「植民地帝国」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 植民地帝国とは

2023-03-13

植民地帝国が競った時代は、資本家に都合いい法学論文ボロボロ出て、ヤラセ論争もあった

戦後帝国正義の国を装い、元植民地ファミリー映画を売った

しかしそのあいだも欧英語圏の外では戦争人権侵害が起きており、司法規制金融規制に関する論文は今でも大変に少なかった

という論文の傾向を調べる研究

2022-09-19

インド法律ではサティを美化する事も有罪なので、サティを美化して擁護した偽善者リベサヨ全員をインド強制送還してみてはどうだろう

インド法律ではサティを手助けしたら死刑とかで厳しく禁止されてるらしいが、サティを美化するのも犯罪だという。

言うても短期間の禁固とか安っすい罰金とかの軽い罪のようだが、罪は罪だ。

これだけ厳しく禁止しても無くならないのだからもっと厳しく、美化しただけで死刑くらいにしなきゃ無くならないだろう。

さらに、外国インテリが「文化ガー多様性ガー植民地帝国主義ガー」とか言って擁護するのがサティ存続派のエンパワーメントになるのであって、外国人にも適用し、外国人にはさらに重い罪にしてほしい。

例えば自国に対するテロ扇動した人物かいたらそいつ外国人だろうとなんだろうと追いかけて捕まえるだろう、アメリカビンラディンにやったみたいに。

遠い外国安全場所からインド国内犯罪を美化して擁護して煽りインド国民の命を危険に曝しているのだからサティ擁護する日本リベサヨインド政府からテロ首謀者並の扱いでマークされなきゃおかしいわけだろう。

10年以上前だけどmixiサティ記事が出たときは何万件という膨大な日記で当時のmixi会員の殆どサティを美化して擁護して、サティ禁止したイギリスに向かって怒りを爆発させてたからな。

あれ以来ずっと(その前からだがあれからとくに)植民地がどうのこうのいう偽善者リベサヨが許せなくて許せなくてたまらないのだが。

サティ擁護したリベサヨ全員をインド政府に通報したい。

2022-09-09

エリザベス女王が死んで悲しんでいるやつは真の民主主義者ではない」

エリザベス女王死んだな〜とおもいながらスプラ3の合間に各種SNSを覗いていると、

ヨーロッパの友人たち(左寄りが多い)が「植民地帝国象徴が死んだ」と女王コケにするようなミーム画像投稿しまくっていた。

まあたしか政治的な実権はなかろうが、象徴ですと言い募ろうが、王族とは生まれながらにして他の人々と「地位の違う」人間だ。

平等を謳う左翼なら存在自体許容できないのはわかる。しかもあの女王場合長生きした分だけ古い時代の罪業みたいなものも背負っている。

翻って日本の友人たち(こちらも左寄りが多い)を見てみると一様に悲しんでいる。リスペクトさえ表している。

やっぱり同じような「象徴」を奉じている国の国民で、しかも今の天皇にも前代の天皇にもさほど悪感情を抱いていないとなると、リベラルでもなんとなく他国に対するロイヤルファミリーに敬慕の念を持つのだろうか。などといいながら、自分こちら側の感情に近い。

でもスワジランド王族とかが死んだとしてもあんまり悲しくはならないんだろうな、って思うと単に王族からとかの問題でもない気がする。

ちなみに前述のヨーロッパの友人たちは安倍元首相が死んだときは「日本の偉大なリーダーのひとりが不幸な事件で亡くなったこと」について哀悼の意を表していた。

似たような価値観でいるつもりでいて、他人の国の政治的価値観ってあんまり共有できないのかもしれない。

2022-04-11

anond:20220411171226

ハプスブルク氏の警告は当時、老いた元貴族杞憂に過ぎないと受け取られただろう。ヒトラーは「我が闘争」の中で今後やろうとする全ての内容を書いていたが、当時の人々はその内容を深刻に受け取らなかった。同じように、プーチン氏は大統領就任する前から今後実行する全ての内容を述べていたが、誰もそれに気が付かなかったという。

 ハプスブルク氏は、「ヒトラーがそうであったように、プーチン自身意図について非常に率直に話している。彼らは彼らが言ったことを実行するのだ」と主張し、「ソビエト連邦崩壊にもかかわらず、ロシアは脱植民地時代における最後の巨大な植民地帝国だ」、「プーチンは一方では千島列島、もう一方ではバルト3国を取り戻すことを夢見ている」と述べ、プーチン支配ロシアを「最大の帝国主義国」と呼んでいる。

2021-07-03

anond:20210702215058

調べてみました!

