はてなキーワード: ちゃぶ台とは
「○○が好きなんじゃなくて、"○○を好きな自分"が好きなだけでしょ?」
誰にでもどのシチュエーションにでも当てはまる汎用性の高さ・便利さゆえなのか最近よく使われてる場面を見かける。
しかしこれ諸刃の剣。そもそも雑な反論だし、おまえが相手のメンツ潰すためにメタ視点でマウント取りに行ってるわけじゃん。
ちゃぶ台ひっくり返してるだけ。誰も得しない、不毛な論法なので使用は自粛したほうがいいかと。誰も「好き」を言えなくなる。
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追記1
○○が好き・嫌い、と自己愛の有無はそれぞれ独立したパラメータと考えたほうがいいのでは。どの趣味にも人間性がヤバい人は混じる。
何かを好きになったり嫌った時に、自己嫌悪することもある。「お酒は好き。でも酒ばっかり飲んでる自分が嫌い」とか。依存症っぽいけど。
自己肯定感が低い人なら「自分自身が嫌い、でも自己憐憫に酔ってる自分はもっと嫌い」とか。4パターンのどれもありうる。
自分に酔ってる感じがするから、エゴが含まれてるから本当の好きではない、って前提はない。「本当に好きならなぁ〜」ってマウント合戦を始めるんかい?
あんまり掘り下げるとコミュニケーション・処世術とか、愛とはなんぞや、みたいな増田で書くにはメンドくさいテーマになっていきそうだが。
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追記2
この増田記事を書こうと思った背景というか文脈を明かすと、別に自分がどこかで誰かにそう言われて悔しかったからって話じゃ全然なくて。
まず、ちょっと前にたしかTwitterだったかで「映画好きのサブカルくそ野郎がマウントとってきて、言い返してスッキリ」みたいなストーリーの漫画が上がってて
その中でこういうセリフが使われてた。(ソース見つからない。タイトル忘れた…)その時もなんだかなぁ、とモヤモヤした気持ちがあったけど、まぁスルーした。
で、最近のコーヒー好きが言いにくいって増田の記事がヒットしてて、そのブクマコメントの中にそういうこと言いだしてるやつがまさにいたわけ。(わざわざ晒さないけど)
うわぁー実際に言ってるやついるよ、ちょっとひとこと言っておかないと伝家の宝刀みたいに使いまくるやつこれから増えそうだな、と思ってカァーっとなってこれを書きました。
他人の「好き」の定義に振り回されて萎縮というか、「自分はこれを本当に好きなのだろうか?」って疑心暗鬼になることないよなーっと。
ただ注意が必要なのは、よく主語警察がよく指摘してる"主語の大きさ"ってやつが問題になるように、ジャンルというか大きい括りでの○○好きを気軽に公言しない方がいい場面もあるだろうってところで。
例えばコーヒー好きと最初から大きく名乗るのではなく、「こういう状況で飲むどこそこの缶コーヒーが好きなんですよー」って小さく限定しておいてから、話を徐々に広げるとか。
東京五輪のロゴ騒動もひと段落したので、ロゴタイプ、及びシンボルについて、思うところをまとめてみようと思う。
まずは、形態としての美しさがある。
これについては、もはやシンボルマークにおける美は死んでしまった、と言っても過言ではない。
シンボルマークに求められる美は、単純の美である。円や三角形のような、これ以上削れない、というところまで形態をそぎ落として行った先に、シンボルマークに相応しい美がある。
ところが、世の中にシンボルが溢れた結果、先行して作られたシンボルは商標登録され、後発は同じようなかたちを使えない、もしくは模倣であるというレッテルを貼られる、という事態に陥っている。
東京五輪の事案で、佐野案ロゴをあまり気に入らないとは言いつつも、ほとんどの見識あるデザイナーが「最初から作り直した方が良い」とは言わなかった理由がここにある。
シンボルにおいて、単純であることはそのまま美に直結する。しかしながら、単純であればあるほど他のシンボルと類似しやすくなる。
このジレンマを理解している人であれば、あのような騒動に加担しようとは思わない。
外野ながら事の進展に全く暗澹としたが、あの泥沼の中から凛然と輝く野老案が選ばれたのは奇跡的といえる。
具象性、と言い換えてもいい。要するに、「この図は何を表しているのか」ということである。
これは、難しい。なぜか。
シンボルはあくまでシンボルであり、決して具象絵画やピクトグラムではないからである。
上で述べた通り、シンボルマークにおける美は、抽象化し、単純明快に切り取るところにある。
これは、具象性とは正面から相対するものである。多くの場合、両立は出来ないが、
良識あるデザイナーはここで「何とか両立できないか」と腐心する。
社会の中でどのように利用されていくのか、ということを考えたとき、引き伸ばして使われる場合、ポスターの一部として埋め込まれる場合、
またはエンボス加工される場合、はたまた布地に印刷される場合など、様々な利用シーンを想定して作られている。
小さなものから大きなものまで、どんなシーンでも一定のイメージを伝えられるシンボルマークの面目躍如といったところだろう。
この様々なものに使っても問題のない設計は、経験者でなければ難しい部分がいくつもある。
小さく使って潰れないように。多少滲んでも形態が認識できるように。大きく使ってもエレガントなように。別メディアで展開しても色等の統一に困難がないように…など、
気を遣うポイントが大量にある。ただマークを作って終わりではないのである。
この、美と具象性と社会性の区別がついていない人々によって、佐野案ロゴは引き摺り下ろされたと言っていい。
氏にとってはとんだ災難だったろう。
また、五輪ロゴにとどまらず、騒動の際に氏のデザイン事例を「オリジナルではない」としてやり玉に挙げる記事が多く出回ったが、
それらがオリジナルかどうかと、五輪ロゴの問題とは切り離して考えなくてはならない。
仮に、氏のデザイン表現にオリジナルではないものがあったとしても、大きな問題があるとは思えない。
先に述べたロゴの問題と同様、デザイン表現においても、何かを「これがオリジナルだ」と認めるのは大変難しいのである。
少なくとも、平面におけるデザイン表現には、必ず先行事例がある。
これは先行事例がない、と言える例はきわめて稀で、
多くの場合、「先行事例はない」=「先行した権利者がいない」というだけの話である。
過去、デザイナーたちが李朝の民画や、琳派などに参考事例を求めた一端には、
この「先行した権利者がいない」ところを求めた結果という、泥臭い理由もあったのではないか。
そして、不幸にも「表現における先行した権利者」がいた場合であっても、
両者間で話がついてしまえば、我々外野が声を上げる理由などどこにもない。
本来、ワイドショーで取り上げるような話ではなかったのである。
五輪ロゴ問題が下火になった後、今度は築地の移転先、豊洲市場の問題がワイドショーで取り上げられた。
現在では次第に「既定路線が(現実的には)正だった」という像が明らかになりつつあるが、どうも話の構図が似ている。
共通点は「素人が、ドキュメントも読まずに、素人考えのままちゃぶ台をひっくり返す」というところだ。
これらから得られる教訓は、
待ち合わせの時間つぶしにパチンコ屋で漫画を読んでいた。大学時代にパチンコをしてて、今ではデカイトイレ、もしくは騒音の激しい読み専ブックオフとして活用している。
読んでいたのは「グラップラー刃牙」。正確に言うと「範馬刃牙」。親子喧嘩をしようとしているところで、父の勇次郎がちゃぶ台を指でメリメリ裂いていた。なぜ?
読みながら「俺も昔一度だけ親父と取っ組み合いの喧嘩をしたことあるな」と思い出した。2回目の留年+無い内定のクズ大学生だった俺は、精神が不安定になり母親の何かの一言にブチ切れた。今ではなんと言われたかすら覚えていない。挙句母を泣かしてしまい、父が出動した。こっちの言い分も聞かずに「母を泣かすのは悪いやつだ。謝れ」としか言わない父にまたブチ切れた。それまで口喧嘩はあってもお互い暴力を使うことはなかった。俺が小学生の頃ビンタで一方的に吹っ飛ばされたくらいだ。それが何が高まったのか掴み合いの喧嘩になった。すぐ母に止められたのだが、数秒掴み合いをした父の非力さに無性に悲しくなったことを覚えている。昔ビンタで吹っ飛ばしたくらいだし、若い頃は柔道やってたらしいし、身長は低いがメタボで体重もあるのに、当時ガリガリの俺に軽々と押し負けるくらいの力しかなかった。運動の1つもしていない、50過ぎのただのおっさんだった。今まで父に怖れを持っていた俺とは何だったのか、こんな弱いおっさんを困らせる俺って何なのだろうかと、驚きと寂しさとやるせなさでいっぱいになった。
そんなことをパチンコ屋のバリバリとチカチカにあてられながら思い出した。クズみたいな俺でも引き続き心配し、運良く就職できて上京してからもずっと定期的に連絡をしてくる母親はすごくないか。相当酷いことを何度か言ったはずだが、捨てずに許してくれている。誰にも愛されねぇなって考えるほど彼女の1人もできない自分をいつまでも気にかけてくれている。全然恩返ししてなくてヤバイって思ったときに今日は母の日だってことに気付いた。その場ですぐにスマホを取り出し、Amazonでカーネーションとどら焼きのギフトを注文した。凝ったものや高いものを珍しいヤツがいきなり贈るのもアレだなと思ったから簡単めに。
もちろん母の日には間に合わなかったが、今日届いたらしい。喜びのLINEが来た。すげぇ嬉しそうだった。こうやって少しずつ返していくのでもいいのだろうか。けど、刃牙読んで思い出してパチンコ屋でポチッたとは言えないよなぁ。
別に成績に優位な変化は現れなかったし、
なんでそんな帰結になるのかがわからないし、本気で頭が悪いと思う。
現代体育的な理論(って具体的に何のこと?適当言ってるっしょw)について一通り体得してる必要があると思いますが
あなたのスポーツ歴はどんなもんですか? 現代体育についてどれほどのご経験と見識がおありで?
何もないっしょ?
自分がやってる神秘主義武道を持ち上げるための比較物として言ってるだけの
そうじゃないっていうなら現代体育についての自分のレベルと体験を語って。
だから還元されるほどの何かがどれほどあったんですか?と言ってるんだけど
「ぼくのどうじょうのおじいさんのはなし」はもう結構ですよ
見てないから甲野さんの動きのように否定はしないけどその一方で肯定もしようがないです
特定状況下でおじいさんが若者を転がすぐらいのことなら可能性を否定しませんとも言いました
変な練習しただけの小男がワンパンで人を空に飛ばすとかは聞いただけで「有り得ない」と言いますけど、とも
甲野ageなんかしてないけど。一例としてあげただけで。
この同じ文の序盤だけでも
「甲野の技術は吉田をひっくり返すほどすごい!総合格闘家の誰にも出来ないことを軽々やった!」
って話をしてるのはあなたです
「腹が立つので発言に責任を持たないのだ!」とか言い出すなら負け犬の遠吠えってやつです
甲野善紀に助けられた増田やTVの実演、スポーツ選手の採用なんかを拠り所として、お前なんかより実証があってよほど認められる、って話しかしてないだろ。
人柄的には面白いおっさんでしたが、彼の「武術」はどんなものでしたか?
「TVに出ていた」「あの有名人も褒めた」「世間に認められている」
こんなもん
もしご家族がガンになった時は怪しい代替医療にお金を取られる危険性大の人なので気をつけてくださいっつーことです
http://anond.hatelabo.jp/20170403231642
いやー怖い。とても怖い。話が通じない人ってこういう思考なんだなと背筋が凍る想いだ。
悪いと思うと言ったところで好きになる気持ちを止めることはできないし、それこそ他人にどうこう言える権利はない。
でも行動は違う。それは止められるはずだ。だって我々人間だもの。理性があるはずだ。
宝塚のように文化が出来上がっているならいざ知らず、通常どんな舞台やイベントでも禁止されていると思うのだが、
それを臆面もなく語る。というか、出だしの一文に書いてる。
この時点で普通の感性の持ち主であればドン引きである。この女おかしいぞと瞬時に察するが、更にホラーは続く。
現場にはすべて通い
熱心なファンだ。
プレゼントを山のように渡し
このあたりからどうも雲行きが怪しい。
彼の高校時代の友人や、芸能スクールに通っていたときの友人、仲の良い俳優、演出家、プロデューサー、繋がれるものは何でも繋がった。
ストーカーだ。
ストーカーだ、それ。
相手が俳優というのであれば、舞台に立たない「客」が俳優の存在を認知しても許されるのは、
お金を払って買ったチケットで観る舞台や、ファンクラブなどのイベント、テレビや雑誌のインタビューやブログ、Twitterまでだろう。
それなのに「プライベートな場」に顔を出し、周囲の人間にまでつながりを求めあの手この手で舞台上だけではない俳優を知ろうとしている。
恋ならば仕方ない。恋は盲目なのだ。恋しているのだから相手のことを知りたいと思う気持ちは普通だし、繋がれる人脈には繋がるし、ルール違反でも会える場所に赴いてしまうのよ、ということだろうか。
ふざけるのもいい加減にしろとちゃぶ台をひっくり返したくなる気持ちをぐっとこらえる。これぞ理性、すごいぞ理性。
彼は出待ちが嫌いだった。ふつうに話しているくせに、他のファンに申し訳ないという気持ちが強かったらしい。彼女にわたしという出待ちのことを愚痴っているのを聞いたとき、悲しくなったりもした。
そりゃあルール違反するようなファンとも呼べない層を嫌うのは当たり前の感情ではなかろうか。
それ以外のちゃんとした(=ルールを守る)ファンに対して申し訳ないと思うのはごく自然のことである。
というかなんで彼女に愚痴った内容まで把握しているんだというさらっと出てくるホラーエピソードは見てみぬふりをしよう。
全通し、たくさんのプレゼントを渡し、最前に入り、ファンサを求めた。何度も何度も喧嘩をした。わたしは客なのに、どうして喧嘩をするのか意味がわからなかった。三か月間、入りも出もシカトされたこともある。泣いて、わめいて、理解を求めた。
んんん~~~~~~~~~~~~~~~~(絶句)
言いたいことは色々あるが言語化できない。
怖いもの見たさで「喧嘩」の内容が知りたい気もするのだが本当に怖い気がするのでやめておこう。
あまり全部引用してはきりがないので引用はこのあたりでやめておくが、万事彼女はこの調子なのである。
「わたしは」。全ての行動の基準が「わたし」なのだ。俳優の都合も他のファンも彼女の世界には存在していない。
「わたしと彼」という都合のいい世界でしか生きていない。だから、彼がいくら迷惑だと諭しても通じない。
出待ちをやめない。プライベートな場にも踏み込んでいく。だって、その言葉を受け入れてしまえば、彼には会えないから。
彼に会うためにはルール違反をしなければいけないのだから仕方ない。そういう価値観の元生きているのだ。完全に理性なき獣である。
少し話しはそれるが、最前列のチケットをそう何度も手に入れることは可能なのだろうか・・・?という疑問もある。
これは完全な推測であるが、得てしてそういう良席のチケットは高額転売されがちだ。もし、彼女が転売屋からチケットを購入しているとしたら?
高額なプレゼント、祝い花、観劇にかかるチケット代に交通費。それらは決して安いものではないということは、容易に想像できる。
それだけの大金をつぎ込んでいるという事実も、彼女の理性の箍をはずしている一因なのかもしれない。
このエントリーを書いた彼女は、文章化することで己の異常さに気付かなかったのだろうか。
仕事として「俳優」をしている人間のプライベートに食い込もうとするおかしさに、どうして歯止めをかけられなかったのか。
どんなに関係が深くても、それは変わらない。
いいや、それは違う。
俳優にプライベートを求めた時点で、もうファンですらなくなってしまっている。
それにすら、彼女は気付いていないのだ。
彼女が「好き」という度に身構えるという俳優が、自分が感じたものと同じ気持ちを抱えていないとは言い切れない。
優しくなったのではなく、刺激しないようにしているだけなのでは。シンガーソングライター希望の女子大生殺人未遂事件は、きっと誰の記憶にも新しい。
そしてそれをあろうことか、全て「下手に優しい彼のせいだ」と責任転嫁する呆れた幼稚さ。
それを恋と呼んではいけない。
そんな身勝手なだけの感情を、恋だなんて甘い言葉で片付けてはいけない。
「電子書籍の購入は作家の応援にならない」は本当? 現役編集者に聞いたという記事を見た。まあ、ここのところ何度も繰り返されている話題ではあるが、私も一つ書いてみようかと思う。
以前には、いつまで紙の本に付き合わなくちゃいけないんですか? -電子書籍に完全に切り替えたユーザーの怒りと愚痴をひとまずぶちまけます-という記事があったことを覚えている方もいるだろう。この記事はこの記事でやや偏っているというか、紙書籍ユーザーに喧嘩を売っている部分があって(紙書籍をまずい料理に例えていると読み取れる部分とか)、いらぬ反発を産んでいたように思うけれど。
「電子書籍のステマ」とか「ステルスポジショントーク」とか言われるのは癪なので予め断っておくが、私は電子書籍業界の一員である。といっても、末端のエンジニアに過ぎないので、業界の詳しい動きや、編集者の考え方が分かるわけではない。
電子書籍業界がこの先発展していって欲しいとは思っているので、これは紛うことなきポジショントークである、ということは言っておいた方がいいだろう。
ちなみに、冒頭に挙げた記事に関しては、私はそれほど反感を抱いてはいない。
というより、反感を抱くほど踏み込んだことは書いていないように思う。
冒頭の記事を読んで、「また出版業界の言い訳か」と思った方もいるかもしれないが、「電子書籍の売り上げが続刊に寄与しない」というのは、業界の現状としては正しい。
もちろん、書籍の売り方は一律ではないので、作品ごと、作家ごとに個別の事情がある。冒頭の記事では、業界全体が一律にこうである、という印象を与えかねない。
ただ、傾向として、電子書籍の部数を評価に入れていないシステムや、評価することのできない編集者が多いのは確かだろう。
しかし、出版業界の現状がそうである、としたところで、ユーザーには何の関係もない。 「まずい料理を食え」と言うのはいささか例えとして乱暴であると思うが、人それぞれ好みがあるのに、自分が嫌いな料理を、嫌いとまで行かずとももっと美味しいと思う料理があると思っているのに、買って食えと言われるのはたまったものではない。当然のことだ。
ところで、冒頭の記事には、
電子書籍のヘビーユーザーと思われる方の、「なぜ電子書籍ではいけないのか(なぜ出版社側の都合で紙媒体を買わなくてはいけないのか)?」という意見は、いささか極論と感じましたが、貴重な受け手側からの肌感覚での意見として拝読しました。
という記述があった。この点が気にかかった人は多いのではないだろうか。 私もこの点は同意しかねる。「電子書籍ユーザーに出版業界の都合を押し付ける」ような発言に対して電子書籍ユーザーが反発するのは当然のことで、極論でもなんでもない。
ただ、明言はしていないが、この発言は「いつまで紙の本に~」の記事に対する反応であると思われる。こちらの記事は内容が過激であったため、この編集者A氏とやらも、やや感情的な答えを出してしまったのではないか。
あるいは、「極論」と言うのが当該記事の全体的な語調に対する感想であるなら、頷けないこともない。
つまるところ、この発言に関しては多分に感情的なものであって、参考になるものではないが、殊更にこの点を取り上げて叩くほどのものでもないのではないか、と私は考えている。
電子書籍の話になると、「紙には手に触れることの良さが」「電子書籍はプラットフォーム依存が」「電子書籍なら持ち歩きやすい」「紙はかさばる」などといった、紙媒体優位論、電子書籍優位論が現れる。
はっきり言わせてくれ、今問題にしているのはそこじゃないんだ。少なくとも私は、紙媒体・電子媒体の利点や欠点は理解しているつもりだ。どちらにも利点があって、どちらにも欠点があるので、一概にどちらが優位であると言えるものでもないだろう。
だから私は、紙媒体ユーザーに向かって電子書籍を買えとは言わない。そしてまた、電子書籍ユーザーに向かって紙媒体を買えとも言うべきでない。これが私の問題としたい部分であり、恐らく多くの人が感じていることであろうと思っている。
# なお、プラットフォーム依存性の問題に関しては、電子書籍業界人としては真面目に課題として受け取る必要があると思うが、そこはそれである。
そもそも、ちゃぶ台を返すようだが、こんな議論に意味はないのだ。ぶっちゃけてしまえば、たかだか一編集者がTwitter上で「紙媒体を買え」と言って、たとえそれが多少バズったところで、そうそう影響はない。
電子書籍ユーザーは電子書籍にメリットを見出しているから電子書籍を買うのであって、出版社が制御できるものではない。
作品の売上は出版社の広告の打ち方や作者の宣伝などで変わることもあるだろう。しかし、紙媒体でも電子でも、文章の質に差はないのだ。であれば、ユーザーは自分が便利だと思うものを使う。
そうは言っても、電書の売上が続刊の目安にならないのなら、作者のために紙媒体を買うべきではないのか、という意見もあるだろう。
まあ、あなたが誰かのファンで、どうしても打ち切られたくない作品があるのなら、その意見を真に受けてもいいとは思う。本当に極僅かな可能性で、あなたの一冊が続刊のボーダーラインを越える一冊にならないとは言い切れない。
だが、たった一人が購買運動したところで、全体に与える影響は微々たるものだ。もちろん、大勢で同じことをすれば影響は出るのだけれど、そんな社会運動じみたことをしなければ支えられないのだとしたら、それは既に構造がおかしくなっている。
もちろん、紙を愛する人は従来通り紙媒体を買えば良い。紙書籍と電子書籍の市場がこれからどう変化するかは私には予測できないが、なくなることはないだろう。
私が一番思うことは、電子書籍を買う人に、それを引け目に感じて欲しくはないということだ。
電子書籍を買う人も、紙媒体を買う人も、それぞれ一人の客で、そこに優劣は存在しない。
むしろ、電子書籍ユーザーにとっては、市場が大きくなった方がより便利になるだろう。これは希望的観測だが、頭の固い編集者でも無視できない規模に市場が成長すれば、当然電子書籍の売上が続刊基準にもなってくると思う。
だから、今現在電子書籍を利用しているユーザーは、この先も気兼ねなく電子書籍を利用してもらいたい。これは私のポジショントークでもあるが、電子書籍市場の拡大がユーザーの利便性につながるという理論は間違っていないと思うので、ユーザーにとってもメリットのある提言のはずだ。
もちろん、一人のユーザーの動向が市場に大きな影響を与える訳ではないのは既に述べた通りで、だからこそ、電子書籍を積極的に利用すればより便利になりますよ、と言い切ってしまうことはできないけれど。
という訳で、結論を言えば、電子書籍ユーザーは今まで通り電子書籍を買えば良いし、紙媒体ユーザーは今まで通り紙媒体を買えば良い。
こんなことは、別に私が言う必要はないのだ。言わなくてもみんなそうするだろう。
ただ、これだけは言っておきたい。
電子書籍ユーザーに向かって「紙媒体を買え」と言う業界人は、恥を知って欲しい。
後はまあ、私自身も業界の一員として、少しでもより良い方向に向かえるように努力していきたいと思う。
こちらからは以上です。
「君の名は。」がキネマ旬報ベスト選外となったけど、これは、日本の映画批評における下記の(伝統的な)問題点の象徴する出来事なので、みんなもっと大騒ぎすればよいと思います。
最初の問題点。日本の映画批評は、アニメーション映画を適切に評価することができません。
キネマ旬報のベストテンにランクインしたピクサー映画は、何本でしょうか?少し考えてみてください。答えは、ゼロ。ゼロですよゼロ。世界のアニメーションに革命を起こした「トイストーリー」も、障碍児童の冒険譚をウェルメイドに仕上げた「ファインディングニモ」も、冒頭からほとんどセリフを用いることなく世界の荒廃を描いた意欲作「ウォーリー」も、トリロジーの最終作として圧倒的な完成度を誇る「トイストーリー3」も、ベストテン選外になっています。ピクサー以外でも、「アナ雪」も選外なら、2016年は「ズートピア」も選外。正気かよ。日本のアニメーションに目を向けても、例えば故 今敏の作品は1本もランクインしていません。「千年女優」を超える絢爛な日本映画が2001年に10本あったか?「東京ゴッドファーザー」を超える抑揚の効いた感動作があったか?「パプリカ」のイマジネーションを超える作品があったか?「パーフェクトブルー」ほど低予算の映画で、今なお国境を越えて評価され続ける映画が何本ある?
次の問題点。日本の映画批評は、映画自体の良さではなく「他国における賞レースの結果」や「興行成績」や「過去の監督作の評価」などの外部要素に引き摺られすぎる。
2000年以降、ピクサーを筆頭にCGアニメーション映画が映像面、シナリオ面での革新を重ねる中、たった1本だけキネマ旬報ベストテンに名を連ねた映画があります。2009年「戦場でワルツを」。レバノン内戦における監督自身の記憶を辿る、という半ばドキュメンタリーのような内容の映画で、ここ数年の作品でいえば「アクトオブキリング」ような手触りの、とてもいい映画です。とてもいい映画なんですが、たぶんこの映画がキネマ旬報ベストテンにランクインしたの「アカデミー賞やゴールデングローブ賞の外国語映画賞部門にノミネートされた最初のアニメーション映画」だからなんですよね。あと反戦映画だから。反戦映画と、海外の映画賞をとった映画は日本の映画批評において高く高く評価されます。
興行成績の良い映画の評価も引き下げられます。興行成績がよい映画は「おれが評価しなくてもいいだろう」という寝言をいいながら、実のところ「自分は年に100本も200本も観ているのだから、パンピーと同じランキングには出来ない」という薄っぺらながら自意識を守るために、本当はすごく面白かったのに、8位とか9位に入れたり選外にします。2016年も「シンゴジラ」より「クリーピー」を評価して、ズートピアを選外にしたハゲがいましたね。「こいつらは友達が多いから、ほかの人が評価してくれる」って言い訳しながら。一言。邪念が多いよ!!面白い映画は普通に評価しろよ!!いや、確かに「クリーピー」は面白い。その通り!映画に順位をつけるもんじゃない。その通り!けど、正直「シンゴジラ」と「ズートピア」より「クリーピー」のほうが順位が上、とい上のはさすがに無理があります。
過去の監督作に評価が引き摺られすぎる、というのはイーストウッド映画の過大評価が最も有名でしょう。確かに、イーストウッドの映画は面白い。本当に良い映画ばかりです。でも「グラディエーターとアメリカンビューティーとダンサーインザダークを抑えてスペースカウボーイが1位」とか「父親達の星条旗と硫黄島からの手紙のワンツーフィニッシュ」は、やりすぎをこえて「ヤラカシ」だと思うんですよね。
「ヤラカシ」といえば「オールタイムベスト日本映画こと七人の侍が、キネマ旬報年間ランキングでは3位な件」がもっとも有名ですが、このときは「木下恵介作品のワンツーフィニッシュ」というわけわからんことになっているんですね。1位は「二十四の瞳」。これは、わかります。「二十四の瞳」はすごい映画です。今観てもびっくりさせられます(比類する作品は「6歳のボクが、大人になるまで。」ぐらいしかし無いのでは?)。ところで、2位は?…2位は、「女の園」という映画です。…いや、本当なら観てから言うべきなのはわかります。でもあえて言わせていただきたい…知らないよ!!オールタイムベストどころか、木下恵介監督作としても無名の作品なのではないでしょうかコレ。(誰か観た人いますか?もし「おれは観たけど、七人の侍よりずっと良い映画だよ」という人が多ければ、この段落は訂正の上謝罪いたします)
映画は観る環境によって、評価が大きくことなります。これは前項と矛盾するようで矛盾しません。映画館で観る映画と、家で観る映画は違います。「IMAXで観るゼログラビティと、金曜ロードショーのゼログラビティは別の映画だ」と言われて、否定する人は少ないでしょう。映画は体験です。ウェイン町山が「試写室で隣にピエール瀧がいたので死ぬほどビビった」と言って「凶悪」を年間ベストに挙げるように。ガース柳下が金沢映画祭で観た映画を年間ベストに挙げるように。「お家に帰るまでが遠足」と言われるように。「フェスで盛り上がる曲」があるように。では、「夫婦やカップルで観に行き、食事をしながら感想を言い合い、その日の記念にプリクラを撮り、インスタに半券の写真を上げたくなる映画」は、その体験込みで評価しなければいけないのでは?
ひとり、ルーチンワークとして試写室のパイプ椅子に座り、原稿の締め切りを頭の片隅に置きながら観る人間は、金曜ロードショーで観た「ゼログラビティ」をつまらなかったと言い切る人間と変わりません。真面目な話、かつてこれほどまでに評価され、クチコミで観客動員の伸びたデートコースムービーってあるんでしょうか?そう言えば「動員で映画の評価を語るなら踊る大走査線2は名作」って言ってる人がいましたね。…寝言かな?(たぶん口を滑らせたのだろうと思うけど)
以上3点。おれは「息もできない」を年間ベスト映画に選ぶキネマ旬報のことが(ピラニア3Dを年間ベスト映画に選ぶ映画秘宝より)本当に大好きなんだけど、やっぱりよくないところはよくないところなので、なおしていただきたく候。
なおちゃぶ台をひっくり返すようだけど「君の名は。」は観てません。だって、子どもが生まれたばかりで、奥さんが育児で手一杯だったからね。子どもがもう少し大きくなったら、ポテトチップスとコーラを片手に、あーだこーだ言いながら2人で観るよ。ほなさいなら
ある時、タンスを開くと私のパンツをかぶって寝ていた。違う日には洗濯機と壁の隙間に入り込んで丸くなっていた。冷蔵庫の中で震えていたり、歯磨き粉を出したら一緒に出てきたこともあった。しかし、私がおっさんの姿を見つけると慌ててどこかへ消えてしまうので話したことはない。
ある日、部屋のエアコンの上に、見知らぬ段ボール箱があるのに気付いた。脚立を持ってきて調べてみると、小さな入り口が開いていて、中で体育座りしているおっさんと目が合った。私が覗いてもおっさんはどこ吹く風で、その様子はまるで終の住処を見つけたと言わんばかりだった。
それ以来、おっさんは段ボール箱に住み着くようになり、私の姿を見てもどこかへ消えることは無くなった。
時々どこかへ出かけているのか、姿が見えないことがあったが、帰ってくると決まっておっさんの家の中にちゃぶ台や座布団や畳が増えていた。いつの間にか小さなテレビや冷蔵庫まであるようになり、少し経つと普通の家と変わらないような内装になっていた。しかし、寝る時は相変わらず私のパンツをかぶって寝ていた。きっと気に入ったのだろう。
おっさんは今、家の中で小さなテレビを見ている。ちゃぶ台には缶ビールと枝豆が置いてあった。最近は毎日テレビを見て酒を飲む生活をしているようだ。暇じゃないかと思うが、これがおっさんにとっての幸せな生活なのだろう。
はじめに言っておくけど、キャストに罪はない。
ほぼ。だいたい。
だけど映像見返して「自分演技下手だな…」って思ったら、サニワ女子にちやほやされたまま調子乗らないで、良い演劇たくさん見てほしい。
それか演技指導のワークショップ参加して、2.5出るときは原作研究めちゃくちゃしてほしい。それだけ。
刀ステはわりと楽しみにしてた。推し出るし。
ストレートプレイだっていうから、ちゃんとキャラクターとキャラクターが会話して、そこに『存在』してくれるもんだと思ってた。
でも、舞台終わったあとは悲しみと怒りとやるせなさしかなかった。
周りのサニワは「よかったね〜!!」「○○やばかった♡♡♡」しか話してないの。
ツイッターでもフォロワは「刀ステ最高だった!!」しか言ってないの。
っていう気持ちをどっかに吐き出したくなったので刀ステめちゃくちゃ良かった!って人は見ないほうがいい。少しネタバレもしてる。
個人的に良かったところは所作指導入ってたところ(特に三日月)、
鈴木三日月・北村薬研がちゃんとキャラクターで居ようとしてくれたところ。
カテコでもいらんこと言わんし。キャラクター像を崩さないんだよ。ザ・2.5俳優って感じでした。ありがとね。
あと衣装。特に山姥切の頭巾の、程よく重くて柔らかなドレープの綺麗な布。走ったとき一番自然になびいてた。
殺陣がんばってた。多すぎたけど。
なんで歌った?
演出に必要不可欠かな?えらい人に「CD出そうよ!」って言われたのかな?知らないけど。
謎ダンスじゃだめ?殺陣しながら静止、名前文字バババン!でよくない?充分すぎない?
カテコの歌もよくわかんないし。なんで歌った?
不動はなんで謝らないの?
謝って、「力を貸してくれ!」って皆で共闘シーンって流れが王道じゃないの?
薬研は巻き込まれ、長谷部は散々蔑まれ、挙句宗三は刺されたんだけど。山姥切は歩み寄ろうとしたけど何もかえってこなかったんだけど。
不動ってこんな子なの?違うよね。
原作だと刀剣男士から『審神者』への信頼や好意が少なからずあって、それで互いの関係性が築かれてるところがある。
固定の『審神者』が出せない分雰囲気しか出せなかったのはしょうがないね。難しいもん。
でも話の中で本丸の皆と不動の信頼感は築けなかった?
ただ、まあここの本丸じゃ築けないのも無理ない。
山姥切はがんばってた。でも彼の頑張りは自分の『近侍』としての自信を抱くための頑張りなんだよ。
不動のことなんてこれっぽっちもみてなかった。
不動は反発しかしてなかったし前の主に未練たらたらだけど、そうかもしれん、だがうちの主もいい主だぞ!ってならない?ならんか。
長谷部は長谷部で否定しかしないし。そりゃあんだけ否定されたら不動も噛みつくわ。噛みつくしかなさすぎて怒りの演技も怒鳴り散らす一辺倒になる。
だれもかれも不動の話を一度もまともに聞いてあげないんだよ。
審神者の考え「強くあれ」って何?どういうこと?何理解した気になってんの?
織田組の子たち、いつ乗り越えて強くなった?どこにレベル上がる要素があったんだ。心身共にボロボロだわ。やるせねーわ。やってらんねーってスト起こす勢いだわ。
キャスティング、どうにもならんかった?これ好みの話かもしれないけど。
喋るし脱ぐのにあのキャスティングはちょっとどうなの。ゴリラはネタじゃねーから。
真剣必殺の時笑ってごめんな。
キャラ解釈は箔かよってくらい薄っぺらくて、そんなんだからキャラとキャラが会話してないし、話の中でキャラクター像が構築されてないから、演技もうまくいかない。
どうしてそういう考えになったの?こっちきて。ちゃぶ台はさんで議論しようか。手がでたらすまんな。
原作の本編ないから作るの難しいよね。だったら、ちゃんとキャラクター解釈ちゃんとしてて、発展させてストーリー組める人でノベライズして、それ舞台化してくれたほうが全然良かった。
高名な演出家さんか知らんけど。別にあなたの作品観に来たんじゃないんだ。推し応援しに来たんでな。すまんな。
公式側がチェック入れてたのは互いの呼び方と喋り方だけなのわかった。(長谷部が尊敬語使ってたらどうしてやろうかと思ってた)
何より一番悔しくて悲しかったのが「キャラクターがないがしろにされてる」っていう点。
原作があれだけキャラクターも関係性もこだわって作っているのに、今回舞台では『このキャラクターでなければ駄目だった』って要素を一切感じなかったんだよ。
人気キャラだから?織田組の子たちとの関係性考えて手っ取り早くぶっこんだだけ?
だったらその子が、その子たちが、話の中で織田組の子に与えた影響は?
『乗り越えられた』のは周りのおかげ……ってわけではないんだな。
何もないんだもん。いなくてよかったよね。
漫画とかアニメと違って、ゲームからの舞台はキャラクターが動くことではじめて吹き込まれるいのちなんだけどな。
ビジュアル推しでもないし、演技推しでもない。
かといって話が完璧だったわけでもない。
何がやりたい舞台だったんだろう。
(動いた金については考えないことにする)
そのまま純粋に観れる人が羨ましい。楽しめなかった。悲しい。
私だって「推しサイコーだった♡♡♡舞台よかったー♡♡♡」って言いたかったし言おうと思ってたよ。
あまりにも悲しすぎて何も考えられなかった。
逆に何が「最高だった♡♡♡」んだろう。
今後もこういった原作に愛を感じない舞台ばかりが増えていくのかな。
観て「お母さん産んでくれてありがとう…この子とおんなじ世界にいる…ありがとう…生きてるって尊い…生きる…………」
ってやつじゃん。
なんでまた仕事相手に、しかも外部にその様な話を持ち込んできたんだろう。
話しやすい人で、若い人へのフォローもしっかりしていて、食事に誘われても仕事の話ばかりだった。
尊敬し始めていた矢先である、信頼やそんな気持ち全て載せていたちゃぶ台をひっくり返された心境。
きっと仕事もそういう期待を持って回していたのなら気色悪い他無い。
ただただ、全部の行動が答え合わせの様に思い返されてつらい。
足元見られていたのか、私の仕事には興味なかったんだなと思うと悔しい。
一人でやっていくのが不安になってきた。彼は今電話番号も住所も握っている上司だという事が怖い。
一人である事の不安がこんな形でわいてくるなんて思ってもみなかったよ
今はただ女の飲み友達に笑ってもらっている。
今日は自身をモデルにした数々の戦争映画が作られた「ヒトミ・イトウ」と「シズカ・メタバーナ」のカップル、あの宇宙世紀のロミオとジュリエットに直接話を聞いた。
ヒトミ「れんPOW!」
シズカ「Gオン!」
ヒトミ・シズカ「「ラーブラブ!」」
突然始まりましたけど、なんですか?
ヒトミ「これは今度やる一年戦争記念館を応援する番組『連邦とジオンのラブラブレイディオ』の挨拶です」
シズカ「ラーブラブ!」
は?
ヒトミ「ええとですね、宇宙世紀の前、西暦の時代に子供向けのアニメーションに声を当てていた、声優と呼ばれる職業の方々やっていたアニラジという文化がありまして」
は、はあ。
ヒトミ「そのアニラジでは、番組独自の挨拶を作っていたんですよ」
そうですか、どうでもいいですね。
シズカ「どうでもやくないやい!」
すいません。
ヒトミ「『連邦とジオンのラブラブレイディオ』は、サイド3FMで、一年戦争を知らない子供達から、ラプラス事件を生で見た老人まで、幅広い年齢層に向けてお送りしています」
ヒトミ「地球の人たちには、日本の地方FM番組『ムラサメ研究所のムラムラしない夜はコレを聞け! 』のスポンサーでお馴染みの、スジャータさんです」
えー、スジャータ凄すぎない?
ヒトミ「スジャータさんは、仏教を通じてニュータイプ思想を解釈していて、かの第二次ネオジオン戦争では、スジャータさんがインドで開催した「ニュータイプ修行ツアー」でニュータイプに覚醒した、少女が巨大MAで活躍したって噂があるぐらい、地球にいながらも、アースノイドやニュータイプに詳しいんですよ」
本当っぽいけど嘘ですよね?
シズカ「嘘じゃないよ! あの百式とか作ったナガノ博士が「俺の嫁のクェスって子がね」って言ってたもん!」
お前その理屈だと、ベルトーチカもナガノ博士の嫁になるじゃねえか、この記事はマフティーの動乱が起こってるらしきことを最後に示唆して終わるんだから、ベルトーチカチルドレンと繋がらなくなるネタフリ辞めろや。
はい、仕切り直しです。
ヒトミ「すいません」
シズカ「ごめんね、ごめんねー」
まず、お二人が何故「宇宙世紀のロミオとジュリエット」と呼ばれているのか?
シズカ「あの映画のヒトミちゃん可愛かった! けど、本物のヒトミちゃんの方が可愛い!」
ヒトミ「もーシズカーも、本物の方が可愛いよ」
あれ、今気づきましたけど、この再現映画って設定、ジレン暗殺計画と被ってますね。
ヒトミ「あのごめんなさい、いちゃつかないのでメタネタ辞めてください」
わかりました。
では、お二人の出会いについて教えてください。
ヒトミ「えーっと、83年の11月のことです」
えーっと、あれですねデラーズ紛争と呼ばれる、ジオン軍の残党がコンペイトウで行われていた観艦式を襲撃した戦闘。
シズカ「シズカもでーす!」
えー! そうなんですか? 映画だとお二人の出会いはグリプス戦役だと描写されていたんですが?
ヒトミ「あれ、地球だとまだあのガンダムの話って禁句なんですか?」
シズカ「持たず、作らず、持ち込ませず」
ガンダム? ちょっとよくわからないですが、その戦争でお二人は出会うんですよね。
ヒトミ「はい、私は観艦式の護衛として、ジム・ガードカスタムに搭乗していました。索敵任務中でした」
ええと、モビルスーツの名前が色々出ましたが、ジム・ガードカスタムは、ジムのカスタマイズ機ですよね?
ヒトミ「そうですね、当時も色々とジムのカスタマイズ機は生産されてたんですが、私みたいなのに回ってくるのは、一年戦争当時の残り物でした。
ガードカスタムという名の通り、体が隠れるぐらいの大きいシールドが特徴的ですね」
それは、やはり女性という立場から、そのような被弾しても問題ない丈夫なジムを振られた?
ヒトミ「いやー、関係ないでしょ。さっきのニュータイプの女の子の話じゃないけど、モビルスーツの操作技術と性差は関係ないと思いますよ」
は?
ヒトミ「ごめんなさい」
シズカ「ごめんちゃい」
で、シズカさんが乗っていたのが、ドガッシャ。
シズカ「ドガー! シャア!」
どんなモビルスーツなんですか?
シズカ「ハンマー!」
ヒトミ「ガッシャっていう、水中専用MSを宇宙対応したものなんだよね」
シズカ「そなの?」
それで、連邦軍とジオン残党という、敵同士の関係がお二人のファーストインプレッションだったんですね。
具体的にはそれぞれどう感じました? よく戦争映画では「このプレッシャー…… あいつか?」みたいな、やり取りが描かれますが。
ヒトミ「戦闘中のことは覚えてません」
シズカ「おなじくー」
えー。
シズカ「おなじくー」
それもそうですね。
そして、その戦闘でシズカさんを鹵獲したヒトミさん、お二人の恋はそれから始まるんですよね。
ヒトミ「可愛かったから?」
シズカ「ぐへへー、かわいいーって言われたー」
顔が?
ヒトミ「顔がですね」
シズカ「ぐへへー、顔かわいいー」
ただその、シズカさんは所謂デザインベビーで、いわば作られた美なわけですよね。
その点や、そういうった少女を戦争の道具に使うジオンへの嫌悪感などはなかったんですか?
ヒトミ「ないなあ」
そういうもんですか?
ヒトミ「そういうもんでしょ。デザインベビーっていう、生命に人の手が入る事への嫌悪感とか言い出したら、そもそもこうして地球から離れて宇宙で暮らす事自体おかしいでしょ」
うーむ。
ヒトミ「所謂『ありのまま』とか『自然が良い』みたいな思想はアースノイドだけじゃなく、スペースノイドの人にもいます。
ただそれって、アースノイドとかスペースノイドとか関係なく、地球を知ってる人の意見なんですよね」
知っているとは?
ヒトミ「ようするに、地球にお世話してもらってた人ってことかなあ」
ヒトミ「酸素であるとか、水であるとか、そういうものをお世話してもらってるのは事実でしょ。宇宙じゃ全部自分でやらないと」
シズカ「食べ物もねー」
ああ、なるほど。
つまり、アースノイドよりもスペースノイドの方が優れていると?
ヒトミ「それはないでしょ。お世話してもらえるならお世話してもらえばいい、苦労しないにこしたことはないよ」
シズカ「私もヒトミちゃんにお世話してもらってるー」
ヒトミ「うん、それといっしょで、役割分担が違うだけなんですよね。アースノイドにはアースノイドの、スペースノイドにはスペースノイドの長所と短所があるんですから」
でも、ジオンはスペースノイドの方が優位だと掲げていましたよね。
ヒトミ「私は思想家でも政治家でもなくて、ただのジオンの軍人と結婚した連邦の軍人で、しかももう軍を辞めてて、責任を追わなくていい立場だから、好きに言っちゃうけど、
例えば、ハマーンカーンがアクシズで暗黒の世界に居るのが嫌だったのは、彼女がアクシズで暮らし始めたのが、自分の選択じゃないからだと、思うんだよね」
それは、棄民政策でスペースコロニーという宇宙での暮らしを強制された、初期の宇宙移民たち、つまりジオンズムダイクンにも通じると?
ヒトミ「そうだね。自分の環境が変化したとき、それが自分の選択によるものじゃないとき、人はその変化に反発消化しないといけないんだよ」
変化に反発?
ヒトミ「そう、変化。サイド3で政治家の娘として暮らしていたが、突如アクシズで寒い宇宙に放り出されたハマーンカーンも、首総の息子であったために内紛に巻き込まれたキャスバルも、それが受け入れられない変化だから反発したんだと、私は思ってる」
シズカ「ミネバちゃん」
ミネバ? 確かにザビ家の遺児でありながら、先の戦争で彼女はネオジオン側についていなかったようですね。
ヒトミ「そう、それは彼女が物心ついたころから、あの立場だったからじゃないかなあ。彼女にとって、ハマーンが耐えられない暗黒の世界は、日常だったんだよ」
なんとなくわかってきました。
ヒトミ「宇宙世紀になって、人が宇宙で住み始めてもう100年です。
こうして私たちみたいな『女同士のカップル』が異常だ、マイノリティだ、と騒がれていたんです」
なぜ? 今じゃあ至って普通のことですよね?
ヒトミ「ね、何故? って思うでしょ」
シズカ「ふつうなのにねー」
ヒトミ「それは、人間が生殖以外の目的を持っても良いぐらい豊になったからかもしれないし、科学の進歩により同姓でも子供が作られるようになったからもしれないし、他者への寛容が進化したからかもしれないし、その逆に無関心なだけかもしれないし」
ヒトミ「どんどんコロニーが広がって行って、いつか地球のことを知りもしない子供たちが増えて、もう別の太陽系で暮らすようになったら、
きっと、また別の理由を見つけて争いが始まるんじゃないかなあ」
争い自体は無くならないと、思っているわけですね。
ヒトミ「理屈は何にもでもくっつくからね、女同士の恋愛が異端であることも、普通であることも、どっちにも理屈はくっつく。正しいか正しくないかは別として。
事実、こうしてサイド3では戦争が終わってウン十年を祝ってるのに、
地球じゃ特権階級をもつ政治家を粛正しようと、マフティーなんてテロリストが暴れてる。
そして、何年先になるかはわからないけど、きっとまた独立を掲げるコロニーは出てくる。
もちろん中には、もう地球を見捨てて、コロニーだけで暮らして行く人たちも出てくる。
もうそれすらも嫌になって、別の太陽系を目指す人も居るんだと思う。
でね、私はそんな苦労を、レコンギスタし続けることを、辞められないんです」
シズカ「辞めたくないよねー」
それは何故?
ヒトミ「地球って重力があるから、オッパイが垂れるんですって」
シズカ「ヒトミちゃんはオッパイ大きいから、重力の影響も大きい。シズカは小さいから良いけど、ヒトミちゃんは死活問題。40代特有の肉の付きやすさもあるし」
ヤックデカルチャー!
シズカ「メタいよー」
一年戦争という、人類の種としての存続が危ぶまれるような戦争を経て、人間がどう変わっていくのか、どこが変わらなくてもよいのか。
そんな「人らしさ」を強く感じられるインタビューだったと思います。
それじゃあ、最後に何かあればどうぞ。
ヒトミ「えー『連邦とジオンのラブラブレイディオ』以外にもラジオを中心に活動しています。詳しくは、Twitterを見てください」
ろくでもない一日だったんよ。
休日出勤を早めに出て早めに片付けるつもりが、洗濯機が壊れて家を出たのがほとんど夕方でしょ、
帰りの終電で隣に座ったねーちゃんの凄まじい香水の臭いに吐きかけるでしょ(あれは香水じゃなくておかしなハーブだったのかも)、
漬け丼食べたくてマックスバリュで叩き売りの刺身買おうとしたらしょっぱいマグロの切り落としが900円超えでしょ、
仕方ないから塩鯖に切り替えて買い物してようやく家に帰ったら猫がゲロを五カ所でしょ、
片付けてやれやれとベランダで一服してはっと思い出したのはそういや洗濯機、乾燥メニューにしてなかったわって急いで洗濯機開けると脱水までしか終わってない濡れた洗濯物がもわぁって臭ってて仕方がないから匂い付きの柔軟剤多めに入れて洗い直しでしょ、
ああ、ひでぇ一日だ…と思いつつ昨日の風呂の湯を追い炊きして30分浸かってようやく人心地かと思いきや、
昨日の朝徹夜仕事で帰った後寝てる間に引っ掻いてどうも血管の近くだったらしく血がどくどく出てきて枕カバーと寝間着のパーカーを血染めにした傷が、血行良くなったお陰でまた開いて風呂上がりの体に鮮血が滝のように流れて必死で拭きつつティッシュで傷口押さえて止血して、昨日はガーゼがあったからどうにかなったものの今日はそれもないので絆創膏貼ってその上にティッシュの束をテーピングで止めてどうにかこうにか流血をおさめてやれやれでしょ、
そうこうしてるうちにもう丑三つ時の二時で、そもそも鬱で医者にかかってるくらいだからこんな感じだと何で俺生きてこんなことに右往左往してんだろ的方向に精神が偏向してて晩飯もういいかと思ったけどでも買っちゃったからには後で処理が大変だからってさっきの塩鯖焼いたらグリルを予熱しておくの忘れて網に焼き付いて身をぼろぼろ持っていかれるでしょ、
いいよ食うよってボロボロ鯖と期限切れメカブと総菜パウチのひじき豆と昨日の朝の会社帰りに買ってちょっと食べたけどあんまりおいしくなくて大半が残ってたセブンのシナチクをちゃぶ台に広げて、ぐい飲みになみなみ安酒注いで、さあ、って2時半だけどディナータイムって、お供に録画してたガンダム再生ですよ。
おもしろい。めっちゃあつい。この興奮。箸もぐい飲みも停まる。音楽もシナリオもストーリーもSF設定も(体当たりが艦船のメイン打撃力!)ロボットの動かし方も最高。なんかこの、こう、知ってるこの興奮って、スターウォーズのときのあれだ、スターウォーズ級にわくわくする。
このくそろくでもない一日が、この30分でもうなんかもう、良かった、気持ちよく寝られる。明日朝辛いだろうけど、首の傷からまた大量出血かもだけど、いい、いいよもう、気持ちよく寝られる。
今日、仕事で問題のある取引先を呼んでお説教する会が開催されたのですが
ある取引先担当者さん(課長レベル)の考え方や態度に腹が立って、耐えられなくなってキレてしまった。
ただただ取引先担当者さんの手間が増える…という状況なのに
担当者の方は、問題解決策をすべて放置してる事に何の悪びれもなく
手間が増えてることに対する文句を言ってきたので
「ちょっと待ってください。。。」とそこからちゃぶ台をひっくり返す勢いで色々と言いまくってしまった。
自分の義務も果たさないで、相手に文句だけを言う資格がお有りで??って感じです。
いい加減な態度で、いい加減な仕事して、いいお給料貰ってるんだから本当にうらやましい限りです(´・ω・`)
こういう誠意のない取引先とは取引をスッパリ止めたいところですが
ビジネスの場なので、タンカ切るのはあまり好ましくなかったなぁと反省中。
いい加減な仕事してると、結果が見えるようにわかるんですよ。残念ながら。
口だけ上手いことを言ってても結果に出ないんじゃ
ああ、口だけなんだなって思われてしまう現状です。
どうにもこうにも「自分は絶対悪くない。悪いのはシステム、前任者、親会社(親会社呼ぼうとするとビビって訂正してくる)」
というスタンスなので始末におえない。
私に対しての「早く担当者変わらないですかね~」とか言ってくる無礼者だった。
親しい友人がいる。同僚である。かなり狭いたった数人だけの会社(のような場所)で、経営を軌道に乗せようと尽力している。
私は基本的に彼の言いなりである。彼は自分の非を認めたがらないし、認めさせるのにかなりの労力を使うので、彼の言い分をすべて聞くのが最も効率が良い。
しかし私にも気に入らないことはある。その反論をすべて彼は「正論に対する拒否反応」として、取り合ってくれない。私が理屈を立てても、「屁理屈」とちゃぶ台を返し取り合わない。
それでも私たちは友人である。そんな関係が続いてくると、仲が良いのか悪いのか分からなくなってくる。彼は仕事の話をプライベートの機嫌に反映させることがよくあるので困る。
「彼が正論と称するものに問題があり、私がその問題の解決を提案すると、彼の機嫌(と物言い)が悪くなる」これに尽きるのである。
私はそういう仕事の仕方が嫌いである。彼が間違っている場合に、軌道修正にすさまじい労力が生じるのである。それがプロジェクトに悪影響を及ぼしたことが、過去幾度もあった。
彼に対してそういう問題の改善を求めると、もはや人間性に対する非難になる。そこまで踏み込まずに、言い方を考えて来たが、最近限界を迎えてきた。
エアコン、扇風機、照明とか、一度スイッチ入れたらほぼ放置するような機械までリモコンにしてもしょうがないだろ。
エアコンは昔のやつみたいに有線で壁に固定するコントローラーでいいじゃん。
エアコンのリモコンは壁のフックにひっかけて、固定コントローラーと同じような使い方しかしてないけど、壁にぶら下げたままじゃ角度的に赤外線が届かないから一度手にもってエアコンに向けないといけないから面倒だし。(ちゃぶ台の上に置いておくと絶対どこかに行って探すことになるから、壁にぶら下げて使い終わったら速攻で戻すって使い方以外したくない)
君の考えを引用を中心にまとめるとこうなると思うんだよね。
「彼の心理を理解したいから」、「彼がどういう心理状況で日々を暮らしてきたのかを真剣に想像してみよう」。そのための道筋として、「これまでの経験や嗜好というドットのつながりと、起こした行動の間に、関連性を見出すのは自然だ」。というのも、自分自身の「これまでの経験や嗜好というドット」をつなぎ結ぶことで人は誰しも自分の「人生のストーリーを描いて」いるからだ。それは時として当人にとっても「明確に意識されていない」ものかもしれないが、必ずや「ある種の心理的状況」を作り出すことを通して、「自分自身を把握し、ある行動を起こす」ことへと導くものだ。だから、「この犯人の場合であれば」、たとえ「アニメ・カント・博士課程無職」といったそれぞれの単体では心理や把握している自分の人生というものに影響をもたなくとも、それらの「組み合わせというのが、犯罪と密接な関係を持っているということは認めるべき」だ。
この考えの前提の部分はともかくとして、気になるところがいくつかあるんだよね。
一つ目。君は個人を構成する「経験や嗜好」そのものではなく、それらの組み合わせが人格を作り上げると主張しているようだけど、ここでは「経験や嗜好」や経歴をそれ単体だけで取り上げた、何の変哲もない感想しか述べられてないよね。たとえば、博士課程へ進学しながら「まともな職を得られないというのは、精神的にきつい」としている。また、美少女アニメは「容易に現実逃避の対象」となるので、「それが現実対処能力を下げうる危険性がある」としている。そしてカント好きという要素についても、カントの理解に「誤解が生じた」、あるいは「なぜカントの言葉に従えなかったのか」という問いを立てている。これらはいずれも「組み合わせ」をもとにして作り出された「人生のストーリー」などではなく、単体の要素から「人物判断をイコールで導き出し」てしまっている好例ではないの? これがステレオタイプとどうちがうのか私には分からないんだよね。君は報道された経歴や嗜好をひとつひとつバラバラに一瞥する。「高学歴無職ってきつそう」「美少女アニメ好きって現実から逃げてるよね」「カント好きならこんなことしないよな」と、ありきたりな印象を述べながら。そして次に、そのように吐き出された感想に自分自身で同意するかのように、君は犯人に対して「共感」を示す。「ああ、こういうことの組み合わせで、こういうことを起こす心理状況になるのは分からんでもないなぁ」と。でもそれは「人生のストーリー」を形作る組み合わせでもなんでもない。もしそうなら、どうして犯人と同じ経歴や嗜好を持つ人が同じ犯罪を起こさないのだろうか? つまりこれはただのステレオタイプの組み合わせなわけで、君は君自身が抱くステレオタイプを用いて他人の心理状況を説明してしまっているんだよね。君の共感というのも、説明づけられた他人に対してではなく、ステレオタイプで分類された他人に対して示されたものではないの? 君はステレオタイプが確かに正しかったという結論に「empathy=in+pathos」したのではないの?
二つ目。君は自分の考えの前提と実際にやっていることのズレに半ば自覚的なようなので、こんな答弁を返しているね。
「経験は無数なのだから、どれをつないで自分のストーリーを作るかは恣意的だ。」
どうせ「恣意的」なのだから、みんな好き勝手に解釈すればいいし、自由に「彼のストーリー仮説」を作ればいいとちゃぶ台を返してしまうことで、君は犯人の「心理的状況を真剣に考え」るという当初の名目をもはや捨て去っているように見える。それでも君は自分の感想は「否定されること」ではなく、当初の目的に沿ったものだと弁護してこう言い張っているね。「人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができないとさえ僕は思う。」ここで、奇妙な言い換えが起こっている。君は始め、ステレオタイプに頼らず「真剣に想像」することは彼の心理を「理解」するための方法だという主旨を述べたはずだよね。ところがここでは、みんなが自分の立場から好き勝手に感想を言うことそれ自体の重要性をアピールしている。こうなってしまうと、「これまでの経験や嗜好というドットのつながり」や「人生のストーリー」が個人の心理を解き明かす上でどのように求められるのか分からなくなってくる。それどころか、君はむしろ好きこのんでステレオタイプに基づいた判断をしたがっており、「人生のストーリー」というものが「人物判断をイコールで導き出」されたものの美辞麗句にさえ思えてくるんだよね。
三つ目。「人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができない」というが、なぜ心理を想像するのに報道やマスメディアの断片的な情報があえて必要なの? 君は人生のストーリーを把握するためには「彼の供述を待つ必要がある」、「インタビューしてみないと分からない」と述べている。にも関わらず、供述を待つまでもなく、君は自分の感想を積極的に垂れ流しているよね。これによって、経歴についての君の感想は心理を理解するための方策ではなく、心理を想像するための過程ですらないと告白してしまっているように見える。ではそれは何なのかというと、報道をもとに君が抱いたステレオタイプな人格に他ならないんじゃないの? そしてなぜそのようなありきたりな感想に対して慎重に対処しようとしないの?
まとめると、君は終始、他人の人格を自分の偏見をもってステレオタイプに説明づけることしかしてないんだよね。そして他人からこの事実を指摘=説明されることから逃れるために、ありもしない高尚な動機を後づけでくっつけているように見える。君は二枚舌を使いまわしてこう主張する。「犯罪と結びつけるステレオタイプは排除しなければならない」。たとえ自身がステレオタイプにはまっていようとも、それは犯人の心理を理解したいから彼のストーリー仮説を作っているからであって、誤りではないということだ。
さらに滑稽なのは、「人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができないとさえ僕は思う」と、下衆な報道を野次馬的に楽しむことを高らかに正当化していることだよね。カントは、ある善を実現するためには、それを信奉する万人が等しく同一の道徳規則に無条件にしたがわねばならないとしている。君の場合はまるで逆だ。君は君の判断を正当化するために、あるはずもなかった善を先取りして捏造してみせた。そしてその結果として君の行為はゆいいつ美しいものとなるはずだったけど、あまりにも目論見が馬鹿げているために君はそれさえも失敗した。紆余曲折したあまり最後には、ステレオタイプに基づいた判断のすべてが個人の心理状況を理解するための尊い「哲学的な問い」だという結論に逢着したようだけど、なるほど、これは確かにカントを逆順に理解したものだね。君は自分自身の身勝手な行為から出発して万人に当てはまる倫理を作り上げたんだよ。