はてなキーワード: 期末試験とは
月並みな理由だが、オープンキャンパスに行った時にその学風に惹かれた為だった。
毎年数人京大合格者を輩出する中高一貫校に通っていたし、上位の成績だったため、
挫折を知ったのは中3の時だった。
数学の授業(確か三角関数だったように思う)で、みんながスラスラと解いてみせる問題を、私は解くことができなかった。
何度説明されても今ひとつ飲み込めず、理解するのに時間を要した。
テスト勉強に於いて初めての失敗だった。その時のテストはいつもより20点近く低かった。
高1になって数学は数ⅡBに入って難しくなり、勉強時間の7,8割近くを数学が占めるようになった。
高1の数学の先生はとてもフレンドリーで、何度も説明を求める私に優しく砕けた口調で教えてくださった。
その先生と、割いた時間のお陰で中3の時に比べて成績は安定していたが、周りに比べると瞬発的な理解力やセンスが足りていないのは明らかだった。
そして、得意な英語や国語の勉強に割く時間が減ってしまったために成績が落ち、自習室利用のためにも塾に通うことを選んだ。
私よりも頭がいい人なんてごまんといた。同級生に。県内に。こんなに近くに。
私はまさに井の中の蛙だった。
結局、塾の数学のテストの成績ランキングに私の名前が載ることは1度もなかった。
偶然見つけた某私大の学部に興味を惹かれたこと、得意だった英語・国語を深く学びたいからだというのもあったが、
京都大学以外の国公立大学に全くと言っていいほど興味が持てなかった。
私たちの次年度から大学の入試制度改革が行われること、私の性格的に浪人が向いていないことが主な理由だった。
国公立至上主義の我が校では国公立を選択した者だけ進路選択と同時に志望校の提出・面談を行うことが課せられていた。
数学の先生に提出した課題ノートが返却され、余白にいろいろなメッセージが書いてあった。
3教科受験だからと言って楽な訳じゃないとか、今回のテストもケアレスミスしてたよとかお小言めいた言葉もあったけれど、どこか温かいものだった。
結びに、「数学楽しかったね、大好きだったね。1年間ありがとう」と書いてあった。
それを見て涙が止まらなかった。
私は数学が好きだった。
大好きだったのだ。
何度もなんども苦しめられて、意味がわからなくて苛立って泣いた日もあったけど、数学が好きだった。
だけど、どんなに好きでも圧倒的なセンスを持つ天才には敵わなかったし、
かなり時間をかけて取り組んだ模試の数学の偏差値が、殆ど対策をしていない英語の偏差値を超えることもなかった。
敵わないし、足りないのだと気づいてしまった。
と冗談交じりに友人に言われるたびに、泣き出したい気持ちでいっぱいになる。
後悔していないと断言すると嘘になる。
なにはともあれ、もう私は前に進むしかない。
頑張って良い大学入っちゃいけないな。勉強ついてけなくて辛いわ。めっちゃ勉強してるのに成績真ん中ぐらい。あんまり理解できてない科目も結構あるし、科目によっては絶対60点取れてなかったやろみたいな科目も結構ある。(何故か単位は出てる。)もう今期の期末試験の勉強するのも疲れたしレポート書くのも疲れたな。お金もないし。バイトバイトバイト勉強勉強勉強で辛い。先月150時間以上働いてたし。先月の月給35万ぐらいだったし。いや、毎月そうだった。年金と税金めっちゃ高い。バイト減らしても生活成り立たせながら学部ぐらいは出れそうだけど、院には絶対いけなくなるしなー。でも今でさえこんなに勉強辛いんだから、院なんて行かなくてもいいのかな。はー、ともかく疲れた。なんだかここ数年ひたすら走り続けてた気がする。もうエネルギーがない。でも大学入る前の自堕落な生活もくそつまんなかったしな。別に今が楽しいわけじゃないけど。いや、よく考えてみたら人生で楽しかった時期なんて殆どなかったように思う。気のせいかな。気のせいだったらいいな。自分が何を望んでいるのかもわからないがともかく疲れた。でも死ぬのはなんとなく怖い。最近自殺幇助?殺人?で捕まった犯人が「死ぬ前に連絡を取りたいって人がいるぐらいなら自殺なんかしないほうがいい」って言ってたの思い出す。僕はいない。たぶん死んでも大学の友達がちょっと悲しむぐらいかな。そんなに仲いいわけじゃないからあんまり悲しまないのかな。ああ、最近見ないけどそうだったんだ…ぐらいかな。いやいや死ぬのが怖いんだった。あれなんかいわゆる不幸風自慢っぽいね。ああ、自分が思うがままに入力しててそうなっちゃっててわかったけど、頑張ってステータス上げまくったけどそれでも届かない何かが合ったり、頑張って疲れた人の吐露が不幸風自慢として現れるのかな。よくわかりませんが疲れたので寝ることにします。雪と一緒にこのよくわかんない辛い気持ちも明日には溶けてなくなってたらいいなあ。
夏ぐらいに何かのきっかけで、1stアルバムを買って聞いたら曲がよかったので、
神戸には、春の遠足で行ってるし、時間的にも金銭的にもギリギリ行ける範囲だと思って、
テストの直前なのに思い切って行ってみた。
アウェー感がすごかった。
ミニライブは予習していた曲ばかりで満足だったけど、
既存のファンが掛け声をかけたり、盛り上がったりするのに一切ついていけなかった。
この時点でちょっとうわあっていう感じが自分の中に生まれていたのだろう。
1回目のライブの後に1回目の特典会があった。
お金を払ってCDを予約すると握手ができたり写真が撮れたりするよくあるやつ。
こんなのまだやってるんだって感じだったけど、お金は少々用意してきたし、
1回目はとりあえず様子を見て、行けそうなら2回目の特典会には参加しようかなと思っていた。
ところが、握手を永遠とやってるファンの人がいて(もちろん特典券を山ほど使っていたのだろう)
メンバーも他の観客もかなり引いていた。
10分〜15分の間、その1人が6人のメンバーと握手をし続けていた。
ステージ上で握手をしているため、その様子は他の客にずっと見られている。
あんなにお金を使って周囲どころか本人たちにも嫌われてしまうなんて、
呆れてしまうというよりは、その精神力の強さに驚きのほうが大きかった。
そして、自分には無理だと思った。
あんな衆人環視の中で女の子と笑顔で握手をして平静を装うなんて
どうやったらできるだろうか。いやできない。
2回目も参加しないでおこうとこの時点で決めた。
引き続いてのツーショット写真撮影会の様子も見るだけは見ることにした。
券を2枚使うと、指名したメンバーとスマホで写真を撮ってもらえるらしい。
6人組でみんな同じくらい人気があるのかと思いきや、結構、列の長さに差ができていた。
それは別にいいのだが、司会進行の男が、
「○○○(メンバー名)の列はもう短くなってきています。列が途切れ次第終了といたします」
みたいなことをマイクで言うのだ。
無神経だと思った。
最初に列が終了してしまったメンバーが一番不人気であるかのような印象を与えてしまうではないか。
全員好きだけど1枚だけ写真を撮るならこのメンバーと、ということで苦渋の選択として
あるメンバーの列に並んでいるだけではないのか。
ももクロの早見もこういうところで精神を削られていたのではなかったか。
カッと頭に血が上り、財布の中の5万円を全部使ってCDを予約して、緑の列に並んでやろうかと一瞬思った。
が、実行に移すことはできなかった。
ここで同情心から金を使うことが、主催者側の思う壺になるんだとも思った。
いや違う。
俺には勇気がなかった。
それだけだ。
俺は好きなアイドルを普通に応援することすらできないんだという無能感で、涙が出そうになった。
自分には死ぬまでこういう人生しか待っていないんだと思うとイヤになってきた。
向こう側に行って馬鹿みたいに楽しんだほうが、楽しいんだろうなと心底思った。
少し待った後、2回目のミニライブを見た。
でも、特典会には参加しなかったし、CDの予約もしなかった。
歌もダンスもとてもよかった。
頑張ってほしいなと思って、会場を後にした。
せっかく神戸に来たのだからと少し夜景を見て、小籠包を食べて、帰路についた。
どげな辛い事があっても笑っとったら楽しくなるばい!
今年、嫌なことがあったんだけど、この歌詞のおかげで生きてこれました、ありがとう
思うようにはいかんなあ。
いや、自分が悪いんだけど。
CDを1枚だけ買って、それをiPodに入れて学校に行くときに聞くだけにしよう。
そして、もしヤフオクドームでのコンサートが実現できたら、そのときにはこっそり参加させてもらおう。
あれだけ大きな会場なら目立つこともないだろう。
ホント、頑張ってほしいなあ。
みんながみんな夢をかなえられるわけじゃないんだろうけど。
そろそろテストを作り始めないと。
自分の感覚だとそれはあり得るような気がしてしまうのだけれど、凄まじく政治に無関心なのは自分の世代だけなんじゃないかという気がしないでもない。
地元の市議会だよりに、議会を傍聴しに来た一般人の年代が円グラフにまとめられているんだけど、僕の年代(30代~40代)は0人だったりする。
人生のうちで一番忙しい年代だから仕方ないのかもしれないけど。僕自身だって行ったことないしなぁ。20代以下の傍聴者は結構いるんだが、どうせ学生だろう暇なんだよって事?だったらいいけどいや別によくはない。
話は脱線するけれども、僕の世代は子供の頃から安定して意欲が低くて大人しい。
技量が低いとか以前にまず出席率が異常に悪い。何かをしない・出来ない言い訳をする時は驚く程口が回るのに、何か発言を求められると完全に沈黙。人の為に何かしようという気は更々ないし、自分の為にも何もしない。とにかく受け身で、お口に誰かが美味しいエサを入れてくれるのを待っているだけ。
そういう自世代の謎の特性をとりわけひしひしと感じたのは大学時代。ちょっと卒業するのが難しい学科だったので、僕が一年生の時は同学科の留年しまくってる先輩達がサークルに沢山いた。
歳の離れたOBや上級生と僕らを比較すると全然様子が違っていた。先輩方は元気でパワーに溢れていて活動的で、常に何か面白い事をやろうとし、サークル活動でも業績を残すし、論文はすごいのを書くし、留年にだってもっと勉強したいからとか何かしら明確な理由があった。期末試験前には皆で助け合って単位を取ろうとしていた。
僕の同期は皆目が死んでた。勉強もせずバイトもせず、かといって遊びもしない。皆それぞれ自分の部屋に引きこもり、長期休暇は丸々実家に帰って過ごす。そんな人達ばかりだった。
何か、楽しい事をしようとすれば、別にこちとら強要どころか誘ってもいないのに、足を引っ張る発言をされる。課題はやってない前提、休日は一日中寝て過ごし何もしていない前提の会話に、こちらまでエネルギーを吸い取られる気がした。
あの同期達の淀んだ空気感が僕は嫌で、同期達には極力寄り付かず、講義の無い時間は自分の部屋で黙々と勉強し、アルバイトにも精を出し、学外で知り合った異性と遊んだりもした。
別にすごくキラキラした大学生ライフを送りたかった訳ではないんだけど、あのどうせ何やっても無駄っていう、どんよりと淀んだ空気は本当に辛かった。
今僕は危機感を覚えている。社会人になってからは、ずっと年上の上司や先輩達にもまれてほうほうの体で過ごして来ていたので、僕の世代の体たらくを忘れがちだったけれど、そろそろ僕達もそれなりに責任あるポジションに着いていかなければならない頃合いだ。
けれども、やっぱり同期やほぼ同年代はこの間の選挙前、「選挙なんて行かないでしょ?」なんて言っていた。僕らは相変わらずやる気がなくいろいろな物事に無関心で無責任で、黙って動かずにいても誰かが何とかしてくれると思い続けているのではないか?
僕達の代で世の中はすごく悪くなってしまうのかもしれない、という事はさすがにないか。一つの世代だけで世の中を引っ張る訳じゃないし。ただ僕達は先輩からも後輩からもあきれられ軽蔑され、居ない者として静かに忘れ去られるだけだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20170713183630
「流れてしまうかな、誰か反応してくれるかな」と思っていたら、想像を遥かに上回る反響があった。
トラックバックもコメントも、現時点で確認できるものには全て目を通させてもらいました。
全ての意見に対して返事、説明、反論などをすることはできないので、どうしても補足したいと思ったことだけ書きます。
寄せられた反応の中で、「事前の調べが足りなかったのでは」「さすがに抜けすぎなのでは」「大事なことをもっと確認してから契約すべきだったのでは」という類のものがあった。
もちろん、自分の調べが甘かったとは思うし、すぐに食いついてしまったな、とも思っている。
しかし、今現在の記憶を持ったまま3月30日に戻れると言われたと仮定して、あの電話に「いえ、お受けできません」と答えることができるだろうかと考えると、私はおそらく今と同じ道を選ぶだろう。
3月30日というギリギリの時期にかかってきた県教委からの電話は、私にとっては「学校現場に立てる!先生になれる!」という希望でしかなかった。
そして、希望であると同時に「断ったらもう依頼されないかもしれない」という恐怖も含まれていた。
「3月30日に依頼なんて有り得ない」という意見も多数見かけたが、指摘してくれている人もいたとおり、非正規教員の取り扱いは自治体によって大きく異なる。
私の県では、3月20日過ぎに正規教員の異動発表→非正規教員(常勤講師)への内示→それでも足りなければ非常勤の時間講師を補充、という流れのようなので、私の内示だけが格別に遅かったわけではないらしい(今日事務員さんに尋ねてみた)。
この一連の流れは全て県教委が司っているので、単純に個々の学校がバタバタしていて手際が悪いというわけでもない。
話が逸れた。
とにかく、あのときの私にとって、積極的な意味でも消極的な意味でも、内示を断るという選択肢はないも同然だった。
(それに、勤務校や割り当てコマ数についてその時点で問い詰めたり交渉したりしたところで、「ではよりよい条件を提示します、ぜひ!」となるものでもないだろうと思う)
今日は一学期最後の通常授業で、いくつかのクラスに期末試験を返却したり夏休みの課題について説明を行ったりしてきた。
担当は3時間目と5、6時間目だったが、職員朝礼に出たり教科主任と打ち合わせを行うために8時過ぎには出勤し、フリーの時間には成績入力や提出物のチェックをし、6時間目のあとに行われる清掃の監視もしてきた。
返却した試験用紙を受け取るたびに上がる歓声や悲鳴を聞いたり、夏休みの課題の存在にげんなりする生徒をなだめたり、女子生徒とたわいない会話をしながらゴミ袋を運んだり。
「空き時間は全て勉強に費せ」もしくは「塾で働いたほうがいい」「舐められてるだけだから辞めてやれ」、頭では理解できるが、このような待遇でもやはり「学校の先生」にやりがいを見出し、生徒の成長に資する一員となりたいと願うのは愚かだろうか。自己責任だろうか。
もしくは、自分の大切な人(パートナーや息子娘、友人など)が「理不尽に使われていることは分かっている、しかし、それでも先生になりたい」と、私のような境遇にいたとしたら、あなたはどうするか考えてみてほしい。
「馬鹿げている、さっさと辞めて次を探しなさい」または「自分で選んだんだから自己責任でしょう」と言えるだろうか。
先にも書いたが、正規・非正規教員共に人事権は県教委にあるため、自分の生まれ育ったこの県で先生になるには、選択肢やとりうる策が限られすぎている。
「この会社はダメだ、ブラックだから同業他社に転職しよう」とはいかない。
(各学校の校長が独自の判断で「〇〇先生(講師)、10月からウチに来て」と呼ぶのではないらしい)
正規になってもブラックだ、と言われても、「先生になりたい」という気持ちそのものは揺るがない。
そしてこれは夢であると同時に、「子供たちの未来の役に立ちたい」というある種の使命感のようなものでもある。
コメントで書いてくれている人がたくさんいたが、教育は未来を作る仕事だ。
よい教育なくして国や社会の発展が望めるはずがない。また、発展という光の方面だけでなく、貧困の連鎖を断ち切るという役割を担うのもやはり教育(特に公教育)だろう。
自分の面倒すら自分で見られない私が「生徒の助けになりたい」など、甚だおこがましいことを言っていると思う。
しかし、この数ヶ月間生徒たちと共に過ごし、先生と呼ばれる中で、自分の境遇への複雑な思いを抱きつつも、それを跳ね除けて教壇に立つ力を与えてくれたのはこれらの気持ちだったのだ。
「じゃあ一生やりがい搾取されてろ、自己責任」と言われるだろうか。
