というふうになる(学校、となり近所は除外)。
このなかで恋愛はおまけだから簡単に省ける。エロはストーリーの補助をしてくれるけれど省こうと思えば省ける。仕事(小説内小説)はストーリーや人間関係などさまざまに絡んでいるので必須だし、家族は最終目標だ。
家族をつくる=(常識で考えれば)結婚する、ということに恋愛はいらないんじゃないかとおれは思っているし、国や会社やとなり近所が直接的に手助けしてくれるわけでもない。会社がしてくれるのはあくまで金銭的な補助のみであり、仕事をしていないとその恩恵にあやかれない。国はほんとうになにもしてくれない。仕事こそが最重要だ。おれは会社に生かされている。そして日々の辛い業務から離脱すべく、おれはマンガやアニメに没頭する……(宗教? 芸術? 知らない子ですね……)。
『エロマンガ先生』はこういったおれの(おれたちの、おまえたちの)現実をしっかりと的確に描きつつ、荒唐無稽なエロバカアニメを全力でやっているところがすばらしいところだ。
※追記 指摘のあった箇所を修正
小説家の山田詠美は増田くらいの年頃まで小説を書いた事が全然無くて、貧困で行き詰まった時に初めて書いた作品がヒットして小説家になった。確か後に、あえて書かないでいた溜めの期間が大事だったという様な述懐をエッセイに綴っていた。
ただし、山田詠美の全盛期は日本の全盛期でもあり今の出版不況時代とは全然違うという事と、山田詠美は小説を書いた事は無かったが若い頃漫画家をやっていた時期があることに要注意だ。
そういえば森博嗣も小説を全く書いた事が無いところから金欲しさに一念発起して40までに小説で売れるとかいう目標を立てて39歳で実現してしまうのだが、森博嗣は元々名古屋同人誌界で腕をならした強者なのである。
こぐまのケーキ屋さん描いてる人からすごく邪悪な気配を感じるんですよ— ピーコ (@peeko777) 2017年12月1日
めんどくさいオタク向け漫画がツイッターでウケてた人が何たらのケーキ屋さんでポップというか一般客に寄せてきた時にめんどくさいオタクたちが一斉に厭味ったらしいパロディや大喜利始めたときに一緒に乗っかってる某氏見て「この人こういうタイプだっけか」と思ったけど個人的な確執があったんすね— ピンフスキー (@pinfusky) 2018年2月21日
「マンガを書くのは大変だからマンガをやってる人は全員偉くて小説はもうすぐ滅びる」みたいなすごい浅いこと言われたので今でもメチャクチャ嫌いですね。— まくるめ (@MAMAAAAU) 2018年2月21日
そのあと「文章にも技術があって」みたいな説明したら「言い訳にしか聞こえない!」とか逆ギレしまくってたし、あの人は病気か薬かどっちかの案件の人だと思う— まくるめ (@MAMAAAAU) 2018年2月21日
初めてはてな匿名ダイアリーを書くので読みにくいかもしれませんが、ご容赦を。
最近よく見聞きする言説の一つが「小説は誰にでも書けるわけじゃない」という物です。私自身の感覚としてそれって本当かな、というものがありこんな文章を書きます。
上手くはないですし、評価をされていると言うこともありません。
感想もあまりもほとんどもらいませんし、もらっても批評未満の意見が多いです。
たまにもらう感想で心がほっこりし、自分の欲求を満たすために小説を書いています。
そんな人が思うのは「小説ってやっぱり誰にでも書けるよね」です。
卑下しているわけではありませんし、貶め炎上することが目的でもありません。
ですがどうしても「誰にでも書けるよ」と思ってしまうのです。
ある人は毎日空想をします。そして「あ、これは面白いな」と思えば140文字でも500文字でも1000文字でも書きます。
もっと言うなら、ノートの端に「○○が●●と△△する。きっとかわいい」などと書きます。
ここまでで察しのいい人は「そういうことか」と解ってもらえるかもしれません。そうでない方にも、解ってもらいたいので私は続きを書きます。
私が言いたいのは「どんなに短文でも、どんなに体裁が整っていなくても、一文、単語の羅列であってもそれは小説だよ」ということです。
