はてなキーワード: 演奏会とは
演奏会に行くんじゃない?
まずこの人数でオケ編成は絶対に組めない。1パートほぼ一人の現状ではウィンドアンサンブル編成すら困難だろう
だからせめて室内楽編成ぐらいは組めるように演奏者を追加してくれというのが自分の言っていることだ
具体的に何を演奏していたのか?というのが全く見えてこないのだ。「音」とかいう曖昧な言葉で誤魔化さないで欲しい
そもそも音楽部なら、普通定期の何らかの演奏会があり、そこで演奏する曲があり
それに向けて皆で練習する…というのが日常風景だ。パートの絆もそこで生まれる
ユーフォとか見たことあるか?…まああそこまで濃厚なのは紛れもなくフィクションだが
ららマジにそういう光景が見えないから、自分の目から見るとびっくりどっきりメカを抱えた女の子たちをとりあえず集めただけにしか見えないし
そのように楽器をびっくりどっきりメカとしか扱ってない雰囲気が音楽をナメていて癪に触るのだ
ます「楽器や音楽をモチーフに上手く物語に取り込んでいる」という時点でかなり腹が立つ。音楽は手段ではない、それ自体が尊い目的である
確かにふと自分の演奏していた曲に感化されて、気付いて…みたいな形で話が進む表現はある
その時点で「楽器や音楽をモチーフに」とか言われても話のネタにしか使ってない感じで薄ら寒いだけだ
結局は、「音楽それ自体に向き合って欲しい」という一言に尽きる
音楽にただひたすらに向き合うことで自分の抱える精神的問題の解決がなされるのだ
というか女の子の精神的問題とか音楽自体の尊さの前ではクソどうでもよくないか?
https://this.kiji.is/377407732560479329
島根県川本町で9日に予定されていた性的少数者(LGBT)のコントラバス奏者による演奏会が、案内ポスターに書かれた「おネエ系」などの言葉が不快だと指摘されたのをきっかけに中止になっていたことが7日、分かった。
川本町教育委員会によると、演奏会は町の地域おこし協力隊員が主催し、町教委などが後援。京都市交響楽団のコントラバス奏者ジュビレーヌ・イデアラ(本名出原修司)さんと同僚1人が出演予定だった。
当事者による表現が、その当事者を守るために批判されて、最終的に活動範囲が狭まってしまう現象。
すごく興味深い。
また聞きだけど、女性の仕事を奪って遊ぼうと考えた欧州のネット民が、フェミニズム理論から提示された「女性差別」言説を活用している事例もあるらしい。
これはnoteには書かない。
高まった感情の羅列をわざわざアーカイブする必要もないし、したいとも思わない。
それに、彼らの歩みの横にあえて痕跡を遺すような事はしたくない。
この文章はただの感情の発露であるが故の乱文で、昨日の夢がいつの間にか思い出せないのと同じように、このエントリーも明日には憶えていないことを望んでいる。
『DREAMWALK』にはきっとそれが正しい。
2年ほど前、確かtomadという男性がTwitterに貼っていたSoundCloudのリンクがきっかけだったと思う。
イルカの調教師の語りからはじまる音源を聴いたのははじめてだった、でもそのユニット名をふざけているとは感じなかった。
音楽に関しては好きな物は好きくらいのマインドしかない、なので感覚的に語る事しかできない。
けど、その時聴いた彼らの曲は郷愁というほど大それていないが、家に帰りたくなるようなそんな音楽だった。
「功夫少女白書」に「NEXCO東日本」、それに「HELLO!」次々に聴いていってどんどん夢中になり、毎回なぜか懐かしい気持ちになる。
もちろん「使っている機材が昔の物だから」という要素も多分にあるはずだけど、子供だった頃に見聞きしてきた古さの感覚が近いのかな、とそんなことを考えたのを憶えている。
そのうち、SNS上で交流が生まれると彼らの創作の一端に交えてもらえる機会もあった。(これは非常に嬉しかった)
今じゃ、毎週来ているのでは?と思うくらい、東京でのイベントに出演しているけど、2年ほど前はあまりこっちで観られるチャンスもなく、DMを送るタイミングで「東京での演奏会も楽しみにしています」と送ったりもしていた。
今考えるとちょっと恥ずかしいが。
多くの人が感じているのと同じように、彼らには独特の空気があると思う。
僕はその彩度が低く、ゆるやかに見えるのにどこか硬質感のある空気に(楽曲のイメージもあるのかもしれないが)廃墟や寂れたモールの気概みたいなものを感じることが多い。
ハードオフの中古シンセサイザーの音が、コンクリートの色をした1990年代を連れてくる、そんな感じがする。
そんな彼らが出すはじめてのアルバムにはきっと都市の面影と、そこに並び建つ団地に巣食う狂気性みたいなものが、持ち前の器用さによって丁寧に仕込まれ、織り込まれているんだと思う。
よぉオタク、よく来たな。
そりゃタイトルにオタクなんて入ってるのにわざわざ読んでるようなのは、
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さて、attention!
そう、pixivのlogとかによくあるあれだ。オタク、よろしく頼む
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・このエントリにはガルパライブ5thの両日ネタバレが含まれます
・一発書きなので多分誤字脱字がある(恥ずかしくて通読してない)
・なんでも大丈夫な方のみどうぞ
・無理そうな方は無理せずブラウザバックして、どうぞ。
さて、それでは話を始めます。
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悲しむこともあったし、怒ることもあったし、楽しくなることだって、感動することだってありました。
CLANNADの汐みたいに、「泣いていいのは~」みたいなのを決めてたわけでもありません。
ただ、とにかく、何か起きても概ね因果関係を把握してしまい、Aが起きたなら結果はBだ、というように世の中を処理するようになりました。
オタクなのでアニメ見たり映画見たりするのですが、「あ、ここ泣き所だな?」みたいな所で
定まった型のような感動を味わおうとする、そんな風な性格をしています。
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さて、そんな私の過去ですが、物心ついたころから捻たタイプの百合厨でした。
わざわざ百合と銘打って検索し始めたのは少女セクト見てからのような気もしますが、
それ以前の私は女子プロレスにキャットファイト的興奮を素で覚えるような人間だったので、
嗜好としては推して知るべきといったところでしょう。
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一方で成績も悪くなく、本が好きなデブとしてオタクの例に漏れずインドア派の青春を送っていた私は吹部にそれを捧げます。
バイエル程度のピアノを履修したことのある私にとって、吹部はいい場所でした。田舎だったので周りのレベルが低く、
演奏技術として課されるノルマも相対的に低かったので、熱くなることもなく、無難な日々を過ごしていたと言えるでしょう。
感情に疎いので、コンクールの結果も概ね予想通りだなくらいの感想しかなく
――そりゃ金賞取ったら嬉しかったですし、銅賞なら悲しみもしました。でもそれはメンツやレベルで推し測ることができるものです――
ユーフォ一期一話の久美子ちゃんみたいに、「あ、皆悔しかったら泣くのか」みたいな感想を持つような人間でした。
まぁそれは今も変わってないのですが。
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そうやって生きてきた感情の薄いオタクは、――まどマギ見て胸がいっぱいになって人生で初めて感動で泣きそうになったりしましたが――
大学受験に失敗し、ラブライブに出会います。あ、ガルパのサービス開始はオタクが大学に入ってしばらく経ってからなのでもうちょっとかかるよ。
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高校で悪い友人に音ゲーを仕込まれたオタクは、project DIVAにのめり込みます。
extendを一日2~3時間くらいやってたのであえなく浪人。LPのあるゲームなら大丈夫やろと安易にスクフェスに手を出します。
浪人期の私にとって、スクフェスは勉強を除けば全てでした。リズムゲー、三話で現実を見るアニメ、二次創作で無限に供給される百合。
オタクがオタクたる所以がそこには三つの柱として屹立していました。ちなみにデレステのサービス開始一年前とかの話です。
オタクがラブライブを認めた理由は多岐に渡りますが、大きく三つ、曲と「演者である」というアニメの見せ方とライブです。
曲はスクフェスやってたので無限に聞き込みました。結果、メチャクチャ好きになりました。
アニメは三話が全てでした。オタクは吹部だったので、幕が上がった瞬間に、あれだけの宣伝をしたにもかかわらず客がいないその絶望に共感することができたのです。
自分たちの初めての演奏会、そんなに凄いものじゃなかったことは分かっていたけれど、やはりお客さんが少ないことに一抹の悲しみを覚えたことを。
理屈では分かっていても、目に見えて人が居ない、というのは堪えるものです。シンデレラガールズのNGお披露目回での未央ちゃんの反応も納得です。
そこを乗り越えてライブをするμ's二年生の姿に共感と誇らしさのようなものを覚えて、かつて一話切りしたアニメを見始めました。
ストーリーが死ぬほど面白かったか、と言われると人によって意見が分かれるところですが(いつもの私なら茶化してつまらなさを弄るところです)、
どうしても穂乃果ちゃんから逃げきることができず、オタクは穂乃果ちゃんのオタクになります。
普段の私からすると元気おバカ、それも主人公にハマるなんてひっくり返っても起こらないことです。
そして何気なく見てたyoutubeで、オタクはラブライブのライブ映像を目にします。
始めは何気なしにアニメのライブか、程度で見ていたのですが、オタクは気づきます。中の人がマジでパフォーマンスしていることに。
ラブライブはアニソンの例に漏れず歌唱難易度が高く、その上ライブではもともとアニメーションとして動いているダンスを再現しています。
このヤバいことを同時にやってのける凄い人たちがいる――。オタクはいよいよラブライブのオタクになりました。
しかし時は5thライブ直前、ラブライブのオタクとして日々思索するうちに、パフォーマーとしてのμ'sの中の人の体力的限界問題について考えるようになりました。
アニメ二期の流れ、μ'sが実は5周年を迎えていること、そういった諸々を鑑みたオタクは、μ'sの引退を予見し、取り乱し始めます。
結局、6thがファイナルとなった訳ですが、オタクは再受験に失敗し、μ'sが終わるという現実にも上手く対応できず、
それまで全て歌えたラブライブ楽曲も、PSYCHIC FIRE以降、把握してるかすらも怪しいまでになります。
