はてなキーワード: 課題とは
ここには年に1回くらい殴り書きしてるんだけど、史上最大に気持ち悪いおじさんの自分語りになってしまった。というか長すぎ。誰が読むんだ、これ。
自分は33歳、妻と未就学児1人の計3人で、人口100万人以上のそこそこの地方都市に暮らしている。
会社は子会社系のSIer。新卒で入った。これがまあ、ネットでよく馬鹿にされるような典型的な時代遅れの会社だった。
正直、入社時は「エンジニアとして働く」「会社の安定性」の両方が満たせそう、ぐらいの浅はかな考えだった。で、実際のところ大企業である親会社の盾もありまあ、安定していた。競争原理が働かず仕事は嫌でも降ってくる。給料は年功序列で上がっていき、昨年の年収は大体月20時間の残業で600万だった。世間的にはそこまで高いとは思わないんだけど、この会社の外での自分の市場価値を考えれば高いと思っている。
一方でエンジニアとしてはそりゃもうひどい環境だった。10年前に入った頃から使っている技術も会社としてのマインドは何ひとつ変わらず現状維持がモットー。口では「子会社としての安全神話は終わった」「DXだ」と言っているが、行動が伴っていない。
こんな環境に危機感を覚えないわけがなく、数年前に転職活動をしてみた。その頃はこっちに有力な求人は無く、とにかく東京の求人に応募していた。その結果、有給ぶっ込んでの日帰りで東京に行く過酷な面接に力尽きて断念した。というのは建前で、チャレンジすることにビビってたのかもしれない。本業であまりにも技術的な取り組みがないのでプライベートでプログラミングしたりWebサービス作ってみたりしてたけど、それも趣味程度の取り組みで「今からじゃ遅いんじゃない?」と自分でブレーキを踏んでいたんだ。
そんなこんなで「まだ今の会社でできることがかあるはずだ!」と自分に言い聞かせて続けてきた。結果、市場価値が上がるような仕事は何もしていない。自分なりに新しい仕組みを取り入れてみたりはしたけど、それだって会社にインパクトを与えるもんでもないし、Qiitaのやってみたレベルかつ今ではレガシーな技術たちだ。
「SIerはPMになるしかない」なんてよく言われるが現職のPMは協力会社に見積と作業ぶん投げて、死ぬ程使いづらい社内ツールに決められた進捗項目を入れていくだけの仕事。あれで「PMできます」なんて言えない。
それで昨年立ち上がった超大型プロジェクトが外部NWから遮断されたオンプレのサーバーで、自社製フレームワークを使い、IE11"を"ターゲットに開発されることになってふと思ったんだ。
「このままGitHubもクラウドもDockerもBacklogも使わず、(自称)エンジニア人生が終わるんだろうな」と。この会社での人生があと30年も続くのかと。
個別の技術に思い入れがあるわけではないんだけど、やっぱり技術で課題解決したいと思って入ってきた世界だからさ、会社の前例やルールじゃなくて、合理的で先のある技術を使いたいんだ。
結局、転職を思い立った数年前から業務外での勉強をやめることはできなかった。でもこれは何のためにやってるんだろうな。本業ではクラウドもWebプログラミングも、アジャイル開発手法も求められていないのにね。虚しさが募ってくる。いっそのこと本業が完全に別の業界だったら良かったのに。(実際別業界と言っていいレベルだけど……)
じゃあ転職するの?20代で「今さら」と言って止めたのに?それこそ今さらだろう。コロナ流行によって東京本社のフルリモート勤務求人が劇的に増えた。もう少し若ければ追い風だったかもしれないが、社会人10年を超えたおっさんが、新しい会社どころからフルリモートなんて環境で働けるのだろうか。あ、もちろん現職はバリバリ出社。シンテレワーク頼みのVPN環境はあるけど社内ルールとかいろいろあって無理なんだって。
年代的には技術とリーダー経験がそれなりに求められるんだろうけど、これまでの経験ではとても満たせそうにない。本業ではレガシーなシステムの保守でそのほとんどが業務よりの仕事でなんちゃってPMやってただけ。独学の開発経験なんて昨今問題になっているプログラミングスクールと大して変わりないだろう。
転職サイトではベンチャーとかから声かけてもらえるけど、まともなエンジニアと話するのがもう怖い。
思考がネガティブな方向にしか向かない。こうなったらいよいよ腹を括って現職にしがみつくしかないんだろうか。しかし、ここまで会社への不満を溜め込んでしまったら、今後若手の取り組みに苦言を呈する老害になる未来が見える。
現職を続けてよかったことと言えば今の家族を持てて、(今のところ)無理のないローンで家を買えたこと。子供は一人で確定だし、子供が小学校に上がるくらいには妻も時短解除で普通に生活はしていけるだろう。
安定を求めた結果が今なんだけど、仕事への不満抱えながらあと30年耐えること考えるとめまいがしてくる。(あと10年もしたらそんな不満も忘れて老害化してる可能性もあるけど。)一方で無能おじさんがこれから新しい会社で活躍する未来は思い描けない。
よく歌詞に「思い描いた大人にはなれなかったけど」とかあるじゃん。あれ、子どものころは芸能人とかスポーツ選手とか、そういう人になれないって意味だと思ってたけど、実際は自分の仕事に誇りを持てず。ただただ惰性で生きる人のことだったんだね。立派にエンジニアの責務を果たしている人たちが雲の上の存在に感じるよ。
今後の人生で一番若いのは今この瞬間で、悩んでる暇なんか無くて行動するしかないんだろう。というか実際のところ現職が自分には合っているんだろうが、理想とのあまりのギャップがとてつもなくしんどい。悩むのをやめたい。もう労働を捨てたい。
【追記】
便所の落書きのつもりで書いたら自分のTLにまで流れてきてビビった。
共感してくれる人も多くいて、なんだかんだ優しい人が多いよね。
みなさんのコメントはどれも正論だと思って読ませてもらってるけど、思ったことを追記してみる。
今後定年が伸びることとかも踏まえれば、それはそうなんだと思う。というかこの記事で「年齢がネックになっている」を全面に出してしまったのが悪いんだけど、自分自身問題はそこじゃないことには気付いてるんだ。
コメントの中でもいくつか指摘があったけど、要はマインドなんだ。これに尽きる。
やってみる勇気、前向きな思考、フットワークの軽さ。このどれもが自分には欠けていている。だから理想(に見える)会社やエンジニアが眩しく、現職に不満が募る。
思考をアップデートしようと『嫌われる勇気』とか『このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法』とか読んだんだよ。内容は理解できるし、そのとおりと思うんだよ。でも動いてないんだ。
この記事含めて動けない(動きたくない)理由を並べて溜飲を下げてるだけなんだ。
昔から何となく気付いてはいたんだけど、ここまでネガティブな人間だと思わなかったよ。妻にも子供にも申し訳ないよ。
それはそうなんだろう。それをやってないのは実際のところそこまで技術に振り切るほど技術を愛していないし、あと自分に能力が無いと卑下しているからなんだろう。
と、またやらない理由を並べて終わりなんだ。
これは理解している。だから得も言われぬ焦燥感に駆られている。
永遠に現職の環境が変わらない、なんてこと無いのはわかってるけど仮に数年後DockerやらGitやらが入ってきたところで、またその時点で世の中から遅れになっていると思う。それが新しいプロダクトなのかアーキテクチャなのか開発手法なのかは分からないけど。
具体的なプロダクト名を挙げたのがまずかったのかもだけど、レガシーだから悪いとか、最新の技術を使いたいとかよりも、これまでの10年で見てきた現職は柔軟に新しいものを取り入れられず一方で口だけはご立派、という会社文化そのものが問題だと思っていて不安を感じている。競争原理が働く市場にいたら、自然淘汰される存在のはずなんだと。
・年収について
高いのかな?いや、平均年収とか中央値とか見たことはあるけど実生活上で高い実感はまるでない。
東京基準で考えたらは恵まれているのはなんとなくわかるけど、地方と言ってもそこそこ人口いるので都会の人が思う”地方”ほどの基準ではないと思うよ。
我が家は妻が時短中というのもあるけど、買った家は小さい建売だし子供一人が妥当かなと思う。有名メーカーで注文住宅建てたり市街地の高層マンション買う人たちはどんな層なのかが気になるよ。
どうしてこう遅いんだ。
遅れているのは、報道だ。
ワクチン接種会場に殺到するも供給不足、オンライン予約がよくわからず損をしている高齢者、
連邦政府と州の連絡調整不足、
余ったワクチンを無駄にしないため、余りを基準に関わらず接種したりして、
さまざまな風景を報じてきた。
そんなこんなでも、接種計画の13%までたどり着いたのは、遅れているとはいえ、すごいことだ。
日本の接種開始からの一週間のペースがもし変わらなければ国民の8割に接種するのに10年くらいかかるのに比べれば。
アメリカの反ワクチンのどうしようもなさも相当にヤバいけれども、国民がバカだという話なわけで。
自民党が接種1回で進める、とか言い出すあたりをみると、日本の場合、政府が病的で深刻だ。
今年の1月になってようやく晴ればれしく公けに活動できるようになったわけだけど。
国民の7割から8割が秋ごろまでに接種できていれば、集団免疫が期待でき、平常の生活に戻れるだろうということだった。
記者の一人が秋までに8割の人々の接種が終わりそうということか?との質問に
秋までに接種できていれば、という意味だ、課題はワクチンを嫌がる人たちにどうやって打たせるかということだと語っていた。
ワクチン接種後、どのくらいの期間、予防効果を持ち続けるか、誰にも確かなことが言えない状況で、
だいたい9か月くらいをめどに、計画を完了させないといけないと言っているわけだ。
ダラダラと何年もかけて接種しても、最初に接種した人から効果が薄れ、集団免疫を確立できない。
接種完了タイムリミットをおおよその感覚で(あるいは仮説として)想定した発言だからだ。
ただ、それでも多分、アメリカはワクチン接種計画、うまくいかないだろう。
ワクチンの問題を自分の身を守るものとしてしかとらえていない。
政府にも、アメリカのCDCのファウチ氏のように、集団免疫に向けた仮説を説明するひともいない。
ワクチンは日本で今後、ちんたらと接種され続けるだろうけれど、
オリンピックが正式に中止になる4月にはGotoいつ再開?などと言い出すに違いないし。
まてよ、そうだとするとオリンピック何が何でもやる、という方針のほうが
このしょうもないワークショップのお題を肯定的に捉えてみて、何かまともな議論ができるか考えてみる。
細かい制約や歴史的経緯は考えたり調べたりする時間がないわけだから、抽象化したレイヤーで考えるしかないだろう。
「創生」する必要がある地方の典型的っぽい課題を抽象的に並べて見るとこんな感じだろうか。
うーん、挙げて見ると結局こんなもんなのか。「場所が悪い」とかももちろんあるだろうけど、それはどちらかというと制約条件であって課題って感じじゃないよな。
「創生」された地方がどんなもんかと想像してみると、要するに「金があって人がいる」ということに尽きるだろうし、そんなに間違ってない気がする。
これらの課題のいずれか(あるいは全て)を解決していくアイデアが何かあるのかということで考えてみる。
というわけで全体としてはやっぱ企業誘致かな〜という気がしてきた。「豊かな自然の中で働く〜」みたいな生ぬるいこと言っててもダメで、めんどくせー国のしがらみをガン無視してやりたいことやれまっせ、くらいのパワーが必要だろう。保守的な地元住民の反対が大きいだろうけどまあ無視するしかないな。
ああいや、もちろんキラキラIT企業を誘致なんてそうそう無理だとは思う。エムスリーを誘致できんのかとかそういう。でもティアフォーやZMPとかならやり方によってはあり得るかも。あとはその地方の財政規模からだいたいどのくらいの税収増が欲しいかみたいなのが出るだろうから、それに合わせて規模感は小さくてキラキラしてないけど上手いこと統一感出しつつ誘致を進めていける業界みたいなのがもしかしたらあるかもしれないと思う。
いずれにしても、元増田の「気持ち」が「就活で上手く行かなくて劣等感を持ってた"都会の民間企業の総合職"に対する合理化(防衛機制)」であることなんて2秒で分かるし、しょうもない「ワークショップ」(それ自体がフェイクだったとしてもとにかく何らかの表面的な交流だろう)の結果で無理矢理作り出した合理化なんて薄氷にも程があるってことも5秒くらいで分かることなわけで、そんなことで元増田の心の課題は何も解決しないこともみんな分かってると思うけど。
元増田が本当に心の課題を解決したいんだったら、さっさと「都会の民間企業の総合職」に転職でもすればいいわけよ。
親がどうとか家族がどうとか、地方を離れられない理由があるのかは分からんけど、結局最低でもそれをやらない限り、しょっぱい優越感で無理矢理納得させようとしても無理だろ。
余命宣告を受けたら、自分の好きなことをして生きても、もはや何も楽しくないと思うのだ。
むしろ、余命宣告は人生がいつまでに終わるという保証でもあるわけだから、
じゃあその期間までなら…と、生きる苦痛に耐える意欲が湧いてくるはず。
なので、余命宣告を受けても、死んでも悔いが無いような好き勝手な生活を送る気は無い。
むしろ、面倒でやってこなかった人生の課題に取り組みたいと思う。
例えば土日を潰して社会奉仕に励みたい。手を抜いてた仕事で業績を挙げたい。
社会的要請である結婚をして身を固めたい。まあ相手など居ないけど。
そういった普段なら絶対やりたくない人生の課題も、仮にどんな苦しくたって宣言された時期には終了する。
だから、取り組む気になれる。期限が切られているのも良いことだ。ようやくそれらをやり遂げられる気がしてきた。
そしてそれらは、死後に審判が下されるというのならば、ささやかな路銀にもなるだろう。
私は地方公務員の女だ。関東圏のとある都市の市役所で働いている。
私立の大学で文系科目を修め、リーマンショックの時期に冗談抜きで大手民間企業100社に祈られ、ほうほうの体で公務員になった。だから、私は民間企業を知らない。営業職が何をするのかも、経理に経費を精算をしてもらうまでのやりとりも、接待も海外出張もテレワークも何もかも知らない。
「公務員は9時5時でやる気がない」「公務員はノルマがないヌルい仕事」「公務員は民間では全く役に立たない」という世間の評判に翻弄されながらも、サビ残を厭わず、クレーマーにも笑顔で耐え、上司の無茶振りにも嫌な顔をせず、地獄のような霞ヶ関出向からも生還した。
公務員としてはよくやっている方だと自認しているし、一定の評価ももらっている。しかしながら、私の心の中はいつも「私は民間を知らない」というコンプレックスに苛まれていた。私の苦労は民間の社員の苦労に比べたら大したことはなく、私の仕事っぷりは民間では全く歯が立たないと、信じていた。
そんな私だが、最近、民間企業の同年代の女性社員たちが参加するマーケティング系のワークショップに、縁あって参加した。
私のグループは私を含めて4人の参加者がおり、彼女たちが働く企業は、みんな私が志望しては玉砕した大手企業だった。私はただ1人のノルマを知らない公務員というだけでなく、彼女たちが勤める企業に採用されなかった劣等生でもある。私は初めから彼女たちに対して卑屈な気分になっていた。
グループの女性たちは、みな堂々と社名を名乗り、民間の総合職の女性らしい華やかさだった。グラデーションカラーの髪や、テレワーク中で、と照れ笑いするスウェット姿は、私が普段暮らす役所の中ではついぞ見かけない。彼女たちはzoomの画面越しに自己紹介した私の顔を見て、
と聞いてきた。私は微笑み、
「公務員って聞くとそういうイメージあるよね。でも私は企画部門だよ。経営戦略を立てるところ」
とできるだけ丁寧に答えた。彼女たちはよくわかっていない様子だったが、そうなんだ、と明るく答えた。
ワークショップのテーマは地方創生だった。私の本分である。私はみんなの意見を聞き、地方創生の実態や課題について話すのがいいのかな、と自分の中で役割のあたりをつけ、議論に参加した。
1人の、某携帯キャリアのマーケティング職の女性が口火を切った。
「地方は元気がないから、地方に元気を与えるような、そう、例えば都心の子供と地方のお年寄りを繋ぐサービスはどうかな?」
「もしそうなったら素敵だね。そうしたら、そのサービスで、どんな地方の課題が解決できるのかな?どんな価値が生まれる?」
私が尋ねると、マーケティングの彼女は考え込み、代わりに引き受けたのはインフラ系企業の研究職の女性だった。
「地方のお年寄りはやることもなくてきっと寂しいよ。それに、自分の知っている地域の遊びとかを教えれば、子供も楽しんでくれるし嬉しいんじゃない?そうだ、忙しいワーキングママの代わりに子供の面倒を見てあげられればいいよ!ねえ、そういうの、いいんじゃない?」
「確かに高齢化が進む地域は子供が減ってるから、寂しいと感じる人もいるかもね。共働きのお母さんも仕事に家事にで忙しいもんね。じゃあ、そのサービスは、どうやって収益を出すの?」
私が再び尋ねると、今まで微笑んでいるだけだった自動車メーカーの広報担当の女性が、やや苛立った様子で言った。
「そんなの地方がお金を出すんじゃない?だって、『地域が元気になる』んだよ?」
残りの2人も、私を非難する目つきで見、メーカーの彼女に続いた。
「そうだよ、お年寄りが元気になれば、地方も助かるんじゃない?」
「やってみないとわかんないんだし、まずはこれで話を始めようよ。細かいこと言ってたら、始まらないよ」
みんなの表情には、ありありと「だから公務員は頭が固い」「民間のスピード感が分かっていない」と書いてあった。私は弱々しく笑い、
「地方の自治体も、慈善事業じゃないから、何のために地元のお年寄りと都心の子供を交流させるか分からないと、お金は出せないと思うよ」
と答えるのがやっとだった。
その後、私と彼女たちは噛み合うことなく、それでも私たちのグループは地方のお年寄りと都心の子供をマッチングさせ、zoom上で昔ながらの遊びを教えるプラットフォームを製作する企画書をまとめた。ステークホルダーは、地方のお年寄り、子供、子供の面倒を見てほしい親、そして地域活性化を目指す自治体であり、「地域活性化」を目指す自治体が出資するシステムである。「民間のスピード」に、私は口出しをすることができなかった。
私は民間企業を知らない。就職活動をして、100社から断られたからだ。新卒で市役所に入った。出向していた時期もあるが、それも霞ヶ関でだったので、結局はお役人の仕事しか知らない。根っからの公務員だ。なので、民間企業の社員に激しいコンプレックスを持っている。私の知らない、私なんかには絶対に成し遂げられないことをしている人たちが、羨ましくて恐ろしかった。
だけど、地方の年寄りがzoomで見ず知らずの子供の子守りをするサービスの企画書に、いらすとやのイラストを貼り付けながら、私は一体何に怯え、何に憧れていたんだろう、と思った。公務員はぬるくて、民間企業は厳しい。公務員は劣等、民間企業は優秀。でも、そんなの会社によることだろうし、優秀か否かだって社員によって異なるだろうに。
ワークショップは淡々と進み、私たちの班の企画書は、講師から「このサービスに本当にお金を出せるのか、今度どこかの役所に聞いてごらん」という感想をいただいた。まあその通りなんだけど、と私は内心で下唇を突き出した。それでも、彼女たちは一様に満足げであった。私以外は東京の企業に勤めているので、週末リアルで会うそうである。私に対しても、礼儀正しく「東京まで会いに来ないか」と尋ねてきたが、私は真面目な公務員らしく、緊急事態宣言中を理由に断った。
今をときめく(皮肉)総理が主になって、政治家による官僚支配を進めてきたことの弊害が、問題となりつつある。公文書の廃棄・偽造から総務省の接待問題に至るまで、この数年の政権の腐敗問題は全てこれに端を発していると言って過言ではない。
だが忘れてはいけないのは、これは全て
…といった過程を経て、官僚支配こそ悪の根源とばかりに公務員叩きを執拗に繰り返す政治家に喝采を送ってきた国民自身の選択の結果だということである。ここで勘違いしてほしくないのは、「公務員を叩いて弱体化したから政治家が暴走している、公務員の力を復活させよ」と言いたいわけではないということだ。
自分に見えている側からしか断言的なことは言えないので、あくまで限定した意見でしかないが、行政については「叩かれたから弱くなる」なんていうことは特にない。その結果大幅に予算と人員が減らされ権益が低下すれば別だが、どうせ誰かがその仕事をやらなくてはならないなら、金も人もそうそう減らせないのは自明のことだからだ。
ただ、「自分たちを叩いて人気が出る人を喜ばすのは嫌だな」ということだけははっきりしている。ならば、なるべく叩かれないよう外面を整え、偉そうに指示する人に責任を被せられるような体裁に仕立てて、その上で自分たちが力をふるう余地だけは確保することに最大限の労力を使うのが最善ということになる。そして、そのためには「政治家に正しい情報を提供しないこと」が重要になってしまう。こうして、膨大な労力が、極めて無駄なことに投下され続ける現象が生じる。
人気取りをする人に正しい情報を提供しても、それを人気取りにしか使われないなら害にしかならない。だから、情報の隠蔽は政官いずれにおいても重要な課題となる。政官は同床異夢とは言いながら、国民に対しての振舞いにおいては似た姿を見せる。ところが、情報公開から得られる利益の規準が異なるため、あるとき官僚が突然「正直に情報を公開」して政治家が「慌てる」ように、両者の仲は特によいわけではない。ただし、そうやって事態が表に出る段階では、すでに手打ちが始まっている。事態は国民の眼には見えないところで、収拾されてしまい、その構造は温存され続けるのだ。この構造、結局誰も得をしていないのではないだろうか。
もちろん、政と官の間には、緊張関係は必要である。ただ、個人的には、それが空転するような無駄な労力の投下にならないでほしいと願っていて、そのために重要なのは政治家の選び方を変えるべきでは?ということだ。現状の問題の大きな部分は、この高度に複雑化した社会において、「官の人材の能力」に比べて「(二世、三世頼りの)政治家人材の能力」が非常に劣っていることにあると思う。その原因は、官と対等に議論できる政治家でなく、毛並みがよかったりむやみに官を叩いて人気を博すれば二選・三選できる現状の「選挙」が糞システム過ぎるのではないかということなのだ。考えてみてくれ。最近の政治家の顔ぶれを。あれが本当に「国民の代表」として、厳しく選抜された能力者集団である官僚とまともに「議論」が交せる人だろうか? なんで政治の世界が「人脈」とか「長老支配」とかが跋扈する体育会系の世界で、自浄能力がないのか。なんで日本の政治家だけあれほど「発信力」がないのか。もちろん、似たことは世界中で起きているわけだから、日本のシステムが悪いとか出羽守をしたいわけではない。ただ、選挙制度をアップデートできれば、上記のような問題はかなり解決に向かうんじゃないか(言い換えればそれは即、政治家の顔ぶれをかなり挿げ替えることにつながるわけで、決して簡単な話ではないのだが)ということが言いたかったのだ。
これが難しいとすれば、第二案は「党の勢力に比例した内閣の大臣ポスト配分の義務化」言い換えれば「一定以上の勢力の政党全て与党化」策だ。これだけで、国会の効率化と活性化、情報の透明化、権限の分散と国民の政治関心の高まりを全て実現できるナイスアイデアだと思っている。もちろん、閣内の意志統一が難しくなるなどの問題は想定でき、たとえば国難の際にどうするか、などの問題も考えられるが、それは現在の自公政権でも同じであるし、そもそも国会自体が多数政党により運営されていながら日本と言う国家が安定的に運用できているのだから、言うほど現実的には問題ないと思う。何より、国対政治よりもはるかに政党同士の駆け引きは「見える化」するし、現実の国の施策として各党の主張も「見える化」されるわけだから、国会における白々しく無駄な論戦もかなり減らすことができ、官僚の負担も大きく減るのではないか。ぐちゃぐちゃ政策に文句を言われ続けるくらいなら、予算を与えて省庁を一個任せればよい。えんえんと言い逃れの無意味な答弁書を作成させて誤魔可し続けるより、ずっと効率的で透明である。
史学について詳しくない自分からすると何語をとっても良いと思いますが(話者のいる言語を覚えるなら言語が役立つかは個人の使い方の問題でしょう)、選ぶなら「この言語なら学んでやってもいいぞ」と思う言語を選ぶといいんじゃないでしょうか。言語習得は大変なので、ある程度しっかりやるつもりなら、自分のモチベーションが続く言語を選ぶべきです。たとえば日本語を覚えた海外のオタクたちは日本語に興味があるわけではなく、(速報性とか量の問題で)アニメを日本語でみる必要性があるから日本語を覚えている人が多いはずです。言語自体に関心がある必要は必ずしもありません。どの言語圏に自分が興味をもつものが含まれているか考えてみるといいと思います。
ただし、第二外国語のモチベーションがなかった自分も、卒論を書く際に必要にかられて未邦訳の文献を自分で訳しているうちに英語はすらすらと読めるようになったので、まあ関心の対象が特になければ研究分野で使うだろう言語を覚えるのはありかもしれません。
ところで必修クラスでは、大学を学問よりもサークルメインで過ごす人たちに多く囲まれると思います。比較的楽といわれる言語を選択すると、よりその傾向が強いです。授業に興味がない生徒が多い場合、教師も要求レベルを下げるので、つまらない授業がまっているかもしれません。大学では往々にして生徒が授業に関心をもっておらず、教師は生徒に期待していません。自分にとっては、生徒に期待していない教師の授業はひどく退屈でした。不毛な時間を過ごすことになりかねないので、どの教師が面白そうな授業をやっているかしっかり調べておきましょう。もしその授業のトピックに関心があっても、教師が教科書をなぞるだけの授業は拷問です。毎週一時間以上椅子に縛り付けられるなら、知的に面白いと感じさせてくれる授業かどうか、しっかりと吟味しましょう。
どの言語でも教師のあたりはずれはありますし、当たりの教師を選べればいいので、(担当を選べるなら)頑張って調べてみてください。個人の経験では、毎週重めの課題が出るなど厳しそうな授業はやる気に満ちた教員が多く、予習した内容よりも授業で学ぶ内容のほうが多かったです。課題にひいひい言いながら、楽しんで受けてました。語学以外だと少人数授業(演習型)とかもおすすめです。
史学のガチコースに行けるのは一握りだとはいえど、大学で本気で学んでいる人じたい一握りなので、大学が東大とかじゃなければいけるんじゃないですか?頑張ってみてから判断してもいいと思います。
もし大学で学問を学ぼうと思われているなら、他の人たちの多くは案外そういうつもりがないことにすぐ気づかれると思います。他の人が楽しそうに遊んでいる中で学問に打ち込むのは、いずれ孤独な戦いのように感じられると思います。向学心ある生徒と友達になれば、わずかに孤独は薄まるので、真面目な生徒が多めなドイツ語はちょっとだけおすすめです。自分が学びを継続できたのは、まわりに優秀な人がいたおかげでした。
ただ、アカデミックなキャリアパスは思われているほど魅力的なものではなかったりするので、もし研究者になりたいならしっかり調べてから進んでください。
皆の感想が欲しい。
コメントの辛さはお好みで。
「できない」に合わせて仕事を選ぶのは、一つの手段として大変意義のあることだと思う。「できない日」でもできることだからこそ、その仕事を長年続けていけるのである。
しかし、「できる日」と「できない日」の差が激しい場合、その間で板挟みになり、どちらも選べない状態になる事もある。今の私がそうだ。
私は「できる日」は、大変人と話すことが好きである。色々なことに興味が湧くし、多様な意見を聞き、上手いタイミングで質問することができるのだ。そんな日は、話すことでドーパミンが湯水の如く湧き出すのを感じる。
しかし「できない日」は悲惨だ。頭が朦朧として、思考回路がショート寸前、今すぐ寝たいのである。
また、頭が回らない故に会話の内容も入って来ず、生返事の繰り返しだ。そんなコミュニケーションに自己嫌悪と嫌われる恐怖を覚える。
このような場合、仕事選びを「できない日」に合わせると「できる日」は仕事のレベルが大変低く感じ、さやかのようにすぐにソウルジェムが濁り魔女になる。
反対に「できる日」に合わせると、「できない日」に仕事をすることは目でピーナッツを噛むくらい困難であり、ドラえもんも裸足で逃げ出すのである。
「できない日」を「できる日」の近くまで引き上げるのが喫緊の課題だが、それは明日の自分に託して今日の私はルイズの抱き枕とともにハルキゲニアへ旅立つのであった。
毎日何ページか進めて提出しなくちゃいけなかったんだけど、自分ともう1人仲のいい友人は全くやる気なくてサボってた。たまに気が向いたら気が向いたページやるくらいで、よく担任から「ちゃんとやれ」と怒られていた。
クラスには、毎日コツコツと問題集やって提出してる女子がいたんだけど、まさに、ちいかわの表情で、全然成績良くないの。
毎日毎日出してるから、いつか成績が上がってくるのかなと思いきや全然反映されないの。純粋に不思議でたまらなかった。
あの子があれだけやってて報われない問題集って何だったんだろって思うよ。
もちろん整研自体は毎日やれば単元理解としては意味あるだろうし、学習習慣をつけるために出してた課題だとはわかっている。自分だって長期的にコツコツやれば成果がついてきたと思うし、あの頃の怠惰で逃したものがあったと思う。
でも、それとは別に、問題集とどう向き合ったら彼女のようになるのかが未だにわからない。どういうつもりで何を考えながら毎日がんばっていたんだろう。
元増田です。はてなでは定期的に出る話題であり、この仕事をしていれば生徒に必ず聞かれることでもありますね。すでに質問増田氏への反応でかなりの部分が議論されていると思います。国語の先生ごとに考えが多少異なるとは思いますが、現場にいる者として、同じことを生徒に聞かれたと思って、自分なりに誠実にお答えしたいと思います。
以下、常体で失礼。
・まず、この疑問への論点はたくさん含まれていると思う。自分なりに整理してみると
①日本という国家が義務教育で(貴重な時間を割いて、他の教育されない分野を差し置いて)古典を扱う理由(教育の制度論)
②上記の上で、古典が選択科目ではない(または高校の教育現場で「選択させられている」)理由
⑤古典を学ぶことは何かの役に立つのか?(個人レベルでのメリットはあるのか?)
……などなど。
・しかし、増田氏の質問「古典は、なぜ義務教育の科目なの?」に対して、学習指導要領等を引き合いに出しながら上記のぜんぶに答えても増田氏は納得しないように思う。なぜかと言うと、それ以前の「義務教育(および後期中等教育)とはそもそも何か?」「義務教育に求められているものは本来どのようなものか?」という重要な命題を増田氏は考えていない(もしくは適切な答えを持っていない)と思えるからだ。
・質問増田氏に足りていない視点は「教育とは多様性を前提にしている」ということだ。学校にはあらゆる子供が来る。子供たちは、あらゆる適性・資質・長所・性質・個性・能力を持って、学校へやってくる。その多様な子供たちに国から一律のシステムとして授けられるのが義務教育である。
子供たちの多様性、というのは学校に勤務していると本当に感じるところであるが、それでなくても、皆さん小中学校にいたクラスメイト、同じ学校にいた児童生徒の「多様性」というものに思いをはせていただければある程度イメージできると思う。
この多様な子供たちに、一律に与える教育が「義務教育(普通教育)」というものだ。これは「全国民に共通の、一般的・基礎的な、職業的・専門的でない教育」を指す。この時点で、小中学校とは原理的に「個人個人の資質や能力に合わせた教育を行う」場ではないということが(その是非はともかく)わかると思う。程度の差はあれ、後期中等教育(高校教育)も同じようなものである。
・そして、ここで注意すべきポイントは「教育に経済的効率という尺度はなじまない」ということである。
これについて(はてなでは評判悪いが)内田樹がわかりやすく説明しているので一部引用してみる。
教育のアウトカムを単位時間を区切って計ること(つまり「効率」を論じること)には何の意味もない。教育を受けたその直後にきわだった成果を示す人もいるし、同じ教育を受けたのだが、その成果が現れたのが卒後50年してからという人もいる。死の床において来し方を振り返ってはじめて「私の人生がこのように豊かなものであったのは、小学校のときに受けた教育のおかげだ」ということに不意に気づくということだってある。
(中略)
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。
(中略)
自分が何を学んだかを決定するのは私自身である。そして、「誰も同じその人から私と同じことを学ばなかった」という事実こそが私たちひとりひとりの代替不能性、唯一無二性、この世界に私が生まれなければならなかった当の理由を形成している。
・そもそも、これだけ多様な生徒に対して同一の教育を与えるのならば、それは最大公約数的なものにならざるを得ない。けれど一方で、そういった最大公約数的なものをどれだけ集めても、一部の児童生徒にとって「役に立たないもの」は、多様性に対して共通の教育を提供する限り必然的に発生してしまう。そして、「~の勉強は役に立った」「~の勉強は役に立たなかった」という『後付けの、結果論的な』評価もまた、その生徒児童によって異なってくる。例えば元増田にとって数学は役だっても、国語教員の私の役にはあまり立っていない。逆も然りで、古典を学んで僕は役立っているが、元増田の役には立たなかったのかもしれない(けれど、今後の人生で役に立つ機会が訪れる可能性もゼロではないよね?)。「役に立った/立たなかった」という言葉は、それぞれの人生の差、多様性が生み出した、結果論的な、後付けの評価でしかない。
・まとめると、その教育が役に立ったかどうかは、後付けでしか評価できないが、多様な生徒全員に「役立つ」教育はごく一部の基本的なものに限られる。よって、多様性を前提にした普通教育は「役に立つかどうか」を基準とすべきではない、という前提が、義務教育を考える際には必要である。
・では上記を踏まえ、改めて、義務教育とは何か考えてみたい。おそらくたくさんの学者や先生が議論されていることだと思うけれど、自分なりの表現をさせていただければ「児童生徒たち(と国全体)への、将来のための、大規模な投資」であると思う。(もちろん、これは上記の前提を踏まえた、ある種の比喩表現であることに注意していただきたい)
・前述の通り、ある生徒にとって何が「役に立つ」かは分からないし、卒業後であってもそれぞれの人生の様相が変わればその評価も変わりうる。どの教科がいつどのような形でリターンとなるのか(または全くならないのか)わからない、ということだ。
言い換えれば、義務教育の内容選定にはあらかじめ「(ある生徒には)役に立たないかもしれないが、それでもやるべきなので、やる」という前提が入っているし、その前提があるために「全員の直接の役には立たなくても、間接的には多くの生徒の役に立つようになるといいな」という思想が入ってくる。また、「それを扱わないということは、全員に機会損失のリスクを与える」という側面もある。
だから、リターンがどれだけあるかわからないにせよ、限られたリソースの中で、できるだけ多くのリターンが生徒に(ひいては国全体に)返ってくるような投資を考える、という設計思想になってゆく。
・このような条件を満たす科目としては様々に考えられるが、特に、古典が思考の根本たる母国語に密接に関わっているという点は大きいと思う。そして質問増田氏含め多くの増田が議論で指摘してくれていたように、古典は以下のような理由で上記の条件を多く満たしている。
・「自国の古の言葉だから、国民として学ぶべき」「愛国心の育成」(国家というアイデンティティの形成)
・「文化の発展」のため(「春はあげぽよ」で笑いを一つ作るのも文化の発展の一つの形)
・人文学研究の基礎体力として(研究者は国家に必要で、大学等で研究を進める際に古典をゼロからだと困る。)(たとえ研究しなくとも、国民の知的レベルを上げられる。ちょっとググりたいときに学校で学んだ知識があると有用なことも多いし、知らないことは検索もできない)
・学習すべき内容が時代によって大きく変わらない(日進月歩で学習内容の変遷が激しい分野は義務教育には不適)
・現代日本語に繋がる、語学学習として。(現代語をより豊かに用いるため)
・「故きを温ねて新しきを知る」、長年読み継がれてきたものを読む(教育において、精神論の何がいけないんだろう?)
・古典籍という膨大な一次情報に各個人がアクセスできる(源氏物語などに顕著だが、現代語訳がすべてのニュアンスを残せているわけではない。また、現代語訳のないマイナーな古典籍が例えば古い災害の記録になっていることもある)
・「論理的な推測」を学べる(「~の気持ちを答えよ」問題はよく槍玉にあがるが、大抵は本文に論理的な推測の範囲で心情が書いてあるので、読解問題である。そもそも言語を扱うという行為じたい「論理的な推測」を行う行為なので、よほどひどいものでない限り、最近のものは全文をきちんと読めば適切な出題だと思う)
・あとは、自分にとって古典がどのように「役に立つ」のか(あるいは現時点で役に立っていないのか)、各個人が評価をそれぞれにすればいい。そして今度は、より大きな視点に立ったうえで、改めて教育の中の古典の位置づけやあり方、内容を考え直すということを考えてしかるべき、そんな時代であると思う。もちろん、法律や情報処理の勉強も大事なのは言うまでもない(ただし、プログラミングは教育導入される方向でどんどん進んでいるし、現行の公民分野にも法律はそれなりに入っているはず)。他にも様々なことが教育には要求されていると思うし、その中での取捨選択・優先順位の付け方は、きっと社会全体でなされるべきなんだろう。けれど、それは「役に立つ」という価値観に縛られるべきではないということは強調しておきたい。
あえてここでポジショントークをするならば、古典を学校で扱うべき理由は、先ほどの条件を満たしていることに加えて、「千年単位で変わらない本質的な事柄」とは何かを生徒に示唆してくれ、時間的なスケール感の大きさに思いを馳せる時間を持てるという点だと思っている。(そう思って前の共通テスト古典の分析を書いていました。授業でもよく言うんだけど、千年前に妻を亡くした人間が、現代人とおんなじようなこと考えてるって、結構安心しないですか?)
・これが生徒に対してなら、上記の話はやや難しく話が長すぎる。自分が担任をした生徒(物事の意味について考えようとする人物だった)には、例えばこう話したことがある。
「今あなたが意味を感じていない世界史を、例えば学ばなかったとしましょう。(あなたにとって何が意味を持つのかは今の時点では分からないので、それもあなたの自由ではあります。)そしてそのまま大人になります。その時、あなたは世界史の知識を元とした発想やアイデアを失うだけでなく、その発想を失ったことそのものにさえ気づけないことになります。つまり、自分の可能性が狭まっていることにさえ気づけないでしょう。あなたなら、その怖さってわかるんじゃないですか」
(いちおう、この話をしたこの生徒は、世界史の勉強について、成績は別にしてもこの生徒なりに考えてくれたようではある。後から他の先生にこの言葉の意味について話していたらしい。)
これが古典なら、別な増田が言っていたように「矛盾の語源を知らない」ことの機会損失について話すことになるだろうか(矛盾の故事は中一の教科書に載っている)
・おそらく質問増田氏にとって(多くの生徒と同じように)古典は役に立ちもしなければ面白くもない科目だったのだろうと思います。自分はなるべく古典の面白さやエッセンシャルな部分を伝えるべく授業で努力をしていますが、もちろんそうでない先生もいます。また、今回は触れなかったけれど「入試対策」という四文字が実際の古典学習に与える影響は計り知れず、本質から外れた苦行的な暗記学習・パターン学習が強くなってしまっている現実には自分もジレンマを感じないわけではないです。古典という科目が抱えた問題点や古典嫌いを生むこの構造的な病理は、なかなかに根深いものがあるのもまた事実。最初に挙げた①~④の論点あたりにはかなり課題もあるでしょう。
(少し話題はそれますが、前回の共通テストのエントリを書いてから他教科の同僚と話していて至った結論は「共通テストはより学問のエッセンシャルな部分に近づけられている」というものでした。大学入試が変われば高校の進学校の勉強も変わるので、これは良い兆しです。共通テストには今回のような学問のエッセンスを込めた入試問題を作り続けていただきたいと思います。)
・ただ、今回の質問増田氏のような生徒に対して自分が感じるのは、もっと広い視野で物事を見て欲しいという気持ちです。綺麗事かもしれないけれど、自分にとって意味がないものに見えても他人にとって意味があるものもあります。もしかしたら自分にとって後々意味が出てくるかもしれません。けれど、そのように意味をとらえなおすことができなければ、いつまでも古典は仮想敵のままでしょう。国語教員である自分がどれだけ古典の魅力をここで語っても、それはやはりポジショントークに過ぎません。意味というのはやはり自分で見つけるものだし、見つからないことだって往々にあるでしょうから、それを受け入れることや合理化することだって大事な「勉強」です。
(今回の話題に関連して、最近読んだ本だと、SF作家森博嗣が出した「勉強の価値」(幻冬舎新書)が、ツッコミどころも多いながら興味深かったのでオススメ。)
それに、自分にとって意味が無いと思っていたものがこんなに深く豊かな世界を内包していたんだと気づければ、それは素敵なことです。少なくとも、それを認めることが多様性をはぐくむ態度であると思います。
・P.S.
これを読んでいる生徒の皆さんへ(元生徒さんでもいいです。笑)。
自分にとってイヤだったり不得意だったりしてもいいし、つまらないと感じることもいいです(わからない・つまらないは教育する側の問題なので、どんどん声をあげてください)。けれど、だからといって排除することは、自分の可能性が消えるという別な問題を生みます。自分がイヤだったものをイヤなまんまで自分の中に置いておくのもしんどいことだろうなと思うので、ちょっとだけ面白いものを紹介しておきます。
今からでも、古典に関する自分の評価を変える機会になればいいなと思います。頼めそうなら、複数の生徒で担当の先生にもっと面白いものを扱ってもらえるようにお願いしてみるのもいいかも。先生は案外、そういう授業に飢えています。
https://kawadeshobo-blog.tumblr.com/post/129340109097/町田康訳奇怪な鬼に瘤を除去される宇治拾遺物語より
↑これを読んで
https://www.koten.net/uji/gen/003/
正確に言うと中高6年間の半分だ。
数学は普通に好きだったし、音楽聴きながらやれるし、落ちこぼれたら終わりって聞いてたから割と真面目にやってた。
寝てるか、遊んでるか、窓の外を眺めているか、まあそんなところだったと思う。
試験は30点程取ってなんとか乗り切っていた。
中2の終わり、私の成績は学年下から何番目で、
中3、私は少し勉強した。けっこうできた。
そのまんま高校に行った。
高2になると勉強が難しくなった。
5月、私は少し頑張った。
結果は下から数えた方が早かった。
結果は下から数番目とかだった。
10月、ビリだった。
ビリの生活は辛かった。
授業は何も分からない。分からないなりに必死に聞くべきだったのかもしれないが、宇宙語を聞くのは15分が限界である。ただの苦痛な時間だった。
友人には聞けるわけもない。誰も私に時間を割きたくないだろうし、私もこれ以上皆の迷惑になりたくなかった。授業を一切理解していない私の様子は側から見ても恐らく浮いていて、しかも多動だから隣の席の子は迷惑だったと思う。頑張っているクラスメイトに申し訳なかった。
テストは1問も分からないので全部宝くじと考えていた。この頃には英語も数学も限界に達していたので真剣に解けていたのは現代文だけと言える。
記号はイかウで埋め、記述は1番後ろの回収の生徒が引かない程度に埋めることを意識した。埋めることに目的があるため、内容はあまり考えていなかった。
突っ伏して寝たかったが、私の無駄に大きなプライドがそれをさせなかった。私がビリなのは皆分かっていると思うが、これ以上目立ちたくなかった。少しでも周りに解いてると思われたかったので、歌詞を書きおこしていた。
家族もめちゃくちゃになった。
私も自暴自棄になり、
試験開始1分で寝て、試験監督に「大丈夫?」と声をかけられたこともあった。
もう試験に行きたくなかった。
行っても寝るか絵を描くか歌詞を書くか。
ならば行かなくてもいいのでないかと思い、ブッチした。テストで寝るにも限界がある。
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訳の分からない終わり方になってしまったが、私は高校を無事に卒業することが出来たしセンター試験ではかなりの高得点をマークした。高校では授業についていけない余りに学ぶことを放棄していたが、その分「私も人並みに学びたい」という思いは強まっていたのである。こんな奴が大学生というのは如何なものかという意見もあるだろうが、今、私は学びたい。
現代人は殺されたい、終わらせてもらいたい欲求に飢えている。別に大勢からボコボコにされる必要は無い。ただ、たった一人によって闘いの末に大往生を遂げたいんだ。更に人間は低スペも高スペも等しく心に獣を飼っている。だが、低スペはその破壊衝動をかなえる術がないんだぜ。街に壊していいものはない。野生動物は人と闘わないから、自分と付き合ってくれるのは幻影ばかり。修練しても虚しいだけ。だからこそ、殺人ロボットを開発すべきだ。破壊衝動と希死念慮を満たし、孤独から人を解放してくれる。でも、そこには多くの課題がある。でも、人類の幸福のために解決すべきだと思う。
俺が思いつく課題は以下の通り
ロボットや兵器などが実物の人間に近づくほど戦闘力は高まる傾向にある。でも、ある程度近づくと戦闘力がグンと下がる。この現象を武神の谷現象と呼ぶ。そこを解決し、本物に肉薄できるようにすることが大切だ。更に肌触り、体温、匂いなども実物に近づけないと行けない。
・機械が"獣"を持てるのか
俺は感情を持った機械を知らない。ただ、こちらの言うことに反応して闘らせてくれるだけのロボットじゃ破壊欲求は満たせても、希死念慮は満たせない。だからこそ、外見だけでなく精神面も人間に近づけ、獣、あの恐ろしき獰猛さを理解できるロボットを開発すべきだ
・無条件で武人を破壊する様に設計されたロボットに殺されてうれしいのか
そんなのどんな音痴でも満点を出してくれるカラオケマシーンと同じだという意見があるかも知れない。正直、これは難しい問題だし、俺もどう解決すべきか見当もつかない。でも、それでも殺されないよりはマシだと思う。
人間は生物と無生物を区別し、前者を壊すことに歓喜をおぼえる傾向があるという。この心理をバイオクラッシャーと呼ぶ。だからこそ、人は獅子を狩ったり、食人植物を食らうのだ。最初から無生物と分かっている機械にあの高揚を抱けるのだろうか。これも難しい問題だ。俺も解決方法が分からないので優秀な増田に意見を聞きたい。
そもそも人間がこの世に必要だという保証がどこにあるのか。人間も所詮は偶発的に発生したに過ぎない。だからこそ、不条理に苦しめられるのだ。そんな苦しみを和らげるためにロボットは必要だ。機械に滅ぼされてしまうならそれもありじゃないか。苦しみながら存続するよりもいい。
殺人ロボットが開発されたら、現実の人間じゃ満たせない性癖も満たせるようになるぜ。全身の骨を折られたいとか、奇襲したいとか一般じゃ忌避される欲求だって満たしてくれる。理想の武人と殺し合うことも出来る。俺がもし殺人ロボットを発注するとしたら、身長1800cm、手足が長く、皮膚は合金製、拳が大きくて、腕の太くて、体運びのいいロボットをオーダーメイドで作ってもらおう。全員ではないにしろ、現実の武人は汚い。あいつら裏でネチネチ陰口言うし、暗器やWMD、ガスを平気で使うし、武士道的思考出来ないし、死体を家具にするんだぜ。殺人ロボットはそんなこと絶対にしないから、もし殺し合ったらやめられないはずだ。破壊や死に飢えてるみんな、殺人ロボットが開発されたら人生がバラ色に変わるはずだ
現代人は愛されたい、認めてもらいたい欲求に飢えている。別に大勢からちやほやされる必要は無い。ただ、たった一人にとって無条件で大切な存在になりたいんだ。更に人間は低スペも高スペも等しく性欲を持っている。だが、低スペはその性欲をかなえる術がないんだぜ。風俗に可愛い子はいない。女は下方婚しないから、自分と付き合ってくれるのはブスばかり。オナニーしても虚しいだけ。だからこそ、恋人ロボットを開発すべきだ。性欲と承認欲求を満たし、孤独から人を解放してくれる。でも、そこには多くの課題がある。でも、人類の幸福のために解決すべきだと思う。
俺が思いつく課題は以下の通り
ロボットや映像などが実物の人間に近づくほど好感度は高まる傾向にある。でも、ある程度近づくと好感度がグンと下がる。この現象を不気味の谷現象と呼ぶ。そこを解決し、本物と区別できないようにすることが大切だ。更に肌触り、体温、匂いなども実物に近づけないと行けない。
俺は感情を持った機械を知らない。ただ、こちらの言うことに反応してやらせてくれるだけのロボットじゃ性欲は満たせても、承認欲求は満たせない。だからこそ、外見だけでなく精神面も人間に近づけ、愛情、幸福を理解できるロボットを開発すべきだ
・無条件で主人を愛する様に設計されたロボットに愛されてうれしいのか
そんなのどんな音痴でも満点を出してくれるカラオケマシーンと同じだという意見があるかも知れない。正直、これは難しい問題だし、俺もどう解決すべきか見当もつかない。でも、それでも愛されないよりはマシだと思う。
人間は生物と無生物を区別し、前者に愛着を抱く傾向があるという。この心理をバイオフィリアと呼ぶ。だからこそ、人はペットを飼ったり、観葉植物を植えるのだ。最初から無生物と分かっている機械に愛を抱けるのだろうか。これも難しい問題だ。俺も解決方法が分からないので優秀な増田に意見を聞きたい。
そもそも人間がこの世に必要だという保証がどこにあるのか。人間も所詮は偶発的に発生したに過ぎない。だからこそ、不条理に苦しめられるのだ。そんな苦しみを和らげるためにロボットは必要だ。機械に滅ぼされてしまうならそれもありじゃないか。苦しみながら存続するよりもいい。
恋人ロボットが開発されたら、現実の女じゃ満たせない性癖も満たせるようになるぜ。全身嘗めたいとか、掘られたいとか一般じゃ忌避される欲求だって満たしてくれる。理想の女性と愛し合うことも出来る。俺がもし恋人ロボットを発注するとしたら、身長180cm、手足が長く、顔は卵形、目が大きくて、唇の薄くて、歯並びのいいロボットをオーダーメイドで作ってもらおう。全員ではないにしろ、現実の女は汚い。あいつら裏でネチネチ陰口言うし、ヤンキーやDQN、DV男に平気で抱かれるし、論理的思考出来ないし、男を金づるにするんだぜ。恋人ロボットはそんなこと絶対にしないから、もし愛し合ったらやめられないはずだ。愛着や承認欲求に飢えてるみんな、恋人ロボットが開発されたら人生がバラ色に変わるはずだ
ロボットの人権という肝心な問題を忘れてた。これもクローン技術、動物愛護のように簡単に結論の出せない重大な倫理的問題をはらんでいる。そこも恋人ロボット開発の上で避けて通ることの出来ない問題だ。
封建主義というか「ここは政府がきっちりと抑えないとならない」という峻別だろうな。
封建主義も良い王様と理想的な法律で動けば理想的だという一つの考えだから。問題は良い王様、理想的な法律に実際なるかは限らないからな。
まさにケインズ主義として、政府が財政出動をしたり、税で行動を誘導しないとならないというのは政府の関与そのものだな。
だが、組織はほっといたら肥大化しやすくなる。政府の一部の人間さえ騙せれば儲かるからレントシーカーも蠢きやすくなる。
何より、産業弱体化や、何らかの資源不足などでの供給由来インフレの懸念はケインズ主義にもあり、いざ起きてからでは何もできないということだ。
政府が関与するべきところは明らかにあるってことだ。どこが関与すべきで、どこが関与すべきではないかの峻別は人類永久の課題だと思う。
先月あたり話題になった某大学の食料支援の第2回目が過日あったので申し込んで受けてきた(第1回目は人が多すぎて断念した。友人は3時間並んだらしい)ただ別に自分は明日の飯に食うに困る人間ではないし、野草を食べるとかか1日1食で食いつなぐとかでもない。三食食べるしバイトもある。
ただ例えばヘトヘトになったバイト終わりにコンビニで買うご褒美150円スイーツが買えなくなった。課題で切羽詰まったときも容易に外食やテイクアウトはできない。周りにいる学生の中には本当に食うに困る人も確かにいるが、食料支援を受けた学生の少なくない数は自分と同じ状況だろう。明日に食う困ることも、電気を止められることも、家がなくなることもない。ただ余裕がない。
貧しいってなんだろうか。単に明日食うに困る人が貧しい人で明日心配せずに食える人は皆裕福なのだろうか。黒でも白でもない、極貧でも裕福でもない微妙なグラデーションの中で何と無くお金がないなと思う人はなんなのだろうか。隙間がなくなる、余裕がなくなること、心が金に蝕まれることもきっと貧しさだ。お金がないと一概に心が貧しくなるわけではない。ただ自分は常に金のことを考えてしまう。思考したところで生産性はないのに常に金のことが頭にあるし他人に対しての許容量が確実に減った。この種類の貧しさは食料支援を受けて、人の善意を正面から受けると心が少し和らいだように思う。本当に食うに困るには金の方がいいのかもしれないけれど、こういう貧しさには食料支援もありだと思った。そこを大学が意図しているかはしらないけれど。とりとめない話になってしまったがまぁ増田なので。貧しさってグラデーションがあるし心の余裕につながるのだなと思いました(作文)たくさんかけた。
最後に食料支援をしてくださった企業と地域の方、卒業生の方すべての人に感謝を申し上げます。皆様の善意や思いやりを受け取りました。救われました。学生を忘れないでいてくれてありがとうございます。
世間から「男らしさ」を求められているかどうかはあんま関係ない気がする。
そもそも男らしさを求められていようがいまいが、男は自分の不遇を愚痴って共感を得ることにはたいして充足を感じないよね。
女にありがちな「こんなひどい目に遭って可愛そうでしょう腹が立つでしょう」っていう話よりも、男は「こんなひどい目に遭ったのでこんな風に解決した」という話のほうをどちらかというと好む。するのも聞くのも。
女性から「相談の体裁だが単に共感してほしいだけの愚痴」を聞かされて、共感だけしとけばいいのについつい「俺が考えた解決策」を偉そうにベラベラ喋ってしまい「いやそうじゃない」って言われてしまうケースがよくあるでしょう。
基本的に自分が直面している課題は自分だけのものであって、気分を誰かに共感してもらうことには意義を感じておらず、課題が取り除かれない限り解決した手応えを得られない。それが男だと思う。全員がそうではないだろうけど。だいたい。