空想をして、ひいては感じたことを何かに書き付けたその時、人は小説家になるのです。
多くの人は「小説って書けないよ」と言います。でもその「小説」は川端康成だったり芥川龍之介だったり清少納言だったりする、後の世であろうと通用する作品を指して言っているのだと思います。
もしくは、自分の心に残っている作品を指しているのだと思います。
素晴らしいことです。
他人の心には残らないかもしれないけど、自分の心には色濃く残る文章って誰しも持っているのだと思います。
それは単純に「夕日がきれいだった」「おいしかった」でいいのです。
その裏にある、自分がその時感じた心の動きを思い出せるなら、小説なんて「○○が●●と△△する。きっとかわいい」でいいのだと思います。
人は「それは小説じゃない、ただの感想」と言うかもしれません。
ですが私は、ただ自然と「おいしかった」と書くことは、心のままに「かわいい」「格好いい」と書くことは、それだけで小説家になる行為そのものなのだと思います。
絵に関しても詳しくはありませんが、同じなのかもしれないな、とも思います。
誰かが何かを書いた時、絶対に馬鹿にしてはいけないと思います。
委縮してしまうと色々なことを考えても、表現することが出来なくなってしまうからです。
ですが、明らかに間違っているのだとしたら「間違っているよ」と言うことはあるかもしれません。
間違いは正すべきものです。そして、馬鹿にしてはいけないものでもあるのです。
よくわからない人向け、もしくは私の文章が下手だった場合の、要点を書いておきます。
ジャンル場所問わず世に小説はいっぱいあるよ、それを指して「小説が書けない」は違うと思うよ。
どんな者でも馬鹿にだけはしちゃだめだよ。
初めてはてな匿名ダイアリーを書くので読みにくいかもしれませんが、ご容赦を。
最近よく見聞きする言説の一つが「小説は誰にでも書けるわけじゃない」という物です。私自身の感覚としてそれって本当かな、というものがありこんな文章を書きます。
上手くはないですし、評価をされていると言うこともありません。
感想もあまりもほとんどもらいませんし、もらっても批評未満の意見が多いです。
たまにもらう感想で心がほっこりし、自分の欲求を満たすために小説を書いています。
そんな人が思うのは「小説ってやっぱり誰にでも書けるよね」です。
卑下しているわけではありませんし、貶め炎上することが目的でもありません。
ですがどうしても「誰にでも書けるよ」と思ってしまうのです。
ある人は毎日空想をします。そして「あ、これは面白いな」と思えば140文字でも500文字でも1000文字でも書きます。
もっと言うなら、ノートの端に「○○が●●と△△する。きっとかわいい」などと書きます。
ここまでで察しのいい人は「そういうことか」と解ってもらえるかもしれません。そうでない方にも、解ってもらいたいので私は続きを書きます。
私が言いたいのは「どんなに短文でも、どんなに体裁が整っていなくても、一文、単語の羅列であってもそれは小説だよ」ということです。
空想をして、ひいては感じたことを何かに書き付けたその時、人は小説家になるのです。
多くの人は「小説って書けないよ」と言います。でもその「小説」は川端康成だったり芥川龍之介だったり清少納言だったりする、後の世であろうと通用する作品を指して言っているのだと思います。
もしくは、自分の心に残っている作品を指しているのだと思います。
素晴らしいことです。
他人の心には残らないかもしれないけど、自分の心には色濃く残る文章って誰しも持っているのだと思います。
それは単純に「夕日がきれいだった」「おいしかった」でいいのです。
その裏にある、自分がその時感じた心の動きを思い出せるなら、小説なんて「○○が●●と△△する。きっとかわいい」でいいのだと思います。
人は「それは小説じゃない、ただの感想」と言うかもしれません。