そうして、初めてコンテンツの興隆と寿命なんてものに触れたオタクは色々な感情を整理できないままラブライブから疎遠になっていきました。
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さて、ラブライブ疎遠期のオタクですがデレステやってました。CoolP、主にかえみゆPとして性懲りもなくスマホ音ゲーに手を出し、沼に浸かる日々です。
あ、ナナシスは曲が好きです。WUGは未履修です。すまない。アイカツは一番古いOPとEDしか知りませんが適当に聞く曲が大体好きなので大丈夫そうですね。
プリパラは3Dのやべー奴だしアイドル事変も未履修ですすまない。何を書いているんだ私は。
とりあえず大学に進学し、サークルに授業に忙しいオタクは、またしても感情を動かさなくなりました。人並みの情動はあれど芯が動くことはない、そんな感じでしょうか。
二次創作百合に手を出し、癒され、適宜アニメ干渉するような生活でした。そうしてリア充と言えなくもない時期を過ごし、
他人から「ホントにヤバいやつ」扱いされぬよう感情を覚え、心の外縁でそれが機能してるようなふりすることがちょっとずつできるようになっていきました。
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そんなあるときガルパの配信が始まり、少ししてからオタクの好きな曲がいっぱい収録されていることを知って、オタクは徐々にガルパをやるようになります。
大体半年くらい経った頃でしょうか。オタクはキョン子、久美子を始めとするクーデレのような何か(久美子は解釈が分かれるところでしょうね)が好きなので、
奥沢君が推しになります。その一方で曲の割合はポピパとRoseliaがメインなので自然とそれを聞くようになりました。配信サービスに乗っかってたのが大きい。
オタクの音楽の趣味ですが、F、Δ、7といったマクロスが履修済み、シンフォギア(履修中)の曲が好きすぎてパチンコを打つといった具合なので、
大ヒットしたのはRoseliaでした。今も昔も推しは奥沢君ですし、バンドとしては昔のアフロ推しから一転、箱推しになりましたがそれはそれとしてRoseliaはめっちゃ好きです。
Roseliaの何が好きって、Re:bitrth dayです。バンドストーリー本編最終話からの再生の曲、何度聞いても胸が熱くなります。
dearestに似た浮遊感すら感じますし、もはやロボットアニメの最終話、主人公機覚醒シーンとかでかけた方がいいんじゃない?みたいな妄想もよくしてました。
とまあ、いつものようにオタ活に励んでいたわけですが、Roseliaのプレイリストを聞くうちに、またうっかり好きな曲が増えました。
ここでようやく登場する本題、陽だまりロードナイトです。attention含めて3500字近い何かになってきましたね。なげぇよ。
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さておき、もともと私はこの曲のサビが大好きでした。今までのRoseliaの曲から一転、ボーカルの友希那を包むようなコーラス。
片方が主旋律で片方がハモりのはずなのですが、どうしても主旋律が二つあるように聞こえます。普段、好きな曲はある程度聞いたら歌えるようになるのですが、
この「どっちが主旋律か分からない問題」のせいでオタクは久々に一人で歌えない歌に出会いました。しかしオタクはこれはこの曲の良さだと素直に受け止めます。
それから、忙しさにかまけてRoseliaへの解釈はリサゆきメインの百合厨にそれをゆだねる日々を送っていましたが、その中でリサ姉はRoseliaの精神的支柱だという気付きを得ます。
そして友人のゆりしぃオタクから引退の報を聞きます。この友人、プロジェクト東京ドールズとガルパにめちゃんこハマっており、それはまぁゆりしぃオタクなのでした。
引退。よくあることですね。ラブライブのオタクとしてμ'sの実質的引退を経験した身としては、来るべきゆりしぃロストに向けて色々と語る友人に昔の自分を重ねつつ、
Roseliaのメンバー、中の人が一人交代するのか、位に捉えていました。オタク、FGOエンジョイ勢だったので丁度FGOでのマシュみたいなもんかな?といった感じです。
このオタク、ホント感情の動かなさが種田さんにも高橋さんにも失礼だな?ともあれゆりしぃ引退を聞いた時はそんな印象でした。心の外縁が悲しんでいる様子。
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それから暫くして、ラッキーボーイだったゆりしぃオタクの友人から吉報が届きます。ガルパライブ5thに当たったから一緒に行かね?と。いやほんとこいつ神だな?
ラブライブしか知らなかった頃と違い、大学に行くために実家を出たオタクは、物理的にライブ参戦が可能になっていました。もちろんOKの返事を出します。
もともと田舎出身の貧乏学生だったオタクにはライブ参戦という発想がそもそも無く、何もかもが初めてでした。オタクの知っているライブは、youtubeに公式が上げている
映像か、親切な友人等が貸してくれる円盤かのどちらかでした。そもそもOKした時はワンチャン黒沢さんが出るんか?みたいな印象でした。いやHPくらい見ろよ当時の私。
ラッキーボーイ友人のラッキーは流石に両日は保たず、day2が近所でLVとなりました。その時の私は「初日遠征、二日目がLVでRoselia」くらいの認識だったと思います。
許せ、リアルがごたごたしとったんや。そうしてライブの週になってようやくライブの中身を把握し、ポピパとRoseliaの聞き込みを始めます。一月前からちょいちょいやってたけどね。
その週、気の利くラッキーボーイはGiGSを読ませてくれて、Anfangを貸してくれました。おまけにAnfang付属のRoselia1stライブまで見せてくれました。ほんまいい奴やな……。
これが幾つもある今回のタイトルの原因のうち、最大のものでした。
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GiGSに載ってたのはRoseliaの中の人達が本気で楽器をやっていることの証明でした。吹部だったのでジャンルは違いますが、書いてあることは大体分かります。
全ての楽器の詳細な設定とか、横でそれの担当の奴が弄ってたな……。なんて読みながら感慨にふけりました。そしてその全てはたった一年で為されたのです。一年。
かつて私の部活にもいたのですが、途中から入部して毎日本気で練習して、最高のパフォーマンスをこなす凄い奴。横でその軌跡の一端を眺めてたからよく分かります。
Roseliaは考え得る最高の教育を、最高の形で受け取って、そして最高の形でそれを昇華したんだということを心にすっと感じました。芯に、真っすぐ感情が入ってきたのは久しぶりでした。
そして見せてもらった1stライブ。中の人たちのキャラを知るには十分でした。あいあいはぽんこつだし、くどはるはアクが強い。めぐちは良い人だし明坂さんはりんりん。
そしてゆりしぃはリサでした。まごうことなき今井リサでした。ツッコムわトークを回すわリサゆきだわでオタクはRoseliaの中の人たちにもメロメロでした。
キャラ作ってるのは知ってますが、そんなことはキャラとしてのRoseliaに、そして中の人としてのRoseliaにメロメロのオタクにはあまり関係ありません。
というか罹りたくて罹っている催眠が解けるはずないじゃないですか。そんなことより、これはパフォーマーとしてめちゃくちゃ優秀だということの裏返しだということにしましょう。
こうやってライブ数日前、私の中でRoseliaは完全にRoseliaとなりました。
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さて、ライブ当日です。一日目の遠征は最高でした。Light Delightのサビのサーチライトの演出とかほんま神だったしポピパの中の人の新曲への熱意が凄かったしでオタクは普通に楽しんでいました。
ここで、オタクはかなりの感傷に浸ります。何となく生きてきた人生とは、全力でパフォーマンスする演者による素晴らしいパフォーマンスとは、そして自分とは――。
ポプテピピックの「明日死んじゃったらどうする?」状態です。今までの情動しかない人生に比べて無限に大きな感情がやって来た。処理しきれなくてバグっていました。
そうして帰りの夜行バスの中で最後に落ちてきた風船を眺めながら、パフォーマンス、ライブとしてのラブライブをちゃんと終わらせてなかった、
ラブライブから逃げ出してしまっていたのかもしれない、というところまで何とか思考が帰ってきました。このぐちゃぐちゃと感動、感傷、とにかく感情のすべてを解くカギとして、
幕張から持って帰ってきた風船は捨てずにとっておこう、なんてことを考えていました。そう、遠征一日目はこんな感情だったのです。外縁で処理しきれることも多かった一日目でしたが、
それでもかつて心の中心に居た何かを呼ぶには十分だったのです。
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そして二日目、LVでした。始まる前からゆりしぃ引退が頭をよぎり、「今日はタダじゃ帰れないな」と気が気でなかったような思いがありました。
何事もなくライブは進み、そして陽だまりロードナイトが掛かりました。どこか冷めた自分が、「お、陽だまりロードナイトだ」と心の中で平坦に言ったような気がしています。
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声となって
表情となって
導いてくれる
やさしい人よ
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リサ姉はほんとにそんな人なんです。こんなにも長い間音楽と触れ合ってきて、歌詞のすべてが心の芯まで揺らしていたのは、人生で初めてのことでした。
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二番に入り、
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離れていても 帰る場所がある
どんな時でも 傍にいてくれた
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Aメロはリサであるゆりしぃのことなんだな、というのがさっき心にやって来た衝撃以上の共感となって、瞬時に理解できました。
たとえRoseliaのパフォーマーとしては離れることになっても、ゆりしぃにとってRoseliaは帰る場所であることができるし、
Roseliaのメンバーにとって、ゆりしぃはリサとして、ゆりしぃとしていつだってRoseliaに居たんだ、そんなことを思いました。
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太陽となって
