はてなキーワード: ロゴタイプとは
競馬というものに全く興味はなく、「土日の昼過ぎにテレビでやってるやつでしょ?」くらいの印象しかなかった。
当時多摩地区の大学に在籍していた私は、春・秋の日曜は運動系の部活の大会のシーズンに重なっており
ある日曜、多摩川沿いのグラウンドで試合を終えた後、同じ寮の同級生の競馬ファンから連絡をもらう。
ユニフォームやら道具やらが詰まったカバンをぶら下げて東京競馬場に入ると、そこは人、人、人の大集団。
馬鹿でかいスタンドに収まりきらない10数万人の大集団だった。
今までプロ野球やJリーグの試合観戦で大きな競技場は何回も行ったことがあったが、それとは比べ物にならないレベルの大集団がそこにいた。
「〇〇番柱の中段にいるから探して」と連絡がきたが、柱に番号が振ってある建物なんて初めて見た。効率的だと思った。
ビールを浴びるように飲み、言われるがままに馬券を買い、そして大損した(当時はお金がなかったのに)。
こうして競馬キチガイとなった私は同年のジャパンカップや有馬記念にも現地に赴くようになってしまった。
そうして迎えた2013年の日本ダービー。水曜日から正門の列に並び、開門ダッシュで場所を取り、一日中酒と馬券に溺れる。
幸せだった。
今でも覚えている、買った馬券はエピファネイアとロゴタイプのワイド1点。
直線で武豊が福永を差した瞬間、自分の馬券のことなど忘れ大絶叫していた。
ドゥラメンテのすさまじい斬れ脚、レイデオロのロングスパート、福永家悲願のダービー制覇、ロジャーバローズの大掛けで静まり返る競馬場もこの目で見てきた。
それなのに、、、新型コロナウィルスの大流行。競馬場には気軽に行ける状態ではなくなってしまった。
というわけで今年のダービー当日の入場券が当たりました。
競馬の祭典、皆さん楽しみましょうね。
「ディープ産駒で牡馬クラシックを勝った馬は古馬になってGIを勝てない」というジンクスについて検証する。
というか「牡馬クラシック勝利→古馬になってGI勝利」という例がどれだけ少ないかを見ていく。
2000年から2020年までで「牡馬クラシックで勝利したうえで古馬になってGIを勝った馬」は52頭中19頭。
特にダービー馬は、三冠馬たちとメイショウサムソン・ウオッカ・エイシンフラッシュの6頭のみ。
(追記:レイデオロが秋天勝ってるのを失念していた。合計7頭だ)
(追記:1990年代はトウカイテイオーとスペシャルウィークのみ)
早熟でなければクラシックは勝てず、早熟であれば伸び悩むことも多い、ということだろう。
むしろアルアイン・フィエールマン・ワールドプレミア・コントレイルと、
条件に当てはまる馬を4頭も輩出しているディープはよくやっていると言える。
ちなみにサンデーは5頭(ジェニュイン・スペ・マンカフェ・ダメジャ・ディープ)である。
そもそもなぜ「牡馬クラシックで勝利したうえで古馬になってGIを勝った馬」なんて奇妙な条件が設定されたかというと、
ディープ産駒はGIを2勝できない→ジェンティルドンナがGI 7勝
ディープ産駒の牡馬はGIを2勝できない→ミッキーアイルがNHKマイルとマイルCSを勝利
ディープ産駒の牡馬は王道距離のGIを2勝できない→サトノダイヤモンドが菊花賞を勝ってから3歳で有馬記念を勝利
ディープ産駒の牡馬でクラシックGIを勝った馬は古馬になってからGIを勝てない→アルアインが皐月賞と大阪杯を勝利
ディープ産駒の牡馬でクラシックGIを勝った馬は古馬になってから王道GIを2勝できない→フィエールマンが菊花賞を勝ってから天皇賞春を連覇
ディープ産駒の牡馬でダービーを勝った馬は古馬になってからGIを勝てない→コントレイルが三冠達成してからジャパンカップを勝利
こうしてディープ産駒に何とかケチをつけようとして条件を複雑化していったためで、こんなもの最初からイチャモンにすぎないのである。
東京五輪のロゴ騒動もひと段落したので、ロゴタイプ、及びシンボルについて、思うところをまとめてみようと思う。
まずは、形態としての美しさがある。
これについては、もはやシンボルマークにおける美は死んでしまった、と言っても過言ではない。
シンボルマークに求められる美は、単純の美である。円や三角形のような、これ以上削れない、というところまで形態をそぎ落として行った先に、シンボルマークに相応しい美がある。
ところが、世の中にシンボルが溢れた結果、先行して作られたシンボルは商標登録され、後発は同じようなかたちを使えない、もしくは模倣であるというレッテルを貼られる、という事態に陥っている。
東京五輪の事案で、佐野案ロゴをあまり気に入らないとは言いつつも、ほとんどの見識あるデザイナーが「最初から作り直した方が良い」とは言わなかった理由がここにある。
シンボルにおいて、単純であることはそのまま美に直結する。しかしながら、単純であればあるほど他のシンボルと類似しやすくなる。
このジレンマを理解している人であれば、あのような騒動に加担しようとは思わない。
外野ながら事の進展に全く暗澹としたが、あの泥沼の中から凛然と輝く野老案が選ばれたのは奇跡的といえる。
具象性、と言い換えてもいい。要するに、「この図は何を表しているのか」ということである。
これは、難しい。なぜか。
シンボルはあくまでシンボルであり、決して具象絵画やピクトグラムではないからである。
上で述べた通り、シンボルマークにおける美は、抽象化し、単純明快に切り取るところにある。
これは、具象性とは正面から相対するものである。多くの場合、両立は出来ないが、
良識あるデザイナーはここで「何とか両立できないか」と腐心する。
社会の中でどのように利用されていくのか、ということを考えたとき、引き伸ばして使われる場合、ポスターの一部として埋め込まれる場合、
またはエンボス加工される場合、はたまた布地に印刷される場合など、様々な利用シーンを想定して作られている。
小さなものから大きなものまで、どんなシーンでも一定のイメージを伝えられるシンボルマークの面目躍如といったところだろう。
この様々なものに使っても問題のない設計は、経験者でなければ難しい部分がいくつもある。
小さく使って潰れないように。多少滲んでも形態が認識できるように。大きく使ってもエレガントなように。別メディアで展開しても色等の統一に困難がないように…など、
気を遣うポイントが大量にある。ただマークを作って終わりではないのである。
この、美と具象性と社会性の区別がついていない人々によって、佐野案ロゴは引き摺り下ろされたと言っていい。
氏にとってはとんだ災難だったろう。
また、五輪ロゴにとどまらず、騒動の際に氏のデザイン事例を「オリジナルではない」としてやり玉に挙げる記事が多く出回ったが、
それらがオリジナルかどうかと、五輪ロゴの問題とは切り離して考えなくてはならない。
仮に、氏のデザイン表現にオリジナルではないものがあったとしても、大きな問題があるとは思えない。
先に述べたロゴの問題と同様、デザイン表現においても、何かを「これがオリジナルだ」と認めるのは大変難しいのである。
少なくとも、平面におけるデザイン表現には、必ず先行事例がある。
これは先行事例がない、と言える例はきわめて稀で、
多くの場合、「先行事例はない」=「先行した権利者がいない」というだけの話である。
過去、デザイナーたちが李朝の民画や、琳派などに参考事例を求めた一端には、
この「先行した権利者がいない」ところを求めた結果という、泥臭い理由もあったのではないか。
そして、不幸にも「表現における先行した権利者」がいた場合であっても、
両者間で話がついてしまえば、我々外野が声を上げる理由などどこにもない。
本来、ワイドショーで取り上げるような話ではなかったのである。
五輪ロゴ問題が下火になった後、今度は築地の移転先、豊洲市場の問題がワイドショーで取り上げられた。
現在では次第に「既定路線が(現実的には)正だった」という像が明らかになりつつあるが、どうも話の構図が似ている。
共通点は「素人が、ドキュメントも読まずに、素人考えのままちゃぶ台をひっくり返す」というところだ。
これらから得られる教訓は、
1998年から2023年までのデータをもとにした世代別GI勝利数まとめ。ただし2歳3歳限定GI・地方GI・障害GI・海外GIは除く。
なお2000年にジャパンカップダート(チャンピオンズカップ)、2006年にヴィクトリアマイル、2017年に大阪杯が創設されている。
