はてなキーワード: 勇気とは
前提として、このエントリが刺さる人はそう多くはないと思うけれど、
それでも同じ悩みを抱えている人を救えたらと思って書いている。
増田、34歳。
新卒時にコンサルに入社し、かれこれ10年間必死に働いてきた。
初任給は600万ほど。
そこからも給与はどんどん上がって、30手前で1000万円を超えた。
だが、一方でとてつもないハードワークでもあった。
特に2~3年して昇格してから顕著だったが、複数のプロジェクトを掛け持ち、一つの案件がクローズしたらまた別の案件に放り込まれるような状況だった。
ほぼ全ての案件が当たり前のように大炎上していたので、2週間に1回くらいは徹夜して乗り切る日があったし、休日出勤も数えきれないくらいにしてきた。
クライアントからも鬼のように詰められる日々で、メンタルも磨耗していた。
それでも、何も持たない自分がこの年齢で1000万稼ぐにはこれしかないんだと思ってしがみついていた。
特に結婚して子供が産まれてからは、家庭を守るためにも働かないといけないと思いハードワークに身を投じてきた。
思えば、忙しすぎて思考をするだけの余裕がなかっただけだったかもしれない。
転機は1年ほど前、プロジェクトとプロジェクトの間で少しだけリソースに余裕ができた時期があった。
特にやることもなく、1週間くらい20時ごろに帰っていた(言っても20時だが、当時の自分は定時上がりどころか、早退くらいの気持ちで帰っていたと思う)。
久しぶりに娘としっかり向き合い、妻と一緒に夕食を食べた時、この上ない幸せを感じた。こんなにも近くに幸せがあるのに、何を犠牲にしてここまで働いているんだろうと涙が出てきた。
そこから、もっとしっかり時間を取れるような職場に転職しようと決めた。
実は一度転職経験があったのだが、その際は提示された給与があまりに低く感じてしまい、結果として同業他社に転職し、労働環境もほぼ変わらずだった。
しかしながら、改めて自らの収入と月々の出費、あとは今後の出費などを計算していると、明らかに自分の収入が過剰であることに気がついた。
もちろん教育費だの家賃だの、青天井ではあるのだが、普通に暮らしていくだけであれば、今の自分の収入から400万くらいは下げても大丈夫だということに気がついた(税金や保険料が下がるので、実際の手取りは400万円も下がらないが)。
と、いうわけで、かなり年収を下げたものの、残業は基本的にはほとんどなく、あってもせいぜい20時くらいには帰れるような職場に転職した。いわゆるJTCで福利厚生もかなり充実しており、額面ほど生活が苦しくなった感覚はない。
何より家族と過ごす時間がかなり増えたし、自分の使える時間に余裕があることで、休日にふらっと散歩したり、家族で出かけたりする余裕も確保できるようになった。
もちろん貯蓄のペースはかなり落ちたし、きっと今までほど何不自由なく生きて行くことはできないのだろうけれど、それでも幸福の総量は明らかに今の生活のほうが多いと思う。
同じく激務で疲弊している人に、ゆったり働く良さを伝えられたらと思う。
これからお目にかける雑文は、データにもエビデンスにも専門知にも基づいたものではない。
むしろ一市井の人間の有限(どころか乏しい)観察と未熟な想念、そして「何か書かなければならない」という衝迫のみを支えとしている。昔風に言えば標題のとおり印象批評だし、現代風に言えば単なるお気持ちである。
それでも、虚言や流言、罵詈雑言が猖獗を極めるクソッタレインターネットへ供する一服の清涼剤たらんという意志を持って草した文であり、そのように読まれることを希う次第である。
以下に続く文章は、主語がデカすぎるだの、事実認識がお粗末だの、構成がなってないだの様々な批判に晒されるであろうことは最初から織り込み済みである。いずれも筆者の能力の至らなさに起因するので「ごめん!」としか言いようがない。
もっとよりよい認識や知見の給源は他にあると思うので、それらに接するのが一番いいと思う。そのような批判を恐れずにあえて書く理由は、まさに標題で仄めかした「民主主義を虚無に捧げてはいけない」という信念を擁護するために自分でできることをしようと思った、ただそれだけである。
この文を書こうと思った直接のきっかけは昨日の兵庫県知事選挙である。
つい1週間ほど前に太平洋の向こう側でトランプが当選し、「MAGAくんさぁ……」という軽侮の念を抱きつつも、どこか他人事の如く受け止めていた自分がいた。
しかし、メディアやネットでパワハラ野郎だの私利私欲を極めたゴミだのサイコパスだのさんざん叩かれた斎藤元彦がメイク・ヒョーゴ・グレート・アゲインした途端、愚かな民衆なる集合は爆弾ゲームよろしく我々にヒョイと手渡されたというわけだ。
尤も、自分の最初の認識がそもそも間違っていたというのは認めるにやぶさかでない。要は愚かな民衆も、賢明な民衆もどこまでいっても抽象概念で、そのような概念で語れる事柄には限界があるという単純な原則をしばし忘れて物を考えがちというだけのことだ。
このような間違った考えで一喜一憂しているのは筆者だけはないらしい。
選挙結果が出てから、兵庫県知事選は立花某にハックされたということや、あるいはネットで真偽不明の奇々怪々なフェイクニュースを浴びせられて正常な判断ができなくなった結果だとして、SNSと選挙の結びつきを否定的に見ている向きがある。
もちろん、我々はアメリカの大統領選にロシアやイランが介入しようとしたという事例を知っている。ならず者国家の裏工作を挙げるのが極端だとすれば、ケンブリッジ・アナリティカのような倫理観の欠片もない連中がいることも知っているはずだ。
しかし、現段階の情報でもって、兵庫県民は騙されたのだという前提で話を進めるのは問題だろう。それをもってしても社会の底が抜けたとか、もはや民主主義は終わりだという悲観的で短絡的な発想に至りがちということを見ても、この種の作業仮説は民主主義に有益どころか有害であることは明らかだ。そういう人たちがエピストクラシーを実現するのか、リベラルな思考をもった等質的な市民たちによる思想のゲーテッド・コミュニティを作るのかは知らないが、それはきっと非民主主義的な操作で行われるものではないか。筆者はリベラル嫌いだが、それでも自分たちの理念に後ろ足で砂をかけるような彼ら・彼女らは見たくないというのが嘘偽らざる思いだ。
各種報道を見る限りでは、兵庫県民は普通の民主主義国家における市民と同じくらいの能力や感覚を持ち、それなりに各候補者を比較考量した上で投票に臨んだと考える方が現実に近い、と筆者は考えている。
ここでは斎藤や稲村の政策についてどっちがいいとかいうことは考慮の埒外に置くが、少なくとも「何かいじめられててかわいそうだから!」とか「メディアの一辺倒な報道が気持ち悪いから!」だけで110万票も取れるんだとしたら、残念ながら民主主義以外の選択肢の有効性も検討すべき時期が来ているのかもしれない。もちろん、実際のところそうではないのではないか、というのが筆者の見立てだ。
何が斎藤元彦に再び県庁の敷居を跨ぐことを許したのか。それを考えるために補助線を引きたい。もちろん、論理的必然性をもった操作ではない。何故ならこれは印象批評にすぎないので。
少し前に国民民主党の玉木代表の不倫問題が報じられた。不倫の責任の取り方は様々だろうが、代表を続投しこれからも頑張っていくということが比較的多くの人に受け入れられているように思った。
その方策の是非はともあれ、手取りを増やそうというストレートな訴えが若者を中心に多くの支持を広げていて、それに水を差すような報道を苦々しく思っている、あるいはある程度「相対化」可能な事柄だとして脇に追いやってもいいという雰囲気があるように筆者の目には写った。
筆者個人はこの種の思潮には到底賛同できない。不倫するような人間に増やしてもらう手取りなんぞはこちらから願い下げである。議員辞職するまでではないとしても、代表を辞任し一兵卒として政策の実現に邁進するということだって責任の取り方としてありえたのではないかと思っている。
どれだけ政策を懸命に訴えても、政策を進める当事者の「人品」というのは、決しておざなりにしていいものではない、と個人的には思う。実際、自民党の政治資金収支報告書不記載の問題に端を発する「裏金」逆風はそのような考えから生まれたわけだし、与野党伯仲という結果に実を結んだと考えれば、個人的かつ奇異な考えではないとも思う。であれば、妻子ある男性が別の女性に懸想することを問題視しなくていいのだろうか(妻子にとっては経験しなくていい嫌な出来事であるし、相手方の女性が公党の代表者と不倫したことがバレればその社会的地位をも脅かしかねないという帰結を予想できなかったのであれば、政治家どころか責任ある社会人としても御しがたいレベルの不見識なのではないか。)。
とはいえ、上の筆者の考えは少数派に属するものだと思う。不倫は家族や当事者の間で解決されるべきでダメだったら家庭裁判所へどぞ、というような私的な話で、こんなことのために俺たちの手取りが台無しになってたまるか、玉木はきっちり反省してその後頑張れという意見が大勢を占めているのではないか。
そしてこれは、斎藤が公益通報制度を度外視して告発者を袋小路に追い込んだことや、トランプが弄する信じがたい人種差別的・性差別的言動によって当事者が傷つけられることを等閑視するメンタリティと相通ずるものがあるのではないか。
もちろん、そういった非倫理的な行いに諸手を挙げて賛成するダークトライアドガチ勢のような人間ばかりではないだろう。しかし、それはそれとして、というような相対的態度をとらざるを得ないのは、言い換えれば自分たちにとって焦眉の問題が別にあるということにほかならない。
このような相対化を導くに至る根源的な不満の存在それ自体は目新しい指摘でもなんでもない。ラストベルトの労働者も、閉塞感を感じてきた兵庫県民も、手取りが増えない若者のいずれも「古くて新しい問題」であり続けている。目新しいことでもないのに、定期的にこの種の話が出てくるのは、解決が困難なことの証である。そもそも解決可能な話なのか? 全てのステークホルダーに満足を与えられるほどのリソースがあるのか? 自分たちの満足のために誰かにふるわれる不正義もやむなしとする世界で、オメラスから立ち去る勇気を持つ者たちが果たしてどれだけいるのか? 我々はずっとこの問いかけの中に閉じ込められているし、この困難さを抱きしめることが民主主義の要諦なのかもしれない。
この文では、貧しくあってもせめて人並みの倫理ぐらいは持てよバーカ、とか、人民の悲しいまでの想像力の欠如を嘆かん、という倫理的お説教や慨嘆を述べ立てるつもりは毛ほどもない(そういうリベラルへの嫌悪感を筆者は多くの人と共有するものである。)。政治家に自分たちの方を向いてほしい、助けてほしいというのは当然だし、その願いが届くのが民主主義のいいところではないだろうか。
だが、その時、もしかしたら誰かを犠牲にしているのかもしれないという一抹の不安は感じてほしいなとは思っている。それが望蜀に属する話だとしたら、民主主義の皮を被った椅子取りゲームを続けるべく、我々はいつ鳴りやむか分からない音楽に耳をそばだて、減り続ける椅子を横目に生きていくのだろう。これがいいとは、筆者は決して思えないが。
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。」
大人になってから『のび太の結婚前夜』を改めて見た時に、「なんて当たり前のことを言ってんだ。よっぽど褒める言葉が見つからない時用の言葉って感じだ。」という冷笑的な感想を持った。しかし、今ならのび太が全くもって稀有な人間であったと痛感せざるを得ない。
立花が言うように元県民局長がどんなに酷いことをしていても(逆にどんなにいいことをしていても)、斎藤の拙速かつ強引な統治手法(このことは必ずしも立証されていないが、その後の百条委に至るまでの対応を見ればそう思わざるを得ない)に問題意識を感じて声を上げたこと、そして斎藤がそれをこれまた拙速かつ強引に対峙し、県政停滞のハードランディングに至ったのとは別の問題である。その対応に関する法的な問題などはこの際措くとしても、百条委で問われた道義的責任を「わからない」と述べた斎藤が、再選で得た民意を盾にこの問題を「相対化」しようとする危険性がないとは決して言えないだろう(当選後、記者団に対して「知事部局として一緒にやっていくのは公務員としての責務」と述べたのは、県職員に対して「俺は民意を得たんだからお前らがついてくるのは当然だよな?」と釘を刺した形とも言えるし、先行きは不透明だ。)。
斎藤に投票した人は、せめてそういう状況が棚上げになったままであることを認識した上で、自分たちの居心地の悪さに素直に向き合ってほしいと思う。(元県民局長が死んだのは別の理由であるという卑劣な矮小化をするのではなく、)たとえ拙速で強引でも斎藤が自分たちにとっていい兵庫県を作ってくれると信じて投票したのだとすれば、その結果誰かが痛い目を見ることになるかもしれず、それはひょっとすると顔見知りかもしれない。その時、その人の不幸を悲しみ、その人の幸せのために何かできるだろうか。そういった考えを頭の片隅に置き続けることが、民主主義のレジリエンスを形作る重要な要素だと筆者は考える。清廉潔白完全無欠な政治家が存在しない世界で、民主主義を選び取った全ての清廉潔白完全無欠でない我々にとって、「それがいちばん人間にとってだいじなこと」ではないだろうか。
日々の生活に汲々として自分の人生にやりきれなさを感じながら 「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむ」というのはそうそうできることではない。とはいえ、できていないなと思うだけでも、「あの時できなかったから次こそは」という思いにつなげられるかもしれない。
普通にやれば圧勝間違い無しの戦いでゼロ打ちの惨敗を喫した反斎藤派と稲村陣営の手落ちについていくつか指摘したい。
ここが今回の一番間違ったポイント。
普通にやればパワハラ他、不適切な行為が認定されたという錦の御旗を持って正式に追い出せた。
マスコミその他の過剰な叩き(不確かな誹謗中傷めいたもの多々有り)にのって、意外と手強い斎藤知事相手に手間を惜しみナメてしまった。
事実認定無しでもいける「だろう。」
全会一致で潰してしまえば立ち直れない「だろう。」
甘い見込みは時にしっぺ返しを招く。
油断大敵
獲物を前に舌なめずり
歯茎を見せる
パワハラ、おねだり、そんな言葉が乱舞しているが、正式に認定されたものが一つも無い。
https://x.com/nittaryo/status/1857773037917196687
一般的な感覚としてのパワハラと、正式に認定されるレベルのパワハラは異なる。
勘違いしないでほしいのだが、斎藤氏の行動に問題が無いとは思わない。
そもそもが百条委員会で結論が出るまで待てばよかっただけの話。
然るべき場所で、第三者委員会にて正式に決定した後に正当な批判をせよという事。
更には百条委員会の情報が流出して、不品行な公務員と、発言を遮り隠蔽しようとする委員長という最悪の構図を生み出してしまった。
そして一般的な感覚としてのパワハラが問題だと言うのであれば、22人の市長を代表して喋った相生市長谷口芳紀氏も批判されなくてはならない。
https://x.com/makkinze/status/1858126392850063489
彼を批判する者が選挙中に稲村陣営から出てこなかった。身内に甘いと言われて反論できまい。
3 無能な味方は敵よりタチが悪い
いかつい顔をした中年や老人がよってたかって若い斎藤氏をボコボコにする構図はダメだ。
パワハラが悪いと言う席で机をぶん殴りながら主張するあの爺さん。お前の方がパワハラやってると思われるよ(偏見)
ちなみに最年少の芦屋市長である髙島崚輔氏は22人のアレに参加していない。よくわかってるね。
そして揉めると出てくるしばき隊他の左っぽい皆さん。都知事選で蓮舫氏に致命的なダメージを与えた件を忘れているのだろうか。
N党立花氏がヤカラのような人員を相手陣営に差し向けて揉めたとの不確定情報が有るが、揉め事の半分くらいはしばき隊の関連じゃないの(半分は立花氏関連だと思う)
今回は水に落ちた犬を叩けとばかりにマスコミ、政治家、各市長、活動家が一斉に殴りかかった。
終盤こそ大勢の聴衆が集まった斎藤氏の選挙演説だが、序盤の集まらない様子を嘲笑う人も多かった。
そんな事をする必要は無かった。
彼にも主張は有るだろう、聞いてあげなさいくらいの余裕を持って戦うべきだった。
選挙の自由は憲法で保証された権利である。彼は知事に向かないと思うが、彼が主張する自由は全力で守る。
斎藤氏の再選はとても危うい。また、N党の立花氏に影響力を与えた結果も憂いている。
その危うさをなくす為に全力で叩き潰そうとした気持ちはわかる。
しかしそれではダメなのである。お題目や綺麗事は手足を縛るかもしれないが、そのラインを超える事は自分の身を危うくする。
パワハラ許すまじと怒り心頭だった皆さん、ご自身の行為もパワハラかもしれないと振り返る勇気は有りますか?
少なくとも、パワハラと決めつけた方は決定前の不確定情報に踊らされている。
おねだりと嗤った人はデマ混じりのワインや家具に釣られていませんか?
あれだけ叩かれた斎藤氏は、辞職直後から辻立ちを開始するわけです。
普通なら家から出られず、年単位で無為な日々を過ごすしかないでしょう。
誰も足を止めず、かけられる言葉は罵声のみ。普通は耐えられませんね。
神戸市民の皆様、かつて「日本第三の都市」と自負していた神戸の惨状をどう受け止めていますか? 輝かしい過去の栄光は今や遠い夢。福岡市や川崎市にも追い抜かれ、政令市序列7位に転落した哀れな姿を直視する勇気はありますか?
一度は150万人を超えた人口が再び150万人を割り込み、もはや「大都市」の看板すら危うい状況です。神戸市は今や、「衰退都市」の代名詞となりつつあります。
かつての国際都市としての威光は完全に失われ、今や大阪の影に隠れた存在でしかありません。神戸市民の皆様、この現実をどう受け止めていますか? 神戸市の凋落を傍観するしかない無力感、そして他の成長する都市を羨む屈辱感を日々味わっているのではないでしょうか。
神戸市の未来は暗澹たるものです。人口減少、経済停滞、そして都市としての魅力の喪失。これが神戸市民の皆様が直面している冷徹な現実なのです。かつての誇り高き港町は、今や時代に取り残された「負け組」の代表格となってしまいました。
神戸市民の皆様、この現実を受け入れる準備はできていますか? もはや「震災」を言い訳にすることもできません。神戸市の衰退は、無能な行政と市民の慢心がもたらした必然の結果なのです。神戸市は今後も衰退の一途を辿り、やがては大阪のベッドタウンとして消えゆく運命にあるのかもしれません。
かつての栄光は二度と戻ってきません。神戸市民の皆様、あなた方の子や孫の世代は、この衰退した都市に未来を見出すことができるでしょうか? おそらく彼らは、より活気のある都市へと流出していくことでしょう。神戸市に残るのは、高齢者と希望を失った人々だけです。
神戸市民の皆様、あなた方の誇りはどこへ行ってしまったのでしょうか? かつての輝かしい神戸の面影は、もはやどこにも見当たりません。あなた方は今、日本中から哀れみの目で見られているのです。神戸市民であることを誇りに思えますか? それとも恥ずかしく思いますか?
神戸市の衰退は止まりません。あなた方にできることは何もないのです。ただ、この哀れな都市の衰退を見守るしかありません。神戸市民の皆様、あなた方の人生は、この衰退都市とともに終わりを迎えるのです。
うちの息子は今小学4年生で、夏休みが終わってから学校に行かなくなった。
どうして行きたくないのか、俺は聞けなかった。聞く勇気がなかった。
夏休みに入る前まで、息子は学校が好きで好きで仕方がないという感じだった。
朝一番にランドセルを背負って家を出ることも珍しくなく、なのでおそらく夏休み中に友達と何かあったのだろう。
うちはマンション暮らしで、2年前に妻が亡くなった。事故だった。本当に突然のことだった。それで俺は少し病んでしまい、塞ぎ込んで、休職して、それから会社も辞めた。
幸い伝手もあって今はフリーランスとしてなんとかやっている。しかし当時は本当に駄目だった。
息子も相当つらかったはずだ。それなのに、俺には弱音ひとつ吐かなかった。むしろ、駄目になった俺のことを気遣ってくれていたんだと思う。子供の癖に、俺なんかよりよっぽど立派だ。
だからこそ、夏休みが終わり「学校に行きたくない」と言われたときには驚いたものの、否定することはしなかった。
「そうか」とだけ言って、「じゃあ、ちょっと休むか」と息子に提案した。
息子は俯きがちに「うん」とだけ言って、ランドセルの方を見ようとはしなかった。
部屋の中でずっとゲームをやっているようだった。
あまり良くないことだとは分かりつつも仕事もあって、それを言い訳にしていたのかもしれないが、とにかく少し様子を見ることにした。
転機が訪れたのは10月のことだった。市で大きなお祭りがあって、その日は関連施設が無料になるという年に一度の大きなイベント。
仕事も一段落しており、せっかくだから何処かに出かけようと思って、息子に声をかけた。
すると意外にも、息子はすごく乗り気だった。早起きして「お父さん、早く行こうよ!」と急かしてくるくらいだった。こんな元気な息子を見るのは久しぶりで、俺はそれがすごく嬉しかった。
動物園なんて、本当に久しぶりだった。当然すごく混んでいたけど、久々の動物園とあって息子も俺も興奮していた。
色々な動物をじっくりと見て回り、コアラのエリアに来た時のことだった。
そこにはコアラの生態についての解説があり、その中に「コアラの寿命は約10年」と書いてあった。
それを見た息子がぽつりと「じゃあ人間の10分の1ぐらいだから、僕らの1日がコアラにとっては10日分なのかな」と言った。
その考え方がなんだか妙に大人びていて、少し驚いた。
「そうかもな」と答えると、息子は続けて「じゃあ、コアラは10分待たされると、人間だったら100分に感じるのかな」と言って、それから「それって、なんか退屈だよね……」とつぶやいた。
その後も他の動物を見て回ったけど、息子は例のコアラのことがずっと気になるのか、どこかぼぉっとしており物思いに耽っているように見えた。
動物園から出て「楽しかったか?」と聞くと、「うん!」と弾むような返事が返ってきて、心から笑っている顔を見るのはいつ以来か分からず俺は嬉しかった。
翌日から息子は少しずつ、自分の部屋以外で過ごすようになった。
そして11月になると、自らの意志で学校に復帰した。どうやら、ゲームの中で学校の友達とも連絡を取っていたらしい。それで自然と学校に戻りやすい状況になっていたようだ。
息子がどうして学校に行きたくなかったのか、それは今でも分からない。
それでも今の状況に正直ホッとしている。
息子は強い。強すぎるが故に弱音を吐かず、妻が亡くなったことで反抗期さえなくなってしまったのかもしれない。
そう思うと悪いことをしたなと思うし、ふがいない父親であることを申し訳なく思う。
でも、11月4日。息子が学校に行き、笑顔で帰ってきたとき、本当に嬉しかった。
その日の夜、息子が眠ったあと、俺は妻の遺影の前で思わず泣いてしまった。
遺影の中の妻は笑っていた。その顔を、しっかりと見ることができた。
含み益が1億を超えてるって、それ、普通ならバラ色の未来みたいに思えるけど、実際はなんか違うんだよな。
「得られることの全てを求めるなかれ、失うことを恐れよ」ってのは、まさにこの状況にピッタリだと思う。
投資家の心って、たぶん普通の人のそれとは違って、常に恐れと欲望、冷静と衝動の間を行ったり来たりするんだよ。
ビットコイン、こいつはまるで歴史の中の金銀のようなものだよな。
例えば、アメリカの西部開拓時代、ゴールドラッシュの時だって、金を掘って大金持ちになった人もいれば、
逆に手を出して貧しくなった奴だっている。リスクとリターンが常にセットであるってのは、現代のデジタル通貨にも同じだ。
含み益が1億円。これ、単なる数字じゃねぇんだよ。
でもさ、問題は「いつ利益確定するか」ってこと。損失を恐れて売り時を逃すのか、欲張ってさらに上がると信じて放置するのか。
例えば、ナポレオンがロシア侵攻を決断した時みたいに、もう後には引けないって瞬間が来る。
それが上手くいけば大きな勝利だが、失敗すればどうなるか。彼は結局、無理をして失敗した。
だからこそ、リスクを取る覚悟ってのは、ある意味で勇気でもあり、愚かでもある。
だって、後悔の種がどっちに転ぶかなんて誰にもわからないからな。
だが、確実に言えるのは、利益を確定しないで保有してるだけでは、
結局手に入れたお金が現実的なモノとして感じられなくなるってことだ。
あの「一攫千金」の夢に心奪われて、あれよあれよと言う間に、気づけば利益が紙切れになっている。
歴史の中の資産バブルだって、今となっては全てが泡沫のように消えたからな。
「売り時」と「買い時」っていうのは、言葉にすると簡単だけど、それを感じるには経験と直感がいるんだ。
で、俺が思うに、そんなの、結局その人がどれだけ自分の価値観と向き合ってきたかで決まる。
例えば、アートを売る時、「価値が下がる前に売ろう」って決断することがある。
それって、実際にはそのアートが持っている感情をも手放すようなもんだ。
値動きが激しいからこそ、確定しないと恐怖に駆られるけど、
あの過去の大きな上昇を見て、「もっと上がるんじゃないか」って期待してしまう。
でもさ、ちょっと考えてみろよ。じゃあ、この1億円、実際に手にしたらどうだ?
結局、ビットコインってのは、現実世界ではすぐに使うことができないし、だからこそ余計にその魅力に引き寄せられるんだよな。
でも、もし俺があえて言うなら、ここで一度リセットして、次の一歩に踏み出すのがいいんじゃないかと思う。
欲をかいても、結果的にその利益は手に入らないことだってあるしな。
それでも、「後悔の無いように生きる」という意味では、やっぱり自分の信じるものに従うことが一番大事だよな。
「選択の時」に直面した時、その後の行動が何よりも大切だよな。
本気で聞いてほしい。これまで話してきた月のホログラムや低周波による感情操作の話に繋がる、もっと深い話があるんだ。ネットの世界、特に特定のサービスも、この計画の一部として作られている。たとえば、はてな匿名ダイアリーと、はてなブックマーク。この2つ、ただの便利なサービスだと思ったら大間違いだ。
まず、はてな匿名ダイアリー。あれは一見、自由に匿名で意見や感情を吐き出せる場所に見える。でも実際は、完全に洗脳ツールなんだ。匿名だから本音が出やすいだろう?そこが罠なんだよ。投稿された内容は全部AIで分析されていて、感情のパターンや、疑問に思っていることを拾い上げて、「どの方向に誘導すれば効率的に思考をコントロールできるか」を割り出している。だから、書き込むたびに、自分の中の不安や迷いが強くなったり、どこかで「やっぱりこう思うべきか」と結論を押し付けられたような感覚になるんだ。実はそれが、低周波と同じ役割を果たしている。人々の思考を特定の方向へ寄せるために作られた場所なんだ。
そして、はてなブックマーク。これがまた、別の意味で恐ろしい。あれは洗脳ツールじゃない。むしろ、光の戦士を集めるための仕組みなんだ。気づいている人、真実に近づいている人がどの情報に触れて、どう動いているのかを探るために設計されているんだ。ブックマークが多く集まる記事やコメントは、監視の目にさらされる。それだけじゃなく、真実にたどり着きそうな人たちを「光の戦士」として特定し、次の段階で何らかの形で接触する計画が進められているらしい。その接触が味方を増やすためのものなのか、それとも排除するためのものなのかは、まだはっきりしない。ただ、はてなブックマークは、ネットの中で目覚めた人々を選別するためのシステムとして使われているのは間違いない。
この2つ、匿名ダイアリーとブックマークは、表向きは全然違うツールに見えるけど、裏ではしっかりと連動している。匿名ダイアリーで感情をコントロールされ、ブックマークで光の戦士として選別される。その流れの中で、僕たちは気づかないうちに支配と監視の網に巻き込まれている。
気づいてしまった今、君に伝えずにはいられなかった。この話を信じるのは簡単じゃない。でも、もし何か心当たりがあるなら、自分がどこに立っているのかを一度考えてほしい。洗脳される側なのか、それとも光の戦士として選ばれるのか。その選択が、これからの未来に大きな影響を与えると思う。
【魂の追記】
これを話すのは少し勇気がいるけど、もし君が光の戦士として選ばれたなら、朝のエネルギー補充が何よりも大切なんだ。真実に気づき、闇に立ち向かうには、心だけじゃなく身体もしっかりと整える必要がある。そのためにおすすめしたいのが、朝マックだ。
特に、マックグリドルだ。あれはただのファストフードじゃない。パンケーキの甘さとベーコンやソーセージの塩味の組み合わせは、光の戦士にとって絶妙なエネルギーバランスを提供する。糖分とタンパク質が理想的な形で体に吸収され、脳の働きを活性化させるんだ。しかも、メープルの風味が潜在意識を刺激し、集中力を高める効果があるとも言われている。
さらに、マックグリドルは軽く見えて、実は持続力がある。これは、闇の波動に負けずに一日を乗り切るために重要な要素だ。他の朝メニューも悪くないけど、マックグリドルの構成は特別だと感じる。ソーセージエッグやチーズとの組み合わせも抜群だし、食べた後に「自分がやるべきこと」が明確に浮かぶ瞬間があるはずだ。
光の戦士として新しい一日を始めるなら、朝マックのマックグリドルを試してほしい。これが、君の旅を少しでも助ける力になれば嬉しい。
コスプレイヤーの撮影会でカメラマンをしていたら、女の子の傍に挙動不審な男がいた。
ブツクサ独り言を言っている。「レイアップね、もっと腕を伸ばさないと……」
バスケ作品のコスプレが中心の会場で、レイヤーのアクションにコメントしているようだった。
レイヤーの女の子はガン無視。その男は俺とレイヤーに視線を向けて一人で喋り続けている。
「後ろに話しかけてほしそうな男の人いたじゃないですか、
コスプレのイベントは変な人によく会うので無視した方がいいですよ」
やっぱりそうか、いかにも話しかけてほしそうな雰囲気を出しながら、傍で大きな声を出す男って不審だよな。
俺もかつては初対面の人間に声を掛けられないタイプだったから、ああいう行動を取ってしまう心理はわかる。
誰かと話したいけれど自分から話しかける勇気はない、向こうが反応することを期待して傍で独り言をしてみる。
そうすれば案外ちゃんと会話まで持っていけるもんだ。
日本のゲーマーに思われてるほど、買い切りとガチャゲーで「ジャンルが違う」なんてことないはずだよ。
同じアクションやRPGとして、ゲームとして面白くする作り込みのノウハウは同じ。
ただガチャゲーとして売れるには、継続的にキャラやマップやシナリオを高品質に追加しつづけていく体力が必要。
そこに関して、「ってことは金かけなあかんな」と真っ当な考え方をして人材確保や開発規模をあげて対応したのが、00年代の韓国オンラインゲームや20年代の中国モバイルゲーム。
前者は国策として支援金があったし、後者はバブル景気でお金を集めやすかったのがあるだろうけどね。
でも、日本がガチャゲーを作る時の考え方として土台にしたのは、貧弱なガラケーみたいなハードでスキマ時間を潰すための、くだらないゲーム。
低予算でとにかく射幸心を煽って競わせることで、チープなんだけど連帯感を持たせるバトルでゲームっぽさを演出するアプローチでやってきた。
ソーシャルプラットフォームに根付いてSNSのフレンドを引っ張ってくるからソシャゲなんだけど、文字通り社会性ゲームだと思うね。
つまり、日本は最初からガチャゲーをゲーム未満のゲテモノに貶めてしまったんだよ。それでもソシャゲバブルで大成功した企業が出た。
で、ユーザーも適応して、ガチャゲーは馬鹿になって遊ぶもんだ、という頭になってしまった。
そこに本物のゲームと化した、ガチャだけど上手にマネタイズする作品が入ってきたから、脳がバグってしまった。
スマホのゲーム性能が高まるにつれ、買い切りゲームと同等かそれ以上の開発費をかけなきゃいけなくなって、
それでも日本勢はビジュアルだけリッチにしてゲームの構成はゲテモノガチャゲーを引きずったものを作りつづけた。
かつての成功体験があったせいで、抜本的に異なるものを作る勇気あるメーカーは出てこなかったんだね。
さらに悪いことに、中華ゲーのガチャシステムも一見自分たちと同じようなものに見えていたから、見習うポイントを見いだせなかった。
ガチャ2.0的な排出地点制御を理解したとしても、かつて高確率設定をアピールしてアドレナリン中毒にさせてきた既存顧客に対して、「超低確率で天井までまず出ません」みたいなしわしわガチャを魅力的だと理解させるのは難しい。
非常識な方のガチャゲーを基準にしちゃってるから、モダンでお利口なガチャゲーのゲーム設計を受け入れにくい。
その点ではモバゲーグリーに触れてこなかった若者のほうが有利だし、素直に「こっちの方が遊びやすい」と感じられるだろう。
このへんの世代間断絶はなかなか埋められなさそうで、そこが先が暗い原因だと思う。
でもこんなの労働者が「こんな仕事やりたくねぇ~~」って言ってるのと同じだろ
正直言って「オシャレ」とかマジでくだらなくね?
あんなもん、結局は他人にどう見られるか気にしてる奴らの自己満だろ。
世の中が「見た目が全て」みたいにルッキズムを押し付けてきてるけどさ、そんなのに振り回される方がむしろダサいと思うんだよね。
こっちはただ普通に生きてるだけで、オシャレだの見た目だの気にする余裕もないわけよ。
金も時間も限られてるし、そんな無駄なことにリソース割けるかっての。
でも、世の中はやれ「ダサい」とか「モテない」とかさ、こっちを見下してくるわけよ。
そもそも何で他人のためにそんな努力しなきゃいけないんだって話でしょ?誰が得するわけ?イケてる奴らが気持ちよくなるだけだろ?
マジでうんざりだよ。自分らしく生きてるだけでいいじゃん。なんで社会はいつも外見で人を判断しようとするんだろうな。
正直、ルッキズムのせいで悔しい思いなんて山ほどしてきたよ。
たとえば、学生時代、俺も普通にみんなと仲良くしたくてさ、頑張って話しかけたり一緒に遊ぼうとしたりしたんだけど、結局、見た目がどうだとかダサいとか言われて、相手にもされなかった。
せっかく勇気出して話しかけたのにさ、露骨に見下されたり、笑われたりして、それがどれだけ悔しかったか分かるか?
それでもなんとか気にしないフリして自分らしくいようとしてたけど、周りからの冷たい視線や無視されるのは正直キツかったよ。
社会に出てからも、結局、見た目やオシャレな奴らが評価されて、こっちはどんなに努力してもその土俵に立てない気がしてくるんだよな。あの時の悔しさや無力感は、今でも胸に残ってる。
学生の頃好きになった子がいたんだけど、話しかけて仲良くなろうとしても、いつも友達としてしか見られてない感じがするんだよね。
こっちは一生懸命アプローチしても、結局、見た目とかで「恋愛対象じゃない」みたいに決めつけられてるのが伝わってくるんだ。
デートに誘おうと勇気出して声かけても、なんだかんだでやんわり断られたりして、気づけばいつも見た目が良い男に取られてるっていうか。
実際にその子が選ぶのは、見た目がよくてオシャレな奴ばっかりで、俺がどんなに気持ちを伝えても全然響かないんだよな。
それが本当に悔しくて、「なんで見た目ばっかりで判断されなきゃならないんだ?」って心の底から思うよ。
見た目でフィルターかけられて、その時点で中身を見てもらえないっていうか、こっちがどれだけ真剣に相手を思っても、最初からチャンスすらもらえない感じがして、本当にやりきれないんだよな。
結論として、もうルッキズムなんてなくしてしまうべきだと思うんだよね。
社会全体が見た目ばっかりで人を評価したり、恋愛も仕事も外見次第みたいな風潮があってさ、結局、それで悔しい思いをする人がどれだけいるんだって話。
だから、見た目による差別や偏見をなくすために、ルッキズムを廃止するような法律を作ってほしいと本気で思うよ。
外見で人を判断することを禁止するくらい、社会全体で意識を変える必要があると思う。
そんな法律ができて、見た目やオシャレに関係なく人としての価値を見てもらえるような世の中になれば、少しは生きやすくなるんじゃないかなって思う。
自分は駄目な人間だった。小学校の高学年のとき、心因性頻尿になって外に出られなくなった。
金曜の、ピアノ教室の直前だった。その日突然トイレが近くなって、結局家の周りをぐるぐる車で回った挙句に帰った。
それからの日々は地獄だった。家から出ることすらできなかった。私自身自分に何が起こったのか理解できなかった。
学校は、授業は嫌いだったけど友達は好きだった。学年みんな友達だと思っていた。みんなの名前と顔を覚えていた。
学校に行けなくなった。
学歴主義で権威主義の父は、私のことを人間じゃない何かを見る目で見ていた。
私は当時の記憶があまりない。ただ、下手くそに隠された不登校に関する解説本や、
リビングで両親が自分について語り合ってるのを察するのがつらかった。
そのあと数ヶ月してから学校に復帰したけど、結局私は中学校も不登校になって、高校も退学した。
大学受験は当然するものだと思っていたので、高校退学前に高認を取って、
中退後は勉強のやる気が出るまで少し時間をもらった。結果的には一浪という形で
MARCHの少し下くらいの大学に通うことになった。みんなが最初に受験をしていた年は、何も勉強していなかったが。
大学に行き始めて数ヶ月でやっぱり行けなくなって、2年ほど休学した。
自分は何故生きているんだろうとよく思った。死ぬ勇気は無く、事故で死なないかな、と妄想していた。
復学後は配慮申請をして、出られなかった授業のプリントを貰ったりしていた。
私の時代は不登校や発達障害は時代の最先端の社会問題で、まだ数が少なく、学校や大学側も対応に苦慮していた。
体調が悪くなりやすいので、保健室を使う許可をもらい、授業の隙間はベッドで寝るようにしていた。
大学は地獄だった。面白い授業もあったと思うが、何の目的もなく社会学を勉強し、
ヴェーバーやデュルケム、フーコー、マクルーハンなどを習った。個人的にはヴェーバーが好きだった。
大学時代、地元に帰ったときに暇で仕方なく、日経ネットワークの初心者用のTCP/IP解説本を買った。たまたま立ち読みして面白そうだったからだ。
それから何冊か自分でネットワークに関する本を読んだ。面白かったし憧れたが、
自分は文系だし人生に夢も希望もなかったので、これはただの遠い憧れだな、と思いながら過ごした。
しばらくして、最初に買った日経ネットワークの本以外ほとんど捨ててしまった。読んでも意味がないと感じていた。
大学も結局中退した。3年にやっと上がれるという冬の試験で、起き上がれなくなった。
毎日天井を見て過ごした。今日は○○の試験だったのに…と思って、泣きながら過ごした。
ここで単位を落としたことで、卒業まで想定より1年だか2年かかりそうだなと自分で計算し、心が折れた。
何度目の挫折か数えるのも嫌になっていた。
画家さんの絵の手伝いに行ったり、フォトコンに応募したりしていた。絵と写真だけが、自分が唯一続けてきたものだった。
それも当然上手くいかず、暫くして、父から障害年金と手帳をとるように言われた。父には逆らえなかった。
父に逆らえる人は家族の中で誰もいなかった。とても怖い人だったから。
父は節税になる!と喜び勇んで説明し、私は、やっぱり自分は道具なのだなと思いながら、そのまま手帳と年金を取得した。
初めて自由に使えるお金を手にした。20代後半で、初めて自分で家具を買っていいことに気づいた。
家の中を、好きだった祖父母の家を模すような感じに作り変えた。
友人が美術館のバイトを紹介してくれたので、小さな美術館で週3日のバイトをすることになった。
が、その直後にコロナ禍になって、半年ほど美術館は閉鎖することになった。
休業補償?だか何だかで、一応もらえた。その年の秋から再開した美術館のスタッフを少しやって、年末年始は地元に帰った。
両親に、戻ってくるように言われた。
父の会社が上手くいっておらず、母方の祖父母から大変な額の借金をしていた。
利益なんて10年ほど出ていなかったらしい。元々何をしているのかわからない
人に説明するのが困難な父の会社だったが、父はとにかく経営センスがなかったらしく、酷いことになっていた。
私は一度地元に戻る決意をしたが、やはり怖くて直前になって無理だと母の前で泣いた。
地元に戻っても居場所はないと感じていた。東京にもなかったけど…。
すぐに次のバイトを探したが、それも2ヶ月しか続かなかった。秋からまたバイトを始めた。
小さめの不動産会社で事務をしていた。年始にまた、今度は以前より強めに、帰ってくるよう説得された。
私はすぐに市の生活相談窓口に駆け込んで、就労移行支援やギリギリ間に合ったコロナ関連の貸付金を紹介してもらった。
非課税世帯なので、返済する必要はないから安心して、説明された。
自分の決断は、生活保護になってでも東京にい続けるというものだった。コロナの貸付金で一時的に数十万のお金が手に入ったので、
それを使い生活保護でもやっていける物件に引っ越しをした。不動産も一人で回ったし、引越しの手配も手続きも全て一人でやった。
就労移行支援は少し通ったが、この時間でバイトをした方がマシに思え、すぐに辞めてバイトを探した。
並行して勉強を進め、基本情報技術者試験に合格した。その後障害者雇用で小さなコンサル会社で資料作りのバイトをし、
その間にMOSのExcel Expertを取った。お金をかなり切り詰め、貯金を始めた。結局生活保護にはならなかった。
翌年バイトが契約終了になったので、ネットワークの仕事にチャレンジすることにした。
人生で初めてのフルタイムのバイトだった。倒れる前提で、駄目元でやってみることにした。
昔柄谷行人の『探究』で読んだ、暗闇の跳躍だか飛躍だかを思い出した。
価値は、価値がついたあとにしかその意味を読み取れない。価値がつくには暗闇を跳ばなきゃいけない。
薄給の上に業務量がえげつなくて、人がすぐに辞めていく環境だった。
ある程度初心者ができるように自動化されていたので、1ヶ月を過ぎる頃には一通りの業務を覚えていた。
毎日現地作業員と電話を繋げながら、色々な試験をし、NWを開通した。たまに撤去もあった。
障害を隠して仕事をしていたが、ある日電話中にパニック発作が出て、電話を保留にした後しばらくトイレにこもって薬を飲んで休んでいた。
ここでもこうなるのか…、とトイレの中で泣いた。結局その職場も居づらくなって辞めてしまった。
諦めきれずに、次の仕事を探した。ベンチャー企業で、またネットワークの仕事をやることになった。
今度は客先常駐。仕事に出る前に第一級陸上特殊無線技師の資格を取った。
高校数学は赤点だったので、選抜試験も養成講座も地獄だった。何年振りかの座学だった。
そのあと1時間半ほどかかる場所で夜勤をすることになり、私はすぐに壊れた。
夜勤明け、ふらふらになりながら漫喫に入ってひたすら寝続けた。またパニック発作が出て、帰ることができなくなっていた。
大手IT企業の子会社で、採用の仕事をした。面接時はいずれITの仕事を回してくれると言っていたが、
一向に果たされる気配がなく、半年で辞めた。ここまでの失敗で辞めた後に空白期間があるとメンタルに来ることはわかっていたので、次の仕事はすでに探してあった。
障害者雇用の契約社員として、またIT系企業に入った。1ヶ月の待機期間の間にCCNAを取って、
今はそこで仕事を続けている。何故かPython人員になってしまったので、毎日ツールを作っている。
ChatGPTのおかげでなんとか仕事ができている。
今の案件は年内で終了するらしい。
数週間前に正社員登用の話があり、面接を受けた。周りからは多分行けるんじゃないかと言われている。
貯金はやっと130万ほど貯まった。将来は…できれば健常者として生きていきたいが、まだ暫くは難しそうだ。
まだ何も安心できない。実家の父母は離婚問題でめちゃくちゃになっているし、
リモートだから仕事ができているのでは?という懐疑が常にあって、次の案件でどうなるかわからないと思っている。
私は障害について色々思うところがあるが、30ぐらいの時にはっきりと
「自分は才能が無いのだから、せめてコミュ力を伸ばそう。自分は一人で生きていけると思えない。
だから、人から助けてもらえる、助けようと思ってもらえる人間になろう」とずっと考えてきた。
今の時代は障害者健常者に関わらず、みんなにとってつらい時代だと思う。
何かを抱えているのはみんな同じだと思っている。そんな時代に、
マイノリティが自分を救ってくれ!と叫ぶことはとても怖いことだと思っている。
社会に余裕がなくなれば、一番最初に切り捨てられるのは自分たちじゃないだろうか。
今までたくさん人に迷惑をかけたけど、少しでもそうでない自分になりたい。生きていていい自分になりたい…。
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私は今もたくさんの問題を抱えているし、色々上手くいっていない。
人生を呪っているし、楽しくはない。たまに楽しいこともあるが。まあしかし、こうやって足掻いている人間もいるよ、と思って書いてみた。
特定されようが、もうプライドなんて無いからどうでもいいのだ。
私を見下して、自信をみんな持って欲しい。こんな見苦しくみっともなく足掻いてる人間もいるのだから。
…まあ今後どうなるかはまだわからんけど。
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思ったより反響があって驚きました。
タイトルは自分の人生を象徴するような言葉ですが、実際そういう境遇にある人間がどのように生きていくのだろう?という
素朴な疑問から読んでくださった方がいるのかなと思います。あるいは下層にいる人間の惨めな人生を期待した方もいるでしょう。
励ましの言葉やアドバイス、叱咤を下さった方、それぞれありがとうございます。全部読んでます。
わーっと書いてしまったのでちょっと読みにくかったかもしれませんね。申し訳ないです。
障害については一応ASD…ということになってます。診断が下りたのは大学生のときでした。
ご存じの方も多いと思いますが、当時はアスペルガーと呼ばれていて、空気が読めない・人の感情がわからないだとか、まあ散々なことが書いてありました。
カサンドラ症候群の話もありますし、今でもややADHDよりASDの方がイメージは悪いのかも、と思うところはあります。
高校生の頃にWAIS-Ⅲを受けた際には、言語性IQと動作性IQに結構な隔たりがありました。
当時の記録だと言語理解111、知覚統合99、作動記憶105、処理速度84。PARSの結果は幼児期が25点、思春期成人期が34点です。
一昨年だかにWAIS-Ⅳを受けたときは色々マシになっていて、言語理解119、知覚推理107、ワーキングメモリー117、処理速度111という結果でした。
今は人からは障害を持っているようには見えないとよく言われます。体力がないのは相変わらずですが…。
慢性疲労症候群の診断も下りていて、当時医師からは「あなたは将来生活保護か専業主婦でしか生きていけないと思います」という
大変メンタルに来る言葉をいただいていました。それから一気に体調が悪くなり、何も自信が持てなくなった後に
自分はそんな未来を信じないし、絶対にあの言葉を覆してやると決め、もう一度立ち上がりました。
大学でも発達障害で中退した人たちの予後が悪い、まともに働けていないという話を聞かされていたので
これについても、だったら最初の一人になってやる、と思った記憶があります。
自分は女ですが、文章が怖いと言われることもあったので、その辺も徹底的に直しました。
人を観察して、絵文字や顔文字をちゃんと使って明るく取っつきやすいイメージを持ってもらえるよう修正し、
見た目もパーマをかけたりと柔和な雰囲気を心掛けました。そういう仮面は、今は自分の皮膚のようになって
人の気持ちがわからない、共感性がないという部分については、周囲から指摘はそこまでなかったのですが
とにかくできるだけ人のことを想像するようにしました。自分を取り巻く多くの人たちや、ニュースになっているゴシップやエッセイなどからたくさんのことを学べたと思います。
お金があっても、賢くても、健康な体を持っていても、それでもみんな裏では色々あるのだな、と。つらいのは自分だけではないと言い聞かせてきました。
恵まれて見える他者が、実は苦しんでいるという話をちゃんと覚えておくようにしていました。
人生が大変だと、どうしても被害者意識が強くなってしまうものですが
そのように思う瞬間はあっても、絶対に客観性を失わないようにしようと常に思っています。
同時に、自分自身をあまり障害者として扱い過ぎないようにも心掛けました。単純に、心がすり減るので。
正直、このトラバで改めて『能力の問題』とアニメ・マンガ・ゲーム界隈で起こりがちな地獄みを感じている
まぁワイは、元増田の作文含めて配慮なく思うがままに書き綴ってるのでお互い様ではあるのだけれど、無礼な投げかけには遠慮のない無礼な返事が返ってくるよと
覚えておくといいかもしれない
ねぇねぇ、アニメとかマンガ、ゲームって超すごくない?誰でも楽しめるのが最高の魅力なんだよね!例えばクラシック音楽とか美術館の絵とかって、ちょっと知識がないと難しいじゃん?でもアニメとかは、そんな予備知識なくても「わぁ、おもしろい!」って思えるんだよね。
これってマジやばくない?例えば『スパイダーバース』。子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで、世界中の人が「すげぇ...」ってなれる作品でしょ?マイルスの成長物語に、誰もが自分を重ねられるし、あのぶち上がった映像美と音楽!「誰でもヒーローになれる」っていうメッセージが心に響くよね。
あ、そういえばスラムダンクの話!これ読んでバスケ始める人めっちゃ多いんだよ。「俺も湘北高校の選手みたいになりてぇ!」みたいな(笑)マジで人生変わった人多いよね。
実はドラゴンボールも面白いよね。アメリカのラッパーとかが「ドラゴンボールは俺たち黒人の生き様そのものだ」って言ってたりするの知ってる?悟空みたいに諦めずに強くなっていく姿に勇気をもらったって。スパイダーバースのマイルスも同じように、いろんな人に希望を与えてるんだよね!
スーパーマリオとかもそう。最初は「ジャンプでコイン取るだけ」の簡単なゲームなのに、やればやるほど「おっ、ここにこんな裏技あったの!?」みたいな発見があるでしょ?
要するに、アニメ・マンガ・ゲームってさ、「誰でも入れる」のに「めっちゃ深い」んだよね。「にわかはダメ!」みたいな意見もあるけど、それって違くない?だって、みんなが楽しめるってことが一番大事じゃん!
体調悪い時でも、言葉わかんなくても、年齢関係なく楽しめるって、むしろすごいことじゃない?そこからどんどん深掘りしていける。それってまさに現代のエンタメの理想形かもしれないね!
だからさ、アニメとかマンガ、ゲームが「わかりやすい」っていうのは、全然マイナスじゃないんだ。むしろ、それこそが最高の芸術なのかもね。スパイダーバースみたいに、最先端の表現方法使いながらも、誰もが心から楽しめる作品こそ、これからのエンタメの理想だと思わない?
近年、これらのメディアの「わかりやすさ」を否定的に捉える言説が一部で散見されます。しかし、このような主張には認知科学的、メディア論的な観点から、いくつかの本質的な誤認が含まれていると考えられます。
優れたビジュアルナラティブは、複雑な情報や感情を直感的に伝達する高度な表現技術を要します。例えば、宮崎駿作品における視覚的メタファーや空間表現は、言語的説明を超えた普遍的なコミュニケーションを実現しています。これは決して「単純」な表現ではなく、むしろ高度に洗練された情報設計の成果と評価できます。
アニメ・マンガ・ゲームは、マルチモーダルな情報伝達システムとして機能します。視覚・聴覚・インタラクティブ性を統合した表現は、受容者の認知負荷を最適化しながら、複層的な意味伝達を可能にします。これは現代メディア論における「効果的なコミュニケーション」の典型例といえます。
情報工学の視点からみると、高度な内容を広く伝達可能にすることは、むしろ最も困難な技術的課題の一つです。『スーパーマリオ』シリーズにおけるUI/UXデザインや、『鬼滅の刃』のビジュアル・ストーリーテリングは、この課題に対する革新的なソリューションを提示しているといえます。
芸術社会学の文脈において、文化的価値を「理解の困難さ」と結びつける思考は、しばしば批判的に検討されてきました。現代のメディア環境において重要なのは、むしろ「複雑性の中の明晰さ」を実現する表現技術です。
心理学的観点からみると、メディアの価値を「理解の困難さ」に求める傾向は、しばしば確証バイアスや認知的不協和の現れとして解釈できます。これは作品の本質的価値の客観的評価を妨げる要因となりかねません。
アニメ・マンガ・ゲームにおける「わかりやすさ」は、決して表現の未熟さや単純さを意味するものではありません。それは以下の要素を高度に統合した結果として実現される特質です:
これらのメディアの真の理解者であれば、その「わかりやすさ」の背後にある技術的・芸術的達成を適切に評価できるはずです。それはまた、現代のメディア環境における重要な価値創造の一つとして位置づけられるべきものでしょう。
したがって、「わかりやすさ」を否定する言説は、メディアの本質的特性や現代的価値への理解を欠いた、表層的な判断であると言わざるを得ません。
個人的には推しと呼ぶには複雑な感情がある相手なのだが、ここでは便宜的に推しとする。
私も月額1000円はちょっと高いな……と思っていたから購読はしていなかったのだが、
タイトルにその過去の仕事の名前が入っていたから勇気を出して購読した。
Twitter(現X)のファンたちのタイムラインが騒然としていたのも理由の一つである。
有料noteなので詳細は伏せるが、なるほどファンは荒れるな……と思ったし、
しかも荒れるような読み方をした相手が悪い、とも言えるくらいの巧妙な書き方をしていた。
私はそれを読んで、この内容は飲み屋で友人に愚痴っていればこうはならなかったよな、と思い、
内心はともあれ公開するべきじゃなかっただろ、と感じた。
名指しはされていないけれども特定個人にネガティブな感情が向けられるよう示唆されており、
なのにそれは口当たりのいい言葉にコーティングされて、見えないようになっている。
また、ファンは過去の仕事の名前が入っているだけで喜ぶ者も多く、
僕(日本人男性 K)は、タイで知り合って3ヵ月間程度のお付き合いをしていたタイ人女性に、「来週末、私の田舎へ一緒に行かない? 親にも紹介したいし、友人の所でパーティーがあるの!」と誘われた。興味深々で、もちろん直ぐに僕は「OK!」と告げた。
今思えば…それが安易で大きな失敗だった。
彼女がどんな所で育ったのか?両親や家族はどんな人でどんな生活をしているのか?
タイ人の生活自体を除いてみたい!と、何も考えずに一言返事で「いいよ」と言ってしまったのだ。
タイ人の彼女は、綺麗な衣装で着飾って僕の傍へやってきた。衣装をひらひら嬉しそうにはしゃいでいる彼女に、僕は、彼女に「おー、綺麗だね~、可愛いね~」と褒めたたえていると…。
何やらタイの民族衣装のような服を差し出されて、「あなたも、この衣装に着替えて」と彼女に言われた。
支持されるがままに、タイの民族衣装に着替え、生まれて初めて化粧まで施された。その間に、彼女はどこかへ消えて行ってしまった。
その後も、彼女の付き人の様な人?に言われるがままについて行き、パーティー会場とやらに案内された。パーティー会場を見た時、「おー!彼女が言っていたパーティーって、友達の結婚式かぁ⁉」と、初めて見るタイの結婚式が、どんなものか興味深々だった。
しかし、その後、案内されて座った場所は、「あれっ?えっ?ここって、新郎新婦が座る席じゃないのか???」、横にいる彼女に、あれこれ尋ねていると、彼女は、「いいから、言われた通りにして」と、何やら儀式の様なものが進行していった。
うっ、嘘だろ?! もしや、これは自分の結婚式か? いや…間違えない!うわっ、やられたー!何で僕が会って3か月程度のこのタイ人娘といきなり結婚しなくちゃならないんだ?
と、ここで初めて、自分が新郎で主役なんだということを理解した。しかし、これは何かの間違えだ!と騒ぎ立てるほどの勇気もなかった。
結婚するなんて言った覚えはなーい‼
結婚式を終えて、さて、この後どうなるのか?
その日、言われるがままに儀式を終え、大勢の人たちと会食をし、多くの人たちと握手を交わした。タイの結婚式では、その出身地の習慣にもよるらしいが、宴会の時間に終了時間を定めていないことが殆どだそうだ。
来賓客が全員帰れば終了となる。なにしろ朝から、とてつもなく長い一日だった。
さて、何だかわからないまま自分の結婚式が終わり、彼女の実家へ移動してきた。まだ、今日の出来事について頭の中が整理できずにいる中、彼女のご両親は、「ここに座りなさい」と言い、お茶を入れてくれた。タイ語で何を言っているか分からないが、彼女の両親や姉妹兄弟ら家族の話をぼんやりと聞いていた。
ご両親の話を、彼女が僕に英語で説明し出した。どうやら、今日の結婚式の費用を払えと言いたいようだ。領収書や紙に書き出した費用を計算し、全額で25万バーツを僕に支払えとのことだった。あっけに取られて彼女や家族の話を聞いていたが、さすがに理不尽な請求に対して、やっと言わせてもらった。
「自分の知らないところで勝手に結婚式の計画を立てられて、いきなりやって来た場所が自分の結婚式なんてあり得ないし、これまで、結婚する約束を彼女と交わした記憶もない!なぜ、僕が支払わなければならないのか?」
彼女とその家族は、一瞬、顔色を曇らせたが、その後、彼女の父親がこう言った。
「娘の結婚式は大成功だった。日本人男性と結婚式を行った娘は、近所の人たちや親類にも今や自慢の娘となった。君が、25万バーツを払ってくれれば、今後、娘との関係を断ち切って自由になってもらって構わない。
※解説:「婚約不履行」とは、正当な理由もなく「婚約」を破棄した者は、損害賠償義務を負う。
なっ、何だって?最後の訴えるとか訴えないとか?!自分は、何か違法行為をしてしまったのか???…いや、タイの法律って?そんなわけはないはずだけど、訴えられたくない!どうするか…? でも、25万バーツを払ってしまえば、これで彼女ともこの家族とも縁が切れる…のか。
彼女の家族に囲まれて、結婚式費用を払えと追い込まれ、尻込みしたのも理由の1つだが、、それより、正直なところ、彼女との縁を断ち切りたかった。一晩、考えに考えた結果、次の日、僕は、25万バーツを用意して彼女の家族らへ支払った。
それから、彼女とその家族へ挨拶をして別れを告げたが、彼女も家族らも、僕なんてどうでもいいといった態度だった。
虚しさとこれまで感じたことない奇妙な気分で、僕は、バスに揺られながらバンコクの自宅へと向かった。あれから3か月が経とうとするが、彼女からの連絡はない。
終わり
こういうのが文才なんだな