 

ホロコースト犠牲者 600万人

ほとんど確実。何故なら、人口統計調査により、ユダヤ人戦前戦後人口差は550万人程度はあり、人口統計調査の誤差を踏まえれば600万人程度のユダヤ人が殺されたことはほぼ確実である。別々の研究機関研究者によって何度も推定は繰り返されているが、めちゃくちゃ極端に低く見積もっても約450万人程度とされており、大差はないと考えて良いだろう。ちなみに、否認派向けに言っておくと確認できる限り、否認派できっちり人口統計調査をした人は存在しないようである否認論が嘘であるとバレるからか?w 出典は、『ホロコースト大事典』(柏書房)、芝健介ホロコースト ナチスユダヤ人大量虐殺の全貌』など。

 

奴隷貿易アフリカから拉致された人数 1000万人

これは数字は概ね合っているが、明らかに亡者数ではない。英語圏でいう「リンゴオレンジ比較している(compare apples to oranges)」であろう。

3世紀に及ぶ奴隷貿易大西洋を渡ったアフリカ原住民は1500万人以上と一般には言われているが、学界では900万人-1100万人という、1969年フィリップ・カーティンの説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった[注釈 2]、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、というのが説の根拠である。ただし、カーティンの説(彼自身は900万人強を提唱していた)には、一次記録が存在しない16世紀 - 17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎるという批判もあるが、そうした批判を踏まえても1200万人を大きく超えることはないと考えられている[7]。

Wikipedia

 

スペインアステカ征服犠牲者 1000万人

んー、これはよくわからん。以下では1000万人は正しいかのように思えるが、はっきりしない。

その犠牲者征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民人口100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民短期間のうちに激減した[29]。

Wikipedia

何故はっきりしないかというと、こんな記事を見つけたかである

さらなる批判を浴びたのは、ラス・カサスが挙げるインディオ犠牲者数が大幅に水増しされているとの“疑惑”だ。

 たとえばラス・カサスは、征服前のイスパニョーラ島現在ハイチドミニカ共和国)の人口を300万と記しているが、当時の複数の記録でも現代研究者の評価でもその人口100万を超えていない。同様にラス・カサスは、メキシコ中央部で400万、ペルー副王領でも同じく400万の生命が奪われ、1502年から42年までの40年間に2580万から2880万人のインディオ征服戦争犠牲になったとしているが、当時の人口調査統計では正確な数字を出すことは不可能で、「被害」の規模に確たる根拠があるとはいえない。

16世紀に新大陸で虐殺を行なったスペインが、当時もっとも「啓蒙的、人道的」だった[橘玲の世界投資見聞録] | 橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方 | ザイオンライン

何にしても一体、1000万人はどこから出てきた値なのか知識がないのでよくわからない。ここに書いてあるように、正確な統計値があるとも思えない時代数字にどれほど信憑性があると判断すれば良いのだろうか?

 

スペインのインカ征服犠牲者 1000万人

んー、これも上と同じで、正確な統計があるとは思えない時代の話だし、ちょっと調べた程度ではさっぱりわからない。しかし以下のような記事を見つけた。人口がもしそうだとするなら、1000万人はあり得ない。

インカ帝国は、13~16世紀にかけて繁栄した、アンデス山脈沿いの南北4000kmに及ぶ、現在南米ペルーを中心とした広大な大帝国であり、最盛期には人口600万を有した。有名な遺跡として、標高2500mの高地に作られたマチュピチュ都市がある。

健康アラカルト(91)インカ帝国はなぜ滅びたか? | 大石内科胃腸科医院

追記;↑と思ったが、Wikipediaインカ帝国」によると、上の記事は間違いの可能性が高いように思われる。

前身となるクスコ王国13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで[1]約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ

しかしこの記事でも、虐殺の話はまるで出ておらず、「伝染病が壊滅的な打撃」ともあり、「リンゴオレンジ比較している(compare apples to oranges)」の疑いが強い印象。

  

