「インドシナ半島」を含む日記 RSS

はてなキーワード: インドシナ半島とは

2024-02-08

海外旅行って楽しいよね

海外旅行がチラホラ話題になってるから書く

親には国公立大の学費を払ってもらい、月数万円の仕送りを貰っていたが別に太い実家ではない(と思っている)

就活氷河期リーマンショックの間の世代大学を出て就職普通にできたから運は良かった方だ

学生の頃にバイト代を貯めて韓国タイに行き、日本と違う空気文化やメシに触れるのが楽しかった

地方の安月給の会社就職してから通勤途中でよく読んでたのは海外旅行web記事で、それによく出てきたのが会社辞めて世界一周してる人たちのブログとかだった

何となくバックパッカーに憧れはあった

なんだかんだ5年で会社辞めることになって、退職届出した時に貯金が250万ほどできており、ふと世界一周できるな?したろ!

ということで春秋航空上海行き片道チケットを取った

もう10年くらい前のことである

行きたい所は3つだけ決めていたが、ルートは未定で、基本的に現地で次の目的地への交通手段を手配する感じだ

最初目的地はネパールで、上海から昆明まで40時間超の長距離列車で移動し、そこから飛行機カトマンズに入る

漫画版神々の山嶺を読んでエベレストを見たかったので、ベースキャンプへのトレッキングをした

4500mを超えたあたりからクソしんどかったが生のヒマラヤは鮮烈だった

そっからインドに行き、一ヶ月ほど時々腹を壊しながらカレーを食べつつインド人に騙されたり頻繁にボラれたりし、スリランカからシンガポールへ飛び、シンガポールから第二の目的タイバンコク陸路で移動する

大学の時に知り合ったタイ留学生を訪ねて酒を飲んだ

その後ビザ必要ミャンマー以外のインドシナ半島各国を麺や焼き飯を食いながら一周し、次は西へ行きたいと氷入りのビールを飲みながら思っていたところ、マレーシア航空ドバイ行き格安チケットを見つけたので予約し、ドバイではオイルマネーの力に驚嘆し、世界一高いビルのブルジュハリファは入場料が高かったので外から見た

飛行機紅海対岸の禁酒国家イランへ、イラン旅人には親切にしろと刷り込まれているムスリムの国なのでいい所だが、テヘランバスで男にケツを撫でられる

後で知ったがゲイがバレると当地では死刑になるので外人ターゲットにするそうだ

イランは当時も経済制裁の影響でatmでのキャッシングが使えず、米ドルを街中で両替するのが面倒なことと、酒が無いので1週間くらいで出国することにし、バスを乗り継ぎアルメニアに抜けて飲んだワインはクソうまかった

あと名物ザリガニチョウザメ結構いけた

当時まだグルジアだったジョージアワインうまい料理がとてもうまい、元栃ノ心さんがワインの輸入するそうでがんばってほしい

シュクメルリ話題になったがヒンカリハチャプリ、ほか名前わからん料理などどれもうまかった

黒海沿いに移動して、パンがクソうまいトルコカッパドキアイスタンブールを回り、ボスポラス海峡を渡ってようやくヨーロッパへ入り、ブルガリアヨーグルトを食べて元琴欧州鳴戸親方生地ヴェリコタルノボを歩いた

ヨーロッパはさすがに文明的で、旅するのに快適であまり苦労した覚えがない

バルカン半島経由で北上し、ポーランドから船でスウェーデン渡りノルウェーサーモンを食うため北極圏の町トロムソに行き、魚屋で買ったサーモンオスロで買っておいたスシライスカリフォルニア米)を炊いて寿司を作って、ホステルで一緒になったドイツ人カップルに振る舞いながら500mlで1本700円くらいするシロクマのラベルの缶ビールを飲んでいたところ、オーロラが出たので見られたのは幸運だった

ノルウェー物価が高すぎたためオスロ空港出国前に2晩ほどベンチで寝てたら警備員に注意される

インドで知り合ったスコットランド人学生を訪ねてライアンエアーオスロからエジンバラへ、夜ギグに行こうと言われて半地下のクラブへ連れて行かれる

さっきまで壇上でサックスを吹いてたシュッとした青年普通にアンフェタミンを勧めてきてびびったが、すでにエールで酔っ払っていたので楽しかった事しか覚えていない

そこからメシと酒がクソうまいバルセロナへ飛び、夜な夜なバルセルベーサを飲み、昼はパエリアを食ったりおやつバレンシアオレンジをかじり、マドリードの安宿の屋上テラスの藤の椅子に座ってチーズハモンで赤ワインをやりながらどこに行くか迷っていたところ、サウジアラビア経由エチオピア行きのチケットがあったのでアフリカに入り、大地溝帯に沿って南下し、ケープタウンまで陸路で移動することにした