月となって
照らしてく
つよい人よ
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陽だまりロードナイトを聞くとき、これはリサの歌だと思ってたんですけど、ライブでここが流れたのを聞いた瞬間にその思いは少し変化しました。
Roseliaのベーシストとして、太陽のようにファンの前で、Roseliaの中で輝いてきたリサとしてのゆりしぃが、
これからはRoseliaとして表舞台に立つことはないけれどメンバーの心を照らし続けるように、Roseliaに、そしてファンの中に残り続ける。そんなことを思いました。
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この曲では、語り手が「語り掛ける相手」が居て、二回出てきますがどちらもリサを想定することができます。
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「あなたがいれば、怖くないよ」
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と
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名前を呼ぶ声
こんなにも特別な事だと
想い あふれてゆく
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です。文字通り、リサが、ゆりしぃがいればもう怖くないし、たとえそれがRoseliaのなかであってもそうでなくとも、という感情がやって来ました。
これからいなくなってしまうゆりしぃが呼んでいた誰かの名前、Roseliaのメンバーが呼んでいたゆりしぃを呼ぶ声。その一つ一つが、全て特別なものだったんだよ、と語り掛けてくるようでした。
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特に首都圏では多くのアマチュアオーケストラがあります。4月からの就職、進学、転勤等で活動の場が変わった人は新しい団体を探す人もいると思います。
また、楽器を習っていて始めてアマチュアオーケストラを始めたい、と思う人もいると思います。
知り合いに直接紹介してもらうという手も無いわけではありませんが、特別な理由(紹介してくれた人と活動したいなど)がなければ自分で探すことをお薦めします。
まれにHPがなかったり、更新が滞っているところもありますが。
こういう団体はHPのメンテナンスが出来ないほど人不足か、募集をしていない(内輪だけで活動したい) のだと思います。募集をしていないような団体であれば知り合いのつてがなければ入団は不可能でしょう。
アマオケの人不足は技術力不足と鶏と卵の関係にあります。人不足だけど技術力は高い団体があれば、それはもっと大きな闇を抱えているに違いありません。
例えば、指揮者が横暴であったり、一部の中心人物が牛耳っているなど。
さて本題の、自分にあった団体の見極めかたですが、まずはHPで過去の演奏会の履歴を調べます。これによりだいたいの団体の規模(人数)が分かります。大きく分けて2管編成なのか4管編成なのか。
次に曲の選び方として弦楽合奏があるかないか、協奏曲があるかないか、協奏曲のソリストは団内か否か。
どのような曲が多いか?ロシア系ばかりを取り上げている団体、北欧系ばかりを取り上げている団体などもあります。
年に何回の演奏会があるか?
練習回数はどれくらいか?半年程度の期間で20回程度の練習が組まれていると多い方で、少なければ4~5回という団体もあります。
演奏会を見に行きましょう。
観点は、エキストラの割合。プログラムのメンバーリストに記載されている場合があります。記載されていない場合は動態調査しかありませんが、慣れていないと難しいでしょう。
次に演奏の方向性。これは好みになります。演奏の雰囲気が気に入るかどうかです。
次に問い合わせをします。
まず募集があることを確認して、入団を検討しているという意思を表明し、質問します。
一回の演奏会あたりの費用。チケットノルマの有無。その他必要となる費用。
その他としては、団費といったり、合宿費であったり遠征費であったりします。
本来、これらをすべてひっくるめて演奏会費だとおもうのですがね。
一回の演奏会の費用が引っくるめで3万円を越えるとかなり高い方だとおもいます。安いところでは2万円以下です。
しかし、高いところは有名指揮者が来ていたり、高額なソリストを使っていたりするならばありえます。
ホールの使用料は似たり寄ったりです。東京ではサントリーホールが飛び抜けて高い以外は。
これが曖昧な答えしかこなかったり、先に見た演奏会と辻褄が合わなければ、怪しいです。
見学といっても弾かされることが多いです。こちらが団を選ぶように、団側もあなたを査定します。
これで(見学で)お断りされることは滅多にありません、オーディションでなく。私は一度経験がありますが。
見学に行った時期が次の演奏会の時期と比較して、完成度がどのようであるか?を見ると仕上げかたの方向性が見えます。このとき演奏会を見に行って完成度を確認してあることに意味が出てきます。しかし、ほとんどの団体が練習期間によらず、最後の2週間程度で一気に仕上げます。
もしかしたら数年前に決着のついてる話かもしれないが森田真生の話をする。
一応どういう人か簡単に説明しておく。Wikipediaや本人のHPによれば「独立研究者」という肩書で
大学等の研究機関に属さずに数学をテーマとした研究をしている在野の研究者。
著作もいくつかあり、中でも「数学する身体」という本は小林秀雄賞をとっているらしい。
また「数学の演奏会」なるイベントを定期的に開いているとのこと。
僕はこの人の著作を読んだこともないし、「数学の演奏会」に行ったこともないので正直あまり知らない。
ただ僕が簡単にアクセスできるこの人の情報から判断するにこの人は胡散臭い。
多分この人が話題になったのは結構前の事だと思うが、今更書くのは僕が注意を向けたのが最近の事だからだ。
前々から書店に陳列される著作を通じて存在は知っていたが読んだことは無かった。
本の見た目からして一般向けの啓蒙書という感じなのでスルーしていた。
しかし最近知り合いがこの人の名を挙げたので気になって調べてみたら思ったよりも浅薄で、
数学の専門知識の無い人をおかしな方向に誘導しているように見えたので、注意喚起の意味を込めてこの文章を書くことにした。
森田の問題点は単純で「数学の知識があまり無いのに、まるで数学を知っているかのように語っている」というのに尽きる。
これだけだと説得力もないし、内容も不明瞭なので森田に数学の知識があまり無いと判断する根拠を記す。
何をもって知識が無いと判断するかは難しいところだが大きく、森田の語る内容が表層的という点からそう判断した。
森田はTEDで講演している。是非見てほしい。(他にもいくつかYouTubeに森田の動画があがっている。)
↓森田のTEDでの講演
https://www.youtube.com/watch?v=Hx6ZNEWydCU
浅すぎないだろうか。この内容を話すのに数学の専門知識が必要な部分は一つもない。
一貫して根拠のないフワッとした話ばかりで最終的には岡潔を引いて「数学とは自分の内面に出会うことだ」などと言うが、
次のフィールズメダリストのVillaniによるTEDでの講演を見てほしい。
https://www.ted.com/talks/cedric_villani_what_s_so_sexy_about_math?language=ja
この講演は本当に凄い。専門的なバックグラウンドをもつ話を一般人向けの話にうまく落とし込んでいる。
Villaniが例外的に上手い部分はあるとはいえ、一般人向けにある程度深い数学の話をするのが不可能ではないことが分かる。
森田が誰にでもできる程度の講演しかしないのはその程度の知識しかないからだと思っている。
森田は研究者というが論文は特に書いていないため、知識の程度はわからない。
検索で引っかかる唯一の森田による大学数学レベルの記述は「哲学者のための圏論入門」というタイトルのpdfだが、
内容としては圏論を哲学系の人に紹介するものなので、その目的からしても当然のことだが入門的内容のまとめに過ぎず、
ここから知識の程度を測るのは難しい。これをあえて書いたのはこのpdfの存在が森田の知識の証左になると考える人がいるかもしれないため。
これくらいは数学科卒なら大抵書ける。
また森田の話に出てくる数学者はグロタンディーク、岡潔、マクレーン、チューリング、ウィッテン、グロモフ等といった
超ビッグネームばかりでしかも分野もばらけているというのも不思議だ。
何らかの研究対象があればその分野で一流の研究者の名前が挙がっていいはずだと思うのだが。
他にも本人のTwitterなどを多少見たが、特定の分野に対する造詣は感じられないし、一般啓蒙書的な数学的理解を超えるものは見られない。
森田に知識がない分には一向に構わないが、無い知識で数学を語らないでほしい。
数学を語るのが数学者だけの特権と言うつもりは全くないが、専門知識を語るのは難しいことだということを強調したい。
数学書を理解するのは一定の訓練で出来るようになるが、その内容をテキストから離れた自分の文脈に組み込んで話すのはずっと難しい。
しかしそれが出来なくては一般人のレベルに専門知識を落とし込むことは出来ない。森田はこのレベルには達していない。
数学について語るのではなく、自身の数学観について語るのは構わないが、それならばビッグネームの名前を借りるべきでは無く、
徹頭徹尾自分の言葉で語るべきだろう。権威の名を出して森田の数学観を語れば、一般人にはそれが独自見解と気づくのは難しいのではないか。
地方におけるクソしょぼいコンサートであっても、わざわざ「ブラボー」と叫ぶ手合いがだいたい一人はいる。
最初の一人が叫んだのを皮切りに、後続がどんどん出てくるパターンにもしばしば遭遇する。
「こんなソリスト風情にブラボーとは片腹痛い。それはせめてbest everだと感じたパフォーマンスに対してするものではないのか?」
と思っていたが、ふと先日「あれは演者に対する賞賛の行為ではないのでは?」ということに気づいた。
つまり、クソしょぼいコンサートにおけるブラボーおじさんの叫びは自己顕示欲の自然な発露なのだ。
基本は「誰よりも早くブラボーと声を上げる俺のなんと趣を解していることか……」であり、
すなわち「客席でサイバーファイバー(とかなんとか)って大声で唱える俺マジでイケてる……パネぇ……」の同類である。
ほかの大多数がパフォーマンスを見に、聴きに、楽しみに来ている場所で、
何回掛け合っても結局誰も今の状態を見直そうともしないまま引退演奏会迎えそうだからここで吐き出してスッキリしとく。
縦社会とか礼儀と称して後輩になんでも押し付ける馬鹿みたいな伝統いい加減やめたら?
この間の定期演奏会のリハもさ、体育館の配置とか椅子やセッティングなんか全部一年生にやらせてたけど、一年から三年までみんなで協力して早く終わらせた方が効率よく進むのわからない?土日の合奏前のセッティングも、パー練前のセッティングも同じ。一番練習時間多く取ってあげないといけない一年生の練習時間奪ってどうすんの?手伝ったら「甘やかすな」?単にあんたら楽したいだけでしょ。頭おかしいんじゃないの?
マーチングのコンテ引きとかだって、むしろうちら三年生がやるべきだったんじゃないの?日頃から自主練の時間奪っといて、一年生練習足りてない!やる気あんの!?とか叱るマーミス、正直こいつ馬鹿じゃないのって思ってたよ。
それと学年でソロとかファースト決めるんじゃなくて実力で決めなよ。最後だから、三年生だからっていう「気持ち」を持ちこんでいい場面とダメな場面があるのわかんない?もう名指しするけどクラパートリーダー、音楽隊出身の子達のこと自分より経歴長くて上手いって自分で認めてたよね?じゃあなんでコンクールのソロ譲らなかったの?より上手い子がソロやった方が評価高くなる可能性あるのわかるよね?全部を最高のクオリティでやってこその最後の思い出なんじゃないの。それともこの期に及んで後輩に嫉妬?みんなで上目指す事とあんたの気持ちどっちが大事なの。
楽器や練習のことで後輩に問題があったならそれを指導するのは先輩の役目だってうちも思うよ。でも、雑用や挨拶回りのことをわざわざ全員集めて一時間以上も説教する必要ある?注意するにしても出来てない子にその場で伝えて次から気をつけようねでいいじゃん。そんな事で無駄な時間とって、挙句三年に謝罪回り?こんなやり方、貴重な練習時間浪費させてごめんって謝るべきなのはむしろうちらの方だよ。
てか、雑用したら楽器上手くなるの?根性論とか精神論ばっかでひたすら厳しく締め付けてれば実力付くの?そんな訳ないよね。本当に一年生のこと思ってやってるんならただのサイコパスだよ。
次期幹部とパートリーダー決める時もそう。なんで実力ある子、上手い子を選ばないで、雑用の出来と先輩への態度とかで優先順位付けられてるパートが普通にあるの?そんなんだったら必死に練習して上手くなる努力した子より機嫌取って太鼓持ちやってた方が偉いって事になっちゃう。本当に実力ある子、努力して上手くなった子が馬鹿を見るみたいな空気作っちゃ絶対ダメじゃん。意味わからない。
でさ、最近の新入部員は弱いーとか、すぐ辞めちゃうーとかさ、あんたらがこき使っていじめ抜いた結果じゃないの?なんで辞めた子のせいみたいに言えるんだろう。頭おかしいよ。
だいたい社会勉強なんてこの先高校上がったらバイトだってできるようになるし、先輩へのマナーや礼節を学ぶのはそこでもいいわけでしょ?吹奏楽部なんだから、楽器のことを第一に教えてあげないとダメじゃん。なんでそこの優先順位履き違えてんの?楽器を吹く楽しさを学びに入部してきた子に雑用ばっかやらせて、毎日毎日圧力かけて、辞めた子たちはさぞ失望したと思うよ。だって毎日毎日仕事がー挨拶がーって小言ばっかり!楽器を吹く楽しさよりそっちの苦痛が上回ったら誰だって辞めたくなるよ。それを我慢して続けるのが偉いなんて、よくニュースでブラックとかハラスメントとか言われて問題になってるような大人とやってる事なんにも変わんないじゃん。
これから先、今の二年、一年が三年に上がった後もその後もずっとこんな体制でやっていくんなら、多分うちの学校永遠に全国行けないどころか地区大会、下手したら県大会すら抜けれないんじゃない?新入生みんな辞めちゃって部員減ったらA編すら出れなくなるかもね。それが嫌なら今の不毛な体制さっさと廃れたほうがいい。伝統なんてかっこいい呼び方する価値ないよ。むしろそんなキモい伝統潰すべきだよ。
※完全に業界人向け
マンドリンオーケストラに入って10年近くになるが、様々な演奏を、しかもとてつもなく高いレベルで聴ける機会はこのコンクールを除いてほぼ知らない。
高校の全国フェスもこうはいかないから、やっぱりすごいことだと思う。
何となく、派閥みたいなものが見えてきた。活動が活発なのはいいことだが、各々が勝手な方向を向いて、互いが互いの悪口を言っているのは見苦しい。それだけでなく、大切な部分で足並みがそろっていないのが情けない。
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活動の幅が広く、若い世代からはそこそこ信頼も得られているのではないだろうか。しかし、2012年頃の丸本大悟作品集をピークに演奏会での方向性が定まっていないのが不安である。
私が地方の高校生の頃は遠路はるばる聴きに行ったが、今は関西や関東の学生の集客すら苦戦しているようである。地方出身の私からすると、目の前にいい演奏があっても行かないなんて信じられないことだが…。
交響曲シリーズは個人的には大好きだが、業界の人間の興味を惹くには的外れ(これには思うところがあるけど)で、一般の人には何だかんだハードルが高くなっている気がする。業界に向けるか、一般に向けるか、折衷案をとるか、悩ましい部分だが、ここが上手くいけばマンドリンオケのコンサートで新しいスタンダードが出来て、全体の集客にも貢献できると思うので頑張ってほしい。
先日、京都で行われた演奏会。プロ奏者の演奏と公募した奏者(主に学生かな?)によるオケの演奏会。実力者が集った演奏の上に、オケに乗れば指導を受けられるという仕組みは非常に魅力的だ。特に比較的学生団体が盛んな関西地区でこのような機会を設けるのは良いことだと思う。モチベーションアップにつなげてほしい。
同じことを、次は関東でも出来ないだろうか。学生団体や社会人団体が乱立している関東地区は、指標となる奏者、団体に乏しかったり指導者同士の絡みがあったりして何となく全体のレベルの魅力が低く感じる。奏者人口は多いので、こんな機会があればいいのにな、と思う。
試みとしては非常に面白い。有料会員制をとったこと、奏者が頭をひねってコンテンツを全力で提供することは意義深いと思う。マンドリンはオーケストラでの演奏会というのが一つの活動単位となっている感がある。それに対して、演奏会1回分の値段(マンドリンで3000円取るところは少ないけど)でコンテンツ提供しているのは発送としては良い。
しかし、時期尚早かと思う。そのように価値判断を出来るアマチュア奏者は非常に少ないのが現状である。マンドリンオケだと無料の演奏会が基本となっているなかで、そのようなコンテンツにお金を払う意識がきちんと芽生えるかが大きな課題である。本来なら、もうワンクッション置いて、マンドリン業界における価値(お金を払う場所)についての意識が高まってからこのサービスが出来たのなら最高だったと思う。
アマチュア奏者でも、プロ奏者でも、指導者でも、互いが互いの足を引っ張ることが非常に多い。
とある団体で賛助で出たとき、アンケートを読ませてもらったら「○○(普段私が所属しているオケ)より上手かった」と書かれていた。純粋無垢な高校生が書いてしまうならともかく、わざわざ他所の団体を引き合いに出してくる大人がいることに笑ってしまったし、関係者が乗っていることに気付かない(普通気付かないだろうけど)ことにさらに笑ってしまった。
百歩譲って、アマチュアだけでやる演奏会であれば理解は出来る。他所の団体に負けたくないから同じ曲をやるとか、初演が良くなかったから再演したいとか、器が小さいとは思うけど、人間なんだからそういうことはあってもいい。
高校の全国フェスでは、審査体制が変わって、あげくに大会の名前が変わって大騒ぎになった。自分の頃よりは審査はマシになったけど、ちょっとマシになったところで止まってしまっている。その頃に「他のコンクールで演奏した曲を全国フェスでは演奏してはならない」という規約がついたことには卒倒しそうになった。誰がどう見ても、アルテの合奏コンクールへの嫌がらせだった。
ARTE国際もそうだ。せっかくの三連休で大きな行事をやるというのに、そこに演奏会を合わせてくる、被せてくる団体が結構多い。何も一番規模の大きいコンクールに合わせなくても…と思う。高校の全国フェスに合わせて演奏会をする団体はいない、下手したら独奏コンクールでもいないにも関わらず、アルテがやるときはそういうことを平気でしてしまうのは腑に落ちない。方法はともあれ、頑張ろうとしている人の揚げ足をとっているように感じる。
(同じようなことをトップの人が個人アカウントで言っていたが、言い方がやらしすぎる点には共感できなかった)
支えると言っても、みんながスタッフをやるとか、そういうことじゃない。コンクールに行って、感想をTwitterに書く。全国フェスでもARTE国際でも独奏コンクールでも、全部一緒だ。
チケットを買って、聴きに行く。一人じゃなくていい。大学のメンバーをみんな引き連れてとか、オケのマンドリンパートだけでも一緒に行くとかでもいい。
普段の態度が気に入らないとか色々あるかもしれない。でもそんなのは演奏会でやろう。
(個人的には、演奏会にも行かず、聴きもせず「気に入らない」と言ってしまう人間が最も愚かだと思うので、そのままのスタイルでマンドリン生活を楽しんでればいいと思う)
あるいは、そんなに気に食わないなら自分達でコンクールを開いてみるとか。
精神論になってしまって恐縮だが、私はコンクールを聴きに行くと、楽器が弾きたくなる。「その程度かよ」と思われるかもしれないが、足を運べば確実にモチベーションが上がる。そこから楽器を上手くしていこうと思うのは別に恥ずかしいことではないと思うがいかがだろうか。上手くするモチベーションがなくても、得られるものはあると思う。
(この匿名ポストは、口下手な俺が近しい人間に近況をまとめて報告するための書き込みなので、「ワケわからん」という人は、無視してほしい)
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別の人ってのは、そうだな……あるところで、超っ絶美形、お耽美系おまけにXジェンダーという、やたらキャラが立ってるモデル兼役者さんを見かけたと思ってほしい。
そのヒト、ビジュアルと毒のあるキャラを買われてライブや芝居の客演に引っ張りダコで、思わず本人を確認しにライブハウスに行ってみたのよ。
期待にたがわぬ超絶美形だったんだけど、本題はこの人ではなく(いや、このモデルさんも追っかけるつもりだけど)。
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「ほんとかぇ?」と最初は思った。
その劇団、サブカルとか下北沢とか、そういうのを全然わからん俺でも知ってるくらいの有名劇団で。
旗揚げ公演のときは、ギラッギラのお耽美系女優でキャストを固めていて、そこにサブカル大好きティーンが「あ~ん、お姉さまぁ~」とかいって群がってるような感じで。
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で、その女優さん。
いっつも学ラン、学帽のショタ扮装で、ほんとうに純朴な少年みたいなキャラで、セリフ回しもトツトツとしているし、どっちかというと「あ~ん、お姉さまぁ~」とかいって群がってるサイドのヒトじゃね? と思ってた。
あるときまでは。
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ところがね。
とあるライブのゲストパフォーマンスで2人がコンビで出演した時。
そのままユラっとたちあがって身体を動かし始めたら、いきなり周囲の空気が変わったのよ。
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もうね。
ダンサー。
超ダンサー。
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ボディコントロールの精度とダイナミックレンジがハンパじゃない。
スタイルとしては、最初は土方巽的な暗黒舞踏の系譜かな、と思ったんだけど、見てると洋モノのコンテンポラリーに近い感じ。
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でも、それにしてもね。
ああいう動きは、それこそモーリス・ベジャールなんとかカンパニーとかに10年くらい所属しないと出来ないんじゃないの? まだ若いのに。
そう思ってチャラっと調べたら。
母娘2代、姉妹そろっての舞踏家ファミリーで、子供のころから母君の手ほどきを受け、美大に進学して上京してからは、もう在学中から現在にいたるまで、
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個展で踊る
有名ミュージシャンのMVで踊る
ミニマルミュージックのセッションでゲストパフォーマーとして踊る
そして、誰からもお座敷がかからないときは自主活動として踊る。
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踊る踊る踊る。スキあらば所かまわず踊りだす、踊りの国の踊り姫であることが判明。
(いやマジメな話、ソロのフリーランサーってどこで仕事を取ってくるんだろう?)
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ほかにも。
その女優さん、最初は普通のチンマリした女の子だと思っていたら、ネット上に、背中出しのコスチュームでプロに撮ってもらった宣材写真があって。
もうね、肩甲骨の自由度と張り付いてる三角筋の厚みが、完全にアスリートのそれ。
いやもちろん、シルヴィ・ギエムみたいに絞りに絞った体型ではないけど、学ランの扮装に完全にダマされてた。
完全に本職のダンサー。
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というわけで、がぜん興味がわいたんで、その“伝統の小劇団”の公演を予約して、行ってきましたよ、もう。
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もうね。
シンガー。
超シンガー。
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少しかすれた、でもよく伸びるアルトで、ピッチとアインザッツをガチキープしたうえで、朴訥な少年みたいなキャラクターをいい感じにのっけてくる。
ほぼ本職のシンガー。
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ところで、ここまで劇団の女優、女優と書いておいて、演技に一言もないのは。
だから、客演の寸劇とかで短く少ないリハーサルではアドリブがきかない。
(在学中に自主制作の映画に1本出ているらしいが、内容までは知らない)
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・ただし、所属の劇団でガッチリ稽古をすれば、プロ水準の演技はできる。
実際、主役級のキャスティングを的確にこなしていた。
少なくとも、演技といえば映画とTVしかみたことのない俺にはそう見えた。
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という感じ、なのかなぁ。
(ダンスになると手持ちの材料ですごい振り付けをするのと対照的)
ともかく、その意味ではキャスティングが当て書きとハマり役に限られる感じで、「アクトレス! 超アクトレス!」とは言えない感じ。
まだ今のところは。
案外、早い時期にその域に到達するかもしれないけど。
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劇団の公演自体はおおむね満足。アートでビザールで猟奇的な感じ。
そこで今度は彼女が時おり客演しているバーレスクチームのパフォーマンスに行ってきましたよ。もう。
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で、見てきた印象を簡単に書くと、
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・ダンスを見て、
やはり動きのキレすさまじき。
チップばら撒き、飲み代払いまくりなれど、かぶりつきで見た。元は取った!
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・ダンスが終わって
話を聞こうとしたら、追っかけが周りを取り囲む(俺も含む)。
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もともと芝居好き。
劇団オーナー氏の文芸思想面に共鳴、心酔、ならば何も言うまい。キャリアとか。
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・余談、『草迷宮』以外にも女力士がいるらしい。寺山修司好みのモチーフらしき。
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というあたりで。
……興奮冷めやらぬ中、この3ヶ月の自分を振り返る。
自分は何をこんなに、このダンサー(と周辺の人たち)に入れ込んでいるのか?
あれだ。
何が楽しいかというと、若い人たちが劇団やライブで頑張ってるのを見ると、その、あれだ。
大森望とか小林よしのりがAKBにハマっているのを「自分の娘みたいな年頃のアイドルに入れあげるって、それはどうよ?」とか思ってたのがね、これが自分がハマってみると、
_人人人人人人人人人人_
> スッゲー楽しいの <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
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そしてね。
この歳になって「和風アングラもいいな」という自分を今さら発見した。
夢野久作とか寺山修司とか麿赤児とか唐十郎とか横尾忠則とか佐伯俊雄とか『ガロ』とか古屋兎丸とか、そういう日本の猟奇的な世界とは無縁で生きていくものだと思っていたんだけど。
これがねぇ。若い人が過去の作品群や事件を掘り返しながら、自分にしてもまだガキだった'60年代の新宿的世界をガチでやろうとしているのが面白くて。
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ほかにもね。
その女優さんと美形モデル氏を起点に人脈をイモづる式に掘っていくと、面白い人たちが出てくるわ出てくるわ。
誰に頼まれたわけでもないのに、全身を蛍光色にペイントして街角にくり出してフォトセッションをやってるギャルの集団とか。
どこから出演料が出るわけでもないのに、「調香師の貴婦人と助手たち」みたいな架空のストーリーでコスプレ衣装合わせをして、参観料を取って企画として成立させてるコスプレイヤーとか。
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みんな“何か”になりたくて、
“何か”をしたくて、
でも、それが“何か”はっきりしていなくて。
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みんな若さにまかせて、アルバイトを掛け持ちしながら、もがいてる。
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おお! こりゃ、リアル日本版『レント』(と、その元ネタの『ラ・ボエーム』)の世界じゃないのよ!?
いいねぇ。じつにイイっすねぇ。
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この歳になると、知り合いで創作的なことをやってる人間は、
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・その周辺で稼げる分野に落ち着くか(←俺のことだ)、
・完全に足を洗って別の仕事を見つけるか
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どれかになるんだけど、まだ、そのどれでもない状態でやっている、やれている人たちが、まぶしくて、まぶしくて、もう。
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この女優さんにしてもね。
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っていう流れに乗る前に、
っていう流れに乗る前に、
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多少無理をしてでも金と時間を作って四方八方にコネのある舞踏家に師事して、それをテコに国内でも海外でもいいから名前の通ったダンスカンパニーにもぐり込むことを最優先にするだろう。
その後は、
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・一般人にも名の通ったポジションを取ることを最終目標に、有名振付師のゴーストから経験をつむか、
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・彼女の母君みたいにレッスンプロとして“ダンスを見たい人”より“ダンスを演りたい人”を客にするべく、行政とかに売り込みをかけるか、
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・あるいは、ヨーロッパみたいにハイカルチャーに一定の需要がある国にイチかバチか、飛び出してみるか。
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……10年後、20年後も踊っていたいなら、これくらいしか選択肢はないんじゃなかろうか。
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でも、おそらく、それじゃ満足できない何かがあって、それに衝き動かされているんだろう。
(と思ったら、海外留学が決まったらしい。いいぞ、行ったれ行ったれ!)
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ま、ともかく。
独立起業という名の引きこもりになって、はやЖ年。なんか世界がせまくなる一方だった自分の生活が彼女ら彼らのおかげでムチャムチャ彩り豊かになった。
この人たちには、いくら感謝してもしたりないが、直接言うとキモいので、ここでこっそり発言。
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体罰が無くならないのは、体罰を行使する人間と、それを受け入れる人間が居るからだ。要は、今回のように「有効な場合がある」からこそ無くならないんだ。でも有効性のある暴力が認められてしまえば、脅しやら何やらで無理矢理有効にしようとする人間が現れることは容易に想像が付く。それをどうやって判別する?
今回のことは日野某にとっても成功体験となっただろうし、今後も改めることはないだろう。次に氏に体罰を受ける人間がそれに耐えられる人間かどうかは誰にもわからない。
「だったらどうしたらよかったんだ」というが、そもそも暴力という選択肢が存在することがおかしい。殴ったら止まるなんてことはベテラン指導者じゃなくても誰でも思いつく。ただそれは暴行であり犯罪だ。それをそのまま実行し指導だから見逃せとのたまう、ちょっと自分に甘過ぎやしないか。それに殴っても止まらなかったらどうするつもりだったんだ。締め落とすのか?逆に殴り返されたら?
殴打ではない拘束、連行。これだけでもだいぶ印象が違ったんじゃないかと思うが、個人的には「暴力以外に止める手立てがない」と判断した時点で演奏会を中止すべきだったんじゃないかと思う。予想外のトラブルによる中止。払い戻し金等が発生するかもしれないが、その場合は発端の子の親と協議し負担させるなりすれば、彼も自分のしたことの重大さに気付くだろう。
【追記】
拘束や連行が髪を掴む、ビンタと同等以上の暴力なの?マジで?例えば演奏中に無理矢理ステージに上がろうとする観客がいたとして、周りの人、あるいは警備の人は説得不可ならとりあえず体を掴んだり引っ張ったりするなりして止めようとするよね?いきなり殴るやついる?
【さらに追記】
賠償云々のところに噛み付く人が多いが、罰則をどうするかはそれこそ当事者間の話。子供のやったことだからそこまでの罰は酷、という判断もあるだろう。ましてや世間の声もある。あるいはその場で「このままでは中止になりかねない」ということを本人に直接伝え考え直させる手もあった。強制退場の過程で改める可能性だってある。そういうものをすっ飛ばしていきなり殴って黙らせることを是とするのか?
著名なトランペット奏者である日野皓正氏が、演奏の最中に共演していた中学生をビンタしたことが波紋を呼んでいる。
ジャズ・トランペット奏者の日野皓正さんが往復ビンタ 中学生との演奏会で 世田谷区教委「行き過ぎた指導。だがイベントは続けたい」 殴打された生徒は…(1/3ページ) - 産経ニュー
http://www.sankei.com/affairs/news/170831/afr1708310010-n1.html
ジャズミュージシャンが教え子に体罰に近い暴力を振るったということで、
音大でジャズドラマーを志望する学生を主人公にした映画「セッション」を連想したという声も多い。
青年がスパルタ教師のしごきによって疲弊していく様を描いたサイコスリラーだとか、
教師の手厳しい指導に食らいつき成長していくスポ根的ドラマというふうに捉えている人が意外にも多い。
僕が思うにそれはこの映画の評価して的を外したものではないかと思う。
「セッション」という映画は音楽に対して不遜な人間たちが共依存関係に陥っていく過程を描いた映画だ。
まず映画を通してみて主人公の演奏技術が向上したという描写はない。
フレッチャーの下心ありげな言葉を除けば誰もその演奏を際立てて褒めるわけでもなく、
観客がわかるような明白な上達の描写もない。
それは至極当然で主人公が「いい演奏をしたい」と思っていないからだ。
「上級クラスに入りたい。」「いい成績を収めたい。」「教授に可愛がられたい。」「ミュージシャンとして羨望を集めたい。」
主人公の欲求はいつも自己顕示的なことばかりでその視線はいつも自分に向いている。
音楽の道を志す動機もどうも浮ついていて、インテリジェントエリートとして将来を期待される従兄弟を持つが故の劣等感によるところが本音だろう。
印象的なのがチャーリー・パーカーのエピソードである。
チャーリー・パーカーがアドリブに熱を入れすぎてドラマーからシンバルを投げられたというエピソードが劇中の会話に登場するが、
主人公はそれを冷水を浴びせられた屈辱をバネに精進したと解釈するのだ。
本来ならば出鼻を挫かれたことで冷静に自分を見つめられるようになったという教訓を得るべき小話をナルシシズムによって曲解しているのである。
自分の対外的評価しか見えていないために独りよがりで思考が歪んだ主人公は家族にも恋人にも音楽院からも見放され最終的に孤立していく。
そしてそこに魔の手を差し伸べるのが悪名高いフレッチャーなのであった。
フレッチャー教授もまた音楽のことなどその実どうでもいいと思っている不遜者である。
彼の指導は支離滅裂で学生を恐怖心で抑え込みコントロールする以外の効果はない。
彼もまた音楽家として、指導者として羨望を集めることしか眼中になく、自分が携わる音楽のクオリティなど二の次なのである。
映画終盤で主人公を逆恨みしたフレッチャーは、実際とは異なる演目を主人公に伝えて舞台上で彼の音楽生命を絶たせることを画策する。
いい演奏がしたいという気持ちが微塵でも存在するならドラマーを罠にはめて演奏会を混乱させる真似など出来るだろうか。
フレッチャーもまた自己中心的な振る舞いが祟り音楽院から追放されたわけだが、
フレッチャーは孤立すればなお自分を崇拝する人間を渇望するわけである。
フレッチャーが主人公を罠にはめたのは恨みをぶつけるためでもあるだろうが、自分の手中に収められる無力な下僕を作り出すためもある。
何にせよなんの後ろ盾もない大学中退者で大ポカかました主人公に明るい未来は多分ないのだ。
誰からも評価されず未来もない孤独な青年だからこそ、因縁があるフレッチャーなんぞにわらをも掴む思いですがって行った。
そして名誉を得ることにしか価値を置いていないからこそ、主人公はフレッチャーという有名人と関わりを持つことに喜ぶのである。
どう転んでも演目にない曲を演奏して暴走することは失態である。あれはフレッチャーが自分を見捨てないであろうことに安堵しての笑いだ。
フレッチャーもまた青年がいいドラムを披露したから笑みを浮かべたのではない。
彼が完璧に無力な存在に成り下がり自分の支配下に置くことができるようになったことを喜んでいるだけだ。
話は日野氏の話題に戻るが、件の中学生もこの映画を見ておりスポ根ドラマだと誤解していたのかもしれない。
多分そうでなくて単にソロパート演奏中に気持ちが高まりすぎたという可能性が高いが、
何にせよあれは失敗というほかなく、演奏者として道徳として師である日野氏が叱責すべき行いだっただろう。
舞台上という表立った場所で感情的な振る舞いをしてしまったことは非難されても致し方ないのかもしれない。
しかし氏の叱責そのものを否定するのは当該生徒含めイベントに参加していた生徒にもあまりよろしくないのではないかと思う。
当該生徒やイベント主催した世田谷区が氏に一定の理解を示しているのは幸いだ。
ビンタ。ジャズミュージシャンが中学生に往復ビンタしたらしい。その動画今見た。つかつかあじさんが歩いて行って、ドラムスティックを取り上げて、何か言って?それでもダメだったからビンタしてた。怒ってた。ビンタした時どんな気持ちやったんやろ。ビンタされたらびっくりするやろな。どんな経緯でこんなことが起こったのか軽〜く見て見た。なんかソロのタイミングでもないのに?ソロドラムを延々と演奏し、おじさんは止めたけど止まらなかったからビンタしたって。演奏聴いてないしドラムソロがいいタイミングじゃない時に勝手にされてるのは、どのくらい不味いことなのか正確にわからん。何が焦点なんやろう。途中までは演奏会のクオリティーが問題やったんやろか。でもそれはドラムソロで、またビンタで台無しになっている。ビンタは台無しに拍車をかけてもいるだろう。その観点からだけなら。だから、おじさんが止むに止まれずなのかわからんけど演奏会の最中も、演奏会へ続く過程の中でも何かを大事にしていて、それが大事にされなかったからビンタしたんじゃないか。でビンタされた中学生はおじさんが大事にしてたものを何かわかってたんやろうか。そして中学生は何をそんなにドラムソロをしたかったのか。1回はスティック取り上げられてるのに、まだ手で叩く。それ自体にはしつこさと気概と閉じている感じがあると思われる。ただただ興奮状態やったからわけわからんくなってたのかもしれんけど。おじさんが怒るのもしょうがない、調子に乗った中学生にいい教育だった。って意見もちらほらある。ちょっと早急すぎないかその価値づけはと思う。おじさんは超有名なミュージシャンで学生と一緒に演奏会をやろうとしてたんだから、殴るのが大好きで殴ったわけではないことは想像できる。なんかあったんやろ。どんな気持ちやったんや。「懲らしめたぞ!」みたいな爽快感は無かったんじゃないか。ビンタしたことは忘れてるんやろうか。音楽やる中で、こういうことはそれなりにあるもんなんやろうか。集団で何かを大事にしてどこかへ向かっていく。これを守るには殴ることもしょうがないんやろうか。ドラムソロとおじさんの駆け寄りと、声かけと、スティック取り上げと、ビンタまで全部で数秒や。どこかで静止することは難しかったんやろうか。みんな興奮してたんやろうか。まだ15分。半分しか経ってない。長い。
話題変えるか?
まあ師と弟子やんやろ。関係性は。何か強烈なものを発生させる時には。師と弟子の関係を使うしかないんあろ。ある場面では。師の言うことは絶対。自分のはるか先を行く人やから全部信じる。信じた上で何かを続けてやっと大きな変化が得られる、のかな。個人的には師と弟子の関係に無理やなって思って今やから。なんとも言えん。成功した師と弟子の人はどう言ってるんや。成功してるからビンタもされないのか。ビンタされても信じてるからその先に行ったのか。師と弟子の関係は側からどうこういう代物ではないのか。じゃあ見たく無かったよ。密室でひっそりとして欲しかった。だって刺激的なんやもん。人が殴られるんは。記憶が刺激される。でも見ても歌。今後も何かの際に師と弟子の切れ端は視界に入ってくる。身の回りにもある。濃厚や。関係性濃厚で生々しいから吐き気がする。
とにかく吐き気がするねん。今回の演奏の件も。多分大事なことしてたんやろ、おじさんも中学生達も。もしかしたらビンタされた子も反省っちゅうか、ビンタの意味を噛み締めて今後いい変化をしていくのかもしれん。ビンタがあってもなくてもいい変化してほしいよ。でもクズやったんやろ。ある区域ではクズのままでは不幸なんやろ。生き辛いんやろ。そのままでおるよりいきやすいようにかわったほうがええのはその通りや。だから多分おじさんのビンタはいいことの方向を向いてるんやろ。ドラムソロの先には生き辛いクズの正解が十中八九待ってるんやろ。
暴力はいけない、とかそりゃそうなんやけど、原則の話ってかんじでもないんよ。俺の中では。師と弟子の匂いに吐き気があるし、その関係性に失敗した自分の未処理がしげきされてわーーってなる。それだけか?はあー小さいなあ。
あと5分もある。
おじさんを、おじさんのビンタを糾弾してる人たちは、中学生、ビンタされた子が、なんとか自分の中で整理をつけて、今回の出来事にそれなりに建設的な意味づけが出来たとしたら、どんな気持ちになるんやろか。「騙されるな!暴力は絶対にいけないんだ!」なのかな?どうなんやろ。「こういうことで暴力を許したら歯止めが効かないんだ!」って感じなのかな?あんまり想像できない。でもそんな感じなんやとしたら今回の出来事そのものから、おじさんや中学生からもどんどん離れて行くし、なんの言葉やんやろうとも思う。
自分は何のために生きているのか?
一度くらいは考えたことがあるだろう。
そこから先は、何らかの価値を見出して充足感を得ている人、わからずに悩み続ける人、わからなくても気にせず生きていける人、等々様々であろう。
悩んでも悩んでもわからず、毎日がつまらなく、むなしいばかりだ。
否、すべての人は何らかの存在価値があるとは考えている、それを「実感」できないことが悩みの種であると言ったほうがより正確だろうか。
そういえば昔から「達成感」というものを感じたことがなかった。
高校・大学入試に受かった、演奏会や学校祭が、1つのプロジェクトが盛況に終わったなど、通常達成感を得られそうな場面においても感じたことがなかった。
(感じたのは「これまでの努力が無駄にならずホッとした」という安堵感?のみ)
自分の感覚が異常であるがゆえに、自分の存在価値を感じることができないのだろうか。
いずれにしても、遠くない将来、自分の存在価値を「実感」できないと、いよいよ本格的に心を病み、社会生活に支障をきたしそう…な気がする。。
しかし一体何をどうすれば、または何がどうなれば、「実感」できるのだろうか…。
京都府木津川市と奈良県奈良市にまたがるイオンモール高の原の話
イオンモール高の原が、同じく市町境をまたぐ奈良登美ヶ丘、京都桂川、四條畷やイオン半田店と違う点は、警察の管轄が分かれるということ。そのため、両府県警は造成工事のころから協議を続け、事件や事故に備えてイオン(当時)に境界線を引くよう申し入れをすることになった。その結果、イオンモール高の原だけ通路、階段、駐車場、そして電機整備室にまで線が引かれている。
ただ、もし府県境の真上で万引きなどが起きたとき、権限争いが起こるかと言えばそうではなく、あらかじめ床面積の大きい方の警察が担当すると決められている。そのためか、通路に線が引かれていても専門店の中にはなく、駐車場も車止めが黄か緑のどちらかに色分けされている。
電話を両市から引くことはないため、実際にはどこで事件が起ころうともモール内の防災センターを経由して京都府警に一報が入ることになり、そのまま京都府警が駆けつけてから管轄する府県警に引き継ぐ(携帯電話から入電した場合は奈良県警のことも)。
巡回には両方からやってくるが、防犯訓練やイベント、啓発活動は両方のときと一方だけのときがある。単独で店にポスターを配る場合は、府県境でUターンするなんて光景も。
京都側の相楽中部消防組合消防本部と奈良側の奈良市消防局がオープン前に事前協議を行い、防災訓練、消防点検などは京都側が担当すると決められ(よそでも同じで、例えばイオンモール京都桂川だと京都市。Honda Cars 奈良中央 高の原店だと奈良市)、喫煙等も相楽中部消防組合火災予防条例第23条により制限される。ただし、11月の消防フェアは奈良市消防局北消防署と相楽中部消防組合消防本部の共催。
火災発生時も警察同様、電話の関係で京都側に入電するが、そこから奈良市消防局にも出動要請する(携帯電話の場合は逆もあり得る)。一方、救急は入電した側が出動し、いつも両方から来るということはない。ちなみに、奈良市消防局と相楽中部消防組合消防本部は全国で初めて、都道府県を超えたはしご車の共同整備を目指している。
スク革や東京カルチャーカルチャーなどで、京都側で使えないと紹介された奈良県の商品券。奈良側では使えるのかというとそういうわけでもない。地方消費税の税収が少ない奈良県は、奈良側のみ参加を認めているので、平城遷都1300年記念プレミアム商品券(2010・2011年)、せんとくんプレミアム商品券(2011年)では確かに県の方針に従ったが、生活応援せんとくんプレミアム商品券(2014年)、せんとくんプレミアム商品券(2015年)ではなぜか全店舗で参加を見合わせた。一方、奈良市は京都側でも使用を認めた。
奈良側でも京都府の最低賃金が適用される。ただ、以前は「高の原店に研修に行った時奈良の最低賃金がどうたらって裏に書いてあったんだけど」といった声も。
商業施設の住所決めは法務省の管轄になるが、法律上の決まりはない。高の原は京都側のフロア面積が広く、事務所も京都側のため京都府木津川市相楽台1-1-1。
映画館は奈良市側にあり、「Yahoo!検索大賞2016」奈良県部門賞にも選ばれたが、興行場法や条例に基づく営業許可は京都府が出し、府の青少年の健全な育成に関する条例が適用され、生活衛生同業組合京都興行協会に所属している。そのため、近鉄奈良駅近くの映画館が閉館した際には、徳島市も映画館がなかったのに「県都で唯一 映画館ゼロに」と報道され、山口市の映画館がなくなってからも、なぜか奈良市だけが全国の新聞・テレビ・ラジオやネットでないない言われる羽目に。
無印良品 イオンモール高の原は奈良市側にあるが、住所は京都府のため、奈良市は無印良品 近鉄奈良が閉店してから無印良品 ならファミリーがオープンするまでの間、三重県津市とともに無印良品のない県庁所在地となった。
奈良側にある「ゆめはんな歯科クリニック高の原」「ポシブル」はなぜか住所が奈良市右京1-6-1で、「サンマルクカフェ」もレシートだけ奈良市。また、京都側、奈良側に関係なく木津川市相楽台1-1-1と相楽台1-3が混在しているが、店舗の入れ替わりに伴って相楽台1-3は減少しつつある。
京都府民は、0歳から中学校卒業まで保険診療の自己負担額が200円だけで済むが、モール内のゆめはんな歯科クリニック高の原の場合は住所が奈良市のため、一度自己負担金を支払った後、支給申請書を役所に提出しなければならない。
京都側、奈良側関係なく市外局番は木津川市の0774。公衆電話も同じで、置かれているタウンページは京都府宇治・山城地区版。イオンモール高の原のある平城・相楽ニュータウン(京都府・奈良県奈良市)は、ネットが普及するまでタウンページが分かれていることが不便だった。
奈良市水道局と京都府営水道の両方から供給され、テナントごとに床面積の大きい方と契約する。水道代節約のために地下水を利用する企業も多いが、イオンモール高の原では使用していない。
搬入口は京都側と奈良側がある。また、廃棄物は発生した市ごとに分別と出し方が異なるため(奈良市は透明・半透明の袋であればよいのに対し、木津川市は指定ごみ袋。これはイオンモール京都桂川など他の施設も同じ。)、ごみ集積所が2か所。なお、両府県にまたがるテナントは床面積の大きい方に合わせる。
店舗部分がより多く属する方の都道府県に届け出なければならない(大規模小売店舗立地法についての質問及び回答集より)。
京都府地球温暖化対策条例、京都府再生可能エネルギーの導入等の促進に関する条例により、特定建築物再生可能エネルギー導入計画書・報告書の提出が義務づけられている。
建設時、古都の眺望を守るため奈良市側のみ31m高度地区に指定されており、木津川市側は商業地域であることを理由に制限を設定する考えはないとした。
しかし、第一種低層住居専用地域と接しているという京都府内でも2ヶ所しかない特異な環境であることから、隣接する用地(現在はマンションとイオンモールの増床予定地)の売却を機に、木津川市も都市計画審議会で高さ制限を設けた。
木津川市側の高の原地区整備計画区域に設置する広告物は、木津川市屋外広告物施行規則第7条に定める基準に該当し、かつ、次の各号の条件をすべて満たさなければならない。
また、奈良市側も高の原駅周辺の平城ニュータウンにおいて、奈良市屋外広告物条例施行規則に定める基準に該当しなければならない。
関西文化学術研究都市平城・相楽地区のセンターゾーン(京都府域)における建築物等の新築、増改築、移転、外観の変更(小規模行為を除く)については、関西文化学術研究都市(京都府域)における建築物等の整備要綱に基づき、建築物等の整備計画を京都府知事に提出しなければならない。
木津川市は「木津川市自転車等の放置防止に関する条例施行規則」第3条第1項において近鉄高の原駅付近を自転車等放置禁止区域に指定しており、奈良市も同様に近鉄高の原駅周辺を禁止区域としている。
もともと「きょうと子育て応援パスポート」協賛店があり、2015年11月‐12月に「なら子育て応援団」が加わったことで2種類の協賛店が混在することになったが(相互利用は可)、2018年2月28日に一部統合された。
住所が京都府のため、地域初出店の店がオープンした場合、奈良側に位置していたとしても京都1号店ということになり、奈良1号店にはならない。そのため、LEEPHやG-LAND EXTREME、Zoff、イノブンのように、既にイオンモール高の原の奈良側に出店している店でも奈良県内の他の商業施設(イオンモール橿原、ならファミリー、イオンモール大和郡山…)が奈良1号店となるが、稀にAWESOME STOREのように、イオンモール高の原とイオンモール橿原の両方で奈良初を名乗ることもある。
奈良県とイオン株式会社は「連携と協力に関する包括協定」を結んでおり、2017年度は「奈良イチ押し商品展示販売会」を、2018年度以降は月1で「奈良のいろどり良品販売会」を開催。また、2015年度から奈良県が主催する障害のある人が作った授産商品の販売会「はたらく障害者応援フェア」を開催している。
京都府と奈良県の両方から中学・高校の吹奏楽部、高校の書道部を招いて演奏会、高等学校書道パフォーマンスグランプリを開催したり、イオン高の原店・イオンシネマ高の原・ユニクロで中学生の職場体験を受け入れたりしているほか、2014年からは2月に京都府立南山城支援学校高等部生徒の販売学習「ときめきショップ」を開催している。
2011年3月に奈良県と、2011年9月に京都府と締結している。
総合スーパーのイオン高の原店では、京都府木津川市・奈良県平群町からの近郊野菜や奈良の「大和牛」「大和肉鶏」「ひのひかり」「近藤豆腐店」「奈良屋本店」「平宗」「山崎屋の奈良漬」「奈良鹿ないカレー」、京都・奈良両方の地酒を取り揃えている。また、2010年に「おいしい奈良産協力店」に認定されたほか、木津川市農で頑張る協議会が2017年から毎月第2土曜日・日曜日に朝市「みのりフェア」を開催したり、2018年12月20日から登録農家が直接持ち込むコーナーを設けたりしている。
それは学生時代のサークルの(特に同期の)連中である。音楽系だったので、練習はもちろん、演奏会やそれ以外の遊びのときも一緒に過ごすことが多かった。中高生とか大学生の男子というのは一番女子の容姿というものに対して残酷なお年頃であり、可愛い子と自分のように地味なタイプでは天地のように扱いが違ってイヤな思いもしたけれど、大人になって分かったのは、大人の世界でもそういう容姿差別はなくなるわけではなく、ただ、世間のかなりの人がさほど美しくない人にも表面上普通に接する技を身に付けているというのが結論だった。
学生時代の友人たちは思ったことを正直に口や態度に出した。私はいわゆる空気読めないタイプであり、自己中な行動や言動をしてしまいがちなところがあった(…というか今もそれは完治していないと思う)けど、彼らはそれに対して敏感に反応した。あと、「歩き方が変」とか「声が大きい」とかそういう言われたくないことも容赦なしに指摘した。今思い出すと「私は何てことをして(あるいは言って)しまったんだろう」と思うことは数限りないけれど、彼らがそのとき露骨にイヤそうな態度を示してくれたおかげで、自分の行動が世の中の基準に合っていないことに気付いたのだ。
社会人になると、20代ぐらいのうちに厳しい上司や先輩につかない限り、いろいろなことを指摘してもらえなくなる。自分が非常識な行動や言動をしたときに「それはダメだ」と言ってもらえたらありがたいのだということに気付いた。大人になってから知り合った人って、「あの人変」とか「あの行動はおかしい」となるとどこがおかしくてダメなのか言ってくれることなく自分から離れてゆこうとする。私としては多少欠点を指摘されてもいいから、話し相手になったり一緒に遊びに行ったりしてくれる方がありがたいんだけど、向こうはそんな手間をかける気がない。ましてやお局さまと言われても仕方のない年頃になると、後輩などは遠慮して余計言ってくれなくなる。
ただでさえ空気読めないタイプなんだから、自分の言動や行動におかしいところがあれば指摘してほしいのに「自分で察しろ」と離れていかれるのはキツすぎる。自分で察することができる人間は空気が読めるから察せるのだ。学生時代の友人はその点、容赦なく欠点を指摘する代わりにだいたい世間ではこういう考え方やものの見方が普通なのだということを示してくれた。最近は何か大きなイベントでもないと集まる機会もないけれど、職場の同期よりも学生時代の仲間の方が懐かしい。
http://anond.hatelabo.jp/20170207184136
引用部分は実際にはこうな。
ダイサンエージェンシーの名称で興行事業を行ってきていた被控訴人オカモトが,KHMプロモーションの懇請を受けて,同社に名義を貸したことにより,同社が控訴対象演奏会を開催することが可能ないし容易になったものであるから(同社にはスタッフも対外的な信用もなく,会場の確保ができなかったことは,被控訴人らの自認するところである。),両者は,協力して,同演奏会を開催したものと解するべきであり,その結果,故意又は過失により,著作物使用料相当額の損害を控訴人に与えたのであれば,両者のそれぞれにそれを賠償する責任が生じるのは当然というべきである(民法719条,709条)。
知的財産裁判例のところにあるけれど、この部分の判断基準は著作権法ではなく民法。後釣り宣言の前に意味のない追記をしてたけど著作権制度関係なくなっちゃったね。