はてなキーワード: 気づきとは
お笑いというのが人の失敗や苦境、容姿の差異についてそれを有益と認める方向の価値観ではないということを話題として伝播させる様式であることが多いのが問題
問題性としてはその方向性が多いため育成されるものがおおよそそういった表現方法しか知らない状態のまま収益活動に活用されること
収益活動に利用されて問題なのは、主たる目的の収益があがらなくなるということ
もとより他人の失敗を笑うと言うのは価値観を付与した情報の作成方法としてある
笑い話というのは伝聞を伝聞から作成するにあたって要所を個人が抑えやすく再編するにあたって再現性が低くとも主体が残されやすい
文脈と結果をセットにしているためでそのどちらかだけ再現しても笑いにはならない
オチを解説しなくてはならない状況になった時その笑い話は笑うという行動起因を欠いていることにならないためお笑いという形式に固めた情報伝達を行動によって得られる快感で伝播させやすくする
情報伝達媒体として人間関係を築くというのは相対的な人間の成り立ちという根本であるため伝達することやされることは栄養を摂取するに近い快楽を得られる
これを他人の苦しみや災難を笑うことで伝播するという形は発生事象を広め多角的に回避策を考察するためにまず拡散をするということにある
喫緊に解決が必要な状況や関係性でないため遅延して伝聞を拡散するという状況において笑うという感情を利用する
これがお笑いも役立つ教訓になりえ、さすがといわれる落語や関心される漫談になりえる
この伝達を目的とした情報の形成とその受動について作用する「笑い」のみ笑うことのみについてを目的とすると
これは差別的に特に特徴のない事象や小さな差異を大規模的に解決の方法を公募する形で伝達させることですら内容に含む場合がでてくる
差別や侮蔑というのは極小単位での差異を価値観にしたもので規模を広げれば希釈ができる
大阪ナオミが自宅に漂白剤をもっていないわけがない またなくとも自宅に洗剤があるのはとくに特異なことではないしなかったとしても解決方法を要する問題ではない
しかし文脈においてと分節単体においてその指摘する内容は「大阪ナオミに漂白剤を浴びせる」ということ目的としてる
これは笑えるわけがない 面白い要素がない いじめのドラマで中学生がこんなシーンを演じる台本があったとしても笑えるシーンにはならない
もちろんそういった行為が発現するという可能性がゼロではないためその情報を好んだり伝播単位にすることを行う人間も少数は存在するしそれをなくしては防護対策はできない
その特殊な思考の偏りについて発言するのは趣旨にそれるため面白くないという意見が情報を接種した人間すべてではないということに留めるが
「日焼けしすぎやろ」「外で運動しすぎやからな」「服の汚れとか汗がきになるやろ」「漂白剤がいるな」程度には範囲で希釈すれば漂白剤発言は問題にならかったかもしれない
そこまで観測対象を広げるとなにが異常でなにが問題点でそれを解決する知恵をかりたい 知恵が必要な問題点を見抜く視点をもっている有能さ として笑いを起動できるか
となるとその視野と思考の範囲では材料に対して「自分たちが会話をしている流れだけで楽しいこと」であることに気づかず自分たちが笑えた事実のみを基盤に
これは元増田が見た通り「出来るお笑い」を作れるコンビだったかもしれない その才能はあったかもしれない
しかし組み上げる方法や手段を持っていなかったりかのコンビが取得できるところにそういう伝播の情報形成における基礎的な情報がなかったのではないか
師事することやその見解について最低限ここに書いた事を受け継いだ人間に触れることで取るべき手段と選択すべき素材とをもっとよい結果につなげられたかもしれない
これは才能があるとするとその個性や特徴における評価について低いものではないとすると おかれている環境があまりに程度の低いものではないか
他にも連続して発生している「お笑い芸人」の不適切な発言問題をみると彼らを育成する土壌というのが根本的に肥料が少なすぎで粗悪な環境ではないのだろうか
またそのような環境を経てもテレビに出さえすれば収入を平均より大きくもらえるのではないかという自己の社会適応性と可能性を天秤にかけた結果
「お笑い芸人」を選ぶという好機を目指した選択について「人を笑わせる」がどういった引き金を用いてその才能だと思っていたのか研鑽したり
訓練する機会が急激に減っているのではないだろうか
自分が馬鹿なことをして笑いものになることで笑いを取ることができ、笑ってもらうのが好きなのでお笑い芸人になるというのであれば
解決すべき問題というのは自分自身で自分自身を社会的に抹殺してもらったり迫害してもらうために自分で情報を発信しているということなる
自虐ネタということでそれを作り上げる人間もいるわけでそれらを素人がいくつか見るだけでもお笑いとはどこで笑うべきかなにを笑うべきではないのかを充分に知りえるはずで
ネタを考えているときにコンビ二人がその常識から逸脱してしまったことに気が付けない知識の少なさ経験の少なさ
価値観の平均を知ることができなかった社会適合性とやはり経験 これを管理する側としては業界は解消すべき直近の問題ではないだろうか
このまま複数件同様の問題が続くようであれば これはもう芸人の個別問題ではないむしろお笑い芸人は笑われて捨てられる被害者なのではないかと考える
現在問題を機に排斥されたお笑い芸人たちがそれらに気づき反省し再度かえってくることがあれば充分にお笑いをたのしめるのではないだろうか
私は幼い頃に発達障害と診断されました。当時は広汎性発達障害と診断されましたが、これは現代の言葉で言うと自閉症スペクトラム(ASD)にあたります。
発達障害というのは「自閉症スペクトラム・ADHD・学習障害」と3つに分類こそされていますが、それぞれの症状を併発していることが珍しくなく患者を3つに区分するのは難しいそうです。たとえば私が持つ障害は自閉症スペクトラム的なモノが主ではありますが、ADHDの区分に入るモノもございます。この境界はとても曖昧なのです。
ですから、自閉症患者ではなく発達障害者と名乗らせていただきます。
早い段階で自覚できたということが幸いし、人にも恵まれたためこの障害と上手く付き合っていくことができました。それらについて思ってきたことをつらつらと書き連ねていきます。
まず私の主だった症状を紹介しましょう。
上2つが自閉症的なモノ、多動性はADHD的なモノとなります。以下にそれぞれ項を分けて書いていきます。
”コミュニケーション障害”という言葉は”コミュ障”というネットスラング・若者言葉として広まっていますが、”コミュ障”の意味するものとコミュニケーション障害が指す症状はやや違いがあったりします。
何が医学的な”コミュニケーション障害”に該当するかと言えばたとえば吃音などがそうですし、言語習得が困難な状態も分類されるそうです。有名な症状は冗談や婉曲表現などが理解できないことでしょうか。適切な言葉遣いや声色が出来ないということもコミュニケーション障害になります。
喋ることが機能的に困難だったり、相手の言っていることが理解できなかったり、言葉の使い分けが出来ないことなどが”コミュニケーション障害”です。
”コミュ障”っていうのは単純に会話が下手な人のことを指すのでしょう。医学的な”コミュニケーション障害”とは違った意味合いでしょう。でも相手のことも考えず自分の言いたいことだけベラベラ喋るタイプのコミュ障は『適切な言葉遣い』ができていないということで医学的な方に該当するかも…。
で、私の場合は『適切な言葉遣いができない』という症状があるそうです(ベラベラは喋りません)。
だいたい思ったことをそのまま言ってしまっている、というのが友人らの指摘です。ようは空気が読めません。
人のコンプレックスを平然と口に出したり、みんなが思っていても心に秘めていることを言い出したりとにかくドストレート。分かりやすいところで言うと、先生のつける香水に対して「臭いですね」と言ったことがあります。
しかしまぁ困ったことに、やはりこれもどこら辺が変と思われるのか分からないんですよね。上述の例だって「お前そういうことを口に出すんじゃないよ」とか言われたからダメなことだったらしいと理解しているだけです。自分の知らぬうちに変な発言は多分しているし、モロに変な顔をされるときもあって最近は「俺また何かやっちゃいました?」という文言が頭に思い浮かびます。
「そういう特徴があるらしい」とは理解できても、いつ発揮されるのかなぜ悪いのかということは理解しにくいことは自閉症的、ADHD的な症状の共通点かもしれません(私は学習障害ではないので、それについては何とも言えませんが)。
とにかく自覚がない。「発達障害なんだよね」とカミングアウトするも「例えばどんな症状があるの」と返されると、何が悪いのかはイマイチ分かってないせいでうまい実例が思い浮かびにくい。それが発達障害者です。まぁ実例を挙げられなくても、そのうち向こうが実例に立ち会うので心配ございません(心配ございますけど?)。
”他人に無関心”というのはそのままでございます。他人からどう思われてもいいし、世間体に無頓着なのです。社会性がないと言い換えてもいいでしょう。
自分が変と思われても、物心ついた時から「変である」とずっと言われているので今更どうとも思いません。尖った性格ですから万人受けしようはずもないのですし、誰かが私を嫌って近寄らなくなるならこちらも諍いがなくて済みます。
オタクの方に分かりやすく言えば、現実でもツイッターみたいな付き合い方をしていると考えてください。
特に気兼ねなく自分の思ってることを言うし、その結果フォローされれば嬉しいしブロックされるならまぁそれも良し。自分も好いている人はフォローするし、嫌いならブロックする。まさしくああいう感じです。
この症状こそ自閉症が自閉症たる所以でしょう。こんな風に思っているから障害を抑えようともせずに、結果世間から浮くということになるのです。
上述しましたスラングの”コミュ障”は『社交辞令のような世間話が苦手』なんて特徴を指したりもしますが、他人への無関心さから自閉症患者も同様に世間話が苦手だったりします。
というのも自閉症患者は”他人に無関心”ゆえに友達でもない人と世間話をする意味が分からないのです。だって楽しくないでしょう。緊張してできないというより、やる意味が分からずできないのです。無言になろうが無関心だからどうでもいいのです。
この世間話に関する感覚のズレに気付いたのはつい最近だったりします。発達障害でない人の感覚が分からず比較ができないため、障害を自覚していてもどこが変なのか気づきにくいものなのです。
今書いていて気付きましたが、自分は平気だからって無言でいたら相手に気まずい思いをさせることになるのですね。なるほどそれで変な目で見られたのか!
とまぁこんな風に自身がなぜ悪いのかということを私は全然理解できていないのです。期せずして良い実例ができました。
では他人はどうでもいいから無作為に人を傷つけたり公共の場でなんでもできるかと言われれば、そうではありません。なぜかと言えばそれは自分で見ていて不快だと理解できるからです。自分が嫌だと思うことは嫌なのです。
他人に優しくすることもありますが、それは見過ごしたら気持ち悪いからだとか、古典的に言えばおてんとうさまが見ているからとかという理由です。自分の尊厳のためです。つまるところ、自分本位なのです。
薄情に思えるかもしれませんが、友人とは一緒にいて楽しいからいますし家族は大事にしたいから大事にしています。自分で言うのもなんですが、こう素直に生きられるのは素敵だと思うのです。
世間の人が社会で感じるストレスを感じずに済んでいる気もしますし、この症状は特にお気に入りだったりします。
まず私はジッとしていられません。私は常に体が揺れているそうです。座っていてもやや揺らいでいるとか、自転車をこいでいるとまっすぐ進んでいないとか色々言われます。これは本当に自分ではまったく意識していないことなのです。昔はとてもひどかったようで、散髪に行くと髪を切る人のほかに頭を抑える人がついていたりしたものです。
あとは突っ立っていることが苦手で、人を待つときなどは近くをウロウロと歩き回ることが多々あります。
これだけならまぁいい方ですが、多動症というモノはこれだけで終わらないから厄介なのです。
例えば、学校では整列をする機会が多くあるでしょう。多くの人はその列からなんとなく離れがたいというか、乱してはならないという集団の磁力のようなものを感じるはずです。しかし多動症の人間はそういった意識が弱いのです。
ゆえに人にかまわず突拍子もなく動き出してしまいます。私としては突拍子なく動いているつもりはないのですが…。
私は友人らと固まって歩いていても、何か気になるモノがあれば集団から抜けてそちらの方に歩いていってしまいます。旅などでは特にそうですね。「よくいなくなる」と言われます。
いやこれに関しては本当に申し訳なくは思ってはいます。ただ本当に集団意識が皆無でして、浮かれて気を抜くとこうなってしまうのです…。
これも幼い頃はもっと酷く、幼稚園からよく脱走していました。悪いことをしている意識もなく「帰りたいから帰る」というごくシンプルな理由で自主帰宅していたものです。
これに関してはまるで制御が及びません。
いや、散髪中に頭を抑える係が来なくなりましたし帰って良い時間までは帰らなくなりましたし成長はしたのです。落ち着きレベルを-1000から-100にはしただけ頑張ったのです。それでもマイナスなだけで。
なんとまぁ手前勝手な性分なのかと、自分でも呆れるくらいです。
苦労したのは私よりも担任や両親なのでしょう。
こんなにも迷惑をかけたというのにこのことでボロクソに怒られた経験もありませんので、私は先生にも親にも恵まれています。-100に出来たのはこの人たちのおかげなのです。
さて以上のような障害がございましたが、私には一つ医師からも明確に欠点と言われているがございます。
この文章から察する方もいるでしょう。自分のことながら「~~らしい」だの「~~だそうです」だのそういった言い回ししか出来ない部分が多いのです。
しかし「自分が発達障害者である」としか理解していなかった”自分が客観視できない”私がこうも自分の障害を理解できるようになったという点は、なによりも成長した部分だと思うのです。
こんな風にたとえ話だとか実例だとかを挙げて説明をできるようになるというのは、発達障害者としては快挙なのだと思います。こうやって理解が進めてこられたから、今私はこの障害を負い目と思わずアイデンティティとして大事にしていられるのです。私は、自分に正直でいられる私が大好きです。
「なんとわがままな奴か」と私を嫌悪する方もいらっしゃるでしょうが、人は所詮わがままなものです。中途半端に取り繕うよりはいいかなと思っております。というか、そういう風に受け入れてくれている方以外は離れてくれて構わないのです。
ただし我々発達障害者が人に迷惑をかけている時はぜひとも言っていただきたい。まことに恥ずかしいことではありますが、私は何歳になってもハッキリと言われないと分からないのです。
アラフィフ、既婚、子なし、両親健在。
障害年金2級。
妻は結婚してから統合失調症を発症、義母も統失だったが知らなかった。
今年の春、うつが重くなり自殺願望が出てきて、しばらく私だけ実家の世話になることにした。
うつが重くなった理由は、妻が自分の好きなことに夢中で、私と向き合うことがほとんどなく、私の孤独感が強くなったからだと思う。
妻とは定期的に連絡を取っていたが、夏になって言動がおかしいことに気づき、妻にもしばらく実家で養生してもらうことにした。
連絡を取るときはいつも私からで、妻から連絡が来ることはなく、返信も来なくなった。私と連絡を取ると体調が悪くなるらしい。
私の実家の居心地は十分いいとは言えない。
母はある程度病気のことを理解してくれているが、80才の父は頭が固くなっていて精神疾患にあまり理解がない。
独身の妹がいるのだが、指定難病を抱えていて、投薬治療の副作用が体中に出ており、常に痛みを感じていて、なんとか仕事を続けている状態だ。
躁状態のときは多幸感に包まれていて、実家に戻ることによってうつが治ったものと勘違いしていたが、秋になってうつ状態に戻り、躁が高かった分落ち込みが激しい。
これの取り崩しと境涯年金で生活しているが、働きもせず、ストレスもない現在の立場は、羨ましく思う人も少なくないと思う。
行きたいところにはだいたい行ったし、やりたいこともだいたいやった。
もう死んでもいいかなと思っている。
私は人付き合いが嫌いなくせに、さみしがり屋という面倒な人間だ。
自殺は首つり、飛び降り、頸動脈切断を中心に考えていたが、やはり首つりが妥当という結論に至った。
迷うのは、少ない遺産を家族に残すのか、使いきってしまうのかだ。
今の状態なら妻には相続したくなく、そのためには離婚が必要だが困難だと思う。
老い先短いとはいえ、世界中で私のことを思ってくれるのは実母しかいない。
実家で暮らすまでは難病を抱えている妹に残したいと思っていたが、今はあまりそうお思わなくなった。
まとめると、
・生きるとしたらどう生きていくべきか?