しかし、この問題はもはや、私1人がこのままやりがい搾取され続けるかそこから脱するかというだけの問題ではないし、「そんな条件を飲んだお前が悪い」と言って解決する問題などではないと思う。
私を含め、その全員によって現在そして未来の教育が担われている(もちろんさらに多数の正規の先生がいて日々尽力されているのだが)。
そのことを知ってもらいたかった。
今回、はてな匿名ダイアリーに書いてよかったと思う。
精一杯頑張ります。
自分の考えの整理も兼ねて。
できればアドバイスください。
投稿者は国立理系大の大学院生で、学部時代はレポートと期末試験に明け暮れていました。農繊名電レベルで、入学当初落ちこぼれ成績だったのが最終的に平均以上くらいになったので人並みに勉強はしてきたと思います。また家庭が裕福でないため、奨学金を借り入れています。そのため、無内定卒業は借金1000万無職とイコール。そういう意識から絶対に就活を成功させなければならないという考えがありました。
推薦枠もあるし、教授のコネもある。そうでなくても、選ばなければ引く手あまただろう。でも早めに終わらせて安心したい。そのあと研究に専念しよう。という思いから就活を早めにスタートしました。
と、いうのが当初の考え。
これが間違いでした。
現実はそう甘くなかったです。
はじめは学歴のプライドだかで知名度が高く選考が早い大手、中小を10社ほど受け始めました。自分の研究と一致しており、活かせる技術もあるので卒なくこなせば通るだろう、と考えていたのです。
でもまあ、人事の方の目も節穴ではない。そういった甘い考えを見透かされていたんだと思います。
学歴だけで受かると思ってるのか。意味不明に自信持ちやがって。
結局、どこも全滅しました。正直、内定に漕ぎ着けなくとも一つくらいは一次面接くらい通るだろうと思っていたのです。…まあそれが間違いなんですけど。はい。思い出すと懺悔の念しかないです。貴重な時間を割いていただいてる面接官の方にも申し訳ない。
次は、知名度とかを抜きに自分がやりたいことをやろうと考えて業界を変えました。自分は中学生よりギターをやっていた関係で、たくさん曲も聞きましたし弾きましたので、これをもう生涯の生業にしてやろうと思い楽器メーカーとか音響メーカーを受けました。ESは本当にもうスルスルと書けたし、面接でも熱意をアピールできたと思ってました。
「なんでそんな学歴でウチに?」と思われたんでしょうか。
面接の受け答えが悪かったのか。
もっと優秀な人がいたのか。
自信がないように取られたのか。
結局全滅しました。
自分が社会に必要とされていない人間であると暗に示されているように感じてきます。
もともと知らない人と会話するのが楽しいというキャラクターでなかったのも相まって、精神的にしんどくなってきました。
卑屈な傾向があるという自覚はあったんですが、得意分野である研究と音楽に関しては自信があったんですね。でも、そこをへし折られた。となると、卑屈だけが残ります。
ポジティブに変えようと努力しても、なかなか変わらないです。むしろそれが新たな卑屈の種を産んでしまう。
結局、自分が全部悪い。
社会に適合できていないのが悪い。
変わらないことが悪い。
変わろうとしても実現できてないのが悪い。
これが現状に対してだけならまだいいんですが、過去まで波及していきます。
裕福でないのに大学進学などしたのが悪い。
ってか生まれてきたことが悪い。
こうなるともう手がつけられません。鬱のスパイラルです。
就活していなかった頃は、趣味や友人との遊びに興じることで楽しいことを考えられたのですが、今は楽しかったことが楽しくなくなる段階まできてしまいました。
成功させているビジョンが全くイメージできなくなってしまいました。
友人が大手メーカー1社のみ受けて、就活を始めてから5日で内定ゲットしたという報告を聞いたのが3日前のことです。このときいろいろと崩壊しました。
何が悪いのかを自分で探して見つけなさい。という言はよくありますが、限界まで来ています。自分が全部悪いんだと結論づけてしまい、このままだと折れそうです。
自分が自信を持っているところを全部否定され、自分の悪いところを増幅してしまう。
視野狭窄だと自覚はしていますが、視野を広げる余裕がないのも事実です。
ではどうすれば自分は余裕を持てるのか。内定を得られれば余裕が持てます。きっと鬱も改善します。
これも視野狭窄だという自覚はあります。ありますが、他にどうできるのかわからないです。
折れたらきっと、奨学金の負担を親にかけたくない!という思いを実行することになるでしょう。ネットを探せば、就活できなくてもフリーターからやればいい。という意見が多くありますが…そういった方は、卒業時に1000万円の借金を背負っていなかったんじゃないかと思います。
助けてください。
鬱を患ってこれを読んでいる人もいるかもしれません
ただここで一つ強く言っておきたいのは個人個人によって適切な対処は違うと言うことです
ここに書かれていた対処をしたからと言ってうまくいかないこともあるでしょう
参考記録としてでも聞いてください
私は第一志望の大学に落ち、滑り止めに受けていた遠くの大学に進学します
初めての一人暮らしということもあり少し気持ちは浮ついていたような気がします
そこでは店長の理不尽な文句に腹を立てながらも同じバイトの人がいい人だったので続けていました
そんな中私の元彼女が、私と付き合っていた頃にすでに二股をしており、私を彼氏と笑い者にしていたことを知ります
よくわからない感情が込み上げてきて、テスト勉強をしていたにも関わらず1週間ほどあった期末試験を全て休みました
寝ようとするとどうしてもその元彼女のことが頭をよぎり眠れない日が続きます
起きているときは何か別のことを考え続けていればそのことから逃れられました
寝ようとして頭を空っぽにした瞬間そのよくわからない感情がわきあがってくるため、眠さの限界が来た時に気絶するように眠っていました
ご飯も食べる気が起きず、このままだと死ぬなぁ、それはやだなぁと思った時に食べるのみでした
3日に一回ぐらいの食事はとても疲れるもので、食べることが嫌いになりました
もともと吐きやすい体質だったのもあり、度々戻していましたが3日に一回しかない、苦労して飲み込んだ食事を吐き出してはいけないと思い、口腔まで上がって来たものをまた無理やり反芻してました
陰鬱な気分は当然心地いいものではなく、好きだったことをして気を紛らわせようとしますが、以前は大好きだったことがこの時はまったく楽しくありませんでした
高い学費を出してもらっている以上行かなきゃならないという義務感から講義開始から嫌々数日は通いました
自転車通学だったのですがペダルを漕ぐ足に鉛が乗ったかのように重くなり動かなくなります
そもそもろくに食べていなかったため当然だったのかもしれません
家に引きこもり、バイトの時だけ外出をし、ご飯もその時に買ってきたもので済ませていました
このままじゃいけないという思いと、それでも何をする気にもならないという思いがぶつかりあい続けていました
自殺願望もありましたが何をする気にもならないという気持ちにまだ押されていました
そんな中このままじゃだめだいつか死んでしまう、逃げようと思い、親に連絡を取ります
今から帰っていい?という私のなんとか涙まじりに絞り出した言葉にただならぬ気配を感じ取ったのか、理由も聞かず、良いよ、迎えに行ったほうがいい?と返答してくれました
その親の答えを聞いてもなお、他人に迷惑をできるだけかけたくないと思っていた私は自分で帰ると言います
バイト先に急用が入ったとだけ連絡し帰ると、駅まで親が迎えに来てくれていました
好きだった人に裏切られたこと
バイトが唯一自分を必要としてくれているように感じて、店長が嫌いでもやめられなかったこと
死のうと思ったこともあるが死ぬ気力も出ないこと
他の細かいことも伝えました
親は何も言わず相槌をうってました
違うところといえばかろうじて出て来たやる気をふり絞らずともご飯が三食出てくることでした
様々な検査を受けました
そこで自律神経失調症、それに付随する症状を診断されました
精神だけでなく、肉体にもガタが来ているとのことで入院措置を取られます
寝て起きて寝るを繰り返す私の生活自体は何も変わりませんでしたが、大学とバイトを休んでいるという罪悪感からは入院を理由づけすることで解き放たれた気がしました
退院した後は大学の学期が始まるまで実家で休み、始まってから自宅に戻りました