関連:https://web.archive.org/web/20181105153258/http://www.geocities.jp/right009/keiba.generation.htm
先日、妻の妊娠がわかり、そしてつい最近「戌の日」というイベントがあった。
妻の母は海外在住だが、妻の妹の出産のためにちょうど来日していて同行し、
ついでに、私の姉も同行した。私たち夫婦にとっては初めての体験であり、
とてもハッピーだった、と喜んでいた。「ついで」だった姉が一番喜んでいたらしい。
仕事から帰ると妻が「お義母さんに美味しいお菓子もらったの!」と報告してきた。
ダイニングテーブルには「銀座あけぼの」という会社名が記載されたお菓子があった。
*
我が家は給食費をなんとか1か月遅れで払うことができる、平たく言ってしまえば貧乏な過程で、
クラス全員の前で遅滞の事実を伝えられていた小学校時代の私は、
とても悲しく、寂しかった。それをきっかけに、大好きだったスポーツをあきらめたりした。
不幸自慢ではないし、これ自体大して珍しいケースでもないと思うが、
大学卒業まで、もちろんそれ以降も、自分自身で稼いだお金でなんとかした。
(もちろん、五体満足に産んでくれて、健康に育ててくれたからできたことで、
私は私だけの力でなんとかした、などというつもりは毛頭ない)
大学生になった頃から、あることをきっかけに文化的なものへの興味関心が高まった。
アート、ファッション、読書、食。それらはいずれも自分自身にとっては未知の世界で、
子どもの頃には美術館に行ったこともなければ、服について深く考えたこともなく、
小説は学校の読書感想文のために読んだくらいで、食はお腹が膨れればいいのだ、という
人間だった私の知的好奇心を大いに刺激した。結果として、そういうものを扱う仕事に就いている。
コム・デ・ギャルソンを身に付ける発想もなかった。
*
こういう言い方は失礼かもしれないが、私の中では「普通」であり「チェーン」の和菓子屋である。
どこにでもある、と言ったら言い過ぎかもしれないが、その平凡なロゴタイプへの既視感は、
きっと今まで何度か口にしているのだろうと思う。意識こそないものの。
自分自身がそういう場所に行くとしたらそのチョイスはしないだろう、と思う。
どんなに時間がなくてもチェーンの店舗は避け、自分自身の手土産リストから厳選し、
3日前くらいには予約しないといけないそういうものを持って行くんだろうな、と思う。
でも、私の母には、今の私に少なからず身についていると思われる「文化的な何か」はないのだ。
関東の片田舎でスーパーと家との往復を基本に、たまに地域の卓球クラブに通ったり、
あとは、地元駅の駅近くにある喫茶店で知人とお茶をしているくらいの人間だ。
都内に来ること自体が非常にレアケースであり、親切な方にとってもらった集合写真には、
見たことのないような格好、それは必ずしも素敵とは言えないのかもしれないが、
精一杯妻を応援し、祝福し、喜ばせよう、という意図が感じられた。
そんな母が「銀座あけぼの」に赴き、このお菓子を買ったんだと思うと、泣けた。
おいしいかどうかなんてこの際どうでもいいのだ。
自身の息子の妻を喜ばせるために、彼女なりに考えを尽くして出した結論が「銀座あけぼの」であり、
私はそれにいたく感銘を受けた。それでいいのだ、と。
*
私は文化的なものが好きだ。それと同じくらい、必ずしも文化的ではない母のことが大好きだ。
出来る限り長生きしてほしいと心から思うし、無理の無い範囲で彼女が見たことのないような、
味わったことのないような、感じたことのないようなものをひとつでも多く手渡してあげたいと思う。
「恥ずかしい」「味もわからないのにもったいない」毎年の誕生日にそう言われながらも
すっかり細くなった手を引っ張って色々なところを連れ回しているのは、単なる私のエゴなのかもしれない。
ただ、翌日届く質素なお礼メールには、私と母の間にしか通じ合わないであろうさまざまな感情が盛り込まれている。
あと何回そういうことができるかわからないけど、できる限りのことをしようと思う。