はてなキーワード: 補填とは
でもって、10万円は絶対に越えられない。高すぎると誰も買わなくなるというのもあるけど、本当の理由は法律。「割賦販売法」って奴。
キャリアで普通にスマホ買う場合、大半の人は24ヶ月の分割払いしてると思う。クレカ払いの人もいるだろう。ところが、これってさっきの法律で色々制約あるわけ。
日本クレジット協会のサイトに書いてあるけど、
Q2.
少額な商品に個別クレジットを利用する際にも、支払可能見込額調査は行われるのですか?
A2.
もちろん、支払いの遅れなどを確認する通常の審査は行われますが、法律では、携帯電話などの10万円以下の生活に必要な耐久消費財を店頭で購入する場合などについては、クレジット会社は、支払可能見込額調査をしなくてもよいことになっています。
要するに、基本的にモノをクレカで分割払いで買う時は、売り手は書い手の信用情報を事前に調べなきゃならんわけ。
ただし例外として10万円以下の携帯電話はしなくてOKよ、という事になってる。
だからスマホの本体価格は「絶対に」10万円を越えられない(消費税込みで越えてもいいかどうかはちょっと分からん)。
いや別に出してもいいんだけど、10万円を越えたらクレカでの販売は手続きがクソ面倒になるので諦めなきゃならない。
ところがここだけの話、国内メーカーのスマホって10万円未満だと赤字なのよね。それ位に高コスト体質から抜け出せずにいる。
しかしそうなるとスマホを作る会社が無くなってしまうので、キャリアがこっそりと赤字分を補填している。あのクソ高い通信料金から。
イメージとしては、
スマホの「本当の」本体代金=スマホの「表向き」の本体代金+××ヶ月分の通信料金の一部
こんな感じ。
こないだSIMロック解除義務化が開始されたけど、最低でも半年以上契約しないと解除に応じないとかクソふざけた事をキャリアがほざいてるのはこの辺が理由。
たとえ現金一括払いで「表向き」の代金だけ払っても、まだ「本当の」本体代金を全額支払った事になってないんだわ。
最低でも半年分の通信料金を払い終えて初めて「本当の」本体代金を支払い終えた、という事になってるわけ。
docomoの社長が半年契約義務を「転売防止のため」と説明したのもこれ。
日本のスマホメーカーってのはそういう甘ったれたぬるま湯に浸りきってる会社ばかりなので、純粋に本体代金だけで利益をあげなきゃならないSIMフリースマホを出すなんて無理。
こないだ、実売2万円位の出来合いの廉価スマホにロゴマークを付けただけで5万円になったVAIOフォンとかいうのが出たけど、要するにあれだ。
2万円くらいのモノにさらに3万円くらい上乗せしないと儲からない位に物作りがヘタクソなんだよね。
だから出さないし、出してもスペックの割に海外メーカーのよりもかなり高い。高いから売れなくて、全然本気にならないってわけ。
月イチかそれよりちょっと多いぐらいのペースで寝起きに偏頭痛の発作がくる。
起き上がれないし、眩しくてカーテン開けたり部屋の電気も点けられないみたいな状態になるから、
当然会社行けなくてとりあえず午前休申請して処方されてる薬飲んで効くの待って寝てるしかなくなる。
そして薬の効きがイマイチだったり深めに寝てしまったりすると、
治まったころには午後からの出社に間に合わない時間になってて結局全日休みになってしまったりする。
他に病気したりして有給使ってると欠勤になったりするので万年勤怠ズタボロで退職勧奨食らったりとかし始めた。
この件とか
むろん痴漢冤罪の裏には本物の痴漢と痴漢被害者としての女性がいるのだとは思うが。
しかし電車という使用頻度の高いインフラの中で人生が簡単に終わってしまうリスクを考えると、そうのんきな事も言っていられない。
ある場面では完全に被害者だし、別の場面では他人の人生を指先一つで左右できるほどの強者でもある。
弱者としての女性には非常に心強いが、どこまで行ってもその権利拡張は終わらない。
システム的にそういうものが用意されてないから、女性がある面で強者になっても権利拡張は止まらないし、むしろこの権利拡張がフェミニズム自体に資する形で加速度的に力を増す。
一方で依然残る女性の弱者としての側面は放置され、解決されない。
弱い点がある分、より拡張が容易な既に強い部分で補填しようとするし、女性の強者としての側面への反感がフェミニズムへの反感に繋がるのは一連の議論を見れば分かる通り。
女性の弱い部分はどんどん弱くなり、強い部分はどんどん強くなる。
こうして弱者とも強者とも言えない歪さがどんどん尖鋭化されていくことになる。
男性も結局のところそうなのかもしれないが、現代の女性について弱者or強者という素朴な二元論はなんら有効性をもたない。
それはフェミニズムの掲げる「女性は一方的に抑圧される者」「男性は一方的に抑圧する者」という素朴な対立構造も同じ。
実際には双方、抑圧しつつ抑圧され、弱者でありながら強者でもある。
男性にとっても女性にとっても、まず、弱者VS強者、抑圧VS抵抗、というあまりに単純過ぎる構造を脱構築するところから始めるべきではないのか。
1.税収の増減を考えるときに増税後の1年だけ考えてどうする。増税した年に景気悪化で税収が下がったところで、景気循環を均して中長期的に見れば増収になるに決まってるだろ。そうでないというなら、現在の日本がラッファカーブの右側にいることを論証せよ。
2.BIを入れたって、生活保護や年金の代替にはなっても、健康保険や介護保険の代替にはならん(正確に言うと、世のBI論者がいう規模では)。
3.財務省は軽減税率の導入には一貫して反対しているぞ。軽減税率導入が消費税増税の目的だというなら、ソースを出せ。高橋洋一がそう言っているってのはソース足り得ないからな、念のため。
4.輸出戻し税について、自分で「外国に売る分には日本の消費税がかからない、という事もあるが」って書いていることの意味がわかっているのか? 払う方では消費税を払っているのに、受け取る方では消費税相当額を受け取っていなかったら、輸出企業は身銭を切って消費税を払わなきゃならんだろうが。外国相手では買い手から受け取るわけにはいかないから、税額を戻してもらっているだけだ。どっちも払うか(国内取引)、どっちも払わないか(輸出)、いずれにしたって損得なし。
5.大企業が消費税増税に前向きなのは、社会保障負担、とりわけ健康保険負担増加を懸念してというのが大きい。国保や協会けんぽの財政がこのまま悪化していくと、(1)国民皆保険をあきらめる、(2)給付水準を切り下げる、(3)国の財政負担で維持する、(4)組合・共済と統合して財政状況のいい組合・共済に補填させる、しか選択肢はない。(2)は後期高齢者医療制度の顛末を見れば大した規模では期待できない、(2)ですらそうなのだから(1)はもっと期待できないとなると、(3)と(4)しか選択肢は残らない。で、(4)は嫌だから(3)にしろ、というわけ。
俺がこの詰み状態から抜け出すには、俺のことを受け止めてくれるそこそこかわいい未婚女性と、ネットやゲームに張り付くよりも楽しく生産的な何かが必要なのだろう。あと金。
増田の自己不全感は(研究者の道という増田が考える)エリート街道からドロップアウトしたことに起因するのだから、恋愛は増田を救わず、社会的地位の回復や仕事上の成功によってしか増田は癒されない。
それに、劣等感を恋愛で補填しようとすると「彼女のいる男というステータスが欲しいだけ」とか「ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ症候群」などと非難されるのが目に見えている。
まあ、俺も増田と似たような境遇で、失った社会的地位を取り戻すまで女性に好かれる資格はないと考えているからこそ、当面は恋愛も結婚も自分から拒否するしかないんだが。
ところで今週はロト7で1万円当たったんだ
これをどうする?