雨が降っているときや、大学に行かなきゃという義務感に駆られた時点で大学に行くのはやめ、大学に行こうという気になった時だけ行ってました
この頃にはカウンセリングや、すでにもう一年休んでいるのだからここで半年増えたところで変わらないという思いから、罪悪感なしに休んでいました
こうして時が経つにつれ大学に行こうと思う日も増え、今ではある程度通えています
私が今思い返してありがたかったのは、親が自分に特に何も言ってこなかったこと、しかし私から何か話しかけたときは手を止めて対応してくれていたことです
あなたは一辺があなたの身長よりちょっと大きいぐらいの立方体の中にいます
ストレス耐性がある人は一辺が身長より割と長いかもしれませんし、ストレス耐性がない人は身長ギリギリかもしれません
この中に何か嫌なことがあるたびに水がたまっていきます
定期的に排水もされますが、これも人によって期間や量が異なってます
排水がうまくされなかったり、排水よりも速いペースで水がたまって足首まできました
ここまでならまだ普段と運動能力も変わらず自由に動ける気がします
じゃあまだ大丈夫だと思っているうちに水位が膝まできました
運動能力は制限され、水がない状態と比べ動くのに体力を使います
胸まで来るといよいよ動くのが難しくなってきます
水によって体温が奪われて行くという、不安によって不安が生まれる悪循環も発生します
口元まで来るといよいよ水で立方体がいっぱいになるのも近いです
頭まで水が来ても顔を上にあげて立ち泳ぎをすればまだギリギリ息はできるかもしれません
しかしこうなったら体力が尽きるのが先か、水で満たされるのが先か、酸素がなくなるのが先かという状況になってしまっており、どうにか排水をするしかありません
逃げて別の方向に進むことで私はどうにかなった気がします
本当はなってないのかもしれません
小さいころからテスト勉強というものの意味を理解していなかった。なんでこんなことをしなければならないのだろう、ペーパーの点数が取れたところでそれが実際に使えるかどうかとはまた別の話であるのに、と。
もちろん学力のある学生にありがちな、勉強をゲームとして楽しむという姿勢はそこそこあったのだが(だからこそ今の大学にいるのだから、そこは感謝しなければならない)、中学生ぐらいの頃にはゲームに飽きてしまっていた。
今では、テストが客観性を最大限に取り入れる制度の賜物であることは充分に理解しているのだが(コミュニケーションスキルだとか、仕事をしていく面ではすごく重要視される能力が見られないのはいかがなものか、とは思うのだけど、なんとか上手く潜り抜けた側としては『ありがどうございます』)、今ですらなお、医師国家試験だの期末試験だの、試験に追われる日々なので、うんざりしてしまう毎日だ。
母親が教育ママだったおかげで、変な中高一貫校に入学することになり、一部の奇抜な天才達と六年間を過ごして、物を批判的に見るという目つきだけは養われた。おかげさまで色んな人の自慢/考えを聞いていると、『なんかこれは違うな』とか『なんなんだよそれは』という疑念が、浮かんでくるようになった。
2016年はこれに凄まじく苦しめられた1年だった。自分の考えにすら『お前それは違うだろ』『お前のその姿勢が自分を苦しめているんだぞ』と、そういう考えがポンポン浮かんでくるからだ。
『圧倒的成長』というものがある。あれって、なんなのだろう、と思っていた。もちろん、僕だけでなく数多の人が『圧倒的成長』には疑問を感じているのだろうけど、『意識高い系は馬鹿である』という前提をなくしても、かなり多くの人が疑問を抱くはずだ。『出る杭は打たれる』という、成長志向の者を叩き潰そうとする圧力をも取り払ったとしても、多分疑問は残ると思う。
では、疑問はどこにあるのか。僕がいろいろと見るに、彼らの姿勢には、『圧倒的成長をするのは誰のため?』というのが、基本的に抜けてしまっている。
もちろん、常日頃から自身の肉体の強化に励むスポーツ選手のように自身の頭脳とスキルの強化に励むのはいいことではあり、それ自体推奨すべきことではある(そこから始まるものだっていくつもある)。けれども、『手段の目的化』が起きてしまっていて、そこで身に付けたものを何か役に立てないと意味がないんだよ、ということを重要視したい。かのスポーツ選手ですら、テレビでその輝かしい肉体を見せることで少年少女に夢を与えていることを忘れてはならない。
もちろん『勉強で勝つこと』を目的とするのならそれはそれで良いんだけど、もっと選ぶものがあるだろうに……笑
自分の大学における二年間を振り返れば、それはまさに、自分の基準に当てはめるとするならば、『意識高い系』に違いない、と今は断言する。自分は手段を知らなかった/手段がそこにはなかったのだから、そして、失敗に怯えていたのだから。
能力の向上にひたすら執着した二年間だったし、実際向上したのだけれど、ただただ苦しかった。もちろん、ハードワークを強いられるので、その辛さからくるものもあっただろうけど、どちらかというと、大手を振って歩けない、あるいは、お天道様を見られない、そういうものがあった。背徳感というか、なんというか、『自分は正しいことをしていないよな』、そういう感覚と常に背中合わせだった。
もし。似たような感覚を抱いている人がいて、それでなおかつ、『努力したい』という考えがこころの底にある人がいるならば、『誰かのため』という視点を自分の中に入れてみると良いと思う。この考え方がまだ自分の中にスーッと入ってこないなら、あなたはまだまだ苦しむべきだし、もし、この考え方がスーッと入ってくるなら、僕はそれをなによりも喜ぶと思う。
なんだか、纏まりの無い文章になってしまったけれど、意識高い系の人とか、意識高い人とか、成長を心の底から望む人に贈ります。
緊張で息が詰まって泣いてるような間の取り方になってしまった
相手への印象を考えたくないほどにボロボロの発表をしてしまったと思う.
中学生の時は学級委員をやってて、人前での発表も全然平気だった.先生から1人だけ発表の内容ではなく仕方について工夫を褒められたこともあるし、むしろ発表は得意だった.
高校生の時は演劇をやった.知らない人の前で演技することも最終的には慣れっこになった.うちは他校と合同発表会みたいなのをしてて、会場での運営は生徒自身がやるような形だった.だから受付や司会も自分らでやらなくてはいけなくて、俺は司会も何回かやった.その場で即興で話を組み立てて喋ることだって慣れた.
大学生になった.俺は引きこもった.理由は書くと長くなるけど簡単に言うと精神的に鬱っぽくなって身体に影響出ちゃって大学に行くに行けなくなった.それが2年ほど続いた.つらかったけど少ない友達や、引きこもる前に行ってたサークルの仲間とたまに会っていたから死ぬほどつらくはなかった.
徐々に外に出る練習もして、この春からやっと授業に出られるようになった.何とか通えていた.
期末試験のシーズン、俺は取ってる少人数の授業で発表をやることになった.この授業は半期かけて各自が調べたことを最後に発表するってやつだ.
俺は引きこもっていたとはいえ、その間もたまに友人と会った時は全く問題がなかった.身体的にも、精神的にも高校の快活な時と変わりがなかった.
だから発表も嫌じゃなかったし、むしろ楽しみだった.俺が見事な発表をかましてやるぜって意気込んでたくらいだ.
なのに昨日の発表当日.俺は全然喋れなかった.
30分前から緊張が襲ってきて、授業5分前ぐらいから呼吸も荒くなってきた.
おかしい.落ち着け..俺は発表得意じゃないか.こんなの錯覚だ.落ち着いて発表しよう...
そう思っていたけど、出来なかった.
「あっ...すみません緊張しちゃって..」必死に苦笑いを浮かべるけど一向に落ち着けない.
喋ろうとしても言葉に詰まる.全然息が吸えないから喋りが続かない.
泣きたくなってきた.これじゃ小学生の発表苦手な子みたいだ.
発表は散々だった.俺は授業が終わってみんながいなくなった教室で座り込んで立ち上がれなかった.
人前なんてへっちゃらだった.得意だった.なのにたった2年、人前に出なくなっただけでここまで喋れなくなるのか.
俺は絶望した.これまでの人生で大事に育ててきたスキルがものの見事に溶けて消えていたんだ.他にこれほど得意な能力なんて俺にはない 俺のこれまでの人生なんだったんだ.二十数年生きてきた努力が全部消えちまったよ...
死にたい.もう人前に出たくない.
一生引きこもっていたい.でも引きこもっていたくない.
昔のように明るい俺に戻りたい.
人前で緊張せずに喋れる俺に戻りたい.
もう全てが暗くなった.
