はてなキーワード: 効用とは
https://laundrybox.jp/magazine/menstrual-hygiene/
「5月28日は「月経衛生デー」。生理にまつわる沈黙やタブーをなくして社会的な意識の変化を促すことを目的とした日である。」
しかしつくづく今の世の中は若い女性、男と性交し妊娠出産した女性やその可能性のある女性の事しか考えてないというのを感じて嫌になるな
「生理の貧困」が話題になった時も、ナプキンさえ無償で配ればそれでいいみたいな論調だったし、それって多分若くて健康な女性の事しか想定してないからだよね
自分も若い頃は生理に伴う不調はあるにはあったけれどそこまで酷くはなくて、歳を取ってから酷くなったんだけど
その年齢で処女だと婦人科も行き辛いし使える薬も限られてくるというタイミングの悪さ
ピルの効用はやたらと宣伝されるけれど若いうちしか使えないし副作用も酷い事はあまり知らされない
バランスが悪いと思う
1秒しか読んでなくて間違ってたらごめん
三国志の
自分で悪口を言うより、他人にそれを言わせる方が効用は高い気がする
それは、悪口を誰かに言わせる方が以下の理由で何倍も楽しめるからだ。
そもそも、みんな本心では悪口を言いたがっているのだから、誰かに他人の悪口を言わせるのはさほど難しいことではない。
共感されるだろうエピソードで水を向ければ、相手は簡単にその口を開くだろう。まるで貝のように。
特に、悪口の鉱脈みたいなものに突き当たって、水道をひねったかのように、相手の悪口が止まらないときの喜びと言ったら!
効用が高いと述べたが、そうやって相手の悪口を導けたときには、
①相手をそんな異質な状態に持っていくことができた自分の会話能力の高さに惚れ惚れし、
②相手が秘めていたニーズを明らかにし、それを満足させた自分の有用感に安住できて、
③悪口をこっそり打ち明けるくらい、相手の信頼を勝ち得ていることにコミュニケーション上の疎外感が解消され、
④逆に、悪口を言ったことを本人にばらす可能性をちらつかせることで、相手の弱みが握れて今後の人間関係が優位に運べるわけだし、
⑤第一、悪口を言うことで生じる罪悪感というか発言責任みたいなものを相手に押し付けることができ、
⑥それでいて、自分で悪口を言うのとストレス解消感は変わらない。
むしろ、相手の悪口の方が自分のそれより表現が巧みで「なるほど!」と膝を叩きたくなることまである。
そんなわけで、そのシチュエーションを思い出しただけでニヤニヤが止まらないほど、他人の悪口のシャワーを浴びていると高揚感で楽しくなってくる。
そうそう純粋に、⑦他人が本気になって怒ってる姿って楽しいなー、みたいな感情もあるよね。
ただ、それに合わせて自分も悪口を言ってしまっては元の木阿弥(同じように発言責任を負ってしまう)なので、
あからさまに誉め殺しの口調で「そんなことないですよ~○○さんだって俗人にはわからない深い御意図をお持ちなんですよ」
なんて言って他人の批判根性を刺激しつつも、自分は悪口を言っていないと予防線を張り、
この素晴らしい時間がなるべく長く続くよう会話に策を凝らして、自分の感じる快楽のために頑張り続ける。
それでも決して相手に同意はしない。あくまでも善意の振る舞いで相手を煽ることで、言い逃れもできるようにする。
そして、その罪はお前だけが被れ!ってほくそ笑みながら、同僚の感情豊かな「おこ」を見て、楽しいティータイムを今日も過ごした。
…というのはまあ、全て机上の空論で実際に試したことはないんだけども。
楽しいのは頭でわかってるし、その手はずもバッチリなのに、なんか実行に踏み切れない。
それは、悪口を誰かに言わせる方が以下の理由で何倍も楽しめるからだ。
そもそも、みんな本心では悪口を言いたがっているのだから、誰かに他人の悪口を言わせるのはさほど難しいことではない。
共感されるだろうエピソードで水を向ければ、相手は簡単にその口を開くだろう。まるで貝のように。
特に、悪口の鉱脈みたいなものに突き当たって、水道をひねったかのように、相手の悪口が止まらないときの喜びと言ったら!
効用が高いと述べたが、そうやって相手の悪口を導けたときには、
①相手をそんな異質な状態に持っていくことができた自分の会話能力の高さに惚れ惚れし、
②相手が秘めていたニーズを明らかにし、それを満足させた自分の有用感に安住できて、
③悪口をこっそり打ち明けるくらい、相手の信頼を勝ち得ていることにコミュニケーション上の疎外感が解消され、
④逆に、悪口を言ったことを本人にばらす可能性をちらつかせることで、相手の弱みが握れて今後の人間関係が優位に運べるわけだし、
⑤第一、悪口を言うことで生じる罪悪感というか発言責任みたいなものを相手に押し付けることができ、
⑥それでいて、自分で悪口を言うのとストレス解消感は変わらない。
むしろ、相手の悪口の方が自分のそれより表現が巧みで「なるほど!」と膝を叩きたくなることまである。
そんなわけで、そのシチュエーションを思い出しただけでニヤニヤが止まらないほど、他人の悪口のシャワーを浴びていると高揚感で楽しくなってくる。
そうそう純粋に、⑦他人が本気になって怒ってる姿って楽しいなー、みたいな感情もあるよね。
ただ、それに合わせて自分も悪口を言ってしまっては元の木阿弥(同じように発言責任を負ってしまう)なので、
あからさまに誉め殺しの口調で「そんなことないですよ~○○さんだって俗人にはわからない深い御意図をお持ちなんですよ」
なんて言って他人の批判根性を刺激しつつも、自分は悪口を言っていないと予防線を張り、
この素晴らしい時間がなるべく長く続くよう会話に策を凝らして、自分の感じる快楽のために頑張り続ける。
それでも決して相手に同意はしない。あくまでも善意の振る舞いで相手を煽ることで、言い逃れもできるようにする。
そして、その罪はお前だけが被れ!ってほくそ笑みながら、同僚の感情豊かな「おこ」を見て、楽しいティータイムを今日も過ごした。
…というのはまあ、全て机上の空論で実際に試したことはないんだけども。
楽しいのは頭でわかってるし、その手はずもバッチリなのに、なんか実行に踏み切れない。
どうやら5chの言語板では推測を書いてはいけないというどう考えても科学の発展の妨げにしかならないような謎ルールが存在するので、以下、スレに書き込もうと思っていたことをまとめてここに書く。
性癖を性的な癖に言い替えられるような使い方で使っているのはネットかつオタクの文化圏に集中していることは疑いようがないことだと思う。
まずツイッターのbioがそうだ。
これを言ったらツイッターのbioとオタクがどう結び付くのか分からないし視野狭窄としか思えないって言われたけど。
なので他にも例をあげていこう。
cmで有名なシーモアやめちゃコミやrentaよりも蔵書が多い電子書籍サイトだ
・性癖が暴かれる!? 新感覚オフィスラブ!(中略)彼女のヒミツは…「アレ」に人一倍興味があること・・・!?
・性癖ヤバめなオトコに狙われました。
・彼の性癖は歪んでる。~聖母系エリートの悪魔的とろとろ溺愛セックス~
・ひなこは今夜も鷹臣先生を困らせたい おしどり夫婦のナイショの性癖
全て性癖を「性的な癖」と置き換えても成立する文脈で使われている
1000件以上ヒットしたが5件連続でこうなのだから漠然と有意性が感じられるとは思う
全部検証するのは大変骨が折れるので興味がある人がすればいい
また似たような引用方法をしてもくどい感じもするので検索結果のリンクだけ貼っておく
https://www.pixiv.net/tags/%E6%80%A7%E7%99%96/novels
なんか最初のあたりで中国語のものが目立つが、日本語の作品ではやはりそういう性癖の使い方が目立つと思う
・
以下ではなぜこのような性癖の使い方が行われるようになったか推測、かっこよくいえば仮説を書く。
「○○をする性癖がある」があるというのは、一部の国語教師面をした人間からのウザ絡みを避けられるという意味でより無難な書き方をするなら「○○をするのが好き」と言い替えられるだろう。
しかし単に「○○がすき」みたいにというふうに書くとなんか締まりがない感じがしなくはないか?
なんというか名詞の性癖を使うのと比べるとバシッと決まらない感じがするというか、読み手を想定してみればそういった文章は漫然と左から右へと意味内容が流れていくばかりその読み手の頭からするっと抜けてしまうような感じが俺はする。
それに比べて「性癖がある」というのは名詞的な表現だ。その言葉の前で受けている性癖の内容をバシっと捉えて概念化している。
概念化は名詞の効用だと思う。動詞で終わる文章が単に事実や考えを伝えるのに比べると、文章全体ではなく、一つ名詞に読み手の意識が集中される。
名詞が記憶のとっかかりにもなる。そういう意味でも読み手の頭により強く残る。
以前私は「漫画の魅力ってそれが二次元とメタファーされるように」という文を書いて、ここで「そんなメタファーの使い方はしない」というふうに言われた。
しかしこうやって指摘するぐらいの人間はその言わんとすることが伝わっているからこそ、その意味と用法がずれているということに気付けることが指摘の動機となっているはずなのだ。
完璧に正しい用法かの確証はないがおぼろげに自分の伝えたいことにかすっている程度ぐらいの可能性でも感じるなら、少し小難しくてもそういった名詞や特に術語を使うほうが、読み手は「あああのことが言いたいのね」となるのだと思う。
性癖も本来は単に癖と言うのをより生硬にした表現だ。そういう日常的にあまり使われてなかった言葉をあえて使う場合、日常的に使われる言葉が多種多様な場面で使われるためにぱっと読み手の目に入って来てもその言葉だけでは文脈が絞り切れないという意味ではニュートラルに認識されるのに比べれば、そういう言葉は特定のミームというか匂いを帯びやすい。
「性癖」の意味をひとたびずらして「性的な癖」という文脈で使うようになると、もうそういうミームで固定される。
だからそういうミームを共有し合う人間にとっては性癖という言葉を出すだけで、みなまで言わなくても何が言いたいのかなんとなくわかるというか、そういう読解の省エネ的な効果が認められるのだと思う。
とにかく、単に何々が好きというのが読み手に「なんの意味で好きなんだろう」とその実態のより詳しい限定化を課す、すなわちボトムアップ式の理解を課すものだとすれば、性癖と概念で言ってしまえばトップダウン式に何が言いたいのか理解されるという点が便利なのだ。その代償として国語教師面した人間に噛みつかれるリスクを負い得るだけで。
俺がメタファーという言葉を使ったのもそういう効果を狙ったものだ。そもそもメタファー以外に自分の伝えたいことにあてはまる表現が見当たらないって理由も大きかったはずだけども。
(アスペは会話をあまりせず書き言葉が友達だから難しい言葉と思われているもののほうがアスペにとっては身近というのはアスペの悪い癖だ。もちろん俺の「メタファー」は他の定型から見れば理解の浅いずれた使い方なのかもしれないけど、俺にとってはメタファーが理解度という点で使うべき一番ましな言葉だったのだ。そもそも言葉の難しさとは何なのか。たかがカタカナご文字の言葉の難しさをどう規定できるというのか。正も凸も小学生で習う同じぐらいの画数の漢字だが習う時期が全く違う。俺はこれにも納得できないがそれは上記のことに通じる話だと思う。凸が身近な人間にとっては普通の人にとっては正の方がやさしい漢字に思えても、その人にとっては凸の方がやさしいのだ。)
名詞は特技、趣味、性癖というように表とかの項目にするにも都合がいい。
これが一つだけ「性的に好きなこと」とかだったら統一感もない。
角川類語新辞典には「手癖」「尻癖」「酒癖」と○癖という言葉がたくさん載っている。
癖をへきと音読みする言葉は実はそんなに多くないが、それでも日本語、いや日本人の伝統として○+癖という造語法で言葉を作っていく造語意識が背後にあることを伺うことはできる。
基本的に癖の内容を象徴し得るような漢字+癖という組み合わせて作られていることは明らかだ。
酒癖はそのままだし、尻癖は失禁する癖のことで、その現象が起こる場所を示す漢字を使っているという点でちょっとひねっているが、根本はおなじだ。
そんなわけで、もとの性癖は性も癖も似たような意味で使っている漢字を組み合わせた熟語だけども、それとは独立して性的な癖という意味での、酒癖等と同列な「性癖」が今作られるようになっていったとしても、日本人の背後にはそうおう造語意識がずっとあったわけだから、何もおかしくないわけだ。
つまり、両国には地名と両者の国という二つの意味が考えられるがこれらは辞書では別の言葉として別別に立項されているように、あの性癖とこの性癖も辞書で別扱いするべきぐらいに全く別物の言葉なのだというのが私の仮説だ。
よって性癖を性的な癖と言い替えられる文脈で使ったときに「誤用だ」とかいうのは全くずれていて、単なるシノニムとしての衝突に翻弄されているだけなのである。
日本語だとちょっと突拍子なく感じる意見かもしれないが、英語ではスペリングが同じで別の概念として複数立項されている言葉は何も珍しくない(無学かつ個別の事例を覚えてられるほど記憶力よくないので例はあげられないけども)。
まさしく形而上学と形而下学の話だな
理系の学問は形而下、すなわち実生活で実際に使うものなので有用性を実感しやすい
しかし過去を紐解くこと、文学や芸術の効用について考えること、人生の意味について考えることは全くもって不必要で無意味な学問なのだろうか?学問として成立しないのだろうか?
無意味でないと考えている人間は文系を選択しているし、無意味だと考える人間は理系を選択しているはずなのでそもそも交わらない話題ではあるが
文系の人間はそのような否定のされ方をされることに慣れているが、今一度、文章に心を動かされた体験や、趣味とそれを支えているものに関して思いを馳せてみてほしい
わからないならこの話は終わりだ
30代で資産1億円を目指すためには20代の頃から節制して投資しろ、とかいうのを聞く度にモヤモヤする
20代で友人と遊んだり自分の趣味に没頭したり彼女とイチャついたり結婚したりとかそういうのを止めてまで30代の資産形成なんてする意味あるんだろうか
30代ならまだしも老後の備えを考えて20代から節制するとか本当に現実的なのだろうか
これは20代で遊んだ方が人生トータルの効用が高いとかいう話も少しはあるけれど
20代で資産以外に投資した方が将来の資産形成に繋がるんじゃ無いだろうか、とも思ってる
人脈という面でもそうだと思うし、能力開拓とか価値観形成って結構大事なんじゃないかな
20代でパックじゃない海外旅行を2,3回経験するのってその後のキャリアで凄く大事な気がするし
結婚前から車の運転に慣れておくだけで子育ての自由度が全然違ったりする
それらと同じ文脈で20代の頃から少額投資しておいて経済感覚を身につけておけ、というのは非常に理解できるが
30代で資産1億円を目指して投資ってちょっと全力投球しすぎじゃないですかね
早期リタイアも同じように聞こえていて、それなりの趣味とか興味が無いままに早期リタイアしても、ただ死を待つ人生が訪れるだけなんじゃないかな
肉体作業が安いことが納得いかないというコメがあるが、価値がないんだから資本主義的には当たり前だろ。違うのか?
財の価値は効用で決まる。メディアコンテンツやソフトウェアはコピーが利いて限界費用がゼロになる。だから小説でもソフトでも、1本書いて10本売れば10本分のありがたみの総和が転がり込む。ここに法的規制は何も無いから10本でも100億本でも好きなだけ売れるし売っただけ価値が下がるということも必ずしも無い。
それに対して肉体労働なら車1台を直して10台に結果だけ複写することはできない。1台直したら1台分のありがたみしかない。だから価値がない。金を払うお客さんが一人しかいないのだから一家庭から百億万台分の修理費一億万円を取ることは逆立ちしなければできない。
じゃあ仮に小説やソフトは著作権で儲けているからキャップをかけようという発想があるとする。すると今度は小説家やソフト書きはコンサルに転職して適当な会社に社員千万人に一人一日あたり百円の経費節減を達成する計画を提案したりする。なんなら実際に汗水たらしてビールの一本飲んでもいい。当然その節約効果は現実に存在するのだから節減百円あたり三十円くらい寄越せそうでなければ計画は潰すという話になる。するとやはり車一台ぽっち直すより桁違いのありがたみがそいつに流れ込む。
https://anond.hatelabo.jp/20210228121158
あれから約1年。久々に見ると、それなりに反響があったようだ。
記載の通り、自分は某国立と名の付く病院を辞め、現在は民間企業の情報システム部門のエンジニア職だ。
辞したことは後悔していない。待遇も収入も向上し、環境が良くなり、第一、今の職場は同僚が良い人だ。
上場企業であり、海外の売上が高く、企業名は誰でも知ってると思う。
公的な機関での医療情報の世界から飛び出て、客観的に前職を見つめることができる今、はやり前職は特殊(というか閉鎖的)だったと思わざるを得ない。
前職で目を疑った出来事の1つが、アルバイトの非常勤職員に物理的・精神的暴力を振るう医療情報技師がいたことだ。
しかも、さらに上の管理職に露見しないような場所で行われていた。
上司に対する不満を、上には言えないものだから、立場の弱い職員もしくは請負業者にぶつけていたのだが、現在の職場ではそのようなことは有り得ない。
現職は、ハラスメント対策には非常に厳しく、社員1人1人の意識もそう荒んではいない。
暴力行為なんて私は想像を絶するのだが、国の機関(法人とは言え)で行われていることを目の当たりにしたのがショックだった。
請負業者の社員が頻繁に退職する理由は、おそらく、これだった。
外部業者にも内部通報ができるのだが、制度を教えていなかったと思う。
というのも、某国立病院にいた時、常勤職員であるというのに病院のことを何も知らない人が一定数いたからだ。
業務を切り分けているというより、そもそも責任を含めて時短勤務の非常勤職員(要はアルバイト)に丸投げする例は多々見た。
責任に応じた給料が支払われているという意味では今の職場はちゃんとしているし、逆に言えば、前職の某国立病院はそうではなかった。
縁故採用は賛否両論がある方法で、招聘した人物にも責任が発生するから安心感があるという側面もあるが、反面、
機能しない人物だと後で判明した場合でも、責任問題にされることを恐れてか、仕事はアレでも評価はなぜか良好で管理職に順調に昇進させられるケースが発生する。
事実、某国立病院ではそういう人がいて、その人は周囲からも管理職からも「何をしているのか分からない人」と言われ、すぐに終わりそうな単純作業を深夜まで必死に頑張っていたりしていた。
縁故で呼んだ責任もあるだろうが、トップが実務を理解していないのも一因だ。
呼び入れた人物が評価者なのだから評価は恣意的になるし、組織全体としてはガバナンスの欠如である。
「公募採用」では縁故は禁止されているが、おそらく、どこの独法も似たり寄ったりだろう。
実務経験ゼロ、かつ業者に実務を丸投げする中途採用の情報専門職が行う医療情報(応用情報研究のくせに)の研究なんて、どれほど有益なのだろうか。
今の職場は能力的に適正に評価された人物でないと昇進ができないから、まだ健全だ。
02/03追記
思い出しついでに、追記する。
国立と名の付く某病院の職員のことを思い出すと、考え方というか意識も公務員特有だった(みなし公務員ではあるが)。
何が特有かと言うと、端的に言えば傲慢な意識だ。全員がそうではないが、民間の今では見ることはない気質だった。公的機関の常勤職員というのが彼らの最大のステータスだから。
とにかく勉強偏重な人間が多いから、細かいミスに気付くのは良いが、ある旧帝大卒の人なんてExcelの設計書に余計な半角スペースを1つ見つけるだけで罵声を浴びせかける。そんな些細な粗探しをしても実務的な効用は一切ないのだが、その人物を満足させるためだけに時間を割く必要がある。ただ、IPA資格の高度を複数持っているし旧帝大卒だから、管理職からの評価は高かった。
医療安全講習は全職員が受講するが、「心理的安全性」に関する講習を聞いたであろう直後に非常勤職員に罵声を浴びせかけるところを見たので、学歴があることはイコール知的とは限らないのだな、と思ったものだった。
その人が、自分が知ってる中では一番偉そうな態度の人だった。ただ、管理職に対しては素直で従順だった。縁故採用で入職した人物だから、評価が悪くなることもない。
相手が常勤職員か、請負業者・非常勤職員で態度を露骨に変える職員はそれなりにいた。
これもやはり現職とは違う。
既に書いたが、自分ではない。
けど、同じ業界にいて同じ境遇の人物がいるというあたり、この業界の閉塞性、将来性の無さ、排他性、旧来型の権力構造…を感じた。
まともな職場もあるかもしれないけど、私が見た医療情報の世界は腐っていた。
既に権力を持った層にはいいだろうけど、何の将来性があるのか、分からん。
バイバイ、医療情報技師、診療情報管理士、そして医療情報学会。
https://anond.hatelabo.jp/20220106191411
上記増田を読み、あまりに自分の知る実情と違いすぎ、愕然とした。
釣りなのか、釣りじゃないにしても極めて特殊な一例と言わざるをえない。
釣りには真実を、特殊な一例には、更に特殊な一例を公開しての平均化が必要だと思う。
そこで、手前みそながら、自分のケースを紹介してみようと思い立った。
(特定を避けるため、多少のフェイクが入る点はご留意願いたい)
私は、どこの企業やグループにも所属せず、背後にスタッフ等もいない、いわゆる個人Vtuberだ。
登録者数はどうにか4桁だが、いまだYouTubeの収益化条件は遠く、
それでもなんとか無事生活できる範囲の利益を獲得し、ファンのかたや仲間に恵まれ、まいにち楽しく生きている。
【歌いたい歌は、大抵歌える】
上記増田は、お歌動画の難しさをあげていたが、現実にそんなことはない。
YouTubeはJASRACと包括契約しており、基本的に著作権を気にする必要はない。自動で広告がつき、YouTubeの方で帳尻を合わせてくれる。
気にするのはいわゆる原盤権のみであり、これはかみ砕いていえば「CD音源をそのままカラオケに使っちゃダメよ」ということだ。
そこで、カラオケ音源をあらためて用意する必要が出てくるのだが、需要があるということは供給もあるということで、
・人気J-POPは、大抵、有志がカラオケ音源化してくれていて、無料で使える場合が多い。
・ボカロ等は、原盤権を持つ権利者が、公式音源の使用を許可してくれている場合が多い。
・どうしてもない曲は、比較的安価なお値段で、専門のかたにカラオケ作成を依頼できる。
上ふたつは、あくまで善意と厚意によって成り立っているものなので、各種ライセンスは必ず確認し、注意深く利用しよう。
カラオケ音源の作成依頼は、私の知る限りお安いところは3,000円くらいで作ってくださる。
どのくらいの頻度で投稿するかによるが、仮に毎週コンスタントにお歌動画をあげたとして月12,000円である。
自分ができない技術に支払う対価としてはむしろ少ないくらいだし、月に捻出する趣味費としても社会人なら許容の範囲ではないだろうか。
また、YouTubeはそれでいいのだが、twitterはJASRACと包括契約をしていない。
そのため、クリーンにやるなら、JASRACと直接個人契約を結ぶ必要がある。
今のところ私は個人契約をしていないが、調べた限り、たしか年額一万円程度で契約できたはずで、これも充分手の届く金額だろう。
YouTubeで自動でつく広告の収益は、著作権者に還元されるからだ。そして、それは正しい。こちらは曲というコンテンツを使わせていただいている側であり、権利者に還元されるのは当然である。
逆にいえば、お歌で収益を得たいなら、自分が権利者となればいい。つまり、オリジナル楽曲の制作だ。
これは上記のカラオケ音源の用意に比べて手間はかかるものの、決して難しいことではない。
「自由にオリジナル曲を乗せていいよ」という有志のフリー楽曲もあるし、もちろん依頼して作っていただくこともできるし、自分で作曲してもいい。
私は、趣味として好きな頻度で好きな曲を歌い、節目節目でオリジナル曲を公開してきた。
Vtuberになってから作曲もおぼえ、コードをなぞる程度だが楽器も練習し、mixやジャケットも自分でこなすようになった。
今は個人でiTunesやspotifyに無料で気楽に楽曲を配信できる時代である。自分で権利を持っているので、当然BOOTH等での販売も可能だ。
これ単体の収益はそこまでではないが、自分でつくったものでお金を得る感覚は、得難いものがある。
【キャラクターデザインは自由でいい】
人気ラーメン店に行く時、列に並ぶことに文句を言うひとは少ないだろう。値段が高いことも、予約が必須なこともある。人気なのだから。
同様に、人気絵師さんは順番待ちになりがちだし、中には一見さんおことわりのかたもいらっしゃる。これは当たり前のことだろう。
仕事として絵を描くのは、依頼する側が思う以上に大変なことである。制作に一ヶ月以上かかるのもザラで、つまり、物理的にマンパワーが足りないのだ。
依頼者側はどうかその辺の事情を理解してほしいし、私としては、絵師さんの体調がいつも心配だ。おからだ壊さず、自分のペースで仕事を受けてほしい。
個人的には、初期の頃においては、キャラクターのクオリティにこだわりすぎる必要はないと思っている。
もちろん、多少の開幕アドはあるだろうが、あくまで多少の有利があるというだけだ。
私は、「キャラデザに数十万をかけたものの、デビューしてみたら鳴かず飛ばずだった」という同業者を何人も知っている。
必ずしもそのかた自身に落ち度があったとはいいきれないが、何らかの計算違いはあったのだ。
そういったケースを想定せず、闇雲にお金をかけようとするのは、いわば、挿絵のクオリティに運を託すラノベ作家のようなものかもしれない。
挿絵の力で人気になる場合もあるだろうが、そうじゃない場合もある。この場合、そうじゃない理由は明らかだ。挿絵を気にするより、作家にはまずやることがある。
私としては、生みの苦しみを知る意味でも、数十万がコケるリスク軽減の意味でも、一度はゼロから自作してみることをオススメする。
今は無料・安価で高品質な3DモデルがつくれるVRoidがあるし、Live2Dも簡単にカスタマイズ可能なテンプレートを公式が用意してくれている。
私は、デビュー前も多少絵を描いていたが、とても人にお見せできるほどではなかったので、Vtuberデビューするにあたり、あらためて絵の勉強をし、Live2DやVRoidの制作をおぼえ、blenderとunityの使い方を学習した。
今は大抵の知識がネットで手に入り、これら技術を習得するのにかかる時間は1~3ヶ月もあれば充分だ。かかる時間は、依頼した場合と大差ない。なら、多少自分で汗を流してみるのも、悪くないと思う。
そのうえで、自分の活動に合わせて、よりよいキャラデザを依頼するのもいいだろう。
活動してみて初めてわかることもあるし、リスナーの反応をリサーチしてから依頼できる点もメリットだ。
どのみち、Vtuberの多くは、活動するうえで姿をたえずアプデしていくものだ。
最初のはじめましてはたしかに大事だが、全ての勝負を開幕初手に全賭けする必要もないだろう。
【やりたいことは何でもできる】
この世界は自由だ。何をやってもいい。正確には、何をやってもVtuberというカテゴリに包括することが可能だ。
普通、建築士とゲーム実況者とダンサーは同じカテゴリ内に共存できないが、Vtuberなら建築系Vtuber、実況系Vtuber、ダンス系Vtuberという形で、Vtuberという大きな枠組みの中で共存できる。
それは色んなかたと知り合いになれるということであるし、逆に何に手を出してもVtuberという枠組みから外れる心配がないということだ。
突然、雀魂にハマってもいいし、海外の誰も知らないB級ホラーをディープに紹介してもいい。安心して挑戦できるし、安心して趣味に走れる。
上記の作曲やモデリング等もそうだが、私がVtuberになってからできるようになったこと、知ったことはあげればきりがない。
今となっては、逆に何を怖がってそこまで挑戦を避けていたのだろうと、デビュー以前の自分を振り返って思う。
やろうと思えば何でもできるし、逆にやらない選択肢をとることもできる。それがVtuberかと思う。
どんな分野の企業もそうだが、Vtuberプロデュースをする企業もまたピンキリだ。
悪い企業は、企業の名義貸しだけして手数料を巻き上げていくし、良い企業はマネジメントが手厚かったり自社の強みを持っている。
ただ、良い企業に所属するのは、もちろんその対価に伴う責任を背負うということでもある。たとえば、再生数やノルマ、ビジネスブランドの維持などだ。
良い環境というのはあくまで素地であり、木に成っているぶどうが勝手に落ちてくるわけではない。
つまり、結局自分の身の丈に合っているか、性分に合っているかという話になってくる。
自分で判断し、自分で活用できるひとなら乗りこなせるかもしれないが、企業を目指すかたは「とにかく企業勢になれば…」と思っているかたも多く、そういうかたには向かない……までいかなくても、かなり苦労されるのではとは思う。
プロデュース事業も結局は営利ビジネスであり、採算がとれなければ事業を撤退する可能性は全然ある。
これは早ければクオーター(3ヶ月)で閉幕することあるし、半年、もしくは年度締めということもある。
そんな時、キャラデザの権利、IPの権利などを企業側が握っていると、個人Vtuberとして独立できず、一緒に撤退(卒業)せざるをえなくなってしまう。
なので、企業に所属する場合は、契約書をよく読み、自分に必要な権利を過不足なく確保できているか確認が必要だ。
向こうに権利が帰属する形なら、交渉して権利を自分持ちとするか、買い取るか等が必要だし、
明記がないなら、覚書き程度でもいいので書面で取り交わしを結んでおいた方がいい。
多くの企業の担当さんも、別に鬼ではないというか、こちらが大人な対応をすれば、ある程度融通はきく。
逆に、その時点でブラックな香りがにおいたつなら、早々にゴメンナサイするのがお互いのためだろう。
私は自由な活動が好きだし、企業ガチャでリセマラするつもりもないので、あくまで個人が性に合っている。
とはいえ、事務所による箱推し効果は強力だし、憧れている先輩の事務所に行きたい気持ちも充分にわかる。
なので、結局これらの話はすべてケースバイケースだと思う。
【いろんなひとがいる】
Vtuberの悩みとしてよく聞くのは、人間関係、つまりVtuber同士のコミュニケーションだ。
ただ、ありがたくも、私はこれらの悩みで苦しんだことがあまりない。
全くないとまではいわないが、それらを巧妙に回避して今に至る。
というか、世の中には色んなひとがいる。Vtuberも様々だ。そこで交友関係を増やせば、合わない人が出てくるのも当然だろう。
たった40人弱の学校教室の中でさえ、人間関係のトラブルは頻出し、グループやカーストが存在し、全員と仲良し!が難しいのに、教室を出た瞬間それができるようになるのもおかしな話だ。
なので、自分の合うひとと仲良くすればいいし、そうでないひととは距離を置いたり、大人な対応でやりすごすのが吉だと思う。
結果、友人が少なくなったとしても、それが自分のだいすきな人たちなら、恐れるものは何もない。
少なくとも、合わない人とストレスを抱えながらワタシタチトモダチダヨネーするよりは、はるかに健全だろう。
仮に、それでも関係性を切れない切りたくないという場合は、そこにしがらみや打算があるのだと思う。
しがらみを断つには勇気と体力がいるし、打算があるならストレスはただの対価で、呑むか呑まないかの話だ。
決断を迫られる場面だが、決断さえすれば、そこから先は全て自分の意志で歩く道だ。何より、気楽でいい。
【いろんなひとがいる2】
むしろ、私が悩むことが多かったのは、ファンのかたとの距離感の方だ。
特に私はセクハラ系のコメントが苦手で、これに立ち向かえる強さの修得に時間がかかった。
逆にストレートな好意も、自分がそこまでのにんげんには思えず、うまく受け取れず、いつもどうしていいかわからなかった。
長文コメや連コメは要約したりまとめて読み上げ、荒らしをかわし、際どい書き込みをいなし、いさめ、香ばしい流れの時は話題を変え、遠慮するところは遠慮し、押すところは押し、嫌なことは嫌といい、うれしいことはうれしいといい、感謝の気持ちは伝えられる最速で伝える。
それでもたまに、特に否定的な意見ならともかく、真っ向からの好意などに対しては、ふっとノーガードで食らってしまうことがあって、そういう時は激しくテレてしまう。
けれど、これは多分贅沢な悩みというやつだろう。
YouTubeの収益化さえ通っていない私が、なんとか暮らせているのは、FANBOXやBOOTH等によるところが大きい。
プロ絵師のさいとうなおき先生もどこかで言っていたが、今は小規模な個人がマネタイズしやすい時代だ。FANBOXやFantia、BOOTHやBASEなど、気軽に応援したりされたり、気軽に売ったり買ったりが、当たり前かつ無料でできる。こんな状況は10年前では無理だった。
また、FANBOXやBOOTHのいいところは、還元率の高さだ。
YouTubeなら6~7割、他プラットフォームなら2~3割の利率が多い中、FANBOXやBOOTHは、9割以上がこちらに還元される。
仮にYouTubeで月10万円得るなら赤スパリスナーが14~17人必要だが、FANBOXなら11人だ。一人当たり5000円、3000円で考えれば、この差は更に顕著になり、10人20人の違いになってくる。
つまり、FANBOX等に軸足を置いた方が、小規模で生計を立てやすい。それはファンのかたの投げ銭を無駄にしないで済むということでもある。
もちろん、「なるほど!FANBOXならお金が稼げるのか」というほど単純な話ではない。
それは、企業に参加すれば人気になれる、有名絵師のイラストなら人気になれるといっているのと同じだ。
ここまで来るのには、たくさんの苦労もあった。
私はかなりの面を自作で乗り切ったが、どうしても時間はかかるし、つよつよPCにつよつよマイク、VR機器、採算が合うまで無限に出ていく生活費、すべてトータルすれば200万は溶かしていると思う。
それでも私は諦めなかったし、諦めるという発想がなかった。だって、すべてが楽しかった。楽しいことにかかる出費は実質0円だ。大変だけど、つらくはなかった。
結局、私は貯金してためた200万と数年をかけ、どうにかこの道で食べていくチケットをもぎとった。
18禁界隈に足を突っ込めば、更に収益化しやすいかもしれないが、残念ながら、私は18禁の活動は一切していないので、そこのブーストはかからない。
ASMRもしないし、外国語もできないし、ゲーム配信もコラボもほとんどやらない。
やったのは愚直な努力ばかりで、年1000回前後の配信と数十本の動画投稿、定期的なオリジナル曲やグッズ制作、twitterやFANBOXの更新、新しい技術の勉強、ファンのかた達との日々の交流などなど…。一個一個は地味だし、あまりうまくいってない部分もあるかもしれないが、「力こそパワー」の脳筋スタイルで壁を殴り続けてきた。
おかげさまで、今では根強く応援してくれるファンのかたができた。この繋がりが自分の何よりの宝だ。応援には答えたい。それが次のがんばりに繋がっている。
今の私の目標は、今まで私が誰かに助けてもらったように、私も誰かを助けられるひとになって恩返しをすることだ。
知ってることはシェアしたいし、誰かのママ・パパになってみたいし、それで楽しんでVtuberを続けるひとが増えてくれるとうれしいなといつも思う。
Vtuberは私にとって最高の遊び場だ。その遊び場がより楽しくわくわくする場所になってくれれば、結局その効用は再び私に返ってくる。打算的Win-Winというやつだ。
私が今ここにいるのは、たくさんのひとのおかげだし、多くの幸運に恵まれた。自分の功績とはとても思えないので、きっと前世で溺れている子犬等を助け、思わぬ徳を積んだのかもしれない。
つまり、あくまで特殊な一例として、参考程度に受け取っていただければ幸いだ。
所詮増田の文章だし、どんな界隈でも、いい経験をしたひともいれば、悪い経験をしたひともいるだろう。
これは、その程度の、ごく普通な、特例のひとつだと思う。ご精読ありがとうございました。
いくつかご意見・疑問等いただいたので、可能な範囲で答えたいと思います。
このご指摘をいくつかいただきました。確かにこの部分には意図的に書かなかった点があります。
それは、私が複数のプラットフォームで配信していることで、年間1000回配信はこれらの合算数です。
この話をすると、配信プラットフォームの組み合わせでかなり特定が容易になってしまうので、書きませんでした。
個人事業届も出しており、これから確定申告が待っています。ちょっと憂鬱。
・これを元増田に当てるのはひどい
もともと別例あげての平均化が目的だったので、対比する形になってしまった点は否めません。
また、自分の好きな界隈が"クソ"と言われてしまい、「そんなことないやい」と言いたかったのもあります。
・収益化してないんかーい
YouTubeはしていないです。
ただ、PRやアンバサダーなどの企業案件はいただけますし、VR上のアバターワークなどもあります。
個人的には、Vtuberというipで広く収益を得られれば、それでいいかなと思います。
・その規模でそんなに支援される?
個人で登録者500~1000人前後で食べれているひとは全然います。クリエイター系は顕著ですが、ゲーム実況メインのかたもいらっしゃいます。
自分の肌感ですが、個人なら、登録者3桁か4桁が一番身軽で専業化しやすいと思います。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1819901
このコメント見てて思ったけど、リアルの老害と同じようなコメントばっかりだわ
元のまとめは「お客様意識をやめないと発展しないよ」っていうのが一番大きな趣旨
人間は完璧じゃ無いからバグは必ず存在するものとして、それがクリティカルにならないようにいかに防ぐかを論じて欲しい
例えば自動テストをしっかりやってからリリースするとか、バグ発見からの修正までのリードタイムを最短にするとか
30年以上前からソフトウェア工学的には当たり前のように言われてたことなんだけど
はてなーのトップブコメもそんなのばっかりだから、スター付ける人含めてそういう老害(感覚の人)ばっかなんだろうな
karikari1255 使う側はその意識になってほしいけど、作る側が多少バグっててもいいでしょって言うのは違う感じがするけどなあ。テスラに乗る気がしないのはこの辺の感覚の違い
使う側と作る側を分けてる時点で理解できてないが、作る側は「多少バグっててもいいでしょ」なんて思っていなくて、バグは絶対にゼロにはならないし、減らすには多大なコストがかかるから、そのコストをかけるぐらいなら別の新機能とかにコストをかけた方が良いという判断をしているだけ。あと、テスラに乗る気がしないのはきっと別の理由。
dot 不具合の頻度や致命的かどうかなどが重要なパラメータで、軽微なものは気にせずできるだけリリースサイクルを早める方に労力を使った方が良いモノができるというのは同意。正直バグの種類によるとしか言えない。
頻度が高かろうが致命的だろうがバグは必ずあるのでバグの種類なんて関係ない。高頻度・致命的なバグは修正が早いかどうかだけが指標であってあるかないかなんて誰も分からない。テストである程度は防げるがそれでも完全ではないので「バグがあるかもしれませんがよろしく」という感覚に違いは無い。
findup 家電が誤動作するとかATMから稀にお金が出ないとか電子決済が時々失敗するとかそういうのも許容できるのかな…?敢えて言うならWeb屋さんの言い訳って感じもする。もちろんバグゼロなんて不可能だけど。
家電だろうがATMだろうが電子決済だろうが今のシステムにもバグは内包されていて、単に確率の問題。バグがあって不利益を被ったときに許容しろなんて言ってるわけじゃ無くて保証はされるべき。ただ保証されようが何をされようが許さないというのがお客様感覚という話。今やLintやテスト環境含めてWeb系の方が圧倒的に進化してるのに未だにJavaScript書いてると思ってる典型。
stracciatella 若いときはそうも思っていたけど、アメリカ住んでてトヨタ車の新車が高くて中古価格も全然下がらないのを見るとそこまで同意できなくなった。裏を返すと日本でテスラがどれだけ受け入れられるかということでもある。
自動車なんて「多少のバグがあってもリリースするもの」の代表的なものだと思うんだが、何故にこの手の人はトヨタの自動車を絶賛するんだろう。そのためのリコール制度だよね。
まず使ってる費用と品質っていうのは相関関係にないことが理解されていない。プロジェクトのテストにかける期間は実装の3倍とかが良いとかいうのはあるが、そもそもの期間が決まっていてバグによる不利益よりも得られる効用の方が大きいなら後から直せば良い。
Sakana_Sakana 医療機器にバグが有って死亡しましたとか、ロケット落ちましたとか、重要なのはどこまでバグを許容するか正しく判断できる責任者、経営者の能力が足りていないのが問題だと思うよ、ゲームでは人死なないもんね
バグの許容は判断とかではない。バグはあるし、低い確率だが起きる可能性はある。医療機器やロケットは多重にバックアップすることでその確率を限りなく小さくしているに過ぎない。だからこれは責任者の能力ではなく、単にシステム構成の問題。あと、ゲームでも人は死ぬ。銀行システムのバグで(直接的に)人は死なないよね?って言ってると同じ。ゲームを舐めてる人って割と多い。
書くことはつらい目に遭っている人の心のバランスを取る効用がある。
古くは司馬遷だったり、マルキドサドだったり、それを翻訳した澁澤だったり日本のヤクザ小説家だったり、政治家だったり。
それぞれ集中しやすい獄中からなかなかの名作本を書いている。https://scrapbook.aishokyo.com/entry/2015/12/20/112208
また自分は本をかけなくてもインタビューに答えて出版してもらう形で印税を得る人もいる。
それではてなブログもとりあえずは「自分を表現してみませんか、自分を振り返る効用がありますよ」ということで
10年つづいてきた(今キャンペーンをやっているhttps://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog10th-question10 万ねん筆だのインクだのの筆記具をくれるらしいが、万年筆って蓋をしていても一か月もすれば中身のインクがカラカラに乾くから個人的には嫌い)。
ダイアリーといいながらも、わりあいに小説だったりエッセイと呼べる程度にクオリティの高い長文が投下されていた。
はてなダイアリーはすんなりとはてなブログに移行され、どちらもたしか6万字程度が上限だった。十分な長さだ。
ところが横の連帯はキーワードリンク程度しかない寂しい修行場のような場所でもあった。
そこではてなハイクができた。上限たしか1万字程度で、論戦には十分だが基本的には猫や鳥や料理の写真と大喜利が主流であった。
だがツイッターの台頭が「牢屋や修行場のようにしずかでいること」あるいは「なごやかな大喜利や生活報告にとどまること」をネット民に許さなかった。140字の揚げ足取りがネットの主流になってしまった。
ツイッターに論客()を取られたあとのはてなには100字のはてなブックマークとはてなダイアリーのシステムをほぼそのまま流用した使いづらいはてなアノニマスダイアリーが残った。
ここでいいたいのは、増田で書くことには効用が薄いということだ。人前ではいえないこともSNSでいくらでも本名から遠いハンドルネームをつくって書いたり同士を募ったりすることができるのに、そのハンドルネームによるアイデンティファイさえ捨てて言いたいことなど、この増田をみていてわかるように
「もっと俺をみろ」
「パンティ見せろ、しゃぶれ」
という5歳児のような(いや性欲がある分5歳児より悪い)我欲の塊でしかないのである。
まるで、「蜘蛛の糸」でお釈迦様が糸をたらした地獄そのものだ。ありもしないチーズを探すネズミどもの居場所がここなのだ。
だから、文章を書くときは、ここ以外で書け。効用を求めるのならIDをつけられる場所で書け。できれば自分だけのために書け。
ここで書きだしたら終わりだと思え。
20代後半から意識して強めの外見にしたが、さまざまな利点を感じている。
・丁重にあつかわれる
・絡まれない
・無駄に声をかけられない
・過度にかかわってこない
舐められないことの効用が非常に大きく、知らない人はもちろん友人との関係も良くなっているように主観で感じる。なんというか以前より尊重されている。
どんくらい強めの外観かというと、エグザイル寄りのモブという感じ。
20代前半までは若いころの加瀬亮のような曖昧な髪型をしていたが、アラサーからおでこを出す髪型にチェンジした。眉毛も整えた。髪も少し明るくした。
着る服は自分がいいと思うより一段階だけ雰囲気の彩度をあげた(すこし派手かな?と思うくらい)。
あとは月一で美容室にいき維持するだけ。
弱くみられるよりも強くみられるほうがずっといい。
最初は恥ずかしいと思うが試してほしい。
だってなんの論拠もないじゃん
ある民度ならこのレベルの事件が発生する確率はどの程度、みたいな仮設を立てて
複数の国家や時間にまたがって検証するなりしたうえで言ってる、ならまだわかるが
しかしそれだってレアイベントなんだから、単一の発生で「驚く」というのはよっぽど発生確率が低くないとありえないし
そんな事実はない
政治運動において敵対者への嘲笑は時代や地域を超えて普遍的である。
SNSにおいても、特定政治家のみならず支持者や大衆への嘲りは、もはや見飽きた光景だ。
だがその効用は明らかとは言い難い。
嘲笑することは一見、敵対者への攻撃にはなるが、第三者の反応はまちまちだ。
一緒になって攻撃するか、逆に攻撃者への批判を呼び起こすか、そういった争い自体を忌避して場を立ち去るか。
とくに、最後の効果、つまり政治自体を忌避させる原因を、政治運動における嘲笑に帰結する分析もある。
支持を拡大するという目的にマイナスにもなりうるのにも関わらず、なぜここまで嘲笑が溢れているのだろうか。
社会学において支配関係を類型化した初期の学者であるマックス・ヴェーバーは、政治運動の上層部が運動員に与える精神的報酬のひとつだとしていた。
選挙活動などの強力な支配行動に人々を動員するには当然、従わない人間よりも多くの報酬が必要である。
しかし、(とくに猟官制の廃止された後の)民主主義では、大衆を動員するときに直接的な経済的見返りを与えられない。
それ故に様々な精神的見返りを与えることが必要であり、「嘲笑のための大義名分」がそれにあたるのだと。
この描像だと、嘲笑はあくまで精神的な見返りのひとつであり、怒りや復讐心の発散なとど同列とされ、そこまで重視はされていない。
政治家がトップダウンで操る戦術のオプションとして扱われている。
現代的な心理学の描像だと、嘲笑はもっと政治に直結したものだとみなされる。
そもそも、「笑い」という行為や付随する情動は、自他の思考や行動の間違いを指摘するために獲得されたと考えられている。
人は、社会的に正常な状態だと思いこんでいた状態が間違っていると発見したとき、その気付きに対して笑う。
自分が間違っていたと自分で気づいた場合には行動を改めるだけだが、重要なのはこれが仲間に、かつ攻撃的に向けられたとき(すなわち嘲笑)だ。
期待されている効果は、間違っていた人間が態度を改め、仲間に従うことだ。
だが、仲間の「間違い」に気づいたとしても、実際に正しいのは自分なのか、相手なのか。それはどうやって決まる?
社会的な正常さを決めるのは、群れの政治的力学だ。人間の原始的社会は単純な多数決でもないし、かといってリーダーや強者による完全な序列制でもない。
たとえば、強く序列が高い人間の笑いには追従の笑いをもたらす効果がある。これによって周囲から笑われた人間は態度を改める。
しかし、リーダーが明らかに間違っている場合には、群れの全員から嘲笑され、リーダー側が反省を強いられる場合もある。
場違いな場面で他人を笑った人間が、逆に間違いを笑われることもあるだろう。
このように、嘲笑とは複雑な政治行為の最も原始的な発露であり、人間特有の行動である。
無論、現実、とくにSNS上の政治言論における嘲笑はこの2つの描像の中間にあるというのが実際のところだろう。
特定の政党や政治家、言論人が嘲笑行動を種々の政治目的で扇動する場合もありうる。
そういった目的を持たない、無意識の笑いが政治シーンに影響を与えることもある。
ただ、そういった背景を無視して効果だけを見れば、ひとつほぼ明らかな事実がある。
嘲笑は多数派を固めるためだけに有効であり、それ以外の場合には逆効果になる、ということだ。
集団的に行われる嘲笑は、味方には精神的報酬をあたえ、仲間関係を確認し、支持を固めて動員する効果がある。
また、怒って反応する敵対者をあぶり出し、敵として認定することもできる。
日和見派のうち気の弱い人間には追従笑いを引き起こす。彼らはすくなくとも言論の場では逆らわないことが期待できる。
そして、何よりも重要なことに、それ以外の無関心層を遠ざける効果がある。
これによって、多数派の勝利を確定させる一方、少数派にとっては確定するのは敗北となる。
さて、ここから考えると、もしあなたがすでに多数派だとわかっている場合だけ、集団嘲笑戦略をとるのが合理的である
だが現実には、少数派が集団的に他人を嘲笑し、かえって袋叩きに合い、劣勢を固めてしまうという現象はありふれている。これは何を意味するか?
まず、自分が多数派か少数派かを判断するのは、大半の人間には難しい。
社会調査などの客観的な指標でなく、周囲の人間の意見を重視してしまうバイアスは容易には逃れがたい。
次に、感情を抑えてまでマクロに合理的な政治行動を行うほどのインセンティブは個人にはない。
感情が進化的な意味では合理的であったとしても、それは過去の環境に適応したものであり、現代政治における合理性とは相容れない。
これらはそもそも戦略的に振る舞えない個人がいるという問題だ。
が、真に重大なのは、この理由により「少数派に属している時、味方が嘲笑という不合理な選択をとりうる。そしてそれに対する良い戦略がない」ということだろう。
その味方は自身を多数派だと意識的あるいは無意識に考えている。
嘲笑に追従しないことは、対象を孤立させるシグナルとなるし、たしなめたり批判したりすれば敵対行為だとみなされるだろう。
よって追従することが局所的には合理的だが、それにより嘲笑は拡大し、多数派の敵対者や日和見派の目にとまり、敗北を拡大することに貢献してしまうのだ。
この問題にたいする回答は筆者の力量では思いつかない。
SNS上において政治言説をひろめたい、政治的に少数派であると考えている人々は、この現象に対応する戦略を考案する必要があるだろう。
戦争というか大戦が重要なのは「負ければ全て失う競争は新規獲得資源がなくても事実上効用に限界が無い」こと
技術発展のためには当然それによってなんらかの効用が得られる必要がある
普通の資本主義経済でもこれは十分達成できるように思われるが全然そうでもない
ペイする科学技術のためには市場がかなりの勢いで拡大し続ける必要があり、平時には全く達成できない
例外は未開地がまだあった時代で、アメリカ開拓自体に様々な科学技術が発展したのは原住民ぶっ殺せば手つかずの大陸があったからだ
それらを収奪しまくって市場拡大できる見込みがあったから山師みたいな発明家たちにも金が唸るほど回ったが
現代では発明すればするだけ金が得られるなんて状況はありえない
すげえ物理学者でも、まあ芸術活動予算ぐらいの規模しか動かせない
お互い強くなる上に負けたら自国の社会が崩壊するというめちゃくちゃでかいマイナスの効用が期待されるから
その分までは勝利のために金を積み上げられる
一見コスト度外視、人命軽視で核実験だろうがなんでもできるわけだ
もちろんこれは実際にはコスト度外視じゃなくてもっとでかいリスクを避けるための合理的判断なわけ
老化や死というマイナスを避けるためならやっぱり人は際限なく金を出しまくるし科学技術の発展著しいのもここ
もちろん資源獲得とか開拓がつねにうまく行けばそれだけで科学は際限なく発展しうるだろう
よくいわれるように、結局のところ、ある絵画が性的であるかどうかはその絵そのものに内在する条件によって決まるわけではなく、それを見る視線の性質によって決まる。
性的に見る心があれば全身を布で覆っていても性的だと感じられるし、とくべつ性的と見なければたとえ全裸であっても性的ではない。そういうことでしょう。
…たしかに。この賢明な切り口によって、より問題点はクリアになったと思う。
絵が性的か? ではなく、性的にみられやすいとコンセンサスのある絵か?
それが問題だ。
☑︎ 躍動感の表現とかだろうか / わからない。その質問は「ドラえもんがなぜ青いか?」と同じだ。意味はあるだろうが、何を意図しているかは知らないし関心もない / 本人の気分では
——初見で見る人がどう思うか。
「僕個人のフェティシズムで興奮しているのだ」と判断するならば問題はない。
当人が、たとえばアイドル的ファッションを選好していたのだとしても、初見の人が「これを観てセクシーだと思う人多そう」と感じてしまうならば…
アイドル文化と性的興味の惹起は切っても切り離せない関係にある。アイドル当人も気づかぬうちに、文化が運んできた、その効用にあやかってしまっていて、リスナーが「あやかっていると判る」のなら…
採用した側は、女性性の使役をやっているのだと批判されても文句は言えない。
「性的にみられやすい絵。わかっててあえて利用しているんですよね」