全部ロト7につっこむのが正解だ
実に正しいだろう
皆も参考にしてくれ
id:mouseion 毎年宝くじで10口買ってるけど300円しか当たった事ない。東大生曰く、あれは元々当たらないように出来てて、赤字補填するために宝くじを利用してるんだってさ。
http://www.takarakuji-official.jp/educate/about/proceeds/この数字は宝くじバイヤーとしては基本だから押さえとくといいぞ。その東大生はしばいとこう
id:ad2217 親に寄生してるなら、かあちゃんに一万円渡すのが一番効率のいい投資。
寄生しとらんわい
id:ore_de_work 働かずに済むほど稼げる確率は宝くじよりもっと高い
いや低い
id:sds-page 株は最低100万から始めるべき 増田 株 ネタ
id:sainokami 宝くじは貧者の税金。猫の話を真に受けるのはちょっとな。その時の地合とかあるし。
id:hungchang http://labaq.com/archives/51776550.html 増田
信託なんてできねえな
id:SndOp あぶく銭はやっぱり身につきませんな。
別に一緒に住むわけでもないしどうでもよかった。
んでこっちも就職・結婚・転職してそれなりにまっとうな人生を過ごした。
義母は娘が一人いたけど当初は結婚してなかったからうちの子に対して季節イベントで贈り物とかはなく下手すると忘れられてた。
でもそれはどうでもよい。
結婚した時は地域の風習が違うから相手方が思ってる結納金と準備した結納金の額が少なくて自分で補填した。
父に言えば気を悪くするだけだし以前、義母にお金に関しては行ったところで緩くとりなしてはくれないってわかったから。
書いては見たもののこれも別にどうでもよい元々自分で出すつもりだったし好意で半額準備してもらえたと思えばなんちゃない。
連絡も精々2~3か月に一回程度のすればいい方頻度。
ま、大学時代に事故で入院したりとか多少なり世話になった気はするから母の日と父の日、父誕生日程度には贈り物をしてた。
疎遠って程でもないけどまめに連絡を取り合うって程でもない。
元々、再婚してから家に戻ったこともないし関東から義母の生まれが近い関西圏に引っ越ししてしまったしでこっちは土地勘もないし実家って言う雰囲気もまったくない。
こっちとしては俺もなんとか独り立ちできたし再婚してから第二の人生適当に過ごして位しか思ってなかった。
それが義母の娘が結婚して孫が生まれた途端、自分ちにしたいが故なのかこっちにイベントごとになんか送り付けてくるようになった。
。。が寄る年波による体調不良は誰にでも出てくる。
やれ目眩が、やれ疲れやすいや。。。ま、この辺は適当に聞き流しとけばいいと思ってた。
なら行かねーよ。めんどくさい。
ってことでもう次は適当に流してればよいかと考えた。
そしたら今度は入院。
次は股関節にウィルス入ってちょっと矢場目で1か月ほど通院から急きょ入院。
こっちは元々、知らせがないのは元気な証拠をモットーに今まで過ごしてきたのにいきなり「1か月以上入院してるのになんで連絡してこない!」ときたもんだ。
いやいや、エスパーでもないし連絡なければ知りようがない。
正直、他でも入院してるようだけど聞いてみると「心配かけたくないから連絡しなかった」だった。
普通、父がどういおうと母的立場の人が子供に連絡なりするもんじゃないの?
そういうのあって「なんで、見舞いも連絡もない!」ってがられるならともかく「お前たちが俺を気遣って連絡してくるのが普通」ってどうなん?
そんな超能力あったら今頃、一稼ぎしてるがな。
ま、それはともかく知った次の日はさすがに仕事の都合もあるから翌日(平日)に新幹線で片道5時間かけて見舞いだけの為に日帰りしたさ。
義理立てはあるから義母の方も見舞ったしあっちは小さな手土産も出したよ。
んで父とこ行ったら父姉(よく知らない)もおってからこっちは特に話すこともなく老人特有の昔話を聞いたさ。
話くらい聞いとかないとね。
んで、義母はともかく父の病状は安定して回復してるって言質取ってから帰ることにその時は1週間に1度くらいは連絡くれって言うから生返事で帰ったよ。
毎週は俺も話題ないから妻にも協力してもらおうとお願いして「メール位ならOK」って感じだった翌週。
現役世代は慶弔事や日々のごたごたで1週間なんてあっという間。
俺も嫁もついでに俺姉兄も見事に忘れてた。
さてそろそろ連絡一つでもと思いだした2週間後、事件は起きた。
「2週間連絡一つない、お前ら何考えてる!義母も俺が可哀想だと泣いてるぞ!!」だっそうだ。
言う前にこっちに直接、連絡してこりゃ相手位できるのに。
ま、連絡しなかったのはこっちも悪いからそのお小言は甘んじて受けましょう。
だが、「忙しいとかの言い訳はつまらん。1週間に一度は俺には電話、義母にもメール送れ。思いやりとかお前足りないだろ!」
こっちの都合ガン無視の言い分に怒りが込み上げてきた。
。。。が実父なんでここは我慢。
俺は素直なんで言われた通り経過確認のメールも義母に送ったさ。
実際に見舞行って経過は良好で退院の見通しがあるって聞いて2週間しかたってないのに
「連絡しないのはお父さんが可哀想」?
「見舞い後、大変でした」??
はい?
通り魔的な喪に刺されたとかならともかく先にも書いたけど入院時に連絡一つせずに自身の体調不良に気付いてて特段理由もなく悪化させて入院騒動を起こし
悪いと思って1日潰して見舞行った後にそれですか?
第一、兄姉の近所か、うちの近所に入院するならともかく自分で遠方に住むことを選択したんだからこういう事態の時にこうなるのあたり前だろ?
子供と疎遠なのは今更だし育て方間違えてないって言い張るならそれはそれで育ち方間違ってごめんなさい。
きちんとした病院に金銭面の不安もなく入院し回復傾向にあるなら心配なんてしません。
あなたが俺と変わらない年齢の時は仕事って言う非常に都合のよい言い訳で家にいなかったしそのせいで(故)実母は宗教ハマって俺もある程度連れまわされたからか
その後の準丸走時代の事故歴でなのか姉兄とは少し人生観って言うか生命観持っててすごくその辺ドライなんだよ。
宗教的に言うなら「死は怖くない、すぐ隣にあるものです。」とかって感じか?