アフリカはどこの国も同じで当然黒人ばっかりでメシがまずく、衛生状態治安も悪く交通機関もクソだが、ヤリまくって産みまくって死にまくるという原始の人間生活を見られたほか、やたらと多い子供は汚いがかわいかった

あとサバンナは最高にきれいで、朝焼けの露に濡れた草原が輝く景色は忘れがたく、ライオンキリンやゾウは動物園で見るのと全く違う美しさだった

ナミビアボツワナ南アフリカサブサハラの中でも経済が強いのでそれなりに文明的な旅ができたが、ナミビアの乗合バンエンストしょっちゅうで、止まったバン乗客みんなで押しがけした

乗客同士で一体感が生まれ面白い体験だったが、ライオンのいるサバンナで夜中2時に止まった時はヒヤヒヤした

ケープタウンで久しぶりにうまいワインを飲みながら南米行きのチケットを探して、カタール経由ブエノスアイレス行きを見つけ、カタール航空の機内食ハーゲンダッツが久しぶりのまともなアイスクリームだったので感動して3個も食べた

アルゼンチンは肉とワインがメチャ旨く安いので、毎日ワインを1本ずつ開けた

チリワインも当然うまく、フロンテラというのが安くてお気に入りだった

このワイン日本でも飲めるが、やはり現地と味が違うような気がする

アルゼンチンチリバス網が発達していて、車内は三列シートが基本でゆったりでき、パーサーがいて食事ワインサービスもあり快適だったが、普通に丸2日バス移動とかがあり広すぎである

南部パタゴニアの名峰フィッツロイチリパイネでトレッキングをして、道中一緒になった日本人女性に恋をするが思いは伝えられずそのまま別れた

この人とは帰国後たまに会ってメシを食う仲だが、一度冗談ぽく結婚しないかと言ったら、お前のような貧乏人とは結婚する訳ないと言われた

その後金持ちの男と結婚したらしく、幸いなことである

チリ北上してアタカマ砂漠の星空を見て、それから三番目の目的ウユニ塩湖へ向かう

ポカリスエットCMビートたけしが立ってた鏡張りの景色で有名な所で、ちょうど日本大学春休みシーズンだったため、ウユニの街は日本学生だらけでちょっと辟易したが、さすがに見渡す限り鏡張りの光景や遠近感の無くなるほど遠くまで広がる塩の平原はめちゃくちゃにきれいだった

そのあとペルーへ移動しマチュピチュに行ったが、すでに遺跡を腐るほど見ていたのでやや感動が薄かった

ペルーあたりからラムが安いので、全世界同じ安心安全コカコーラを買って毎晩ラムコークを飲んでいた

バスを乗り継ぎエクアドルグアヤキルに行き、ガラパゴス行きの飛行機を待つ

グアヤキルで数日滞在した安宿から15分くらい歩くと、カラフルな家がびっしり建つ丘があったので、ぶらぶらしていたらおばちゃんに呼び止められる

スペイン語はほぼわからないが、この先に行くと死ぬ的な事を言っているようで、あとで調べたらその先には有名なスラムがあった

別に一人で帰れるがおばちゃんの息子らしき人にホテルまで送ってもらう

グアヤキル新婚旅行で訪れた日本夫婦強盗に遭い、旦那さんが殺された事件があった所である

ただしガラパゴス諸島は観光地のため、先進国並みに治安は良く、物価も同じくらい高い

アシカやウミイグアナがうじゃうじゃおり、進化論で有名な鳥のフィンチも数種類見てリクガメ写真に撮れたのでとても満足した

南米本土に戻って北上を続け、コロンビアボゴタオーパーツ黄金ジェットを見たが絶対あれは魚だと思う

このあたりで日本を出て1年少々経過しており、だんだん旅に飽きて働きたくなってきたので日本へ帰るチケットを探しはじめ、フロリダを経由してニューヨークから日本へ帰還した

成田の「おかえりなさい」のサインを見て泣きそうになり、缶コーヒーコンビニざるそばがうますぎて泣いた

使った金は約200万円、1年1ヶ月の旅だった

仕事休みなので昼から酒を飲みながら長々書いてしまった

今はちゃん再就職していい年になってしまい、結婚して子供ができたりして、出張以外でなかなか海外に行くことはないが、たまにあの頃は楽しかったなあと思い出す

円安でなかなか厳しいが、体力と10万か15万の金があれば近場なら十分行けるので、ぜひ現地のメシや酒を味わって欲しい

2024-02-01

anond:20240201114945

アジアでもタイベトナム

  ってなんだよ。 わざわざ隣の国を挙げるとは、アジアと言えばインドシナ半島くらいしか思いつかないのか? トルコ台湾もあっちもこっちも視野の外かよ。 ヨーロッパも十把一絡げかよw

