はてなキーワード: 期末試験とは
大学(私立理系)の各講義を受けた感想を、ランキング形式で発表します。講義名などは伏せます。
資料配布だけの形式にも関わらず、授業時間内にしか資料を配布しない講義
オンラインの良さの一つ「学生主体で自由な時間に学べる」を台無しにしていますね。教諭の意図としては、授業時間の間に学習してもらいたいのでしょう。ただ、そもそも講義をzoomでやるわけでもないのでこんな縛りは全く必要ないです。
この講義には次週までの課題があるのですが、授業資料を紛失してしまった時は、Google検索して出てくる他大学の講義資料に助けられました。名古屋大学、ありがとう!
私は悲しいです、このような講義が生まれてしまったことが。教諭いわく「自主学習の練習」だそうです。(3位の授業だけでも十分自主学習では?)
「練習」だけあって質問すれば丁寧に答えてくれるので、そこは''唯一''評価できる点です。しかし質問は他の講義でも答えてくれるので、自ずとこの順位になりました。
授業日にやってしまえと言われればそれで済む話なのですが、他の講義との兼ね合いでそれができないときにはこの管理のしづらさが牙を向きます。
これも上記と同じで管理のしづらさがあります。ただ、ほとんどの大学はポータルのUIが非常にわかりにくいです。担当教諭がインターフェースの授業も担当しているので、この使い勝手の悪さに耐えられなかったのかと憶測しています。
この講義は第2位の発展型(むしろ衰退型)です、ただ教諭は別の人です。
最も恐ろしいのが、この講義が自己啓発系の講義ではなく、理系の専門講義だということです。ありえないね。
(ちなみにこの講義では、期末試験にキッズラインのようなYouTube動画を見せられました、草)
授業料は低下していないにも関わらず、授業の質だけが落とされた授業も多く感じました。教授が慣れていないというのは言い訳にしかなりません。また、授業の質の低下は大学の価値の低下を意味します。これを防ぐため、大学運営側も教諭をサポートするべきです。
中学まで一切勉強しなくても地方の地元の公立学校ならトップクラスの成績が取れて、調子づいて県下一、二を争う進学校に入ったらみるみるうちに落ちぶれ、それまで地頭でどうにでもなった経験に加えて学習習慣など一切確立していなかったことから一向に勉強せず、高3のあるとき学校へ行くのがたまらなく億劫になり欠席を重ねた結果中退して母親を泣かせ、通信制高校へ編入してどうにか高卒にはなるものの大学受験は散々な結果で浪人、しかしやはりろくに勉強せず、それでも模試では稀にまぐれ当たりの良い成績が出るので予備校の担任と親への最低限の面目は保ち、一浪の末どうにか中堅公立大学に滑り込みで合格、ところが一人暮らしを始めた大学では今まで以上に怠けるので1年次で修得できた単位は30にも満たず、2年前期の期末試験を明日に控えながら半年以上片付けられていないゴミ溜めのような部屋でこれを書いている。人生間違えた。死にたい。死ぬのは怖いので死にたくないけど今の部屋を引き払って学歴も労働も一切求められない全く別な環境で全く別な人間として生きたい。
あんなあ
「統計学」を使って男女差を解析するのは「統計学」とは言わんのやで
統計学の講義をとったとするやろ?期末試験に出てくるのは、男女差か?女の子がピンク色を好む傾向があるようでーす、か?ちゃうやろ
試験に出るのは統計処理の方法やろ。検定はどれを使いますかー、とかそんなんやろ。
授業で例として男女差なんかを使うのかもしれんが、それは統計学ちゃうで
日本人とアメリカ人とか、試薬Aと試薬Bとか、マウスのオスとメスを授業で扱ったら
経済学でも、心理学でも、医学でも、工学でも、生物学でも化学でも統計学は使うで。
統計学は科学の基本や。データを集める。データを統計処理する。データから考察する。科学は再現性が命やから、主観でズレが出ないように数字を使う。
経済学の統計じゃ、消費行動の男女差を扱うかも知れへんし、医学の統計じゃ、大腸ガン罹患率の男女差を扱うかも知れへんけど、それは統計学じゃないんや?わかるか?
