はてなキーワード: 尊敬語とは
○○坂の新メンバーを披露するときに使ってるけど、なんか気持ち悪い。
「御披露目」じゃ駄目なの?
https://www.weblio.jp/content/amp/%25E3%2581%258A%25E8%25A6%258B%25E7%25AB%258B%25E3%2581%25A6
お‐みたて【御見立】
〔名〕 (「お」は接頭語)
① 見て選び定めることをいう尊敬語。
*雪中梅(1886)〈末広鉄腸〉下「己れもお前の内で二三度深谷に逢ったことがあるが、兄さんの御見立は些と間違て居る様で」
② 近世、遊里で客が相方(あいかた)としての遊女を選ぶこと。
*洒落本・南閨雑話(1773)「『御初会だ』『どふせふの』『お見たてが能ふ、ござりませふ』」
③ ある所まで見送って別れの杯をくみ交わすこと。
https://togetter.com/li/1844786
この記事のブコメを一通り読んでなんとなくわかったんだけど、「でしょ」のイメージについては東西の認識ってそんなに異なってはいないんじゃない?
元のtogetterには「でしょう」すらタメ口と言っている人もいたけど、ブコメでは少なくとも「でしょう」は丁寧語という意見が並んでおり、それに対する反論も特にない。
これについて意見の相違はないと見える。
注目したいのが、「でしょ」を丁寧語と言っている人でも、「くだけている」ことは認めているということだ。
つまり、「でしょは丁寧語派」の中では、「くだけた丁寧語」という概念が成立している。
一方で、「でしょはタメ口派」は、くだけたら丁寧語ではないという前提が暗に陽に存在している。
これらを見るに、「でしょう」の省略である「でしょ」は、「くだけているだけで丁寧語の範疇である」VS「丁寧な言い方でないので、丁寧語ではない」の戦いといえる。
おそらく「でしょ」という表現は文法的に丁寧語にあたることと、丁寧ではないことを同時に満たしているのだろう。
ただ、肝心のその「でしょ」の中身について、両者はそれほど異なったイメージを持っていないのでは?と感じる。
だとすれば割れているのはむしろ「丁寧語」の定義のほうではないのか。
敬語には「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3種があると言われている。
ゆえに「でしょ」がもし「くだけた丁寧語」と認められるのであれば、「くだけた敬語」であるということになり。「敬語である」と言える。
これに加えてさらに「タメ口」を「敬語ではないこと」と定義するならば、でしょはタメ口ではないということになる。
しかしブコメでは、タメ口と敬語には重なりがある(タメ口かつ敬語である表現が存在する)という受け入れ方をしている人が多いように見えた。
それが「でしょ」や「あざす」なのだろう。だとすると「でしょは敬語」「でしょはタメ口」は同時に成立しうる。
自分は今大阪に住んでいるが、大阪では「ちょうどよい敬語を使うべき」という文化があると感じている。
尊敬の度合いが低すぎるともちろんいけないが、高すぎても、「なんでそんなに恐縮してんの?」「ちょっと固すぎ」みたいな苦言を頂戴する。
したがって相手との関係性によって「でしょ」「あざす」のような「くだけた丁寧語」表現を必要不可欠としているところがあると思う。
他の地域にもそういった文化があるのかどうなのかがわからないのだが、これに関係して一つ思いつくのは、東京の人のいう「同期」という考え方に自分は非常に違和感がある。
「同期なのに、なんで敬語?タメ語使ってよ!」みたいな。初対面なのにね。
それなのに、ほんのわずかに先輩後輩という間柄になった途端に、togetterの元ツイの先輩のように、きっぱり上下関係の話し方をしないと許せなかったりするわけだ。まるで線を引くように。
何が難しいかって
丁寧語・尊敬語がろくに使えてなくて、それを自覚してるから会話に集中できない。「これ敬語でなんて言うの?」って。たまにタメ口がポロっと出る。最悪。めちゃくちゃ恥ずかしい。
周囲にいるのが10も20も離れた年上の人ばかりだから、尚更恥ずかしい。
固い職場かって言われたら違う。でも最低限の基本もなってないようなままだと本当に恥ずかしいので直したい。
なるべく人が使ってる言葉遣いを聞いて自分のを正したりしてるけど、染み付いた話し方ってなかなか変えるのが難しい。
内容は業務について・天気の話・食べ物の話・話題のニュースくらい。引き出しが少ないから「暑いですね〜」「今日忙しかったですね〜」くらいしかできず、話題を提供するよりは相槌打ってるだけだけど。
その相槌すら難しくてなんかずっと「そうなんですか〜」「そうですよね〜」なんて風にバリエーションがない。酷い。
ということでみなさん、
「申す」の未然形「申さ」+尊敬ほかの助動詞「られる」が付いた「申される」は、現在は謙譲語と尊敬語の混用とされて、明確に(辞書的な意味で)誤りです。
しかし、「申す」は「言う」の丁寧語でもあった時代がありました。というか、そうであった時代の方が、謙譲語一択になった時代よりもよほど長いのです。
例えば、「平家物語」の巻一・鹿谷には「新大納言成親(なりちか)の卿もひらに申されけり」(新大納言成親卿も(欠員の左大将の職を)ひたすら(ご所望なさると)おっしゃられた)とあります。
その他にも用例は多々あり、つまり、中古・中世・近世を通じて、「申さる」は「アリ」な使い方だったのです。
近代になって、明治期の標準語政策が始まると、「日本語の統括的な文法」というものが必要になってきました。ここで初めて敬語には三つのカテゴリ(言うまでもなく尊敬・謙譲・丁寧ですね)があると定められ、「申す」は謙譲語であるとされたのです。
ことここに至って「申される」は規範文法的には誤りだということになり、戦後教育では教科書にも明記されるようになり、現代に至ります。
ですから、現在でも60代以上の方には、この言い方に違和感のない方も多いのです。数年前の「国語世論調査」で、「『申される』という“誤った”敬語を使っている人は高齢者層に多い」というリポートがありましたが
それはそうで、彼らの感覚にしてみればアトヅケで「間違ってる」と定められた使い方なのですね。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1496376054
だってよ
それはそのとおりですね。目上に対する尊敬語のつもりで書いてるつもりはないと言いたかっただけで、これに関しては私が間違っていました。
尊敬語の俺も入れないのか...
まず最初に問いたい。
最後に改めてもう一度聞く。
その時までこの言葉は忘れていてくれていいよ。
覚えててもいい。
俺の生まれた場所は東京から1000kmぐらい離れた場所にある。
日本という国において「標準語」ってのは「関東で生まれた標準語」を指す。
この感覚が関東の人は分からないっていうんだけど、本当にそうなんだ。
たとえば関東の中にだって、埼玉や千葉でしか使われていない言葉があって、それが標準語の喋り方に組み込まれている、らしい。
これは東京の知り合いに聞いたことであって、もしかしたら俺が詳しくないだけかも。
東京弁みたいのがあってそこから外れているだけなのかも知れない。
まあとにかく、この国では「いまどきの東京弁」≒「標準語」なわけだよ。
まあ結局の所、一番強い力を持った方言が日本を支配してるだけ。
俺はそう思っている。
その「東京の標準語」が堪能じゃない人がいたとして、その人は君たちのいう「日本語が通じない」に入るのかな?
そこが気になってしょうがない。
さっきそれぞれの地域にそれぞれの標準語があると言ったけど、これが本当に厄介なんだ。
本当に、すっごく微妙にだけども違うんだ。
99.9%一致してるけど1000回に1回飛び出してくる僅かな違い。
それが時に混乱を生む。
こっちが尊敬語として使った言葉を、別の地方から来た人はぶっきらぼうなタメ口だと勘違いしたりする。
お互いが大人だからその場では何も言わないけど、あとになってからそのことについて苛立っていたと告げられて驚く。
その逆だってある。
自分なんかは、嫌なことは忘れるのがQoLだと思っているのですぐ忘れるけど。
そういうものだと割り切って使えばいいとお互いが考えてればいいけど、そうじゃないと僅かな誤差から喧嘩になったりするのがキツい。
そもそも論として、みんな言葉なんて曖昧なものに完璧を求めすぎている。
たとえば、「汚名挽回」、とか。
「汚名挽回」と「汚名返上」と「名誉挽回」はどれも同じ意味だ。
そう決まっている。
でも、「汚名挽回」って言葉に対して、「汚名返上」と「名誉挽回」が混ざったようなイメージがある。
だから「間違えている気がするので、間違えているということにする」。
他人の揚げ足を取りたくしょうがなくて、苛々することが大好きな人達が。
そうして実に気持ちよさそうに「日本語が間違っている」「日本語が通じない」と口にしたがる。
ああ駄目だ。
嫌な思い出に振り回されてルサンチマンの塊になってきた。
これだけ書けば十分だな。
改めて聞くぜ。
覚えていてくれた人、ありがとう。
本当に、本当に、不安なんだ。