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著名なトランペット奏者である日野皓正氏が、演奏の最中に共演していた中学生をビンタしたことが波紋を呼んでいる。
ジャズ・トランペット奏者の日野皓正さんが往復ビンタ 中学生との演奏会で 世田谷区教委「行き過ぎた指導。だがイベントは続けたい」 殴打された生徒は…(1/3ページ) - 産経ニュー
http://www.sankei.com/affairs/news/170831/afr1708310010-n1.html
ジャズミュージシャンが教え子に体罰に近い暴力を振るったということで、
音大でジャズドラマーを志望する学生を主人公にした映画「セッション」を連想したという声も多い。
青年がスパルタ教師のしごきによって疲弊していく様を描いたサイコスリラーだとか、
教師の手厳しい指導に食らいつき成長していくスポ根的ドラマというふうに捉えている人が意外にも多い。
僕が思うにそれはこの映画の評価して的を外したものではないかと思う。
「セッション」という映画は音楽に対して不遜な人間たちが共依存関係に陥っていく過程を描いた映画だ。
まず映画を通してみて主人公の演奏技術が向上したという描写はない。
フレッチャーの下心ありげな言葉を除けば誰もその演奏を際立てて褒めるわけでもなく、
観客がわかるような明白な上達の描写もない。
それは至極当然で主人公が「いい演奏をしたい」と思っていないからだ。
「上級クラスに入りたい。」「いい成績を収めたい。」「教授に可愛がられたい。」「ミュージシャンとして羨望を集めたい。」
主人公の欲求はいつも自己顕示的なことばかりでその視線はいつも自分に向いている。
音楽の道を志す動機もどうも浮ついていて、インテリジェントエリートとして将来を期待される従兄弟を持つが故の劣等感によるところが本音だろう。
印象的なのがチャーリー・パーカーのエピソードである。
チャーリー・パーカーがアドリブに熱を入れすぎてドラマーからシンバルを投げられたというエピソードが劇中の会話に登場するが、
主人公はそれを冷水を浴びせられた屈辱をバネに精進したと解釈するのだ。
本来ならば出鼻を挫かれたことで冷静に自分を見つめられるようになったという教訓を得るべき小話をナルシシズムによって曲解しているのである。
自分の対外的評価しか見えていないために独りよがりで思考が歪んだ主人公は家族にも恋人にも音楽院からも見放され最終的に孤立していく。
そしてそこに魔の手を差し伸べるのが悪名高いフレッチャーなのであった。
フレッチャー教授もまた音楽のことなどその実どうでもいいと思っている不遜者である。
彼の指導は支離滅裂で学生を恐怖心で抑え込みコントロールする以外の効果はない。
彼もまた音楽家として、指導者として羨望を集めることしか眼中になく、自分が携わる音楽のクオリティなど二の次なのである。
映画終盤で主人公を逆恨みしたフレッチャーは、実際とは異なる演目を主人公に伝えて舞台上で彼の音楽生命を絶たせることを画策する。
いい演奏がしたいという気持ちが微塵でも存在するならドラマーを罠にはめて演奏会を混乱させる真似など出来るだろうか。
フレッチャーもまた自己中心的な振る舞いが祟り音楽院から追放されたわけだが、
フレッチャーは孤立すればなお自分を崇拝する人間を渇望するわけである。
フレッチャーが主人公を罠にはめたのは恨みをぶつけるためでもあるだろうが、自分の手中に収められる無力な下僕を作り出すためもある。
何にせよなんの後ろ盾もない大学中退者で大ポカかました主人公に明るい未来は多分ないのだ。
誰からも評価されず未来もない孤独な青年だからこそ、因縁があるフレッチャーなんぞにわらをも掴む思いですがって行った。
そして名誉を得ることにしか価値を置いていないからこそ、主人公はフレッチャーという有名人と関わりを持つことに喜ぶのである。
どう転んでも演目にない曲を演奏して暴走することは失態である。あれはフレッチャーが自分を見捨てないであろうことに安堵しての笑いだ。
フレッチャーもまた青年がいいドラムを披露したから笑みを浮かべたのではない。
彼が完璧に無力な存在に成り下がり自分の支配下に置くことができるようになったことを喜んでいるだけだ。
話は日野氏の話題に戻るが、件の中学生もこの映画を見ておりスポ根ドラマだと誤解していたのかもしれない。
多分そうでなくて単にソロパート演奏中に気持ちが高まりすぎたという可能性が高いが、
何にせよあれは失敗というほかなく、演奏者として道徳として師である日野氏が叱責すべき行いだっただろう。
舞台上という表立った場所で感情的な振る舞いをしてしまったことは非難されても致し方ないのかもしれない。
しかし氏の叱責そのものを否定するのは当該生徒含めイベントに参加していた生徒にもあまりよろしくないのではないかと思う。
当該生徒やイベント主催した世田谷区が氏に一定の理解を示しているのは幸いだ。
2014年の映画で、一言でいえば音楽院でドラマーを目指す青年ニーマンとそこの鬼教師フレッチャーとのガチバトル?