インディアン戦争犠牲者 1000万人

英語版Wikipediaを調べた。英語版は流石にやたら詳しい。これによると、1000万人は完全な出鱈目・デマであるデマ源を突き止めたいんだけどなぁ。

2010年アメリカ合衆国国勢調査では、自らがアメリカインディアンまたはアラスカ先住民である認識しているアメリカ人は293万2,248人で、アメリカ人口の約0.9%でした[50]。 2011年カナダ国勢調査では、自らがファースト・ネーション(またはイヌイットやメティス)である認識しているカナダ人は183万6,035人で、カナダ人口の約4.3%でした[51]。 ヨーロッパ人が到着する前にアメリカ大陸に住んでいた人の数については意見の一致を見ていませんが、広範な研究が続けられています[52][53]。 52][53]現代推定では、ヨーロッパによる植民地化以前に北米大陸に住んでいた人々の数は210万人から1800万人とされているが[54]、アメリカ国勢調査局は1894年に、1492年の北米大陸ほとんど何もない大陸であり、インディアン人口は「50万人をはるかに超えることはなかっただろう」と主張している[55][56]。

インディアンの数は、感染症ヨーロッパ人との衝突、部族間の戦争同化カナダメキシコへの移住出生率の低下などにより、19世紀には50万人を下回るまでに減少したという。主な原因はヨーロッパ探検家商人が運んできた伝染病であった[57][58] 米国国勢調査局(1894年)は1789年から1891年までの102年間の戦争による特別な死亡者推定値を示しており、その中には「個人的問題」で殺された8,500人のインディアンと5,000人の白人が含まれていた。

米国政府の下で行われたインディアン戦争は40回以上にも及びます。彼らは、個人的戦闘で殺された人を含めて、約19,000人の白人男性、女性子供の命を奪い、約30,000人のインディアンの命を奪ってきました。実際に死傷したインディアンの数は、この数字よりもはるかに多いに違いありません。5割増しというのが安全見積もりだろう[59]。

American Indian Wars - Wikipedia

 

スターリンの大粛正の犠牲者 1000万人以上

スターリン粛清により大量の処刑者を出したのは史実であろうが、一千万はいくらなんでも盛り過ぎである(実際には明らかにあり得ない非現実的無茶苦茶誇張された数字もあったくらいであるが)。これは冷戦末期以降にソ連ロシア情報公開をしていて、確定はしていないが、概ねの数字はわかっている。おそらく粛清処刑されたのは90万〜120万人程度と考えられる。

ソ連政府ミハイル・ゴルバチョフ時代にNKVDの後身ソ連国家保安委員会 (KGB) が「スターリン支配した1930年から1953年時代に786,098人が反革命罪処刑されたこと」を公式に認めた。さらソ連崩壊後にはロシア連邦国立文書館 (GARF) がNKVDグラーク書記局が1953年作成したという統計報告書を公開した。それによるとNKVDは1937年1938年の2年間に1,575,259人の者を逮捕しており、このうち87%以上の1,372,382人に及ぶ人が反革命罪および反国家扇動罪などに問われた政治犯であった。ソ連時代統計[16]の開示[17]や、第三者による検証[18]を経ても、粛清された人物の合計数は今もなお公式に確定していない。

大粛清 - Wikipedia

 

ホロドモール犠牲者 1000万人以上

ウクライナへの人工飢餓として、ジェノサイド認定をしたらしいが、ジェノサイドと言えるのかどうかは議論余地がある。しかし、何にしても、ホロコーストのように殺戮目的とはしておらず、これもまた「リンゴオレンジ比較している(compare apples to oranges)」であろう。

飢餓による餓死者の総数に関しては未だ議論が続いており、飢饉犠牲者数についても学説によって250万から1450万人までの幅がある[7][2]。

この飢餓の主たる原因は、広範な凶作が生じていたにもかかわらず、ソ連政府工業化の推進に必要外貨を獲得するために、国内農産物飢餓輸出したことにあった。その意味で大飢饉人為的に引き起こされたものであることは否定できない。ウクライナユシチェンコ政権は、これをもってウクライナ人に対する大量虐殺であったと主張し、国際的同調を募った。一方、現代ロシア歴史家を中心に、大規模で悲惨飢饉があったという事実認識には同調するが、飢饉被害ウクライナ人のみならずロシア人やカザフ人にも広く及んだと指摘して、これがウクライナ人に対する民族的なジェノサイドであることを否定する議論もあり、見解の相違は埋まっていない。

Wikipedia

 

ベルギーコンゴ統治犠牲者 2000万人

全然知らない話だが、以下を読む限り、「2000万人」は盛っていると思われる。しかもその大半は天然痘などの疫病であるようだ。しかし、相当規模の残虐行為を働いたのは事実であろう。