ま、いいや。
上にも書いたけどちょっと世話になった程度の義母の心配なんて特にしてないし正直どうでもいい。
実父に関しても回復傾向である以上、入院生活が暇で構ってちゃんなんだろうなーっとしか思わない。
心配かけたくないなら最後まで貫け。当事者がまともに連絡もしなかったくせに問題が大きくなってから逆切れすんな。
どっちにしても死んだら悲しいと思うけど心配なんてしないよ。
今のところ人はいつか絶対に死ぬんだから心配したってしょうがない。
ってか実父は実子に対して義母に配慮しろとか文句ばっかで全く配慮というか味方感ないな。むしろ敵だ。
子は親を映すのであれば今まで自分がしてきたことが今まさに帰ってきてるんだよ。
それから近くに住んでる妻側の義両親にはそれなりに「思いやり」をしてるからうちの子は大丈夫。あんたが口出しする話じゃない。
次は実父には連絡するけど我の女の機嫌も取り切らんでまた文句言うなら成人するまで育ててくれた礼を言ったうえでうちにはイベントごとのお祝いとか不要宣言して連絡しないかな。
文字にすると少しは整理できるかと思ったけどすっきりせんな。
さて、姓の変更の仕方でも調べるか。
別人ですが補足させてください。
芸術業界は補助金漬けである。(伝統芸能・古典芸能は主に調査・保存・普及で補助金の制度は存在する。)
TVアニメも芸術の事業ではあるが、経産との結びつきの側面が強く見える。
アニメーション/アニメは映画のような形態については対象になりやすく、補助金でファンディングしてるものもある。
しかし、申請→第三者機関の選考という流れがあろうがなかろうが、豚に「国(公的機関)が関わると駄作になる」「血税ガー」と喚かれやすくなる。
政策・方針により下りやすい事業は明らかなので、それに関連付けられたものばかりになりかねないという確かに頂けない点もある。
あと、新作ばかりが好まれるのも頂けない。
補助金は赤字補填の意味合いが強く、使途制限もある上に、採択年数の慣例や首長等で安定的ではないため、頼り過ぎるのは得策ではない。
そのため、無駄に予算を盛った申請をすることにしばしば迫られるが、使いきらないと仕方なく期末に無駄に何かを買い込むこともある。
売上がどうなろうとペイできるような状況にも持ち込めるので、それらの意味で駄作が生まれることもある。
まず、出資元はファンだから投資しているわけではないし、自然人ではないので、ファン獲得が結局は有効なのである。
(お金を出すことがファンの証だとは微塵も思わないが、運営においては最重要ポイントと言って過言ではない。)
うれしさは自由度に比例するが、結局は何を必要としているかで変わる。
正規雇用を増やしたいならうれしさは「人件費補助(+管理費)>事業補助(+管理費)」ではある。
管理費等で諸々積めないと後々終わるので、管理費なしの補助金に頼ることは打ち切られた瞬間に人間を路頭に迷わせることに繋がる。
定量的な評価が難しい部分(内容)は、優れた人材が多いか少ないか/育てられているか育られていないか/集積しているか拡散しているかの問題である。
また、単体で見るのか全体で見るのかで評価は大きく変わる。
発表媒体と経営規模を再考するという当たり前のことはやっている。
ただ集積するだけでは血が濃くなるだけで、その内容面で寧ろ悲惨になりかねない。
・経産は産業とした方が良かったですかね。あちらは門外漢なのですが、暗に好きじゃないのがバレてしまいますね。
・質向上は実践の場(作って鑑賞される機会)がないと中々進まないので、そういった助成を上手く使うことが必要だと考えています。
介護サービスを提供した事業者に支払われる「介護報酬」が2.27%引き下げられることになりました。
この「2.27%」だが、これは介護報酬全体での率で介護サービスにより下げ率は変わる。
中でも引き下げ率の高いサービスとして「特別養護老人ホーム」「デイサービス」が挙げられる。
率として10%〜15%程度となる。
この2つに関して今後どうなっていくのか、勝手気ままに予想してみる。
そもそもこの2つのサービスの下げ率が高い理由は「儲かり過ぎだから」という事になっている。
確かにきちんと予算を組んで、無駄な人員配置をせず、健全な経営をしていれば儲かるでしょう。
しかし、大半はそんなことはありません。経営能力に乏しい方が施設長になっている事もあります。
また、儲かっていても従業員に還元せず、上層部がなんらかの方法で搾取している場合も多いかと思います。
なので、全体として「儲かっている」と言われれば嘘ではないと思われます。
つまり単純計算で2億の営業収益のある施設であればその10%〜15%、つまり2,000万円〜3,000万円が年間減ることとなる。
儲かっていない施設は、その減った分を何らかの方法でカバーしなければならない。
3−1.加算でカバーする
介護報酬には基本報酬の他に、一定条件を満たすことによる「加算報酬」を加える事が出来る。
ただこれも書類の整備等を新たに加える事により人件費も増え、報酬も高いものではない。
カバー率としてはせいぜい1%程度だと思われる。
今までの業務を見直し、業務の一部をアウトソース等して既存の人員を減らせばいい。
現場の人間は日々忙しく、また業務効率化を考えられるような能力のある現場職員も少ない為、なかなか進行しないと思われる。
また、スムーズに業務効率化が行われリストラが行われたとした場合、現場職員の上層部への不信感により有能な職員から退職してしまうかもしれない。
ただでさえ万年職員不足のこの業界では死活問題なので得策ではなさそうだ。
3−3.全体の給料を減らす
結局こうなってしまうと思う。
今まで賞与を支払っていた施設であれば、賞与を支払うのを辞めるとか。
各職員の年収は50万円〜100万円減ると思われる。
やはりツケは職員に回ってくるという事になるのだろう。
4.職員の収入が減ったらどうなるの?
残るのは、つぶしの利かないお局様なんかが残り、あまり経験の少ない職員が新たに入る。
その職員が若い女性なんかだとお局様とのバトルで地獄絵図が待っているだろう。
7月になり継続的に賞与の支払いが無いことがわかると、現場職員が辞めていく。
有能な現場職員が他介護サービスに転職していくパターンと、若い介護職員が介護職に見切りをつけ他業種へ転職するパターンになる。
最近の有効求人倍率はかなりいい方なので、この流れは多くなると思う。
辞めた職員を補填しなければならないが、ただでさえ万年職員不足なので来るもの拒まずで採用をする。
管理部門、現場ともに職員の質が悪くなり全体的なサービスの質も悪くなる。
『映像ミザンセーヌの黄金則 ヒットする映画の作り方』において金子は次のように指摘している。
シナリオは筋書き(プロット)と描写(レンダリング)から成り立っていますが、シナリオからの分析局面では、プロットそのものはあとに残る印象要素ではないということです。複雑なプロットであればあるほど、観る人をひきつけはしますが、覚えることは難しい。したがって他の人にも伝えにくいのです。したがってプロットに関しては「面白い」「いい」だけ。覚えている印象のほとんどは、描写です。つまり、シナリオライティングのミザンセーヌに関していえば、レンダリングが重要だということになります。
ラノベにおいても抽象度の高い「筋書き」を具体的に「描写」していくという作業は多くの作家が認めるところである。映画は「筋書き」である台本と「描写」である映像に明確に分離可能であり、それと比較すればその境界は曖昧でありつつも、基本的な考え方としてラノベにおいても両者を区分することは可能であろう。
様々な作家による小説、ラノベの創作技法において、そこに書かれた技術がどちら寄りかを意識してみると、人物設定はどうあるべきか、世界と主題の関係についてといった「筋書き」寄りの内容に対し、「描写」寄りの内容はその紙幅のほとんどが正しい日本語講座に費やされていたりする。
正しい日本語で書けるようになりました、とは読者に苦痛を与えずに「筋書き」を伝えられるようになりました、というに過ぎず、そして苦痛なく読める文章であることは読者にとっては当然であり、その意味でこうした日本語講座は「マイナスをゼロにする」ものでしかない。実際、ラノベワナビを数年続けているような人であれば読めない文章であることは少ない。しかしそれがなぜつまらないのか、といえば、まさしくそれがゼロでしかないからではないのか。
一方で「ゼロではなくプラス」のラノベは確かに存在する。とすると「ゼロをプラスにする」、すなわち「筋書き」を単に読者に苦痛を与えずに伝える方法ではなく、魅力的に伝えるための方法はあるはずである。