富士山を登頂した者がいても、エベレストを登頂した者がいれば、前者が登山を語ることに疑問を抱く者が出てくる。
もちろん、相対的に素晴らしいものを認めることができる人間もいるがそれは少数派だ。
インターネットの普及で上位数パーセントの整った容姿を持つ人間を多く見ることができるようになった。
実際の割合というのは昔と大差ないはずだが、美形な人間が増えているかのように錯覚させる。
昔だったら美形だったはずの人間もブサイクのように扱われ、昔ながらのブサイクは嘲笑の対象になっている。
そんなセリフで笑いをとることに疑問を感じなくなっている。文化とうオールマイティーな免罪符を使えば誰も咎められない。
人種や病気、障害者などへの差別撤廃を叫ぶ一方で、変えることのできない、できても整形手術と相性のよい一握り人間のみしか変えることのできない新たな階級を形成しつつある。
求める要求が高くなり、その種類が多くなるほど人の心に余裕がなくなる。
「期末試験で科目数と難易度が去年の2倍になりました。それは進学に影響を与えます。」
それが現在の息苦しい世の中を形成している大きな要因の1つにもなっている。
美人でも整形手術を繰り返したり、その日の顔のむくみに一喜一憂している世の中はいい世の中だろうか。
自分の能力と要求が大きく乖離している場合はどうなるだろうか。
中学生の段階で、高校3年生の学力を要求されたら逆にやる気をなくす人間も出てくるだろう。
どうでもよくなるのだ。
たとえ何かを達成しても、容姿というパラメータ一つで尊厳は奪われてしまう。
社会からドロップアウトしてしまう人や無気力な人間を生産しているのはこの雰囲気によるところも大きいと推測する。
時にそんな社会を恨み、それがいきすぎて犯罪に至る者が出てくることも想像できる。
こういう雰囲気を解消するにはどうするべきだろうか。
テレビのバラエティなどでブサイクを貶めて笑いにすることは許容されている。
製作者からすればただのショーであり、仕事をこなしているだけだろうが、
文化を形成するのに多大な影響を与えていることは紛れもない事実だ。
また、美に関して順位をつけ、不安を煽る方が刺激的で、注目を集めやすい。
視聴率や企業の利益を考えると、それを自主的に止めることは難しいだろう。
みんながこの閉塞感の蔓延した社会を解消するように訴えるしかないのだ。
これを見て共感してくれた人は、その主張を広めていってほしい。
はじめは負け犬の遠吠え、ダサいやつらのやっかみだ、と思われるだろうが、
本来ダンスを綺麗に踊るためには体の動かし方とか、体・関節の柔らかさとか重心移動のあれやそれとか…とにかく技術や体の素養がいるんだと思う。例えば高橋大輔選手や熊川哲也さんの踊りやステップが美しいのは、練習量も勿論だがリズム感、体の柔らかさなどの身体能力の高さにあると思う。だから上手い人と同じ振り付けのダンスを踊っても、体が固かったり踊り慣れてない人の踊りは只の運動神経悪い芸人になる。
個人的にダンスの授業は大嫌いだった。体が固く、運動神経も鈍かった、踊り慣れてない、ついでに背が高かったので下手な踊りが目立つ、この四拍子のせいで基本運動神経悪い芸人みたいな動きになる。しかも学校ではダンサーが使うような前面が鏡ばりになった教室で踊らされたので、常に自分の醜い姿を見せられるのである。自分の顔でさえ直視に耐えがたいのにダルダルな踊りまでついてくるとかなんの罰ゲームだと当時は思った。最終的に踊っている最中は全力で鏡の中の自分から目を逸らしていた。先生には「恥ずかしがらず鏡見なさい」と注意されたが自分の心が崩壊しそうだったから無視した。ゲーム画面に写った顔を直視し続けるようなものだったのだ。
嫌いな理由はまだある。それは皆でダンスを踊らされる場合である。自分の学校は進学校であると同時に、ダンス部が全国大会に行ける程強く、学校もダンスに力を入れていた。(入ってから知った)なので体育祭などもダンスが目玉といった感じだった。体育祭ダンスの振り付けは基本ダンス部の人が考える…のだが全国行くまでのガチな集団である、踊りのレベルが高い。足をめっちゃ上げさせる振り付けや、片足でずっと停止させる振り付け、激しく動く振り付けなどがあった。激しく動くのなんかダンス部がやると凄く綺麗になるのだが自分みたいな奴がやるとそれはもう只のイソギンチャクになる。落差。
また限界まで足を上げているのにダンス部の人達に「もっと上げて!」と言われることもあった。ごめんなさい無理です昔から足全然上がらないんです。
嫌いな理由はまだまだある。テストだ。最近の学校はどうだか知らないが、自分の学校は基本数人ずつ皆の前に出て、横一列となって踊るというのが体育のテストだった。「みんなのまえ」である。しかも横一列である。上手い奴と下手な奴の差が如実に表れる。プロ集団と運動神経神経悪い芸人の共演である。テレビだったら死ぬ程面白い絵面だろう。しかし自分は芸人ではないので笑われてもお金は貰えないしというか仕事でもない。只の公開処刑だったことは言うまでもない。笑うんだったらせめてお金欲しい。
最後の嫌いな理由は「練習」である。イソギンチャクみたいな踊りしか踊れないなら練習すれば良い…先生は時間外練習を推奨していた。しかし、自分はそれが嫌だった。何故体育の授業以外でダンスを踊らなければならないのだろう。確かに練習しないと皆に笑われるし、体育の成績も悪くなってしまう。だが学生に許された時間は無限ではない。私はダンスに費やすなら勉強や部活に費やしたかった。受験もあるし、進学校だったので勉強もおろそかに出来ないし。しかも勉強に比べてダンスの技術なんぞ将来ダンサー以外には何の役にも立たない。チームワークや協調性?それは部活やら他の文化祭の催し物やらで身につくだろう。寧ろダンスは下手な人上手い人が分かれてしまう分チームワークに亀裂が入ることの方が多いような気がする。
一応当時は少し体育の授業以外でも、友達と一緒に練習をしたこともあったが…ちょっと練習するだけでは運動神経悪い芸人からは特に脱出出来なかった。
因みに自分の学校は期末試験の終了数時間後に、体育祭のダンスの練習をさせる高校だった。流石にこの時はダンス部の人も「眠いよ!」と嫌がっていた。
しかし学校はダンスに力を入れていたが生徒全員というわけではない。寧ろ進学校ということで勉強に力を入れてる子が大半だった。特に受験に力を入れてる子にとっては試験直前、直後にも打ち込まれるダンスの授業を嫌がっていた。
他校だと高校は体育選択なんだろうか?自分の所は何故か必修で週2くらいあったが。
数年前ダンスが必修化したと聞いて驚いた。運動音痴かつ、目立ちたがりでない人にとっては下手したら苦痛の時間にしかならなそうだったからだ。実際はそうでもないんだろうか…?皆ダンスの授業大好きだったりするんだろうか
自分がダンスを嫌いになった理由は主に「高いレベルの踊りを強制的に皆の前でやらされ笑われた、しかも出来が評価にも響く」だったのでこの辺が改善されれば、まだダンスが好きでいられる人はいるんじゃないんだろうか。
実際小学校の頃のダンスの授業は好きだった。体を動かすこと自体は楽しいからだ。そこに評価も人の目も絡まないなら普通に楽しい。
後、運動神経悪い芸人は笑ってもいいと思う。芸人が笑わせるためにやってる芸だと思うからだ。芸人も笑われて本望、寧ろ笑われなかった方が嫌だろう。しかし普通の人にとっては自分の運動してる姿を笑われるのはショック以外の何物でもない。体育の授業で皆の前でテストさせるのやめた方がいいと思う。
一ヶ月前の話。
急にお腹が痛くなった。
たぶん、昼に食べたメロンパンがきたと思う。
友人やクラスの男友達に知れ渡ったら、もうわたしの居場所はない。
次は下の階のトイレだ。
しかし、ここで運がわるいことに、友人経由で知り合った男友達に遭遇してしまう。
かといってお人良しのわたしは彼の対応をむげにはできなかった。
適当にあいさつしてお話をしたあと、わたしは強引にさよならを言った。
ここで5分のロスをしてしまった。
正直もう、無理だと思った。
早く出ろコラここでうんこすっぞ、と心の中で叫んだ。
しかし、お人好しのわたしはここでも黙って待つことしかできなかった。
ここで10分のロス。
いま思うと、よく耐えたなと思う。
ふと身体がひんやりとしてきた。
これはうんこを漏らしたことがある人間しか体験できない感覚であろう。
しかし、身体はひんやりとしているが、なぜかお尻の一部分は熱い。
あ...出ちゃった...
できるだけ平然を装った。
すると、ようやくトイレが空いた。
無事にトイレの穴に落ちていった。
汚れたパンツをどうするべきか。
わたしは名案が浮かんだ。
ここに捨てれば、ばれないはず。
恥ずかしいというよりも、
わたしの見てしまうと逆に相手の方がトラウマになりそうだったから。
そして電車に乗った。
どうでもいいけど、痴漢されなくて良かった(痴女に間違えられるから)
母校が世間を騒がせている
《http://mainichi.jp/select/news/20150908k0000e040142000c.html》
《http://www.asahi.com/articles/ASH9835GDH98UTIL007.html》
母校愛は全くないつもりだが、母校愛がない俺なりの母校へのささやかな貢献として、そして何より自分の承認欲求のため、この場を借りて知っていることを述べたい
A教授は受験業界では俺の受験生時代においても試験への影響力が強いということで有名だった
司法試験の受験テクの一つとして、考査委員の顔ぶれや過去の学術論文から翌年の出題傾向を探ることを試みることがあるのだが、俺の観測範囲でそのテク的に“全科目の中でも”最重要人物視されていたのがA教授であったほどである
情けない話だが、このようなことが起きても不思議ではないというのが率直な印象である
俺の在学中にも、飲み会に異性未婚学生と二人で堂々と揃って遅刻して登場し、飲み会終了後も二人で堂々と揃って夜の帳に消えていく教授(考査委員ではなかったが、既婚者だった)がいたりした
学生達も試験合格に必死だし、教授達は業界内で限定されたものとはいえ権力を持っているし、そんな環境の中で、中には使える武器(ゲスパー)は何でも使って情報を得ようという発想をする奴もいるだろう そうじゃない奴が大半だったと思うがね
換言すると、狭いコミュニティーで、モラルの壊れた権力者とモラルの壊れた権力利用者がいれば、今回のような事件が起きるのは必然だし、その可能性はそこまで低くないということだ
学生間でも色々なことがあったが、今回の事件とは無関係なので割愛する
“オタサーの姫”“青春を取り戻そうとするKY既婚おっさん”くらいのキーワードで察してもらえればよいかな
今年の司法試験の問題もまだ見ていないので、事件記事以外の情報はないものの、特に新司法試験憲法の論文問題は、その問題自体を事前に知ったところでどうしようもない傾向がある
“できるやつは制限時間内で余裕の合格答案を書けるし、センスがない奴は基本書を見ながら丸一日かけてもそこそこの答案しか書けない”という傾向が最も強い科目だというのがほぼほぼ受験生の共通見解だ
俺も試験合格後に学生に受験指導をしたことがあるのだが、毎年公表されている採点実感や予備校の模範答案を見て書かせても、特に憲法論文についてはセンスがない奴はセンスがないなりの答案しか書けないのである
しかし、解答内容まで懇切丁寧に教えていれば話は別だ
既に一部報道もされているが、今回、当該学生の答案の出来が良すぎて発覚したということは、問題漏洩が解答指導も含めて本当の本当に根幹の部分までされたのであろう、ということだ
考査委員を長年勤めた教授が本気で憲法論文の解答指導なんかしたら明らかに不自然な答案ができあがるに決まっている
・出題分野の漏洩=ピッチャーの球種を各打者に公開(受験生=バッター(以下同))
くらいの次元の違いがある
したがって、試験合格後は刑事事件に全く縁がないので「半可通の感想として」にとどめておいて欲しいのだが、特捜はこの事件はきっちり背景を含めて捜査するんでないかな、というのが俺の考えだ
背景事情によっては、試験と制度の根本を揺るがす特大スキャンダルだからな(現時点で既に“大スキャンダル”だがw)
これを機に制度潰すくらいの勢いで腐った部分を徹底的に取り除かないと社会的にもマジでやばいぜ
例の件でデザイン業界が業界人の内輪擁護で炎上している状況を遠巻きに見てきたものだが、次がウチの業界の出番とならないことを心より願って締めの言葉とする
旧司の一行問題時代には、考査委員の東大教授の直前の期末試験の問題が丸々コピペだったりしたので、「昔は受験生が競って情報を取り合ったものだ」とこないだマックで女子高生が話していたのだが本当なのかね?
> 問題作成者が公開なのが意外。しかもその間学生の指導ができないのか(http://www.moj.go.jp/content/001129497.pdf)。授業は指導に入らないということなの?
そのとおり、「授業≠指導」というのが建前だ
どう違うのか、というと説明しづらいが、誤解を招きかねない個別ゼミや私的な少人数ゼミはもちろんNGだし、俺の知っている考査委員の教授は“指導”をしないよう慎重に配慮していたものである
また、実際の問題《http://www.moj.go.jp/content/001144527.pdf》を見てもらえれば明らかなように、問題が複雑すぎて独力で問題作成することは不可能であるし、実績のある学者に頼らざるをえないのが現状だ
ネットを見ていると、『進学校になろうとしている』学校の涙ぐましい努力と、それに振り回された元生徒の体験談を多く見ます。
ですが、そういう学校が目指している”進学校”の本当の実態はなかなか目にしません。母数が違うから当たり前といえば当たり前なのですが。
ですが何かそのせいであらぬ誤解が蔓延している感もあるので(勉強合宿とかしてないし、他の学校見下したりしてないからね!)、増田がそのような”進学校”の実態について、少し語ってみようと思います。ちなみに
・男子校です
・東大合格人数トップ10の常連です。というかむしろ名前がなかったら驚く前に『公表しなくなったんだな』と疑う余地もなく思います。
そういう”トップクラスの『進学校』の生徒”と聞いて、読者の皆様はどんなのを想像しますか?
”ガリ勉で勉強しかしてこなかったようなヒョロ or デブ”?
――そういうのも居るにはいますが、世間でイメージされるほど多くはありません。というか、後述しますが”ガリ勉”では学校内での競争に生き残れません。
”エリート気取りで、人を見下してばかりいるヤツ”?
――学校の外ではどうか知りませんが、同じ学校にいる以上は同級生はそいつと同等程度には勉強ができるヤツです。学校でそういう態度のヤツはいません。
”逆に、周囲は皆ライバルと思ってあくせくしてるヤツ”?
