はてなキーワード: 手段の目的化とは
手段の目的化、なんてなんか悪いことみたいに言いますけど、あれですよ、食なんて完全にそうですからね。俺なんて生きるために食べてるなんて感覚ほとんどなくって、食べるために生きてる感じですよ、毎日。服なんかもそうなんちゃいますのん、特にデザインに凝って機能弱まってるやつなんかの手段と目的の本末転倒感たるや、ねえ。でも文化ってそういうもんでしょ、暇つぶしのための無駄創造が文明であり、本能的手段の目的化が文化ですよ。そもそも人間が生きるための手段に対する「目的」って何なん、って話ですよ。個体の少しでも永い生存?少しでも多く子孫を残すための繁殖?だとしたらその「目的」のためにはモラルが邪魔になってくるんちゃいます? 一生治らん傷を負った同種の生物を、寿命迎えるまで群れで守ってやっていた先史時代にはすでに、人間は個体が生きよ産めよ増えよだけを目的化する生物ではなくなってた思うんです。本能なんて呼び起こそうとしてできるもんでもなく、人間は健康を自ら損なう真似をするし、下手したら自分で死ぬし。もうだからええんですよ、生存への手段を目的化して生きてくのが人間、ってことで。「手段が目的化してるぞ!」って偉そうに責められた時にもちょっと考えてみましょや、あれ?でもこれ楽しくない?って。楽しみがそこに見出せてたんなら、全然オッケーでしょ。
凄いデカイ単位で「手段が目的になってる」という人が結構いるんだけど、それってちゃんと主語が揃ってるのかなと。
「納税という手段が目的になっている」みたいに言われてたりするけど、これを考えた税務署からしたら納税こそがまさに目的そのものなんじゃねえかな。
納税そのものが目的だから、その作業が結果的に日本の国力を下げることになろうが、将来的な納税額を下げようが、直近の納税額さえ伸びれば税務署は仕事の目的を達成したことになると思うんだよな。
少なくとも直近の10年ぐらいを逃げ切ってその間の評価で退職金が決まる税務署トップの人達にとっては。
集団全体で見たときの手段が、それを担当する小さな集団の中では目的そのものになりがちなときにこういうのは起こりやすいんじゃないかな。
コストカット部門にとってコストカットした実績こそが目的だけど、組織にとっての目的は利益を増やすことでコストカットは手段でしかないはずなのに、とかね。
同時に組織の利益追求は投資家にとっては利鞘を得るための手段でしかないから、無理にそれを進めた結果その組織が崩壊しようと彼らはさっさと売り逃げればいいだけと思ってたりする。
そういった生存競争を煽っているのは個々人の消費者の集合体である市場経済なわけで。
そしてまたそういった個人はそれぞれの組織の中でそれぞれの組織目標を達成するための構成員でもあって。
こうやって順繰りに見てくとグルグルとループしているのかなと。
ある集団にとっての手段はそれを達成することを目的とした小さな集団によって行われ、それがある程度小さくなってくると今度はそれらの目的意識がマクロな集合として機能していく流れ。
昨今、SNSなんかで『選挙に行こう』って呼び掛ける人が増えてて、このコロナ禍でもそれは続いてる印象なんだけど『選挙に行く』だけじゃ何の意味も無くないか。
手段の目的化では?
誰に投じるか自分なりに調べて投票して、その後も政治に関心を持ち続けることに意味があると思うんだが。
若者に関心を持たせる取っ掛かりとして、明快でキャッチーな『選挙に行こう』フレーズを使う意図があるなら理解はできるが、呼び掛けてる人らは特にそこまで考えないで発信してそう。
『投票しよう』や『政治に興味持とう』だと具体的過ぎてブランディングに影響及ぼしかねないから、マイルドな『選挙に行こう』表現になってしまうのだろうか
他の犯罪統計をエビデンスとしてる科学論文を例に出して反論してるブクマカに噛み付いてたか?
本来殺人になるはずだったものが自殺に加算されてるって反論には、実際そういう事例がどれくらいあるのか、統計として覆るくらいなのかは気になるって皮肉を言いながらも、実際に統計的にどうかという話には頭から否定してないよね。
【懐疑的】だったブクマカは体感治安とかいう全く当てにならない指標にもならない物を出す(しかも「海外のどこに住んでたときと比べて」などの比較すら無い)か暗数とか言い出す陰謀ガイジばっかりだったろw
馬鹿の懐疑ってのは「馬鹿だからわかんないから違うと思う」って馬鹿丸出しなんだからそこは批判されるべきだろ、馬鹿を甘やかすな。
てか統計って統計することが目的じゃないからな。そんな統計学だったら必要ない。算数でもしてろよ。
なーんかあの「日本は安全だと困る人がいるのはなんでだ!」ってヒスってる奴見てると手段(統計結果)の目的化を感じて気持ち悪いんだよな。
「日本の治安がいいことを認めたくない人々」の元増田が統計をツールとして使って手段の目的化なんかしてないのは批判の内容が統計の無理解に集まってることから明確だよね。
君が「手段(統計結果)の目的化を感じて気持ち悪い」のは君の目的(日本の犯罪率が低いことを否定したい)に対して彼の手段(統計)が覆し難いからじゃないか?
数年おきにコロコロ配置転換を繰り返せば職場の誰も専門的な働き方なんて出来なくなる。
表面的な書類の処理で済む部分までは誤魔化せても、少しでも専門性が要求されるとその道の人間からすれば初歩の部分でも躓く。
その状況を民間企業とベッタリ繋がることで何とか補ってもらっているのが、転勤まみれになった今の官公庁の現状。
業者に金を払えばやってもらえる事であれば、多少ボッタくられはするだろうが(原価調査や契約に関わる人間全員が長くて数年しかその道に関わってないのでチェックすら誰も出来ない言いなり状態なわけだが)、それでも何とか仕事次第は終わる。
問題となるのは会社に依頼せずに自分達で何かをやろうとした場合だ。下っ端は当然素人、課長から上はキャリアとして無軌道に飛び回る門外漢だらけ、主任・係長クラスに「偶然」その仕事の経験があれば何とかなる。
本当にただただその「偶然」頼りである。何故なら「そういう経験があるからこの配置に」という人事が一切行われていないのである。階級と転勤の可否しか見ていない。出来る出来ないはない。あるのは「全国の人員と階級を一致させつつ、とにかく人事異動の回数を稼いで仮初のキャリアを積ませなければいけない」という認識だけ。
物分りのいい人はもうきづいているだろう。典型的な「手段の目的化」である。組織を機能させることが当初の目的でありそこから生まれた手段にすぎなかったものを、いつの間にか目的として認識しその結果、組織がまともに機能しなくなりだしている。
とりあえず転勤させまくればいいという旧態依然としたキャリア感、民間企業であれば事業成績というインセンティブのおかげで少しは改善の機会もあったろうが、官公庁はそうはいかない。ましてや、伝統と階級を重んじてしまっていてはいよいよもって。
最大の問題は、それがこうやって形を成した所で、この程度のことではやり方を変える理由にはならないことだろう。今後もこういう事が積み上がり続け、それがいつかもっと大きな問題に発展しても変わらないだろう。
それが出来るような組織の作り方を根本的にしていないのだから。
国が滅びて始めて変わる。
だから、こういったことに関してはもう諦めよう。諦めて、何割かがドブへと消えると分かっていながら黙ってその分多く税金を収めよう。それしか日本国民には出来ない。間違っても、「俺が変えてやる!」なんて考えて人生を無駄遣いしないことだ。万に一つ、それをやれるだけの力がある人間がいたとして、そんなことにその力を使うのは人類全体で見ても損失でしかないから
面接試験怖い!自分なんかが面接で受かるような会社ってどうせブラックでしょ?
そうだ!公務員試験を受けて学力で一度ふるいにかけられてから試験の成績で泊をつけて勝負すれば俺だってまともな仕事にありつけるぞ!
↑こういう事を考えて公務員試験を受けようとしている・受けてしまった適応障害の皆さん、残念ですが絶対にやめたほうがいいですこれは大間違いです。
1 手段の目的化が起こっている組織ですので、「手段(職場の村ルール)を事なかれ主義と前例周到(ただしルールが突然変わる)でやりきる」事が最終目標となります。
これが意味しているのは目的から手段を逆算することが不可能であることです。そして手段が目的を達成するために効率のいい方法となっていない事も多いです。目的が達成できても手段が予定通りでなければ叱られます。つまり「他人が指定したやり方に対して疑問を持っていもそれを封じ込んで、何でそうなっているのかも分からないルールを身につける過程で何度も理不尽な叱責を受ける」という事です。これを聞いて平気だというのなら、そういう人は公務員試験を受けるべきかも知れないですが、それがただの想像力の不足から来ている可能性を考慮して一度じっくり紙に描いて事細かに状況をイメージする事をおすすめします。
公務員という言葉を聞いて黙々と作業をしている姿を想像する人もいるでしょうが、実際は口を物凄く動かすことになる仕事です。役所の受付に回されれば様々な濃ゆい人達の相手をすることになります。事務室の奥に引きこもって働く場合でも、村ルールで動きまくっている上に何がやりたいのか分からん事ばかりしている職場においては「これってどういう意味で作られたどういう書類で、我々はどういう処理をする必要があるのですか?」という質問を頻繁にする必要がありますし、自分がその仲介役となって何重にも積み上がった伝言ゲームを完成させる必要が出てきます。そこで求められるコミュニケーション能力は面接試験が可愛く見えるほどです
3 案外実力主義です(鋼鉄の心臓があるなら別ですがあるのならばこの増田の1行目みたいな事は言わないはずです)
使えなーいオッサンもいますが使えなーいオッサンに対する当たりのキツさは尋常じゃないです。本当に容赦なく悪口が飛び交います。そして、一度使えないレッテルを貼られるとポジションを組織内で盥回しにされてしまうので年相応の能力が身につく機会は失われて何の強みもないゼネラリストの完全失敗作となり更に辛い思いをするループに入ります。クビにならないだけマシというのは事実ですが、同時にクビになる事がまず無いのですから一度「自分は本当にここに居ていいのか」と考えだしたら完全にドツボです。
とにかく他の会社で役立つような能力は身につきません。「どっかのお役所のよく分からんルールのごく一部に精通している」以外の能力が身につく機会が本当にないです。ビジネスマナーと電話対応の仕方ぐらいは覚えられるかも知れませんがそれが精一杯でしょう。よって公務員でいるのが辛くなって就活市場に居場所を求めてもまず上手くいかないでしょう。また、先程言ったように公務員はまずクビにならないので、それを辞めて出てきたという事はそれ相応に馴染めなかったのだというレッテルが付き纏います。どうせクビにならないならちょっと我慢して様子を見れば案外自分にあった職場だと思えたかもよと言われるのは確実でしょう。それに対する受け答えに求められる内容は、他の企業から転職した人間よりもずっと強いものとなります。
5 コンプライアンスを重視せよ(コンプライアンスを重視するとは言ってない)
最近は民間企業もコンプライアンスに非常にうるさくなってきてますが、公務員は昔からコンプライアンスにうるさかった事もあり今でも他より一段階はうるさいです。そして、同時に、コンプライアンスにうるさいはずなのにそれを平気で破ってきたことで生まれたどうしようもない空気の濃度も他より2段階はキツいです。コンプライアンスを大事にしましょうと言った舌の根も乾かぬうちにコンプライアンスなんて守ってたら仕事は出来ねえと平気で言います。書類に判子をもらって村社会ルールの中で自分の仕事を終える過程において、かなりの確率で「これはコンプライアンス違反なのでは?」と疑問符を浮かべながらも、「でも書類を通すことの方が優先順位は高いから」とその考えを飲み込みます。ときにはそんなのやらなくてもいいような状況でわざわざコンプライアンスを破りに行くような行為をしていく職員もいます。とにかく村社会的な空気の濃度が濃すぎて一個人や一集団では既に抗えない状況になっており、全員がそれに操られて自分からコンプライアンスをぶっ壊して回っているような状態なのです。そうでありながら同時に、「それはコンプライアンス違反じゃない?大丈夫?」と他人の仕事に口を出し、その対案として別の形でのコンプライアンス違反を行おうとします。矛盾の塊どころの騒ぎでない拗れっぷりです。
さて、社会適応能力に問題のある皆さん、こんな同調圧力と社会不正義と自己矛盾と八方塞がりのサラダボウルに飛び込む勇気はお有りで?
というかですね。
自分はこれからどうやってここから脱出すればいいんでしょうかね。
部署が変わるたびに石の上にも三年の精神で耐えるだけ耐えてから結論を出そうと先送りを続けているうちに結構な年齢になってしまったんですが、いい加減メンタルが限界に来てます……
マジでやめとけお前ら。
なんだろうこの文章。
読む相手のことを考えてない気配がするのだが、それがどこに原因が有るのかハッキリしない。
多分だけど、「他人はお前が重要だと思っていることに、お前ほどには興味がない。皆が興味のある所にちゃんとフォーカスしろ」って事なんだろうな。
小さいころからテスト勉強というものの意味を理解していなかった。なんでこんなことをしなければならないのだろう、ペーパーの点数が取れたところでそれが実際に使えるかどうかとはまた別の話であるのに、と。
もちろん学力のある学生にありがちな、勉強をゲームとして楽しむという姿勢はそこそこあったのだが(だからこそ今の大学にいるのだから、そこは感謝しなければならない)、中学生ぐらいの頃にはゲームに飽きてしまっていた。
今では、テストが客観性を最大限に取り入れる制度の賜物であることは充分に理解しているのだが(コミュニケーションスキルだとか、仕事をしていく面ではすごく重要視される能力が見られないのはいかがなものか、とは思うのだけど、なんとか上手く潜り抜けた側としては『ありがどうございます』)、今ですらなお、医師国家試験だの期末試験だの、試験に追われる日々なので、うんざりしてしまう毎日だ。
母親が教育ママだったおかげで、変な中高一貫校に入学することになり、一部の奇抜な天才達と六年間を過ごして、物を批判的に見るという目つきだけは養われた。おかげさまで色んな人の自慢/考えを聞いていると、『なんかこれは違うな』とか『なんなんだよそれは』という疑念が、浮かんでくるようになった。
2016年はこれに凄まじく苦しめられた1年だった。自分の考えにすら『お前それは違うだろ』『お前のその姿勢が自分を苦しめているんだぞ』と、そういう考えがポンポン浮かんでくるからだ。
『圧倒的成長』というものがある。あれって、なんなのだろう、と思っていた。もちろん、僕だけでなく数多の人が『圧倒的成長』には疑問を感じているのだろうけど、『意識高い系は馬鹿である』という前提をなくしても、かなり多くの人が疑問を抱くはずだ。『出る杭は打たれる』という、成長志向の者を叩き潰そうとする圧力をも取り払ったとしても、多分疑問は残ると思う。
では、疑問はどこにあるのか。僕がいろいろと見るに、彼らの姿勢には、『圧倒的成長をするのは誰のため?』というのが、基本的に抜けてしまっている。
もちろん、常日頃から自身の肉体の強化に励むスポーツ選手のように自身の頭脳とスキルの強化に励むのはいいことではあり、それ自体推奨すべきことではある(そこから始まるものだっていくつもある)。けれども、『手段の目的化』が起きてしまっていて、そこで身に付けたものを何か役に立てないと意味がないんだよ、ということを重要視したい。かのスポーツ選手ですら、テレビでその輝かしい肉体を見せることで少年少女に夢を与えていることを忘れてはならない。
もちろん『勉強で勝つこと』を目的とするのならそれはそれで良いんだけど、もっと選ぶものがあるだろうに……笑
自分の大学における二年間を振り返れば、それはまさに、自分の基準に当てはめるとするならば、『意識高い系』に違いない、と今は断言する。自分は手段を知らなかった/手段がそこにはなかったのだから、そして、失敗に怯えていたのだから。
能力の向上にひたすら執着した二年間だったし、実際向上したのだけれど、ただただ苦しかった。もちろん、ハードワークを強いられるので、その辛さからくるものもあっただろうけど、どちらかというと、大手を振って歩けない、あるいは、お天道様を見られない、そういうものがあった。背徳感というか、なんというか、『自分は正しいことをしていないよな』、そういう感覚と常に背中合わせだった。
もし。似たような感覚を抱いている人がいて、それでなおかつ、『努力したい』という考えがこころの底にある人がいるならば、『誰かのため』という視点を自分の中に入れてみると良いと思う。この考え方がまだ自分の中にスーッと入ってこないなら、あなたはまだまだ苦しむべきだし、もし、この考え方がスーッと入ってくるなら、僕はそれをなによりも喜ぶと思う。
なんだか、纏まりの無い文章になってしまったけれど、意識高い系の人とか、意識高い人とか、成長を心の底から望む人に贈ります。
http://qiita.com/secret_hamuhamu/items/718924867ff3ed11d6b9
http://b.hatena.ne.jp/entry/qiita.com/secret_hamuhamu/items/718924867ff3ed11d6b9
を読んで,少し暗澹たる気分になったので書く。
元記事の「起票(運用)」に書かれているのは,人に仕事を依頼する上では割と当たり前のことだと思う。
例えば,「背景」がなければ,なぜその問い合わせが発生したのか/なぜ回答しなければいけないのかがわからない。自分は特に「理由」厨なので,「なぜ」がわからないのは論外だと思っている。自分でチケット切って自分で作業する時ですら「背景」は書く。そうしないと,チームの他の人がチケットを見た時「こいつ何でこんなことやってるんだ(この忙しい時に)」と思われる可能性だってある。背景を書くことで,自分の中の優先順位を確認することもできる。
「リスク」は,なぜこのチケットを処理しなければいけないか/どれくらい優先してやるべきかという価値を共有するための一つの手段だろう。背景だけだと認識ズレがおきる可能性があるので,それを避けるためのものだ。認識合わせためのコミュニケーションのきっかけくらいの位置づけだと思うので,その見積もりが間違ってても(非常識なものでない限り)責められることはないだろう。
次の「事象の確認&再現手順」は,障害対応やったことのある人ならほぼ必須であることはわかるだろうと思うので以下略。
「すぐに対応可能できるか」は,個人的には「リスク」とまとめてもいい気がするが,このチームでは優先順位と緊急度を分けて考えているのだろうという理解はできる。
「過去の同様チケットへの参照」は,optionalだが,書いておけば双方にメリットがあるのだから,思い当たる節があれば書けばいい。Optionalなのだから書かなくても責められない。
「背景」を書く=コンテキストの共有 である。チームで仕事を進めるにあたって,コンテキストの共有が極めて重要であることは,それができていないお偉いさんに仕事をぶち壊された経験がある人なら,よくわかるだろう。
先にも書いた通り,自分は理由厨なので,「背景」のないチケットなどあり得ないと考えている。むしろそんなチケット今までどうやって処理してたのだろうと疑問に思うくらいだ。
「背景」の記述がなければ,このチケットがどれくらい重要なのかわからない。
「背景」が書いてあれば,例えば,
【背景】
顧客の□□社から,標題の件で問い合わせがありました。社内体制の変更により,△△が必要になりそうなので,可否を至急教えて欲しいとのことです。
というのと,
【背景】
1つは,これが「お客様神様主義」の変形ではないかと感じたからだ。
いわゆるIT業界では,よく「要件定義のできないクライアント」が批判される。そして,そんな顧客の曖昧な要求に対してナァナァで対応する営業や管理職が批判される。
運用から開発への問い合わせチケットも,仕事の依頼という点では同じである。
顧客は仕事の依頼と引き換えに金を払っているし,ITに関しては(他社に依頼するくらいだから)ある程度素人だが,運用から開発であれば,たいていの場合は同一社内で金が動くわけでもないし,しかも双方プロなんだから,むしろもっと厳しくてもいいくらいだと思う。
なのに http://qiita.com/secret_hamuhamu/items/718924867ff3ed11d6b9 程度のルールを作っただけで批判するのは,要件定義のできないクライアントを擁護するのと同じではないかと思う。
ブコメに多い(しかもスターを集めている)のが,この種のルールによって「チケットの数が減る」「Redmineが使われなくなる」という声だ。
だが考えてみてほしい。Redmineを使うことが目的なのではない。Redmineを使って仕事を効率的に進めるのが目的なのだ。仕事が効率化するなら,チケットが減ろうがRedmineの使用頻度が落ちようが本質的には問題ではない。
(もちろん,Redmineが全く使われなくなってしまうのであれば本末転倒だが。)
そもそも実際にチケットが減ったりRedmineの使用頻度が落ちたりしたのかは元記事には書いていないので,事実はわからない。もしかしたら,この施策によって,運用側でもチケット化するメリットがはっきりして,今までチケットを使ってなかった人(実際元記事には「Redmine使いにくい」という声が書かれていた)が使うようになった可能性だってある。
何か「Redmineでチケット管理」というとそれ自体を目的にしたようなコメントが(この記事以外でも)しばしば見られるような印象があるので気になった。
「問い合わせの削減」というと,サポートやったことがある人ならわかると思うが,ドキュメント,特にFAQの充実が定番である。
今回の記事のチームでも,当然そういう努力は別途行うべきだろう。
(その辺を全く書いていなかったのが,ブコメでの批判につながった可能性はありそう。)
しかし,チケットを使って問い合わせを行うのは仕事の効率化が目的であり,そのためには(依頼する側もプロなんだから)ある程度仕事の依頼=チケットの起票をルールに則ってやることはごく当たり前のことだと思う。