ラノベを含む多くの創作論では「とにかく色々読め」という指摘がなされている。それは直接的な知識の吸収のみならず、そうした多読から無意識に「魅力的に伝えるための方法」を抽出し、そしてそれを自作においても無意識に利用するようになることを期待してのものであると筆者は考えている。
であるならばそれは、システマチックに再利用可能な一定の演出法――いわば「テンプレート」として抽出可能なのではないか。
仮にそうだとすれば、筆者はこの演出法には大きく二段階あると考えている。一つは筋書きを主たる場面に分解したとき、そのそれぞれの場面をより魅力的に見せるための場面展開の組み方、いわば「レイアウトの仕方」であり、もう一つは場面それ自体の品質を直接的に上げるための「描写の仕方」である。
金子が映像に関して指摘するように、ラノベにおいても「描写の仕方」の影響は非常に大きいだろう。しかし一方で「よく出来た話だ」という感覚を覚えるラノベがあるとき、それはこうした「レイアウトの良さ」によって得られる感触であり、それは文体が合わないとか、パロディが不快だといった個人の直接的な好みとは一つ別の次元での評価――「自分の好みではないけれど、でもよく出来た話だと思う」といった、評価の底上げに繋がる効果があるのではないか、と筆者は考えている。
「描写の仕方」については稿を改めるとして、本稿ではまずこの「レイアウトの仕方」についてのいくつかの私見を述べることとしたい。
本稿で抽出したいのはラノベの「筋書き」を魅力的に見せるための展開の仕方であって、あらゆる物語に普遍的に存在する何かではない。ロシアの昔話とギリシャ神話とキャラ萌え特化の現代ラノベに普遍的に存在する要素を抽出したところで、物語構造論的にはさておき「よく出来たラノベ」を書くためという点で言えば糞の役にも立たないと筆者は考える。
と大塚と新城をDisった上で、つまりある特定の様式における「テンプレート」の抽出が必要なのであり、本稿ではボーイミーツガールの様式をもつラノベに限定することとした。
ボーイミーツガールの定義として、例えば伊藤ヒロは「涼宮ハルヒやゼロの使い魔など、メインヒロインとの「出会い」がきっかけで平凡な主人公が非日常に入る、という構造」を持つと述べる。裕時悠示もまた「ヒロインが非日常をつれてくる」としており、まとめると主人公とヒロインの出会いとそれによる非日常の始まり、といったところだろう。
まず本稿では「主人公」は単に語り手もしくは視点人物とする。『涼宮ハルヒの憂鬱(以下ハルヒ)』においてはキョンが主人公であり、涼宮ハルヒはヒロインである。加えて主人公とヒロインの性別は問わない。『マリア様がみてる(以下マリみて)』においては主人公もヒロインも女性であり、『エスケヱプ・スピヰド』においては主人公は女性でヒロインは男性である。表現上の混乱を避けるため、本稿では男性ないし無性であっても「ヒロイン」と呼称する。
次に、では「非日常」とは何か。
例えば『灼眼のシャナ(以下シャナ)』では主人公はヒロインと遭遇する前に外敵に襲われ、これは明らかに「非日常」として描かれる。もっとも襲撃直後にヒロインとの遭遇がある以上、広義にはヒロインが「非日常」を連れてきたと言っていいだろう。ところが例えば『化物語』では主人公はヒロインと出会う随分前から怪異に接する生活に入っており、ヒロインがそれをもたらしたとすることには広義といえどいささか無理がある。
そこで「非日常」とは主人公を取り巻く環境の変化ではなく、主人公のとる「意識と行動の変化」であると筆者は定義した。『ハルヒ』も『シャナ』も『化物語』も、いずれもヒロインと遭遇後、主人公の行動はヒロインを意識したものへと変化し、その意識した行動を軸に物語が展開していくことになる。この点から本稿ではヒロインを「主人公が意識している相手」と定義する。
以上をもとに、本稿では下記の条件を満たすラノベをボーイミーツガールと考える。
なお、本稿におけるボーイミーツガールは排他的なものではない。ゆえに例えばハーレムラノベの代表格と言えるであろう『IS〈インフィニット・ストラトス〉(以下IS)』も、本稿ではボーイミーツガールとして扱う対象である。
これを基本条件として、さらに人気作の方が魅力的な展開が内在する確率が高いだろうという推測から、映像化された作品を中心に絞り込むこととした。
シリーズ化している場合、本稿での調査は原則としてその第一巻のみを調査対象とした。最初の一巻はそれだけである程度のまとまりを見せる構造を持っているだろうと思われ、またその出来がいいからこそ続刊が決定したと言うことができるだろう、という推測によるものである(細かく言えばボーイミーツガールとしてのひとまずのオチが付いたと筆者が判断したところで区切ったため、『化物語』はひたぎクラブのみ、『星海の紋章』は全三巻と対象範囲に差はある)。
以上からWikipediaのアニメ化されたラノベ一覧からランダムに選び出し、上記の条件に該当する作品50冊を調査した(一部個別判断からアニメ化されていない作品も含めた。また本稿では「ラノベ」の定義については特に踏み込まない)。これらを以下本稿では「ボーイミーツガール」と表記する。
長くなったが、以下やっと本題に入る。
本稿では「ボーイミーツガール」を遭遇と関係構築で成り立つものと考え、それぞれについて「テンプレート」を抽出することを試みた。いずれも個々のラノベからその要素の類型化をまず行い、次にそれらが実際にどう扱われているか、またどのような扱い方がされるとより「よく出来ている」と筆者が思ったか、という恣意的な判断によってまとめたものである。学術的な検討がされたものではないし、類型化の際の用語も筆者が勝手に命名したものでしかない点は注意されたい。
「主人公がヒロインとの出会いののち意識するようになる」とは、主人公のヒロインに対する見方が変わる、と換言してもいいだろう。その意味でヒロインとの物理的な出会いのみならず、「ヒロインに対する主人公の見方が変わる」ことも含めて本稿では「遭遇」と定義する。
さて、「よく出来た遭遇」は印象に残るものであり、そして意外性は印象を残す一つの要素たりえる。実際多くの「ボーイミーツガール」は遭遇時にヒロインの「意外性のある設定」を明らかにする。
問題は、その「意外性のある設定」は凄まじい勢いで陳腐化する、という点である。
突然同じ部活に所属することになったヒロインが毒舌家であることが明かされる『やはり俺の青春ラブコメは間違っている(以下俺ガイル)』、突然同じ寮に入ることになったヒロインが天才画家であることが明かされる『さくら荘のペットな彼女』、突然同居することになったヒロインがサキュバスであることが明かされる『ご愁傷さま二ノ宮くん』などいずれも「意外性のある設定」が明かされるが、それが筆者に十分なインパクトを与える意外性であったかといえば否定せざるをえない。ヒロインが魔王だろうが神様だろうがそれがどうかしたのかと微塵も関心を示せない読者は特に筆者に限ったものではないだろう。
筆者が考えるに、これに対するアプローチは大きく2つに分けられる。ひとつは「設定の極端化」、もう一つが「演出の工夫」である。
「設定」の新規開拓はもはやほとんど絶望的だが、既存の陳腐化した設定を極端化することによって意外性を勝ち得ているものは確かに存在する。例えばヒロインが挨拶代わりに主人公を撲殺する『撲殺天使ドクロちゃん』はその典型例と言える。問題は極端化が進めば進むほど馬鹿げた内容になりがちであること、さらに所詮は既存の内容の延長上にあることから読者の十分な意外性を得ることができず、陳腐で馬鹿げたものとしか認識されないリスクを内包する、という点である。
既存の陳腐化した設定を使い回しつつも、その演出によって読者の興味を喚起することは可能である。そこでまずいくつかの代表的な遭遇における演出の類型を整理したい(以下で全ての類型を網羅しているといった主張ではない。為念)。
クーンツは『ベストセラー小説の書き方』において、物語冒頭で主人公が困難に直面することが読者の興味を喚起する重要な要素である、としている。ヒロインの設定に意外性が乏しく魅力が無くとも、遭遇の場面の魅力はこの「困難さ」で補填することが可能である。ヒロインの奴隷だと告げられる『ゼロの使い魔』、異星人に狙われる立場だと判明する『這いよれ! ニャル子さん』、突如男性主人公が美少女に変わる『俺、ツインテールになります』などが具体例としてあげられる。
とはいえこれらの例において実質的に主人公が困難を自覚しているものは少なく、その解決へ向けて真剣に行動することはほとんどない。いわば形式的な困難さでしかなく、そうした困難さは筆者の興味を喚起するものではなかった。
一方で『シャナ』は主人公が強く困難な状況を自覚し、絶望するところで始まる。トーチ云々の中二病はともかく、ヒロインに命を救われたと思いきや「いやもう死んでるから」と否定され、残りわずかな自分の人生に悩む流れは使い古されたそれでありながら、筆者は悪くない印象を持っている。形式的困難に全く効果が無いわけではないだろうが、より効果的にしたいのであれば実質的困難とした方が無難とは言えるだろう。
偶然からヒロインの秘密を主人公が知ってしまい、ヒロインもまたその漏洩を把握する、という遭遇の類型もまた古典的展開と言っていいだろう。『乃木坂春香の秘密』などはこの典型例と言える。
知ってしまった秘密を主人公はどうするのか、秘密を知られてしまったヒロインはどうするのか、という次に当然起こるであろう緊迫した事態への興味を効果的に喚起させることができる上、それまで互いに無関心であった主人公とヒロインが相互に強烈に意識し始めることが読者に必然的に伝わる、という強力な副次効果を持つ。また秘密の漏洩はヒロインにとってみれば「困難の直面」に他ならず、そこで極限状態に置かれたヒロインがどのような行動をするか、とはそのヒロインの人格であったり本性を端的に表すものと読者に暗黙に理解させる点でも効果的に機能する。
その状況が主人公にとって予期せぬ事態であり、なぜそんなことになったのかという困惑と疑問が生じる遭遇は読者の興味を喚起するという点で効果的である。
例えば『タイム・リープ あしたはきのう(以下タイムリープ)』においては記憶の混乱という謎がまず読者につきつけられ、その解決が物語の主たる軸となる。『のうりん』においては主人公の崇拝するアイドルが電撃引退の上突如転校してくるが、彼女がなぜ転校してきたのかが物語の中心に据えられている。
しかし『タイムリープ』と『のうりん』を比較すると遭遇の出来の良さは(筆者にとっては)圧倒的に前者である。その違いは、おそらく単純に「読者の興味を引く謎か」という一点に尽きると思われる。この類型はヒロインの設定の意外性ではなく謎の意外性で勝負していると言ってよく、ゆえにどれだけ読者の興味を惹起することのできる「謎」を思いつくかがこの類型の要点と言っていいだろう。
例えば『マリみて』における「タイが曲がっていてよ」のように、これまでに見たことが無いような強いインパクトを与える絵面を描くことで読者の興味を喚起することに成功しているものがある。
筆者は全く百合趣味が理解できないが、そうであっても「美人が美少女のネクタイを締めてあげる絵」というのはなるほど悪くない絵だという実感が得られ、印象に強く残っている。
『マリみて』ほどの強力さは筆者には感じられなかったが、例えば『とある魔術の禁書目録(以下禁書)』における「帰宅したらヒロインがベランダにひっかかっていた」という絵もこの類と言っていいだろう。
以上、いくつかの類型を述べたが、より効果的に演出する方法としてこれらを多段階構成にする、という手法があると筆者は考えている。
例えば『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(以下俺妹)』ではまずヒロインのエロゲ趣味が主人公に漏洩する第一の遭遇(秘密の漏洩)があり、それについての一段落が描かれたのち、夜中ヒロインが主人公の自室に侵入する第二の遭遇が発生する(謎の提示)。
『化物語』の第一の遭遇は階段から落ちたヒロインを抱き留めるという古典的なそれであるが、これは同時に「ヒロインに体重が無い」という「謎の提示」と「秘密の漏洩」として機能する。次にヒロインの病弱さがひとしきり語られたあとで、ヒロインがカッターナイフとホッチキスを主人公の口に突っ込み脅迫するという第二の遭遇が描かれる。攻撃的性格のヒロインに特段の目新しさはないが、文房具を凶器として使うこの絵面は筆者にとって十分インパクトがあった(印象的な絵面)。
『とらドラ!』の第一の遭遇はヒロインが主人公を睨みつけるだけの地味極まりないものである。ところが第二の遭遇はヒロインが机を吹き飛ばし掃除道具入れに隠れるところを目撃するという奇妙なものであり(謎の提示)、ラブレターの入れ間違えの発覚を踏まえ、その「秘密の漏洩」への対抗策として主人公宅へ夜襲をかける第三の遭遇と畳みかける。
興味深いことに、このときいずれも各段階の間に一拍が置かれている。それぞれの遭遇は矢継ぎ早に連続して矢を刺すというより、一本矢が刺さってちょっと痛みに慣れてきたところで二本目を刺す、というテンポと言ってもいい。
例えば『俺妹』ではエロゲをヒロインに返した際、その場でヒロインが主人公へ自室でそのゲームをプレイすることを要求しても物語上何ら影響はない。しかし一旦そこで一区切りさせ、主人公に「これで今まで通り、互いに無視しあう兄妹関係に戻るのだ」と吐露させ、その上でヒロインに夜這いさせることで、単にその場で依頼をするより読者に強いインパクトを与える効果を生んでいると考える。
そこでは4年で研究室配属がされ、就活と同時進行で卒論にも取り掛かる。
就活が早く終わった人は3月に既に内定が出ているのでじっくり卒論に取り込める人とそうでない人が出てくる学科だ。
しかし、同時進行で4月から教授と話し合いや罵倒されながらなんとか10月まで卒論もしてきた。週2回のゼミにも必ずでていた。
しかし、11月の上旬にそれまでの疲れがでてきたのか約2週間ほどまともに大学に行けない時期があった。(ちなみにその時期はゼミも休みの時期だった。)
所属する研究室には特に連絡する習慣も慣例もなく、コアタイムが導入されている研究室でもないので私は体が全快するまで休んでいた。
復帰した日に教授からいきなり言われた「君はやる気がないのか」
それまで、週2回のゼミはもちろんの事、週5で10時~18時までは就活を除き来ていて吃驚した。他の方は来る人は来るがこない人はこない研究室では来ている方で自分では頑張っていたからだ。
パニックになりながらも、約2週間近く休んでいたのは熱を出し体調が優れなかったからですと伝えると
「もう知らん」
一日で2度目の吃驚だ。相手は教授だ。私立大学といえどとても優秀な研究者である教授だ。でも、大学で指導する立場だ。
私の研究室は発足一年目で院生が居ないのもあって教授一人で学生7人を見ている。教授本人の研究も大変なのは分かる。教授は博士課程からずっと国立大にいらっしゃって、偏差値の低い私立の生徒を指導するのは初めてなのも知ってる。
でも、私も20年以上生きてきて初めての研究活動だ。正直に言うとやり方が解らない。研究のやり方が分からない。とりあえず頑張るしかない活動だった。
理系学科で研究をしたことがある人には分かると思うのですが、大体卒論のテーマは教授本人に関係するもので新規でのテーマはあまりない。ぶっちゃけると教授が興味あるテーマ若しくは本人の研究のバイトが大多数になる。
私の研究は教授が興味あるテーマの中から自分で卒論テーマを決めた。多分、失敗はその時点から始まっていたと思う。そのテーマは教授本人も全くの素人だったのだ。選んだ時は「自分も一緒に勉強するから」と言っていたので私は単純に二人三脚で分からない所はお互いに補填していく形で卒論を書いていくと思っていた。アホだった。
そんな事は無かったのだ。実際は私が勉強したことを教授に教えていくスタイルだった。そこが一番厄介であった。私は他人に説明するのがとても下手な人間だったからだ。
私には人にはあまり言えないが発達障害の症状があり自閉症スペクトラム指数はいつも閾値を超える人間だ。普段はまともで社交性のある人間の振りをしている。声が聞こえる振りをして生きてる人間だ。
生きていく上では説明が下手でも生きていけるし問題はない。自分の事を一から十まで知ってもらう必要性もない。しかし、卒論を作成する上ではとても重要だ。2月には発表も待っている。とりあえず人に上手に説明するには技術が必要だと考え、図書館でコミュニケーション関連本や説明上手になるための本を卒論そっちのけで読みふけり教授に自分がその時どれぐらいまで理解しているのかを説明した。
「君と話していると宇宙人と話しているみたいだ」
典型的な言葉を言われた。私の人生では始めて言われた言葉でもあったが。
何回も教授と打ち合わせをしたが、私の言葉では分かって貰えなかった。最終的に言われた言葉は
「君は人に聞けばなんでも解決できると思っているのか」
「自分は頭がいいから、君がちゃんと説明してくれたら自分はちゃんと分かる」
「もう時間がないから(私の卒論)について勉強はしないし、きみのためにわざわざそんな事はしたくない」
11月上旬にもう知らんと言われてから約2ヶ月後の12月末の言葉だった。私も限界だった。どうしたら理解してもらえるのか全く分からない状況だった。正月には地元に帰省し、家族と過ごすと自分がいかに辛いのかを実感するだけだった。家族だからこそ自分の辛く情けない状況を言えなかった。
私はこの状況を変化させるには2択あるとずっと考えていた。自分が変わるか教授が変わるかのどちらかだ。自分ではこの4月からずっと自分の方法で自分を変えようと頑張ってきたが無理なのと時間が差し迫っていた。なので学生相談室に行って、カウンセラーに方に的確で具体的な方法を聞いてみようと実行した。
主任教授から「君が変わるより、相手が下に降りてきて君の話を聞く方が簡単だから、ねっ。僕から(私の担当教授)先生に君の状況とかを簡単に説明しておくよ」
と決着がついた。個人的に主任教授は私と担当教授の関係をよく分かってくれたと思う。その点には安心していた。 翌週、なんとなく、戦々恐々の気持ちで研究室に入った。扉をあけるのは簡単だった。学年主任から担当教授に説明は済ませたよと連絡は来ていたのでどう話を切り出せばよいのか頭はパニックだった。
部屋に入ってから30分ぐらい経過した時だった。教授から「増田さん、何か僕に話す事はないの」と言われた。頭の中で何回もシュミレーションしていた言葉がすらすら言えたのは奇跡だった。しかし、「私が説明上手になるか先生が降りてきて聞いてもらうか~」と言っている時に言われたのは
「十分優しくしてるじゃない」 だった。
つくづく強者の言葉でなければ弱者の主張は通らないものだと実感した。学年主任がなんと言って担当教授に説明したのかは分からないが、結局、私の状況を理解してもらうのは無理だった。締めくくりの言葉は
「君の好きにしたらいい」
と目も合わさず、PC画面に向かったまま言われた。
私が説明が下手なのが悪いと言われてしまえば、はいそうですね、で終わる話だ。私は教授から何を学びたかったのだろう。それこそ、どうすれば人に伝わるのかが知りたかったのかもしれない。
今回の話は私も悪くない。でも、先生も悪くない。コミュニケーションの齟齬の問題だった。
卒論制作をしていく上でのただの愚痴が2500字以上になってしまった。あと数日で私が好きにしてやっている卒論の概要を出さなければいけない。
とりあえず頑張ろう。
■本文。
朝のワイドショーで[社会的ひきこもり]を特集するようになるとは、世の中、つくづくアレなんだなあ、と思う今日このごろですが、今月のお題は『ONE』です。本当は最終回まで取っておこうと思っていたのだけど、小倉さんとデーブ・スペクターと斉藤環が同じ画面に映っているのを見たら、辛抱たまらなくなったのですよ。しかし、『二時のホント』が終わったのは、ワイドショーマニアの筆者には痛い……。
―――さて、『ONE』をプレイして強く感じたのは、母性と父性の欠損に対して、援護射撃に頼らない直球勝負を挑んでいることだろう。ただ、同じ主題を扱っていても、手慣れたテキストの『Kanon』に比べると、まだ手探りの部分が多く、比喩などにあからさまな引用も多い。だから、必ずしも褒められたものではないのだが、BGMと画面演出の組み合わせを効果的に使う[音の魔法]に頼っていない分、言霊の比重が高くなっている印象を受けた。
重要なポイントは、この作品で描かれる世界には、超えるべき父性は最初から存在しないことだろう。同時にそれは、学習することもできないということでもある。[他者]は、主に母性を巡るものとして描かれているが、主人公である浩平の母親は、カルト系の新興宗教に盲従した結果、母親であることを放棄している。そして、浩平は、他人との関係性を肉親から学習しないまま=子供のままで妹に対し、父の代わりを演じたが、妹の死により、父性の獲得=男性としての自立にも失敗してしまう。そのため、主人公は二重の意味で心理的欠損を抱えているのだ。
更に、母親が発狂し、ウロボロス的な母性を発動させてしまった際に、母親を拒否している浩平は、壊れた母性に対する嫌悪感を潜在的に抱き続けている。由起子おばさんが、一度も浩平の視界には現れないことや、長森シナリオでトゥルーエンドに辿り着くためには、長森を嫌悪し続けなければならないことの理由でもある。いわば、母性と父性の欠損を巡る内面の問題こそが、『ONE』という物語の核になっている。また、宗教によって母親が発狂し、浩平の前から姿を消すシーンは、『ONE』の前作にあたる『MOON』の主題を継承しているとも言えるだろう。
だから、この作品の基本構造は、どのシナリオもアプローチの違いこそあれ、本質的には同じだ。他者との距離感を知らないまま成長していくことに、情緒的な病による死を予感した浩平自身の本能が、自然死を避けるために、偶然を装った出会いを起こし、浩平に欠損した部分を取り戻させようとしたことが、物語の動機になっている。そして、浩平自身の本能は、ゲームの作り手であり、浩平はプレイヤー自身である。
だからこそ、浩平の鏡像となる女の子たちは、それぞれが身体的なハンディキャップや心理的外傷を持つ者ばかりが選ばれたのだろう。同情という媒介を用いなければ、出会いという動機を持つことができないほどに、浩平の病状は悪化していたし、宝探しを始めるには、同じ宝を共有できる相棒が必要だったのだ。
本能の企てに乗せられた浩平は、達成されなかった父性の確立に再度挑戦する。ところが、達成寸前に壁が現れる。それが[えいえんのせかい]という、癒しの象徴でもある異界への願望だ。もっとも、異界が具体的に描かれることはない。まあ、具体的に描いたら、山上たつひこの『鬼面帝国』か、出口王仁三郎の『霊界物語』みたいになってしまうような気もするが(笑)。
―――いや、最初から浩平は異界に取り込まれていたのだろう。つまり、浩平が抱いていた、思春期独特の中途半端な世界認識が、そのまま、異界への潜在的な願望として、妄執のように内在していた。それが、絆の発生で、完全な鏡となった女の子を介して照らし出されたのだ。つまり、中途半端に終わった目的を今度こそ達成しようという意志(現在)と、中途半端のままで反復しようとしている記憶(過去)が衝突したことで、[えいえんのせかい]という、思考停止状態に陥ったのだろう。
さて、プレイヤーとしての浩平が一度、舞台から退場することで、今度は、選ばれた女の子が自身の母性=主題を自覚することになる。そして、父性と母性が相互補完的に成立することで、浩平は再び舞台に戻ることができる。つまり、互いを鏡像=他者と認識することによって、欠損を補填した訳だ。この構造自体はありふれたものだが、ありふれたものであるがゆえに、強い言霊を生み出すことができる。そして、この作品で特筆すべきことは、美少女ゲームで描かれる世界が失われたロマンティックであり、実際にはあり得ない世界だということを巧妙に描いていることだ。
何故なら、『ONE』の登場人物たちの多くは、自分たちの生きている世界に対し、無自覚な肯定をしない。強い否定もしない。約束された楽園が既に失われてしまっているということを、登場人物自身が自覚しているように見える。プレイヤーもまた、物語を介し、その完結に立ち会うことによって、楽園が失われたことを知りながら、ゲーム内の楽園に耽溺するという、二律背反的な認識を持つことになる。
例えば、『ToHeart』が、ゲーム内ではいったん完結しながら、アニメ化(メディアミックス)にあたって物語世界を再構築した際に、約束された楽園=主題を持たない真空状態を維持すること……終わらない物語であり続けることを選択し、ユーザーの楽園願望を全面的に肯定したことで、現在でも現役の商品として、人気を保っているのに対し、『ONE』の場合は、主題を巡る部分が『Kanon』と『鈴がうたう日』という二つの作品に分岐&移行してしまったことで、作品と商品の両面で、既に幕を閉じているのだ。
この辺の違いについて、最も分かりやすいのは、やはり、長森シナリオであろう。『ToHeart』のあかりシナリオに対するメタ的な構造を持っているからなのだが、筆者も鈍いので、気づくまでに何度かキレそうになったのは余談だ(苦笑)。
もっとも、『ONE』以降、恋愛描写を重視した[泣き系]の作品が氾濫したことで、相対的に主題の空洞化と、[お約束]としての普遍化が起こっているのは否めないが、この作品自体は、非日常と日常や、万能感と無力感の間で葛藤する思春期独特の世界認識と通過儀礼を描いた作品として評価できるだろう。
更に言えば、本来は『WhiteAlbum』や『デアボリカ』のような、ユーザーの価値観を揺さぶるタイプの物語が担っていた役割を、『ONE』の成功で、思考停止による癒しを主目的とするタイプの物語でも担えることを証明したのだ。
物語とは、社会と個人を繋ぐ媒介だと思う。いつの時代も、その本質は変わらないが、物語を伝達する手段は、時代の変化と共に変わっていくものだと、筆者は考えている。美少女ゲームを媒介として、社会と繋がり、社会を学習していくという構図も存在できると思うし、一見、楽園を肯定するような表現に重層的な含みを持たせることで、現実社会との距離感を認識させる手法の確立を、本格的に模索する時期に入っているのではないだろうか?
