はてなキーワード: 一新とは
PS4とSteamで新しいアイドルマスターのゲームが発売されるが、
結構な頻度でネガティブな発言をよく見るので、主なものを挙げて自分の感想をまとめておく
プラチナスターズから3Dモデルがブラッシュアップされ、スターリットシーズンにて再度3Dモデルが新しくなった。
おおむね、諸星きらりや双葉杏のようなかなり身長差が激しいアイドルを躍らせるために3Dモデルやモーションを一新するのが目的だろう。
ステラスターズまではどのキャラもだいたい同じような身長差で、ゲストキャラも元のアイドル達と大きく離れてはいなかった。
ウマ娘のほうが出来が良いと言えばよいが、ぶっちゃけシェーダーの違いなので個人の好みの差だと思う。
例えると、どの絵師の絵が好き?くらいの違いだ。
今さらアイマス1のようなモデルだと古臭いし、2やOFAなどのモデルも洗練されているが、そこはミリシタに引き継がれている。
プラチナやステラは美麗ではあるが癖が強いかなと思ったので、スタマスはだいぶ落ち着いたようなモデルだと思う
強いていうなら、肩とかの関節がうまく処理できていないのでそこは直してほしいところか
デレマス、ミリマス、シャニマスから5人ずつというのは確かに少ない。
デレミリは選抜で出てくるならまだしも、シャニはユニット売りなのにユニット関係なく選抜メンバーで出てきたので結構ネガティブな意見が多かった気がする。
まぁアイマスは全作品通じてDLC商法ではあるので、1年間毎月各マスから1名ずつ追加で入ってくるというのはあり得る。
Steam版があるので、怒られそうなスレスレなところで追加アイドルModを作ったりとかもアリだろうか。
あとDSがはぶられてるという意見もあったが、演者が忙しすぎるのでどうしようもないというのはある。
余談だが、プラチナ、ステラのときはマネタイズに苦労していた(ガチャのほうが金を落とされやすいため)ので、
これも発表当初から結構言われているが、正直女性と男性で骨格や3Dモデルの作り方が違いすぎて非常に難しいというのがあると思う。
ダンスモーションの破綻を許しても、女性歌唱のダンスを男性が踊ったり、男性歌唱のダンスを女性が踊ったり、
据え置き作品のアイマスは全アイドル歌い分け(アイドルを編成した順番で個別に歌い分けができる)が基本だが、
ワンチャン、3Dモデル付きでストーリーとかには出るかもしれない。
それはそう(断言)
ライトやスモークの加減とかの絵作りはウマ娘のほうが上な気がする。
PS4で動かすのにスタマスは5人でウマ娘はもっとたくさんなんだが?という意見もあるが、
バックダンサーはモーションやテクスチャを共通化しているのでそこまでの負荷ではなさそうだと思っている。
スタマスは先日の生配信で情報が公開された「STAGE FOR YOU」という好きなアイドルと楽曲でMVを作るモードで
以前はできなかったが今回はステージ演出をいじることができるようになったり、そのうえでアイドル個別で撮るなどカメラワークを操作して
結果をオンラインで公開などができるのでそこは期待している。
先日のスタマス生配信のコメントで「OFAからずっと思ってたことあってスタマスで見切りをつけた」おじさんはOFAから何が気に食わなかったのか教えてほしいところ。
あと久夛良木Pはプロデューサーらしくあってほしいとは思った。
あがり症っぽいのはわかるけど、もう少し克服してほしい。
生配信などの場でユーザーに対してゲームのことを伝えるのがゲームプロデューサーとしての対外的な仕事だろう。
STAGE FOR YOUの情報公開で「ぼくのかんがえたさいきょうのアイマス」に近いアイマスが出ると思っているので、買おうと思っている。
プロデュースシステム的にはアイマス2やOFAっぽさを感じるので、プラチナやステラで辛酸をなめたプロデューサーももう一度手を取ってみてはいかがだろうか。
何もわかってないお前に解説してやろう。
ただゲームできりゃいいやろ?のお前にとっては元の定価1,2万くらいのグラボでも十分楽しめるだろう。
でも、脳タリンのままゲームやってるだけならまだしも、普通にゲームやってる人でも思うことはある。
・カクカクした画面でゲームしたくない
エロゲとか紙芝居のゲームばっかりやってるようなお前には必要ないが、
1秒1フレームを争うゲームだと、カクカクした瞬間に負けたりすることがある。
もっと広い画面でゲームを見られれば遠くの敵の動きが見えたり、4kになってくると何しているかどうかも如実にわかるようになる。
まぁその辺感じられるようになるのはスペック一新してゲームし始めたらだな。
カクカクしないで動くゲームやるのはいいぞ~ミスだいぶ少なくなるし人の動きにも気づけるし。
韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督の2020年の作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である。
描かれる時代は、アジア太平洋戦争で日本帝国が敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争の責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去を清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。
その標的はまず、戦前は絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前・戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。
戦後日本を象徴する言葉は、長いこと、「平和と民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。
天皇の戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年→1945年)アジア太平洋地域で戦争を続けた近代日本の実像を覆い隠し、この戦争の全体像を、最後のわずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島・長崎の「悲劇」を前面に押し出し、米軍占領下の沖縄は辺境ゆえに無視して、日本全体があたかも戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦・平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。
1960年の安保闘争の時にも、1965年の日韓条約反対闘争の時にも、戦前の日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在を分析する言動はほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会は総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。
1960年代後半、この社会・思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長の過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長の最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。
時代はあたかも米国のベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島に輸送される米軍物資の調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジアの民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。
加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人や先住民族(インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配が人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。
「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本の近代史と現在が孕む問題群に、「民族・植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。
「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み
「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計』から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。
「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーションで流れる。
多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。
その責任の一端が、「反日」そのものの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。
画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊の大道寺将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係も自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶と悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。
映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えのなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。
「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画を制作したのは、韓国の映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画を制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議=編『支援連ニュース』420号、2021年3月6日)。社会的正義のために、加害国=日本に搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日」メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。
だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場用パンフレット所収)。
74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本の自分たちが戦後の「平和と民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本の植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。
そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現と言論の自由を獲得した韓国の新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画が日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本も韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援連ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。
最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性の存在だと思われる。
刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たちの闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。
キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。
死刑囚の獄中書簡集を読んで、あんな事件を引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつうの青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑囚である義兄とは、媚びへつらいのない、上下の関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。
そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督も女性だ。弱い立場にある労働者の現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこの作品に脈打っていたフェミニズムの視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。
最近自分が長年追っかけている女性向けゲームがアプリゲームになった。
キャラ一新などもありゲームの話題を見ない日はないぐらい盛況でファンアートなどもおおく嬉しい。
ただ、デフォルト主人公が絡んでくるファンアートがどうしても受け付けない。
自己投影型夢女なので主人公のキラキラさとかが合わないのだろうか自分でもよくわからない。
少なくとも自分はあんなにキラキラしてないからこれは主人公とはまた違ったキャラクターと思っているんだとは思う。
でもファンアートは日を追うごとに流れてくるしそれを見たい気持ちもある。
多分今後イベントとかでメッセージが流れたとしてもそれはデフォルト主人公宛に聞こえてしまうんだろうかと思ったらなんか寂しくなってきた。
夢女をやめられればこんな気持ちにもならなくて楽しめるんだろうか。とりあえず吐き出すところがないので書いてみた。
だけだと面白くもないので、好きな理由とか何で積みゲーが存在してるのか書いてみた
ゲーム以外の趣味と呼べるものは料理ぐらいで、基本ゲームしてるぐらいにゲーム好きの人間。ゲーム歴は20年超えてる
所持ハードはPC、PS5、PS3、PS2、PSVita、PSP、switch、WiiU、Wii
積みゲーの本数は3桁。以前数えた時は大体160本ぐらいだったので多分そのぐらいある
ゲーセンとネトゲは引退済。昔から1人でも楽しめる遊びが好きで、もっぱら一人用のゲームで遊んでる。要するにぼっち
でもマルチプレイに抵抗はないので、Discordで知らない人と通話して遊んだりもする
次になんで積みゲーが多いのかを箇条書きで書き出してみた
・広く浅い遊び方をしてるので、手を出してるジャンルが多い(遊ばないジャンルの方が少ない)
・人のプレイ風景とか、PVとか、ストアページとか色々見た時に、「面白そう」って思ったらとりあえず買う
積みゲーのきっかけは、高校生になってアルバイトを始めた辺りからだったと思う
自分が好きに使っていいお金ができたので発売日が被ってるゲーム3本を、まとめて発売日に買ったりしてた
とはいえ平日は友達とカラオケに行くとか、クラスメイトとカラオケに行ったりしてた。田舎だったので電車で遠出しないとカラオケ店しか遊べる場所がなかったのだ
そうするとゲームをやるのは必然的に土日祝日、用事がない平日になる
しかしゲームを3本、しかもRPGが混じってるので遊び終わらない内に次のゲームが発売してしまう
今はそうでもないのだが、当時はなぜかお布施感覚で、好きなメーカー(開発)の新作は発売日に必ず買ってた。高校生の分際で何様なんだコイツ
新作を買ってきたはいいが、今遊んでるゲームが終わっていない。どうしよう
こうなると既に手遅れであった。「とりあえず今遊んでるやつが終わったら開封しよう」と思うも
遊んでいるゲームが楽しくて一向に終わらないのだ。時間は平等に流れているので、長引けば長引くほど次の新作の発売が迫って来た
今遊んでいるゲームが楽しい一方で、新作の情報を集めるのも楽しかった。というか今でも楽しい
このゲームはどんなゲームなんだろう。このゲームはこういうジャンルなのか。今までこのジャンルやったことなかったけど面白そうだな
今はあらゆるジャンルから好みのゲームを探し出して買っているが、当時はRPGとアクション以外のジャンルの経験が乏しかったのでどれも新鮮だった
「この『ストラテジー』とかいうジャンルのゲームは楽しいな!ほかの作品も探して買ってみるか!」と思えば3時間4時間は探していた
当然ながら、新しいゲームを探している時も積みゲーはあった。プレイ中のゲームもあった
「手持ちのゲームやりきってから次のゲーム買えばいいじゃん」と思う増田諸君もいるだろう
しかしちょうど受験等を挟んで、しばらくゲームから離れていた人間に自制しろというのは無理な話だったのだ
それから先はあれよあれよという間に積みゲーが増えていった。ついでにパソコンも思い切って一新した
コンシューマーだけでは飽き足らず、パソコンでゲームもやってみたかったのだ。正確に言えばパソコンでもゲーム(フリーゲームや軽いネトゲ)をやってはいたが
スペックを必要とするゲームは遊べなかったので、ハイスペックなパソコンで遊ぶゲームというのを体験してみたかったのだ
そしてSteamと出逢った。ついでにゲーセンデビューも果たして音ゲーにハマってた
今やパソコンでゲームをするときには欠かせないSteamだが、当時はまだそこまで日本人には浸透してなかった
ストアページなんか大体は英語で書かれてたし9割方は何が書いてあるのか分からないから、分かる単語とPVだけでどんなゲームか判断してた
今はそれなりにメジャーになったジャンルも、当時は日本だとマイナーだったやつが多かったので
自分にとってはすごい目新しかったし、未知のジャンル感があっていろいろ買っていた。日本語がない作品が大多数だったので、長文を読ませるゲームを引いた時はさすがにプレイを諦めてた
こうしてコンシューマーでも積みゲーが多かった自分は、Steamと出逢ったことにより大幅に積みゲーを増やした
しかも驚くことにSteamでは定期的にセールをしていて安ければ75%オフでゲームが買えるというじゃないか
ゲームのダウンロード版というだけでも(自分には)珍しかったのに、セールまでするとはなんてすごい存在なんだろうと思った。この時期はとにかくSteamそのものにハマってた
Steamにハマってはいたが、国産ゲームの新作も気にはなっていたのでこちらも並行して買っていた。当然ながら積みゲーは増える一方だった
さすがにやり過ぎだろうと我に返る時期があった
時間は有限なのだから、義務感からではなく本当に楽しいと思えるゲームをやろうと思って積みゲーを減らし始めた
そして現在。今やコンシューマー勢もセールをするのが当たり前になり、ダウンロード版も当たり前になった
未だに面白そうなゲームはいっぱいあるし、発売予定のゲームで面白そうなやつがいくつもある。具体的にはエルデンリングとか期待してる
一方で、リマスター商法が流行りだして往年の名作を最新ゲーム機で出そうという試みが増えた
まず始めに。私は空の軌跡からのファンである。そして、私は本作を数十分ほどプレイしてこのシリーズに”ようやく”見切りがついたつもりだった。ライターの紡ぐテキストの非常に強い癖が全く変わっていなかったからである。
「はは」「ふふ」「くく」を、まるで接頭辞の如く頭に付けて応酬される会話には、もはや嫌悪感さえ抱いていることをハッキリと自覚してしまったのだ。ここまでしつこいと、もはや冗句の領域である。
また、「寿ぐ」のように書き言葉と喋り言葉の区別がついておらず、辞書を引いて気に入ったから多用しているでは、と疑うほど拙さを感じる用い方は、逆に語彙が少ないからだろうとしか言いようがない。キャラの個性として利用されているのであればもちろん有効な手法ではあるが、作中ではまるで流行り言葉であるかのような扱いである。この点に関しては創では大幅に減ったとはいえ、やはり健在ではあったのだ。
流行り言葉のように使われていると言えば、「届く」もまた同じだ。これは武人の共通認識なのであろうが、いくら何でも多用しすぎである。ピンポイントで使えば閃の軌跡シリーズ特有の味にも思えるだろうが、現状ではあまりにも軽く、鼻につく言葉になってしまっている。
現状を打破する論理的な道筋を立てる前に、とかく精神論を展開するのもいい加減キツいものがある。精神の未熟な少年少女ならまだしも、リィンやロイドはそれぞれ教官、警官といったいい大人だ。既にそれが許されるような立場でも年齢でもないだろう。こういうのは要所でやるから響くのであって、常にそのような”醜態”を晒すのは見るに堪えないものがある。
このような価値観がまかり通るのは、全ての物事を主人公であるリィンやロイドを中心に考えているからこそだろう。その歪んだ価値観は新・旧7組という言葉に端的に表れている。登場人物は皆、何故か新・旧と呼び分けているが、本来であれば現7組以外は7組という括りで呼ぶ必要はないのだ。もっと言えば、現7組の人間に対し、新7組と括るのは無神経というものであろう。リィンさん。あなたはこの子らの担当教官なのですよ、と言いたくなってしまう。
原因は既に述べたように、世界の中心をリィンだと思っているからである。リィンから見れば彼の生徒は新であり、級友は旧なのだから、確かに彼が世界の中心であれば皆そのような呼び方をするだろう。そして、それが実際に行われているのである。だからこそ登場人物はライターの操り人形にしか見えない。リィンが好き過ぎて彼個人に設定が堆く盛られていくのも、書いていておかしいと思わないのだろうか。
これを強力に補強しているのが好感度システムだ。これはあらゆる関係性を主人公にのみ閉じる呪いである。サブにも何かしら関係性が見えるのは空からの登場人物ばかりなのは本当に酷い。これは何も皇子の結婚やアガットとティータのような恋愛模様だけを指しているわけではない。紆余曲折を経て家族になったレンとカシウスの微妙な距離のように、時と共に関係性が進んでいるのはシステムとライターの作り出した価値観により雁字搦めになっていないキャラに限られているのだ。
リィンの級友、または教え子達の横の繋がりなど、あってないようなものなのは既プレイ者なら分かることであろう。端々に会話が交わされている場面は申し訳程度にはあるが、誰と誰の仲が良いのか、などというのは全く感じられない。リィンを通してしか付き合いがないのではないかと疑うほどである。例外はシステムの軛から抜け出せているユーシスとミリアムぐらいであろうか。
展開のワンパターンさ加減にもうんざりである。ゲーム後半で、敵に援軍を呼ばれる。そこに駆けつける意外な仲間。という展開があるのだが、これをきっちり3ルート分やるなど正気の沙汰ではない。しかもその意外性というのが、全てあえて敵側に潜り込んでいたというものなのだ。そう、3ルート分全てである。ここでは本気で頭痛を覚えたものだ。プレイヤーを馬鹿にしているのかとも思えたのだが、一体どういうつもりでこういう展開にしたのであろうか。素で燃える展開だと思っていたのだろうか。是非聞きたいものである。
さて、ここまで読んだのであればお察しの通り、無事投げ出さずにクリアまで遊べたのだがその理由はCルートの存在に尽きる。決まり切ったテンプレ展開と、森羅万象が主人公に収束する精神論ありきの価値観に支配されておらず、真っ当に面白いものだったからだ。テキストの癖も完璧に抜けている。危うく完全に積んで、今度こそ本当にシリーズにも終止符を打つところだったのだが、せめてCルートまで進めてからコントローラーを置こうと予め決めていたのが幸いした。
あからさまに下敷きに某アニメを使っているし、何処かで見たような要素が目白押しではあるが、上手くミックスして、さらにルーファスのキャラを壊さずに馴染ませてある。いつものライターが書いていればやはりルーファスにしか矢印が向いていない関係性しか作れなかっただろうが、このルートは別のライターが書いているためそのようなことは一切ない。
このルートはウェットすぎないのが心地良い。印象深いのが、人形達の中から本物のラピスを見つけるという場面だ。まるで直感や奇跡のパワーで分かったかのように思わせておきながら、実は発信器を付けていたから分かったのだというのは(本当であっても照れ隠しであっても)ルーファスらしいし説得力もあって非常に好感を持った。ライターのセンスにだ。
惜しむらくは、他の2ルートにリソースを吸われて明らかに尺が足りていないところだ。人形の中から探す場面も、欲を言えば一緒に旅をしたという体験をプレイヤーと共に積み重ねてこそより輝いたはずである。これは最終局面に至るまで響いている。また、スウィンとナーディアにはしっかりとした背景が設定されているのが読み取れるのだが、尺の都合でそれが披露されるのはかなり限定的なものになっている。思わせぶりな台詞だけで半ば放置に近いと言って良いだろう。積み重ねさえあればもっと良いシーンになったはずだという箇所が多く、惜しい気持ちで一杯である。
私は軌跡シリーズで紡がれる政治劇には、多角的な視点を持たずに作品自体がクロスベル独立こそ正義だと一方的に主張すること以外は一定の評価を与えているので、大まかな流れ、つまり起きた事件はこれで良いのだが、実際に描くのはCルートだけであれば間違いなく良作になっていただろうと確信している。
3つのルートが合流すると、あからさまにいつものライター節になってしまっているのも良くない。Cルートの残滓など欠片も残らず吸収されてしまっている。合流後のルーファスなどもはや別人である。本来の彼が再び顔を出すのは本当に最後の最後の局面だけだ。
全体を通した部分で改善したと思えるのはロボット大戦の大幅な抑制だろうか。いや、むしろまだ完全撤廃を諦めていなかったのかとも言えるのだが、極々限定的になったのはありがたかった。システム的にもお話的にも全くもって面白くも何ともない要素で、あまりにも邪魔すぎるのだが、この設定は次回作にも持ち越すつもりなのであろうか。せっかく作ったモデルを(次回作ではエンジンやモデルを一新するので)最後に活用したかっただけだと信じたい。
不満は多々あれど、Cルートに見た光明でまた見限ってしまうことが出来なくなってしまったのは良かったのか悪かったのか……。ただ一つだけ言えるのは、もう予約買いをすることはないだろうな、ということだけである。
正確にはあるはずだった。
何か月も前から告知して、同業者とのコラボ配信で宣伝したり、ネットメディアに広告を出し、業界トップのクリエイターをゲストに招いたりもしていて、今年のラストを飾るにふさわしい超大型のライブだった。
推しの活動は順風満帆なわけではなく、特に去年は色々なスキャンダルがあり、たくさんのファンが離れていった。
体制を立て直したところで離れてしまったファンは簡単には戻らない。
今日のライブは離れてしまった人たちにもう一度振り向いてもらうための、再起をかけた、そんな大切なライブだった。
何年も推してきたファンとして今日のこの日をとても楽しみにしていた。
開演10分前、機材トラブルのため開演時間を遅らせるとの告知が出た。
少し不安な気持ちになりながらも、少しすれば始まるだろうと待っていた。
30分経った。
何も変わらなかった。
さすがにこれはやばいんじゃないかと思い始めたが、推しを信じて待とうと思った。
開園予定時刻から1時間が過ぎ、これはだめかもわからんねと思い始めた矢先、開催を1月末に延期するとの告知が流れた。
今日の中止が確定したと同時に、これまでの想いと、どうすることもできないやるせなさと、期待を裏切った推しへの怒りが混ざった複雑な感情が湧き上がってきた。
なんでこんなに大切なライブを開始10分前にドタキャンしてしまうんだろう?天候不順で中止とかならわかるし、今のご時世、コロナで延期とかでもわかる。
でも機材トラブル?そんなことで普通中止になるのか?何か月も前から準備してたんじゃないのか?リハーサルだって何度もやってたんじゃないのか?延期するにしたって開演1時間半後に告知するのはないんじゃないか?もっと早く伝えてくれたらこんなにショックを受けなかったかもしれない。
推しをプロデュースしている企業にも思いの矛先は向かっていった。
こんなドタキャンなんてしたら信用なくすだろ。取引先なくなるんじゃないか?推しは今日の失敗は誰も悪くないというが、これは誰かが悪くなって責任をとらなきゃいけない場面だろう。ライブやイベントでのやらかしは今回が初めてではないし、どこかに甘さがあったんじゃないか?
そんなことを考えていいるうちに推しの今後の展望に思いが巡っていった。
今日のライブはたくさんの人に見てもらうのが大切だった。幸い、開演してないにもかかわらず1万人以上の人が集まってくれていた。沢山の人に見てもらおうという目論見は成功してたんだ。でも1か月後、そう1か月後に同じように開催しても、今日と同じだけの人が来てくれる見込みはどこにもない。たとえライブが成功しても、推しの功績が世間に知れ渡ることはないんだ。大切な、大切な、チャンスを逃してしまった。推しがもう一度輝く希望が消えてしまった。推しの未来は暗い…。
こうして頭の中がぐちゃぐちゃになり、どうしようもなくなって増田に吐き出すことにした。
ここまで書いて心が落ち着いてきた。
コメントや反応ありがとうございます。
全て目を通して、実践してみました。
後期高齢者を含めた餅つき大会は、おそらくですが27日か28日だろうなと思います。
29日はくもち=9=苦労するものをこねる?からダメという話を聞いたような記憶があります。
27か28に餅つきをしたとして、それから万が一餅つき大会参加者から新型コロナウィルスに対する陽性反応が出たとすると?
感染者が急増するのは大晦日付近ですね。想像すると恐怖しかないので、今年は餅を買おう!とも電話で伝えました。
祖父母と親戚たちですね。私の両親はまだ現役で働いているので餅つき大会メイン層の親族から、こいつ頭狂ったんじゃないか?という扱いを受けました。コロナに移ると怖いから餅つきには来ないでね、とも言われました。
餅つきには行かないし、そもそも私は今年の一月から一人暮らしですし。同一市内に住む親兄姉とも数ヶ月直接会ってないんです。
コロナがうつると怖いと言われ、万が一新型コロナウィルスの陽性反応が出ても私が医療従事者だから大丈夫といわれ。
そもそも論ですが高齢者に餅は危険。それなりに危険。毎年餅で救急搬送される人がいるほど危険。
あとは広島市内のこと。大きな救急指定病院が一時的にですが救急受け入れ禁止になりまして。もちろん他の病院が対応するわけですが、新型コロナウィルスだけでなく事故や緊急の病気に対する対応が……ってなるんです。もう疲れました。文字が散らかってるのはこれが限界です。この表現が限界です。
西日本豪雨の時も忙しかったけれど、今はその比じゃなく忙しい。20代の下っ端なのでいつ仕事を辞めてもいっかと思っていますが私が辞めると他の同僚にしわ寄せが確実に行くなと思うと仕事を辞める決断も出来ません。思考回路が止まったまま仕事して一人暮らしの家に帰って休みの日に祖父母と親族に餅つき大会は今年は小規模にしよ?と提案しています。
何が言いたいかわかんなくなって来ましたが、医療従事者に向けて拍手とかしなくていいから。
今年は同居家族以外が集まって餅つきをするのを禁止にしませんか?
聞けば一般企業で年末に餅つき大会をする会社もあると聞いて……え?会社で餅つくの?と思っています。
餅は餅屋でいいじゃない。
前回、Twitterに適応できないオタクの行く末(anond:20191011160414)を投稿した者である。前回の増田では、トラバ/ブコメ共に様々な意見を頂き、自身を見つめる良い機会となった。とても感謝している。
前回の投稿からもう1年近く経っているが、その間に、というかつい最近でオタク的消費活動が大きく変わってきたためここに記録しておきたいと思い書くことにした。これが改善であるかどうかはさておき、これから先にまた変化があったら比較できるため、その意味でも詳しく書いておきたい。
書き終えてみて、改めて見るととても長い文章になってしまった。一応内容は節ごとにまとまっているので、読み飛ばして気になる所だけ読んでくれても構わない。
本題に入るが、まず俺はTwitter垢を作成した。俺にとってこれは大きな一歩だった。この大きな一歩に繋がる積極的な変化があったのかというと、そんな事はなく、きっかけは極めて消極的なものであったと思っている。この消極的でありながら重い腰を動かすきっかけについて簡単に説明するとするなら、それは定点観測型の消費に限界を感じたためであると言える。
具体的には、過剰消費による虚無と、巡回サービスの変化がある。それぞれについて軽く書いていきたい。
前回述べたように、俺はtwitterを検索エンジンとして活用し、気に入った作品の二次創作を拾っては消化、拾っては消化して楽しんでいた。自分が発信側になれない一種の「諦め」を持ちながらもそれが一番快適で自身に合っていたからだ。これについて、ブコメで「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」と指摘されたが、まったくその通りだったと思っている。消費する側として一方的に評価、消化しかしなかった事が自身を完璧主義にしてしまい、いざ自分が発信しようとするとそれが頭を持ち上げて邪魔をしてくるのだった。
とはいえ、それでもいいと開き直っていればよかったのかもしれない。今までそうしてきたように、これからもそうしていくことは不可能ではなかった。しかし、ここで虚無感がドッと湧いてきて、とうとう音を上げてしまうことになった。
どれだけ色んな作品を見て、なにかを感じても何も言うことが出来ない。発信する媒体もない。仮に、何か言おうとした所でどうしようもない駄文が出来るだろうが、それを流す場所も無かった。ただただ感情は吐き出される事もなく喉の奥に押し込まれ、SNSのタイムライン同じく次のまた次の情報の波に流されていくのだった。(もっとも、どのタイムラインにも俺は文字通り存在しなかったわけだが)
常に蚊帳の外である事を自覚させられ、これは「お前はずっと傍観者で、何にも関われないし、誰もお前を知らないだろう」といった気持ちを起こさせるのに十分すぎるものだった。
これを読んで考えすぎだろうと思う人も居るだろう。実際そうだと思う。おそらく、一人で消費するということ自体が、考えすぎてしまう原因なのだと思う。自問自答は、最終的には問題から目を背けさせてくれない。そしてこれはコロナ禍の状況によって更に悪化した。そういうわけで、最終的にこれと俺は向き合うことになる。
Twitterをメインにした定点観測にはいくつかの方法があるが、俺は専らRSSリーダーやSlackを用いて情報を集約していた。なぜTwitterクライアントを用いずにこれらを用いるかと言うと、Twitterのタイムラインは9割以上ノイズだからだ。要らない「いいね」が表示され、知らないユーザがおすすめされ、加えて不安を煽ってくる広告ツイートも混入してくる。どうでもいいご飯写真が上がる。クソつまらない診断メーカー。とにかくノイズ、ノイズ、ノイズ。それがタイムラインだと思っていた。(過去形なのは、この認識が変化していった為だが、それは後述する。)
で、これの何が限界になったかといえば、観測に用いていたツールが軒並み使えなくなったことが大きい。特に影響が大きかったのがIFTTTとintegromatの一部有料化である。どちらも、ベビーユーザーとして利用していた。(あまり知られていないintegromatについて説明しておくと、IFTTTと同様の作業自動化サービスである。)
これらの主な利用方法としては、該当ツイートの巡回、検索だった。IFTTTはツイート検索の定期巡回に優れており、integromatは特定ユーザがいいねしたツイートの取得で便利だった。この二つのサービスがほぼ同タイミングで一部有料化を掲げたため、俺は快適な創作ツイートの巡回を諦めることになる。
(IFTTTの有料化について : https://internet.watch.impress.co.jp/docs/yajiuma/1276755.html )
(integromatについては記事にされていないが、今年Twitter連携機能のみ有料化された。)
結局は無料サービスにフリーライドしていただけなので文句は言わないが、IFTTTに依存しない情報収集を考える事はいいきっかけだったのかもしれない。
こうして心理的、仕組み的に方向転換を強いられてTwitter垢を作成してみることになった。どうせ作るなら少数の人でいいから交流してみたいな…くらいのお気持ち。ちょうど追っていたコンテンツの専用垢としてそれっぽい推しのアイコンを用意し、無難なプロフィールを何度も書き直しながら書いた。恥を忍んで #○○と繋がりたい タグを付け、初心者のフリをしたツイートをした。勢いがあるそのコンテンツは凄まじくて、数時間でツイートは数百のいいねが付いていて、少し怖くなった。恐る恐るフォローすると、フォローを返してくれて、なぜかそれだけで安心した。大げさかもしれないが、久々に新しいアカウントを作って界隈に入るのは、そういうことである。
ツイートにいいねした人をフォローしていくうちに、俺は巨大な相互フォロー網(以下、巨大FF網と書く)に取り込まれている事が理解できた。プロフィールを開く度に見る「○○さん、他○人がフォローしています」みたいな数字がフォローするたびに雪だるま式に大きくなっていく。タイムラインは自分が思った通り煩雑になっていき、一度の更新でシークバーが小さくなった。更新の度に米粒のような大きさになるそれは、俺の心のようだった。
あたふたした俺はくそつまらない無難なツイートしか出来なかったが、それでも反応してくれる人が居てくれたため、徐々に萎縮が和らいでいった。推しについて拙い言葉を書くと、誰かがいいねを送ってくれた。恥を忍んでアホらしいタグを付けたツイートをすると、誰かが返信してくれた。界隈の巨大FF網、その集団意識はそのようにして俺を取り込んでいった。そしていつしか、俺も誰かのどうでもいいツイートにいいねやリプライを送るようになる。しかし、ふとした瞬間に定点観測時代の俺がこう囁いてきた。「それって互助会と何が違うの?」と。
定点観測時代、推し関連のタグでツイートを巡回してる時によくこう思ったものだった。「なんでこのツイートにいいねが沢山付くの?」「この人のイラスト、毎回同じ人が持ち上げてるな」「定型文のような褒め文句…互助会みたい」
はてブにおいては互助会は悪とされている。互助会の人たちで持ち上げられた記事は大体つまらないし、並ぶコメントも「参考になりました!」ばかり。これと同じ感情を定点観測時にTwitterでも感じていた。いいねの数でツイートを巡回していたので、価値のあるツイートだけ伸びてほしかった。どうでもいいツイートが伸びて、それを拾うと、ゴミを拾った気がして、イライラしていた。
しかし、後に巨大FF網に取り込まれた俺はそれを体現するように振る舞っていた。フォロワーのどうでもいいツイートに気軽にいいねやRTを送り、また自身のツイートも同じように扱われていた。気軽な反応は心理的な障壁を無くし、より安心感を強化していく。もはや「価値のあるツイートこそ伸びるべき」といったグツグツと煮詰まった思想は、火が消された鍋のように静かになった。会話をする当事者たちからすれば、そんな事はどうでもよかったのである。
俺ははてブの互助会を擁護したいとは思ってはいない。ただ、互助会がなぜ生まれるのか、その一端は理解出来たように思っている。
評価指標となるいいねやブクマといったものは、当事者間ではカジュアルな肯定に使われるが、観測者側からは質の良さでソートする時の指標として重く受け止められている。そのため価値に見合わない評価を付ける事を当事者間では歓迎され、観測者側は嫌うのではないだろうか。これが正しいかは分からないが、この価値観の違いが互助会の生まれる原因であり、またそれが害悪的であると糾弾される理由ではないか、と俺は薄々感じるようになった。
それでも、どこか脳裏には「質の良いツイートが伸びるべき」という意思は存在したようだが、属する巨大FF網が持つ互助会的文化に、それも破壊されることになる。
ここで述べる"互助会的文化"はあくまで俺の属したFF網で存在しただけで、Twitter全般で起きている事ではない事を先に明記しておく。
それは決まって形式的な挨拶ツイートだった。(以下"おはツイ"と称する)夜明けと共にタイムラインが動き出す時、皆揃って、おはツイをする。これを初めて見たとき、なんだかむず痒い思いをした。形式的な挨拶ツイートと、それにつくいいねのインフレ。ツイートに付けられるタグや画像から得られる情報はほぼ無だった。属する界隈は、某ソシャゲコンテンツだったため、おはツイにはそのソシャゲの推しスクショがよく貼られているのだが、これも理解出来なかった。単なるゲーム画面だ。#○○が今日も□□ みたいなタグがだいたい付いている。なんだそれは?
とにかくおはツイの絶対的特徴として挙げられるのがその情報量の無さと明らかに釣り合わない評価(いいね/リプライ)だった。これが午前中、FF網全体で再生産され続ける。インフレするいいね欄を見ていると、次第に俺は「質の良いツイート」の定義がわからなくなった。
そして、このツイート群がもたらす特異性は、その連帯感にある。すなわち、同じFF網に居たとしても、おはツイをする/しない でうっすらと交流関係に壁が出来上がっていくのだ。それもそのはず。形式的とはいえ、毎朝話すフォロワーと話さないフォロワーが居たら、自然とそうなるのだ。現実社会でそうであるように、Twitter上でも変わらなかった。どんな環境であろうと、挨拶は変わらず有効で、逃げられない。
俺はこのFF網に取り込まれた時点で界隈に受け入れられた、一員だと勘違いしていたがそれは違った。毎朝行われるこの儀式じみた挨拶ツイートをこなしてこそ、この集団意識の一員となれるのである。
先頭で"洗礼"と書いた意味が、ようやく理解出来たと思う。この儀式が内包者のツイートへの価値観を塗り替え、統一しているのだ。誰かがこれを強制したりはしない。だが、いうならば集団意識がそれを催促しているのかもしれなかった。そしてこれを通過した頃には、俺の価値観は一新された。
ここまで聞くと、「おいおいそんな所、面白いのか?」も疑問が湧くだろう。先に結論を言うと、面白い。
たしかに、そのタイムラインは常に情報量の無いツイートで溢れていた。冗長な挨拶周りが毎朝再生産されていた。しかし、これらは俺自身が発信する時の障壁を限りなく低くすることにも作用したのだ。
前回の増田までは、俺は自分の思いを発信するにあたり、「完成された感想文」が必要であると、そう信じていた。自身が求める質と同等のものを発信するべきと考えていたためである。誰が見ても分かるが、明らかにこれは長続きしない。自分の理想と実際の質の乖離に耐えられないからだ。
だが自分がその"レベルの低さ"を許容すると、話は変わる。煩雑なタイムラインを受け入れた時、自分も煩雑な発信が出来るようになるのだ。そしてこれは、"発信したいけど出来ない"を大きく上回る。俺に必要だったのは高等な「完成された感想文」などではなく、低俗な「エモいメモ書き」で十分だったのだ。
ここまで書いてみて、改めて以前の考えが独りよがりであるかと痛感した。消費専門で二次創作を漁っては、一方的に評価したり、ノイズにイライラしたりする。これはこれで楽しかったが、視野が狭くなりすぎていた。
本当に好きなコンテンツを摂取して、発信も含めた消費を楽しむには定点観測では全然足りない。自分がつまらない事しか書けない事を自覚したうえで、色々な人の発信、二次創作を許容して楽しむ。こうした先に、もっと良い発信が出来るヒントがあるのではないかと、今はそう思っている。
先述したとおり、これが改善であるかどうかは分からない。またこの先に、「あの発想はどうかしてた」と目が覚めるかもしれない。もしそうなったらそれはそれでまた書いてみようと思う。
だいぶ合致する要素があるし。
でも、国際組織の本部( https://icosathlon.fi/ )は北米じゃなくてフィンランドなんだよな。あと国内でもアジアチャンピオンシップとして2014年に勝浦で開催されているし。
もう誰も見ていないと思いますが。
軽い気持ちで書いたエントリを思った以上の方に見て貰えて嬉しかったです。
似たような状況に置かれている方、色んなジャンルで世界にたくさんいるような気がします。人が集まっちゃいけなくなるって、そういうことですからね。頑張りましょう。
ただ深く考えないで書いた文だったんで不快に思われた方もいたかと思います。申し訳ありませんでした。
で、なんの競技かなんですが、ごめんなさい。このまま消えさせてください。
なにか状況動いたらまた書かせてもらうかも知れません。次はもうちょい配慮して書きます、、では。
読み返したらコメントされている通り自己顕示欲丸出しみたいな一文があったので修正しました。
マイナーさを自虐的に表現しただけのつもりだったんですけど、はい。
できることといったら、来年の大会に参加する用意(あるのかな、、、望み薄な気がする)を金銭身体面でしておくだけです。
もしホントに国内で大会開くところまで行ったら派生元競技の知人とかを通じてリアルで活動したりしなくてはとか思っていましたが、
今はインターネット老人会の本能的に、名無しのままでいたいです。
タイトルまんまなんですが。
私がここ数年サラリーマン生活の傍ら取り組んできたマイナースポーツがこのままだと消滅しそうだなウケるwと思ったので書きます。
超マイナー故に、競技名バレると本名年齢、顔までバレかねないのでぼかしつつ書くことをご容赦ください。
というような超小規模な世界なので「ワールドカップ」と言っても大会の雰囲気はアットホームなもんです
殆どの大会主催者は引退した競技者で、商売でやっている団体って殆どない(一部大会は、スポーツイベント主催会社が取り仕切っているけど)
複数回参加する人はほぼ知り合い、「オーまた会ったね!」みたいな感じで、ここで「今度は負けないぞ!」みたいな会話はほぼない。気楽なもんである。
特にアジア人は珍しくて、私はアジア人としてもかなり華奢な体格してるので、向こうのでかい競技者に交じると大人と子供、ほぼマスコット扱いされてるような気もするがまぁいいか。
全然レベルは違うけど、カーリングとかフィギュアスケートで各国代表同士は親しい友人だ、て感覚こんな感じ、、?と思っていた。
この「世界に同志ができる感覚」がたまらなくて、競技を続けていたのはある。
さて、このような生ぬるい小さな世界だが、どんな世界でも「世界のトップ」というのはマジですごい人がいる。
なんで他の競技でもオリンピック競技者レベルだと言えるかと言うと、競技の特性上、プロフィールとして陸上の記録とかが出てくるからだ。
私も一番鍛えていたときは生活全てが競技成績向上のために組み立てられていた、、、ので、自分の体の性能の95%位は引き出せたと思っている。
曲がりなりにもそのへんまで自分の能力開発をすると、逆に生まれ持ったものが違う人との差というものを痛感することになる。
ちょっとやそっとの差じゃなくて、これは絶対に埋まらないと思うほどの差だ。
大学院の時、頭の中で論理回路組み立てながそれをそのままコーディングする離れ業を見たときにも俺には絶対に無理だと思ったけど、それに近い。
一般人でも、体育で4以上もらったことがない人でも、真面目に鍛えれば想像もつかないぐらいの力を身につけられるもんだが、
彼らは最初から一般人と同じ次元にいないと言うか、一般的な意味での鍛えてたどり着ける延長線上にはいない感じ。
ですが不思議と、そういうことは悔しいとか、そういう気持ちにはならない。
「アイツらの本当の凄さを理解できるのは俺達だけ」みたいな感覚が、トップ層の下にくっついている集団にあったような気がする。
この感覚は宝物だ。
さて、そのような私の愛していた大会だが、当然ながら今年はどこも中止だ。
そして、前述したように主催者側は「ほぼ利潤の出ない手弁当の大会開催」「ましてや協会には収益なんてほぼない」状況であり
参加者の大半は「それほど真剣に取組んでいない層」なのに加え、「参加費が非常に高い」という事情があるため、
どのくらい高いかと言うと、開催される国の物価によるが30万円~10万円である。
スタッフ(というか主催者の友達のお手伝い)の日当、宿泊費、食費まで参加費から出すんだから当然そうなる。
今だとまだ規模が多少大きくなり、主催者側が「大会開催用資材」を既に持っているケースがあるのでこれでも多少安くなった以前は50万円とかあったらしい。まじかよ。
基本的に金持ちの遊びである。私は金も時間もほぼ全振りして参加していた。まあ、ついでに世界を旅行してた感じなので、
すると、このようなドミノが想定される
大会がなくなる
↓
↓
体力低下
↓
完遂の見込みが薄いのに参加費出すか、、?そもそもやるのか?
(あまり関係ないがこれまでの所感として、アメリカ人は完遂の見込み薄くてもチャレンジ的に参加し、ヨーロッパ人はきちんとトレーニングしてから参加したがるイメージだった。)
↓
参加費が集まらない
↓
↓
上位層はとてもやる気のある人達が多いので、顔本とか見てると個人で模擬競技やってたりするけど、正直コミュニティ全体の盛り下がりは否めない。
私も後2-3年競技者としてコミットしたら、台湾、シンガポールの友人とアジア分会を盛り上げていこう、次はアジアから協会理事を出してアジアで大会を開こう!とか盛り上がっていたところなので
なんともなんとも悲しいもんがある。
しかし、再来年となると、、、本当に今のコミュニティの消滅が現実味を帯びてくる。
コロナめ、、、
あるジャンルに20年以上もの間、没頭していた。青春を捧げたと断言できる。
どのジャンルか詳細はボカすが、90年代末のポケモンブーム真っただ中に登場した、漫画・ゲーム・アニメのメディアミックス作品だ。
比較的マイナーだが作品名を聞けば、30歳前後なら誰もが口にすることだろう。「あー懐かしい」「そんなのあったね」「まだやってたんだ」と。
まさにそのような、最新の情報を調べようともせず、調べても「昔の方がよかった」などと抜かし、そのくせ恥ずかしげもなくファンを自称しては雑語りをするような連中を啓蒙する活動を何年も続けてきた。
確かに一度「死んだ」ジャンルではあることに違いないのだが、10年も前にゲームの新作を出して復活して以来何作も続編を出し、web漫画も連載中で、新しいグッズもたくさん発売されている。
今ではれっきとした、「生きた」ジャンルなのだ。出戻りや懐古厨どもに好き勝手言われる筋合いなど微塵もないのだ。
健やかなる時も病める時も、自分はジャンルに人一倍貢献してきた自負がある。
復活前の空白期間からwikiを運営していたし、希少な資料から情報を得るために国会図書館にも足を運んだ。
イベントには公式・非公式問わず顔を出した。ジャンル最大級の合同誌に寄稿したこともある。
ゲームが出れば毎回現物を複数とDL版も購入したし、ブログやツイッターで考察だってした。
そして暇さえあれば作品名で検索し、雑語りを見つけてはツイッターのフォロワーたちと一緒にRTした。
東に懐かしいと言うニワカあれば 行って 現行作品を認知しろと言ってやり
西に昔の方がいいと言う懐古厨あれば 行って 思い出補正だろと言ってやり
南に低迷期の不人気作品disあれば 行って お前の感性は浅薄だと言ってやり
そうしてあらゆる方面から、20年以上という気の遠くなるような歳月を、ジャンルを支えることに費やしてきたのだ。
アニメが終わったとか主人公が変わったとか雑誌連載が終わったとか、そんなくだらない理由で脱落したお前らに代わって、ずっとずっと。
そんなジャンルを、なぜ離れたのか。早い話が、疲れてしまったのだ。
自分やフォロワーたちがどれだけ半可通を見つけ出して正しい知識を啓蒙しようとも、思い出に憑りつかれて過去を美化し続けるゾンビのようなオタクたちが毎日毎日無数に湧いてくる。
更には自らの無知や不見識、無礼を棚に上げて我々をブロックする者やレスバを仕掛ける者、過激派のレッテル張りをする者など、反感を隠そうともしない者も少なからず現れた。
自分が、否、我々がこれだけ作品への認知や売り上げに貢献してきたにもかかわらず、こともあろうに今年始まったスマホアプリで懐古厨に媚びた。
ボイスに、戦闘システムに、デザインに……随所に「みなさんご存じのあの頃」の要素をちりばめたのだ。
システムやキャラやシナリオが気に食わないとか、バグが多いとか、展開がへたくそだとか、そういった点はいくらでも庇ってきた。
せっかくシリーズ再始動に伴って一新した部分もあったのに、間違いなくそれを支持していた人もいたはずなのに、ノスタルジーのためだけにそれらを否定して退行する姿勢にうんざりしてしまった。
そうして公式から錦の御旗を下賜された懐古厨どもは出戻りと合流して急速に勢力を増し、ギルドの様相を呈している。
いかに我々が精鋭といえど、もはや手に負えないほどの規模に膨れ上がった。
ブログは放棄した。ツイッターもジャンル者の99%をブロックした。
必死に守り抜いた結果がこれでは殉教者か、はたまた道化か。どちらにせよ自分の戦いは終わった。
今後は他ジャンルでひっそりとやっていく。もしどこかで見かけても、そっとしておいてほしい。