――そういうヤツは少ないです。少なくとも、(皆が勉強での成功体験を一定程度持っているから?)努力している人を尊重するという校風はあり、
(小学校時代に自分がされて嫌だったからか?)努力が嘲われるようなことは少ないです。となると、周囲とはそこまで仲が悪くなることもありません。
「それでも、コミュ障なら嫌われるんじゃないか」って? コミュ障は多いので、ターゲットは分散しまくります(笑)。これについても後述します。
――うん、まあ確かにそれは多いです。真面目な話、”他では会わないような変人に会える”というのはそういう学校に行く意味の1つです。
生徒の体格は意外と悪くないです。「教育熱心な親はたいてい食生活にも気を使っている」という理由でちゃんとした物を食べているし、
生活習慣も(受験前は若干睡眠を削ったこともあるかも知れませんが、それ以外は)しっかりしているので、学校の平均身長は同年代と比べると若干高いという結果が毎年出ます。
だから(勿論スポーツ推薦でスポーツエリートを集めている学校には負けると思いますが)陸上競技や、通常小学生以前に始めることの少ないラグビーのような競技はそこそこ強かったりします。
音楽はピンキリです。良い家のお坊ちゃんで、何らかの楽器を習った経験のある生徒は多いですが、全員がそうだということもありません。音楽で楽器やるときは出来る子と出来ない子がはっきり分かれます。
こういう学校は実のところ、生徒を鞭で叩いて勉強させるような学校ではありません。放っておいても生徒は勉強するし、勉強したいヤツには手助けするけどサボって落ちこぼれるのは本人の責任、という学校です。
そして、中学・高校生というのは誰でも閉鎖空間の狭い社会で生きていて、生徒達は、『自分たちの学校は進学校と言われている』『自由な学校である』という認識はあっても、『他の学校は実際どうなのか』ということは断片的にしか知りません。
生徒A「友達が行った○○って学校、夏休みに4日ほど勉強合宿があるらしいな」
生徒B「俺の友達が行った△△って学校はそこまでは行かないけど、成績悪いと部活禁止されるらしい」
生徒C「弟が通ってる◇◇って学校は部活禁止までは行かないけど、期末試験の成績悪いと赤点じゃなくても強制的に補習になるらしい」
一同「「「そこまでしなきゃいけないものなのか?」」」
という会話を増田はリアルにやったことがありますが、『学校の授業についていければ日本のたいていの大学には受かる』という前提があっての会話だと今となっては思います。
そして、上で書いたようなことは本当にやっていません。成績悪くても部活止められないし、夏休みは高校1年生くらいまでは40日以上フルに自由です。
だからあまり『学校が進学のために必死になっている』というイメージが無く、世間で言う”進学校”のイメージからはかけ離れています。表題の”他称”進学校はそういう理由です。増田は今でも母校が進学校と言われると若干違和感があります。
こういう学校の出身者はたいてい、自分のことを『数学が出来ない』人だと言います。実際はそう言っていながら数学ⅡBレベルの微積分が当たり前のように出来て、
会話するときに”必要条件、十分条件、逆、裏、対偶”といった単語が通じるのは当然ではないと気がつくのは大学生になって以降だったりするのですが、それでも彼らにとっての自分自身は『数学ができない人』です。
「いや、出来るでしょ」と言われたら「まあ世の中の普通よりは出来る」とか微妙な表現をします。彼らにとって『数学が出来る人』は理系に進んだ人や、母校で平均以上だった人ではありません。
それどころか、東京大学の理系数学を6問全部解いた人でも『数学が出来ない』を言っていたりします。
彼らが『数学が出来ない』という本当の意味は……『(数学オリンピックでメダル取った同級生の○○君と比べて)俺は数学が出来ない』という意味です。
というのは、人よりも勉強が出来る生徒が集まっているとき、一番能力の差が思い知らされる教科は数学になりやすいからです。
理科と社会の能力は『知識として知っているか』の差は彼らにとっては『じゃあ覚えれば良い』であり、『理解しているか』の差は表に出にくいです。
国語は大学入試の二次試験に至るまで基本的には『出来そうな気がする』(けれども本当に出来るかどうかの差が点数には出る)もので、
英語は『どんなに出来たとしても、ネイティブほどではない』物です。(それでも、数学ほどではないですが英語が出来るとある程度は尊敬されますが)。
その点、数学の問題が解けるか解けないか、あるいは同じように解いたとしても解き方が美しいかどうかの差(解き方の美しさが競われるのは本当です)は如実に出ます。なので、こういう学校では数学が出来る人が一番尊敬されます。
昨日か今日の元神童も挫折したエピソードに数学使ってましたよね。
「勉強するの本当は嫌だけど、アイツに勝つために」などという動機でやっていては勝負にすらならない世界の人間がいます。
「色々苦しいこともあるけど、それでもやっぱり俺は数学が好きなんだ」と言うのを態度にも結果にも出しているヤツが学年で一番数学の出来るヤツです。
増田の同級生で一番数学が出来たヤツは在校中に「数学の問題が解けたときの快感はオナニーでイった時に匹敵する」と変態じみたことを語っていました。現在は旧帝大の数学研究室にいるはずです。
アイツは増田みたいな数学が出来ない(母校基準で)人間とはレベルが違います。
中学に入ったばかりの入学者アンケートで定番質問に『女子がいないことについてどう思うか』という質問があり、最大多数の回答は『気楽で良い』です。
いくら勉強が出来たって、小学校卒業したばかりの男子なんてそんなものです。増田自身も、中学に入学した時点では、『人よりテストで点を取るのは得意だけど、普通にジャンプを読み、ドラクエとFFが好きで、好きな女の子の話は出来ない』男子でした。
これが高校入学組になると『寂しい』という回答の方が多くを占め、中学入学組も高校に上がる頃には寂しいとか言っているのですが、今になって思います。『ホモソーシャルで、楽だったなあ』
上で書いた数学の天才がオナニーを比喩に使っているあたりも含めて、女子がいないことで気を使わない部分はあります。ですがメリットもあります。
男女を問わず中学、高校くらいの思春期では『モテ』が過剰に評価され、『アイツは○○は出来るのかも知れないけど見た目がキモいから無理』といった否定を食らうことがあり、
ネットを見ているとその手の『見た目がブスだから男から否定されまくった』『見た目がキモイと女子から言われまくり、自分が通ると女子が勝手に避けていくモーセ現象が発生していた』ような体験談を見ます。
そして、そういうことをされると(もちろん必ずそうなると言いたいわけではありませんが)人格形成にはマイナスの影響が出ることが多いでしょう。
その点、男だけ・女だけの環境ではそういう否定を直接食らうことが圧倒的に少なくなります。進学校に限らず、男子校・女子校が現在でも求められる理由は実のところその辺だと増田は思っています。
コミュニケーションがいつまで経っても出来ないヤツもたまにいますが(心当たり複数)、『コミュニケーション下手だけど、訓練すれば人並みに出来るヤツ』も実は結構いて、そういう人にとってはホモソーシャルで気を使うことの少ない環境はコミュニケーションの訓練に向いてます。
ちなみに自由な学校なので(違)校内恋愛禁止という校則もありません。
先生によると、『校内恋愛で失恋した』という理由で学校休んで旅に出たヤツも昔いたそうです。増田の同級生にもゲイとバイのどちらかはいたらしいです。伝聞ですが。
この前母校に行ったら、恩師が『数学の先生探してるんだけどなあ』と言っていました。
「どんな人が良いんですか」と聞いたら『幾何を専攻したか、そうでなくても幾何のセンスがあって生徒に舐められない先生』と言われました。OBを当たるのが一番手っ取り早いと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20140630075231
これを書いたものだが、なぜ大学で友達ができなかったか今更ながら振り返ってみた。
①「一緒に授業取ろう」を断る
入学式で隣になった女の子にそう誘われたが、取りたい授業もかぶってないし、そもそも通学に二時間かかるため、週休3日にしてしまった
よって人と合わせて授業の相談などできるわけがなく、一緒に授業を受ける予定すらなくなった
授業が始まると熱心に真面目そうな女子に声をかけて期末試験の時にノートを借りる算段をしている男子が何人もいたが、
無論自分は授業は全部出るためそもそもノート友達は必要なかったため、基本的に誰の連絡先をきくこともなかった。
(体育会に入っている人は公休で出られないことも多いし、彼らは学校の看板を背負って頑張っているわけだから、ある程度は協力してあげた。もともと私がスポーツ観戦が好きという贔屓目もあった。おかげでお礼としてチケットをもらったりできた。)
しかし、ノート友達も作らないとなると、アドレス帳は全く持って増えないことになる。
終電さえ間に合えば、何も文句を言われることもなかったのでそれだけは守った。
しかしそうなると家が遠いこともあり、夜十時には大学最寄り駅を出ないと帰れない。
結局二次会の途中でぬけるはめになるのでそうなるとそもそも二次会にすら参加しなくなる。
付き合いも悪くなるし、話も合わなくなってくるので、どんどん疎遠になる。
趣味が旅行だったため、二ヶ月に一回はどこかに出かけていた。そのため、授業に出ていない時は通学時間がもしくはバイトしていた。
バイト先で友達を、と思うかもしれないが、割とドライな職場だったのでそんなことにはならなかった。
結局中学時代の友人も全員同じような状態になっているので、大学で暇している。5人とも大学が近かったので他大の学食でランチしたり、帰りは地元駅で飲んだり(地元なので遅くまで飲んでいても終電で帰れる)と遊んでいる。
結局大学の友人より中学時代の友人と一緒に遊ぶのが当たり前になり、卒業旅行も大学の人とではなく、中学時代の友人とそれとは別に彼氏と行くだけで終わった。
以上の結果、結婚式には大学時代の友人は誰一人呼ばず、自分も誰にも呼ばれず、むしろ電話帳に大学時代の人が一人もいない(教務課が入ってる程度だ)という状態になった。
結婚式の招待リストを作っているときに親に「大学で友達ができないなんて人間失格だし何のために大学に入れたのかわからない」と泣かれてしまったのだが、
そもそもよく「ぼっちだと大学卒業できない」とか言うが、グループワークとかを除いて人と会話しないと単位取れないものなんて無いと思うのだが。
http://anond.hatelabo.jp/20140314233406
http://www.waseda.jp/student/waseda/wf8.html
早稲田は長い間、革マル派が支配していて多くの学部で94年まで定期試験が2年に一度ストライキで中止になって全員が単位をもらってた。
ストライキを無視して試験を始めると活動家と称するおじさんが試験上に入ってきて答案用紙をすべて破っていたのよ。
で、やむを得ずレポートにする教授もいるんだけど、そういう教授のところにはおじさんが5人くらいやってきて何時間も吊し上げにする。
革マル派の要求を拒否した教職員は殴られたり襲われたり盗聴されたり長い間それはそれはひどい目にあってた。
そういう危険な状況だったのでテストはしてもどんな内容でも名前と学籍番号さえ書いてあれば優をつける「全優制」が定着した。
そんな状況を見た学生は勉強などせずサークル活動ばかりしていた。
2年に一度のストライキの年にはすべての単位がもらえるから自動的に卒業になっちゃう。
卒業したくない学生は仲の良い教授のところに行ってわざわざ不可にしてもらってたくらいなんだよ。
かなり無責任で甘えたことを書く。でもこれで最後にするから許してほしい。
学部ではそつなくこなせていたのだけど、卒論前後、そしてこの2年間は研究室に行ったり行かなかったりの繰り返しだった。昔はこんな記事→ http://anond.hatelabo.jp/20130528193711 も書いていた。寝坊したとか風邪引いたとか、なにかのきっかけで学校に行かなくなった。怖くて電話やLINEの呼び出しに応じられなくなった。なにもやる気がなくなって、食器やゴミや洗濯物が溜まる。1日1回出前をとって、食事はそれきりであとはずっと布団の中に籠もりっきり。来客のあった秋以来、食器も出しっ放しのままだ。風呂も洗濯も、週に1度あるかないかなんてときもあった。とりあえず外に出てみても、コンビニて数時間立ち読みして時間をつぶすこともあった。
「するべき」ことは分かっているのに、それをしない。現実から逃げて、できなかったと思いたくなる。自己嫌悪と自己正当化が交互にやってきて、考えることすら億劫になる。
大学にいるときは、そこまで悲観的なことにはならない。ただデスクではネットサーフィンばかりしていたし、課題も先延ばしの末にやっつけになっていった。とれる単位を、期末試験に行かずに落とした。先生とのミーティングが怖くてアドバイスすら訊くのに一苦労し、気がつけば1ヶ月しゃべってないときもあった。
研究にすべてをかけろ、と先生は仰った。だがそれができなかった。なぜか。結局のところ、なんとなく院進を決意したからなのかもしれない。ただ、他の同期にはできて自分にはできないとすれば、それかただ自分がクズだということなんだろうか。期待されてないんだろうなぁとかはたびたび思うが、自業自得なので逆恨みというべきか。
まだ研究室でやり残した仕事はあるはずだが、これからそれを責任をもってやりきる約束はできないし、なにか理由を付けてできなかったと言い張るだろう。それで同期や後輩への負担が増えることはわかっている。けど、その仕事に対するモチベーションが、それだけしかない。ごめん。本当は、すぐにでも面と向かって話すべきなんだろうけど。
医学部の中でのセンター試験ともいえる、「CBT」というテストがある。
で、この試験、どういう位置づけかというと、大学によって違うが、ほぼセンター試験と考えていい。大学の学期末試験などが二次試験である。
では、このCBTどのくらい勉強するのか?
『CBT対策』http://www.gaksyu.com/cbt/
を引用すると、
『クエスチョンバンクは3,300問あるため、一日400~1,000問程度進めれば1ヶ月で2周することができる。その際は、前日の復習をしながら新たな範囲をこなしていくサイクルが効率が良いと思う。1,000問進めるのはかなりきついと思うが、前日の復習500問+新たな範囲500問ならばできないこともない。それでも10時間以上かかってしまうため、連日続けることはお勧めできない。』
信じられるだろうか? 3300問を2周する、1日10時間以上。
そして、これに加えて学期末試験もあるわけだ。
医学部の勉強量に疑問を持つ人は、自分で少しこのクエスチョンバンクをやってみてほしい、異常な量だとわかるから。
(本当のこと言うと、ある程度基礎知識ある+暗記慣れ+暗記をずっと続ける基礎体力+自分の性格にあった学習方法を身に着けている といった様々な要因で医学生はこなせるようになっているということがあるので普通の人が普通に勉強するのとでは効率に圧倒的な差がある)
まじめにやれる奴なら普通にできるだろうけど、まじめにできない奴にはかなり地獄である。6年+卒後数年、地獄をみることになる。(ソースは俺)
止まったら死ぬというような感じ。決して無理ではないが、マラソンを毎日毎日ひたすら続けるきつさがある。
最初のころ、自分は知能指数が高いから大丈夫だろうと思ってまったく勉強しなかった。がしかし、知能指数なんて関係ないのだ。無味乾燥な修行をやりこなすやりこなせないというのはそういうのを超えたレベルの話で、「メンタル管理」「学習計画をこなす体力」「体調管理」「優先順位を考えて行動する」といったどっちかというとビジネススキル的なものの総合力だった。自分ひとりでは勉強できないので友達と一緒にやることで危険を回避する(情弱はマジで死ねる)。頭を使うより時間を使うことが重要なので集中力は捨ててニコニコでも見ながらやる。とか。
そして、周りは本当にできる奴らばかりだ。センターで9割とれといわれたら学年の95%が取れるだろうくらい勉強してくる知的集団である。才能を圧倒的に凌駕する勉強量というのをこの眼で見て驚愕した。漫画ではよく聞く話だが、いざ自分の目の前で何度も何度もそれを見せられると本当にビックリする、ネタじゃなかったのかと。灘、開成、あたりの高校に居たのだが、彼らでもこれほど勉強などしていなかった。
※追記
医者としての自覚が~~とか、そういうもんだろ。と偉そうなことを言う人は、クエスチョンバンクを買って、やりとうしてみてくれw多分無理です。すぐに意味は分かると思いますw
ちなみに、普通の医者って、いわゆる専門書とか言われる厚い本を普通に読んで普通に理解するってのを、何十冊もずーっとやる。ってのをやってます。そのレベルですから、CBTは本当にセンターレベルって話です。
「医学知識は数年で数割のレベルで変わっていく、追いつくのは絶対無理。50代の医者<<<30代の医者 という最新知識、技術の差は覆らない。だから、衰えてしまうのをゆっくりにするには学び続けるしかない。そして学ぶ力は?試験勉強で身に着けるしかない」
ということです。
頭の良さや超絶技巧が必要なものって、いらないんですよ、医学には。そういうのって使える人が少ないしその人が救える患者少ないし。そういうのを凌駕するくらいガンガン医学は整備されてます。残ったのはひたすら努力で身に付く知識や技術ばかりです。
ある種の職業訓練です。医学部は暗記中心だからとか、他学部のほうがクリエイティブとかそういう話ではなく、単純に医学技術の最重要項目として医学には『勉強する技術が必要』って話です。
そして、勉強できるかどうか?ってのは、根性や自覚とかでは決まらない、人智を超えている話です。「まったくマラソンしたことない人が100キロマラソンできますか?」というのに答えなど出せないようなものです。それをいかに続けられるように工夫できるか?ってのがつまり勉強をし続ける技術です。
自分は、『ブラックジャックによろしく』で号泣するタイプではあるんですが、ああいうのは違うと思います。あの作品では「淡々と患者を治療する」ってのが情熱が無いとか言われてますけど、え?淡々と治療するってのには、淡々と技術や知識を身に着け続けて最良の医療を目指すってのも含まれているわけです。むしろあの漫画、研修医の主人公は「勉強しろよ」って思いますわ。唯一認められるのは腸閉塞の手術トレーニングしてたのくらいか。
情熱どうこうでなく、患者のために100キロマラソンし続ける的な。そういう無味乾燥な修行僧的なのが本物じゃねーかなってのは思う。もちろん患者さんに心から尽くすのはやんなきゃいけないんだけどさ。勉強おろそかにして患者中心もなにもねえじゃん。ニーズを理解するのは大切だけど。
自分の思想とか感情とかまともな感覚なんて荒廃するくらい学習し続ける、果てしなく無味乾燥に理性だけで動き続けるっていう、そういうのをないがしろにするようなあの漫画の主人公の気持ちとかって違うなって思いますわ。
「先生はウンコ食べろっていわれたら食べるんですか?」って主人公聞きますけど、「当たり前だろ、食うよ、自分の感情とか感覚とか思考とかどうでもいいよ、それが最良の医療につながるなら何も考えず食うよ」レベルで学習するって当たり前なんですよ。そこに情熱とか関係ないかと。