■あと一回のお知らせと総括。
ホームページでは既に告知済みだったのですが、本コラムは次号で最終回となります。次回は連載総括という形で、これから発売される作品について触れたいと思っていますので、作品ごとの論評としては、今回が最後です。
降板の理由は、今年に入り、筆者の健康状態が悪化して、月刊ペースでの連載が難しくなってしまったからです。無理に書いて、自己模倣に陥ってしまっては意味がありませんし……。
―――そういう訳で、読者とメーカーの方々には、一年と少々、筆者の回りくどい文章に付き合っていただき、本当にありがとうございました。連載はあと一回ありますが、この場を借りて御礼申し上げます。
■その1。
いやー、『ONE~輝く季節へ』を、やっとこオールクリアできたので、記念(?)に、『ばらえてぃたくちくす!』を買ってきました。
「ほう、『鈴がうたう日』番外編か……あ、そういえば、本編、途中で止まったままだよ!」(またか)
……という訳で、今月は『鈴がうたう日』(以下『すずうた』)です。つーか、新作より、目の前にある積みゲーの数々をクリアしないとな……おかげで、歴史の把握が、かなーりおかしいことになってて、頭の中で文脈が混乱しまくってるよ!
さて、前半、平凡な日常描写を積み重ね、後半で非日常的な描写へ一気に持っていく構成、その対比と高揚感から、特定の感情を生み出すという演出手法は、普遍的になりつつある。実際、効果的だけど、最近は、苦痛に感じることもある……。
そして、前半と後半を繋ぐために、ある種の情緒……ファンタジー要素や少女幻想的な描写を使う作品も多い。また、日常の崩壊を匂わせる、詩的な言動や描写を、前半で伏線的に配置しておくパターンもある。
しかし、『すずうた』の場合は、何故か両方とも欠如しているのだ。前半に配置されるのは、少女幻想を前提とした詩的なラブコメ描写ではなく、あくまで少年まんが的なノリで作られたギャグ描写だ。なので、ラブコメという感触は乏しい。むしろ、ノリとしては久世光彦の作るホームドラマだ(『ムー』とか)。
前半で配置されている非日常的な要素を強いて挙げるならば、物語の発端となる、すずの来訪(登場)なのだろうが、それすらも、簡単に日常へ取り込まれていく。そのことが、後半の展開との落差に、違和感を生み出す遠因となっているようだ。
ほとんどの美少女ゲームは、恋愛の予備段階と言える状態からスタートする。犬チックな幼なじみが起こしに来たり、変人な先輩と偶然にぶつかったりするが、それらの出会いには、主人公のモノローグなどで、恋愛の予兆があらかじめ内在する。
ところが、『すずうた』は、「恋人未満、友達以上」どころか、まるっきり友達感覚な描写ばかりが続くので、その予兆が内在しない。そして、恋愛の予兆が排除された状態から、後半、一気にハードな恋愛状態へ流れ込むが、恋愛描写や少女幻想がもたらす酩酊感が全くないので、関係性の変化という事態に対し、全くフィルタがかからないのだ。よって、急性アルコール中毒になったような感覚に陥り、あまりにも不条理な災厄が降りかかったような気分になってしまう。これが、先に述べた違和感の正体だと思う。
さて、その後半に目を向けると、提示されている仕掛けはことごとく、対立する視点が介在し(七海トゥルーにおける紫姉、など)、いわば、理性で言霊の暴走を抑えている格好になっている。なので、前半の軽快さとは一転して、重苦しい展開になっている……という対比はあれど、高揚感は生まれない。従って、プレイヤーもまた、流れに乗り切れないまま、物語は終わる。おまけに、どのラストも正直、爽快とは言い難い。しかし、シナリオの手法としては、これは決して悪くない、と思う。
同じように、イベントで盛り上げるという仕掛けを排除した作品としては、『いちょうの舞う頃』が挙げられる。しかし、『すずうた』の場合は、『いちょう~』ほど明確に排除している訳ではない。むしろ、仕掛け自体は積極的に使用しているのだが、問題は、そのほとんどに意図的な抑制が働いていることだ。早い話が、ラブコメの物語構成要素に対し、再検証が行われているのだ。
ラブコメというシステムは、その発生においては、過去の歴史から断絶しようとする意志によって成立したものだった。実際、袋小路に入っていた物語に対するカウンターとしては機能を果たしたが、システムの発展に伴い、【オブジェクト嗜好】という、形骸化に陥ってしまった。
だから、『すずうた』が目標とする場所に到達するためには、言霊を抑制し、感傷に流されることを避け、登場人物たちを自律的な選択に導いていく必要があったのだろう。
■その2。
【お約束】な停滞からの逸脱=ラブコメの定番パターンからの進化。しかし、それは物語システムを自壊させる行為でもある。その意味で、この問題に最も自覚的だったのは『WhiteAlbum』だったのだが、それ故に、一部のユーザーからは生理的嫌悪にも似た反発に遭った。
物語構成要素の再検証という行為は、作品の質は上げるが、その分、間口を狭くする。ちなみに、某誌によれば、『ア○マゲドン』のプロデューサーが「観客というのは、感動的な音楽さえ流せば満足する豚だ」と言い放ったことで物議を醸したらしいのだが、目標とする対象が多ければ多いほど、低いレベルでの記号化は強まる。水は低きに流れるものでして……。まあ、だからといって、エアロスミスの音楽は正解だとしても、出演女優をフェラチオの上手さだけで決めるのはどうかと思うがなあ……っと、話を戻そう(笑)。
つまり、【恋愛】というファンタジーをめぐる、物語システムとしての【ラブコメ】が直面している問題に対し、停滞からの逸脱を目指した上で、恋愛関係の可能性を描こうとした場合、必然的に、既存のパターンにはない微妙な感情を描いていくしかない。同時に、それは、類型化された方程式を否定していく作業になる。記号のイメージに頼ったテキスト作りは許されない上に、記号によるお約束に慣れた(眼鏡っ娘=内気、とか)ユーザーからは反感を買う……正直、茨の道ではある。
でも、逸脱の手段として、日常においての自律的選択(自力本願)という方向性を追求した作品群の中では、『すずうた』のテキストは、かなりの強度を持っていると思う。
例えば、『ONE~輝く季節へ』の場合は、日常から非日常、そして、日常へという流れを持っているが、『すずうた』の場合、日常から日常へと繋いでいく。しかし、前半で提示される日常は、後半で提示される現実の上に成り立った、虚構に限りなく近い日々なのだ。そして、その断層から、過去の幻影と現在を繋ぐという、もう一つのテーマが浮かび上がってくる。あと、女の子たちの物語への感情移入よりも、日常の脆さを提示されることが優先されているのが、筆者には新鮮だった。まあ、恋愛小説というよりは、教養小説っぽくなった感じもするが……。
それから、感心したのは、父性&母性の扱い方だ。すずシナリオでは、後半、唐突に父親との相克がテーマとして浮かび上がるのだが、過剰な行動には至らない。逆に、蛍トゥルーでは、負の母性との相克がテーマになるが、これまた、過剰な補完行動には至らない。類型的な受容と和解で解決してしまい、結局、依存から逃れられない作品が目立つ中で、『すずうた』の登場人物たちは、周囲の助けを借りながらも、あくまで自律的に運命を選択していく。
他人の犠牲も含めた上での自律的な選択は、『WhiteAlbum』の場合もそうだったが、必ずしも許容できるものではないだろう。しかし、偶然と選択の危うい積み重ねの結果である、平凡な日常が脆いように、全員が幸せに笑っていられる優しい世界もまた、脆さを内包しているのだ。
そして、わずかに残った非日常的な要素(すず)も、全てを無に帰すほどの力を持っている訳ではなく、奇跡=解決にならない。だから、コールタールのようにまとわりつく現実から救われることもないし、すずの存在もまた、過去の記憶として、日常的に失われていくものの一つとして、現実に組み込まれていく。
だからこそ、むしろ、哀惜という感情が静かに流れ込んでくるのだけど、美少女ゲームとしてのカタルシスは欠いているのかも知れない。
しかし、あくまで自律的な行動によって、過去の欠損を補填していこうとする、ささやかな意志の方が、ゲームを終了し、物語がプレイヤーの現実に取り込まれた際に、有効に機能するのではないだろうか?
過去の日常と現実の日常を再接続する物語に触れることで、個人の物語も再生する……それが、歴史を紡ぐのだと……筆者は思うのだが。
■ちっとも終わらない近況。
仕事がここに来て、がーっと集中してしまい、一日7時間ファミレスに籠もって、モバイルギアのキーボード叩いても、ちっとも終わる気配がないよ……(迷惑)。脈絡不明な仕事ばっかしているので、最近は「本業は編集者」とは言えなくなってきたですよ……。
あ、事務所のホームページに、このコラムのバックナンバー再録を始めました。とりあえず、昨年分はアップ済。つーか、次回で連載一周年なのか。エロゲーのテキスト解釈だけで一年も続けるんじゃないよ、俺。もっとも、結構辛いけど、それなりに面白くなってきたので、もう少し続ける予定です。最初は、もう少し普通(?)のゲームレビューにするつもりだったのに……脱線しすぎ。
個人的には、ほとんどの若者の失敗は許されるべきだと思っている。どんどん失敗すればいい。たとえ、大きな迷惑をかけたとしても、のちのち、大きな価値を社会に残せばいいとすら思っている。まあ、もちろん犯罪や道徳上許されないことは別だけど、ひたむきにがんばった結果なら、いいと思う。ミログの城口氏なんかは、たしかに大きな失敗だが、その経験を糧にまたチャレンジすればいい。
しかし、最近起きた2つの出来事は、許されないというか、復帰が難しいものになってしまった。青木大和氏と、みんなのウエディングである。
まず青木大和氏の場合。嘘をついてしまったものは、これからもずっと「嘘つき」とされてしまう。嘘つきというのは、ビジネスや政治活動をする上では、かなり致命的なのだ。嘘をついて騙して益を得ようとしたという人物という印象がついてしまう。これはダメージとしては大きすぎる。たとえ、どんな失敗をしたとしても、自分の名前で本音で活動すべきだった。今回のケースで、政治的な活動はもちろん、公に名前を出して活動することが、不可能とは言わないまでも、やりづらくなってしまったのは事実だろう。
そしてもう一つが、みんなのウエディングの社長。実は、会ったことがあるが、非常に誠実でまっすぐな人物だったが、売上を補填するために、身銭を切って補填してしまった。一見「社長が自分の金を払って売上をあげようとしたのは、法的にはダメでも、そこまで許されないことなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし、粉飾というのは、市場から見たら絶対に許されないことなのだ。粉飾を一度でもしてしまったら二度とまっとうなビジネスが許されない。少なくても起業をしても、投資を受けることはかなり難しくなる。反市ということで上場が許されないし、買収されるのも難しい。そんな出口のない会社に投資をする人など稀だ。もちろん中小企業としてやっていくという手はあるが、一度は上場まで持っていった敏腕社長としての輝かしい経歴はは使えないものになってしまう。
たとえ、売上が未達で株価が下がったり、倒産したとしても、再チャレンジはできた。いくらでもできた。しかし今回ので、二度とチャレンジできなくなってしまったのだ。
35になった今、ホント割にあわねーなって思う。
好きで選んだ道だけど
こんなに割に合わないとは思わなかったよ。
短期打ち切りだと3巻で9万。
1/10000とも言われる連載権勝ち取って。
それで360万。
景気の良かった20年前なら
1200万持って帰れた。
最悪でもそれならまぁ、頑張る価値はあったと思う。
でも今や360万。
馬鹿じゃねーの。
それ全部アシ代に消えるからね。
過去と違って
手塚の頃と一緒にすんなよ。
ヘタクソでもそれなりに金かかる。
大量に残るわけだ。
でも原稿料は変わらない。
全然ペイできないっつーの。
悪魔か。
一冊辺りの発行部数は減り、ヒット率も減り(単純計算で一番景気良かった1995年より3倍も売れづらくなってる)
本当にありがとうございます。
で
でもこれでもジャンプは一番マシな方。
やっすい原稿料で
1年かけて3巻出して印税70万円。
何のために書いてんのかって
「後に引けない」だけ。
マンガ書いてる奴なんて
年を食えば食うほどその乖離幅は膨らんでいって
マンガ以外に何もできなくなる。
他に出来る事は何もない。
でもホントさ
絶対恨み買ってると思うよ。
どう理由をつけたところで、デメリット以外の何者でもない。
そこで企業叩きを行っても、
①年ごろの人を雇わない
リスク回避のためにこういった行動になるだけだ。
産休は数カ月前に分かるんだから代わりの人員を。という意見もあるだろうが
代わりの人間がホイホイ見つかるならリクルートがあんなに儲かるわけない。
そもそも代わりが見つかったとして、
1年後復帰してきた時に、サヨナラと首を切る前提で
それなら1年間他の社員がその分働けばいい。というのは
まさにブラック企業の発想だろう。
もちろん世の中には逆張りをして、
一部の体力のある企業以外は実行不可能な、
※追記
いろいろとご意見ありがとうございます。
別に脱法をよしとしているとか、産休なんてとるななんて一言も私は言ってないです。
子供を産み育て仕事をすることは、全ての国民に認められる権利だと思います。
ただ、その責任を企業に押し付けるだけでは解決できないと言っているのです。
現状では、
国が法律作ったので、手伝わないけどルールは守ってね!よろしく!
そんな企業を叩いたところで、
企業「こわいなー、子供産みそうなやつには仕事任せられないな」という力学が働くだけで
根本的解決にはならないだろうと言っているのです。
時給は950円前後と悪くないのだが、高校生から働けるのがネックか。
テーブル裁きも悪く、とにかく客を待たすが悪びれもしない。
牛丼店なら務まりそうな人材をなぜ平均800~1000円クラスの店舗で使うのか疑問。
何回行っても人材が悪い。パッと見ても上下関係がなさそうで指導が行き届いていない。
レジに入ると必ずテンパっており、こちらにまで焦りが伝播するほど。
ホールだけではなく、時々とんかつが生焼けで不安を覚えることもある。
ご飯がおかわりできるYの方がよっぽどマシである
実例
http://www.nandemo-best10.com/f_restrant-family/z100.html
2位 電気屋Y
サッと買ってサッと帰るのが最も困難な店。
どこかから急に連れて来られたようなキョロ充がハッピを着て立っている。
値段を聞けばどもりながら端末を弄くりだす。
可能な限り目を合わさず、話しかけられているのを避けている。
値段はそこそこ安い事が多いがカカクコムを見せると過剰に嫌がる。
ポイントを強引につけて貰えるように交渉するとだいたいいけるが、下っ端に話しても全く進まない。
偉そうなおっさんを捕まえて現金を見せながら話すまでが時間がかかる。
安いんだから買いに来たんだろ?という態度からか買って良かった気分を根こそぎ奪っていく、
実例
http://matome.naver.jp/odai/2138711370471813401
客をカネを落とす動物だと思っている様子。
在庫その他を聞こうものなら不機嫌になりとにかく客を待たせる。
自分自身がオタクに対応してあげているという上から目線をヒシヒシと感じる。
もちろん、中学生など子供も相手にしなければいけないのだろうから
ある程度は上から目線でも構わないし、子供に叱るような言い方でもいいかもしれない。
でもそれを補うほどの柔軟な対応は一切行わない。
会社が売ってやっている、お前はカネを払う立場という考え方が透けて見える。
1分でも遅れたら追加料金という姿勢。
なら撮影前にチェックして断れよと思うが、事を荒立てたくない姿勢が非常に感じ悪い。
金を払わせて一瞬でもスタジオに入って撮影さえれば返金しなくてもいいという考え方なのだろう。
批判だけしても何なので接客の良い店も述べておく。
電気屋 B(Yよりも確実にいい。)
商品を少し抱えているだけでかごを持ってくる、悩んでいると相談に乗ってくれる。
主に20~40代の男性と30前後の女性が多く、冷静で真面目な接客が好印象。
一つの商品に対して、多くのブランドを扱っていることが多く品切れも少ない。
あとはホテルのラウンジ全般・中級以上のデパートコスメ/デパ地下全般、ジャンルで一番店舗の多いお店(コーヒーSやチョコレートGなど)