2021-03-28

「東アジア反日武装戦線」の初心と過ち

韓国発の映画『狼をさがして』は何を描いているか

太田昌国 評論家編集者

 韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督2020年作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である

歴史像と世界像が一新されてゆく時代のただ中で

 描かれる時代は、アジア太平洋戦争日本帝国敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。

 その標的はまず、戦前絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。

 戦後日本象徴する言葉は、長いこと、「平和民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。

 天皇戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年1945年アジア太平洋地域戦争を続けた近代日本実像を覆い隠し、この戦争全体像を、最後わずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島長崎の「悲劇」を前面に押し出し米軍占領下の沖縄辺境ゆえに無視して、日本全体があたか戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。

 1960年安保闘争の時にも、1965年日韓条約反対闘争の時にも、戦前日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在分析する言動ほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。

 1960年代後半、この社会思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。

 時代はあたか米国ベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島輸送される米軍物資調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジア民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。

 加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人先住民族インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。

 「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本近代史と現在が孕む問題群に、「民族植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。

「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み

 「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日東京丸の内三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。

 「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーション流れる

 多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。

 その責任の一端が、「反日」そのもの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。

過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない

 画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊大道将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。

 映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。

 「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画制作したのは、韓国映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたか支援連絡会議=編『支援ニュース』420号、2021年3月6日)。社会正義のために、加害国=日本搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。

 だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場パンフレット所収)。

 74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本自分たち戦後の「平和民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。

 そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現言論の自由を獲得した韓国新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。

脈打つフェミニズム視線

 最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性存在だと思われる。

 刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たち闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。

 キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。

 死刑囚の獄中書簡集を読んで、あん事件引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつう青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑である義兄とは、媚びへつらいのない、上下関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。

 そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督女性だ。弱い立場にある労働者現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこ作品に脈打っていたフェミニズム視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。

2020-04-10

[]白鷴

ハッカン。

キジキジ科コシアカキジ属の鳥。中国南部インドシナ半島ミャンマーのあたりに分布している。

オスは背面が白、腹面が黒で顔が赤という、すごいコントラスト。一方のメスは褐色、多くのキジ科と同じように地味。

オスで全長90~130cm、メスで全長50~70cm。この差はオスの尾羽の長さによる。

ちなみに縞白鷴は別の種で、東南アジア分布する。白、灰、黒、赤など様々な色が入り乱れている。

2016-09-09

これはもう早晩世界大戦来るわ

わかった、日本排外主義の盛り上がり見てわかった。

遅かれ早かれ第3次世界大戦来るわ。

ウクライナの時は避けられたけど、次は避けられないと思う。

アジアだと、インドシナ半島と東・南シナ海が必争の地になる。

日本は北辺でも戦闘をしなければならないだろう。

今のうちに南米オセアニアに逃げろー

2016-03-28

[] インド象

インドゾウはアジア分布しているアジアゾウの亜種で、ネパールからインドブータンバングラデシュなどを経て、ミャンマー

タイなどのインドシナ半島マレー半島中国雲南省南部の一部などに分布している。

  

アフリカゾウと共に最大の陸上動物としてよく知られているが、インドゾウはアジアゾウの中でも分布域が広く、生息数も多いことから

インドゾウを指してアジアゾウと呼ばれることが多い。

  

アフリカゾウよりは小さいが、それでも肩高3.4m程になるものも見られ、体は雄の方が大きい。

筋肉質の長い鼻が特徴なことは言うまでもないが、この「鼻」は鼻と上唇がいっしょに伸びたもので、この鼻を使って食べ物を口に

運んだりすることができる。

http://www.pz-garden.stardust31.com/choubi-usagi-iwa-moku/zou-ka/indo-zou.html

2016-03-15

http://anond.hatelabo.jp/20160315061053

なんか通りすがりで恐縮だけど、中華移民華僑)とひとくくりにするのはかなり、膨大で…

ここで議題に出ている国民党共産党のようなコンテキスト以外にも、出身地(温州、潮州、広東、福建など)、出身者の年代(それこそ中世以降から)によって大きく変わる。

例えば僕の住んでいる街の中国人移民世代によって大きく変わり、古い人たちはインドシナ半島にいた人たち、もしくは英領から移動させられた(もしくはそのまま残った)中国人ルーツを持つ人達から、それこそ国共内戦、それ以降の弾圧時代現代の新移民達とコンテキストが大きく変わるし、移民地域によって、それらがモザイクに変わっている。

上でも誰かが書いているけど、シンガポールマレーシアブルネイ自体は元々大マレーシア教科書を見れば分かるが、日本軍シンガポール占領をかなり重大な歴史犯罪として捉えていて教えているし、日本報道バラエティ番組でみるような姿は必ずしもしていない。

中国移民歴史アメリカ中国移民学者が書いた本をおすすめしたいのだけど、ここに例示したかったのだが10年前の話なので忘れてしまった。すまん。

2015-12-03

フランスって

いや、まったくの印象論なんだけど。

最近の、シリアとかISとかの混乱ぶりをみていて

そういえば自分がガキの頃は紛争とか難民とかって、なんといってもインドシナ半島だったよなあ、とか思っているうちに

シリアフランス勢力圏だったことに気付いた。

そういえば、アルジェリアなんかも独立戦争ドタバタしてたし、

フランスって植民地支配から撤退からがヘタクソで、

そのあとに禍根を残しがちなのかなあと。

なんっていうか、「自由」「平等」「友愛」って、高らかに理想を掲げるくせに

現実の場面ではプライド高くって、人種差別平気でぶちかます奴らという、

まあ、これも、こちらの偏見で、

その原点はたぶん、生まれて初めてヨーロッパ一人旅した時に

シャルル・ドゴール空港職員達が、その旅行中で一番冷たかったあたりに、

その源泉があるのだけれども。

2010-03-29

2010年3月28日 ー パキスタンインドの水開発競争

国際河川の開発の中で,昔から一つの不文律がある。経済が発達した国から水資源開発の優先権を与えて行こうと言う考え方である。例えば,1980年代から1990年代にかけて,インドシナ半島の中でタイ経済発展が突出した。カンボディアポルポト政権の後で,まだ政治各派が争っていたし,ベトナムはカンボディア侵攻で世界経済制裁を受けていた,ラオスは完全にタイ経済の中に組み込まれていた。

勿論中国は,天安門事件などが起きて,まだ海外進出を考えるどころか,内政に腐心していた。このような情勢の中で,タイは着々と自国領域内,国際河川であるメコン河の左岸支流,チ川,ムン川の開発を進めていた。1992年を境目に,カンボディアが和平復帰,ベトナムへの制裁解除,と進んで,メコン河の水の使い方で,メコン委員会の場でメコン河の開発に於ける原則論が議論され,一つのルール確立された。

このときに一つの議論になったポイントは,インドシナ半島が混乱している中で既に灌漑など,メコンの水を取り込んでいるタイの施設がどう扱われるべきか,と言う問題である。タイの当時の既開発は,メコン河支流にダムを造って灌漑に導水したものであるから,灌漑後にメコン河へ返される可能性もあるが,殆どは灌漑として消費されてしまう水で,下流国としては本来容認できない問題である。

このタイ既得権は,新しいメコン委員会組織されたときに,ベトナム,カンボディアラオスの沿岸諸国の代表によって,追認,承認された形をとった。当時は,タイと他の三国との間に余りにも大きな経済の実力差があったから,このような追認が出来たわけである。今,もっと激しい議論の渦中に合うのが,カシミールを中心としたパキスタンインドの水争いである。

メコン河のケースと違うのは,パキスタンインドの間で,水資源開発能力に,メコン河の場合ほどは,格差がないと言うことである。それでも,1960年代に結ばれたインダス河水条約の中には,先に開発した方が水利権優先権を主張することが出来ると書かれている。インダス河上流のニールム川は,下流はアザドカシミールパキスタン実効支配地域,上流はジャムカシミールインドの実効支配地域である。

インドは,上流で348MWのキシャンガンガ水力を建設中で,水は分水されてガンジス河流域に転流される。また下流のパキスタン領内では,969MWニールム-ジェルム水力が既に着工している。インドは上流なので黙々と工事を進めているが,下流のパキスタンは機会ある毎に,インドの暴挙を非難して国際社会に訴えている。場合によっては国際調停の場に出て行く覚悟もしている。

パキスタンは,幾らインドに抗議しても,インドは物も言わずにただ黙々と上流プロジェクトを進めている。ここでパキスタンも悟ったようだ,実際に開発が先だ,と言うわけである。先に運転状態に入ると,上流のダム優先権を否定出来る,というわけである。50kmに及ぶパキスタンプロジェクトの導水路トンネルが工期を左右している,ここにトンネルマシンを導入して工期を2年間短縮し,インドを追い越そうと言う。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん