富士山を登頂した者がいても、エベレストを登頂した者がいれば、前者が登山を語ることに疑問を抱く者が出てくる。
もちろん、相対的に素晴らしいものを認めることができる人間もいるがそれは少数派だ。
インターネットの普及で上位数パーセントの整った容姿を持つ人間を多く見ることができるようになった。
実際の割合というのは昔と大差ないはずだが、美形な人間が増えているかのように錯覚させる。
昔だったら美形だったはずの人間もブサイクのように扱われ、昔ながらのブサイクは嘲笑の対象になっている。
そんなセリフで笑いをとることに疑問を感じなくなっている。文化とうオールマイティーな免罪符を使えば誰も咎められない。
人種や病気、障害者などへの差別撤廃を叫ぶ一方で、変えることのできない、できても整形手術と相性のよい一握り人間のみしか変えることのできない新たな階級を形成しつつある。
求める要求が高くなり、その種類が多くなるほど人の心に余裕がなくなる。
「期末試験で科目数と難易度が去年の2倍になりました。それは進学に影響を与えます。」
それが現在の息苦しい世の中を形成している大きな要因の1つにもなっている。
美人でも整形手術を繰り返したり、その日の顔のむくみに一喜一憂している世の中はいい世の中だろうか。
自分の能力と要求が大きく乖離している場合はどうなるだろうか。
中学生の段階で、高校3年生の学力を要求されたら逆にやる気をなくす人間も出てくるだろう。
どうでもよくなるのだ。
たとえ何かを達成しても、容姿というパラメータ一つで尊厳は奪われてしまう。
社会からドロップアウトしてしまう人や無気力な人間を生産しているのはこの雰囲気によるところも大きいと推測する。
時にそんな社会を恨み、それがいきすぎて犯罪に至る者が出てくることも想像できる。
こういう雰囲気を解消するにはどうするべきだろうか。
テレビのバラエティなどでブサイクを貶めて笑いにすることは許容されている。
製作者からすればただのショーであり、仕事をこなしているだけだろうが、
文化を形成するのに多大な影響を与えていることは紛れもない事実だ。
また、美に関して順位をつけ、不安を煽る方が刺激的で、注目を集めやすい。
視聴率や企業の利益を考えると、それを自主的に止めることは難しいだろう。
みんながこの閉塞感の蔓延した社会を解消するように訴えるしかないのだ。
これを見て共感してくれた人は、その主張を広めていってほしい。
はじめは負け犬の遠吠え、ダサいやつらのやっかみだ、と思われるだろうが、
だって、人の意印象は見た目で90%くらい決まるんだもん…。
これの最終帰着って自分がそう思ってるって部分だよな
学生のうちは確かにその通りだと思う。 でも、大人になったらそうでもな…いこともないわ。 恋愛においてはそうだわ。