この2点だと思う。
諸兄のご意見を伺いたい。
来客があるので9時前に実家を出て、オーケーで足りないものを買い足し、自宅の掃除、シャワーを浴びる
11時
駅でぴろのと待ち合わせ
ストパーかけたと前に言っていたっけ
一度スタバに寄っておいもフラペチーノ買うつもりだったけど、忘れてそのまま我が家へ
源氏パイをかじりつつ、昼食を作る
オムライスと、ブロッコリーのチーズ焼きを作ろうとしたけど、完成手前でチーズを買い忘れてるのに気づき、オムライスとサラダだけになった
ぴろのは美味しく食べてくれて、デザートに買っておいたモンブランまでペロリ
僕は相変わらず食べるのが早く、さっさと食べてベッドでゴロゴロしていた
食べ終えて、お昼寝でもしようとなった
とりあえずベッドに誘き寄せて寝かしつけた
とりあえずお昼寝しようとなったけど、ぴろのはソワソワと落ち着かない様子で、逆に疲れてしまっていた
起きて再びちゅっちゅしたりふともも撫で回したり膝枕してもらったりする
5時過ぎ、まだ明るいがそろそろ帰宅の途に
2個買おうとするが、ぴろの晩御飯が近いのでいらないと言うので一つ購入
2人で少しのみつつ、電車まで改札で少し話す
でも2歳サバ読んでるので、罪悪感がする
本当は、もうすぐ30になっちゃうんだ、と言いたいが、動揺させたくない
もう少ししたら、言おうと思う
おっすおらクソフェミ。しかも昭和生まれ40代ババアだから増田がどうしてこういう思考回路になったのかすごくよくわかる。
ヤングの皆は、亭主に浮気されると「妻として夫を満足させなかったお前が悪い」って妻の方が袋叩きにされる世界とか知らんよな。初めて彼氏と付き合うのでセックスが怖いと考えてる女の子に「早くやらせてあげないと彼氏が可哀想。浮気されても知らないよ」と女が普通に口出ししてくる世界とかね。ああいうの知ってると、増田の発言が正しくないのはわかるが気持ちもわかるぞ。
まあそんな前置きはさておき、折角ブコメが伸びてるんだから、お前らの考える「正しい性教育」ってどんなものかを教えてくれよ。元増田じゃあみんなが「この増田には教育が必要だ」ってブコメに沢山スター打ってるみたいだけど、「ではそれはどんなものか?」と皆で具体的に考える機会も経験もあまりに足りていないじゃないか。いざ機会となっても茶化したりセクハラに走るクソも多く、そういう連中は元増田のような性嫌悪ミサンドリストをますます増やす結果となりなおさら始末に置けない。ぜひに正しい性教育を持って殴り殺すべきであろう。
言い出しっぺだからもちろんこのクソフェミ増田がブレインストーミングの端緒として「今の日本の性教育に足りないなと思ってること」を自分なりにすごく真面目に考えて書いたぜ。ジェンダーに一家言ある暇な人が読んでくれたらうれしいぜ。そして皆も、ブコメでもトラバでもいいから「正しい性教育とはどんなものか」を考えて書いてみてくれよ。
性的な関係は他人の肉体に非常に深く関わる行為である。特にセックスは性病や妊娠といった大きなリスクを伴う。よって合意が必須である。
まず性教育を知らない子供に真っ先に教えるべきは「自分の体も他人の身体も等しく大切なものである。よって他人の身体に触れるには許可や合意が必要で、常に「拒否した側」「合意していない側」の意思が優先されるべきである」ということである。
これは、性犯罪者に狙われやすい子供を男女問わず守るために必要な教育といえる。
「それ自体は」と書いたのは、相手との関係性によっては拒否された側の心が傷つくケースを留意する必要があるからである。ここは年齢に応じた補足が必要であろう。
補足が早すぎれば「相手に嫌われたくないから」という理由で内心望まないセックスに合意したふりをして応じる人が出るだろうし、遅すぎれば一方的なセックスレスでパートナーを傷つける人が出るだろう。増田でもそのさじ加減については正直測りかねているところである。ここらへんは性教育の土台である、自己肯定感のところまで踏み込んで考える必要があると感じる。
また「合意」の定義については、先日の地裁における性犯罪無罪連発においてはてなで大いに燃えたところで、自分でもその定義に断言をしかねる。とりあえず「責任能力を持たない人(子供、成人相当の意思表示ができない人等)」については有無を言わず「合意していない人」にカウントして問題ないと思われる。
前項で書いた通り、性欲を持つことも性的関係を持つことも本来別にクソではない。
その過程において人に合意なく被害を与えたらそれはクソである。両者は全く異なるものであるのに、かつて確かに性加害と性欲の発露を混同し、性加害の正当化に使われてきた歴史があったし、おそらく今もある。
太って成人病になるリスクを承知で沢山食うこと自体は悪ではないが、沢山食いたいからって万引きしたり人の食い物を横取りしたら悪であるのと同じだし、それを正当化するなどもってのほかである。
元増田はもちろんのことだが、ブコメでもトラバでもここを分離できてない人が多数見受けられる。
「生物学的には男性の、女性に対する性欲あるいは性行為自体が性加害/抑圧である」という意見はまだこの混同から抜け出せていないように感じる。「行為の際に女性を蹂躙するイメージで興奮する」のはあくまでも後述するセックスファンタジーであり、プレイの一環として合意を得ていないのにそれを発露することが加害だと自分は考える。
AVやエロ漫画アニメ等のファンタジーを現実の性的な言動に持ち込むべきでないし、逆にそれらのファンタジーを愛好する人が、現実でそのファンタジーを行動に移す異常者であると決めつけてもいけない。
現実に他人をひどい目に遭わせたり遭ったりするのが嫌でも、身の傷つかないファンタジーの世界では過激なプレイに興奮する人も少なくないだろう。だからってその人は別に変態ではない。ファンタジーを現実に持ち込むこと、すなわちその趣味のない人にまでファンタジーを見せて押し付け、不快にさせるのが性的加害者である。
逆に外へ出さぬようこっそりファンタジーを楽しんでいる人からそれを取り上げ、こいつ/この媒体は変態だから滅ぼせと喧伝するのは悪である。ここは主に女性が大いに自戒すべきである。
前述したように、性欲/性行為/セックスファンタジーを身の内で楽しむ行動自体はどれも悪ではない。ファンタジーを伴う自慰は、性欲を他者に被害を与えない形で解消する適切な手段といえる。何度も書くが悪なのはそれを介して他人に被害を与えることである。
ここを混同してしまうと、性欲や性的関係を持つこと、セックスファンタジーを楽しむことを罪と感じる抑圧された人が育ってしまう。抑圧が反動で性的な逸脱、認知の歪みに繋がることもままあるため、この切り分けは極めて重要といえる。
マスターベーションを行う側は「身内(自分自身、あるいは事前に了解を受けた合意の相手)に留めること」、見守る側は「『身内から出すな』という言及以外は避けること」を心がけるべきと自分は考える。
余談であるが「夫が自慰をするのを浮気扱いして許さない妻」がいると聞いたことがある。これは何らかの事情で夫の明確な了解を得られている訳でなければ性的DVである。
具体的に言うと「パートナーのいない相手や童貞/処女を馬鹿にするのはハラスメント。どれだけ沢山の人と恋愛したか、性的関係を持ったかと人間としての価値は『それ自体は』一切関係がない」ということ。
「男はヤッた数だけ偉い」みたいな恋愛工学的価値観を内面化すると、それだけ性行為に至るためのプロセスになりふり構わなくなり、他人へ性被害を与えやすくなる。また性経験のない人間へ本来無用なコンプレックスを与えることにもなる。撲滅すべきである。
「他人(主に女性)の心身を理解しない言動をとった男性」を「童貞」「だからモテない」と罵倒する言動ははてなでも時折見られ、厳に慎むべきである。
まだ他にも書き忘れたことがもしあったら追記していくかもしれないが、今思いつくのはこんな感じだ。
今回の増田は「男性の性欲」と「性加害」をできるだけ切り離すことを主眼として書いたので、その他の部分ではかなり見落としがあると自分でも考えているぜ。
このクソフェミに思い至らない視点からの真面目な言及を待っているぜ。
(追記)
トラバやブコメで意見を聞かせてくれた皆、知識の補足をしてくれた皆、ありがとう。
まともな性教育を受けてない40代クソフェミのワイが自分の狭い知識だけで考えた稚拙な増田に、博識な方や本職の方にまでトラバを頂いて汗顔の至りだが、頑張って書いた甲斐があった。本当にうれしい。
「性教育にはセックス以外にも学ぶべき大事な事が山程あるし、これまで知らない、あるいは見落としていた視点も沢山あった」と改めて気づきを得られるよい機会だったと思う。沢山勉強させて頂いています。
引き続きみんなの真面目なご意見待ってるぜ!
