2017-08-31

日野皓正騒動を受けて映画セッション」について

著名なトランペット奏者である日野皓正氏が、演奏最中に共演していた中学生ビンタしたことが波紋を呼んでいる。

《完全版》世界トランペッター日野皓正中学生を「往復ビンタ

http://www.nicovideo.jp/watch/1504064045

ジャズトランペット奏者の日野皓正さんが往復ビンタ 中学生との演奏会で 世田谷区教委「行き過ぎた指導。だがイベントは続けたい」 殴打された生徒は…(1/3ページ) - 産経ニュー

http://www.sankei.com/affairs/news/170831/afr1708310010-n1.html

ジャズミュージシャンが教え子に体罰に近い暴力を振るったということで、

音大ジャズドラマーを志望する学生主人公にした映画セッション」を連想したという声も多い。

日野皓正 セッションに関するTwitterニュース



が、この「セッション」という映画を、

青年スパルタ教師のしごきによって疲弊していく様を描いたサイコスリラーだとか、

教師の手厳しい指導に食らいつき成長していくスポ根ドラマというふうに捉えている人が意外にも多い。

僕が思うにそれはこの映画評価して的を外したものではないかと思う。

セッション」という映画音楽に対して不遜な人間たちが共依存関係に陥っていく過程を描いた映画だ。

まず映画を通してみて主人公演奏技術が向上したという描写はない。

フレッチャーの下心ありげ言葉を除けば誰もその演奏を際立てて褒めるわけでもなく、

観客がわかるような明白な上達の描写もない。

それは至極当然で主人公が「いい演奏をしたい」と思っていないからだ。

上級クラスに入りたい。」「いい成績を収めたい。」「教授に可愛がられたい。」「ミュージシャンとして羨望を集めたい。」

主人公欲求はいつも自己顕示的なことばかりでその視線はいつも自分に向いている。

音楽の道を志す動機もどうも浮ついていて、インテリジェントエリートとして将来を期待される従兄弟を持つが故の劣等感によるところが本音だろう。

印象的なのがチャーリー・パーカーエピソードである

チャーリー・パーカーアドリブに熱を入れすぎてドラマーからシンバルを投げられたというエピソードが劇中の会話に登場するが、

主人公はそれを冷水を浴びせられた屈辱をバネに精進したと解釈するのだ。

本来ならば出鼻を挫かれたことで冷静に自分を見つめられるようになったという教訓を得るべき小話をナルシシズムによって曲解しているのである

自分対外的評価しか見えていないために独りよがり思考が歪んだ主人公家族にも恋人にも音楽院からも見放され最終的に孤立していく。

そしてそこに魔の手を差し伸べるのが悪名高いフレッチャーなのであった。

フレッチャー教授もまた音楽ことなどその実どうでもいいと思っている不遜者である

彼の指導支離滅裂学生を恐怖心で抑え込みコントロールする以外の効果はない。

彼もまた音楽家として、指導者として羨望を集めることしか眼中になく、自分が携わる音楽クオリティなど二の次なのである

映画終盤で主人公逆恨みしたフレッチャーは、実際とは異なる演目主人公に伝えて舞台上で彼の音楽生命を絶たせることを画策する。

いい演奏がしたいという気持ちが微塵でも存在するならドラマーを罠にはめて演奏会を混乱させる真似など出来るだろうか。

フレッチャーもまた自己中心的な振る舞いが祟り音楽院から追放されたわけだが、

フレッチャー孤立すればなお自分を崇拝する人間を渇望するわけである

フレッチャー主人公を罠にはめたのは恨みをぶつけるためでもあるだろうが、自分の手中に収められる無力な下僕を作り出すためもある。

何にせよなんの後ろ盾もない大学中退者で大ポカかました主人公に明るい未来は多分ないのだ。

から評価されず未来もない孤独青年からこそ、因縁があるフレッチャーなんぞにわらをも掴む思いですがって行った。

そして名誉を得ることにしか価値を置いていないからこそ、主人公フレッチャーという有名人と関わりを持つことに喜ぶのである

あの最後の笑みはい演奏ができたから笑っているのではない。

どう転んでも演目にない曲を演奏して暴走することは失態である。あれはフレッチャー自分を見捨てないであろうことに安堵しての笑いだ。

フレッチャーもまた青年がいいドラム披露たから笑みを浮かべたのではない。

彼が完璧に無力な存在に成り下がり自分支配下に置くことができるようになったことを喜んでいるだけだ。

話は日野氏の話題に戻るが、件の中学生もこの映画を見ておりスポ根ドラマだと誤解していたのかもしれない。

多分そうでなくて単にソロパート演奏中に気持ちが高まりすぎたという可能性が高いが、

何にせよあれは失敗というほかなく、演奏者として道徳として師である日野氏が叱責すべき行いだっただろう。

舞台上という表立った場所感情的な振る舞いをしてしまったことは非難されても致し方ないのかもしれない。

しかし氏の叱責そのもの否定するのは当該生徒含めイベントに参加していた生徒にもあまりよろしくないのではないかと思う。

当該生徒やイベント主催した世田谷区が氏に一定の理解を示しているのは幸いだ。

そして「セッション」という映画ジャズもとい音楽に狂酔する人々の話だと誤って紹介されることは、

子どもジャズをよく知らない人に悪影響だと思うので、なんだか見過ごすことはできないのである

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