はてなキーワード: 作為的とは
香山リカは我那覇さんを「マイノリティに過剰に同化してしまった哀れな存在」
として扱うけど、いち沖縄県民の私に言わせりゃハァ?だ。
基地反対派こそ本当はマイノリティで、今の沖縄は賛成とまではいかないけど「容認派」がほとんどだと思う。
「自分たちは基地によっていやな思いをしてないor恩恵を受けている」
「でも基地によっていやな思いをした(主に老人の)反対派を思いやって口には出さない」「というか沖縄でももめたくない」
みたいな考え方で、賛成とは言わないけど容認する人たち。
近隣住民の「騒音を立てないで」の張り紙を不気味なカカシ?で隠したり
在日がどうとか、どうでもいいけどあれをやる人間たち全てがどうかしてると思う。
こういうこというとヘイトだとか差別だとか抑圧するマジョリティだとか言われそうだけど、もう笑ってしまう。
あれが同じ県民で、すべての沖縄県民がそれにくくられると思ったら、ものすごく嫌だった。
沖縄を離れて、報道されるのを見るたび、「みんながみんなこんなんじゃないのになぁ」と悲しくなった。
もしそれがなんらかの作為的な行動であれば、それを画策した人間に私は腹が立つ。
というか、沖縄県民でも直接いやな思いをしたこともない人間が何をしているのだ、あそこで。
沖縄県民の前に日本人であるというような言葉に、ああ、そうなんだよなぁと思った。
彼女を応援している!という人も多いし、それを表明しなくても「よく言った」と思ってる県民は多いと思う。
沖縄のメディアは、我那覇さんを取り上げないしなぜかそちらを少数派にしたがるけど、我那覇さんの主張、またはその一部に納得・同感する人は多いのだと思う。
「マイノリティ集団には必ず抑圧するマジョリティに過剰に同化する人がいる。抑圧者にとってそういう人はたいへん都合がよく、一時はチヤホヤされる。「ほら、当事者だってこう言ってる」と使えるから。「アイヌ利権を主張するアイヌ」「在日叩きの在日」、そして沖縄にも。利用されてるだけの悲しい人。」
この香山リカ氏の主張に猛烈に腹が立ったのはなぜだろう。
お前が何を知っているのか。
というかマイノリティの過剰に同化しチヤホヤされ利用されているのは自分ではないのか。反差別のアイドル著名人として、利用されているのはないだろうか?
「私は違うわ。いけないことはいけないもの。自分の意思で主張し戦うわ。私は正しいの」か?
我那覇さんと何が違うのか?相手側の意見を聞く姿勢があるだけ我那覇さんのほうがよっぽど人としてできている。だからレッテル貼りをして逃げるくらいしかできないのか。
我々をストックホルム症候群の被害者のようなものだと思っているのか?
沖縄は、マイノリティなのか。私たちはいつまで抑圧されたマイノリティであるべきなのか?
特に基地を憎んでいないのにそれに反対することが正しいことなのか?
自らの意思をもって基地を容認・賛成し、主張することは哀れな被害者の成れの果てだともいうのだろうか。
私には、実際に目に見える障害がある。
たとえば、片脚がないと想像してほしい。それにほとんど近い障害だ。
自分の人生をその状態で生きてきた私は、今やそれも自分の個性のひとつだと思い、もはやチャームポイントだと思っている。コンプレックスはいまやなく、それを活かした仕事をしている。そんな自分を愛している。
片脚がない私たちは辛いんです!バリアフリーを!理解を!寄付を!と叫ぶ同じ障害をもった人もいる。それが悪いことだとは思わないが、自分と違う考えを持っているんだと思う。
そんな私に言う人がいるのだ
「片脚がないと不便だよね。かわいそうに」
「片脚がないことを嘆くことが普通なのに、大丈夫だなんて強がっちゃって。本当は大変でしょう?嫌でしょう?」
私がその時、どんな気持ちになるのかわかるだろうか。
こういうふうに言われたら、どう思うだろうか。
「障害があることも受け入れる?そんな自分を愛する?まぁ、頭がどうかしてるんじゃないのかしら」
「私の知っている人は障害者の人権向上のためにデモをしているわ。あなたはなぜしないの?」
「彼らの切断した脚を出して同情を買うパフォーマンスが嫌い?このレイシスト!彼らは闘っている弱者なのに!」
「あなたみたいな人のせいで本当に困ってる障害者が言われるのよ。「あんな風に生きてる人もいるのに」って。その引き合いに出されてチヤホヤされて利用されて、かわいそうな人ね。あなたはかわいそうなマイノリティであるべきなのに」
彼らは、自分たちがしていることがそういうことであるとは気づかないのか。
真っ当に自分なりの価値観で、自分を愛して生きていきたいだけなのに、言われるのだ。障害のない人に。何故か高いところから。
「差別はよくないわ。弱者へのヘイトはよくないわ。それをわからせるためなら(自分が決めた)レイシストは排外するわ。あなたは弱者だから喜んでくれるわよね」
バカじゃないだろうか。
今の沖縄を愛し、基地と共存しようとしている人間を、迎合しようとしている人間を、
誰にそのように言う権利があるのか。
私は、沖縄が好きだ。基地があり、ステーキやハンバーガーやアメリカンファッションが名物になり、休日にうろうろしている米軍人と笑顔で挨拶を交わす。私が生きてきた沖縄は、そういう場所なのだ。そういうが沖縄は好きだ。そういう人間がたくさんいる。
一部の人間からは「アメリカに染められ反対派を愚弄する国賊」だろうが、この多様化の時代に私や、同じ考えの人の愛するもの・主張をなぜ鼻で笑われなければならないのか。
狭い良識と偏った考えで、己に正義があると思い込み、弱者の味方ですというような顔をして良識人面している、本質を何も理解していない、理解しようともしない、自己愛にまみれた反差別の皮をかぶった差別主義者は、誰なのか。
どうせ彼らから見れば、この投稿も「ネトウヨが沖縄のふりをして書いたヘイト記事」「過剰にマジョリティに同化した哀れなマイノリティ」なのだろう。
そういう考えでいてもいいと思うが、真っ当に暮らす人間の邪魔をしたり傷つけたりしないでほしいのだ。多分話通じないけどさぁ。
ぐちゃぐちゃになった。書捨て。
https://oriver.style/cinema/tcc2016-cb/
先日東京コミコンが開催され、その中でマーベルの副社長であるC.B.セブルスキーさんのトークショーがあったようだ。
該当の記事には多くのブックマークコメントもついており、皆様々な意見を言い合っている。
しかし、この記事で一つ大きな誤解が生まれており、いくつかのコメントはその誤解のために少し的外れな内容になってしまっているように思える。
本記事ではその点についての私見と他国に日本のコンテンツをどう広めるていくかについて書こうと思う。
■マーベル副社長は「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」などと言っていない。
まず、大きな誤解を招きかねない原因はこの記事のタイトルに原因がある。
マーベル副社長「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」
と、でかでかと記事タイトルを掲げているが、記事の内容を見るとセブルスキーさんはそんなことを言っていないのがわかる。
という部分は「世界を目指せ!日本の映画産業は小さくまとまりすぎている」という段落の中でまとめられている。
日本の映画産業は小さくまとまりすぎであるというところ。日本のファン、日本の観客のことしか見ていなくて、海外の観客のことを全然考えていない。日本の監督、映画プロデューサー、映画会社はもっとグローバルにやっていくべきなんですよ。だって、日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
ここでセブルスキーさんが言っていることをよく見るとわかるが
「日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
つまり、日本の映画・アニメ文化的なものが受けないとは決して言っていない。
これはセブルスキーさんも言っているが、過去の実績からも明らかだ。
マジンガーZやグレンタイザがヨーロッパの一部で受けたり、セイントセイヤがラテンアメリカで受けたり、マッハGOGOGOがアメリカのマニアに受けたのは明らかだが、これらの作品が果たして海外を強く意識した作品だっただろうか。
巨大ロボットに乗りながらも、強く苦悩したデューク・フリードはヨーロッパでの受けを狙ったとはとても思えない。
海外で高名な黒澤明や小津の作品がアメリカ風やヨーロッパ風、あるいは中国風の映画だっただろうか。
事実はその全く逆だ。
黒澤が作った作品で恐らく最も有名な作品である「七人の侍」は時代劇ではないか。
侍が出てきて日本刀で百姓と一緒に戦う映画のどこに西洋らしさがあるのか。
小津の映画は全編が静謐としており日本人らしさに満ち満ちている。
明らかに日本人らしさに溢れているにもかかわらずこれらの映画はそのどれもが海外で受けた。
モチーフに西洋風のものを使っていたとしてもその作品の根幹は日本人らしさで溢れている。
セブルスキーさんは現状存在する日本映画のストーリー・テリングの伝統をそのまま貫けば良いといっているだけだ。
ここで注目すべきなのはむしろ、前半の部分で海外の観客を見ろと言っている部分だ。
海外の観客にコンテンツを届けたり、今現在既に存在する海外の観客が何を思っているのか良く考えろと言っているのだ。
それは、コンテンツの内容をアメリカ向けに変えろとかそういう話ではないはずだ。
例えばクランチロールでアメリカやカナダ、ヨーロッパで受けている作品は何かの一覧を発表していた。
なるほど、バイオレンスが好きなアメリカ人らしいと思うが、であればアメリカで物を売りたいのであれば今後そのような作品を積極的に送り出せばいい。
しかし、そこでアメリカ人におもねって、不自然にアメリカ要素を入れたりするべきではない。
我々日本人の考えるバイオレンスさと、ドリフターズで受けいれられた要素を真剣に考えるべきだ。
アメリカのような作品を作りたいと、アメリカのコンテンツを適当にナメタような態度で作ってもアメリカ人の作った作品に敵うわけがない。
生まれたときからアメリカで育ち、アメリカのものの考え方をしている人のようなことを日本で育ち、日本で生活をしているだけの人ができるわけがないのだ。
骨をうずめる覚悟で何年も生活すればまた別かもしれないが、そんな人がなぜ日本の映画・アニメ産業で物を作らねばならないのか。最早意味不明だ。
日本人は日本人でしかありえず、それ以上でもそれ以下でもない。
それはつまり我々の作る作品は日本人的でしかありえずその枠から出ることは決して出来ない。
かならずどこかに日本人的な部分が混じる。
アメリカが世界的なコンテンツを作ることが出来るのはある社会的な前提条件が存在するからだ。
インディアン/ネイティブアメリカンの生活していた文化やヨーロッパからやってきた文化。
そのどれもが並立して存在しており、また映画製作の現場でも多数の民族の文化が交じり合う。
このような状況を無理やり日本に作り上げたいなら東宝や松竹の社長をアメリカ人にして、フランスの映画監督でも引っ張ってくるしかない。そしてスタッフには多数の外国人スタッフを入れるべきだ。
しかし、残念ながら日本の社会でそのような会社を作り上げるのは難しいだろう。
少なくとも主流にはなりえない。
であるなら、我々は逆に日本人的であることを貫き続けるしかないのだ。
これは日本人の文化SUGEEEEEEEEEEEEEとか日本最高!であるとかそういうことでは決してない。
日本で生まれ、日本で育った日本人が「自分のストーリーを語る」とは一体なんなのか?
それを突き詰めると結局日本で生活した人間の目線から見た作品でしかありえないのだ。
例えば、近年東京で増えてきた外国人と日本人の交流・衝突を描いた映画であるなら語れるだろう。
あるいは「シン・ゴジラ」のような日本のポリティクスを突き詰めた作品をもっと作ってもいい。
細部については理解しやすいようにローカライズするのも構わないだろう。
しかし、将来を見据えるならそういったカルチャーの積み重ねによって理解してくれる人を増やすしかない。
海外では日本被れをweeeabooooといって揶揄する言葉も存在する。
では、ハリウッド映画を毎年のようにバンバン見ている私たち日本人はなんなのだ。
そこらじゅうweeeabooooだらけではないか。
もし本当に日本のコンテンツを海外に広めたいのであれば、文化的衝突を恐れてはならない。
海外の人が日本的なものを作って欲しいという要望を出しているのにもかかわらず
なぜか海外的なものをつくらなければならないと勘違いしてしまう事が日本では多発する。
「日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから」
という発言を聞いておきながら
というタイトルをつけるのは雑すぎるだろう。
もっと日本人の観客の言っていること、海外の観客の言っていることを良く聞くという地道な
誤用ではありませんでした
謹んでお詫び申し上げます
「恣意的 誤用」で検索すると非常に沢山の記事が出て来ます、もう何年も前から有名な話なんですね
こんな有名な誤用も知らずに自分は今の今まで、ドヤ顔で「恣意的に~」とか使っていたわけです
正しい意味を知っている人たちは誤用を見るたびに内心笑っていたことでしょう
本当に恥ずかしい……
以下正しい使用例です
「恣意的」であるとは一貫した思想に基づかずその場限りの考えに基づいている点で、明確な目的をもった「意図的」とは区別されるべきである
ttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%D7%F3%B0%D5
『恣意的』という言葉は、文中での登場の仕方が似ているせいか意図的、作為的、故意とという意味で使われることがあるが、恣意的には、無作為や定まった意図がないというニュアンスがあり、正しくない
http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%81%A3%E6%84%8F%E7%9A%84
▼「恣意的」を「意図的」と同じ意味で使ってる人は低学歴 「恣意的」は「偶然に」という意味ですよ
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1343400752/
自分や誰かの行動の理由が説明できない(と思われる)ときに使います
▼恣意的の読み方は?皆が誤用しているその意味とは?反対語は?
http://rubeusu-trend.com/1709/
▼どうして意図的って書かないの?
「勝手気ままに」「任意に」「ランダムに」「自分勝手に」「無作為に」「その場その場の思いつきで」
http://blogs.yahoo.co.jp/delightful_mikan/60763792.html
▼【誤字等の雑記帳 3】
深く考えず、でたらめに行動している様子
分かりやすく2点書き出すとすると
ということらしいです
つまり「意図的」という言葉に置き換えてもニュアンスこそ違えど意味が十分に伝わる文章や、"偶然に"といった意味が含意されていない文章は誤用ということですね
ではここからは誤用だということも知らずにドヤ顔で「恣意的に~」とか言ってる日本語の下手くそな馬鹿達を見ていきましょう
▼****さんのツイート
まずは個人です、まあ可哀想なので晒さないであげますが、NHK批判の前に自分の言葉を直してほしいですね、思いっきり誤用しています
▼政府、年金運用情報を開示へ…懸念払拭の狙い : 政治 : 読売新聞
次は世界最多の発行部数を誇る読売新聞、なんと振り仮名まで振って誤用しています、これは恥ずかしいですね、情報公開で偶然性を廃するなんて意味不明ですからこれは言い逃れできません
▼フェイスブックのニュース表示 恣意的と指摘で調査 | NHKニュース
フェイスブックが利用者の画面に表示するニュースについて共和党の政治家の話題を避けるなど恣意的(しいてき)に選ばれているとアメリカの一部のメディアが伝え、内部で調査が進められることになりました
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160514/k10010520761000.html
言葉遣いには厳しいはずのNHK、なんと表題で誤用してます、相当恥ずかしいですね、しかもこれは"偶然に"という意味だったとは絶対に言い逃れできない誤用です、NHKしっかりw
▼「哲學研究入門」小石川書房 - 1949(昭和24)年9月30日発行
併しこういう歴史的現實の把握は全く恣意的な直觀に訴えるわけにはいかないから、そこに類型的了解ということが必要になって來る
京大名誉教授、矢田部達郎先生が1949年に上梓した本の一節です、旧字体でカッコつけてる割には普通に誤用してますね
場当たり的な直感っておかしいですし、明らかに「作為的な」という意味で使っています、先生どんまい
全文読めばわかりますが、明らかに偶然性など含んでいませんし、自分の思うままに~という典型的な誤用例と同じ形で使っています
皆さんご存知、坂口安吾の文章です、文意にはまったくもって「ランダム性」など含まれていません、典型的な誤用ですね
▼油脂の浪費は法度監視制を創設 : 帝国油糧重点統制要綱決る : 化学 日本産業経済新聞 1943.4.14
地方割当民需(雑工業油、食料油等)の割当を、地方官吏の低度観点、古めかしい実績主義、業者請託による虞あるが如き恣意的割当等に委せない制度の確立
▼日支政府相呼応す : 社説 - 大阪朝日新聞 1940.3.31
思うに、今般反共和平建国親日政府の樹立の挙たるや、他国家のロボット政権として恣意的に駆使するていの意図によるものでもなくてさりとて戦争相手国政府として講和談判の衝に当っているわけでもない
▼減債基金存廃問題 大阪朝日新聞 1916.11.22(大正5)
経常費とす可しというにあり、乍併這は既にシェフレーの言えるが如く国債償還費は恣意的に定む可き最可動的の臨時費として各年の予算状態に応じ国家余裕を考察し大小有無伸縮的に定めらる可く
大正の新聞記事です、「ほしいままに~」という意味で使っています、偶然やランダム性などという意味は含まれていません誤用ですね
ちなみにこの大正5年の使用例が調べる限りでは最も古い「恣意的」の使用例となっています
つまり「恣意的」という言葉は一番最初に使われた時、生まれた瞬間から誤用されていたんですね
そしてこの大正5年から2000年頃まで、1世紀近くの間、ほぼ全ての使用例が誤用となっています
酷いですね
正しい使い方、本来の意味で使われるのは2000年以降、ネットが普及してからになります
とか
とか言って正しい使い方を普及してくれています
ありがたいですね
皆さんも誤用には気を付けましょう
何が言いたいのか全く分からんが、かろうじて分かるのは誤訳しても多めに見ろってこと?
突っ込みが入ってるのは訳の精度よりもそれを受け手側が感じる印象に余計なもの・作為的なものが含まれているから問題視されてるんだろ
日本人同士の日本語でも言い方ひとつ変えたら意味が変わってくるなんて日常茶飯事だろ
意訳することに常に危険性を伴うのは直訳した場合よりもニュアンスの変化が意訳側の手によって発生しやすいからだ
ナントカ言うよく叩かれてる翻訳者も意訳に自分の感性をまぜすぎたり手抜きと思われかねないような訳し方をしてるから批判の対象になってるわけで
訳すことの精度以前の問題
「奴の口に靴を突っ込んでケツにビール瓶をぶちこんでやれ!」→意訳:やってやれ! とかされたら普通にキレるだろ
「やってやれ!」は言いたいこととしては一致してるかもしれんが、センスもニュアンスも大幅に変更されてるだろ
そんなの同じ作品を見てると言えるのか?アイヘイチュー!
単語の意味を間違えているとかそういう意味で叩かれるのはむしろ殆どない
大体、納期に間に合わすために自分都合の意訳して、そのユニークとユーモアの無さに失望されているだけ
まだ直訳のほうが感慨深かったのにっていうのは意訳のせいで物語への没入感じが損なわれてしまったから
それなら日本語的におかしくても直訳することで想像させた方がまだ作品への貢献度は高い
思いつかなかったから直訳しましたっていうのは一件翻訳者の敗北にも取れるが、
直訳は文化的背景さえ理解していれば受け手側は正確に消化できるが、
意訳ではちゃんとヒアリングで全部単語を拾い切れてないとその差異に気付く間もなく次のシーンへ移ってしまいある所で整合性が付かなくなったり伏線を回収しそこねたりする
それを選択できないのは単に個人的都合の保身に走ってプライドを守りたいがため
だから叩かれる
晴れた土曜になにやってんだ俺。
1.これは「子供の貧困」の事例か否か→「子供の貧困」事例である。
経済的理由で進学がままならない状況自体が「子供の貧困」である。
その背景として、
社会はどんな支援を行うべきかが、本来番組が問おうとしていた問題。
2.「キーボード」の件→作為的である可能性が高く、だとすればやり過ぎ。
PCが3万円で買えることを知らないという「情報の格差」説は支持しにくい。
キーボードだけでも買って覚えようとする程度にPCを重視しているなら、
最低でも一度はググってると考えるほうがしっくりくる。(仮定)
ショッキングな映像で問題を実態以上のものに見せて関心を引こうとする手法はいただけない。
このような事態で「子供の貧困」問題に対する社会の視線が懐疑的になることこそがもっとも憂慮すべきこと。
「シン・ゴジラ」を見終わった直後の感想は「おもろいけど、説教くさくてめんどくせー」だったが、
疑問点を検討した結果、「シン・ゴジラ」はおれの中で「死者たちが地獄でゴジラと戦い続ける映画」と結論づけられ、さらにめんどくさいこととなった。
まず、最初になんじゃこりゃと仰け反ったのが、官邸に海底トンネル崩落の死者が0人と報告されるところ
車両が何台も走行しているトンネルの天井抜けて、海水が流れこんでんのに死者がいないってありえんやろ。奇跡か!
海水と瓦礫やらで満たされたトンネル、どうやって被害状況確認したん?
崩落の原因もわからず、2次被害も当然想定されるなか現場確認したんか?
道路のカメラ映像と避難者照らし合わせたら、誰も死んでないってことだろうか。それにしても報告早すぎだろ。AI使えば楽勝なんだろか?
しかも、「死者0」報告に誰も疑問を呈さない。官僚機構はクソだけど現場は優秀だから信用してるということか
おれが観た限りこれ以降も、死者の存在が映画に現れることはない。
つぎ、ゴジラが再上陸して防衛相が首相に自衛隊の発砲許可を求めるとこ
ここ観ながら「なる、ここは時間軸が前後してるんだな」と勝手にきめつけてたら、そんなことなくて愕然とした
おれは「ゴジラへの発砲許可が下りず、ゴジラ再上陸を許す」って描写だと決めつけてたんだけど
実際は「ゴジラが再上陸してから、市街地での自衛隊の発砲許可をだす」ってところでした。
ゴジラ再上陸が予見されるなか、至上命題はゴジラ再上陸阻止だろって考えたおれがバカでした
ゴジラ発見→直ちに空自のスクランブル。くらい事前に立案されてると予想したおれが浅はかでした
多摩川防衛線での攻撃を観ながら、これって焦土作戦だろか。人的・物的損害、上陸させたメリットってなんだろ?って考えてたのもむなしい
市街地のドンパチのほうが、海上のゴジラに攻撃より見栄えがよいからだろか?空自のスクランブルって平成ガメラに似た場面あったし
おれの予見は外れたが「ゴジラの再上陸=政府の絶対敗北」というのはおれの妄想ではないはずだ
作中の危機管理はその起点となるべき認識において、致命的な欠落を抱えていることになるとおれは考えるが、これは作為的なものだろう。
現実のヌークリア(原子力・核)政策における危機管理がそうであった、もしくはそうでありつづけるように
無人機攻撃は狙い通りの効果を上げるし、電車爆弾は狙い通りの効果を上げるし、
ビル爆破も、凝固剤の経口注入も狙い通りだ
指揮所本部はゴジラを直接視認可能な立川自衛隊で、視認可能ということはゴジラのレーザの射線にあることと同義であるが、指揮所からみる対ゴジラ作戦あくまでも遠景に過ぎず、およそ現実感がない
(蛇足だが、第1ポンプ隊と第2ポンプ隊との間にはきっと通信回線はないんだろうな。あるのは指揮所と各隊との縦の通信回線のみだろう。横の通信回線はない。決死隊だからね。第2が第1が壊滅したことを知れば士気に関わるし。と想像すると指揮所の主人公の泰然とした姿に戦慄をおぼえる)
「ゴジラ事案」収束を可能にするモノ・知識が積み上がっていく様で、かつて読んだ直木賞作家高橋克彦氏の「総門谷」をおれは想起した。
現実の福島原発事故は本作戦で使用されているコンクリートポンプ車による放水により収束したのだったか。注水作業に従事された方々への尊敬の念は禁じ得ない。が、しかし、注水作業はメルトダウン後であったと理解している。現実では手遅れだったポンプ車が本作で活躍しているのをみておれはこう思う。
人間がゴジラ活動停止させるにはファンタジーが必要だと。逆に言えばゴジラを人間が止めることなど現実では不可能であると。
「シン・ゴジラ」は、ヌークリアで死んで亡者になった者たちがヌークリアを消滅させるという不可能な願望を延々と繰り返す地獄絵図の一幕である。実にお盆映画にふさわしい。んでもってこの地獄絵図はおれに問いかけるのだ。それでもヌークリアを存続されるのなら、あとは好きにしろよと。
https://mobile.twitter.com/five_island/status/761399221077495809
http://mainichi.jp/articles/20160805/k00/00m/010/122000c
・ド平日に
・固定電話のある
あるいは両方か、全く別のそれ以外か?
怒らないから正直に名乗りなさい。
鳥越俊太郎が文春を事実無根だ、訴えるとか言っていて、ああ、終わったなと思った。
最近の文春を見ていればわかるとおり、これ1回で記事が終わるはずがない。
第二弾、第三弾と小分けにして、ターゲットを追い詰めていく。
だから、別に致命傷には成り得なかった。無視か謝罪をして、ほとぼりが冷めるのを待てばよかったから。
それで今回の鳥越のように「事実無根だ」と言ったところで第二弾に決定的なものを出す。
過去のスキャンダルだけではなく、現状の「うかつな行動」を誘い出すように作っている。
おそらく、次週の文春で言い訳できない証拠を提示して、鳥越は本当に終わるだろう。
週刊文春の編集長は「自分らは報じているだけ」とうそぶいているけれど、
明らかに作為的、戦略的にターゲットが潰れるように報じている。騒動が大きくなるように作っている。
あんたら、何がしたいんだよ。
菅野完さんから性暴力被害を受けたというXさんからの依頼で、7月14日に「菅野完 noiehoie の性暴力」というエントリーを上げました。
http://c71.hatenablog.com/entry/2016/07/14/153922
これは自発的に書いたものではなく、一部の人の思惑に沿って書いた作為的なエントリーでした。善意からとはいえ係争中の案件を裏取りもせず、頼まれるまま無責任に書いてしまったことを関係者の方々、ならびに読者のみなさまにお詫びしたいと思います。
この件には私が知る限りでも週刊金曜日編集者の方、係争事件の弁護士の方、濁山ディグ太郎さん、中島岳志さん、山口智美さん、いとうせいこうさん、朝日で女性問題を多く取り上げている林美子記者始め多くの方が水面下で結束しています。私はこの繋がりが純粋に性暴力被害者を救済し、再発を防止するためものなのか、菅野完さんの日本会議批判と関係があるのか、疑問を持っています。
7月14日、Twitterフォロワーであるfさんから性暴力事件についてのエントリーを被害者を助けるために書いてほしいという連絡があり、被害者を名乗るXさんとグループチャットでお話しました。私は自分自身が性暴力被害者であるため、そこで聞いた話と発売前の週刊金曜日のキャプチャの内容に強い衝撃を受け、フラッシュバックで正常な判断力を失ってしまいました。Xさんとも菅野完さんとも面識がないにも関わらず、被害に遭ったというXさんとかつての自分が重なり、無条件で力にならなければならないと思い込んでしまったのです。
見ず知らずの方の係争中の案件に関わることは軽率なのではないか、発売前の雑誌の紙面を大きく掲載したキャプチャの使用が著作権の侵害に当たる場合、その責任は誰が取ることになるのか、そういったことについてさえ十分に話し合うことなく、とにかく発売までにエントリーをアップして拡散させなければと必死で記事を書きあげました。
パートナーは私が本業の準備、食事や持病のための休息時間も犠牲にし、フラッシュバックでふらふらになりながら、ひたすらテキストの加筆修正を繰り返す様子を見て、とても心配しました。彼は当初から先方がこれだけの依頼を出しておきながら、執筆料の申し出を一切しようとしないことにも疑問を持っていたようです。
長文のテキストであることに加え、Xさんと彼女の支援者を名乗る人たち、また弁護士や週刊金曜日編集部からの要望が後からいくつも追加され、私はその度に細かい修正に応じました。加筆修正の度、何度も何度もおぞましい性暴力のについて読み返すことで自分自身の性暴力被害が蘇り、吐き気と動悸と冷や汗でとても苦しかったです。でもそのときは「性暴力被害を許してはならない」「被害者に自責の念を持たせてはならない」ということしか考えられませんでした。
ようやくOKをもらったエントリーはXさんの支援者ではなく、紹介者のfさんを通じてリツイートしてほしいと頼まれました。私と同様事件と無関係のfさんがなぜ?と疑問思いましたが「被害者探しを避けるため」といわれ、「被害者を危険に晒す気ですか?」と脅されているように感じ、何も言えませんでした。
また「フェミのお仲間を通じてリツイートしてほしい」「互助会!互助会のノリで、お願いします!」という言葉には(フェミの仲間なんていません。一人一人が自分の考えで発言しているんです)(互助会なんてありません)と思わずにいられませんでしたが、言い返すだけの気力もなく、上手く言葉にすることができませんでした。
パートナーはXさん、濁山ディグ太郎さんらに新規はてなidを取得してブログを書いたり、増田を使って匿名エントリーを上げてみたりしてはどうかとすすめましたが、誰一人それに応じた人はいませんでした。憔悴している私を傍で見ていた彼は私一人が矢面に立たされることに強い憤りを感じており、それを見ているうちにようやく私も「これは何かおかしい」と自分の感覚の異常に気付くことが出来ました。
私は自己評価が低く、記事の作成を依頼されたときも「なぜ私が?」という思いがありました。そのことについてXさん、naeさんらから「自己評価が低いからこそ被害者によりそういい記事が書けた」といわれたとき、限界が来ました。私自身は自己評価の低さと戦うため、これまで命を削ってきたからです。個人差はあると思いますが、性暴力被害者が自分を無価値であると考えるのは謙虚さとは違います。この苦しさは「だからよかった」といえるものではありません。
記事を書いている間の緊張とエントリーの反響、そして休息や食事を後回しにしていたこと、何よりフラッシュバックで普通の状態でなかったことが重なり、私はXさんの支援者の皆さんに感情的な反応を返してしまいました。そのことはお詫びしたいと思います。
しかしようやく少しだけ判断力を取り戻したいま、パートナーをはじめ友人たちに話を聞いてもらい、この件を伏せておくことは良心的に出来ないという結論に達しました。私は知らずに政治的な駆け引きに加担し、証拠不十分な係争中の事件について、言われるままに一方的な宣伝をしてしまいました。裏で糸を引く大勢の人たちの思惑に従い、とても公正とはいえないやり方で日本会議批判を攻撃する立場に立っていました。
このような事情によってあのエントリーを書いたことを読者のみなさんに知っていただきたいと思います。このような結果になったのはひとえに私の迂闊さと甘さによるものと反省しています。今後は利用できそうな人間は誰彼かまわず利用する人の餌食として踊らされないよう健全な自尊心を持ち、自分と他人の心の境界、責任の所在を明確にしていきたいです。他人の回復の前に自分自身の安全を守ることが、私を大切に思うパートナーや友人たちへの愛情だということを忘れないでいたい。またXさん、菅野完さん、そして日本会議に対する思想や立場について、感情的な思い入れに流されない視点を持ちたい。都合よく踊らされるのはもうたくさんです。
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富士通入社5年目の自分だが、ちょっと会社の庇護をさせてほしい。彼の求める仕事が会社に存在しなかったわけではない。
弊社、ここ数年、OSSの利活用に猛烈に注力している。有名どころではCloud Foundry参画の話http://www.publickey1.jp/blog/15/26_paas.html、OpenStackへのコントリビュート(リンク先は作為的な抽出なので注意)http://stackalytics.com/?release=all&metric=commits&module=api-site
彼の求める仕事はおそらくあったはずで、彼がその仕事をできなかったのは運(縁)がなかったという話で同情するし、彼の上司はクソだという点にも同意する。(彼の心象にも、富士通への風評的にも、それ以前に人としてよろしくない)
Excel某の話は自分も経験があって、弊社開発の闇。1年目は彼と似たつらい思いもした。そういったことも全部自動化できればよいが、マンパワーで解決してしまいがち。ただ、2年目からは新製品の開発を含めガッツリ開発できたし、今はSIの上流工程を担当させてもらって(苦戦はしてるけど)充実してると感じる。
彼の境遇から辞めたことを批判できないが、面白い未来もあったかもしれないというお話。
今後の彼に幸あらんことを。
意識高い系が嫌いなので、私は意識低い系について考えてみたい。
高知の某氏は意識低い系とは、頑張っていることが嫌いな、ヤンキー的、で足を引っ張る人というのを想定していたが、私の言う意識低い系とは少し違う。
意識低い系を考える前に意識高い系の傾向について少し言っておきたい。
意識高い系(時にfacebookにいる)の何が嫌いかといえば、あいつらやること為すことが、「作為的」なのである。
この投稿をすることで人からよく見られたいだとか、頭良く見られたいだとか、頑張っていると思われたい、そういった作為が透けて見えて反吐が出るのだ。
糞喰らえ!
そこから考えて意識低い系というのは、作為を廃したいわゆる「無為自然」な人の事を指すのではないだろうか?
「うんこなう」とか「おうろん食べたい」とか投稿しているそこの君だ!!!!
いいぞ!もっとそういう無為自然なまるで意味のない投稿をもっとしたまえ!僕はそういう投稿をもっと読みたいのだ!!
人からこう思われたいだとか、この投稿で成り上がりたいみたいなギトギトした投稿を見るよりは、もっと素敵だ。
人間は発言からつくられるのではなく習慣からつくられると思っている私は、大言壮語な人でなくてボソッっと呟く人にも素晴らしい人はいると思っているので意識の低い人の中にも素晴らしい人はいると考えている。
でかいことは言わなくても黙々とやればいいのだ。
この一連の騒動の中で気になったのが、大阪芸術大学教授の純丘曜彰氏である。
反「佐野エンブレム」の急先鋒としてメディアで派手に〝活躍〟した人物だ。
エンブレム問題の経過をつぶさに見てきた者、デザイン周辺の知識をもっている者で
純丘氏の発言に疑問を持った人も少なくないのではないだろうか。
筆者の感じた純丘氏への疑問とは、
そして「独りよがりなデザイン論」「デザインに関する知識不足」である。
http://www.insightnow.jp/article/8591
瞬く間にメディアのあちこちに取り上げられ、反「佐野エンブレム」への動きを活気づけた記事である。
デザインに関して識者といえる人物がここまであからさまにエンブレム下ろしを唱えたのは初めてであり、
純丘氏が五輪エンブレム問題の御用コメンテーターになるきっかけともなっている。
以下は、佐野氏のデザインしたトートバッグに関する部分である。
ニーチェの独文の警句を英文で引用して、名前の綴りがコピー元のままに間違っていたり
(page:2 より)
Pinterest に一枚の画像として存在していたニーチェの一節、
その最後の名前部分に綴り間違いがあり、佐野氏が孫引きしたために同じ箇所で間違えている、
すなわち佐野氏が Pinterest を利用していた証拠である、という論旨だ。
Pinterest に綴り間違いの画像などなく、佐野氏のほうだけがたまたま書き間違えていたのだ。
ここで問題なのは「佐野氏が Pinterest を利用していたかどうか」ではない。
この純丘氏の記事が出たころにはもう2ちゃんねるの当該スレは自らその事実誤認に気づいており、
ニーチェの一件は「佐野氏が Pinterest を利用した証拠」としては除外の方向へ向かっていた。
純丘氏は、佐野エンブレム下ろしに使えるものはなんの検証もなく使っていたのである。
最低でもその誤字があるとされる Pinterest の元画像をその目で確認してから記事を書くべきだろう。
「大阪芸術大学教授」の肩書きで公にされてしまえば、何も知らずに読んだ人は事実と思い込んでしまう。
論文というのは人文科学であろうと事実を積み重ねなければならないものだが
こんなお粗末な方法で文章を書いている人物が学生に論文の指導をしているのはいかがなものだろう。
あんな黒いゴキブリ印は、生理的に無理。とても嫌な感じがする。汚らしい。穢らわしい。なにより不潔だ。あまりに不吉で、自分まで不幸に呪われそうな黒いゴキブリ。金と銀の足が夜中にカサコソと動き出して、きみの手の上に登り、パジャマの中にまで入り込んで来る。きみに、多種多様の救いがたい病原菌をなすりつけ、触覚をピロピロさせる。おまけに、突然に羽を広げて飛び上がり、きみの顔をめがけて襲い掛かる。考えただけでも寒気がする。あまりに気味が悪い。
およびそこに貼られた画像は、読む者をいやな気分にさせる。
まるでいやな気分にさせること自体が目的のひとつにもなってしまっているようだ。
純丘氏の「佐野エンブレムが嫌いだ」「黒が嫌いだ」という気持ちはよく伝わってくる。
だがそれは個人的な感情であり、公にするにしてもせいぜい個人のブログにとどめるべきだ。
大学教授、美術博士という肩書き付きでオピニオン系サイトに開陳するようなものとは思えない。
識者なら事実を元に冷静に分析し、問題を明らかにする役割を担うべきだろう。
騒動の中、感情のほとばしる文章で純丘氏は何を訴えようとしたのか。
これ以降、掲示板でもエンブレムをゴキブリ呼ばわりする人が一気に増えていった。
http://www.insightnow.jp/article/8644
ひたすら駄作である、見るに堪えない、と力説している。
疑惑があるとはいえ、多くの人が関わって世に送り出されたものを
「超弩級の駄作」「ゴキブレム」「梅干」と品なく形容する姿勢にもあきれてしまうが、
デザイン制作とは無関係な経歴(専門は哲学)と関係あるように思う。
むろんそれ自体は問題ではないが、次章の「デザインに関する知識不足」も含め、
己の手にあまるデザインに関する解説を、あたかも〝識者〟として発表するのは
この一文の含まれる段落を「デザイン論」として理解できた人がいたら
「9分割を元にフレキシブルな組み替えが可能」というアイデアを否定するのが目的のようだが
9分割の真ん中に必ず弧の中心が来なければならないデザイン上の理由とは?
さまざまな大きさ・形でさまざまな場所に弧が立ち現れていた、
黒は、ほとんどすべての文化で、死や悪、権力、固着、腐敗、を意味する。同様に、赤は、血のシンボルであり、命や致命傷だ。それに金銀を加えるなど、まさに軍事配色のナチス的悪趣味。
解釈はさまざま可能なのでナチスフラッグとみる者がいてもいい。
エンブレムを仮に芸術のひとつとするなら、芸術はさまざまな解釈に向けて開かれたものだ。
しかし、これは誰もが知っているようにオリンピックのために施された「デザイン」である。
アートのように何ものからも束縛されない自由な意志で構成、配色したものではない。
見る者も「日本」で開かれる「五輪」の「エンブレム」であるという情報とともに接する、
そのような場、コンテクストにおいて機能するようにあつらえたものだ。
佐野エンブレムがスポーツを感じさせないとか、祝祭感が足りないとかいった批評は可能だ。
が、「ナチスフラッグ」である、「ゴキブリ」「致命傷」であるなどというのは
エンブレムの出自、コンテクストを無視した悪意のあるミスリードでしかない。
ゴキブリの画像同様、ナチスの絵まで用意して独りよがりな解釈を
強くイメージとして植え付けていこうとする純丘氏の手法には疑問を禁じえない。
どんな媒体でも、ほぼ同じような発色になるように考えておかないといけないのに、全体が印刷物無視のRGBベースで出来ていて一般フルカラー印刷のYMCKの四色のインクでは出せない「特色」の金銀が入っていたり
この部分を読んで頭の中が「?」でいっぱいにならない人がいるだろうか。
この2行だけでも純丘氏が自分の手にあまること、自分のよく知らないことを
結論ありき、佐野下ろしを目的に書いていることが明らかである。
純丘氏のこの不案内な言説はさまざまな場所で〝プロ〟のそれとして引用されてしまっている。
発表されたエンブレムは RGB ベースでできていて、CMYK ベースではないらしい、
佐野研二郎氏は、デザイナーとしてはひどく低いスキルのまま今のボジションに祭り上げられ、
あたわない五輪エンブレム設計者の大役もしくは影武者の役を任されたようだ……
RGB ベースというのはモニターなど映像における混合方式であり
CMYK ベースというのは紙媒体など印刷で用いられる混合方式である。
RGB と CMYK は、媒体に応じてふさわしいデータを用いる、ただそれだけである。
ポスターやプログラムに印刷するなら CMYK のデータを用意する。
純丘氏の中で佐野氏は、この知識としても初歩の初歩、
デザイン業務上、日々出くわしてはそれに従って作業している単純なことをまるで知らないという設定らしい。
特色というのは印刷インクの一種で、
通常のプロセスカラー(CMYK インク)で表現できない色をカバーするためのものである。
エンブレムに特色の指定がしてあったというのはどこからの情報かわからないが
(筆者は見たことがないので、まずはそのソースが問題である)、
それだけをとれば、企業ロゴなどにおいては珍しいことではない。
RGB/CMYK と同様、特色を用いるかどうかは運用の現場に応じて「自然に」決まるのであって
雑誌のカラーページなら金は4色分解(CMYK)で表現されるだけである。
金や銀を特色にすることも、黒や赤を特色にすることも可能だ。
特色で刷るならばここはこの色(PANTONE 、DICなどの番号)、
そしてディスプレイ用にはこの RGB 値というように、列記されているのがふつうだ。
・特色番号(印刷用)
純丘氏の言葉を再掲する。
以下のような色指定を同一の紙の上に記すデザイナーを想像できるだろうか。
すなわち、これが「ワンセット」になっていて、それ以外の指定(CMYK 値)のない、
純丘氏の作為の産物か、氏がまたネットかどこかで拾ってきてしまったデマではないのか。
このような「物理的に」とすら言っていいほど存在しえない〝キャラ設定〟をすることも
デマを拾ってきて書き写すとこともありえないのだが。
大阪芸術大学教授・純丘曜彰氏の言葉は、目くらましのように効果を発揮してきた。
「佐野五輪エンブレムは超弩級の駄作!」での、ルネッサンスからフラットデザインへ至るくだりなど
エンブレムとはデザイン論において爪の先ほども関係ないが(ゴール地点のフラットデザイン自体なんの関係もない)、
このペダンティックな解説や周辺タームは、氏の肩書きと一緒になって人々の目にもっともらしく映り、
芸術・デザインの「専門家」(日刊ゲンダイ)と目される社会的影響力のある人物が、
この混乱の中で、明らかに事実に反すること、半可通なことを、
己の求める結論「佐野エンブレム下ろし」に向かって品のない言葉と作為的イメージを用いて
流布してきたことには、疑問を通り越してあきれてしまった。
担任とのやり取り
先生にはいじめの多い人の名前を教えましょう→上から目線ですね
もう死ぬ場所は決めてあるんですけどねwまあいいか…→明日からの研修楽しみましょうね。
父親「知っていれば学校には行かせなかったのに」
やり取りの前者は去年の担任とのやり取りであり、
ボクがいつ消えるかわかりません。ですが、先生からたくさん希望をもらいました。感謝しています。もう少しがんばってみます。ただ、もう市ぬ場所はきまってるんですけどねwまあいいか…
それに対して担任の返事が
時系列順に並べてみていく。
少年は中学一年生の頃もいじめられていて、その時は別の担任だった。
『上から目線ですね』、『どうしたのでしょう、最近イライラしているようですが、自分で、ストレスを解消できるといいね』
昨年9月中旬、父親の相談を機に、生徒と部活顧問、嫌がらせをしていた生徒が話し合いをして、いじめは解決したようだ。
しかし、二年にあがって4月上旬頃から父親に「ちょっかいを出されてウザい。学校に行きたくない」と話すようになった。
(同級生の親が少年が泣いて帰宅していたこと、いじめられているということを父親に話していたそうだが、これがいつの話かはわからず、一年生のいじめの時の話かもしれない。しかし父親も少年が学校生活に問題を抱えていたことは知っていた)
4月中旬頃からノートにも孤立やいじめの内容についての記述がはじまり、6月8日まで出る。
ニュースでおった限りでは月2回程いじめについて書かれていたようだが、その他にもあったかもしれないので頻度はわからないし、この間担任とそれについて話をしているかはノートからは見えてこない。
しかし同級生の話では少年が担任に泣きながら相談をしていたり、担任がいじめている生徒たちを別室に連れて行き叱ったりもしていたようだ。
6月中旬頃には、昨日は話ができてよかったです、という教師のコメントがある。
それ以降主にテストについて書いていたようだが、6月28日頃に何かあったらしく
ここだけの話、ぜったいだれにも言わないでくださいね。もう生きるのにつかれてきたような気がします。氏んでいいですか?(たぶんさいきんおきるかな)
と書いた。それに対して
と担任は返している。
どうしたの?じゃねーよ、とネットで言われたりしていたが、一度話をして落ち着いた後にまたいじめの話が再開したので、どうしたの?というのは不自然ではない。
また、その頃書くことはテストについてが多かったこと、一年生の時は部活顧問と話し合いをしていることから、問題はテストなのか、クラブ活動なのか、クラスでのいじめなのか聞くことも自然だし、死にたい、という子に元気を出そうと言うのも自然である。
そして翌日の29日には、先生には希望をもらいました感謝しています、と少年が書いているので、おそらく何か話をしたのだろうと思われる。
そこで死にたいというような話もたくさんしたとすれば、7月1日、2日の研修に向けて前を向いてもらおうと、研修楽しみましょうというコメントをしたことも納得できる。
6日に警察からノートの返却があり、7日にマスコミがノートについて報道、父親はインタビューにこたえた。
マスコミは少年のノートから担任への感謝の言葉や、誰にも言わないでくださいという言葉を切り取り、担任のコメントがないものには無回答と報道した。
話し合いが行われていれば無回答のケースがあるのも自然であるが、話し合いがあったかのような報道はしなかった。
一年のノートと二年のノートをごちゃまぜにして、一人の担任という悪役を作り上げた。
訂正:7月8日時点で別の担任のコメントであるという報道があったそうです。情報ありがとうございます。
父親はいじめについては知っていたがノートの存在を知らなかった。
もしノートについて知っていれば、と答えたのに、まるで父親は何も知らず大人は担任だけがいじめを知っていて見殺しにしたかのような報道がされた。
本文ではそう書いていてもニューストピックでは省略されていたりして誤解が起こりやすい記事も多かった。
また2ちゃんねるや、2ちゃんねるのまとめでも作為的な報道とそれを受けてのひどいコメントやバッシングがあった。
単に刺激的なニュースになればいいと考えていなかっただろうか。
しかし少年は希望をくれた担任がこうやって責められることを望んでいただろうか。
追記:できるだけたくさんのニュースをおって、真実を求めたつもりですが、間違いがあれば指摘してください。
マスコミを妄信しないことも大事だが、マスコミを敵対視しながらマスコミの情報を引っ張ってくるのも自ら歪ませる行為なので難しい。
sanam 性格いいか悪いか以前に、女々さんだけでなく久谷に対しても特に肩入れしてる訳でなく利用してるような印象があるのでそういう意味では平等だと思う
いやいや、ぜんぜん平等じゃないだろw
岡田育が事前に宣伝でおちゅーん登場を仄めかしまくっていたこともスルー
さんざ待たせた後で謝罪訂正できない趣旨のメールをよこしたことにもスルー
内容証明送ると言われて慌てて返事、新説「メールは内容証明代わりになる」発言もスルー
そして「常識的な対応」「一般的にはこれで問題ありませんが、今回は」を繰り返すw
久谷女子は「常識的な仕事をしている」「キラキラした感じ」「炎上に慣れてない」?
web女子宣言してるはてな出身のいい年した女集団が炎上に無知なわけないだろうがwww
だいたいまともな女はゲスな揉め事をわざわざ紙に載せようなんて思わねえよwwww
つか編集後記で改めて触れるその神経の下衆さ見たってまともじゃないwww
その後の怒涛のメメ叩きもすごいよなw
対立構造書きたいだけなら
「久谷女子は社会的に一目置かれる仕事をしている人が多い。メメは特にパッとした仕事も学歴もない」
とでも書けばいいだろw
久谷女子を会社社長だなんだと持ち上げまくったあとで、メメのことは
「無職!高卒!バツイチ!DV経験あり!」とか今回そこまで詳しく書く必要どこにあったの?何か怨みでもあんの?
違いますよね?久谷女子さまに逆らうから叩いておいたんですよね?ご機嫌取り乙www
高学歴インテリ集団はてながどっちの話信じるか考えたらこっち書くよなw
始めに「自分はメメのファンだった、親切にしてやってた」発言からの
(これも本論と関係ないのにさり気に挿入w)
メメが2chで昔すごかったとかまったく今回の話に関係ない暴露のオンパレードwww
で、おちゅーんのやり捨て行動は「小町にいっぱいあるから興味がない」でスルーw
で、まとめた結果が
「社会的に信頼できる仕事をしている高学歴な女子集団が元ちゃねらーの底辺女に抗議された。
炎上社会に馴染みがないため悪気なく常識的な対応をしたら噛み付かれた。扱いには気をつけないと」
みたいなすげえ印象操作されたまとめになってて、それに納得してるブクマがキモいwww
いやいやいやwwメメがどんな女でも久谷女子には情状酌量の余地ないだろww
なんで男と女の揉め事にわざわざ首つっこんで原稿依頼して宣伝して売ってるんだよww
それも女がやり捨てされた話をさwww
その辺つっこんでくるかもしれない大御所xevraにさらっと媚売って黙らせてるところも抜かりないw
で、「さんざんまとめてほしいことがあったら気軽に言え」と自分から言ってたくせに
それがやましいから出てきたんだろwwww
メメを叩くことで久谷女子に媚びを売りつつ保身出来る上手い方法が思いついたからw
マジサイテーwww
姑もこんなまとめ書くなら無視するか増田で書けばよかったんじゃないのw
まあ姑は承認欲しさに小町に張り付いて何年もネタ投稿してたくらいの悲しい女だからな
はてなで築いた地位でHuffington Postからも久谷女子からも原稿依頼が来た
それを無碍には出来なかったんだろうけど
これが平等なわけないし、それを見抜かせなかったんだからたいしたもんだ
こいつと久谷女子メンバーが今後「じょせーのーけんりー」とか言い出したら笑うわ
気付かれないように被害者の印象を下げ、加害者の印象を上げ、客観的に話しているかのように見せかける。
で、「普通の人だったらかわいそうだけど、そういう人じゃ仕方がない。自己責任」に持っていく。