東京五輪のロゴ騒動もひと段落したので、ロゴタイプ、及びシンボルについて、思うところをまとめてみようと思う。
まずは、形態としての美しさがある。
これについては、もはやシンボルマークにおける美は死んでしまった、と言っても過言ではない。
シンボルマークに求められる美は、単純の美である。円や三角形のような、これ以上削れない、というところまで形態をそぎ落として行った先に、シンボルマークに相応しい美がある。
ところが、世の中にシンボルが溢れた結果、先行して作られたシンボルは商標登録され、後発は同じようなかたちを使えない、もしくは模倣であるというレッテルを貼られる、という事態に陥っている。
東京五輪の事案で、佐野案ロゴをあまり気に入らないとは言いつつも、ほとんどの見識あるデザイナーが「最初から作り直した方が良い」とは言わなかった理由がここにある。
シンボルにおいて、単純であることはそのまま美に直結する。しかしながら、単純であればあるほど他のシンボルと類似しやすくなる。
このジレンマを理解している人であれば、あのような騒動に加担しようとは思わない。
外野ながら事の進展に全く暗澹としたが、あの泥沼の中から凛然と輝く野老案が選ばれたのは奇跡的といえる。
具象性、と言い換えてもいい。要するに、「この図は何を表しているのか」ということである。
これは、難しい。なぜか。
シンボルはあくまでシンボルであり、決して具象絵画やピクトグラムではないからである。
上で述べた通り、シンボルマークにおける美は、抽象化し、単純明快に切り取るところにある。
これは、具象性とは正面から相対するものである。多くの場合、両立は出来ないが、
良識あるデザイナーはここで「何とか両立できないか」と腐心する。
社会の中でどのように利用されていくのか、ということを考えたとき、引き伸ばして使われる場合、ポスターの一部として埋め込まれる場合、
またはエンボス加工される場合、はたまた布地に印刷される場合など、様々な利用シーンを想定して作られている。
小さなものから大きなものまで、どんなシーンでも一定のイメージを伝えられるシンボルマークの面目躍如といったところだろう。
この様々なものに使っても問題のない設計は、経験者でなければ難しい部分がいくつもある。
小さく使って潰れないように。多少滲んでも形態が認識できるように。大きく使ってもエレガントなように。別メディアで展開しても色等の統一に困難がないように…など、
気を遣うポイントが大量にある。ただマークを作って終わりではないのである。
この、美と具象性と社会性の区別がついていない人々によって、佐野案ロゴは引き摺り下ろされたと言っていい。
氏にとってはとんだ災難だったろう。
また、五輪ロゴにとどまらず、騒動の際に氏のデザイン事例を「オリジナルではない」としてやり玉に挙げる記事が多く出回ったが、
それらがオリジナルかどうかと、五輪ロゴの問題とは切り離して考えなくてはならない。
仮に、氏のデザイン表現にオリジナルではないものがあったとしても、大きな問題があるとは思えない。
先に述べたロゴの問題と同様、デザイン表現においても、何かを「これがオリジナルだ」と認めるのは大変難しいのである。
少なくとも、平面におけるデザイン表現には、必ず先行事例がある。
これは先行事例がない、と言える例はきわめて稀で、
多くの場合、「先行事例はない」=「先行した権利者がいない」というだけの話である。
過去、デザイナーたちが李朝の民画や、琳派などに参考事例を求めた一端には、
この「先行した権利者がいない」ところを求めた結果という、泥臭い理由もあったのではないか。
そして、不幸にも「表現における先行した権利者」がいた場合であっても、
両者間で話がついてしまえば、我々外野が声を上げる理由などどこにもない。
本来、ワイドショーで取り上げるような話ではなかったのである。
五輪ロゴ問題が下火になった後、今度は築地の移転先、豊洲市場の問題がワイドショーで取り上げられた。
現在では次第に「既定路線が(現実的には)正だった」という像が明らかになりつつあるが、どうも話の構図が似ている。
共通点は「素人が、ドキュメントも読まずに、素人考えのままちゃぶ台をひっくり返す」というところだ。
これらから得られる教訓は、
普天間基地移設問題もそれだな。