あらゆる場所で言われていることだがそれはREMIXという概念のそれに対する窮屈な環境である。
レッシングのREMIXは記憶に新しい。だが実は時代遅れなのかもしれない。
昭和のころは、というよりも人間はあらゆるものをREMIXしてきた。例えば音楽の分野でもDJはあらゆる音をサンプリングし新しい楽曲を作る。それは70年代の後半だ。クールハークという伝説のDJのおかげだ。あらゆるデータを参照し、再構築し、あたかも新しいもののように世間に出回る。それがおそらく昭和のころは新しいアイデアだ、と賞賛されていた。しかし今は違う。
批評の世界でもそうだ。あらゆる、いかにも新しいアイデアというものは過去に出たものの参照でしかない。新しいREMIXももはや賞賛されない。それに対する窮屈な環境というものもポスト昭和のはっきりとした特徴であると断言する。
東氏の「動物化するポストモダン」はまさに新世代のバイブルであったが、現代はそれに対する窮屈な環境が少なからず存在する。
それに関連し、1968年をメルクマールに増田米二氏らが「機会」の重要性を説いた。林雄二郎、村上泰亮、小松左京、様々な文化人、知識人がこぞって、ネットワーク理論の原型を説いていた。それは学派の垣根を超えていた。機会の窮屈さもそうだ。そうだ、ここでは関係の窮屈さを提唱しよう。昭和のころと今と比べて関係の窮屈さというものが当てはまる人間は多いだろう。
詳しくは述べないが、あらゆる事象を参照してほしい。だがこれも窮屈なのだ。まさに今書いていること自体に窮屈さを感じるのだ。
それがポスト昭和だ。ちなみに私は昭和64年生まれだ。昭和と平成の境にいる。