ですが私は、ただ自然と「おいしかった」と書くことは、心のままに「かわいい」「格好いい」と書くことは、それだけで小説家になる行為そのものなのだと思います。
絵に関しても詳しくはありませんが、同じなのかもしれないな、とも思います。
誰かが何かを書いた時、絶対に馬鹿にしてはいけないと思います。
委縮してしまうと色々なことを考えても、表現することが出来なくなってしまうからです。
ですが、明らかに間違っているのだとしたら「間違っているよ」と言うことはあるかもしれません。
間違いは正すべきものです。そして、馬鹿にしてはいけないものでもあるのです。
よくわからない人向け、もしくは私の文章が下手だった場合の、要点を書いておきます。
ジャンル場所問わず世に小説はいっぱいあるよ、それを指して「小説が書けない」は違うと思うよ。
どんな者でも馬鹿にだけはしちゃだめだよ。
らいくまことさんとか空知ゴリラさんとか複数の漫画家がアニメ化のときに物理的に無理な量の仕事させられる(版権絵のカラーとかめっちゃやらされる、最初なにもしなくていいからっていってた話が違う)ってもっのすごい憤慨したあげくらいくさんの場合その最大手と仕事するのやめて訴訟までなってたから。
上の二例は体力ある若い男性。そうでなく女性で最初から体力なくて漫画家でなく小説家になるようなタイプの人が東大出身の口の立つ男性のおじさんの編集(とかアニメプロデューサーとか電ん通とか)のごり押しに耐えられるとは思えない。編集とは最初の理解者であり最後の壁になってくれるはずのもの。そこが信用できなくなったらすべてに抗議する最終手段として筆を折る(自覚あり)か書けなくなる(自覚なし)しかない。
岡崎体育とかソシャゲとか漫画家小説家とかで「結局お金が支援になるんだし、支援した人がメリットを受けられるのは当たり前。がんばって稼いだお金を、がんばって注いだ人が報われるのは道理」みたいな話を最近よく見る。
理屈としてはそうだけどなんか頷けねーなあと考えてた。
私としては、金を稼げてる稼げてない、生活に余裕があるないっていうのは運だと思うんだよね。
たまたまラッキーで、稼げる職、頑張れる環境、十分な能力、健康な心身などなどが揃った結果として稼げてるだけ。
お金ある人もない人もそれぞれ頑張ってて、ただその頑張りがお金に結びつく幸運がどれだけ味方してくれたかが稼ぎの差になってる。
裕福さなんてそんな運で決まってる序列でしかないのに、「金を払える奴、稼げてる奴が善。金が払えないのはそいつの無能さが悪い」っていう意見が主流っぽいことに納得できない。
せめてビジネス提供者側としてはその理屈で動くのが妥当だとしても、ネットの大勢の人たちの意見までが、お金のない層は冷遇する・切り捨てることが当然ってなってんのは、酷薄すぎるんじゃないの。
これまでの話
「(民事)訴訟を起こされたという体験」序話
先ず、原告がどういう人物かについて書いておこう。
原告の名前を仮に「K」としよう。
Kは、高校卒業後アニメの専門学校のCG科に通い卒業時に就職が決まらず、工場の従業員・コンビニの店員等になるがどちらも試用期間でクビになり
自宅(実家)でアフィリエイトブログを立ち上げて収入を得る事にした人物だった。
原告の立てたアフィリエイトブログはネット上で拾った記事を載せて一行二行の感想を書く程度の更新を毎日続けるだけの内容で
開設から余り日が経たない内に、とある匿名掲示板にヲチスレが立つという様(さま)だった。
ヲチスレを立てられている事に気付いたKは、ブログでヲチスレの住民を煽る記事を書き始め更にヘイトを集める。
そして、ヲチスレ民の突撃を受けたKのアフィリエイトブログは閉鎖に追い込まれた。
この時のKの年齢は30歳を過ぎたばかりだった。
それから数年、Kは名前を変え小説ブログを立ち上げ、小説投稿サイトに小説を投稿していた。
ブログの小説の文体から「これはKではないか」と疑った元ヲチスレの住民により調査が行われた結果、その小説家はKである事が容易に判明した。
その小説家がKである事が判明した経緯はこうだ。
①Kは小説投稿サイトの主催のオフ会に参加していた。
②そのオフ会で出会った人物にKはアフィリエイトブログ時代の名前を名乗っていた。
③Kが名前を名乗った人物はKのアフィリエイトブログをヲチしていた人物だった。
という流れだ。
ヲチスレ民は、その人物の仲介で小説投稿サイトのオフ会に参加した人物数名に手分けして接触する事になった。
小説投稿サイトのオフ会でKは他の投稿者に対し上から目線な発言を相当にしていたらしく、
それが理由でオフ会参加者からKは随分と嫌われていた。
また、小説投稿サイトの管理人もKのアフィリエイトブログ時代の数々の悪行を知っており
「同一人物である以上、この小説投稿サイトには置いておけない」とKを小説投稿サイトから追放する方針を決めた。
結果、小説投稿サイトのオフ会の参加者と小説投稿サイトの管理人経由でKの本名と住所が容易に判明した。
①小説投稿サイトのオフ会の参加者経由でKの住所が判明。
②小説投稿サイトの管理人経由でKの本名が判明。
という形だ。
この時のKの年齢は、30代後半になっていた。
Kの本名を突き止めたのが(小説投稿サイトの管理人と接触を持ったのが)私だった。
次回に続く。
先日需要が有るなら書きたいという記事を書いた者だが覚えている人はいるだろうか?
上記の記事には反応は無かったが「(民事)訴訟を起こされたという体験」について書いてみようと思った。
一回では書き切れないので数回の増田になると思うが、最後まで読んで頂けると嬉しく思います。
という事で、よろしくお願いします。
先ず、結論から言うとこの訴訟は、訴訟費用の負担比率(≒訴訟の原因となった出来事に対する双方の責任比率)が原告(相手)側8割、被告(こちら)側2割で決着がついた。
原告側にとっては、裁判所から「この揉め事の原因の8割はお前に有る」と言われ、しかも、訴訟を起こすために使った費用を回収する事も出来なかった赤字訴訟。
原告(相手)は、職業「小説家」を自称する30代後半にもなって未だに実家で両親と同居する独身(結婚していないという意味で)男性だった。
自身の発達障害に気づかず、生きずらさを抱えたままバイトを転々とした話だ。
何気なく読んだものの、たぶんこの話は私にも当てはまるところがあるぞ、と感じた。
私も「そのスペックで、何故こんな簡単なことができない(わからない)のか」と、よく怒られるからだ。
言い訳をするなといわれるし、けして理解はされないと思うけれど、できていないんじゃなくて、まだやっていないが正しい。
たぶん、私は作業の順番や内容の受け取り方が、かなりの確率で人と違っているのだと思う。
それから、雰囲気や空気を読みながら、適当に(この適当がやっかいだ)作業することも苦手なのだと思う。
これも言い訳がましいが、逆に言えば空気を読みすぎて動けなくなる。そして、適当って何。
やったらやったでお前のやり方は間違っていると怒られ、やらなかったらやらなかったで何故できないんだと怒られる。どうしたらいいのか。
ほかにもいくつかあるが、今の職場で働いていると、概ねこんなことで頭がいっぱいになっている。
自分の中では、あれもこれもと考えて仕事しているつもりなのだが、他人からはさぼっているように見えてイラつかれたり、「おどおどするな」とまた怒られる。
決して、働きたくないでござるではない。むしろ、めちゃくちゃ働きたい。
現に以前の職場では、しんどいことも多かったけれど働くことが楽しかった。
そこでは、例えば「〇時までに○○が必要」という明確な終点だけが決まっていて、指定がない限りやり方は自由だった。
仕事ができているという自信も、少しだけあった。でも今の職場ではボロクソな上、人間としても無能すぎて、どうかと思い始めてきた。
好きだった読書も、漫画ですら目がすべって内容がよくわからない。映画は2時間集中できなくて見れなくなった。学生時代に考察サイト書いてた私と同一人物とは思えない。
私が甘えているだけなのか、さぼっているだけなのか、何か原因があるのか。
甘えているだけ、さぼっているだけだと確定するのも怖いな。もしそうだったら、ちゃんと働ける日は来るのかな。