2024-10-14

弱者男性が嫌いな人に「なんで嫌いなの?」って聞いても、返ってくるのは大抵、外見だとか、態度だとか、社会的立場だとか、具体的な要素に過ぎないだろう。

それは「どこが嫌いか」を説明しているに過ぎなくて、「なぜ」嫌いなのかの説明にはなっていない。

結局、その要素がどうして嫌いなのかと何度も問うことができるだろう。でも、最後には「なんとなく嫌い。自分感覚価値観がそういうふうに反応するから」としか説明できないところに行き着く。

ひいては、弱者男性が嫌われるのも、最終的には「そういうふうに感じるから」という話になる気がする。

普遍的評価なんてあるのか?

「誰もが感動する本物」なんて、まるでグルメ漫画世界のようなもので、現実には存在しないのではないだろうか。

こういうことを考えると、社会的評価個人に対する批判論理的だと言われても、それって本当なのか?と疑問に思う。

価値判断や好みというのは、個々人の身体や脳に基づいたものであり、それ抜きにしては語れないものだ。その前提が共有されていなければ、どれだけ論理を展開しても、その理屈簡単に崩れてしまうだろう。

価値観のすれ違い

仮に事実だけで議論しても、それだけではどこか片手落ちな印象が残る。

結局のところ、最初から好きな者同士、嫌いな者同士でしか話が通じないのかもしれない。さもなければ、議論の前提が揃わない。

それでも、部分的には共感できるところもあるかもしれない。好き嫌いが一致するからといって、一枚岩というわけではないだろう。

倫理政治の交差

倫理学の議論って、どこに前提を置くかという話を延々と捏ねくり回しているような印象がある。それって、理屈というより、むしろ政治的な問題に近い気がする。

まらないと思っていたものを、理屈面白さを追求することができるのだろうか。好みの分かれる問題だって、すべてが強烈に対立するわけではないし。

好きと嫌いの間

好みというのは案外、慣れによるところが大きいのかもしれない。だが、どうしても無理なものは本当に無理だということもある。

好きでも嫌いでもないものを「好き」に引き上げることはできないだろうか。思い込みを「スパイス」にするのも、よくあることだし。

  • 弱者男性が嫌いな人に「なんで嫌いなの?」って聞いても、 どういうシチュエーションなんだw

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