愛読しているブログで考察記事があり心惹かれたので、さっそくレンタル。
朴訥な青年が鬼教師の傍若無人なふるまいを受ける中で狂気じみてくるのがたまらないですね。
血だらけで笑いながらドラム叩くシーンあるんですよ。おっかないけど、狂うほど突き詰める人間の姿そのものってもはや芸術的。
個人的には、フェスの舞台で恥をかかされたニーマンが、父親から抱擁の後、舞台に舞い戻ってフレッチャーの舞台を乗っ取る展開が印象深いです。
ここ、ニーマンが父親の愛情に浸るより、フレッチャーに自分のドラムを見せつけることを選択したシーンだと感じます。
彼はドラムを評価しない父より、たとえ鬼でもドラマーとして自分を見るフレッチャーの評価がほしかったのかもしれません。
ブログの考察記事ではニーマンの承認欲求とその達成のための手段としての彼のドラムに触れていて、興味深く読ませていただきました。
最初、ニーマンは普通のドラマーでした。しかし、フレッチャーとの関わりが進むにつれ、ドラムへのめりこんでいきます。
ただ、ここでのドラムへの執着は、ドラムという音楽そのものよりフレッチャーの評価に向けられたものです。
この点に、彼にとってのドラムが承認欲求を満たす手段であると表れているのかと。
ニーマンはフレッチャーからの承認を乞い続け、最終的にはブチ切れて憎悪が爆発する。そこまで至った彼の演奏が、フレッチャーを感服させるというね。
なんというか、愛憎劇ですね。
それを集中して向けたフレッチャーの行いによって、さらにそれが育ち、ついに狂気へ変わる。
狂気に走ることで芸術が完成される図式は映画『ブラック・スワン』と通じるものがあるように思います。
承認欲求って一般的にめんどくさいもの扱いされますが、あそこまで昇華させると薬、というか劇薬ですね。
ニーマンはドラマーとして天才だったかわかりませんが、それほどの承認欲求の種を持っていたこと自体が天賦の才だったかもしれません。
当時親しくなったお客様に海外で勉強したくてって言うと馬鹿にされた。絶対無理だねとか、そんな手段で稼がなきゃ行けないなら行くべきじゃないとか、それで何になるのとか。
援助を頼んだわけでもないのに、底辺が底辺のままでいないで夢を語ったら否定された。
大学院生のお客様に恋して、年末に失恋してボロボロで増田に書いたときもさんざん揶揄された。結果から言うと、これをバネに歯を食いしばれたのでよかった。
いつかトラブって殺されるかもしれない、自分を助けられるのは自分しかいないと思いながら仕事していたので、腹のすわりは舞台度胸に繋がったしヨーロッパならではの理不尽にも動じることはなかった。感謝しているくらい。