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2018-07-26

壊れそうなものばかり集めてしま世代は今何歳?

壊れそうなものばかり集めてしまう輝きは飾りじゃないガラス10代は1968年まれ1977年まれ

まり41歳〜50歳

 

マジか・・・

 

壊れそうなものばかり集めてしまうよ〜

輝きは飾りじゃないガラス40代〜♪

2018-07-08

70年代80年代90年代00年代 オカルトブーム年表

年代事象備考
60年代妖怪ブーム1968年からアニメゲゲゲの鬼太郎』開始)
ムー大陸1968年に『失われたムー大陸』が翻訳出版
ヒッピームーブメント
1970年ヒバゴン広島県比婆郡で目撃された猿人
1975年に終息宣言
1972年クッシー屈斜路湖で目撃された巨大生物
ネッシーに倣って命名
1973年書籍ノストラダムスの大予言五島勉
1973年小説日本沈没小松左京
終末ブーム
1973年UFOブーム矢追純一
70年代末まで
1973年漫画恐怖新聞つのだじろう
1975年まで連載
1973年漫画『うしろ百太郎つのだじろう
1976年まで連載
1973年テレビドラマ『すべって転んで』田辺聖子
ツチノコブーム
1973年漫画『幻の怪蛇バチヘビ』矢口高雄
ツチノコブーム
1974年映画エクソシスト
1974年ユリ・ゲラー来日矢追純一
超能力ブーム
超能力少年
1974年書籍『狐狗狸さんの秘密中岡俊哉
コックリさんブーム
1974年書籍『恐怖の心霊写真集』中岡俊哉
心霊写真・地縛霊
1976年オリバー君来日人間チンパンジー中間存在と称する
1977年ニューネッシー漁船に引き上げられた謎の生物の死骸
ウバザメとされる
1978年映画未知との遭遇
1978年書籍ピラミッド・パワー中岡俊哉
もともと世界的なブーム
1978年テレビ番組川口浩探検隊シリーズUMAなどを探索する
1985年まで放送
1979年口裂け女都市伝説
1979年雑誌ムー』創刊
1982年映画E.T.
1982年ミステリーサークル80年代話題
1990年には日本でも出現
91年にはいたずらと判明
1983年前世ブーム1983年 映画幻魔大戦
1986年 漫画ぼくの地球を守って
1984年統一教会霊感商法批判文藝春秋朝日ジャーナルなど
1985年書籍運命を読む六星占術入門』細木数子
1985年宜保愛子霊能者
80年代後半から90年代初頭
1993年大槻義彦などから批判
1985年小説帝都物語荒俣宏
1986年新興宗教幸福の科学設立
1987年新興宗教オウム真理教設立前身ヨガ教室1984年から
1987年ゲーム女神転生ナムコアトラス
1987年書籍大霊界 死んだらどうなる』丹波哲郎
1989年ツチノコ共和国建国奈良県吉野郡下北山村
1989年人面犬都市伝説
1989年Mr.マリック超能力者風の演出バッシングを受ける
1990年漫画MMR マガジンミステリー調査班』石垣ゆうき
1999年まで連載
1990年テレビドラマ世にも奇妙な物語
1990年小説学校の怪談常光徹
学校の怪談ブーム
1995年映画化など
1991年チャネリング」が流行語大賞特別賞を受賞受賞者は『幸福の科学』の大川隆法
1992年と学会設立トンデモ本世界』発売は1995年
1993年書籍『理性のゆらぎ』青山圭秀
霊能者サイババ
1993年漫画地獄先生ぬ~べ~原作真倉翔
作画岡野剛
1999年まで連載
1994年海外ドラマX-ファイル
1995年地下鉄サリン事件
1995年アニメ新世紀エヴァンゲリオン
1996年書籍神々の指紋グラハム・ハンコック
超古代文明
1997年テレビ番組奇跡体験!アンビリーバボー一時期、心霊特集を組んでいた
1998年ビートたけしのTVタックル超常現象スペシャル大槻義彦
1998年映画『リング』
1999年ノストラダムス予言した年
1999年ライフスペースミイラ遺体事件
1999年法の華詐欺事件
2000年2ちゃんねる洒落怖スレ2003年 くねくね
2008年 八尺様
2001年テレビ番組『USO!?ジャパン2003年まで放送
2003年映画呪怨
2003年小説ダ・ヴィンチ・コードダン・ブラウン
2003年パナウェーブ研究所
2004年テレビ番組ズバリ言うわよ!細木数子
2008年まで放送
2005年テレビ番組オーラの泉スピリチュアルブーム
美輪明宏江原啓之
2009年まで放送
2006年書籍ハローバイバイ関暁夫都市伝説信じるか信じないかはあなた次第
2010年パワースポットブーム
2012年マヤ暦にもとづく人類滅亡予言
2013年ゲーム妖怪ウォッチ』


最近オカルトブームを振り返る人が多いけど、あまりに言っていることがあやふやなので、とりあえず調べられるだけ調べてみた。

しかし、こういうのはオウム記憶も朧げな俺よりも、当時のことを知ってる奴がきちんとまとめるべきだと思うんだよな。

2018-04-27

いまだにお茶は女が入れるのが当たり前、な世界に取り残されている哀れなおばさんたち

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1221958

「当初のネーミングは男尊女卑コンテキストを反映していた」「社会情勢が変わった結果、イメージチェンジを試み成功した」「その結果、男尊女卑コンテキスト払拭できた」成功だってまとめ内で引用されてる。

のに対して、トップブコメ文章を読めないマジキチさんたちに埋め尽くされ、地獄様相と化している。

・縁側のおじいちゃんが台所のおばあちゃん用事を言いつけているんだろ。そういうイメージCMも流してたろ伊藤園過去を胡麻かすな。

・昔のcm見ればわかるだろ。今なら男尊女卑のものだよ

1968年当時の常識が今の我々にとって不都合からといって歴史修正主義者になってはいけないと思うんだがね。問題ないのなら伊藤園が当時のCMを公開しないのは何故だ?

・昔は「おい」といえばお茶が出てくる時代もあった。寺内貫太郎一家とか見ろ。(見たこと無いけど) / さては歴史修正主義者だなオメー

・そうか、オリジナルCMすら知らない世代が増えたってことか、時代を感じるなぁ……。

そのCMも知ってるけど、この人たちバカなの? 歴史修正主義? はぁ?頭おかしいの?

今のCMを見てないのだろうか?

現代から見たら当時差別的意識だったということと、時代の変遷に合わせてイメージを変えてきたってのはこれっぽっちも矛盾しない。

歴史修正主義はじっさいにあったことをなかったことにすることだが、別に伊藤園それを否定してるわけじゃないじゃん。 ちょっとは考えてからしゃべれよおばさん。

最近の人たちが「おーいお茶」は男尊女卑だといわれてもピンとこない、というのはむしろ健全な話だし伊藤園が、男尊女卑的なイメージから脱却しようと努力した結果だと考えられないのかね。

おばさんたちみたいにいつまでもすぎたことをぐちぐち言ってる人たちより伊藤園の人たちのほうが100倍立派だ。

・これ、イメージチェンジしたんだよね。昔はお父さんが嫁に呼びかける言葉だったけど、今は女優さんとか使ってツイ主さんのようなイメージにしたんだよね。

・かつてそういうニュアンスはあっただろうけど、いまさらそれを言い立てる人は価値観の変化というものネガティブと考えてしまうな

・元々は男が女に呼びかける男尊女卑的な名前だったが、方向転換してお茶畑や複数人に呼びかけるイメージになった って書いてるじゃん※ちゃんと内容読めよ

・こんなことまで取り上げないといけないくら日本には男尊女卑が無いってことですかー!?

過去はそうだったのだろうけど、むしろ今のCMはほぼ女性に言わせてて男尊女卑香りを消してる。イメージチェンジ成功したいい例じゃないか過去過去。今は今だ。



歴史修正主義者になってはいけないと思うんだがね。問題ないのなら伊藤園が当時のCMを公開しないのは何故だ? 」ってドヤ顔コメントしてるおばさんの陰謀論に対してはきっちり回答も出ている。

CMを含む広告制作物は基本的に1年契約とかなので、期間が過ぎたもの広告主でもwebsiteなどで勝手配信することはできません。

どや顔でいったのに自分無知晒すだけになっちゃったコメントの人、いまどんな気持ち?ねえいまどんな気持ち



人気のコメントに★つけてるやつら見てみたら、まぁいつものメンツが並んでる。

honehone9 junglejunglewhite_rosekuroi122tomoneryusuke-kBizmyuBizmyuBizmyukkrsnsnWaspkissingaaa_too_zzznomitorihoneybeuunfoo120fEternaldoomjpthnnPolyhymniazoomsweepsaikorohausudeneb-yBaraksatoru3dhadakadenkyuaquatofonaSISAO-Fbr0929goturuqwertonnewminddoscoy_tyonodoforeharisenbon_fukurahagiharisenbon_fukurahagiharisenbon_fukurahagijinakirakiku-chansand_landnickpoet55yukimi1977shinonomenKassy8107kalmalogytambomaruXLat

このおばさんがたは、みんな40過ぎなのだろうが、いい年をして未だに感覚アップデートできないらしい。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1804745.html

http://suminotiger.hatenadiary.jp/entry/2014/08/07/112306

彼らの中では「差別」ではなくて「分業」でしかなかったのかなと眺めていて思います。悪いことをしている意識は全く感じないんですね。自分自分役割果たしているからそっちはそちら側の仕事でしょ、という感じ。

でもそれは差別ですよ、不当な扱いですよ、間違っていたんですよ、というのが現代に至るまでにじわりじわりと浸透していった結果が、今なのかなと思っています

一連の流れを見ていて見えてきたのは、

確実に男尊女卑ととらえる人は減っているのだということ、

お茶女性が煎れるものだと当然のように思っている人は絶滅に近づいているのだということ。

時代がいい方向に変化してきているのにたいして、上のコメントスターをつけている人は、いまだにお茶は女が入れるもの、が当たり前の世界にいるのだろう。かわいそうに。

あるいは、自分たちの時代はこんなに女が虐げられてたのに、いつの間にか意識もせずに男尊女卑がなくなってる現代女性に対する嫉妬だろうか。だとしたらみっともない。

どっちでも哀れなことだ。

2018-04-16

安室透は『テオレマ』である

ゼロ執行人」を観てきた。

思いついたことを書き殴ります

前提

劇場版ネタバレが含まれます。 

・多分な妄想偏見を含みます

・私はコナンマニアというわけではなく、小さい頃TVアニメを観ていたり、思い立ったら新刊を買ったり本誌を読んだり、金ローや年イチの映画を観る程度の知識です。

はじめに~各者の「彼」への認識

我々読者は、公安警察官・降谷零がトリプルフェイスを持つことを知っている。

  1. 警察庁警備局警備企画所属警察官・降谷零(本名および本職)
  2. 黒の組織メンバーバーボン(潜入先におけるコードネーム
  3. 毛利小五郎弟子かつ探偵であり喫茶ポアロ」のウェイター・安室


では、作中のキャラクターは、彼をどう認識しているだろうか。

安室透=降谷零=バーボンと知っている、つまり読者と同じ視点人間は主要人物に限られている。

大多数、つまりモブは、「彼のなりきるキャラクター」にしか知らないのではないのだろうか。

「降谷零」は、幼くは零くん・ゼロと呼ばれ、公安警察として働く生身の人間

バーボン」は、潜入捜査の命を与えられた、降谷零の別の顔。

では「安室透」は?

バーボンと同じく潜入捜査のための身分であるが、一般社会に溶け込んでいるという点で、異質である

任務の一環として」サンドイッチを作り、笑顔を貼り付け、店の前を掃き、コストコらしき店へ行き、そしてJKを魅了してしまう。

そこにいるのは「造られた、空虚存在である

バーボンのほうが、なまじ目的組織内の身分明確化されているために、よっぽど解りやす存在である

安室透」の空虚さへの既視感

彼はある時突然米花町へやってきて居付き、仕事をし交流を持ち、周囲に慕われている。

いつか「安室透」としての彼はいなくなるはずだが、彼を「私立探偵でウエイター安室さん」だと思っている人々は、そんなことは知る由もない。

この状況と似た映画がある。

1968年イタリア映画パゾリーニ監督の『テオレマ』である

ミラノ郊外に住む、工場経営者であるブルジョワ家庭(主人、妻、娘、息子、家政婦)に一人の男が姿を現わし、なぜか男と一家との共同生活が始まる。

そのうち家族全員は男の謎めいた魅力の虜となってゆくが、男が家族の前から立ち去ると、残された家族は奇妙な行動を取り始め、家庭は崩壊してゆく。

テオレマ - Wikipediaより



作中で「男」が何者かは一切語られない。

この物語、まさに「安室透の別の顔を知らぬ者」、米花町の人々の視点である

この視点人物は、梓さんかもしれない。安室透を慕うJKかもしれない。マスターかも知れないし、ピンチを助けてもらっている少年探偵団かも知れない。

周囲の人物に、「素敵でかっこいいお兄さん」として振る舞い、優しく触れて期待させていったあげく、忽然と姿を消すのである

安室透」と「江戸川コナン」の関係

ここまで「安室透」について述べてきたが、彼の空虚さと取り巻く関係は、そのままある少年に当てはまる。

主人公江戸川コナンである

しろ毛利家に深く関わり、数々の困難を共にするうちに断ちがたい絆を得ているという点では、コナンのほうがよっぽど『テオレマ』らしい。

コナンを失った少年探偵団はどうなる?毛利家は?園子は?蘭は?

高木刑事や目暮警部も、耐え難い喪失感に襲われるのではないのではないだろうか。

コナンも造られた存在である。異なるのは、安室透は任務のためであり、コナンは元に戻る方法を探るためであるという点。

目的を持って、仮の身分を演じている。

今後、米花町の残された人々はどうなるのか

私が興味深く感じるのは、いわゆるモブの今後である

そこにポアロウエイトレス安室透の同僚、梓さんを加えてもいい。

まり蚊帳の外」がどう感じるのか、ということである

青山先生は、主要人物の心がうまくまとまっていく様子はきっと描いてくれるだろう。

ただ、数え切れないほどの事件で登場した人々の心情の機微までは描かれないはずである

【参考:コナン事件の数】

2日に一度は殺人事件!?『名探偵コナン』のコナンは、あまりにも事件に遭遇しすぎではないか? | ダ・ヴィンチニュース

「『眠りの小五郎』さんと一緒にいた坊や、どうしているかしら…」「どうやら、行方不明みたいです」

こんな会話が交わされているかもしれない。そして、入れ替わりに新一が戻ってくるわけである

果たして、皆が「コナン」に感じていた魅力を「新一」が埋められるのだろうか。

安室透」に至っては、かけがえのない魅力を持った青年が忽然と消えるわけだからポジションを埋められる人間存在しない。

彼に憧れを抱いていた人間は、永遠に彼の幻影を追い続けるわけである

そこには、崩壊が待っているのかもしれない。

少なくとも、灰原を含め3人が確実にいなくなることが決まっている米花町は、異常な街なのである

おわりに~なぜ「ゼロ執行人」を観て『テオレマ』を思い出したのか~

新一への伝書鳩…という役目もあろうが、新一は声以外登場しない。コナンが頼られている。そして、安室透は自然生活をしながら、「自分恋人」を護る。

新一が元に戻っていれば?安室透がただの公安警察のひとりとして、警備任務につくだけだったら?生まれ得ないシナリオだった。

この映画で描かれた人間模様はすべて嘘の上に成り立っている。

「いつか壊れる日常」だと改めて認識させられた。待っているのは『テオレマ』のような結末ではないかと感じたのだ。

そして、二人のコンビネーション

一般的には、「正義か、真実か。」コナン安室透の対比と対決と共闘が、テーマであり見所とされていたが…。

共通した「造られた存在」を生きるもの。周りを偽る空虚存在。そして周りを虜にする存在

目的が終わればこの姿を捨てるが、その目的は限られた人間しか知らないため、周りを切り捨てるしかない運命

そんなもの共通しているからこそ、分かり合えたものがあったのではないかと考えた。

そんな感情のぶつかり合いが、エピソード緋色真相」での

ウソつき…」

「君に言われたくはないさ…」

セリフに集約されているのではないだろうか。

おわりに

勝手に感じたあむあず(安室透×榎本梓)みについて語って締めくくりたい。

「卵と小麦粉お願いね!」

「梓さんはいいお嫁さんになりますね」



テキパキした手際にそう感じたのかもしれないが、実に唐突な会話である

世辞を言うべき相手でもない。

本音ポロリと出た場面だと解釈すべきであろう。

普段の接し方を見ていても、どちらかの不毛片想い…という感じでもなく、平等に良好な関係を築いているようである

梓さんも、前述のセリフに照れるでもなく、風評被害を恐れて警戒するのみであった。

「降谷零」として、梓さんに好意があるかもしれない。

安室透」によって抑えられているから、あの程度の露見で済んでいるのだ。

「降谷零」は、装わないといけない人間なのだ

そんなふうに感じられた。

若い男女が親しく働いているのだから、そんな関係になる機会もあるかもしれない。

けれども、梓さんが「降谷零」を知る日は来るのだろうか。

「僕の恋人は…この国さ!」と言い切っていた。

【僕】とは、誰のことだったのだろうか。バーボンではなかろう。降谷零として、そのままの意味で言ったのであろうか。

安室透」としては、“恋人”を作るわけにはいかなかったのであろうか。

僕の日本。僕の恋人。どことなく、右翼的ではない。

ひとつひとつを愛せないから、まるごと愛するしかない不器用さと取るのは、曲解になるだろうか。

一人の女をだめにした 一人の男の日暮れ時

日本せまいぞ ラリパッパ タンタラリヤ ラリパッパ

長谷川きよし「心ノ中ノ日本



この歌詞のように、和製『テオレマ』的別れを与え、「安室透」は消えていくのかもしれない。

二人の間にこんなしこりが残るのは、哀しいようで、官能的でもある。






※この散文はフィクションです。オチはありません。随時編集するかもです。

2018-01-11

昭和ヤンキー文化はいかにして引き継がれるのか?

不思議不思議しょうがない。

成人式ニュースを見るたびに、昭和ヤンキーが登場してくるのだ。

もう2018年1968年じゃないぞ。

インターネットがここまで普及すればどんなに田舎で生まれ育ったって、時代錯誤なことがわかるだろう。

100人が見れば99.99人はダサすぎて死ねるって思うレベルだ。

そこで仮説を立ててみた。

いじめられっ子ヤンキーの格好を無理やりさせられている

これはなかなか有力だと思ったが、嫌がっているように見えない。。。なぜだ??

貧乏家出身で家にテレビネットもない

これは幾分可能性がある。情報が完全に遮断されているのだ。貧乏な家庭しか築けない、つまり親は低知能なDQN可能性が極めて高い。

知的障害である

DQNであるということは、差別的発言になって申し訳ないが、これは一種の重度な知的障害であり、結果一般人には理解できない。

他にも可能性があるなら意見を聞いてみたい。

2017-11-04

ネタばれブレードランナー2049の感想とアラ探し

すっかりおっさんになってしまい、映画の出来・不出来を語り合う友人も周りにいないので、ネットに書いてみることにした。

ネタばれ多数。未見の人、傑作だと思っている人は読まない方がいい

結論簡単にまとめると、映画的に正当な続編になっていても、あの時代設定のSF的な延長になっていないと思った。「メッセージ」は傑作だと思ったんだけどなー。

ブレードランナー(第1作)

自分ブレードランナーを見たのは、初回公開時の16歳のころ。名古屋で「燃えよドラゴン」と2本立てだった。

当時、ブレードランナーには2つの画期的な点があったと思う。

ひとつは、地続きの未来バラ色じゃないというビジョンを、明確に具体化したこと。

それまでの地続きの未来イメージは、2001年宇宙の旅(1968年公開)とか2300年未来への旅(1976年公開)とかに描かれた、ピカピカのスゴイ科学世界だった。

2300年未来への旅ディストピア映画だけれど、誰も見たことがない輝かしい世界を描くとき、ピカピカに描くのが当時は当たり前だった。

それに対して、文明が衰退した未来を描く映画SF小説は、あくま核戦争でという分断された未来位置付けられていた(地球燃え尽きる日:1976年公開、マッドマックス21981年公開)。

スターウォーズ(1977)やエイリアン(1979)で描かれ始めたように、スゴイ世界なのに汚い・ポンコツ世界が地続きで存在しているという、(当時にしては)画期的ビジョンブレードランナーで完成した。

ブレードランナー未来が暗い理由は、原作小説とは違い環境破壊のせいだった。いつも酸性雨が降っているという地球温暖化を先取りしたような設定。

そのために、人類の多くが宇宙移住して、それでも残っている人々は人口過密の大都会で生き延びている。

自然破壊が進んで本物の動物ほとんど死に絶えていて、映画で登場する動物ほとんど全てレプリカントという世界だったんだよ。

もうひとつインパクトが強かったのは、レプリカント(ネクサス6型)の設定。人間よりも肉体的にも頭脳的にも優れているけれど、感情移入能力が著しく低いというあたり。

コミュニケーション能力問題を持ち、常日頃から疎外感を感じている世界中オタク琴線を捉えたんだと思う。

ただし、ディガードがレプリカントではないか、なんてネタディレクターズカットあたりが公開されるまで考えてもみなかった。

で、ブレードランナー2049がどうなっていたかというと

大目
「あ、続編なんだな」と感じさせる作りになっているのは良いんだけれど、それがホウボウありすぎてなんだかナーという印象。
イモムシ
食料不足の解消のために、太陽光発電で大量のイモムシ(プロテイン)を育てている・・・しかに、映画的なインパクトはあるけれど、それは絶滅してないの? と真っ先に思ってしまった。エサはどうするのとか。せめて、ミドリムシのほうが良くないか太陽光発電はエサになるのか。
停電(Blackout)
前作からストーリを分断する仕掛けにしか見えないので、個人的には興ざめ。
ネクサス
作られたのは、大停電の直前?ってことだよね。ネクサス6で設けた短寿命のというセキュリティ制限を外したの? 頭が悪すぎる。そして彼らが、レイチェル出産に立ち会ったのだとすると、デッカードたちの逃亡から後だよね。第1作の当時は、ネクサス7が試作段階でネクサス8はリリースされていないんだから(2022年らしい。あれ、出産2021年6月10日では?)。
ジョイ
あなた特別」なんてセリフ、全てのお客につぶやいているだろ。Kも、それを真に受けるなよ。当然、みんなレプリカントプロジェクションマッピングして性交に使っているんだろ。あんなにカワイイ献身的AIがいたら幸せじゃん。すでに、現代においても「俺の嫁」とか言っている奴がいっぱいいるんだから、Kが孤独感を感じている気がしない。
Kの自宅の前の浮浪者
30年たっても、まだ浮浪者あんなにたくさん生き残っていけるのはどんな社会だ。公共事業は、レプリカント一部の人間が引き受けていて、オフワールドには行けないけれど、ベーシックインカムとか実現されて人間であれば死なずに生きていけるということか。天国じゃないか
マダム
なんで地球に残っているの。オフワールドに行けばいいのに。いったい、どんな秩序を守っているのさ。前作の警察署長は、もっとやる気のないデブで、やるせなさがあったのに。今回は、美人でやる気ありすぎ。
レプリカントの性欲
なんのために、そんな機能がついているの?生殖能力もないのに。他の性的サービス担当レプリカントとやる必要があるの?
スキンジョブ
自分レプリカントと気付いているなら、たとえ共感能力があっても、罵倒も気にならないようにしてあるのでは?人間の側も、本当にレプリカントを嫌っているなら、時計仕掛けのオレンジのような、もっとひどい事するだろ。
ラブ
なんで、ばんばんしまくるの。自分と同じ顔をしたレプリカントが虐げられるのをみて、あんたが一番動揺するんじゃないのかね。
ラブの命令を受ける娼婦
なんで、あんたが寄りによって、ラブの命令を受けるの?
スクラップ
衰退している地球で、どこからあんなに大量に回収してくるの?
孤児たち
なんで、そんなに大量の子供がいるの? あんな軽作業は、頭の悪いレプリカントを作ってやらせろよ。
デッカード
誰に何を教え込んだの? 自分の子供ではないよね(出産には立ち会わず立ち去っているから)。
木馬
出産に立ち会っていないなら、デッカードは、いつ渡したの?
核爆発
前作からストーリーを分断するために、安易採用されている気がするんだよな。チェルノブイリ(1986)とフクシマ(2011)を経て、メルトダウンが実際に起きた地続きの未来に生きている我々にとって、その程度で困る気がしない。
成長するレプリカント
Kは、成長するレプリカントだったってこと? それ自体奇跡なのでは。そんなすごいもの、誰がどこで作ったのか。ネクサス8が自分たちで用意したのか。すでに革命成功しているのでは?
レイチェルの復活
そんなに驚くネタかなー。だってレプリカントなんだから、同じ型からいくらでも再現できるでしょ。それは、愛情を注ぐ同じ対象のはずがない。大量生産された製品を見て、同じ製品ができてきたからって動揺するか? ウォレスも、そのくらい気づけよ。あのVFXがすごいというネタも見かけるけれど、そっくりさんをもう一度出すなんて、そんなに難しいかそもそもスタイリッシュ記号的な意匠だし、映画館で直接見比べているわけではないんだからターミネータでもやってたじゃん。映画的にもオーバースペック
前作の引用
多すぎるし。ネットの評判をつらつら眺めると、それに言及している(というかそれにしか言及していない)のが多いけど、そのせいでストーリ破綻しているんじゃないか
そもそも
なんで、あんなに特別レプリカントが2体も、LAPDに配置されているのサ?

