はてなキーワード: 追体験とは
https://anond.hatelabo.jp/20201103224649
「つらいね」「ファンとして同じ気持ち」「画集/タイツ買って応援だ」等と言ってくれた人達、おかげで気持ちが落ち着きました。ありがとう。
うまく伝えられなかったかな?と思ったことのひとつが、私はいちタイツユーザーとして、件の企画への違和感があったということです。ファンとして巻き込まれて悲しいってだけじゃなくて。
私はタイツフェチ絵を楽しむ女性ではありますが、同時にタイツを毎日履く女性でもあります。防寒目的だったり、ファッションの一環だったり、セクシーに見せたかったり、露出を抑えたかったりとその動機はいろいろですが、そういう顧客の気持ち(要望?欲望?)に寄り添った企画ではないと感じました。イラスト自体は好きだけど、「私はこのタイツでこうなりたい」より「タイツ女子いいよね」が起点にある表現だというか、タイツを履く人の目線じゃなくてタイツ女子を愛でる視線が強いというか。具体的にどこがと言われると感覚でしかないんですけど……(だから否定もしきれない)。
でも、そう思いつつもいろんなタイツを知るきっかけにはなって、結果として私の購買意欲はあがったんですよ。だから広告として一定の効果はあったんだよねと認めてもいるのです。これがpixivのイベント会場での企画展示だったり、アニメイトでイラストパッケージの商品を販売したり、ということだったら(TPOに即していてターゲット層にバッチリ届くという意味で)成功だったんじゃないかな…と想像せずにはいられません。ここらへんの分析や是非論は広告のプロの方に譲りますが。
ここまで、あくまで企業広告としてどうなんだろうという顧客目線での違和感の話です。あれらのイラストが女性蔑視で社会的に許されない表現なのかとか、成人向けコンテンツと同様に公共に出してはいけないものだったのかとか、そういう論点であれば私はイラストを擁護しますが、それはまた別の話じゃないかと思います。
コメントで腹立たしかったのは、「男オタク趣味でしかもロリ表現が好きって、性暴力受けたことないの?それとも性暴力を追体験したいの?」「もっと酷いことされたいのかも」「ブスで自尊心低いとそうなる」「性を売ってちやほやされるのが好きなんだろう」「年を重ねても頭が弱くて気づけない」ってマジで言われたことです。ツリーにぶらさがってます。
創作物の好みによって、こんなこと言われる筋合いは一切ありません。
「男では」とか「名誉男性」とかいう言葉もちらほら見かけました。女性が今回のようなイラストを好きだと表明するだけで、こんな言葉をふっかけられるのは異常じゃありませんか。
女性が(男性も)どんな表現を楽しもうがこんな偏見を持たれず、性を主体的に謳歌するのが当たり前の社会になってほしいと思います。
あと、これはどうでもいいことですが、私に対して「フェミが付け焼刃で作品調べて、オタクのふりしてイラストを批判してる」と言う人と、「内部事情に詳しそうだ、これは関係者本人がフェミのふりをして企画を擁護してる」と言う人が両方いたのにちょっと笑いました。
さて、いろいろ書いてきましたが、一番いたたまれず心配しているのが、関係者へ罵詈雑言が浴びせられている現状があることです。全体的には「広告としてはね」という穏健な意見が多い?と私は思ってるんですが(たぶん…)、中には関係者に対して「死ねばいい」とすら書く人も本当にいるんです(見ました)。
もちろん逆に、私は見ていませんが、企画が嫌だなってコメントしただけなのに罵詈雑言を浴びせられた人もいると思います。
炎上させるつもりがなくても、何気ない意見表明が数十万数百万と一気に積み重なった時、その総体は誰にどのような影響を及ぼすのか、なにが起こるのか……。叩けるものが現れたって意気揚々としてしまうことはありませんか?傷つけられた側なのに配慮を求められるのはおかしいっていうのもわかるんですが、どの立場の人も、意見表明のしかた、加減、タイミングを意識すると、もうちょっといい社会になるかも……なんて昨今の繰り返される炎上劇を見ていてよく思います。
名目上は出張打ち合わせなんだけど実態は社員旅行で、そこに仲のいい業者さんとかが入っててそのうちの一人だったワイ
社長さんの現地の友人がガイドになって普段の観光コースでは行かないようなところ(と本人たちは言ってた)にあちこち連れて行ってもらってあっという間の一週間だった
珍しい場所や普段入れない場所というわけじゃなく、現地友人の方たちが中学生のころに集まってた秘密基地めぐりとか、観光客があまり行かないマズイ飯屋巡りとか、切って焼いただけの手料理とか、観光やコースでは絶対体験できないことの毎日で本当に楽しかった
あまりにも楽しすぎて数年後に一人で沖縄旅行に行ったけど、やはりあの場のあの人たちのあの時の時間があってこその観光体験であって、追体験どころかそもそもあまり楽しい旅行にもならなくて、楽しかった思い出だけで生きてく方がよかったなとがっかりして帰ってきた思い出もある
ほんと楽しかった
フェミニズムのために、創作物が改変されるかもしれないことに、言いようのない恐怖を感じている。
女性が女だからという理由だけで不当な扱いを受けるのは当然嫌だし、男性が男だからという理由だけで不当な扱いを受けるのもおかしいと思う。
そういった、現実に蔓延る性差別を無くしていくためのフェミニズムは、支持している。性による違いは出来る限り理解し合い、なおかつただ性別のみによって差別されることのない世の中になっていってほしいと思っている。
でも、そのために創作物を捻じ曲げるのは、恐ろしいと感じてしまう。
ここで言う創作物は、フィクションを取り扱ったエンタメ作品くらいの意味合いだと思ってほしい。エンタメ作品にも色々定義があると思うけど、「こうしなければならないというような教材ではなく、視聴者読者プレイヤーといった受け手が『楽しむ』ことを主目的とした作品」くらいの気持ちで、この文章を書いていることを念頭に置いてほしい。
ジェンダー観が見直されつつあり、従来の慣習に対して、こんな扱いは不当である、性差別である、という声が上がるようになった(これは良い)からか、創作物に対して向けられるこんな声が目に留まるようにもなった。
「この作品の○○という表現は、ジェンダー観が古いからやめるべき」「この作品内で女性を活躍させるために□□するべき」「この登場人物の△△という価値観は男尊女卑だ」etc.
自分には少し理解が出来ない考え方であるため、あくまでも想像だが、このようなことを主張には「この創作物を真に受けて、現実に同じ考えを持ち込む奴がいるから、創作物を正した方がいい」という考えや、「この創作物内の女性を不当な差別から救わなければ」、「この表現によって自分あるいは他者が傷付く」というような考えがあるのではと思っている。間違っていたらごめん。
私は、前者の意見には「正すべきは創作物ではなくて創作物内の話を現実に持ち込んだその人本人や、世間のの考え方だ」と思うし、後者であるならば「救うべきは架空の存在ではなく現実の人間だ」「誰も傷付けない表現は無い」と思っている。
フィクション内の誤った価値観が創作物に氾濫することで、現実への影響を危惧する気持ちは分かる。
よく議論される題材として「暴力及び性描写のある創作物の影響で、犯罪が誘発されないか」という話がある。この辺の話はこれまでにも散々議論されているので割愛するが、私自身の個人的な見解は「影響があろうがなかろうが、最終的にやってはいけないことをやった人間が圧倒的に悪い」だ。
暴力も、性犯罪も、性差別も、やってはいけないことをやった人が悪い。その行為が現実に可能かどうか、その難易度を問わず、やってはいけないことをやってはいけないのだ。その責は当人にある。
所謂良くないジェンダー観に基づいた描写で、傷付く人がいるのも理解できる。
フィクション内の人物に対して「こういう扱いはこの人物を蔑ろにしている」と言う人に対しては「なんでお前がこの人の感情や幸せを決めつけるんだそれこそ偏見だろうが」くらいの気持ちで憤るが、例えば同じような扱いをされた経験がある現実の人間が辛い感情を追体験して傷付くことは想像に難くない。
それはもう、「この人物は貴方ではない、この扱いや言葉は貴方に向けられているものではない」と言う他ない。出来れば誰にも傷付いてほしくはないが、正直、「誰かが傷付くから」という理由で表現を止めさせることは非常に難しい。
誰もが傷付かない表現は無い。私自身、「こんな表現で傷付く人はいないだろう」というような表現が、一度見ると尾を引くレベルで苦手であるため、創作物で傷付く人の感情も理解できる。
世間的に評価され、CMで何度も流れるドラマの感動的な一台詞が、しばらく脳にこびりつくくらい嫌だった。でもだからと言ってそれを無くしてほしいとは思わない。
世間的に認められているドラマだからではない。自分の感性が少数派だからではない。
私が苦手だから、嫌だから、という一個人の感情で創作物を捻じ曲げたり、押しやったりすることが認められてしまえば、この世から創作物が消えてしまう。
誰も傷付かない表現、創作物は無い。どんなに「誰にとっても傷付く要素の無い、正しい物語」に見えたとしても、傷付く人はいる。少なくとも、私はそれに傷付いたことがあるから。
文句は言ってもいいと思うけど。嫌だと思う気持ちを抑圧してほしいとは思わない。それを理由に創作物を変えたり無くしたりしようとすると、キリが無いのだ。
思ったよりも長々と書いてしまっているが、要は「それがどんなに正しい思想であっても、現実の人間の思想のみを理由に創作物を改変することが認められれば、創作物の世界は完全に変わってしまうのでは」という恐怖を感じているということが言いたかった。
「現実と照らし合わせたときに正しい表現、正しい倫理観である」ことが、創作物の良し悪しを決める価値観となってしまうことが恐ろしい。
これは何もジェンダー観に限った話ではない。
ジェンダー観的に正しい表現であることが、正しい創作物の基準であることになれば、きっと、創作物の世界は一変するだろう。性や暴力、争いを扱うような創作物も、正しく、倫理的で、現実世界のお手本となるようなものであることが求められるようになるだろう。
ジェンダー観を正す思想がどんなに正しいものであっても、それに基づいて創作物を改変することが認めれれば、それ以外の分野においても、基づくものが正しい思想であれば創作物を改変可能になるからだ。
きっとそれが、これから先の社会に求められる「こうあるべき創作物」なのかもしれない。そういう創作物に満ちた世界が、正しいものなのかもしれない。
そして私が愛した創作物は、私を楽しませてくれたフィクションの世界は、おそらくそこには無い。
それが正しい世界だと言うのであれば、私が好きになったものが間違った創作物で、それがあるべき姿になったのだと言うのであれば、私も淘汰されるべき間違いなのだろう。それが正されるということなら、仕方がない。
ただせめて「ジェンダー観の正誤が創作物の価値基準であり、創作物は現実の手本となるよう正すべきという自分の主張は正しいものである」と思っている人達が、ほんの少しでも「本当にこれでいいのだろうか」と考える切欠になってくれたらいいなと思う。
例え真に「創作物を、現代的な正しいジェンダー観に合わせること」が正しい思想であっても、自分の思想が絶対に正しいものであると信じ込むことは恐ろしいことであるから。
私は、現実世界のお手本になるようなジェンダー観の作品も、そうではない作品も、平等に創作物という舞台に上がってほしいと思っている。全ての創作物が、現実の見本になる必要はない。だって創作物はフィクションなのだから。
勿論フィクションなら何をやってもいいという話ではないが、フィクションなら必ず正しくあるべきだという話でもないだろう。私は、そう思う。
偉そうに書いてしまったが、私も自分の考えが絶対に正しいものだとは思っていない。きっと間違っているだろう(そもそも、良い方向に改善しようという思想に反発している時点で、間違っているのは私の方だろうという不安も当然ある)し、もっと良い考え方もあるだろう。
だからこれを見て、「こんな考えは杞憂だ」「間違いだ」でもいいから、現実の思想のみによって創作物を改変することの是非を考えてみてもらいたい。正直滅茶苦茶に叩かれて炎上してでもいいから、一石を投じたいとさえ思う。
私一人が、自分の中でぐつぐつと考えを煮えたぎらせても良い結論は出ない。ああでもないこうでもないと、考えを走らせてくれる人がいてくれればと思う。
そして、現実のジェンダー観がより良いものになることと同じくらい、創作物の未来が少しでも良いものになることを願っている。
<9/22追記>
反応ありがとうございます。
言いたいことが上手く伝わっているような反応も、いないような反応もありますが、とにかく少しでも誰かに考えてもらえたり、考え方のヒントをいただければと思っていたので、どれもありがたい限りです。
私の書き方が悪いために、認識の齟齬がありそうな反応に対する擦り合わせは、大変申し訳ありませんが割愛いたします。(まだ見てくださっているかどうか不明なので……)
>銀英伝
すみません、銀英伝は未読・未視聴のため、その話ではないです。でも件の騒動は話に聞いていて、自分の不安に近い話だなと感じました。
元になる原作がきちんと残されていて、時代に合わせて物語表現のレパートリーが増えるのは私も良いことだと思います。でも現在進行形未完の作品の変容だと、これで本当にいいのだろうかと思わざるを得ない部分があります。
例えば「主人公の男の子が、幼馴染の女の子を救うために戦う」という話があるとして、「戦う力を持たない女の子を守りたいという、単純な動機のために懸命に戦う少年の姿を描く作品」だったものが、やがて「女の子だから守りたいという動機は不純だ、女の子に戦う力が無いのは女性軽視だ」という声を受けたことで「幼馴染と主人公が平等に戦う作品」へと変容していくのも、時代の価値観に合わせた変化なのでしょう。(勿論、元々物語の構成として、やがて後者へ変化する予定だった場合は別です)
「戦う力を持たない女の子を守りたくて戦う男の子の物語」も、「女の子と男の子が平等に戦う物語」も、どちらも素敵なストーリーであって、どちらもあっていい物語のはずだと思うのですが、前者のストーリーは現在の価値観的に間違っているからという理由で、後者に方向性を修正していくべきであるという変容の流れを、受け入れ難く感じてしまいます。私の考え方が凝り固まっているからなのかもしれませんが。
前者の物語が前者の物語として完結していて、リメイクなどで後者バージョンの物語が展開されるなら、単純に「リメイク後もいいけど、私はリメイク前の作品が好き!」で済むんですが。難しいですね。
>ジェンダーだけじゃない
私もそう思います。たまたま私の周りでジェンダーに関する話題が活発だったので、ジェンダー観に関する理由を元に表現やストーリーを変えてほしいという声が多く見られただけで、どこにでもある話だと思います。
切欠はジェンダーに関する話でしたが、それを元に「どんなに正しい思想であろうと、それを理由に創作物を現実のお手本のように整えていくことを、まるで創作物を正しく直してやっていることのように認識していて、本当に大丈夫なのか」と、少し立ち止まって考えてみたかったのです。
>正しいアップデート
必ず、全ての創作物を問答無用で正しくアップデートさせなければいけないのでしょうか。正しいアップデートであれば、創作物に現実世界の正しさという価値基準で手を入れてしまっていいのでしょうか。その必要が本当にあるのだとしても、その改変の先がどうなってしまうのか、私個人としは少し不安に思ってしまいます。
そうですね。批判も自由ですし、それを元に表現を変更するかどうかも自由ですが、表現を変更しなければ「現代の価値基準において正しくない、誤った作品」として評価され続けてしまうのは、なんだか勿体無いと感じてしまいます。創作物も商売の一つなので、売れるためには大多数の評価を取り入れないといけないのも理解はできるんですが……
私が好きな創作物も、「価値観が古い作品」「男尊女卑の作品」「誤った価値観を推奨している作品」というレッテルを貼られただけで終わっているので、そういった現実に照らし合わせた基準にとらわれない評価もなされたらいいなと願っています。
現代の人間にである私には充分魅力的な人物(ただし現実にいたら嫌な奴だと思いますが)に思えるのですが、現代の人間にとって魅力的な人物とは「現実の現代的な価値観において、現実にいたとしても魅力的に思える人」なのでしょうか。
フィクションでしか存在しえない魅力的な人物も、現実の正しい思想においては認められないからという理由で消されてしまうのでしょうか。創作物上でしか愛せないような登場人物が好きな人間としては、少し不安に思ってしまいます。
全くの杞憂かもしれない私個人の思いに対して、忌憚ないお話をいただけて大変助かりました。
自分の考えを一つの文章のみで齟齬なく伝えることの難しさも痛感しましたが、これだけ沢山の方に多角的なご意見をいただく貴重な機会となりましたこと、重ねて感謝申し上げます。
キラキラな演出、可愛いアバター、直観的な操作性とドンドン重なって行くポイント。
お着替えやラメやピンク、お友達など、幼女が好きそうな物に溢れて心が幼女にされてしまう瞬間!
脳汁がドバド出て、悩み多き友人がどハマりするのも納得だったけれど、同時に恐ろしくなったのでその感想。
プリチャンの音ゲーパートの最後には、ゲーム中で獲得した報酬(ドロップアイテムのようなもの)の、どれを持ち帰るか決める報酬取得ルーレットがあり、そのルーレットは最大8回まで回せる(らしい)。
ただし、このルーレット、最初に入れたクレジット(最大200円)を使い切った後のルーレットは、ボタンではなく、100円の投入で止める。
故に、目押しが効かない。けど、レアだけで固まってたりすると、つい100円に手が伸びる。
……という説明をしながら、鯉のエサのように100円を放り込んで行く友人。
その様はリーチが掛かり始めたスロットに何も考えず玉を投入して行く様に似て、別名女児パチというのもうなずける。
筆者は平成初期の子どもで、幼児の頃のゲーセンといえば、親に貰った500円硬貨を握りしめて、何にいくら使えば効率よく報酬を得られるかを考えてプライズを回る場所だった。
長じて音ゲーにハマったこともあったが、それもまた、報酬としてオーディエンスの声援や、それがなくても身体を動かした達成感があった。
100円あればメダルゲームなら10枚貰えて、駄菓子が2つ買えて、300円もあったらちょっと良いガチャが回せた。
それが、掛け声と共に景気良く筐体に吸い込まれて行く。
恐らく女児が満足するには500円あっても足りないし、100円だと、ルーレットで回るレア報酬を横目に画面を閉じて並び直さないといけない。
次にプレイする子が確率によってはレア報酬を目の前で引き当てる可能性に目を瞑りながら…。
こんなの、四歳児だったら心が病むか、100円が何なのか分からないまま、親に貰えるままサルのように放り込んでしまう。
実際昨日も、友人に教えて貰いながら、言われたタイミングでコインを入れたので、いくら使ったか記憶がない。
そんな経験を子どもの頃に積んで、「出るまで回せば確変」と学習して、後のソシャゲユーザーになるとか恐ろし過ぎる。
キラキラのエフェクトに、可愛いお洋服。友達のアバターとダンスを踊らせられたり、お互いの持ってるドレスを交換して着せ付けたり。
自分の持ってないコーデを貸してもらったり。
友達との人形遊びと、ごっこ遊びと、真似っこ遊びと、お外遊びの楽しい所だけをギュッと凝縮した時間を楽しめる。
例え友達の居ない子どもだって、良い大人だって、大きい兄さんだって、たった100円で追体験できる(課金を最低限にすれば)。
昨日は平日だったので、プレイヤーは友人と私含めてお姉さんが多かった。
しかし、友人も含めて、ガチユーザーはそのキラキラタイムに真顔なのである。
真顔で、落ちてくるアイテムを見極め、連コインと目押しなのである。
この表情、作業感、お金を入れることが目的となっていく感じ、どこかでみたことがある。
昨日は幼女先輩を見なかったが、幼女たちもみんな、表情筋をほとんど動かさず、常にボタン連打してるのだろうかと思うと、おばちゃんは心配なのである。
彼女の抱える複雑な事情や嫌なことと、プリチャンでの脳汁プシャーが向精神薬として結びついてしまっている友人もまぁ心配なのである。
あと、自分が親になった時に、100円でプリチャン以外に何ができると教えられるか、子どもがプリチャン仲間にいじめられない程度の課金はどれくらいなのか、ちゃんと計算できるかが今から心配…。
前回はこちら
https://anond.hatelabo.jp/20200911202150
精神的に不健康な作品・コンテンツの例として、青年向け漫画も取り上げる予定だった。もつあきさんと無望菜志さんと朝凪さんを取り上げようと考えていた。
迷った挙句に書かないことにした。男性しか読んで楽しめないものは書くべきではないと考えたからだ。かといって、私がボーイズラブの世界に足を踏み入れるわけにもいかず。
その代わり、ブクマコメントで要望のあった、精神的に健康なコンテンツを取り上げてみようと思った。
各編ひとつずつ選んで紹介する。ひとつにつき1000字程度。たまにネタバレをする。
久しぶりに読み返して、精神的に不健康な作品ってそもそもどんなものなのか?と自らに問いかけることになった。
これは面白い。「何も聞かずに読んでみて!」と無条件で人に勧めることができる数少ない漫画だ。
火の鳥。生き血を飲むと不老不死になる。彼女(?)は人間世界を見守っている。たまに人間に捕まえられて血を取られたり、稀に自分から血をあげることもある。その血を巡ってドラマが繰り広げられる章編もあれば、そもそも生き血を飲みたいという展開のない章編もある。
精神的に不健康な描写が数多くある。不老不死がテーマなだけに理不尽な死も多い。エロもあるし、グロもある。昔の漫画なのでよくない言語表現もある。
でも、読んでいるうちに何が何だかわからないまま時間が経って、読み終えると心が静かになっている。何も考えられない。心が作品に持っていかれる。
前々回の記事で、『完全なる経営』から読み取ることができる、精神的に健康な人間の要件として以下の5つを挙げた。
・今の状況をありのままに捉え、不確実な状況でも耐えることができる
・夢中になれる物がある
火の鳥に出てくる主要人物は、このいずれかを必ず持っている。持っていないこともあるが、成長とともに持つようになる。
どのシーンも主人公に厳しい。安息の時はない。あったとしても理不尽に打ち砕かれる。各編の主人公には欲しいものや、なりたいものがある。それらを目指して戦い続ける。
彼らが生の終わりを迎えた時、死の跡には必ず何かが残っている。
精神的に健康/不健康な作品を分かつものは、破壊と創造のバランスなのだと思う。精神的に不健康な作品やコンテンツは、最後は何かが崩壊して終わる。対して、精神的に健康な作品というのは、最後に何かが創造される。
物語の過程で、登場人物が絶えず営為を繰り返している。だから読者の心に爪痕が残る。
精神的に健康になりたいのなら、土日の朝にやっているアニメを見るのが近道かもしれない。
人として正しい道へと導いてくれる作品が多い。
プリキュアはその筆頭だろう。プリキュア作品を見た児童は、正しい人格の在り方や、仲間のために何をしてあげればよいか、敵に対してはどのような態度で接すべきかなど、社会生活を営むうえで大事なことを学べる。
大人が視聴すると、忘れかけていた大事なことを思い出させてくれる。
今やっている『ヒーリングっどプリキュア』だと、15話がよかった。のどかとラビリンがあることをきっかけに喧嘩となり、冷戦状態になる。なんというか、リアルなのだ。ラビリンが問題行動を起こすきっかけも、のどかが怒った理由も。ケンカ中の態度も。
イザという時にケンカが裏目に出てしまう。信頼関係がなくなったせいで〇〇に失敗する。
ラテの仲介によって二人は仲直りするのだが、これもまたリアルだ。現実でも、こんなやり取りを見たことのある人がいるのではないか。
創作の世界に生きている人間を、現実に生きているように描く。これができるのは一流の作品だ。当たり回はいくらでもある。騙されたと思って是非視聴してほしい。
(余談)
大人が児童向けアニメを見ても面白くないという意見もある。特に作画。児童向けアニメというのは、1年間放送する関係で1話当りの予算が少ない。作画がよくないイメージが強いのではないか。
その点は安心だ。ハートキャッチプリキュア!の辺りから予算が上がっている(ような気がする)。それまでのプリキュアシリーズというのは、月に一度は作画が崩れてプリキュアの顔がおっさんになるという事態が生じていた。
いい時代になった。ただし弊害もある。スタッフがお気に入りのプリキュアが贔屓されるようになった(※今は特定のキャラが贔屓されることはない)。個人的意見になるが、キュアムーンライトの変身時の作画枚数が少ないのは、キュアサンシャインの変身バンクを盛大にするために暴走したスタッフのせいだと思っている。
プリキュアシリーズがたくさんありすぎて選ぶのがしんどいと思われた貴方には、私が選んだ大人向けのプリキュアを紹介させてもらう。作品紹介は最小限に留めている。
キャラデザは子ども向け。物語はシリアス。ファッションショー回にスタッフの愛を感じる。
本物の友情を描いている。硬派で軟派。中学生なのに色気がある。
男の子向け? 保守寄りの価値観をベースにしている。お笑い描写に定評がある。
★Go!プリンセスプリキュア(2015年)
誇りや気高さ、心の強さを描いている。みんな大好きキュアトゥインクル。
少女の友情がメイン。スイプリに比べれば甘々な感じ。最後の方は泣ける。
フリーゲームだ。一時期話題になったので知っている人もいるだろう。
主人公やヒロインは、病気や障害を持っている。主人公である中井久夫は、ある時に心臓病であることが判明し、30まで生きられるか怪しいという状態で物語がスタートする。
ヒロインの障害は様々だ。目が見えない子、話すことができない子、足がない子、手がない子、火傷のある子……。
この作品の、いったい何が精神的に健康なのかといえば、キャラクター同士の人間関係の深みを追体験できることだ。
外国人の有志が作ったゲームなので、そのあたりの深みはとんでもない。愛情で繋がるシーンが感動的なのと同じく、信頼が消えるシーンもまた同じくらいの衝撃で心を抉ってくる。
笑美のルートがよかった。外国人から見たときの模範的な恋人同士ってこうなのかな、というのが伝わってきた。個人主義・秘密主義を貫いていた笑美が、心の弱さを久夫に見せられるようになる過程に癒された。
テキスト量が凄まじいゲームなので、ホームページを読んで感じるものがあった子をプレイするのがいい。
某動画サイトではお馴染みのシリーズであり、2011年頃までは定期的に動画投稿をしていた。
このシリーズは、各作品の制作時期によって印象がてんで異なる。
初期の作品は見るに堪えない。まさに精神的に不健康だ。理不尽な死は基本であり、人権侵害を地でいっている。実際に見てみるのが一番早い。
初期に投稿されたのは、邦子が子どもの頃に作ったと思われるものだ。キャラクターはとりあえず雄叫びを上げ、とりあえず戦闘に突入し、とりあえず死ぬ。そんな作品としか言いようがない。ただし、作者のセンスが飛び抜けているので結果的に面白いストーリーになる。
邦子が大人になってから作ったと思われる作品は、初期のものとはまるで違う。理不尽な死が基本であるのは変わらないが、以下の特徴が挙げられる。
・視聴者のテンションの変化を読んでプロットを組んでいる。ハリウッド映画を研究している。
・真面目でひたむきなキャラが無残な死を遂げるのが減った
高橋邦子は大人になってしまったのだと思う。新しめの作品を視聴すると、このことがよくわかる。
精神的に若くないと、ああいう作品を作るのは難しい。例えば、会社員として適合してしまうと、そっち方面のアイデアが湧いてこなくなる。
これまでに30ヵ国語以上に翻訳され,1000万部以上を売ったとされる。架空の町マコンドの創設から、その滅亡に至るまでのブエンディア一族の歴史が描かれる。
ブエンディア一族は、みな自らが決めた使命や、本能のままに生きている。長生きした者もいれば、短命だった者もいるが、誰一人例外なくキャラクターが濃い。
キャラの立ち方について、「根が明るい」とか「聡明」とか「向こう見ず」とか、そういう言葉で表すのではなく、具体的なエピソードで表現している。
読了後は放心状態になる。静かな気持ちの中で、この本を選んでよかったという感慨を得ることができる。
大衆向けの作品でありながら純文学でもある。思わず吹き出してしまうシーンもあれば、「お前ここで終わるんか…」みたいに物悲しいシーンもある。
一番のおススメは文章だ。一文字一文字が読書中の脳に突き刺さる。以下の例はほんの一部だ。
屋敷のなかが恋であふれた。アウレリャノはその恋心を、初めも終わりもない詩にうたい込めた。メルキアデスからゆずられたざらざらの羊皮紙や浴室の壁、自分の腕にまで詩を書きつけた。あらゆるものに、変身したレメディオスの姿を認めた。午後二時の睡魔をさそう風のなかのレメディオス、薔薇の穏やかな息遣いにつつまれたレメディオス、蛾の浮いた静かな水時計のなかのレメディオス、明け方のパンの匂いにただようレメディオス。いたるところにレメディオスがいた。永遠に変わらぬレメディオスがいた。 P.73
ホセ・アルカディオが寝室のドアを閉めたとたんに、家じゅうに響きわたるピストルの音がした。ひと筋の血の流れがドアの下から洩れ、広間を横切り、通りへ出た。でこぼこの歩道をまっすぐに進み、階段を上り下りし、手すりを這いあがった。トルコ人街を通りぬけ、角で右に、さらに左に曲り、ブエンディア家の正面で直角に向きを変えた。閉っていた扉の下をくぐり、敷物を汚さないように壁ぎわに沿って客間を横切り、さらにひとつの広間を渡った。大きな曲線を描いて食堂のテーブルを避け、ベゴニアの鉢の並んだ廊下を進んだ。アウレリャノ・ホセに算術を教えていたアマランタの椅子の下をこっそり通りすぎて、穀物部屋へしのび込み、ウルスラがパンを作るために三十六個の卵を割ろうとしていた台所にあらわれた。
「あらぁ大へん!」とウルスラは叫んだ。 P.142~143
モンカダ将軍は起きあがって、シャツの裾でべっこうの分厚い眼鏡をふき、次のように言った。「恐らくね。しかし、わたしが気にしているのは、銃殺されるかどうかということじゃない。結局のところ、われわれのような人間にとっては、銃殺は自然死と変わらないんだから」。 P.172
現実世界ではありえない現象を何度も何度も描くことで、読者に対してこういう世界なんだなと思わせる。慣れてしまうと、どんな不思議な情景が現れても自然に読める。この小説はマジックリアリズムの極致にある。
時間のある人は図書館で手に取ってみよう。時間のない人はほしい物リストに放り込もう。
イラスト形式で人生に役立つ知恵を提供している。あなたも動画を見たことがあるかもしれない。
このコンテンツも、高橋邦子と同じく、作者が人間的な成長を遂げたタイプだ。
初期の頃は、インターネット上の疑問やネタを集めて電撃ランキングやその他まとめ的な成果物を作り、電ラン子というキャラクターに解説させるスタイルだった。
だが時を経て、そういったランキングで使うテーマや疑問、ネタを自らの手で作り出すようになった。
そこまで珍しい作風ではない。ほかにも、「ネタざんまい」や、「これ本当かも」、「アシタノワダイ」、「セカイノフシギ」など、イラスト形式で日常・非日常の疑問を解説するページはけっこうある。
フェルミ研究所が、類似コンテンツよりも抜きん出ているところ――精神的に健康な要素というのは、ひとえに笑いだ。
他に比べて、フェルミ研究所が一番笑えるし、絵も可愛いし、ネタが豊富だ。他のコンテンツは、ストーリーの傾向がシンプルな意味で「精神的に不健康」である。
一応はディスる内容なので、どのコンテンツがこういう内容で精神的に不健康である~といった具体的な説明はしない。
一般的な傾向として、ストーリーが語られる中で不幸になるキャラが存在している。そんな、不幸になった人物をラストに描くことで、視聴者に「ざまあみろ」という感情を吐き出させる。
精神的に健康な人間は、そういったコンテンツを好まない。再生ボタンを押したとしても、臭いを感じた時点でページを閉じる。
フェルミ研究所にしても、初期~中期にかけてはやりたい放題やっていた感がある。
恋愛を扱った回だと、童貞を煽るようなナレーションを連発したり、女性キャラが恋愛に挑んで失敗した男性に辛辣なセリフを吐いたりしていた。
今では、そういった描写は少ない。むしろ、恋愛に挑む若者を応援するような作品を作るようになっている。
青年向け漫画で活躍している。性別非公表。一般的なエロ漫画に比べて絵が独特なので見たらすぐにわかる。
男女別の作品を好む傾向として、「男性はシチュエーションに萌え、女性は人間同士の関係性に萌える」というのがある。
このふたりはこういう関係で、あの時こんなことがあって、だから今はお互いにこう思っている、といった情報がさりげなく挿入されている。読者はこれから行為をする者同士の気持ちを知ることができる。
では、肝心の行為をしているシーンはどうかといえば、これがまた…略
はてな匿名ダイアリーなので、あまり詳細に書くことはできない。一般的な男性であれば満足できる。「スミヤでは抜けない」といった意見もあるが、漫画をよく読んでいないからだ。
肉々しいタイプの絵柄ではないので、作中の行為だけを見て興奮するのは難しい。ふたりの関係性を理解したうえで楽しむのが筋といえる。
男性向けのエロ漫画において描かれる女性というのは、実は女性ではない。女の姿をした男だ。最初は嫌がっているものの、性的な興奮によりスイッチが入り、快楽に抗えなくなる。最後は自ら求めるようになる――愛よりも肉を優先せざるをえない。それが男だ。
スミヤの作品は純愛が多い。ふたりの愛情を描いたうえで行為を表現する。最初に愛情がない時もあるが、ラストではお互いに何らかの感情が芽生えたことが示唆される。
それらに触れて、多くの感情を得ることができた。もちろん、他の作家からも得られるものは多かったけれども、ここでスミヤを紹介したのは、「これって男性からも女性からもウケるんじゃないのか?」と私が勝手に思ったからだ。面白くなかったらごめんなさい。
3Dプリンターというと、すぐ銃が作れるという話をするバカがいる。なぜなら米国で銃を作ってる連中がいるからだ。が、現実的ではない。というのもこれはかなり政治的な側面があり、理解するには何でもかんでもとりあえず銃か爆発物を作って遊ぶ習性を持つ米国人についての知識も必要だ。
米国は旧英国植民地で、独立戦争によってフランスの支援で英国軍を撃退して建国し、更に南北戦争というガチの内戦を経て革命的に成立した国家だ。誰でも知っているナポレオンの生涯と重なる時期である。『ナポレオン -獅子の時代-』などの高名な歴史書で知っている人も多いと思うがこの時代には既にバリバリに銃器が存在する。つまりアメリカは、建国の神話に銃器を含むのだ。
よって、銃(特に軍用銃)というのは米国人にとって国民国家アメリカ合衆国の建国の神器に近い存在であり、主権者たる国民が銃器を所持する権利を持つのは当然のことである。天皇が三種の神器を持つ権利があって当然ないわけがないのと同じである(主上に御謀反のない限り)。当然憲法でも権利として認められているし法律でも個人の許可不要での銃器製造・所有・使用が色々と条件付きで許可されている。そして、「憲法で定められた権利を行使しよう!」という「市民なら図書館に行こうキャンペーン」くらいの気軽さで権利向上運動として銃を作る・持つ運動がある。年中やってる「1・23絶対ゆるさない緊急行動」の同類項である。その中で使われる銃は日本に訳せば「建国の神話の追体験」の要素があり必ずしも実用的な銃とは関係がない。神社に置いてある御神体の鏡の平滑度がそんなに高くないようなものである。
そんなわけで神器としての銃を作るための3Dプリンターデータというのが存在する。これらは当然、儀式的な意味の強度しかない。俺は作ったことも見たこともないし作ろうとも思わないが、破損事例については知っている。確か1発~数発で寿命を迎えるという話だ。銃器は信頼性が第一だから、スケール的には構造模型の域だ。で、「数発で寿命を迎える」という話をすると、密造したがりは「では強度を上げるのだな。実際に樹脂活用銃器がある」と謎の反論をしてくる。これには銃器の樹脂化の歴史に関する知識が必要になる。
銃器における樹脂活用の歴史は第二次世界大戦の終了直後くらいから始まる。その頃、夢の軽量新素材「プラスチック」が工業の各分野に登場し、「航空機用アルミニウム」と並んで普及し始めたのだ。それまでは機械装置の構造部品は金属、ハンドルや外装は真鍮(きわめて密度が高く重い金属である)金属が嫌なら木か革しか選択肢がなかった。当時の銃は構造部品を鋼鉄で作り重い木の覆いを付けていた。1960年代に入るとアーマライトAR-10・AR-15、のちのコルト・モデル601、米軍呼称M16ライフルが登場し、「鉄砲は鋼鉄と木で作るものだ。アルミとプラスチックなんて信用ならねえ」と散々な評価を受けた。しかしその後AR-15/M16ライフルと権利訴訟回避バージョンのAR-18は、改良を経て、現在では米四軍のM4カービン、英軍のL85(SA80)小銃、ドイツのG36小銃、日本の89式や20式小銃を含むほぼ全ての西側歩兵銃の基礎となっている。
銃身や主要部品に鋼鉄、外装にアルミニウム、銃床に樹脂を使った小銃が一般化する一方で、次なる手として主要部品のアルミ化や樹脂化が模索された。1960年代末期になると世界初のポリマーフレーム拳銃としてHK VP70が登場してまず爆死、1970年代にはシュタイヤー社(余談だが自動車メーカーのマグナ・シュタイアの類縁である)のAUG突撃銃が登場してこちらは採用、1980年代に入ると樹脂製スコップ設計者が一念発起して設計し「プラ製拳銃」として一世を風靡したグロック17が登場して一大ブームとなる。1990年代にもなればHK G36が登場し、冷間鍛造銃身基部を鋳込んだ樹脂製フレームを採用、その後端にモールドされた樹脂製マウントに樹脂製ハンドルを横から軽くネジ止めするという気の狂った設計のせいでハンドルを掴んで振り回すとそこに統合された大して見やすくもないヘンゾルト製高性能照準器の狙点がハンドルごと滑ってどんどんズレる、という問題を起こし、誰も気づかないままドイツ連邦軍に採用され大量購入され2000年代のアフガン戦争で精鋭連邦軍人に戦死者を出してアフガンの気候のせいでプラスチックの銃が根元から腐って兵が死んだとドイツ国会で炎上もするようになる。
一見すると、この半世紀で銃器は完全に樹脂化されてしまったように見える。なぜなら実際に外装はどんどん樹脂化され時代が下れば金属部分がほとんど露出することもなくなっているからだ。ここまで読んだ読者が、樹脂というのは3Dプリンターで出力できるのではなかったか? 3Dプリンターで作れるのではないか……と思っても不思議はない。
しかし、実際にはこれらの銃器では主要部品はすべて鋼鉄で作られている。新合金アルミニウムも新素材プラスチックも、鋼鉄を置き換えることはなかったのである。外装は木材からプラスチックに変わった。筐体は鋼鉄からアルミニウムやプラスチックに変わった。しかし銃身、ボルト、各部のピン、それどころかそれらを操作する把手は良くてアルミニウム、いまだに鋼鉄も珍しくない。VP70やグロック17では、銃身とスライド(上半分だ)は鋼鉄で作られ、下半分には鋼鉄パーツを金型にセットしその上から樹脂をかける方法でインナーフレームが鋳込まれている。シュタイヤーAUGでは画期的な新機軸として内部機構の一部にプラ製カバーをかけることで潤滑の必要を減らしている。共通しているのは、圧力を支える主要部品と摺動部はまず鋼鉄で作られるということだ。アルミニウムやプラスチックは確かに使われているが、その役割は形を保つ以上の機能がない比較的柔らかい部品、人間向けの外装または潤滑剤なのだ。実際にはプラスチック製の実用銃というのは未だに作られていない。
同時に、市販の家庭用3Dプリンターが金属を出力するように進化するというのもあまり現実的ではない。樹脂は150~300度で溶けるが鉄を溶かすには1500度~が求められ、今の3Dプリンターとは原理的に異なる装置が必要となるからだ。更に、銃の銃身は鍛造、切削と熱処理を経て作られるので、その設備が必要になる。出力物を鍛造切削熱処理すればよいではないか……要求される設備は3Dプリンターそのものよりも大規模であり前提が荒唐無稽になる。工業地帯に数億円を投資して製造工場を建てれば機械装置が作れる。そんな主張は議論として価値がない。そんな資源があるなら電気自動車メーカーでも立ち上げる方がまだ理にかなう。
3Dプリンターの特色は、複雑な形状を一点だけ製作できることだ。強度や製作速度ではない。容積10cm^3程度のプラスチック製品の射出成型にかかる時間は、概ね1個あたり0.3~1秒程度であろう。3Dプリンターの場合は、累積移動距離によって変わるが45分から15時間程度である。仏師の方が速い程度だ。
では、なぜプラスチック銃、そして3Dプリンターが度々取り上げられるのだろうか? 一つには、プラスチックやアルミニウムは軽量なことが理由だ。鉄の銃は重いのである! もう一つは、最初にも述べたように、「銃を製造し、所持し、使うこと」は米国民の間では建国の神話の確認と再現という神聖な意味を持つ行為とされ、そして、その神聖さを信奉している者だけがネットに英語で記事を書き、日本のコピペブログが機械翻訳で垂れ流すからだ。別に3Dプリンターだから作れるというわけではないし、適しているわけでもない。全てはここ日本において全く関係ない話なのである。
もしこれを読んだ誰かが3Dプリンターで銃を作る話やドラマ脚本をどうしても書きたいなら「3Dプリンターなら見た目は好きにできる。だが銃身が作れないはずだ。銃身をどこで入手したんだ?」という方向にでも捻ってみてはいかがだろうか、と付け加えて筆を置きたい。
https://anond.hatelabo.jp/20200819150514
「性犯罪を行わない善良な男が「性差別や性暴力の話になるとケンカになる問題」について解説する (追記あり)」とそれへの反応を読んで
件の男性の気持ちを理解する例題は、発展途上国の搾取よりTERF問題が適している気がした
何故ならTERF問題こそ女性が加害者扱いされ得る問題だからだ
もちろん両者の間には違いがある
例えば、「性差別や性暴力の話になるとケンカになる問題」では直接的な加害者ではない男性が話題となるが、
TERFではトランス女性に対する明確な加害者が問題となる。両者を同一視する事はトランス差別を矮小化する事に成りかねない
だから同一視する訳には行かないが、「加害者として扱われる」気持ちを追体験するという意味では、恐らくかなり有用だろう
上に挙げた増田が出した「発展途上国の搾取」の例では「ムッとはしない」と、適当な返答を得るに留まったが(「ムッとはしない」という返答が的外れである事は元増田の追記に書かれている)
TERF問題については、そうも言えない人も居るのではないかと思う
ただ、男性が加害者として扱われる(例え女性側が「加害者とは言っていない」と言っていたとしても)気持ちの理解のために、トランス差別の問題を「利用」するのは、それ自体問題であるとも思う
だからこれは「男性の気持ちを理解する」為だけの例題であってはならない
これは女性がトランス差別を改めて捉え直す為に(も)、考えられるべき例題だ
普段、女性が加害者として扱われる事は稀だ。だからこそ、TERF問題では「びっくり」して、それによって冷静さを欠いてしまう人も居ると思う
けれども、「加害者として扱われる」事にかけては男性が先輩だ、そしてフェミニストはそのような男性に要求すべき事柄、態度、問題意識を知っている
TERF問題について今一度冷静に考える為に、これまでの差別被害者としての経験を思い返し、その時加害者(と同じ属性を持つ者達)がどう見えていたか思い返すのも有用だろう
また、差別問題で加害者の位置に置かれる男性の気持ちを理解するのは、TERF問題で加害者の位置に置かれた時に気持ちを整理し、冷静さを保つために有用だろう
差別問題に対し、加害者に無限の責任と罪を負わせるのは簡単だ、女性が常に被害者なら、それは理に適った対応でもある
けれどそうした時、いざ女性が加害者の立場に置かれれば、今まで要求していた無限の責任と罪は自分に降りかかる
そうなればそのこと自体受け入れられない人も出てくるだろう
加害者の責任と罪を無限にせず、バランスを取る、というのは(多くの場合被害者の位置にいる女性には特に)難しい事だが、
これを欠いては結局の所、女性は自身の一切の加害性を認めない、という方向に傾かざるを得ない
トランス差別が差別として認められにくい要因は恐らくここだろう、現状、女性は加害者になる訳には行かない、のだ
けれども本当は、女性もいずれかの面で、時には知らぬ内に、加害者でもあるはずだ
自分が加害者である場合にどう振る舞い、考えるべきか、それを考える為に加害者として扱われる男性の気持ちを理解する事は有用だろうし、
(最後に、恐らくこのような取り扱われ方は不本意だろうが、TERF問題と、それを女性がどう捉えるかについては、今なら下記をまずは読むべきだと思う)
基本的に、悲劇にあう元の主のところに行き、刀剣男士はこれを止められない、悲しい、なんて過酷な使命なんだ!
って話しか無い。刀剣男士は常に可哀想な人を助けられないことを悲しむのが毎度繰り返される。
遡行軍は刀剣男士が可哀想な人を殺さねばならない立場になるための、舞台装置だ。
悲劇的な元主を持たない人気キャラを使うために、最近は歴史上の人物に成り代わり追体験するという手法を使い始めた。
悲劇を追体験すれば悲しい、しんどいのは当たり前だ。そして結局、助けられない悲しい使命を見せつけて終わる。
正直「またこの流れか」と思うことは観劇中何度もあったのだけど、ライブパートで「まあいいか」となっていた。
刀剣男士が曽我物語を主に言われて演じましたって、なんで? 片方の刀が出てくるから?
でもどストレートに曽我物語やっただけで、刀剣乱舞的なアレンジもなく、刀剣男士であった必要性とか無かったよね。
見ている最中、いつ刀剣乱舞らしい部分が入ってくるのか、アレンジされるのかと思っていたけど、
何のひねりもなく終わって唖然とした。何を見に来たんだっけと思った。でもライブで頭パーになった。
役者は格好いいし、歌もうまいし、ダンスも良かったから楽しかった。
ただ、前半の物語の部分では空いていた席に、ライブパートになったら人が入ってきて、結構な席が埋まったことの意味はわかった。
もしかして他のミュでも、ライブのみ来てた人がいたんだろうか。
技術力のあるゲスト役者さんの芝居は見ごたえがあったけれど、自分は刀剣乱舞を見に来たのであって、それだけをみにきたのではない。
コロナで舞台が飛びまくったおかげでストーリーを思い返すようになり、凄く気になるようになった。
けれど何十年も人間に成り代わるのは、さすがに歴史修正だろう。
そんなに長く干渉しつづければ、その時間軸は放棄された世界になってるだろう。
飲み込むには大きすぎるご都合主義だった。ファンタジーで片付けるにも限度がある。
なにより葵咲本紀で、みほとせで石切丸が裏でやったことが明かされ、
厚樫のことを考えたら、それはやってはいけなかったことだろう。止める側じゃなかったか。
今剣は駄目だが、自分は特別に良いのか?生き延びた説があったからOKっていうなら、義経もモンゴルに送ってやれよ。
土方だって生き延びた説あるよ。どうなってるの。すべて見ていればこそ、納得行かない。
その近藤のことに関しても、蜂須賀が代わらなくても長曽祢は事をなしただろうから、長曽祢はその後も任務に出せるけど、
刀剣男士の勤めを果たせないと言い切って泣き崩れた和泉守は、この先重大任務には出せないだろう。長曽祢とは違う。
自分の声が返ってきて自分の発声の仕方がどんな発声の仕方なのかわかるだろ
でも歌が上手くなっても藤原基央に歌声が近くなってもお前は藤原基央じゃない
いつだってBUMP OF CHICKENを歌うお前のままで、そのままのお前で充分なんだよ
お前がしなきゃならない努力は、じゃあバトルクライはどんな背景がある曲で、どんな小節の部分でどうやって緩急を付けて、それがどういう意味をもたらして、聞く人にどう届くか、だ。
藤原基央を目指すのに自分の気持ちいいだけを求めてるなら藤原基央になれるわけがない、藤原基央の人生を追体験した訳でも作曲する時に隣にいて作詞や作曲に苦悩するバンプのメンバーと一緒にいた訳じゃない
それでも、藤原基央にはなれない。
だから藤原基央の歌声にはなれない。なれなくても、お前は必死で歌える。好きな曲を好きなように歌える。
だから、お前はお前のままでいい。
それでいいんだよ。
あと、無理に原曲キーで歌おうとせんでもろて、キーを下げたり、敢えてキーを上げることで歌いやすくなったりもするらしいぞ。
ファイト〜
友達とか同僚とかが子連れ見て「かわいい、いいなー、早く子供欲しい」とか言ってるけど正直一度もそう思ったことない。そもそも子役やるような子を除いて、子供とか赤ん坊って猿みたいで可愛くないし。
自分の家にいつまでも子供がいなくても全く気にならない。今のままで十分満足してる。というか、つまんない自由のない子供時代をやっと終えたのに、なぜまた親側として同じような状況に足を突っ込みたがるのかがよく分からない。
これまでの人生で、家を出て自活して好きなようにやって好きな人と家族として一緒に暮らすようになった今現在が一番幸せだし、将来子供がいなくて困るシチュエーションも特に思いつかない。老後の世話は自分でお金を貯めてなんとかするつもりだし、そもそも子供がいたって面倒見てくれるとは限らないと思う。
あと自分の子供時代のこと考えるとお金も自由もなくて明らかに今より数段階つまんなかったし、具体的な記憶はない割に「苦痛だった」みたいな感覚だけが残ってるので、これを自分の子供に追体験させるのもなんだかなーって思う。
でもなんか世間的には「子供いると楽しい」みたいなのあるし、みんなそれに沿った話するので、なんか前提の部分に何も共感できないので時々モヤモヤする。
君の青春時代を思い出してほしい。部活動やサークル活動に明け暮れ、あるいはそうでなくとも仲の良い友人たちと過ごした日々を。同年代の仲間たちが集まって、同じ目標に向かって努力し、でも皆個性的でバラバラだった。得意分野も違えば、目標を目指す理由も違って、かける熱意も時間も、家庭環境や物事の価値観だって違う。ただ同じ場所にいる、同じ目標を持つ、同年代なだけの子供たちが集まった歪な空間。青春譚はそんな中で紡がれる。皆バラバラだからいつも仲良くというわけにもいかず、時には激しく争ったりして、仲間が去ることもあったろう。対立の末に互いを尊重するようになることもあったろう。決して順風満帆ではないその起伏に溢れる日々は、フィクションの中にとどまらない、現実の物語として青春時代を支配する。
青春譚の世界は狭い。子供たちは自分たちの目に見えて手の届く範囲の世界を生きる。仲間たちを見て、この先いつか出会う他の集団を思い、自分たちのこれから歩む道を見据える中で、その下に埋もれた大勢に思いを馳せることはない。自分たちと同じくらい努力して、けれど自分たちと今後出会う事のない別の子供たちに対して、仲間意識や同情が芽生えることもない。だからいつも青春譚の主人公は「自分」になる。青春の熱気が、自分こそが物語の主人公かのような錯覚に溺れさせる。だから青春時代に、例えば「僕はこんなに頑張っているのに!」とほかの仲間たちも同じくらい、あるいはそれ以上頑張っていることを知っていたとしても、つい思ってしまうのだ。クラスメートGでも部員その16でもない、自分こそが主人公なのだから、その主人公というまやかしのアイデンティティにすがってしまう。子供たちにとっての青春譚は、自分を自分たらしめるアイデンティティを探し求め、特別になろうとする物語とも言えるだろう。
しかしずっと青春を謳歌しているわけにもいかない。歳を重ねるごとに見なければならない世界は広がりをみせ、将来という現実が重くのしかかり、広い世界の中で自分がいかにありきたりで普通な存在なのかを自覚せねばならない時が来る。受験や就職、勉強やスポーツの成績、資格試験、引っ越し、失恋、身内の不幸、怪我、もっとささいな下らない会話かもしれない、そのきっかけは様々だろう。子供たちは転機を迎える。そうして子供たちは青春を過ごした集団から引退する。「成長」して「大人」になって、青春譚は終わりを告げるのだ。
けれどそんな期間限定の青春譚をずっと紡ぎ続ける者も中にはいる。青春を捨てることなく集団から去って「大人」のひしめく社会へ赴く彼らは、その「子供」的な部分をあるときは称賛され、ある時は幼稚だと批判され、けれどそのどちらであれ特別な存在であることには変わりない。大半の子供たちが普通の大人になる中で、普通ではない者だけが特別な存在として「子供」であり続けることができる。選ばれし者だけが終わらない青春譚を謳歌する。
ライザのアトリエは青春譚である。しかしライザのアトリエは青春譚として異質な部分がある。
青春譚の多くは主人公を物語の中心に据えつつも、仲間たちにまつわるエピソードを描く。例えば青春を題材にした傑作部活もの「響け!ユーフォニアム」はアニメ化も成功しており知る人も多いと思うが、この作品は主人公久美子を通して物語が進むものの、個々のエピソードの中心には様々なサブキャラクターが据えられていて、彼女たちの問題にぶつかりながら、彼女たちの力で先に進むつくりになっていることが分かるだろう。「響け」ではある種記号的な主体性のないひとたらし主人公を設定することで、疑似的に吹奏楽部全体を主人公として描き、仲間たちの物語を繰り広げる。青春譚は仲間たち「みんなの物語」だからこそ、多くの作品は幅広いキャラクターの幅広い問題を描くことになる。
けれどライザのアトリエにはサブキャラクターイベントがほとんど存在しない。したがって仲間たちの物語はほとんど描かれず、物語の節々からその成果だけが見え隠れするにとどまる。そんな主人公だけにフォーカスした青春譚は、いつのまにか、まるで主人公ひとりの英雄譚かのような様相を呈してくる。そう、青春譚が「みんなの物語」なのはあくまで大人目線の客観的なものにすぎず、そのさなかに居る子供たちにとってはそれが「自分が主人公の英雄譚」かのように錯覚してしまうのだ。ライザのアトリエは青春譚だが、ただの青春譚ではない。青春の熱に浮かれた主人公ライザの視点から見た、錯覚の英雄譚なのである。
ライザのアトリエはライザの英雄譚だ。自身こそが主人公である錯覚に溺れるライザは、仲間たちにも同じように物語があることに気づけない。例えばタオはどうだろうか。勉強を頑張っている場面が何度かあったかと思えば、いつのまにか遺跡で古代文字をそらんじて見せた。他にも、例えばライザとの確執を乗り越えたボオスはあっという間にライザをも超える決断力と行動力を見せるようになった。彼らの成長はそれだけでひとつの物語になりうるほど大きいものに違いなく、彼らは全員が物語の主人公たりうるのだ。けれどライザはそのことに気づけない。気づけたとしても気にしない。青春の熱気で仲間たちへの関心さえも浮ついてしまったライザは、自身の英雄譚に溺れていく。
ライザのアトリエはファンタジーRPGであり、プレイヤーは主人公ライザを操作してゲームを進めていく。走り回り、素材を採取し、アイテムを調合し、依頼をこなし、戦闘をし、そしてテキストボックスをおくって物語を進めていく。そんなゲームとして当たり前な行動に対して、ライザのアトリエもまたゲームとして当たり前の快感をプレイヤーに与える。素材採取の爽快感、調合の楽しさと達成感、報奨金を得てうれしく思い、戦闘では調合の成果に一喜一憂する。RPGにおいてプレイヤーはゲームシステムから特別感や万能感といった快感を享受することになる。
そしてライザのアトリエでこの快感を享受するとき、プレイヤーは気付かぬまま物語に没入してしまうのである。ライザの英雄譚を進める中で、ライザ本人は自分の特別さや万能さといった錯覚を抱えて自分を物語の主人公だと信じており、一方プレイヤーはゲームシステムから特別感や万能感といった快感を与えられながら「ライザが主人公のゲームの物語」を進めることになる。ライザの描く錯覚の物語とプレイヤーの受け取るゲーム的快感はゆるやかに、けれど確実にシンクロしていく。プレイヤーは気付かぬうちにライザの錯覚の英雄譚の支持者となってしまう。プレイヤーもまたライザと同じように青春に溺れてゆき、サブキャラクターにも物語があることを重要視できなくなってしまう。タオの古代言語の研究も、ボオスの精神的成長も、レントもクラウディアもアンペルもリラのことも、しっかり評価しているつもりでもどこか軽視してしまう。青春譚がみんなの物語であることをつい忘れてしまう。だってライザのアトリエはライザの英雄譚なのだから。
ライザのアトリエは、誰もが英雄ではないからこそ面白い青春譚を、英雄譚を語るためのフォーマットであるRPGを用いて語った時いったい何を表現できるのかという問いに対して、ひとつの面白い答えを示せているだろう。
やがて夏が終わり物語はエンディングを迎える。けれどそこに訪れたのは英雄の凱旋というハッピーエンドではなく、別れだった。自分の将来という現実、親の都合という現実、これからの生活という現実、ライザがそれまで見て見ぬふりをしてきた様々な現実が、仲間たちとの別れとともに押し寄せる。英雄譚を共にした大切な仲間たちが「大人」としてライザの前に立つ。青春譚を経て特別になれなかった子供たちが「大人」としてライザに別れを告げる。ここでライザははじめて、仲間たちにも同じように物語があったことを理解する。ライザが青春の熱に浮かれて目の前のことだけに躍起になって満足している間に、仲間たちはもっと広い世界を見つめていたのだ。このひと夏の出来事は、決して英雄譚なんかではなく、仲間たちみんなの物語だったという現実がライザを襲う。自分が見て体験してきたひと夏が一気にひっくり返されて、言葉を失うほどのショックを受ける。
けれどライザも特別な存在でないのなら、現実とは向き合わねばならない。ライザは「大人」になることを決める。皆を引き留めない。隠れ家は解散。遠く離れてもまたいつか会おう。そんなありきたりな結末を選ぶ。ライザは特別にはなれなかった。子供のままではいられなかった。「なんでもない」ライザは青春の夢に生まれ、そしてなんでもないまま「成長」という名の死を迎えた。青春を生きたライザというキャラクターは、青春の終わりとともに消える。ライザは「大人」になっていく。
ライザが「大人」になることを選んだように、プレイヤーもまた青春の夢から覚めなければならない。ずっとこつこつ積み上げてきた錯覚の英雄譚は、エンディングの場にきて一気に崩される。プレイヤーの支持した英雄譚なんて最初からなかったのだ。エンディングはプレイヤーに、ゲームシステムからもたらされる特別感や万能感を物語の解釈にまで持ち込んでいないかと咎めてくる。ライザ視点でしか見てないのに物語全体を理解した気になっていないかと冷酷に突き放される。ずっとおだててきたくせにエンディングにきて突然「なんでもない」の世界に突き落としてくる。プレイヤーも「大人」にならなければならない。
平和な後日談もなく物語のピークから急に始まる決してハッピーではないエンディング。いつか訪れることを知っていた仲間たちとの別れ。その別れを祝福したい気持ち。けれど自分だけ取り残された焦燥感もある。どうにかハッピーエンドには行けないのかと歯がゆく思う気持ち。自分の特別さを否定された時の居心地の悪さ。
そんな複雑に絡み合ってモヤモヤした、けれど無性に懐かしいあの青春の喪失感を、「ああ、明日からこの部室に来ることは無いんだ」と思うあの青春の残響を追体験したいなら、これほど適したゲームは他にないだろう。
ひと夏の濃密な時間を過ごして、結局特別にはなれず「なんでもない」まま青春時代を終えた少女、ライザリン・シュタウト。そんな少女に、3年の年月を経て、2度目の夏が訪れるという。
まず初めに、お気持ちでもなんでも、意味の通る長文を書けるだけでそれは「能力」である。内容がいくら恥ずかしいものでも、長文を書くことは決して恥ずかしいことではない。そして長文を「書ける」能力があることは、「書けない」自分の上位互換である。大富豪で超有名なローカルルールに8切りがある。殆どの場合場を流したほうがお得だが、「流さない選択もできる8切り」があったら、「絶対に流す8切り」の上位互換であることは間違いない。使い所はわからないが。書けるという選択肢は、あって損はない。得はわからないが。
第一に、お気持ちの種がないとお気持ち長文は生えてこない。種があれば2000字くらいはサクッと書ける私でも、種無しでなんか書けって言われてもパンティーって5文字書いて終わりだ。なんでも良い。好きな作品の心にひっかかった展開でも、嫌いな作品の嫌いな一コマでも、どうにかしてぶちのめしてやりたいノロケ増田でも、なんでもいい。何かしらの種を拾ってこよう。やる気があるなら、日々それを貯めておこう。いつかそれが、面白い短編小説になることがあるかもしれない。
お気持ち長文に必須なのが自分語りだ。自分に全く興味のない生きてるのか死んでるのかよーわからん人間でも、「自分がなぜこんな考えを持ってるのか」くらいのことは語れるのだ。ちゃんとした秀才か天才でもない限り、人は何かを「自分が体験したこと」に全てをなぞらえがちな傾向がある。恥ずかしいことではない。そういった類推ができることも、立派な能力だ。わりと誰でも持っている能力であることも事実だが。その誰でも持っている能力が、実は結構他人にとって価値があったりもする。なぜなら、当人が「しょーもない自分のしょーもない体験」と思っていることでも、他人にとっては「その人として生きていないのに、その人の追体験ができる種」になるからだ。自分語りはどんどんしていけ。ここはアノニマスダイアリ、匿名の掃き溜めだ。お気持ち自分語り長文がかければ、お気持ち長文初級編の免許皆伝だ。
ここから中級編。好きなもの、嫌いなものに関して言いたいことは皆様多々あるだろう。全部書くと、ほんとに散漫なお気持ち長"駄"文になる。1つにトピックスを絞ろう。一番好きなところ、一番気に食わないところが良い。それを言いたいがために自分語りも引用もする、ということができると、ビシッと焦点の合ったいいお気持ちが書ける。そして重大なポイントだが、これをタイトルにするんだ。タイトルっていうのは、読み手が「これどういう意味だ?」ってなったときの手助けになる。この暗喩伝わるかな、って思ってもタイトルにヒントがあると意外と読めるし、それを読めた人は文章をちょっとだけ好意的に読んでくれる。読み解けた俺スゲー、が続きを読む原動力になる。これが出来ると、「長文なのにスッと読めた」とか、「この比喩までこだわってるのイイね」みたいなコメントが付き始める。意図して出来たら中級免許皆伝だ。
上級は?と聞かれるかもしれんが、私もまだまだ修行中の身。中級も頑張っているところだ。世界に広がるお気持ち長文の文化、みんなも試していいんじゃないか。
ところで、この文章の書き方は、読書感想文コンクールで無双できる書き方でもあるのだ。本の中でひかかったワンフレーズに対して、あーでもないこーでもないと持論と自分語りをペタペタくっつけていけば、国語教師が花丸をくれるようなものが書ける。そこに社会問題とかでも絡めておけば、ナントカ賞みたいなゴミも貰えたりする。少なくとも、2ページと1行のイヤイヤ書かされた悲惨なものにはならない。何でも良いから書いていこう。