先日行われたPyconJP2019に参加してきた。
運営のみなさん、登壇者のみなさん、参加者のみなさんお疲れさまでした。
今年でもう4回参加したことになるが、色々思うところがあったけど、Twitterとかアカウントが紐づく場ではいいづらい感想を中心に書いていく。
先日別のコミュニティでも色々論争あったけど、運営サイドがボランティアでやってることなんて百も承知の上で、
ただこれだけは言わせてほしいなと思ったことを書いていくつもり。
運営はボランティアで大変なんだろうし褒められるべきなんだけどごめんよ。
会場変わった理由とか一切知らないけど、単純に場所のスペックとして早稲田の方が良くない?
広いし縦に長くないし部屋同士も行き来しやすいし。
参加人数もどんどん増えて、会場のキャパを超えてきてるよなーって気もする(ただしこれが早稲田で解決できたかはわからない)。
初心者殺しだよね。せめて「6F 会議室D※6Fへはエスカレーターでは移動できません。エレベーターもしくは階段で移動ください」
会場の問題もありつつ、発表内容と発表会場のマッチングがうまく行ってなさそうだなー
コンベンションホールの発表なのにガラガラとか、昼休み開けの発表で発表開始
30分前に行ってもC会議室まで満員とか。
機械学習・データ系とか、人気が出ることなんてわかってそうな講演なのに
立ち見できない部屋割り当てちゃうってどうなん?
それか、演題が出揃った時点で時間帯別に参加したい演題アンケートとって、発表会場
変えるとかできそうな気もする。
とある発表1つについて言えることだけど、日本人なのにあえて英語で発表するなら
最低限英語で発表練習してきてほしいなー。しかも運営サイドの人の発表。
英語の発表を増やしたい運営側の意図は何となく見えるんだけど、
ただ、会場に大きめの部屋あてがって、発表時間の3-4割「あー…well…」(しかもカンペ見ながら)で
占められるグダグダな発表聞かされる方の身にもなってほしい。
しかもこういう発表に限って広い部屋。えこひいき疑われても仕方ないんじゃないかなー。
英語得意じゃないなら練習するか、せめてカンペにカタカナ表記書いときなよ。
なんで参加人数多いのにあの狭い部屋に人押し込めるの?
去年みたいに1Fでやればよかったじゃん。
せめて狭い部屋に押し込めるならクローク用意するとかして、
クソデカリュックで来て、しかも背中に背負ってる人たちの荷物を預かって、その分クソデカリュック分の
スペース開放して人の往来楽にしようよ。
流石にあそこで食事したり人と話す気になれずに30分で退散したわ。
あと、壁際の料理がなぜか遅れて開放されたのも謎だし。
最初に1Fを開放して、それでも人が収まらければ小展示ホールでやるのならまだわかる。
プログラマーのカンファレンスなんだから仕組みで解決しようよ。
そのための仕組みを作れとは言わないから、レシーバーを渡す時に
名札とネックストラップを交換で回収するとか。
それなら少なくともレシーバー返却してない人は2日目は会場に入れないからお互い気づきやすいよね。
ここ数年流行りの機械学習分野で、「ディープラーニング入門」みたいな、
(クオリティの差はあれど)誰でもできる系の割と安直な発表が通らないのは良いとして、
機械学習系の発表でoptunaネタが2つかぶってたのはどうかなーと思ったり。
(一応補足しておくと、私はエンジニアなので、知り合いのデータサイエンティスト
数名に聞いたところ、どちらも発表の内容は素晴らしかったとのことです。
ただ、せっかくならいろんな出自の人に発表の機会を与えてあげたり
その他でもrejectされた発表の中に聞きたい内容があったりで、残念だなーとは思いました。
まあ、PyconJPに4回参加して良い発表聞けたり他社の同業者と会話して刺激になったり単純に
お祭り気分で楽しかったりと、今年もある程度楽しめたしどうせ来年も参加するんだろうなーと思いつつ、
今年に関しては特に色々気になったところもあったので発信した次第でした。
来年以降のPythonコミュニティのさらなる発展を願って、これが運営サイドの人の目に触れたり、
他の人も言いづらい感想を言ってくれたりしたら幸いです。
フェイクを入れるので読みにくい所や矛盾している所があるかもしれないし、当てはまってしまう村があるかもしれない。申し訳ない。
とある事件が原因で村が燃えた。消えた時は悲しかったが、ある程度は時間が解決してくれた。
正義を振りかざす人が原因だ。
いつも通りTwitterをして、早めに寝た日だった。
朝起きていつも通りTwitterを開く。なんだかいつもと違う雰囲気。……燃えていた。まるで池から水がなくなっているみたいだ。
このまま池で例えよう。
僕はこの池が必要だ。洗濯もするし、たまに飲む。近くに住んでる人達も、同じ。たまに遠くから来た人が飲んだり、少し離れた所から定期的に水浴びにくる人もいる。
わかりにくいだろうか。頑張ってくみとってくれ…池だけに(笑う所だぞ)
さて、燃えた原因はなんだろう。とТLを遡る。
正義を振りかざす数人が原因だった。
この水は汚染されている。ほら! こんなに汚れている! この水は飲めない!
そんな内容だ。
君たちも美味しいと言って飲んでいたじゃないか。 飲めないと思ったなら洗濯だけしてればいいんだと思った。(オブラートに包んで少し呟いた)
そして、ここらには池がないから、とつくってくれた人に池の水が汚い、綺麗にしたらまた飲んでやる。そんな上から目線で話をしていた。
最終的に、飲める水を配布して池は埋め立てられてしまった。
もう池はない。
ここからさらに燃えた。何も知らない人が池の水を飲みに来て、池がなくなったことに気づき正義を振りかざした人を責めた。
そして、そいつらは自分の正義を振りかざして責めに責めた。それはもう酷かった。
池は埋め立てられたし、池を綺麗にしようとした人も消えた。
池の跡地から離れられない人、今でも池を求めている人、少し遠くに引っ越してたまに跡地を見に来る人、池を綺麗にしようとした人を恨んでる人、池の跡地を見るのが辛い人、池が埋め立てられるのを見届けて去っていった人。
僕は池を綺麗にしようと人を今でも恨んでいるし、池の跡地を見るのが辛い。
池の絵を描くのはセーフだが、池に住んでいた1部の生き物を描くのは公開するのはダメなのだ。
池を見ていないから。池を見てからではないと生き物は描いてはいけないんだと(ここら辺は例えが難しい)
僕はその生き物が好きだった。だけど描いても公開出来ない。今でも悲しい。生き物を好きな気持ちは残っているし、もちろん池も好きだ。
ただ、好きより辛い、悲しいの方が大きい。
__書いていて、池より飲食店の方がわかりやすいのかもしれないと思ったが、書き直すのがめんどくさい。池を飲食店の水や料理、池を作った人を店員、僕やその他を客にすれば伝わるだろうか。
以上、村を燃やした人を恨んでいる人間の話でした。
ここまで読んでくれた方、読みにくかっただろう。読んでくれてありがとう。
家族ではないですが、Twitterのフォロワーに読んでもらう、とかは試したことあります。
結局感想はもらえないまま終わりました。
芥川龍之介とか南木佳士とかみたいな、簡潔明瞭な文で本質を突く、みたいなスタイルに憧れていたのですが、
それだと今の世の中、小説としての良し悪し以前に、読者すら得られず、小説として存在することすらできないことに気づきました。
自分の書いているものが純文の世界で評価されないことは事実だと思うので、
まずは読者を得るために努力するところからはじめたいと思い、このような増田を書いた次第です。
純文というジャンルに逃げている部分もある気はしているんですよね。
もうどこにも吐き出せる場所がないのでここに書く。
自分用の文章なので、最初から最後まで意味不明で読みづらいと思う。
リア友もちらほらハマり始めてて、人気絶頂に差し掛かる直前であったそのジャンルにどっぷり浸かって、推しもできた。
二次創作が好きでその推しの二次作品を見ては自分でも生産し続け、イベントに行ったり結構なお金をかけて関連グッズも揃えたりする楽しい生活を送っていた。
アニメやマンガのような最終回がなく、ファンがいる限り半永久的に続くそのジャンルにはまり続ける内に、ある時別の推しができた。
中途参戦したその推しは、登場のタイミングが非常に悪く(ジャンル内最大手の記念日前後に参戦)、最初こそ騒がれたものの人気は言うほど芳しくなかった。
それでも固定ファンはいたし、当時盲目的にこのジャンルが好きだった自分は何の疑問もなく新たな推しの作品を作りまくった。
作りまくってるうちに、「あれ?推し、なんかマイナーじゃね?」と気づき始めた。
まず、圧倒的に仲間が少ない。推しを兼任しているファンは多いけど、自分のように「最推しです!」という仲間がまずあまりいない。
それでも村に入れてもらって妄想ツイートや馴れ合いをするのが当時凄く楽しくて、毎日仲間と騒いでた。
当然、作品もこれまで以上に作りまくった。
それらの伸びの悪さの一因が推しのマイナー故である(それ以上に自分の創作力のなさもあるけど、)ことも最初はあまり気にならなかった。
それらを繰り返している内に、周りの仲間達は新たな大手推しやジャンルをそれぞれ見つけたらしく、段々と作品を作らなくなっていった。
毎日一緒に狂ったように推しへの愛を叫んでいた仲間ですら、推しの話を全くしなくなった。
そして段々皆、新垢を作って引っ越していった。
自分は皆のジャンル移動とは別に、村に流れる残った者同士の義理交流の空気にも疲れていた。
正直良いとは思えない作品でも、作ってくれれば褒めざるを得ない。まぁこれについてはお互い様な部分もあったろうけど。
その頃の自分は推しが受けのジャンル内最マイナーレベルのCPにはまっていて、村で必死に一人でCP作品を産み続けていた。
仲間や外の人が評価をくれたり、たまにお恵みのように作品を上げてくれたけど、それもオンリーワンに飢える自分へのためだけで、
それがどれだけ神作品でもCPの人気上昇には程遠く、更に上記のようにジャンル移動があったのも重なって段々と村内でも推し単体の作品さえ見かけることがなくなっていった。
どれだけマイナーでも、厚かましいのは分かっているが好き嫌いはある。
それでも、貴重な推しの作品を好みが合わないからとスルーすることで仲間が今以上に減るのが怖すぎて、疲れながらも作品を評価し、義理の感想を送っていた。
そして同時に、一応推しと兼任だと謳いながら別推しの作品ばかり作り高い評価を得ている人達に激しく嫉妬するようになった。
「承認欲求」という言葉が頻繁に聞かれ始めた頃で、自分も承認欲求にやられるアマチュア底辺作家の典型タイプになった。
かつて同じ推しを好きで萌え語りをしまくっていた仲間が、別ジャンルで伸びて別の仲間と盛り上がっている。
そしてたまにひょっこり推しに戻ってきて作品を作っては、自分よりずっと高い評価を得ている。
こっちの方がずっと一途に推しを愛して何年も浮気せずに作品を作り続けているのに、誰にも認めてもらえない。
元々推しがジャンル参戦するきっかけになった所(グッズなどの供給源でもあり、最盛期にはいくつか関連グッズも出してくれていた)が活動を停止しており既に嫌な予感はしていた。
ジャンル公式は推しを放っといて別の大手をピックアップし続けた結果軌道に乗って、推しには本格的に見向きもしなくなった。
公式から発売予定だったいくつかのグッズが放置状態からのフェードアウトになった。
界隈内でも、推しは日に日にマイナー化が加速して、二次創作の投稿数も激減していった。
皆、人気どころを作った方がずっと伸びることを分かっていたからだと思う。
特殊故に、推しへの愛が二の次になってもおかしくはないジャンルだった。
かつては大手が作品を頻繁に作っていたおかげで推しも人気中堅程にいた時期があったが、それも遠い昔…という感じになっていった。
もちろん自分が見つけられないだけで世界中には沢山ファンがいるのかもしれないが、自分のようにアクティブに推しへの愛を発信する人が周りにも、ジャンルの二次創作投稿のプラットフォームとなるサイトにも見当たらない。
毎日推しの名前でツイート検索をかけ、同士を探した。しかしなかなか推し関連のツイートはみつけられない。
作品も1日に何度も検索しては新規投稿を探したがそれもない。月に数件あれば上々といったレベル。
自分に言う権利なんかないのは分かっているが、それらも最盛期に比べ明らかに質の良くない作品が多数だった。
たまに推しのことを呟いているのを見つけても、大体「○○マイナーだよなぁ…」とかばかり。
その横で、大手達が常に誰かに愛され、彼らの作品が生まれ続けている姿を見るのが苦痛だった。
周りは新ジャンルで新たな仲間と萌え語り、新たな推しへの公式供給に舞い上がっている。
それでも、自分がどれだけ人の作品を評価しても、推しや推しCPへの愛をたっぷり込めた自分の作品が評価されることはなかった。
最早過剰に縮小した村から、仲間の手によって自分の作品が拡散されることもなかった。
ただ、時々魔が差してジャンル内の大手と推しのCPを上げた時だけは、有り得ないほど評価された。
ジャンル外からのいいねやRTが相次いで、ちょっといい気になると同時に悲しくもなった。
正直上げた作品自体は普段のものに比べて全く手間はかかっておらず、人気どころさえ抑えていればそれでいいのか…と絶望した。
悩んだ末に、ついに村を抜けた。
Twitter垢も削除した。
この頃には仲間はほぼ残っていなくて、
一部自分が去ることに悲しみの声を上げてくれた人はいたものの、自分が身を引いても界隈は特に変わりなく、かつての仲間は器用に村に半分身を入れながら推しを人気どころと兼任していた。
惜しくはあったけど、いつまでも数字の増えない作品を惨めに残しておきたくなかった。
それでも推しへの愛は消えなかった。
というか愛というより執着心だった。
「自分が推しを愛し続けてあげなければ、推しはこの世から消えてしまう」と何様なことを真剣に考えていた。
作品は、その後も細々と上げ続けた。
しかし、村から抜けたことで「もういない人」認定されたのか、極端に閲覧が落ち、評価もこれまで以上に貰えなくなった。
ジャンル自体は衰退傾向にあるものの、公式が頑張っていてまだまだ栄えていた。
もう、同ジャンルの人気どころの顔を見る度諦めとともに殺意さえ沸くようになった。
元々このジャンルに首を突っ込んだ当初に好きだった推しの顔すら見たくなくなった。
毎日シャットアウトしていてもなお入ってくるジャンル大手の楽しそうな情報に1人惨めな気持ちになり、1件も増えない推しの作品検索結果画面に絶望し、閲覧すら増えない自分の作品ページにさらに絶望する。
その度に、他のジャンルに心変わりできたらどれだけ楽か、と切に思う。
たまに素敵な作品を見つけては感動し、数年前に比べかなり落ち込んだ創作意欲を刺激されて、誰にも見てもらえない何かを作り続ける。
ふと客観的に自分を見ると「この数年って何だったんだろう」と真顔になる時もあるが、だからと言ってこの状況を脱却できるはずもない。
建物の中は廊下が通っててそこに個室が10数室あって住人はそこに住んでる感じです。
あとは共同の洗面所やら風呂やらの設備がある、必要な設備は一通りあるが本題ではないので割愛。
で、ここから本題なのですが、廊下にはいくつかドアがあり、そこからアパートの裏に出たり空気を入れ替えたりできます。
問題のアパートに住んでる狂人二人は、昼間廊下のドアを全開にするのが大好きなのです。
春や秋のように過ごしやすい気温ならそれでも問題ないが、猛暑の夏の間も毎日開けっ放しで酷暑の空気をどんどんアパートの中に取り込むのです。
2人の狂気はこれだけにとどまらず、夜になるとドアを全部閉めてしまいます。なので、夜になって外が涼しくなってきてもアパート内は昼間の暑い空気が篭もるという状況です。
二人のこの行動に巻き込まれて暑い中すごさなければならない他の住人の皆さんがかわいそうでなりません。
できるだけ涼しく過ごそうと思ったら、夜は開けて涼しい空気を取り込み、昼は閉めて暑い空気をできるだけ遮断するほうがいいという考えは狂人二人にはありません。
2人に、なぜ昼間暑い時間に開けっ放しにするのか、昼は閉めて夜開けたほうが快適ではないか質問したところ、驚きの答えが返ってきました。
一人目の答え「風は入ってくるが、熱い空気は入ってこない。だから暑くならない。風がある分むしろ涼しい」
いや、熱い空気が入ってくるに決まってるでしょ。そのことを指摘しても思い込みが激しいようでまったく聞き入れてもらえませんでした。
義務教育を受けた人ならこれがどれだけ狂った答えかわかるでしょう。教育政策の敗北だーと叫びたくなります。
二人目の答え「暑くても構わない。風が欲しいから開けておきたい。」
ここ何年か続く猛暑を経験しても熱くて構わないとのたまう時点でかなりの狂気だが、暑くていいなら風もいらないでしょ。風が欲しいのは涼しくなりたいからなのに、暑くていいという矛盾発言をしてしまっています。
代替案として、アパートには共同で使える扇風機があり、今は誰も使ってないので使うよう促したけど断わられました。
二人の共通点として、思い込みが強く他人の話を聞かないというのがあげられます。
こちらからの指摘に反論できず代替案も受け入れないので、間違っているのは二人のほうだというのは明らかです。
増田は1階に住んでおり、今年の夏は気温が上がる前に1階のドアや窓はできるだけ閉めて回るようにしているのでかなり涼しく過ごせるようになりました(夜は開けてます)が、
狂人のテリトリーである2階は外の日陰にいるのと同じくらいの暑さです。
暑い空気は上昇して2階に集まるというのは理科で習うことですが、その分を差し引いても1階は涼しくて過ごしやすく、2階はつらい暑さですが、狂人二人はそのことに気づきません。
今年の暑さは今週で収まるようですが、誰かが熱中症で倒れでもしない限り二人の狂人がまともになることはなさそうです。
ちなみに二人の属性を言うと、二人ともおそらく50代の昭和生まれの女性です。
正直なところ、タトゥーはしてほしくなかった。
推しはファッションセンスがないのでダサいタトゥーを入れるという悪い意味で予想どおりの展開だった。最悪。
もっと目立たない場所に控えめに入れればセンスある〜みたいになるかもしれないのに、手の甲て。推しのファッションセンスのひどさここに極まった。似合ってないしおしゃれじゃないので絶対こなれない。最悪。
あともともとの白い肌が汚れるのもったいない。
推しはとっても鍛えているのでがっちりしたイメージがあるのですが本来はとても骨格が華奢で手指も華奢で白くて薄い肌から血管が透けて関節や指先がピンク色になっててとても綺麗なんです。それがあのタトゥー・・・。
まじで入れるにしても手に入れるなよっていう。
いつかグループ解散して個人仕事するとしてテレビとかどうするんだろう。向こうの国はそういうのあんまり関係ないのかな。ドラマは無理だよね。でも推しはドラマ仕事は似合わないし本人も歌手以外の仕事を望んでなさそうだからまあいいってことにしよう。もうそこは知らん。
それに関連するけど、MVやスチールの撮影に影響は出ないのか。
スポンサー的にタトゥーがNGだったら?ポージングの幅が限られたら?
世界的な福祉団体のイメージキャラクター的なお仕事もしてますよね?
あなたの身体はあなたのものだけど、それは欺瞞です。商品です。
それがわかるメンバーが揃っているグループだから熱愛もスキャンダルも出ず成功したんだと思ってたよ。
自慢のプロ意識はどこいった。
それでいて彫った言葉はファンたちの愛称て。重いわ。重いしクソダサい。推しにはかっこよくいてほしいのに・・・どうしてそうなる。
重いし、ファンの愛称彫ることが反対派の文句のある種のねじ伏せみたいなかたちになってるのも嫌。そういうつもりではないのかもしれないけど。
推しは昔からタトゥーを入れたいと言っていて、別のメンバーが窘める意味でタトゥーに反対するファンに対してどう説明するかと昔聞かれたとき、愛しているといえば許してくれますよとクソ生意気なことを言ったあの場面を思い出した。もちろん今はそういう考えはさすがにないと思うけど。
自分たちの愛称を彫ってくれるなんて〜とか喜んでいるファンもいるけど、個人的にはむしろなんかもう怖い。彼にとってファンってとても意味深いものなんだろうけど、そこまですることない。人間は何かに依存しなければ生きていけないけど、何事においても依存しすぎるのは危険だと思う。
いろいろ不満を書いてしまったけど、推しが自分の思い通りにならないのがいやなんだろうな。
推しに勝手に母性感じてかわいいかわいい言ってるオタクなので、そういう「かわいい」対象としての推しがタトゥー入れることで本来の「かわいい」イメージと離れるのが嫌なんだろう。
ファンとしてこういうエゴを持っちゃったらもう潮時だな。っていう自戒の意味と、ファンとアンチが紙一重ってこういうことを言うんですね。っていう気づきを得たということで、ここに残しておく。
休めるのなら迷わず休むのがポリシーなので喜んで三日ほど休んだ。
さて、どう休もうかと悩んだ。引きこもりはお盆で味わい尽くしたし、
さて、車で二時間ひたすら山を登る。
残暑が厳しいだろうから高地へ行って涼もうと思っていたのだけど、麓も涼しくなっていた。
山を登りきると、そこは涼しい温泉地。どこか浮かれたような雰囲気が漂っていて好き。
ホテルへのチェックインにはまだ時間があったので、スーパーへ寄ってビールとつまみを購入。
口コミサイトにはフロントの対応が最悪と書かれていたが、妙齢のマダムが淡々と手続きをしてくれただけだった。
雰囲気が良ければあまり接客態度は気にしない。チェックインを済ませると部屋へ行った。
事前にわかっていたとは言え畳にベットは味がない。ベットだと布団の上げ下ろしがないからないから安いのか。
まあ、旅館の部屋につきものの「あの部分」があるからいいか。早速「あの部分」の椅子に腰かけくつろぐ。
瞑想くらいしかない。景色は開けているが、山しか見えない。夕食まで時間があるので、温泉に入ることにした。
事前に純粋に温泉を楽しみたい人におススメとあったので、ワクワクしながら温泉に向かう。
ああ確かに、温泉はしっかりしている。酸性度が強いので傷口が痛い。全身で温泉を感じた。
温泉に入ったから、何かが変わるわけでも魔法がかかるわけでもない。ただコンクリートの壁を前にして身体を温泉に浸す。
なんとピュアな温泉体験なんだろう。そうか、温泉っていうのは絶景とか解放感とか
ゆっくり風呂に入ったら、もう夕飯か。夕日を見る間もなく夜になっていた。事前の評判では冷食バイキングと聞いていたが、
実際に得られたモノもそう表現するしかない。宿に泊まっている全員の食事時間が90分しかない
というのが何となく窮屈に感じるけれど、その正体がわかった。コレ寮生活みたいなんですわ。
行列に並ぶことが何よりも嫌いなので、15分ほど遅れていったら部屋に内線電話がかかってきた。
現場に向かうと、部屋番号の指定席。なんかさらされているようで気恥ずかしい。
料理は大しておいしくないが、別に文句を言う理由もない。そんな食事なのに、
ビュッフェスタイルだったから無駄に食べてしまって2泊3日で2kgの大増量。
食事にはお酒がついてきた。あまり食事時に酒を飲むのは好きではない(回るのが早いから)が、
セットでついてきたのだから、ついつい飲んでしまう。欲張りモノは損をする。
酔いが回ってくると、気が大きくなってくる。隣席は同じく独り旅と思われる中年男性が哀愁漂う晩餐を取っていた。
ものすごく、話しかけたくなった。目的もなく一人で来たからやることがないのだ。どうしようか。
どこか観光地について聞こうか、このへんにはおいしいものがあるのか、そんなことも知らずにここにいたから知りたかった。
話しかけるのは簡単なんだ。でも、相手が会話を望んでいないときどうやって終わらせるかがむずかしい。
そういう責任取れない会話は辞めとこう、という気持ちがわいてきたので彼に結局話しかけることはなかった。
食事を終え、部屋に戻ると「あの部分」に腰かけ缶ビールを飲んだ。ああ、なんでこんなことしてんだ。
カーテンを開けると眼下には、昼間には森だった暗闇が広がっていた。何にもねえや。
いよいよアルコールがキツくなってきた。ドキドキと鼓動は早くなり頭はぼーっとする。そして気づく。
ああ、実は酒なんて好きじゃないんだな。
普段酒が好きだと思っていたのは、飲酒で気が大きくなって会話を楽しんでただけだったんだ。
無音の部屋で畳にゴロンと横になり、座布団を二つに折って枕にする。天井の木の模様を観察して、微妙な気分になる。
畳のにおいが心地いい。何も考えない、楽しい訳でもなく悩むわけでもなくただ時間が過ぎていく。
そうやってどれくらいの時間が過ぎたのだろう。酒が抜けてきたので再び温泉に入った。
いつ行っても風呂場がバラバラだけど、大丈夫だったのか。お湯の中で瞑想する。
風呂から上がると、ロビーは消灯していた。ほとんど真っ暗なロビーで放心状態だった青年が一人。
彼は何を思っていたのか。そんな彼を横目に部屋へ戻る。どうも隣室がうるさい。酒盛りだ。
ホテルの入口にXX大学OO部と書いてあったけど、ひょっとしてこいつらか。でも、体育会系のキチガイじみた盛り上がり方でもなかったので、仕方なしと思って布団に入った。その後もドンドンバンバン隣室からは音がしていたが、朝飯の時間は決まっているので彼らもじきに寝たようだった。
朝飯も同じ。何も語ることはない。卵やきをたくさん食べた。部屋に戻るとカーテンを開けた。濃霧で真っ白で視界ゼロだった。ふと、若い時に行った東北旅行で遭遇した吹雪を思い出す。バスの窓はすべて白く染まり、飛行機が遅れて大変だった。吹雪の中にいると、建物の中にいても現実感が失われる。果たしてここはどこか、私はだれか、そんなことを疑いたくなる。次は吹雪が吹く冬に来ようという気持ちになった。
特に何もなかった。でも、何もないって贅沢だな。
転職はしたものの、広いくくりでは同じ業界で働いている貴殿に思いがけず展示会場でニアミスしましたが、お気づきになったでしょうか。
まさか経理部門のスタッフであるはずの貴殿が展示会に現れるとは思っておらなかったため、私はいたく動揺しました。
正直なところ貴殿とは確執もなく、良い関係であったので、個人として、であれば笑って話すことは出来るのですが、今となっては貴殿と私を繋ぐものは逆にお兄様という存在しかいないとも言えます。
そして、まさか貴殿は兄上が養育費を払わずにいることを知らないでしょう。
いや、正確には払われていた時期もあるのです。ただ、銀行からの振込人名義欄にアイシテイルとかパパヲワスレナイデとか気持ちの悪い台詞が毎回打ち込まれてきたために、私は弁護士に相談の上、銀行口座を閉じさせていただきました。ちょうど苗字も変わった訳ですし。
そしてそれでも払う気があるのであれば、問い合わせ出来るように、未だに私はメールアドレスも携帯番号も変えず、着拒せずにしておいた(弁護士アドバイスにより)のです。しかし、その後8年間今まで一度も連絡が来たことはありません。
自分の兄上がまさかそんなことをしていたとは知らないであろう貴殿に、私はどんな顔をして会えばいいのかわからないのです。
貴殿に対面した時、笑うべきか、泣くべきか、怒るべきか、未だ答えは出ません。
・誰?
長年サービス業でクレーム対応を担当してきた。アルバイトスタッフで対応できないと回ってくる感じ。
15年。
・今までの戦歴
無敗。
・職種
・なんでこんなこと書いてんの?
「激しく怒鳴るクレーム客には「怒鳴り返すように謝る」と最高に効く!」って記事を読んで最高に危険!って思ったから。
クレーム対応は何に謝るかを間違えると解決できないどころか事態が悪化するだけ
相手のトーンに合わせる謝り方はテクニックの一つとしては有効だけど、絶対的な解決手段ではないです。
・実例
例えばスマホの電池持ちが悪いというクレームを言われた場合はどちらが正しい対応でしょうか。(自分の業界とは関係のないお話です)
2.「弊社の製品が原因でお客様の気分を害して申し訳ございません」
この2つ、何が違うかというと、事実に対して謝罪ができているかどうかということ。
ということで正解は2。
バッテリーが悪いと謝る→確定していない事実を謝ってしまう→お客様の中でバッテリーが悪いという事実が決定してしまい、要求が次に移る
お客様の気分を害してしまったと謝る→製品に原因があるかは別として、怒っていることは事実→まずは怒りを鎮めることで次の対応のステップに移ることができる
クレーマーと一言で言っても、その人その時によって状態が全く異なります。
本当に問題を解決して欲しい人、自分の怒りに共感して欲しい人、被害を被ったから補償して欲しい人、金品目当て、話し相手欲しさ、パワハラ、その他
もともと決めつけて来る人もいれば、こちらの対応次第で状態を行き来する人もいます。
製品に原因があると認めさせたい人は、とにかくそのことを執拗に求めます。
そこで不用意に製品の不備を謝ってしまうと、相手にしてみれば製品の不備を認めたこととイコールになってしまうわけです。
どんな口調やトーンで謝ろうとも、謝る対象を間違ってしまえば解決は遠ざかってしまいます。
かといってそれを恐れるあまりに「謝らない」ということが最も危険です。
相手は絶対に間違いを認めさせようとあの手この手を使ってきます。
その結果、恫喝やSNSからの炎上など、対応コストばかりが跳ね上がってしまう最悪の結果に至ってしまうことさえあります。
とある大手企業のクレーム担当に話しを回された際、わざとこちらを激昂させてクレーマー扱いすることで問題に取り合わなくなるといったことをされたことがあります。
うおおおー!そんなクレームの解決方法もあるのか!と驚いたものですが、そんなくそ企業の製品は二度と使わないと心に決めました。
クレーム対応は無敗でしたが、クレーマーとして挑んだ唯一の敗退でした。
・じゃあどうすんの?
事実だけ謝っていれば物事は解決するのか?と言われればもちろんNOです。
例えば、「バッテリー持ちが悪いからバッテリーを交換してほしい」などです。
これに素直に従うことが問題の解決にならないことは皆さんもご理解頂けていると思います。
ではどのように対応するのが正解と言えるのでしょうか。
ここで、相手がクレームに至るまでの3つのステップに目を向けてみましょう。
例えば先程の例ですと、相手はまずバッテリーのもちが悪いという事象に遭遇します。
そこで相手は自分なりに考えてバッテリーに原因があるのだろうという原因Aを想定します。
その結果、バッテリーを変えてほしい、製品を返品したいなどの要求Aが発生します。
つまり、クレーマーの要求は、原因A→事象→要求Aというステップを経て発生していることがわかります。
しかし、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、バッテリー持ちが悪い原因というのは何もバッテリーそのものに原因があるとは限りません。
中で特定のプログラムが悪さをしているかもしれないし、電力消費モードがなにかの拍子で変わってしまったかもしれません。
ここでまずクレーム対応に求められることは、相手の要求と観測した事象をもとに相手が想定している原因Aに辿り着くことにあります。
「私はあなたが考えている原因Aを共感できました」と相手にしっかりと伝えることです。
もし本当に原因Aがトラブルの原因だとしたら、規定に従って要求Aに対応すれば終わります。
規定以上のものを求められているのであれば、それはまた別の対応が必要になります。
しかし、相手と原因Aが共感できていないままに要求Aだけを拒否していれば解決できるものも解決できなくなってしまいます。
なぜなら、「相手は要求の可否だけしか耳を傾けず、製品の問題に目を向けようとしない!」という新しいクレームを生んでしまうからです。
みずから対応コストを増加させてしまったと言わざるを得ません。
もし原因Aが本当に問題の原因ではない場合はどうするのがよいでしょうか。
相手からできる限りの事象を聞き出すことで、本来の原因である原因Bに辿り着く必要があります。
このあたりは当然業界や内容によってノウハウもツールも変わってきますのでここで言及することはできません。
こちらだけ原因Bにたどり着いていても、相手がまだ原因Aが原因だと信じている以上は要求Aが変わることはありません。
一つ一つの事象に説明を加えていくことで、相手にも原因が原因Bなのだと理解させます。
原因A→事象と相手が思っているのなら要求Bには絶対に誘導できないということです。
原因Bが相手と共感できてはじめて原因B→事象→要求Bからの解決へと導くことができるわけです。
こうした正しいステップを踏まずして、闇雲に謝っていたところで問題が解決するはずはありません。
それは、できることとできないことを明確にして、それを相手にはっきりと伝えることです。
それが曖昧であればあるほど、相手は要求をエスカレートさせ、それを得られないことを自らの被害だと考えるようになります。
それをもとに要求が加害に変化してしまうことだって想像に難くありません。
もしそこでできること以上に相手から要求があるなら、それこそ「申し訳ございませんができない決まりになっています!」と謝ってしまうことで、相手の要求が過剰なんだよとやんわりと教えることができます。
その時はじめて、「激しく怒鳴るクレーム客には「怒鳴り返すように謝る」と最高に効く!」と言えることができます。
まずは否定する思考や感情を客観視できるようにすることが大事かも。
否定的な発想を肯定的な発想で打ち消そうとすると、考えることが多くなり知らない間に消耗すると思われる。
内面を客観視して、否定の根拠を一つづつ丁寧に崩すと、いつか否定的な発想が生まれないようになるんじゃないか。
否定的な発想が消えると、もともと体がもっている「生きることへの肯定感」に気づきやすくなって、価値観による自己肯定が必要なくなる。
それと「今日も生きてしまったことは恥なので」という言葉に増田の「俺はこうありたい」という欲が見える。
自己肯定を意識するより、その欲の原因を知り、本当に自分に必要な価値観なのか向き合うアプローチもありかも。
まぁしらんけど!
1ヶ月程前にインスタをやめた。
やめてみて、結論から言うと弊害はなく、むしろメリットばかり感じている。
そのメリットについて書く前に、少々長くなるがやめた経緯について語る。
学生は夏休み。かくいう私も3週間という短い夏休みを得た矢先であった。
インスタのストーリーに流れてくる大量のリア充、リア充、リア充。
友人と遊びに行きました、飲み会、サマフェス、海、山、ドライブ、デート、部活遠征、帰省しました、旅行です等々...
よくもまあ毎日それだけ投稿するものがあるもんだと思う反面、自分が実家のベッドで寝ころびながら
友人のそればかりをスクロールしては眺め、スクロールしては眺め、を繰り返しているうちに気分が沈んだ。
夏休みに入る前から若干気分障害じみた気配はあったが、それが休暇を境にどっと来てしまい、
皆が外の世界でわいわいキャッキャ遊んでいる時間に私は過眠をかまし目が覚めても傾眠、
親にその自堕落を指摘されればブチ切れ物を壊し、暴言を吐き、ひとしきり暴れて泣くという行為を繰り返していた。
それでもやめられなかったのは人の輪から外れそうで怖かったからである。
大学に行っても「ねえ、昨日の○○のインスタ見たー?」という会話がほとんどで
休み時間がくればインスタを開きその話題でひとしきり盛り上がるのであった。
今や同学年のほとんどはTwitterでもFacebookでもなく、インスタで繋がっており、なんならLINEを超えちゃうんじゃね?という感じだった。
辞めることで他人を知れないことが怖かった。
今思うとインスタでしか繋がりのないような人間がどこで何をしていようが私の人生には全く徳も損もないのに、その時は繋がりを切ることが怖かったのである。
その繋がりに固執しつつ、他人の楽しそうな様子を見て気分を滅入らせ、どんどん自分を嫌いになっていた頃であった。
多分これ、好きな子いる人には分かると思うんだけど好きな子の投稿って無駄に細部まで見てしまうことない?
料理の写真の対面に皿が写ってるとか、他人を伺わせる内容が書いてあるとか。
なんなら怪しいと思った女の投稿まで全部監視してる系の女だったんだけど。
7月の終わりに好きな子が投稿した料理の投稿にさ、「○○ちゃんとの合作」みたいなの書いてあって
「#合宿」みたいなのが書いてあったわけ。
それでもう5月くらいからマークしてた女がタグ付けしてあったからその女の投稿にとんだら
「泊めてくれてありがとう」みたいなのが書いてあったわけ。
んでストーリー見返したら(ストーリーって足跡つけずに見られる方法あるからそれ使ってたんだけど)
好きな人のベッドに寝転がって間接照明で遊んでるっていう投稿がでてきたわけ。
てめー、24時間で消えるからって付き合ってもない男の家に上がり込んだ投稿するとかどういう精神?
それ「私やっちゃいましたよナマステー」って言ってるようなもんじゃね?
ああナマステ―はそいつらが作ってたのがカレーだからなんだけど。
って思いながら即トイレで吐いた(ストレスで胃炎も起こしていた時期だったので簡単に吐いた)
それでひとしきり泣いた後、自分が圧倒的にダメになっていっていることに気づき、
「インスタをやめたら人生が好転するのか?」という記事を2時間近く読み漁り、
どこの誰が書いたか分からない記事に背中を押される形で私はインスタを消した。
やめて2,3日は他人の行動が伺えないことが怖かったけれど、1週間も経てばどうでもよくなった。
あれだけ執着していた好きな人の動向伺いもできなくなってしまったけど、それは2週間くらいで「まあいっか」と思えるようになった。
3週間経過したころから、勉強する内容や人との会話が以前よりも頭に残るようになっていることに気づいた。
思えば人と話している時も、勉強している時もインスタで見てしまった内容について考えて気分が塞いだり、今何してるんだろうって気になって
しょっちゅうインスタを開いたりしていた気がする。
あとは、お父さんに言われたんだけど、結局人間の脳もスマホのパケットと一緒で、
動画はデータ量が多いから、1日に人間が記憶できる容量を圧迫してしまい
ゴミみたいなストーリーの映像ばかり残ってしまうのではないか、と。
(この理論だとYouTubeやネッフリでみている動画も容量食っていることになるがそれは認めたくないなあ)
だからその容量が解放された分、記憶力が向上しているのではないか、と。
まあ記憶が必要な仕事や試験がない人には関係ない話かもしれないけど
近いうちに大きな試験を受けることになる私にとってはとても助かることであった。
現実世界の楽しいこと、綺麗なこと、些細なことにスマホのカメラじゃなく自分の眼を向けられるようになったって感じる。
でも逆に言えば、「いいな」って思ったことは誰にも評価されない。自分の「いいな」で完結できる。
ちなみに私がインスタをやめたことなんて誰も気づいていなくて、
「○○のインスタ見たー?」とか言ってきた友達数人に「もうやめちゃったんだ」と伝えて全員が知らなかったレベルなので
まあそんなもんです。やっててもやめてても気づかれないんですよ。
自分が「いいな」って思ったストーリーを適当に流されて、投稿に適当に「いいね」押されてるに過ぎないんですよ。
押してるくせにどこ行ったか覚えてない奴なんて山ほどいるし。
友達も減ってないし、相手は変わらないだろうけど私はその人達に全力を注げるようになった。
だって喋りながらインスタ眺めることがなくなったんだもん。対峙しているその人との時間がすべて。
そんなわけで。タイトルはインスタをやめたら頭が良くなったっていう一面しか紹介できていないけど
実際はすごくいいことがたくさんありました。
何よりも自分が好きになれました。
そういえば。好きな子のことはまだ好きです。ここでは話ずれちゃうからしないけど、この記事だけじゃどう見てもクズ野郎ですが
どうしようもなかった私をたくさん助けてくれた人です。
でもその人は今インスタで毎日自分の作った料理を投稿するのに必死で、少しかわいそうだな、と思いますが
そんなことに執着している時間を使って、私はもっと賢くなって、綺麗になってやろうと思います。
最後に。インスタ辞めたってお母さんに言った時の言葉で締めようと思う。