結局のところ

ビジュアル的には、現代の当たり前をひっくり返しているところがまるでなく、前作のインパクトに及ばない。

そして前作では、人間であるかないか関係なく、自分生命にジタバタすること自体が生きること、だったはずなのに。

今作では、誰かのため、大義のために生きて死んでのが人間という話になっていて・・・それって、非人間的な重労働を強いられるレプリカント存在のものじゃん。

メッセージ矮小化しているだろ。

2017-07-31

オリンピック都市開催だぞ

オリンピックは国ではなく、都市主催する行事だ。そこを勘違いしている人が多すぎる。

そういう点で、東京都というのは微妙だ。

1940年に開催されるはずだった東京大会は、東京府東京市開催都市だったが、

1964年大会ではすでに東京市消滅していたので、東京都が開催「都市」扱いだったが本来趣旨からは外れているだろう。

それに対して、ワールドカップは国単位で行われる。サッカーロシア大会がまもなく開かれる。

しかし、1980年オリンピックソビエト連邦大会ではなく、モスクワ大会だし、1972年ミュンヘン大会西ドイツ大会ではない。

そう、ミュンヘン大会では選手村テロ集団に襲撃されるという悲劇があった。

念のため付け加えておくが、1968年メキシコ大会メキシコシティーメキシコ市で行われたか国名ではない。

最近オールジャパンで」という紋切り型常套句を耳にするが、一都市行事勝手国家レベル行事格上げするのは勘違いもはなはだしい。

たかだかオールウキョウで」くらいの遠慮が必要だ。

ちなみに、ワールドカップではなぜかイギリスイングランドウェールズスコットランド北アイルランドが別々に出場するが、

オリンピックでは「グレートブリテン」として出場する。

あと入場式直前になって国名表記問題ボイコットする例が何度もあった。

2017-05-14

[] 桔梗信玄餅

桔梗信玄餅(ききょうしんげんもち)は、山梨県笛吹市製菓メーカー桔梗屋製造販売する土産菓子である

  

1968年昭和43年から販売している。

風呂敷を模したビニールで包まれたポリ製の器のきな粉求肥が3切れ埋没しており、別添の黒蜜をかけて食す。

  

名称の「信玄」は戦国期の甲斐国主で、山梨県象徴人物位置付けられている武田信玄に因んでいる。

当地の盆時期に仏前へ安倍川もちを供える習慣から発想し、黒蜜独特な舌触りと餅から作られた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%94%E6%A2%97%E4%BF%A1%E7%8E%84%E9%A4%85

2017-04-16

当時白豪主義を採っていたオーストラリアは、有色人種への迫害政策を行っていた。反日主義者として知られていたウェブは、終戦後の1945年9月オーストラリア政府の依頼を受け、1942年日本軍ニューブリテン島ラバウルへの攻撃に際して、オーストラリアではテレビ放送映像を流したとのことであるが、沈められた日本の船から脱出した日本人捕虜)ら数百人を航空機から執拗な機銃掃射によって虐殺した上で、150名以上のオーストラリア人及び先住民殺害したとされる報告書を現地調査を行った上で発表した。

天皇の訴追を主張していたオーストラリア政府は彼を代表判事に選ぶことにより、天皇法廷で裁くという意思を表明したものと考えられる(法律上観点から見ると、本来事件告発に関与した者はその事件裁判官になることはできない)。

そのようなウェブ意向法廷における訴訟指揮でも表れた。裁判の開会の辞においては「被告達は嘗て、如何に重要地位にあったにしても、それが為に受ける待遇は、最も貧しい日本兵、或いは一朝鮮人番兵よりも良い待遇を受ける理由は見当たらない」と日本戦争指導者に対する敵意を露にした。

裁判検察側に有利になるように進められたケースが多々あり、検察側に不利な発言意見が弁護側から出されると、裁判長訴訟指揮権行使して遮ったり却下したりするといった場面がしばしば見られた。最も有名なのがアメリカ人弁護人のベン・ブルースブレイクニー及びジョージ・A・ファーネスの「事後法で人を処罰することは出来ない」といった旨の弁論に対しても、「全ての動議を却下する。その理由は将来闡明にする」として裁判を続行させたケースである。また清瀬一郎の「この裁判極東国際軍事裁判はいかなる根拠において実施できるのか」という質問に対しても「後から答える」とだけ述べて休廷し、その後回答することはなかった。また、中国で冀東保安隊日本人居留民に対して略奪、暴行凌辱殺戮など残虐の限りを尽した通州事件についても却下している。

法の不遡及は法の一般原則とされており(成立過程が独特な国際法上においても、必ず要請されるべきか否かは議論のあるところだが)、これを検討することな却下したことは訴訟指揮上大きな問題とされる。ただ、これは先に開始したニュルンベルク裁判訴訟経緯を踏まえた決断とも考えられる。

また、前述の通り、天皇法廷に立たせるべきとの見解を持っていたこから天皇戦犯にせず、占領政策に利用する意向を決定していたダグラス・マッカーサー命令を受け、裁判天皇責任が無いという展開に進めることを意図していたジョセフ・キーナ首席検事とは激しく対立していた[1]。

オランダベルト・レーリンク判事証言によると、ウェブは酒気を帯びた状態法廷に来ていたこともあったという。

1922年死刑廃止したクイーンズランド州オーストラリアの他の州の死刑廃止1968年から1985年)の判事であったウェブは、23年間にわたる判事生活死刑を言い渡すのは極東国際軍事裁判が初めてだったため、「極東国際軍事裁判所は、被告絞首刑に処する」の部分の口調はある意味の興奮があったという[2]。ちなみに、ウェブ自身被告人全員の死刑に反対票を投じている[要出典]。

2016-11-19

未来ではだれでも15分間は有名人になる

アンディ・ウォーホルは、1968年に「未来ではだれでも15分間は有名人になる」と予言した。

天才の慧眼ってすげえな。

2016-11-10

http://anond.hatelabo.jp/20161110002835

1968年(選ばれたのはニクソン

何かここで既に結論が出ている気がするけど、気のせい?

トランプ投票した米国人有権者の3割弱

まだ最終投票結果でてないけど、投票した人がざっと1億2000万弱、有権者総数が2億2000万くらい?

で、トランプが6000万票とったとして、ちょっと荒すぎるが、まあ、トランプ投票したのはアメリカ有権者の25~30%くらいなんだろう。

アメリカ場合は、自分から登録しないと選挙権もらえないらしいけど。


日本選挙のたびに投票率の低さが問題視されるけれども、アメリカ大統領選だって胸を晴れるような数字じゃない。

wikiによれば、前回の投票率は56.8%で、1968年(選ばれたのはニクソン)を最後に、6割を超えたことはないらしい。


今回、既存政治への批判票がトランプに向かったって解説されてるみたいだけど、そもそも投票行く気にもならない人が4割以上いるわけだよね。

政治に興味がないのか、絶望しているのか、どーせどっちに入れたところで、何も変わりゃしないと思っているのかはよくわからんけれど。



にしても、アメリカ人は、あの、州ごとに選挙人を取り合うという、歴史的経緯はあるんだろうけど今となってはよくわからん複雑な仕組みとか、

理論上、全国の得票数で見ると少ないほうの候補者大統領になることもありえる)

結局、既存政党予備選挙を膨大な資金力で乗り越えないと候補者にすらなれない現状とか、

どう思っているんだろう?

本当に政治不信な人は、そもそも、わざわざトランプ投票になんていってないんでないの? という気がする。

2016-11-02

邦画の90%はクズである

ただしすべてものの90%はクズである。ご存知スタージョンの法則である

さて、今回は次のブログエントリー反論していきたい。

邦画はクソ!」というあなたに見て欲しい日本映画黄金期の名作 - シロッコ手習鑑

http://sirocco.hatenablog.com/entry/Japanese-Movie

1行で要約すると

邦画はクソ、つまらない」という人は日本映画黄金期の名作見てないんじゃないの?「七人の侍おすすめ

通常であれば、うんうん「七人の侍」いいよね。黒澤映画の基本だよね。で済ませていたところだが、

面白いという保証のない現代映画をみるなら映画黄金期の名作を見るのをオススメします。

という一文がどうにもひっかかったのでここにキーボードを執った次第。

1.「邦画はクソ」とは基本的現代の新作邦画への評価なのでは

邦画について検索すると「邦画はクソ」という結果が出てくるらしく、その一例として示されたまとめサイト

記事過去の名作邦画も含めて批判する主張。

でも現代人が「邦画クソ」という場合、この前見に行った邦画がつまらなかった、ハリウッド大作と比べると

どうしても全米が泣けない、原作改変しすぎて新規ファン流入もないし原作ファン激おこだし誰得なの?

マンガ実写化文句言うのはカッコ悪いってカッコつけるために言ってるんじゃねえよこちとらカッコ気に

してられないほど必死なんだよ。

みたいな文脈だと思うんだよね。もっと良い新作邦画を作ってくれよ、の裏返しの邦画クソ。

もちろん全ての新作邦画ダメだとは増田も思わないけど。

まずいものを食べてまずかった、という生の声味噌汁がしょっぱいので盛り上がらなかった、とかね。

そこへ評価が確定している過去の名作を見ればいいのに、とアントワネットばりにケーキを薦められても違くない?

オールタイムベストランクインしている名作を見るランキング型消費では、「君の名は。」「シン・ゴジラ」が

ブームからと見に行くのと大差ない、いやむしろ悪いんじゃないか

新作を見て評価するのは、きさんがやらねば誰がやる?

面白いという保証のない現代映画をみるなら映画黄金期の名作を見るのをオススメします。

新作映画は見てみるまで面白いかどうかわからない。評判はあっても時間の審級を経てはいない。

それでも、新作を見る人がいるからこそ映画は作り続けられる。回転資金がなくなれば味噌汁さえも作れなくなり作品数は減る。

最初スタージョンの法則に戻る。名作は幾多の駄作の屍の山の上にわずかに咲く花だ。

山が小さくなれば名作のド壌も枯れてしまう。

新作見るより過去の名作を見ればいいのには、映画興行否定だ。

邦画の良さを紹介するために邦画を殺したら本末転倒ではないか

2.映画黄金期について

1.で大体言いたいことは終わった。あとは重箱の隅です。

当時の娯楽の王様である映画作品が数多く作られていた50年代60年代日本映画黄金期なのには異論はない。

しかし、その後テレビの隆盛、レンタルビデオの登場など、作品数・入場者数が減っていくには理由があり

単に数が下だから今は暗黒期、だから黄金期のを見ようという論は雑である

物価の上昇はあるが、観客動員数映画館の数は最盛期より減っているにもかかわらず興行収入上位には

現代作品ばかり並んでいる。現代だって捨てたもんじゃないよ。上位=名作とは言わない。

では黄金期に多く作られた中でどれほどの作品が今に伝えられているのか。直木三十五作品は読み継がれているだろうか。

名作とされるものしか今に至るまで残らないか黄金期はより素晴らしく見え、洋画もヒットが見込める

ものしか伝わってこないから大作・名作の粒揃いに思える。

現代邦画は、ダメものも全部さらけだされているか相対的に90%クズ感が増してしまう。

上澄みと生データを比べたら勝ち目無いよね。観る側向けにはこの点クギをさしたい。

だが、過去の名作を踏まえた上で今映画を作っている方々には、なんで見えてる地雷そびえ立つクソを作りあげてしまうのか。

味噌汁のミソとクソを間違えてはいいか映画評論してきた経験製作現場には役立てられないのか。

各自点検をおねがいしたい。

3.「七人の侍」(1954)

名画が今もスクリーンで上映されるのはいいことだと思う。

金と時間が許せば名画座毎日入り浸って映画漬けの日々を送り何百本のノルマ果たして蓮見ゼミに潜り込むんだ。

という夢の前提条件も今ではhuluなりNetflixなりで自宅に居ながらにして叶えられる。

しかし大スクリーンで一時停止も巻き戻しもなく集中して見る体験映画館しか味わえない。

七人の侍」が公開された1954年、「ゴジラ」と「君の名は」も公開されていた。

奇しくも今年、その系譜を継ぐ「シン・ゴジラ」「君の名は。」が、それぞれ好評を得ながらヒットしている。

過去の名作は逃げない、銀幕にまたかかることもあるだろう。

シン・ゴジラ」「君の名は。」が新作としてかかるのは今しかない。

面白いという保証がなくても現代映画を見ていこうよ。

4.シネフィルアマゾンプライムで見られる映画おすすめ

ドリーマーズ」(2004)R-18 

ラストエンペラー」のベルトルッチ監督作品

1968年五月革命パリ舞台パリ留学中のアメリカ人青年マシュー

シネマテーク抗議デモを通じて知り合ったテオとイザベルの家に転がり込み……。

エヴァ・グリーンおっぱいがきれい。

邦画でなくてすまんね。

2016-10-26

[]よくある質問

真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。

Q.「飴をくれる人に付いていってはいけない」といわれますが、なぜそういう大人があげるアイテムは飴なのでしょうか。

この「飴をくれる危険大人」というイメージは、割と昔からあるようだ。

1968年製作映画チキ・チキ・バン・バン」では、とある悪役が子供さらうために、餌としてアメを用いているシーンがある。

まあ、もっと探れば歴史がありそうだが、少なくとも「飴をくれる危険大人」というイメージは、1968年あたりから既に確立されていたというのは確か、だというのが私の見解だ。

Q.なぜ「政治的正しさ」という言い回しがされるのですか。

正しさというものは多側面から見ればいくらでもあるので、側面的に見なければ齟齬をきたすからさ。

恋愛工学とかで考えた方がいいことに数学を持ち出して、その数学的な正しさが破綻していなくても適切とはいえないだろう?

Q.タバコや酒の税がきついのはなぜですか。

まあ、一つは「大義名分」だな。

タバコや酒は嗜好品で、体にいいものでもない。

まつわるトラブルによる悪印象も強く、社会的嫌われ者だ。

から、税を徴収したいとき、そういうもの増税対象として都合がいいのさ。

まあもう一つの理由は、身も蓋もない言い方をすれば「それでも買う人がいる」からだな。

過去にも何度か増税があったが、今なお多くの人が愛用している。

まり、たくさん税を手に入れられて国は喜ぶ、喫煙者や酒飲みの肩身が狭くなったとして善良な市民も喜ぶ。

タバコや酒も高くなりつつも享受自体容認されたまま。

Win-Winというわけさ。

2016-10-15

[]

こども陶器博物館に行ってきましたわ。

館名から敬遠していましたけれど、大きなお友達陶器博物館改名するべきでした。

博物館運営するメーカー1968年(記念すべき1号は巨人の星から

生産しているキャラクター茶碗がたくさん展示されていて間接的にアニメ歴史概観できました。

館内に流れるBGMアニメのようでした。

古すぎる作品プレミアを気にする感じでみていましたけれど、

空想科学世界ガリバーボーイ」の茶碗には完全にやられてしまいましたわ。

そして「魔法少女ちゅうかなぱいぱい!」「魔法少女ちゅうかなぱねま!」のタイトル意味不明で引っかかります

およげ!たいやきくんってアニメだったのですね。およげ!さばやきくんも制作するべきですわ。

昔の作品カオスですわね……。

あさりちゃんの目の描き方は今の時代でも通るのでしょうか?

一方でクリィミーマミは間違いなく今でも通用しますわ。

簡単年代作品を見比べられるので明らかに先進的であったことが分かりました。

最近お茶碗はプリキュアレンジャー無双状態になっていて寂しかったですわ。

深夜アニメ茶碗も作ってほしいですわ。

またアナ女王茶碗では陶器への転写技術がどれだけ進歩たかがよく分かりました。

(初期からいい仕事をされているメーカーですけど)。

アンパンマンお茶碗セットが当然のようにあったのですが、

冷静に考えるとパン派への酷い裏切りに思えてなりませんでした。

ショクパンマンお茶碗で食べるまっしろごはんはどんな味かしら?

B1の特別展示では、やなせたかし先生がじきじきに絵付けをした

アンパンマンバイキンマンドキンちゃんのお皿もありました。

バイキンマンドキンちゃんのお皿でお食事をいただくのは勇気がいりますわね……。

http://anond.hatelabo.jp/20161015191932 の続きですわ

2015-12-29

社畜の鎖自慢

奴隷は、奴隷境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に 自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。 どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。 そして鎖に繋がれていない自由人嘲笑さえする。 だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。 そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。 過去奴隷は、自由人が力によって征服され、やむなく奴隷に身を落とした。 彼らは、一部の甘やかされた特権者を除けば、奴隷になっても決してその 精神自由までをも譲り渡すことはなかった。 その血族の誇り、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、あるいは 反乱を起こして、労働に鍛え抜かれた肉体によって、肥え太った主人を 血祭りにあげた。 現代奴隷は、自ら進んで奴隷衣服を着、首に屈辱ヒモを巻き付ける。 そして、何より驚くべきことに、現代社畜は、自らが奴隷であることに 気付いてすらいない。それどころか彼らは、社畜であることの証明である年収に自らの 唯一の誇りを見い出しさえしている。 (リロイ・ジョーンズ 1968年NYハーレムにて)

2015-10-22

「学園」に呪縛されるライトノベルについて

なぜ物語の少年少女が「学園」に呪縛されるようになったのか - Togetterまとめ

このまとめの最初のあたりで芦辺拓氏が例に挙げている作品刊行年は以下のとおり。

小林芳雄と少年探偵

→『怪人二十面相1936年

西條八十の白ばと組

→『あらしの白ばと』1952年

高木彬光の古沢姉弟

→『覆面紳士1950年

森下雨村池上富士

→『少年探偵富士夫の冒険1923年

横溝正史の御子柴進

→『幽霊鉄仮面』1937

まず、このくらいのスパンの話だということを理解しておいてほしい。

たかだか十年前と比較するくらいの感覚で「最近ラノベ作家は楽をしたがるから」などと言っていると論点がズレてしまう。

さて、そもそも「昔は学園ものは少なかったが今は学園ものばかり」というのはラノベだけの問題なのだろうか。

Wikipediaの「学園漫画」の項には以下のように書かれている。

少年少女主人公とする作品学校を場としたりその人間関係が中心になることが多いことは当然であり、漫画以前の小説時代から学校もの存在したし、学校舞台とする漫画作品昭和30年から存在した。ただ昭和30年代には、放課後に家の手伝いをする者や中学卒業して実社会に出るものがまだ多く、学「園」ものという呼び方にはある程度の生活階層青春もの意味するイメージもあった。

結果的に、雑誌漫画において学園漫画という「分野」(市場分野?)が生じたと言われるのは、日本高度経済成長が成果を安定させて生活の向上や学歴の向上が既定路線となった1960年代半ば(昭和40年前後)からである

学園漫画で言えば『ハリスの旋風』が1965年、『夕やけ番長』が1967年、『ハレンチ学園』や『男一匹ガキ大将』が1968年である

芦辺氏と同じ論法を使えば「戦前終戦直後には学園もの少年漫画は少なかったのに今は学園漫画ばかり」とも言えそうだ。

もとより、「学園もの」増加の原因を、一足飛びに現代ラノベに求めたところで、何が分かるものでもあるまい。

同じくWikipediaから学園小説」の項。

学園小説一定の発展を見せたのは、少年雑誌よりも少女雑誌においてであるもっとも著名な作家としては『少女世界』の読者から作家デビューした吉屋信子があげられる。

1916年に連載が始まった吉屋信子の『花物語』は、当時ベストセラーとなった連作短編で、女学校舞台とした話が多い。→エス

これは「漫画以前の小説時代から学校もの存在した」「学園ものという呼び方にはある程度の生活階層青春もの意味するイメージもあった」ということの実例と言える。

こうしてみると、むしろ1960年代以前の少年向け娯楽作品において学校舞台とならなかったのは何故か」というほうが問題なのではないかと思えてくる。

そしてそれは、Wikipediaのとおり経済力理由を求めるほうが、現代青少年の心性を大仰に言い立てるよりは筋がとおっているだろう。

(もちろん他の要因もあるだろう、議論するならその点についてすべきである

最後に、筆者が最近読んだライトノベル50作品を「A. 学校が出てこない」「B. 学校は出てくるが事件が起こるのは学外である」「C. 学校が主な舞台である」で分類したところ、以下のような内訳となった。

A. 18作品 B. 16作品 C. 16作品

まり芦辺氏が言うような「全てが学校で起きる学園ものラノベ」は16/50=32%である

言うまでもなく、このサンプル数は少なすぎるし、個人の嗜好による偏りなどもあるので参考程度にお願いしたいが、

最近ライトノベルの全てが「学内で完結している」ということはありえない、とは確実に言えるはずだ。

大ヒット作だけを見ても、SAOダンまち「A」であるし、禁書目録魔法科高校は「B」に分類されるだろう。

正直なところ芦辺氏がどうして「最近ラノベは学園ものしかない」と強固に思い込んでおられるのか理解に苦しむ。

どうか賢明なる読者諸氏においては「へえ最近ラノベは学園ものばかりなんだな」などと鵜呑みにしないでいただきたい。

2015-08-14

劇場アニメ監督の生年一覧

Wikiで調べてつくってみた。宮崎駿監督後継者云々を受けてつくったので、主な有名監督若い監督中心。基本的にはTVシリーズをやってないオリジナルか、小説原作劇場アニメを発表してる監督例外も一部あるけど。

1935年まれ 高畑勲(かぐや姫の物語)

1941年まれ 宮崎駿(風の谷のナウシカ)、富野 由悠季(機動戦士ガンダム)

1951年まれ 押井守(攻殻機動隊GIS)

1954年まれ 大友克洋(AKIRA)

1959年まれ 原恵一(百日紅)

1960年まれ 庵野秀明(ヱヴァンゲリヲン新劇場版)、片渕須直(マイマイ新子と千年の魔法)

1961年まれ 新房昭之(劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語)

1965年まれ 舛成孝二(宇宙ショーへようこそ)

1966年まれ 神山健治(009 RE:CYBORG)、水島精二(楽園追放)、沖浦啓之(人狼)、宇田鋼之介(虹色ほたる)

1967年まれ 宮崎吾朗(コクリコ坂から)、細田守(時をかける少女)

1968年まれ 小池健(REDLINE)

1973年まれ 新海誠(言の葉の庭)、米林宏昌(借りぐらしのアリエッティ)

1976年まれ 長井龍雪(心が叫びたがっているんだ)、宮地昌幸(伏 鉄砲娘の捕物帳)

1979年まれ 平尾隆之(魔女っこ姉妹のヨヨとネネ)

1980年まれ 吉浦康裕(サカサマのパテマ)

1984年まれ 山田尚子(たまこラブストーリー)

1988年まれ 石田祐康(陽なたのアオシグレ)

2015-06-18

ゲンロンへの匿名殴り込み

昭和の延長線上にないもの

あらゆる場所で言われていることだがそれはREMIXという概念のそれに対する窮屈な環境である

レッシングREMIX記憶に新しい。だが実は時代遅れなのかもしれない。

昭和のころは、というよりも人間はあらゆるものREMIXしてきた。例えば音楽の分野でもDJはあらゆる音をサンプリングし新しい楽曲を作る。それは70年代の後半だ。クールハークという伝説DJのおかげだ。あらゆるデータを参照し、再構築し、あたかも新しいもののように世間に出回る。それがおそらく昭和のころは新しいアイデアだ、と賞賛されていた。しかし今は違う。

批評世界でもそうだ。あらゆる、いかにも新しいアイデアというもの過去に出たものの参照でしかない。新しいREMIXももはや賞賛されない。それに対する窮屈な環境というものポスト昭和のはっきりとした特徴であると断言する。

東氏の「動物化するポストモダン」はまさに新世代のバイブルであったが、現代はそれに対する窮屈な環境が少なから存在する。

それに関連し、1968年メルクマール増田米二氏らが「機会」の重要性を説いた。林雄二郎村上泰亮小松左京、様々な文化人知識人がこぞって、ネットワーク理論の原型を説いていた。それは学派の垣根を超えていた。機会の窮屈さもそうだ。そうだ、ここでは関係の窮屈さを提唱しよう。昭和のころと今と比べて関係の窮屈さというものが当てはまる人間は多いだろう。

詳しくは述べないが、あらゆる事象を参照してほしい。だがこれも窮屈なのだ。まさに今書いていること自体に窮屈さを感じるのだ。

それがポスト昭和だ。ちなみに私は昭和64年まれだ。昭和平成の境にいる。

今回は当事者性を感じ、書いてみた。こんな人間もいるのだと一つ参考にしてほしい。

追記 さやわかさん、うんこマシンガン復活してください。

2015-03-17

かぐや姫の物語ラストシーンが駄目駄目な理由

先ほど初観。噂通りの地雷臭が凄い作品だった。

ジブリ美術館の15分短編作品にする程度の企画を、あの期間と人数と予算使ってコレ!?っていう。

絵の動きや話のアレンジはそれなりで、動きとかに「おお!」っていうのは所々あるけど、

それほどか?というのが率直な感想

で、本題。

ラスト近く。月の住民かぐやを迎えに来た際、その姿をどう表現するのか。

ここは作り手の見せ所の一つ。

当然宇宙人っぽい雰囲気は一切出しちゃ駄目だよね。そこで当時の遠い異国、

インド伝来の異国の仏を連想させるものとして表現した所までは良かった。

ああこうきたか、と。と思ったが、興ざめしたのがその直後。

月に帰るかぐや姫が振り返って自分故郷を眺めるシーン。

試行錯誤の結果あれでも、意識しないであれでも納得いかない。

振り返るかぐやの後ろに、青い地球がまーるく、どーん!と、映っていたのである

それは駄目だろう、と。

宇宙戦艦ヤマトか。

その世界観1968年アポロ8号が月周回をした際に月軌道から地球撮影したことで

人類が初めて認識した世界風景でしょ。

アポロ8号が撮ったカラー写真人類は初めて客観的自分世界写実的にとらえたのに、

それをあろうことか地動説すらない平安時代連想させる昔話のラストシーンで見せちゃったのである

そんなリアリティはいらねえよ。

日本最古の物語1016世紀でまとまった話だったら、当時の世界観に合わせた、

世界全体を表現してくれよ。

せめて当時の古地図に見て取れる、ゆがんだ日本列島や、巻物に描かれた俯瞰図のテイストを素に描かれた、

山や緑や街が、墨絵の雲の向こうに消えてゆく様な風景を描くべきだったろうと思うのだが。

たぶん、他の駄目な部分はいろんな人が言ってると思うので、

ひとまず自分特にアカンと思った部分について書いておいた。

2015-01-07

[]

日本切り絵画家、元俳優声優本名和田 一壮らしい。

1958年、聖学院高等学校卒業し、俳優座養成所(11期)に入学1961年劇団青年座入団

1968年青年座を退団し、劇団現代を創立。

1980年切り絵を中心とする画家転向

2008年4月からラジオ福島の「かっとびワイド・美智子と恵秀 大人のラジオ」に、パーソナリティとして出演。

ラジオは少しきいたことあるけど、思った以上にポップな感じで面白かった

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