自由国政府は当初は象牙を、後には貴重な商品となっていったゴムなどの天然資源開拓した。自由国軍隊である公安軍(Force Publique)の支援を受け、その領土複数私的採掘利権に分割された。英白インドゴム会社英語版)はとりわけ、その領土から利益を得るために武力と残虐行為を用いた。コンゴにおけるその政権強制労働をさせ、ゴム収集ノルマを満たしていないコンゴ先住民殺害し切断した。何百万人ものコンゴ人がこの期間に犠牲となったが[4]、死者の多くはコンゴ下流地域人口の半数近くが死亡した天然痘を含む、ヨーロッパ人入植者との接触によってもたらされた新しい病気が原因だとも特定されている[5]。

自由国時代には過剰死によってコンゴ人口が急減したが、死者数の推定値にはかなりのばらつきがある。数字推定であるものの、この時期に死亡したコンゴ人は人口のおよそ5分の1にあたる1000万人にのぼるとされている[6][7][8][9]。最初人口調査実施されたのは1924年であるためこの期間の人口減少を数量化することは困難であり、ウィリアムルービンスタイン(英語版)のように、アダムホックシールドが引証した数値はほとんど証拠に基づかない推測であると主張する者らによって、これらの数字議論されてきた[10]。

ベルギー植民地帝国 - Wikipedia

 

イギリスインド統治犠牲者 3000万人以上

これは適当解説サイトが見当たらないので、自分知識だけで言うけど、これも飢餓でしょ。数値は知らないけど、これもまた「リンゴオレンジ比較している(compare apples to oranges)」。

 

残り二つの中国のは自分で調べて。文字数制限で書けない。ともかく、人数の精度に問題あり過ぎだし、ホロコーストと同レベル比較対象にできるものはない。ホロコーストはほんとに民族抹殺を狙った大量虐殺で、そんなもの人類史上見当たりません。かのアドルフ・アイヒマンは「欧州すべてのユダヤ人1030万人を殺したかった」と述べたアルゼンチン逃亡中の録音記録があったりしますが、そこからもわかるようにユダヤ人絶滅は本気だったのです。

 

2021-03-28

「東アジア反日武装戦線」の初心と過ち

韓国発の映画『狼をさがして』は何を描いているか

太田昌国 評論家編集者

 韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督2020年作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である

歴史像と世界像が一新されてゆく時代のただ中で

 描かれる時代は、アジア太平洋戦争日本帝国敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。

 その標的はまず、戦前絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。

 戦後日本象徴する言葉は、長いこと、「平和民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。

 天皇戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年1945年アジア太平洋地域戦争を続けた近代日本実像を覆い隠し、この戦争全体像を、最後わずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島長崎の「悲劇」を前面に押し出し米軍占領下の沖縄辺境ゆえに無視して、日本全体があたか戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。

 1960年安保闘争の時にも、1965年日韓条約反対闘争の時にも、戦前日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在分析する言動ほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。

 1960年代後半、この社会思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。

 時代はあたか米国ベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島輸送される米軍物資調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジア民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。

 加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人先住民族インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。

 「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本近代史と現在が孕む問題群に、「民族植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。

「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み

 「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日東京丸の内三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。

 「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーション流れる

 多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。

 その責任の一端が、「反日」そのもの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。

過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない

 画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊大道将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。

 映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。

 「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画制作したのは、韓国映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたか支援連絡会議=編『支援ニュース』420号、2021年3月6日)。社会正義のために、加害国=日本搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。

 だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場パンフレット所収)。

 74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本自分たち戦後の「平和民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。

 そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現言論の自由を獲得した韓国新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。

脈打つフェミニズム視線

 最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性存在だと思われる。

 刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たち闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。

 キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。

 死刑囚の獄中書簡集を読んで、あん事件引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつう青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑である義兄とは、媚びへつらいのない、上下関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。

 そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督女性だ。弱い立場にある労働者現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこ作品に脈打っていたフェミニズム視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。

2017-09-18

anond:20170918165058

帝国っていうのは、古代専制帝国しろ近代植民地帝国しろ、「多民族・多領域」を支配していなくてはならない。

大日本帝国歴史帝国として扱われているのは、彼らがそう名乗ったからではなく、朝鮮台湾南洋など(もっといえば北海道琉球)を支配たからに他ならない。

正義が生まれるのは、そこに不正義があるとき不正義として最も指弾しやすいのは、不公正である

多民族・多領域を一つの帝国支配しようとすれば、どこかに不公正が生じやすい。というより、不公正を生じさせることこそが支配を容易にする(分断統治という)。

不公正かつ不正である帝国必然悪役となり、正義の味方に滅ぼされる運命を背負う。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん