2024-10-13

トマト嫌いな人になんで嫌いなのって聞いた所で、普通酸味だの食感だの何だのって答えしか帰って来ないと思う。

それって具体的な要素を並べているに過ぎなくて、「どこ」が嫌いか説明にはなっても「なぜ」の説明にはなってない。

じゃあ結局その要素はなんで嫌いなの、ってのを何度も繰り返せる。それが止まるとしたら、どっかで「なんか嫌い。舌と脳がそういう風になってるから」としか言いようがねえと思う。

ひいてはトマトが嫌いなのも「そういう風になってるから」という話になる気がする。

グルメ漫画世界みたいに「誰もが感動する本物」なんてないだろうし。

こういうの考えてると、芸術批判なんかが論理的なもんだってのもホントかよって思う。

好みというか価値判断というか、そういう個々人の身体と脳に基づいた資質抜きにしては語れない。その前提が共有されてなかったら、なんぼ論理を展開した所でその理屈は足元から簡単に崩れる。

よしんば事実認識だけで語った所で、それは片手落ちな感じがする。

じゃあ最初から好きな者は好きな者同士、嫌いな者は嫌いな者同士で語り合うしかねえのかな。

じゃなきゃ理屈の前提が揃わない。

でも部分的には共感出来る所なんかもあるのかな。

同好、同嫌(?)とて一枚岩ではないのだろうし。

倫理学って延々とこんなような話を捏ねくり回してる印象がある。どこに前提を定めるか。それってむしろ理屈というよりは政治的問題って感じだけど。

まらんと思ってたものを、理屈立てて面白さを追求するという事も出来んのかな。

味覚の好みほど強烈に好き嫌いが分かれるもんばっかでもないだろうし。

その味覚だって案外慣れによるところが大きいかもしれない。でもマジで無理なもんはマジで無理だしな。

好きでも嫌いでもないを好きに引き上げる、くらいの事は出来んのかな。思い込みスパイスにするのもまあよくある事だし。

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