こんな、手に負えない馬鹿はワイは初めて見たわ……
君は統計学の何を習ったんや……
今年の大学1年生はかなり不運だ。自制心のない一人暮らしの学生は一瞬で堕落する。
月曜4限。1つ切って全休になるので迷わず切った。まともに話を聞いたのは初回のみ。ふと気が向いた日には授業に出るが今となっては何の話をしているのか全く分からない。
火曜1限。眠い。欠席3。
火曜3限。昼飯後なので眠い。欠席3。
水曜1限。眠い。欠席4。
水曜2限。目は覚めたがオンライン麻雀が楽しいので聞き流している。欠席4。
水曜3限。まともに話を聞いたのは初回のみ。
水曜4限。これで今日の授業終わりだと思うと身が入らない。そのくせ授業後には今日は4コマよく頑張ったという気持ちになる。自分でも意味がわからない。
木曜1限。眠い。初回の授業で出席は取らないと言われたので出ていない。課題も出していないがレジュメ見て期末試験をどうにかすれば単位は来るんじゃないかと甘えた考えをまだ捨てていない。
木曜2限。退屈。欠席3。
木曜5限。昼寝の後だと授業に出る気が失せる。欠席4。
金曜1限。予習の内容を授業で指名されて答えるという連絡を受けたので一度も授業に出ていない。
金曜2限。講師がレジュメを読むだけで退屈なので聞き流している。欠席3。
金曜5限。初回しか出ていない。
例年通りの対面授業なら堕落しなかったかと言われると自信を持って首を縦に振ることはできない。が、オンライン授業だと授業への義務感が幾分か損なわれるというのは実感として確かにあって、その上毎日自室のベッドの上で寝起きしそのままベッドの上に座ってパソコンを開き惣菜パンを齧りながら授業を聞き、外出は最寄りのコンビニとの往復だけ、娯楽はインターネットだけの大学生活がどんなに味気ないか。2時間3時間と授業を受けるといい加減疲れてきた目を閉じたくなる。心地よい睡眠に身を任せたくなる。実際任せてみて気付いたときには今期の履修の半分以上が落単の危機で笑えない。地元から東京へ送り出してもらった両親に申し訳が立たない。学生の保証人には成績が郵送されるので、どう言い訳しようかと考えると今から夜も眠れない。
第一志望ではないにせよ希望する学科へ国公立後期試験をくぐり抜け合格を勝ち取った。去年一年間夢見てきた大学生活は、入学後4ヶ月経った今もまだ夢のままである。GoTo なんとかとかいうキャンペーン貼るぐらいなら大学に行かせろ。大学生が登校禁止なら生活インフラに係るとかのごく一部の職種を除いて社会人も出社禁止にしろ。クソッタレめ
そういえばオンライン授業に対して義務感を感じないのは授業時間内に提出しなければならないような課題がないからかもしれない。大抵の場合は次週の授業までが締め切りになっているのでそれまでにレジュメ見直せば授業は聞かなくても良いなという気持ちになる気がする。
午前7時、憂鬱な1日が始まった。制服に袖を通し、身だしなみを整える。食卓に並べられた朝食は今日も湯気を立てているが、手をつける気にはなれない。このあとに起こることを考えるだけで吐き気がし、冷や汗が出る。心拍数は上がり、惨めで、恥ずかしく、母の顔が見られない。しかし学校を休むわけには行かない。もうすぐ期末試験だ。
あいつは毎日あらわれる。いつもの電車に同じ駅から乗り込む。時間をずらしても待ち伏せされる。そもそも学校に行くのにずらせる時間なんてたかが知れている。体を触られるようになって、もう半年ほどになる。
「電車で股の間を触られる」なんて、恥ずかしくて親にも友達にも先生にも言えない。自意識過剰かもしれないけど、被害者ヅラとか、自慢とか思われそうで怖い。声を出せない自分の弱さも気持ち悪い。でも怖い。みんな当たり前のように学校に来て、笑って、帰っていく。それと比べて、自分はすごく汚い。知らない誰かに毎日体を触られている。
「親は子供に勉強させる」というのは今も昔も親にとっての共通の課題であるように感じる。それはなぜだろう。
物事を極端に単純化してみれば「生物の至上命題は生物を絶やさないことである」と捉えることもできる。そのためには生命現象を停止させることができる様々な脅威への対策が必要になる。生物の長い歴史の中で脅威への対策は「多様性」だった。いろんな脅威に対応できるいろんな個体がいれば、そのうちのいくつかは生き残り、また多様性を生み出して新たな脅威に備える。適者生存による自然選択である。
人類はある種この「生物の多様化」というトレンドの極端な例外であると言える。なぜならば、人類は高い「知能」を使って脅威を事前に発見し、回避する術を手に入れたから。これまでは平たく言ってしまえば「数撃ちゃ当たる」的なスタンスで脅威に立ち向かってきた生物は自ら脅威を取り除くことができるようになった。つまり人類の最大の武器は「知能」あるいは「知性」であり、これを最大化することが生存の最適戦略であるというのは納得できる話で、故に「親が子供に勉強させたい」というのはごく自然な欲求であるように感じる。
では「勉強とはなにか」ということを真面目に考察する必要があるわけだが、現代の日本人が「勉強」という単語を聞いて想起するのはそれこそいわゆる「勉強」であるように思う。それは義務教育の小中学校で行う、教師から生徒への一方的な知識の詰め込みだ。このやり方は一見効率はいいし、それらの知識を体得することで未来が明るいことが(実際にはそうでなく集団幻覚としてであっても)約束されている場合には子どもたちも「やる気」にはなるとも思える。しかし、現代においてそれは成り立たない。世界の裏側の(厳密には世界の裏側は海である確率が高いが)人たちの様子が光の速度で伝わってくるレベルに地球全体が高度に繋がった時代では最適戦略も変わって来る。
どういうことか。人類の知性が想定しうる脅威は急速に個人の力で対策できるものではなくなっていったのだ。社会を形成した人類は一つの脅威に立ち向かうために複数人で協調して脅威に立ち向かうことを余儀なくされ、今では数百や数千人を動員する必要があるプロジェクトがざらにある。たとえばがん研究に携わっている人間の数は見積もることすらできるかどうかわからない。研究のためのデータを提供する勇敢な患者さんや一線で活躍するために琢磨する学生たちも含めればゆうに万の桁を超えるだろう。そんな環境の中で生き残るためにはどうすればいいのか、「成功するというのは一体どういうことなのか」についてもっと真剣に考えた方がいいのではないかと思うことがある。
成功を定義できない親が「成功のために勉強しろ」と宣うのはちゃんちゃらおかしいのではないだろうか。そもそも小中学生の親程度の年齢で自分の人生が、あるいは自分の人生観が導いた結論としての成功の定義が、本当に子供にとっての「成功」なのだろうか。まもなく30に差し掛かる私は統計的にはあと50年ほどの時間が残されている。今子供を産んだらその子が小中学生になっている頃に私は40前後の計算になる。そこまできてようやく人生の折り返し地点。終身雇用だったとして退職まで残り25年。それまで勤めている会社があるのかどうか、国があるのかどうか、自分の生き死にすら保証されない中で、成功を定義付けて恐らくは自分より未来を生きる子供に押し付けていいのだろうか。どんなに私ががんばっても遠い国の主宰がボタンを一つ押しただけで、私達の知る世界は消えてしまうのかもしれないのに。
では私はどう思うのか。私は一番大事なことは「勉強がしたい、あるいはしないといけないと自覚した時に、それを全力でサポートできること」だと思う。一口に「勉強」と言っても色々ある。私はずっと科学が大好きで、アメリカの優秀な中学校で表彰される程度には科学に関するあらゆる知識を吸収する探究心があった。でも逆に、いわゆる「文化系」の科目は大の苦手、というか大嫌いだった。国語、歴史、地理、こういった科目には一切の興味がなかったし常に成績が悪かった。きっとそういう人は多いんじゃないだろうかと思う。学校で教えている教科でなくてもいい。たとえばスポーツだって勉強だ。見ている分には非常に単純なマラソンにだって勉強しなくてはならないことがたくさんある。その証拠に私はマラソンでより早く走るために何を勉強したらいいのかすらわからない:まずそこから勉強しなくてはならない。
ゲームだってそうだ。私が一時期ものすごくハマっていたリーグ・オブ・レジェンドは勉強しなくてはならないことが山ほどある。キャラクター、武器、そしてゲームプレイに影響を与える様々なギミックの数値を知り、それを最適に組み合わせて実行に移さなくてはいけない。私はこういったことが得意だったので、最初は上達が早かった。でも次第に自分の才能(熱心に取り組んで考えて成長する力)が足りないことに気がついた。世の中には私よりはるかに上手にこれをこなすことができる人たちが存在する。そしておよそ5年間、毎日数時間とのめり込んできたゲームをある日突然全然遊ばなくなった。せいぜい数週間に一度、まとまって友人たちとわいわいとやるくらいになった。そして私はいわゆる「勉強」を始めた。それまで大学を通してやってきたプログラミングに割く時間が圧倒的に増えた。この時私は周りから「ゲームをしろ!」だなんて言われなかった。だからすんなりと離れることができた。
最後に一つ、個人的なエピソードについて語りたい。私は高校二年生最初の学期の時に物理で赤点を取った。当然両親には怒られた。しかし次の学期には期末試験で学年二位の点数を取った。なぜか?当然、両親に怒られたからではない。自分が好きだと自負していた物理という科目で赤点を取ったのが悔しかったからだ。私は自分の勉強方法を見直して、物理という科目への向き合い方を徹底的に変えた。その結果、ものの数ヶ月で私は学年トップを争えるようになったのだ。実際にはクラスの進度に歩調をあわせていたのでもっと早くその域に達していたのだと思う。その経験から私は「何かをしたいと、本当に、心の底から思うのなら、それはきっとできる」と信じるようになった。だから逆に、焦っても仕方がないのだとも思うようになった。勉強というのはそういうものなんだろうと、私は思っている。
もちろん、これもまた私が個人的に経験した一つの成功体験でしかない。これが普遍的な真実であるとは思わない。残念なのはそのことに気がついたのは私が指導してきた数人の後輩たちを凹ませてしまったあとだったことだ。私は、こういう原則でいるがために、完全に自主性に任せて「できない」ことを「やらない」ことだと決めつけていた。実際には取り組むための「きっかけ」が必要なんだという基本的なことにすら気づかずに。自主性に任せてどんどんと探求する意欲を芽生えさせるためにどうしてあげたらいいのか、私にはまだわからないし、あるいはそうすることが本当にいいことなのかどうかもわからない。だから私は現時点で子供を産んで育てるということをしようとは思っていない。でももし、また誰かが私に学びたいと申し出てきたのであれば、それがプログラミングだろうとゲームだろうと、私はその人がやりたいことに熱中できるようになるきっかけを探す努力をできるようになりたいと思っている。
一般論を書く.
まず,卒業に必要な単位数は125単位前後.これは大学設置基準で定められている.ただし,必修や選択必修があるから何でもいいので125単位揃えればいいというわけでもない.卒業単位として認定されない科目もある.
次に,1年間に履修上限は単位は45単位前後.ただし,成績優秀者や3年次編入者は55単位くらいまで緩和されたりする.あと教職科目はこの制限から外れる.つまり,1~3年次は上限いっばいまで履修登録をして単位を認定していっていれば4年次はほとんど単位を修得しなくてもよい.体感的には8割くらいの大学生は3年次前期終了頃までには4年次開講の必修単位以外は習得し終え,就活や卒論に専念する.なお,この上限は授業時間と同じだけの予習・復習が必要となるような授業設計をするという大学設置基準から算出されたものだが(90分の授業は毎回180分の授業外学修を求める),完全に建前であり,しっかり取り組めば授業外学修が要らない科目は多い
高専とかならまだしも,日本の大学は留年をさせたくないのでまともに出席してれば単位,特に必修単位を落とすことはない.なんとか長クラスで厳しい人であれば落としまくることはありうるが,普通内規で単位不認定は1割程度に留めることという努力義務がある.特に4年生,かつ後期に対しては色々配慮をしなければならない.ただし,3分の1以上欠席をするとほぼ問答無用で単位不認定になる.あとシラバスに書いてあることをやってくれない場合も単位は認定出来ない.レポート出さないとか期末試験に来ないとか
最後に,発達障害持ちの学生は,大学が把握している限り,担当教員に内密にお手紙が来て合理的配慮をすることが求められる.しかし,率直に言って大学教員の中にはそこら辺への理解が非常に浅い人も相当多いので何とも言えない.
単位が欲しい人向け
・とにかく履修登録はする.また上限いっぱいする.特に必修科目は後回しにせず標準履修年次に履修する
・遅刻欠席内職睡眠はせず,ノートを取る.わからないことがあれば授業終わりにでも質問する.オフィスアワーまで利用すればさらに確実.朝起きられない?そのまま社会人になるときついよ
・必ず欠席連絡をする.もし休んだ場合は知り合いに話を聞くか担当教員に相談する
・評価基準はシラバスに書いてあるのでシラバスをよく読む.レポート15回とかが嫌なら最初から避ける.レポートは持ち込み可相談可制限時間数週間の試験のようなものなので期末試験よりレポートの方が楽
・単位不認定停学除籍などのペナルティがあるので剽窃などの不正行為は絶対にやらない
・教員は基本単位を認定したくてたまらない(落としても来年の受講生が増えるだけ)ので,なにがシラバスの到達目標を押さえたレポートを提出するなどをすれば単位は認定してくれる.一方でほとんど意味が無いどころか逆効果なので担当教員に単位くれとか言わない.そんなことするくらいならレボート頑張るなりして
昔からお腹が弱く、今思えば物心ついた時から過敏性腸症候群だったのではないかと思う。
小さい頃、小学校5年生くらいまで外食をするのが怖かった。なぜなら落ち着いてトイレへ行けないから。
昔から(2.3歳の頃から)便秘と下痢を繰り返し、お腹を壊すとなると1時間以上はトイレで苦しんでいた。
もし出先でお腹が痛くなったらどうしよう、という不安が余計に腹痛を煽る。お店へ着くや否やトイレへ駆け込み、一回の外食で3.4回はトイレへこもっていた。(だが、そういう時はお腹は痛くなるのに便は全く出ない)
トイレへ行くたび両親からはまたか、大人しくしろと怒られる。それも相まってさらに私のお腹は痛くなるばかりだった。
だが、小学六年生位からは親へ口答えもできるようになったり、自律神経が整ったのか外食へ出かけても腹痛を起こすことがほとんどなくなった。相変わらず便秘と下痢は繰り返していたが、昔ほど酷くはなくなった。
ある授業を受けている時、突然強烈な腹痛が私を襲った。我慢しようとしたがシャーペンを握る手が汗でビチャビチャになりノートが濡れた。これはやばいと思い恥を忍んでトイレへ向かった。
だが、トイレへ向かっている途中で腹痛はすっと治った。
あれ?と思い再度教室へ戻り席へついた瞬間また猛烈な腹痛。
全身尋常じゃない汗が流れた。少しでも気を緩めば屁も身もでる、全身をガッチガチに硬直させ奥歯が割れるほど食いしばった。
だが、十数分も待たずして再度トイレへ。またしても廊下を歩いている途中で嘘みたいに便意がなくなっていく。
幸い、卒業間近だったこともあり登校日も少なくなっていたのだが、試練は終わらない。
友人とバスで出かけようものなら1人だけ途中離脱。親と車に乗ってどこかへ行くこともできない。静かな場所や人が大勢いてなおかつトイレはすぐ行けない場所や密室にいると強烈な腹痛に襲われた。
そのくせトイレへ向かう途中やトイレに座った途端すっと腹痛が何処かへいってしまう。
ご飯を食べなくなり下剤を多用した。整腸剤も飲みまくった。
出すもの出せば仮にお腹が痛くなってもでるものがないと思ったし、食べ物を食べなければ便が作り出せないからだ。
そんなある日、私はこの腹痛の病名と出会った。
お前か!!!!!お前だったのか!!!とめちゃくちゃ感動した。
その頃はおそらくあまりメジャーなものではなかったが、いろいろな情報がネットから手に入った。心療内科へ行き診断もしてもらった。
元からお腹が弱いというのも原因だったのもあるが、私の場合は厳しい親も原因の1つだったようだ。
怒るとなるとかなり厳しく、また、小さい頃は虐待じみた教育を受けていたこともありよくお腹が痛くなっていた。
成長するにつれ親も私が手がかからなくなり昔より穏やかに接するようになり、私も生意気にも口答えができるようになったのでストレスが少しずつなくなってきたから腹痛の症状が出なくなったのかなと思う。
だが、受験シーズンになり、推薦で高校が決まっていた私は勉強をしていなかった。仲のいい友人は勉強に追われていたが私はのんびり過ごしていた。そんな私に友人は八つ当たりをよくしてきていた。
今思えば自分が行きたいと選んで塾へ行き、自分が行きたいと選んだ高校なのだから黙って勉強しろよとは思ったのだが当時の私はその子の八つ当たりを頑張って受け止めていた。
また、入学予定の高校では部活で進学したのだが、今じゃあり得ないくらいの暴力が蔓延している部活で、これからそういう環境に身を置くことに対しても強いストレスがあった。いくら覚悟を決めていても無意識に心に負担があったのかもしれない。
いろいろなストレスが少しずつ私を蝕んでいき、一番弱いお腹に負担がかかったのだと思う。
卒業式の日は前日から絶食、お守りがわりに整腸剤を持って挑んだ。隣の席の友人には病気のことを話し、式中はずっと小声で話し合っていたおかげでなんとか乗り切ることができた。
高校入学後も、事前に学校側へ事情を話しており、なおかつ校風は自由で友人みんなに病気のことを話したり、テストは別室でうけたり、本当に申し訳ないが授業中は寝ることによってお腹から意識を逸らした。(教室にいることもとても辛かったが、皆んなが病気を受け入れてくれているという安心感や、申告なしでトイレへ行ってもいいと学校側から許しをもらっていたので、安心感が大きく眠りにつくこともできた)
担任から「受けてみないか」と提案があり、無理ならすぐ保健室へ行ってもいいと言ってくれた。
心臓が痛いくらいバクバク鳴っていた。手汗が出た。お腹も痛くなった。
だが、我慢できる。
それどころか、少しずつ、少しずつ腹痛が治まっていく。
気づいたらテストが終わっていた。
あれ以来、普通の人よりもお腹が痛くなることはやはり多い。映画館で腹痛になり、楽しみにしていたメリーポピン●は1時間しか見れなかった。居酒屋へ行きすぐにトイレから出れなくなることもあった。
けれど、昔より悲観的じゃない。大人になるってこういう時とても便利で楽だなって思う。
昔みたいにビクビクしながら外へ出ることがなくなったのはとても心地いい。もちろん痛くなったら絶望的にはなるが。
あの高1の期末試験の体験が私の勇気となっている。あの日、目の前がとてもキラキラして見え、あ、もう大丈夫だと心から安心したことは忘れない。
元増田様 ブクマの世界からお節介にやってきた増田ですが(ややこしいなw)お返事ありがとう。
ブコメの方々が指摘するように私が大学にいたのは恐竜がいた時代ですから現状の参考になるかはわかりません。とはいえ、私も大学の学び舎で、教鞭をとる身となってしまったので、どういう学生が欲しいか、また美術界、デザイン界として、どういう人を育てていきたいかという視点も入っています。つまり採択する側としての視点だと思っていただければ。
今は私も既に化石化しつつあるので、元増田さんのように意欲があり、夢を持っている後輩が育っていくのは楽しみです。
人生は長いようで短く、特に10代というのはあっという間に過ぎてしまいます。高校時代というのは長い人生のうちたった3年です。その時に出会い経験したことは、基礎教養だけでなく、つまり学問以外のことでも、今の私を人格を形成していると感じます。
何かを生み出し、作り出すクリエイティブ魂というものは発し続ければ枯渇します。だからエネルギーを入れなくてはならない。それは学舎で学ぶ教養のみならず、趣味、娯楽の分野もエネルギー源になります。振り返れば、苦痛で眠かった授業も、友人と出かけてだらだらと過ごした時間も、期末試験の勉強が嫌で逃避のために漫画に読みふけったり、深夜放送を聞いているうちに眠ってしまったことも、推しのミュージシャンの二次創作同人誌を作ってコミケに売りに行ったことも、ただひたすら大浦食堂でくだらないゲイジツ話をしていたことも、今となってはお恥ずかしい恋愛経験も、失恋も、辛いことや、怒りを覚えたことも含め、全ては最終的にクリエイティブの肥やしになりました。あらゆる経験は肥やしになるのです。
高校時代というものもその経験の一つです。様々な人(楽しい友達やムカつく奴ら)との出会いや、そこで夢中になるものに無駄なものはありません。アニメも、漫画も、本も、音楽もどんどん吸収できる時です。大人になると億劫になるので楽しいはずのゲームすらクリアできなくなります。ウィザードリーで全てのスペルを覚えたLV99の忍者を作る情熱は今の私には既にありません。
若い時はとにかく生体エネルギーが異なりますし、脳の吸収力も違います。
クリエイターというのは作り出すための情熱だけでは、クリエイティブ魂が枯渇してしまいます。何かを伝えたいという思いの大きさが魂の大きさになります。その思いを育てるのは吸収した様々なことです。
あと具体的な受験のことについて知りたかったらいつでもまた増田で聞いてください。美術予備校で教えていたこともあるので、具体的なご相談に乗れると思います。なにかの一助になれば嬉しいかと思います。
昨今、芸大でもそういう騒動があったが、全くもって信じられん!!!!!!!!
自分というものをしっかりと見据えて「創作する」ということに対するプライドを育てるべし。
その為にも、表現力の向上(デッサンで養える)というのはとても重要なのであるが、それはまたのお話で・・・
以上。
11月最初の週末は、ラグビーW杯2019日本大会、最後の週末だ。
ラグビー伝統国以外での、そしてアジア初開催となったこのトーナメントも残すところは2試合を残すのみ。
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大会を振り返った時、3位のチームを覚えている人は少ないだろう。
地上波放送もなかったし、3位決定戦自体の存在意義に疑義を唱える関係者もいると聞く。
しかし、今回、不可抗力で中止になった試合こそあるものの、W杯の開催地に最後まで残って、参戦したときに行う可能性のある7試合全てを戦えるのはここまで残った4チームにのみ許された権利だし、この大舞台で戦う経験を積む新星、そして代表戦の舞台から去るベテランたちにとってこの一戦は大きな意味を持っている。
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ニュージーランドのWTBリーコ・イオアネや、ウェールズのSHトモス・ウィリアムズ、CTBオーウェン・ワトキンはこの3位決定戦で次の4年に向けた新たな一歩を踏み出し、No8キアラン・リード、FBベン・スミス、CTBライアン・クロッティ、FLマット・トッド、そしておそらくはこのステージで残された時の少ないLOアラン・ウィン・ジョーンズといった伝説たちが、代表として有終の美を飾るための戦いに臨む。
また、スティーブ・ハンセン、ウォーレン・ガットランド両HCも退任が決まっており、これらはこの試合が1つのサイクルの終焉と新たなサイクルの始動を繋ぐものであることも意味している。
強豪国として名をはせる両国は今夜、どのような「終わりと始まり」を見せてくれるだろうか。
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若手に経験を積ませたりベテランの花道を作ってやりたいとは思っても、負ける気など全くないウェールズ。
伝統の固いディフェンスと激しいタックルは若手にも浸透しているであろうが、相対するのは攻めてくるのを待っていて勝てる相手ではない。
ウェールズは攻撃的守備を遂行しつつ、ペナルティーキックやセットプレーなどの一瞬の勝機を何度ものにできるかが問われる一戦となる。
対してスタメンを大幅に入れ替えても世界的なビッグネームばかりという層の厚さを誇るオールブラックスは、完全に封じられれた準決勝の苦い思い出を払拭し、自信を取り戻さないといけない。
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国家斉唱を前にこの試合で黒衣を脱ぐキアラン・リードの頬に笑顔が漏れる。
スタジアムが純粋にラグビーを楽しむ祝祭的なムードに包まれる中、両国の代表と観客が声を合わせて歌う国歌。
特別な試合、原則マオリの血を引くものが務めるとされるハカのリードはキアラン・リードだった。
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いよいよキックオフ、増田の予想に反してウェールズは試合開始から果敢にランで展開しつつ攻めるが、これを止めたオールブラックスがペナルティを獲得、外れたゴールキックの攻防からボールをつなぎ、なんとPRのジョー・ムーディーが激走してトライ!
つづく12分にもラインアウトからのセットプレーでクロスパスを受けたFBボーデン・バレッドがディフェンスをすり抜けてトライ。
14-0。
オープンな展開から2トライを奪ったオールブラックスが序盤をリードする。
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対するウェールズも深く攻め込んでからのセットプレーを取り切ってトライ、その後もペナルティーゴールを獲得し14-10とやり返していく。
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しかし、ボールをもってもキックを使わず走るウェールズが挑んだ攻めあいはオールブラックスの土俵で、32分にはセットプレーからターンオーバが連続する混乱をベン・スミスが走り抜けてトライ。
銅鑼のなった40分すぎにまたもベン・スミスがインゴール右隅に飛び込み、28-10として前半を終了した。
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スタンドに観戦にやってきていた上皇夫妻に送られる拍手と歓声。
トーナメントを勝ち上がってきたキック主体の戦術を使わずランでのオープンな展開で攻めたウェールズだが、オールブラックスの得意な混乱からの打ち合いを誘発してしまう。
ウェールズは今日が代表最後となるベン・スミスの2トライなどで大幅リードを許して前半を折り返した。
後半は締めていくのか、覚悟を決めて引き続き果敢に攻めるのか。
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後半開始早々、オールブラックスはまたもベン・スミスがディフェンスをすりぬけてチャンスメイクし、ソニー・ビル・ウィリアムス一流のオフロードでつなぎ、ライアン・クロッティが飛びこみトライ。
今大会を若い力で駆け上がってきたオールブラックスは、3位決定戦でみせたベテラン3人のアンサンブルで35-10。
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ウェールズは残された大舞台最後の時間を観客とともに全力で楽しむように、後半もキックを使わずランで攻める。
オーソドックスな展開攻撃だけではなかなかビックゲインができなかったが、辛抱強くボールを繋ぎつづけ、インゴールライン間際の攻防からジョッシュ・アダムズが頭を突っ込んだ!
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ゲームは選手の交代が相つぐ時間となり、大歓声で送られるウェールズのアラン・ウィン・ジョーンズやオールブラックスのソニー・ビル・ウィリアムズ。
最もセクシーなアスリートと世の女性にもてはやされながら、前大会で得た金メダルを興奮してフィールドに降り駆け寄ってきたファンの子供にあげてしまうなど、セクシーの期末試験があったら記述問題に採用したい振る舞いがノータイムで出せる伊達男ソニー・ビルは、13人制でカナダからのオファーがるという。
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腕を痛めたウェールズSOリース・パッチェルの交代で怪我の穴埋めにとことん縁のあるダン・ビガーがフィールドに降り立ち、同じく交代で入ったSHガレス・デービスがややキックを増やしたことで後半の展開は均衡したが、やはりオープンなゲームであることは終盤になっても変わらない。
観客にラグビーの楽しさを示すように攻め合いになったゲームは、75分にウェールズ陣深い位置からのスクラムからオールブラックスSOモウンガが、その均衡を破るトライで40-17として、このスコアのままゲームは終了した。
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おそらくは互いに最後のW杯となるアラン・ウィン・ジョーンズ、キアラン・リード両キャプテンが晴れ晴れとした表情でインタビューに答える。
準決勝の苦い敗戦を払拭し、最後の試合を飾ったスティーブ・ハンセンHCは大歓声に送られ、花火大会の打ち上げ本数で上回られたウォーレン・ガットランドHCは少しだけ悔しそうな表情で、しかし歳月を噛みしめるようにウェールズを鍛え上げた日々への思いを語った。
今大会で堂々オールブラックスの司令塔を務めた新星モウンガは試合前に「先輩たちのために今日は戦う」と語ったという。
ウェールズの選手たちも同じ気持ちではなかったのだろうか、去る者の思いは若い戦士たちに受け継がれていく。
4年後には彼らが先頭に立ってチームを引っ張っていくのだろう。
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決戦の1試合を残して大会を去った彼らだが、大会後にはキアラン・リード、ライアン・クロッティ、マッド・トッド、ブロディ・レタリック、サム・ホワイトロック、リーアム・スクワイアなど、多くの選手が日本にやってくる。
あと、W杯が始まってからというもの、どうにも悪役キャラのようなセリフを吐きまくるエディーがまた口を滑らせたおかげで、スティーブ・ハンセンが次に指揮を執るのがトヨタヴェルブリッツであることも明らかになった。
日本代表の躍進をその屈強な身体で支えた姫野を擁し、元オールブラックスのキャプテンとHCがやってくるトヨタは台風の目になるだろう。
W杯を沸かせた彼らのプレーや采配を間近で見ることのできる、トップリーグのスタンドにも是非足を運んでほしい。
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そして、日付が変わって11月2日、2019年大会を制するチームがついに決定する。
追憶と希望をのせたトライの花火と歓声が夜空を彩った今夜だったが、次の夜はもっとシリアスなものが飛び交うだろう。
44日間の激闘を見守ってきたウェブ・エリス・カップは、白と緑、どちらのユニフォームの上で輝くのか。
異世界で楽して高給を取れたのでその話をしてやる。
こっちに来たら、まず着ているものを全部売ってその金で大学受験するんだよ。
受験票の控えを持って高利貸しに行くと少し金を貸してくれるんだ。
その金で服を買って、しばらく残飯を漁ったり野宿したりして発表を待つ。
合格したら合格証を持って高利貸しに行くと入学金と最初の学期の授業料と生活費とかを貸してもらえる。前に借りた分はとりあえず返しておこう。合格証ありの方が利子が少し安いからな。学期末試験の成績を持っていくとまた次の学期の授業料と生活費を貸してもらえる。
こうやって借金を繰り返すと卒業までに凄い額の借金になってるんだけど、卒業して就職すると5年で全部返せる。
高3の一学期中間期末試験といえば、推薦やら指定校やらを狙っている生徒たちにはとても大事なもの。
②上中下のクラスができあがる
ここまではいい。
問題は次。
④定期テストは全レベルの問題から一題ずつ、自分のクラス以外の英文は初見問題として扱う。
中は、中と言いながらも半分は下と同じベベルだから、下クラスだろうと初見の英文はしんどそう。
学んできたことを応用すりゃいい話なんだけど、すべてが応用力を試す問題じゃない。
こんな不公平でいいの?本当に疑問。
特に中学からいれさせてる親とか、クレーム出さないかなーとおもってる。
6年間も預けて、下クラスのやつらなんか学習についてけなくて放置されて、最終的な仕打ちがこれ?ってかんじ。
上位を伸ばすカリキュラムなせいで勉強全体的に放置されてできないままなんだから、せめて推薦で大学行かせれば救いがあると思うけど、推薦すらとらせないクソシステム。
どうかしてると思わない?
中学のとき、期末試験で保健体育の試験があった。今思えば意味不明だが当然のように試験があった。
当時、学年でも1−3位の成績を誇っていた俺は、もちろん保健体育にも抜かりなく試験勉強に取り組んだ。運動音痴のネクラな俺は、試験で点を取るしか保健体育の成績をカバーできない。
俺は一生懸命教科書の内容を確認し、覚えた。何度も問題を繰り返すことで、記憶をしっかり定着させようとした。
しかし、どうしたことだ。保健体育は主要教科ではなく、副教科なので問題集などの教材に乏しい。勉強したくてもその材料がない。
困った俺は、オカンに助けを求めた。教科書の内容を適当に問題にしてもらって、それに答えることで勉強しようとしたのだ。
しかし、いろんな意味で成長の遅かった俺は気がついていなかった。その内容が人と勉強するものではないということに。
そう、試験範囲はちょうど生殖行為に関わる部分だった。ち●こやま●この構造や、赤ちゃんができる仕組みについてだった。
担任はちょっと怒っていた。しかし、池沼の俺は「親に勉強を手伝ってもらうな」といういう意味で怒られているのだと思っていた。
「えへへ」と笑ってやり過ごした。
今日、ふとその場面を思い出して、その真の意味を理解して、とても死にたい気持ちになった。
死ぬ前に、保健体育の試験で一生懸命勉強したとが、一度も実践で試されなかった事が悔やまれる。
大学の留年が確定した。非常にショッキングなことであり,ここ最近よく眠れていない。自業自得なことであるが,かなりしんどい
興味のない学科に入ったのは事実であるがそれは言い訳である。しかし,前期の授業はそれなりに真面目に取り組んできたつもりだった。
必修の再履修の授業などは一番前で休まず,受けた。先生に質問をし,課題も全て提出していたが,それでも単位を落とした。
期末試験は自信があったのに単位を落としたことを不思議に思い,授業の担当教師にアポをとり,訪ねた。
先生は定期テストの結果を私に見せた。点数はひどいものであった。失点は主に計算ミス,条件の見間違いなどのケアレスミスが多いものであった。
自分では一生懸命に勉強して,試験に出るような問題はテスト勉強で解けるようにした。国立大学に入る程度の学力はあったはずなのに,大学のたかが授業で扱う問題程度の難易度がテストになると全く解けない。必修ではないが進級に必要な専門の科目もポロポロ落としてしまった。これも同じような授業態度で受けていたはずなのに
どうすればいいんだろう
うちの子が通っている中学校は、これまで中間試験や期末試験の順位を配布していました(他の人の順位まで分かるようなものではなく、自分自身の順位が印刷された紙です)。
しかし、今年度に入ってから、何の説明もなしに順位の配布がなくなりました。
うちの子は上位に入ることを目標にして学習に取り組んでいましたが、今回から順位が分からなくなり、学力に対して慢心と不安が交互に襲ってくるような日々です。
「これは懇談会で理由を聞かねば」と思っていたところ、こちらから持ち出すまでもなく、学校側から説明がありました。どうやら他の保護者からもたくさん問い合わせがあったようです。
を挙げましたが、私はまったく納得がいきません。
「過度な競争心」とやらがどの程度のものを想定されているのか分かりません。
(大げさな言葉で危機感を煽っているようにしか思えませんが)例えば「体調を崩すほど勉強してしまう」ようなことでしょうか?
生徒たちにとって中期的な目標となるのは高校受験です。高校受験が(少なくとも自分自身との)競争である以上は、競争心やむなし、じゃあないでしょうか。
(そもそも、そこまで勉強する生徒なんていませんし、それを止めない親なら、とっくに勉強させ過ぎてるでしょうよ)
幸い(傍から見る限り)そのような子はいません。この点は先生方の日頃の指導の賜物だと思っています。
(もしいるなら、そっちを先にどうにかしましょうって話だよ)
当時はYahoo!ジオシティーズが全盛で、自分もやってみたかったのがきっかけだった。
幸いにして父のPCには Photoshop 5.5 があり、マウスで描いた絵を投稿したり、日記を書いたりした。あとは当時流行っていた RPGツクール 2003 で簡単なゲームを作ったりしていた。絵は下手だったしゲームは何度もエターナったが、それでも本当に楽しかった。やるたびに世界が広がっていくような実感があった。
当時の自分はあまり版権モノに頓着しておらず、二次創作文化にはあまり触れることがなかった。
ただ、描く習慣はつけたかったので、日記では鉛筆の落書きをアップし、カラーの絵は毎月必ず更新されるトップ絵という形で描くようにしていた。今考えると大したペースではないが、年に必ず12枚は本気のカラー絵を投稿する習慣があったのは良かったと思っている。
しかし3年が経って高校生になり、いよいよ絵に注力したいと思った僕は、漫画研究部に入った。思ったよりもちゃんと描いてるサークルで、僕は安心した。ここなら楽しく創作できそうだ、と思った。
しかし漫研に入った最初の夏に、僕は3年続いたイラストサイトをいきなり閉鎖した。
高1の期末試験が終わり、明日から夏休みが始まろうという日だった。
部誌に描くマンガのネタに悩みながら、自分は帰り道ゲオで漫画を買い、長い道草を食った後に最寄り駅についた。
最寄り駅と言ってもそれなりに家までは歩くので、母親との都合があう日は車で迎えに来てもらって買い物しながら帰るということが多かった。その日もそんなつもりで家に電話をした。
母が電話に出た。電話口の母親は、力のない声で「今日は歩いて帰ってきて」…と言ってきた。具合でも悪いのか、聞いてもよく分からなかった。僕はそのまま歩いて帰った。
家のドアを開けると、同じく早く帰ってきてたらしい妹の泣く声が聞こえた。また母親と喧嘩でもしたのかと思ってリビングに上がると、母親がなぜか正座をして迎えてきた。なんだなんだと思っていたときだった。
援助交際だった。いわく相手が未成年であることは知らずに行為に及んだようだが、相手方の少女が家族にバレたらしく、その相手だった父が捕まった。僕の高1の夏休みはこうして始まったのだった。
いきなりのことで不安なことはいろいろあったが、まず気になっていたのは、こういう事件がどのくらいニュースとして広まるものなのか分からない、というものだった。
もし地方局レベルでもTVで流れてしまった場合、あっという間にいろんな人にバレるだろう。大げさな話、名前を変えて隠れて生きなければいけないんじゃないか?とか当時は本当に心配してた。今思うと無知だったとも思う。
結局、幸いにして(?)、事件そのものは地方紙の三面に小さく載った程度だった。父の名前は出ていたが、何気なく新聞を見ていて気づく確率はそんなに大きくないだろうと安心した(母はそれでもダメージを受けているようだった)。
父も一ヶ月拘置所に入る程度で済み、一旦家族はもとに戻った。8月の後半だった。7月のトップ絵は更新できなかった。
イラストサイトの方では、自分の個人情報はそれほど晒していなかった。住んでる地域ぐらいなら日記を見てれば分かるだろうが、管理人の本名と紐付けること、ましてやそれが地方紙の三面に報道された事件の容疑者の息子だと知ることなど、到底できそうには思えなかった(もし当時Twitterがあったらどうなっていたか分からない)。
にもかかわらず、報道に怯えている間、インターネットで自分を晒しているということが次第に怖くなっていった。隠れて生きなければならないかもしれないのに、どうして自分のサイトを運営などできようか?
そうして僕は、父が逮捕された日にサイトを閉じた。一ヶ月後、新聞の小さな記事を見て後悔した。この程度なら続けていても良かったじゃないかって。
しかしこれは家族にぶつけてもしょうがない怒りだった。父が捕まったことは家族以外には内緒だったので、結局誰にもこれを相談することはできなかった。
サイトを閉じた後に一人Skypeで心配して声を掛けてくる人がいたのは嬉しかった。サイトのバックアップを取らずにジオシティーズのアカウントを消したのでそのまま復活させることはできなかった。しょうがなくブログという形で活動を再開していたが、その時にはもう色んな気力が萎えていた。
貧困の本質とはモノやお金がないことではなく、先行きが見えないことだと言われることがある。僕の実家は別に貧乏でもなかったが、それでも先行きがずーっと見えなかった。
三年間続けてきたコミュニティとの縁を何も言わずに切ってしまった。下手でも続けていた絵を投稿する習慣が途切れた。漫研にいたので絵そのものは続けていたが、よほど張り合いがなかった。インターネットで活動する場所がなくなり、やることがあまりなくなっていった。
pixiv に登録したり、mixi でかつてのサイト仲間とマイミクになったり、なんとかやり直そうとしていたが、そもそもあの時サイトを消すことなんて無かったんじゃないか、という気持ちがずーっと消えなかった。そんなこんなの間に受験が来て進学した。
大学入学前後の時期、僕は人生で一番絵を描いていた。とにかく遅れを取り戻したかった。が、二ヶ月もするとすべてが辛くなってしまった。入学後に始めたTwitterアカウントはどんどん病んでいき、またインターネットをやめた。
もうおしまいだと思った。
創作自体はしているが、もう誰も知らない、ずっと細々としたものになっていた。
あの時サイトをやめていなければ、自分はそのまま楽しく創作を続けていたのだろうか。
きっと順調に進んでいたとしても何らかの挫折はあっただろう。
創作にはそもそも挫折はつきものだし、反応がなくてやめてしまうケースなど珍しくはないと思う。
しかし、それはまだ「正しい挫折」じゃないか、とつい思ってしまうのだ。
幸福な人生とは、つらいことがない人生ではなく、つらい出来事があってもそれにちゃんと意味のある人生のことだ。それが努力の結果の挫折なら、それはちゃんと存在意義のあるつらさだ。自分が一番不幸だとは考えないが、自分の不幸が一番無意味だと考えてしまうのはいかんともしがたい。
自分の当時の苦しみにはまったく何の意味もなかった。そもそも創作とは何の関係もない出来事をきっかけに、まったくの非合理な思い違いから、ただ間違ったつらさだけが残った。どうせ理想がかなわない人生になるとしても、せめて後者の意味では幸福でいたかった。つらいことがあるにしても、存在意義のある苦痛だけを背負って生きたかった。