はてなキーワード: 情報量とは
撮った写真はlightroomで現像して何も考えずにgoogleフォトへとアルバム単位でアップする。
そうすれば、どこにいても自分の撮った写真を確認することができる。
iPad Proの液晶が占めるサイズは197mm×263mmで、写真サイズでいうところの六つ切り(203mm×254mm)とほぼ同等だ。
Lサイズ、KGサイズ、2Lサイズ、六つ切りと並べてみれば、説得力の違いは言うまでもない。
アップロードの際、容量無制限のサービスを利用した場合は1ファイルあたり1600万画素(EOS5D Mark3を使っている自分の場合4898×3265)に圧縮されるが、iPad Proの解像度は2732×2048なのでドットバイドット以上の解像度が維持されていことになる。
そこに来て液晶の色彩は折り紙つきのappleだ。信用して問題ない。
今までのどんな携帯デバイスでも見ることができなかった、まつげ一本一本からさらに一歩踏み込んだ感情を読み取ることができる。
細かく書き分けられた人々の表情から読み取れる情報は、まるで自分がそこにいるような錯覚さえもたらしてくれる。
それらが写真を拡大することなく、開いた状態で一度に目に飛び込んでくるのだ。
この情報量の多さは今までに経験したことのない感動を生み出してくれるはずだ。
ちなみに重量は723g。
Air2の437gに比べれば確かに重いが、iPad4の652gを持ち歩いていた自分にしてみればその差は些細だ。
200g減らして携帯性を取るか、たった70g増えただけで飛躍的に向上する感動を取るか、選択は当然自由だ。
しかし断言できることは、一度このサイズの写真を手元で楽しむことを覚えてしまえば、もう元には戻れないということだ。
ペンもキーボードもまだまだ届く見込みはないが、もうすでに自分の生活にイノベーションが起き始めていることを実感している。
購入を迷っているならiPad Proで写真を見てはいけない。
ライフスタイルに変化を必要としないあなたには高い買い物になってしまうに違いない。
わたしもこれ以上フォトグラファーとしてのライバルを増やしたくはないのだ。
どうかappleのonline storeで在庫の確認なんてしないでほしい。
なんて、一度こういうの書いてみたかったんだよな。かなりそれっぽいと思うけどどう?
・ちょっと詩的な響きを入れる
女の肉食化と男の草食化
これは恐らくこうでしょう
・強い男性が弱い女性を襲う、アタックする、という関係があった
・しかし近年は男女平等、ジェンダーフリーが叫ばれ、男女雇用機会均等法を始め、女性の社会進出が強まっている
・たとえば離婚時における親権の母親有利、女性専用車両、痴漢被害では女の証言だけを根拠に裁判に発展する、自殺・過労死・ホームレスは圧倒的に男が多い、男の盗撮は御用で女の盗撮は御用にならない、DVは男->女の一方向のみ、声をかけただけで不審者扱い、手紙を数通かけばストーカー
・などなど、まだまだあるが、とにかく女が守られる・男が悪者ケダモノの社会環境
・このような社会環境の整備によって、男は女にアタックすることを委縮するようになった
・下手にアタックすれば、周りからどのように言われるか分からない、どのような裁きが下りるか分からない、そう、周囲の目が、社会が怖いのである
・逆に、女は社会に守られて、もじもじしている男に強引にアタックするようになった
・それは、基本的には男は「若くてかわいい」女が好きであり、変態であることが、ネットの圧倒的な情報量(たとえばwebサイトで最もアクセス数が多いのがエロサイト、性犯罪が最も多い職業は女子の身近にいる教師、なくならない盗撮犯罪・理由はパンツが見たかった、溢れるアニメの多くは男の本性を見透かしたような美少女ミニスカパンチラ・所謂萌え文化、など)からほとんど明らかと分かっているから、男の本性を、それやっぱり変態じゃないか、と面白がって記事にするマスコミ、戦後と違い、多くの人間が必要な時代でもない、そのような時代に、若くてかわいい女を見たら発情してしまい、子作りしようとしてしまう、時代に合わない男のプログラムの滑稽さ
以上が女の肉食化と男の草食化について
「インターネットよりも情報が遅い」だ「何故報じていないんだ」とか、「大事なのに報道しないマスゴミ」って言うのを目にした。
報じる分の情報量を確保する必要があるだろうし、今回は国外。現地の支局があるなら、そこから送られてくる情報をまとめる必要(もしかしたら現地側でまとめてるかもしれない)があるし、
言語が違う分、翻訳だったり文章校正にも時間がかかると思う。メディアが個人では無い分、どういった報じ方をするのか決定をする段階もあると思う。
こういった事を踏まえても「報道をする」という事は時間も正確さも大切な要素の1つになっているのは明らかで、きっと報じる段階でいかに時間をかけずに
正確な情報が流せるかってのは、国や地域、言語に関わらず各メディアで当たり前の様に努力しているはず。
それでも流さないって事は情報に不備があるか、そのメディアの限界とも言える。そこに固執する理由はあるの?
スポンサーでもなきゃ、見なければ良い話ではないのか? 報道するメディアなんて数多くあるし、どこもニュースバリューを考えて報道しているから、
今回のテロも遅かれ早かれどこでも報じると思う。
特定メディアが事件・事故を報道しないからといって情報が得られない訳では無いし、情報が遅いというのなら見なければ良い話。メディアの規模とか関係ない。
今回はフランスのテロ事件だった訳だから、フランス語が分かるのであれば現地のメディアを見るのも良しだし、フランス語分からない自分はBBCとかCNNの英語圏向けライブ、
Google翻訳使ったネットの英語記事、Redditの/r/wordnews、日本のサブレディットの/r/newsokurを見ていた。何が起きたのか分かったし、特にredditなんかは
自分が手に入れた情報を流す情報元を色々な人に広める事も出来る。
ちなみに国内でも早いところはあって、ハフィントンポストの日本語版のライブ記事がかなり参考になったし、今も情報が続いて入ってきてる。
言いたかったのは、メディアのあり方について批判するなら、大事が起きて落ち着いてきた後でやって欲しい。かな。マスゴミマスゴミ言っている連中も、
出来事がリアルタイムに更新されている中では、情報を得ようとする人々からするとデマの次ぐらいにノイズでしかない。スルーされる可能性も高い。
収拾付いた後に「あの報道の仕方は~」とかは言ってもらった方が、「ここは参考にならないんだな」と判断出来るのでそうして欲しい。
今回はテレビが情報遅いと言われていたので、「テレビのニュース番組がいかに努力してるのか」というのと「番組(テレビ局)という組織で報道する事の難しさ」を表した動画を紹介しておく。
ニュースを伝えている人も伝える情報を集めている人も情報を伝えたいのに伝えられないよ!って時はあるんだね。
東日本大震災山田アナウンサーの絶叫 https://www.youtube.com/watch?v=upf49bY5Oh4
後発の人は先人のネタとかぶらないようにするんだけれど
フォーマットがガチガチの表現の場合、使えるパターン、素材、リソースが少なすぎていつか詰むのだろうか。
あるいは人が一定時間に処理可能な情報量が表現の種類の上限なのか
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8bitカラー16*16サイズだと256^(16*16)通りしか表現できない
が、まだ受け取り手側の処理能力に余裕があるから、色数や解像度を上げて使える数を増やすことが出来る
でもこんどは色が32bit、解像度が500dpi超えると人間の能力の限界で1bitの差異を認識できない。
つぎに、眼鏡をかけて視力を補正&強化した様に人間側の認識能力を機械であげ、超々大容量のデータの1bit違いを区別できるようにして
はっきり言ってしまえば、虐殺器官のトリックもハーモニーのアイディアも、SF的観点からするとさして目新しいものではない凡庸なものだ。
にも関わらず、「夭逝の天才作家」として祭り上げられる以前から○○おじさんを含むめんどくさい連中に評価されている理由は何かと考えると、ディティールの積み上げる圧倒的なリアリティにあるのだと思う。
虐殺器官に出てくる心理的マスキング処理、ハーモニーに出てくるアマゾンめいた個人評価のスター、これらは今現在からの延長線上の未来として演算される現実的なもので、一部の組織や企業内では既に現実のものとして実装されているものであろう。
彼の死から早6年、彼の最後の作品である屍者の帝国が、Project itohの最初の映像作品として公開される、それも彼が最も愛した映画という形をとってだ。
6年間、それはあまりにも長い時間でした。僕らの好きだった計劃さんは、どうしようもなくめんどくさい(そして愛すべき)はてダの映画おじさんという存在から、いつの間にかに「夭逝の天才作家」という世間を騒がすアイドルになっていてProject itohなるものが始動してしまう始末。
それでも、それでも、Projectに苦虫を噛み潰したような表情で立ちすくむ○○おじさんたちも、御大の小説が映像化されることには公開される前は素直に喜んで胸のときめきを抑えきれなかったはず、そう公開される前は。なんなんですか、いざ公開されたとなればハダリーたんのおっぱいとか階差機関に対する言及はあれども映画そのものに対しては皆口をつぐみ、挙句の果てに「地獄はここにあるんですよ」と指差す始末。
はっきり言おう、○○おじさんたちは生前の計劃さんから何も学んでいないと。
映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブに溢れる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。
批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「〜が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。
だから、こいつは映画批評じゃない。まさに印象批評的で、規範批評的で、それはすべて、ぼくが紹介する映画を魅力的に見せるためにとった戦略だ。
このページでいろいろ書いていることは、結局そういうことだ。
「おかえり、フライデー」
人間は死亡すると、生前に比べて21g体重が減少することが確認されている。それが霊素の重さ、いわば魂の重さだ。我々は魂が抜けた肉体に擬似霊素をインストールすることによって死者を蘇らせる。
原作は我らが伊藤計劃、そして円城塔。といってもたった30枚の遺稿は映画化にあたってオミットされている。メディアミックスなるものは今日当たり前のものになりつつあるのに、なぜかこと映画化に関しては地雷であるという評価が当然のものになりつつある、特にマンガやアニメの原作付きのものに関しては顕著だ。本作もその類に漏れず、○○おじさん達から大変な不評を買ってしまっているが、伊藤作品の映像化という観点からすれば私は十二分に楽しむことができる傑作だと思った。
原作付き映画に何を期待するかは人によってそれぞれ違うが、原作のストーリー通りに話が展開するだとか、セリフを忠実に再現するだとか、冒頭の30枚を残すだとか、少なくとも私はそういったことには重みを置かない。小説には文字の、映画には映像の文法がそれぞれあるのだから、単に忠実に再現するだけでは翻訳として成り立たないし、少なくともメディアミックスとしての価値はない。それは原作ファンを称するクラスタに向けた言い訳に過ぎず、怠惰な姿勢だと思う。
文字とはすなわち情報であり、映像もすなわち情報である。その違いがどこにあるかというとtxtファイルとwmvファイルの容量を比べるまでもなく、圧倒的な情報量にある。つまり同じシーンを描写するにあっても、映像化のためには不足する情報を画面に徹底的に描き込まなければならない。では不足する情報をどこから補ってくるかといえばやはり原作であるのだが、単に帰納的演算に基づいて情報を付加すると、あたかもjpeg画像を拡大したように荒く違和感を感じるものになってしまう。そこで映像化にあたっては、原作を入念に読み込み世界観を理解したうえで、原作に存在しなかった情報を加えることでディティールを明確にする。一方でその情報量が過剰であるが故に、人は文字を3時間追うことができても、映像を3時間観ることは困難なのもまた事実(現実的には予算だとか尺の問題だが)。そこで行われるのは物語の圧縮である。先に述べた情報の付加と異なり、如何に情報量を減らさずに短い時間に収めるか、如何にディティールを残したまま圧縮できるかが肝になる。
こうして完成した映像作品は、個々人の頭の中に存在する「原作」とは違ったものとなっているので、ほぼ確実に違和感を与えることになる、場合によってはそれが不評の原因になるかもしれない。だが、ここであえて言わせてもらえば、その違和感こそがメディアミックスとしての醍醐味であって、映画を見る楽しみの観点であろうと。
私はかつて植民地だった地域によくある上海の租界のような場所が好きだ。それは現実の宗主国の建築物を現地にある材料で模したまがい物に過ぎないのだけれども、望郷の念からか過剰に演出されたそれらの建物は本物のフランスやイギリスの建物より本物らしく見える。例えるなら歌舞伎の女形が女性より女らしいようなものだ。
映像化された屍者の帝国に、私は原作より原作らしいもの、あるいは書かれることがなかった、この世界線には存在しない真の原作の面影を感じることができたと思う。
ボンベイにたむろする屍者の労働者、○○おじさんにも大好評だった圧倒的なディティールの階差機関、白く荒涼としたカザフスタン、目黒雅叙園に相撲の浮世絵ジャパン、映像化に際して付加された情報量についてだけでも映画として申し分ない。かつて彼が愛していた世界観型の映画のように、産業革命の時代に屍者技術なるものが存在した場合どんな世の中になるかというSF的観点なif、たったひとつの嘘による世界構築がなされている。
「あなたにもう一度逢いたかった、聞かせて欲しかった、あなたの言葉の続きを。」
原作ではフライデーが円城塔で、ワトソンが伊藤計劃にあたる。彼が残したテキストを読み足りない情報を補って、作家伊藤計劃を脳内にエミュレートして続編を書くという行為を考えれば当然の配役である。小説のエピローグで、彼岸に渡ったワトソンを思ってフライデーは自らの意思を持ち動き出す。一方、映画ではその立場が逆転して、ワトソンが円城塔でフライデーが伊藤計劃にあたり、旅の目的は伊藤計劃の復活である。映画の文法としては旅の目的の明確化だが、○○おじさんにとっての不評の元凶となる改変だ。BLだノイタミナだとdisる気持ちもわからなくはないけど、ヴィクターの書記を手に入れて伊藤計劃を復活させるという話が映像化第一弾として公開されることに意味を感じる。
冒頭にも書いたが伊藤計劃の小説は言ってしまえばそんなでもないし、同じようなものを書ける人は出てくる。けど、彼の映画批評のような愛と薀蓄に溢れた文書を書ける人はもう出てこないような気がする。それでも彼がもし生きていればこの映画をどう評論しただろうか、死んだ彼がこの映画を見たらどう評論しただろうか。
ジャッキー・チェンの映画見たらその後数日はカンフーをしたくなるが、
ドラゴンボールはそういう根源的なアクション欲求を満たしてくれる作品だったと思う。
主人公だし!
この頃の好きは単純だったように思う。
ギャグが面白くて好きだった。後、ククリからニケへの好意の描写も多くてよかった。
この作品はアニメ終了後も単行本をずっと追いかけてずっと好きだった。
単行本は終盤の絵柄が好きじゃないとか言う人がいるけど俺は気にならなかったし、
初めて買ったCDはEDの「Wind Climbing 〜風にあそばれて〜」だった。
もちろんククリも好きだが、やはりニケのボケ、ツッコミはこの作品の肝だ。
この作品を知ったのは親父が映画「Air/まごころを、君に」を借りてきたからだった。
OPが非常に好きだ。
あの全部理解させる気のない圧倒的情報量、スピード感はこの作品を象徴していたように思う。
敵も毎回色んな形態、シチュエーションで、全ての話数で飽きさせない、先の読めない展開の連続だった。
BGMのクラシックが非常に印象的で最高の盛り上がりから最後のカヲルくんを握りつぶすタメまで、息の詰まるというか、
心拍数が上がるというか画面の中に意識を囚われて、終わった後も戻ってこれない感覚を味わった。
傾向として、物静かなヒロインより、自己中心的だと捉えられることも多いが、
自分の意見を言う、他人に不利益が例えあったとしても自分の意志を通す、欠点のある人間らしいヒロインの方が好きなようだ。
思うに放送局がNHKでどの地方の人間でも見ることができて、何度も何度も再放送されたことがこの作品の地位を築き上げていると思う。
さくらちゃんは可愛いし、小狼くんと打ち解けていく過程がいいです。
この回は小狼からさくらちゃんへの好意が明確に描かれた回だった。
この作品はそういう視点で見ていたので、この回が印象に残っている。
当時はツンデレという言葉はなかったが、振り返って考えると当時からツンデレキャラが好きだった。
小狼くんはクロウカードを集める関係上敵対的な態度を最初取るが、どんどんさくらちゃんに好意を寄せていく事になる。
最初の印象はポケモンアニメの亜種という感じだったがポケモンアニメがサザエさん的なのに対して、
デビモン編では各キャラクターの紹介。
ダークマスターズ編では提示された欠点の再描写と解決となっている。
デジモンワールドと現実世界を何度か行き来するが、時間の流れが違うおかげで、
デジモンワールドに戻った時に状況がガラッと変わっていて、新たな問題の提示と困難度が劇的に表現されていた。
FF6の崩壊後の世界とかそういうシチュエーション好きなんです。
基本的に各編のボスと主人公勢との間には圧倒的な力の差があって、ボスから逃げつつ、
勝つ手段を探すような感じで、敵の強さの描写とその敵を倒したときの爽快感はすごくよかった。
何だかんだで主人公勢が勝つだろうと安心して見ていたそれまでのアニメと違って、
本当に勝てるのか?という感じで展開が読めない所がよかった。
この回はとにかく異色だった。
当時はアニメ、ドラマ、映画等の面白さはシナリオの面白さのみに依存すると思っていた。
合奏における指揮者は棒を降っているだけで誰がやっても同じだと思っていた。
厳密言うなら、この回を演出した人が監督を手掛けた映画「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」を見て、
その人は今でこそ知らない人はいないほど有名になった「細田守」で俺の中では宮﨑駿と同列になった。
この人が有名になってトトロのように金曜ロードショーでぼくらのウォーゲームが流れることを切に願っていた。
なんか妙な色っぽさがあった。小学2年生なのに。
全部21話が悪いんです。
けど、元気なヒカリちゃんも好きです。
最近考えている概念なんだけど、今の世の中って時短コミュニケーションっていう能力が求められているよね。
その中でも今世紀最大の発明だと思ってるのがスタンプなんだけど、スタンプ選んでタップ一発するだけなのに、ヘタしたらこれだけで大半のコミュニケーションが完結できるってあまりにもすごすぎて失禁。
今の世の中って、情報過多って言葉が陳腐化するぐらいの勢いで情報量が多くなってて、それだけ人とのつながりも増えてきている。
かといって大切なつながりに対するコミュニケーションクオリティを下げたくないから、若い子のは次々と解決するための技術を取り入れて下がり続けるコストを解決していっているんだよね。
ネットの知り合いのほうが少なくて当たり前の世の中なんてとっくの昔に終わってて、リア友が占める割合がトモダチ全体の1割程度な若者でさえすでに少数派で、でもそれってコミュニケーションに対する考え方がすでに世代間で断絶しかねないくらい変わってしまたってことなんだよね。
だって、FAXしか使えないっていう取引先に請求書送ったら文字が潰れて読めないから送り直せとか言われたらもう取引したくなくなるでしょ?
スタンプ使えない、インスタ使ってないとかって人が、若い子からどれだけコミュニケーションコストのかかる人間って思われているかは想像に容易だね。
例えを変えると、スマホゲームとかでUIがめちゃくちゃで、どこを押していいかわからなかったりボタンがあっちこっちに飛んだりしていっつも指を動かしていなくちゃいけなかったりすると速攻でリジェクトするよね。
そんなゲームに課金したって、運営が下手こいてサービス終了が目に見えすぎだからね。
なにも技術的な話だけじゃなくて、このデザインっていうのも時短コミュニケーションにはとても重要なファクターなんだ。。
いままではカッコが良いとか機能的だとかっていうのがデザインに求められるものだったけど、それが直感的に利用ができるだとか、そのものが意味をしっかり持っているってことだとかによって再発明され始めてると思うんだよね。
これからの世の中は、こうした時短コミュニケーションってスキルを当然のように見つけた人間たちが溢れ出てくるわけだ。
そうした人間たちに対して情報をいかに短い時間でいかに正しく伝えるためには、これからはこのコミュニケーションの時間対品質っていう尺度が絶対に無視できない尺度になる。
というかすでにこの部分を解決できているビジネスが成功している。
ちょっとさっきから頭のなかでもやもやしてたから整理するためにメモしたよ。間違ってないと思うんだけど、意見聞かせてもらったら感謝。
オタサーは知らないし、オタサーの姫なんてもっとしらないが、っていうかそれ都市伝説じゃね?
を読んで。
4年間云々とあるから、恐らく4年制大学(高専だと女子の数が限られるからその可能性は除外)、そこで顧問ってなるとおかしいから、
元増田はたぶん元部長か現部長、乃至は部長権限の強い先輩かそれに近い立場の若干の年長者かと想定して読んだ。
女の子たちの下半身事情を把握している(便器になってる云々)顧問ってのもおかしいが、先輩なら異性でもその程度の情報把握の可能性はなくはない。
ただまあ、アニメ研究会とかゲーム文化同好会とかオタク文化なんちゃらって名前じゃなく「漫研」ってチョイスのセンスがなんか古臭いけど。
それと、相当規模のでかいキャンパス(大学)でないと130人の部員でウンヌンは難しそうだけど。
4年間在籍してトータルでそのくらいの人数になった、とか思ったが、それでもちょっと多すぎるから、
あと、男女比だけは書いていて欲しかった気がする。自分の知っている「漫研」はどこも女子率が圧倒的だったから。「漫研」ならな。
エロ要素が入ったジャンルでないと、大体オタ系の集まりって女子が占めるようになるのがデフォだと思ってたんだけど。
ゲーム系とかパソコン組む系だと、女子比率減るけどね。それと、鉄。
自分は基本設定厨で考察厨だから(今でもオタ作品を愛でる際のカップリング恋愛比重はプライオリティが低い)、作劇考察なんか物凄く好きなんだけど、
その手の「女子に見られないオタ女」ってのは、大抵どこのサークルでも少数派とはいえ、いたもんだけどね。それも、確実に。
むしろ一般社会よりも、そういう「女子に括られたくない系」の女子が集まる場所がオタ系の集いだと思ってたから。
って言うか、元増田もたぶん、男によくある、「ブスは不可視」眼鏡の持ち主なのかもしれないが。
男オタの場合、恋愛にさして興味の無い設定厨考察厨の女子オタがいる、みたいなことに気づいていないオタ男も大勢いるらしいので、
(乃至は女は皆恋愛にしか興味がない、みたいな思い込みを持つ男性はとても多いので)
それと、服装考察が雑だなぁ。
>話し方が特徴的、髪が黒髪、服がゴスロリ風味、会話内容がおかしいのは一軍二軍両方。
オタ≒ゴスロリってネットでよく見る標準的表現だけど、逆に自分の出歩くオタイベント先で、ゴスロリなんて、そういう作品そういうキャラがいるものじゃないと、
お目にかかったことないんだけど。
あ、この間、そういう子いたことはいたが。逆に希少過ぎて印象にのこってたわ。あれ。
黒髪率が高い、服装もっさり、垢抜けてない、って辺りは当たってる(昔と比べると21世紀の今はオタ女の外見に関しては相当マシになってるとは思う、逆に)けど、
ゴスロリはナイワー。
元増田の描写(整形云々)から垣間見るその女子たちの女子力から考えても、普段のサークルにゴスロリ(系)で来るとかって、
その子のお財布事情も含めてね(ゴスロリ日常って被服費的に見ればかなりの散財、オタなら他のオタグッズに費用当てるのがデフォ、そこは女子もあんまかわらん)。
久々に学歴関係で話題になってたので読みましたが私としてはぶっちゃけあんまりおもしろくなかったです。
上の記事と「面白い」と思った記事の違いは、自分にとって情報量が増えるかどうか、というところに有るのかな、と。上の人、ロジカルシンキングっぽいことはできてるみたいですが、私にとっては何一つ情報量も新しい視点もありませんでした。
ロジカルシンキング「だけ」では陳腐化するんですよね。言ってみればそれができる人なら誰でも同じ道を辿れてしまうから。それよりは、最前線の情報なんかがあるといい気がします。
「それ、僕が図解します」さんや、「コウモリの図解」みたいなサイトと同じ既定路線をたどっている印象があります。この人達も、スタートダッシュは良くて500ブクマとか連発してたけど最近見かけなくなりましたね……。
この人が長続きするのかどうなのか興味深いですね。
「ポケベルが鳴らなくて」という曲があります。
20年くらい前の、今ではAKBで有名な秋元康が作詞した曲です。
好きな人からの連絡を待っている時の気持ちや、その連絡の有無に振り回される様子、かといって自分からは連絡出来ないもどかしさなどが綴られており、
連絡手段がポケペルからスマホへと進化した現代においても、人の気持は変わらないものだなぁと思います。
特にタイトルの「現実よりも愛してる」というフレーズは衝撃的で、それに加えて核心的です。
あくまで私見ですが、不倫をする人、叶わぬ恋を追い駆けたい人というのは、心のベクトルが相手に向いているようでいて、その実は自分の方だけを向いているという人が多いように見受けられます。
そういった人たちにとって大事なのは、「相手が誰か」ということではなく、「その相手を通じて自分がどういった状況に陥るか」なのではないかと思ったりもします。
そして、本人としても自分が思い描く理想としての相手と、実際の相手との間の齟齬に少なからず気付いてはいて、その上でなるべくそれに気付かないフリをしている。
それの行き着く先が「現実よりも愛してる」なのかなと思います。
ポケベルやラインでのやり取りでしたら、実際に会う場合よりも情報量が少ない分、理想に限りなく近い状態の相手とやり取りすることが出来ますからね。
しかしここまで極端ではなくとも、人というものが何かを好きになるというプロセスは、結局のところ、こういった「自分勝手な翻訳」を抜きに語ることは出来ないのかもしれません。
好意好感を抱くのは対象自体にではなく、自分のレンズを通した上で自分のセンサーに感知された、加工された対象だと、言えなくもないですからね。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASHB75SVDHB7PTFC014.html
ちゃんと付ける意味についてもっと書こうよ。妊婦が事故とかに合った時に、妊娠中かどうかが明確に分かるかどうかはとても大事なんだよ。体調悪い時もそうで、それによって適切な搬送先に行けるかどうかが変わるから
とか言ってるのがいるけど、マークだけじゃ今何週なのか、経過はどうなのか、合併症等はないのか、かかりつけの病院はどこかetcなんて一切分からんし。
妊娠中は母子手帳を常に携帯すること、って言われてるのすら知らない?母子手帳くらい情報量がなきゃ役に立たんよ。
「事故った時に子供が乗っているかどうかを示す為」という都市伝説があるけど、んなもん無くてもチャイルドシートあるかどうかで分かるだろ、という。
ネットの影響なんて関係ない。マタニティマークが無い頃からchild in carステッカーはあったけど、あれつけてると煽られるなんて話はよく聞いたし。
つかchild in carステッカーなんて無い時代から、初心者マーク付けていると煽られるってのは定説だよね。
あれは法律上つけないといけないんだけど、つけると却って危険な目に遭うという矛盾物。
http://anond.hatelabo.jp/20151017150249
ところで、どうしてライトノベルだけ「最近の」という枕詞がつくのだろう。
ツイッター検索したらわかるけど、「最近の純文学」も「最近のケータイ小説」も「最近のSF」も「最近のミステリー」も「最近の大衆小説」もないんだわ。
たとえば「最近の純文学」というフレーズを用いると、「最近の純文学ってなんだ? 綿矢りさの蹴りたい背中か?」「何言ってるんだあれ出版されたの2003年だぞ。もう10年以上も前だ。最近の純文学あげてみろよ」「ひ、火花……」みたいになって話が盛り上がらない。
そして「最近のケータイ小説」というフレーズを用いると、「最近のケータイ小説ってなんだ? あれだろ、映画化された恋空だろ?」「恋空も10年前の2005年に執筆されたんだ。てめえは一体いつの話をしている」となってやはり話が成り立たない。
最近のSFとして虐殺器官(2007年)を挙げるのも、最近のミステリーとしてすべてがFになる(1996年)を挙げるのも、「それは最近じゃねえだろ!!」とツッコミが入って、やっぱ話にならない。
でもま、なぜか「最近のラノベ」だけは話が通じてしまう。不思議なんだよな。
「最近のラノベってなんだ? ああ、あのアニメでやってるあれだろ。巨乳が生き物みたいに自己主張するやつ。昔はよかったよな。灼眼のシャナの貧乳なんて最高だったのに、最近のやからは貧乳がどれほどの価値を持つのか理解していない。嘆かわしい」
「最近の」とわざわざ言うからには、過去との対比がよほどやりたいのだろう。
スレイヤーズ(1989年)の頃は良かった、ブギーポップ(1998年)の頃は良かった、禁書目録(2004年)の頃は良かった。
それと比べて「最近のラノベは」と嘆くのは、果たしてそうだろうか。昔だって、99%のラノベはゴミみたいなもんだったぜ。
いや、ラノベだけじゃない。99%の純文学も、99%のSFも、99%の大衆小説も、99%の恋愛小説も、等しくゴミなんだ。
スタージョンの法則って知ってるか。
「最低の作例を引っ張り出しては叩く」という悪意の攻撃に対して、自分から直接反撃しているのだ。90%のSF作品をゴミカス扱いするのと同じ基準を用いれば、映画、文学、消費材などその他あらゆるものの90%も同様にゴミである。言葉を変えれば、「SFの90%がカスだ」という主張ないし事実のもつ情報量はゼロである。なぜならば、SFは他の芸術/技術の産物と同様の質的傾向を示しているに過ぎないからである。(Wikipedia:スタージョンの法則)
つまりな、そういうことだ。
「最近のラノベ」なんて存在しない。語ったところで、得られるものが何もない。
しいて言うならば、そのフレーズはラノベ天狗を怒らせることにのみ貢献する。
ラノベ天狗はな、俺は奴が怒る気持ちはよく理解できるんだが、ちょっとやり過ぎじゃないかと思うんだ。やり過ぎっつーか、不毛だわな。果てしなく不毛な戦いである。
雑なラノベ語りをする輩に喧嘩を売って、それで相手を論破して勝ったところでな、スカッとはしない。精神的な疲弊だけが残る。どれだけ叩いても、次々と飛び出てくるモグラのように「最近のラノベ」というフレーズが現れる。駆逐できない。無駄なんだ。
たとえブギーポップであっても、このオバケは倒せねーと思うぜ。何でって、「最近のラノベ」って言葉は、もうライトノベルを語る人々の心に憑り憑いてしまっているからだ。もう手遅れ。
だから俺はもう、諦めた。「最近のラノベ」それは取るに足りない、ちょっと足元を通り抜ける冷たいつむじ風のようなものだ。放っておいてやればいい。下手につむじ風をやっつけようと、足でバンバン踏みつけると、そいつは調子に乗って巨大化して、竜巻になるんだ。
「最近のラノベ」はもはや空気のようなものだ。あってもなくてもいい、存在していても存在していなくてもいい、その言葉そのものが持つ情報的価値はとっくに失われている。
なあ、だからラノベ天狗よ。俺は、先に逝くぜ。Windows8と共に、安らかな眠りの世界にな。
まず、絵が下手でも面白いマンガがある、ということは絵の上手さは関係ない。
じゃあ、ネームっていったい何なのか、ものすごく抽象的に言えば、それはいつ、どれくらいの情報を見せるか、という技術。
マンガに限らず、面白い話には、適切な情報を伝えるための定型がある。
視線の動かし方で、読者に気持ちよさを伝えられる。単調な画面は(多くの人にとって)つまらない。
気持ちよく視線を動かし、肝心な箇所では気持ちよく情報が入ってくる。これがマンガの面白さの基本だ。
マンガでいう情報とは、キャラクターや状況・世界観の説明だったり、話の展開など。
後からいろいろな技法でこれらを装飾はできるが、まず基本のこの部分ができていないとつまらない結果にしかならない。
ネームより前の基本段階に設定とかテーマとかいろいろあるじゃん、ていうのは面倒くさいのでナシで。
あと肝心の「絵」も情報なのですが、これは複雑すぎるので省きます。
(レイアウトはどうか、ベタ・空白の割合は、線の太さ、ストロークの数は、トーンは、、、)
要するに上記の、「いつ、どれくらいの情報を見せるか」の方法がぜんぜん違う。
マンガはアニメと違って、ただ見てるだけでは話が進まない。読者自身がコマを順番に追い、ページをめくって、物語を組み立てていく必要がある。
そのためには、読者に対し、ページ内でどういう順番でコマを見ていけばよいのか、コマの中の情報はどう受け取ればいいのか、わかりやすく示す必要がある。
マンガ家は普段からこのことに心を砕いているが、アニメやゲームの作者は違う。彼らは、アニメやゲームでの情報の見せ方に心を砕いてきた人たちだ。だから違和感が出る。
マンガは視線の快楽と書いた。では読者の視線はどう動くか、どう動けば気持ちいいか。
視線がどう動くかは、基本的にコマ内のポイント、表情や台詞、擬音などの「点」を順番に見る。
ちなみに視野というものは広いので、どこか一点のポイントを見ながらも、同時に次に視線を動かす先のポイントを探している。もともと視線はスムーズに動きたがっているものなのだ。だから、これらをわかりやすく見せる必要がある。
また、視線の角度(ポイントの配置)がゆるやかだと時間を長く感じ、急だとすばやく感じる。
だからアクションシーンでは鋭角に、会話や日常シーンでは鈍角になるよう視線を誘導する。
このように視線誘導と情報の提供が一体化されることで、読者はマンガを楽しく読めるのだ。
見開きの場合、マンガのページは右ページの右上から話が始まり左下に情報が流れる。そして左ページの右上へ続き左下に流れ、ページをめくらせて同じことを繰り返す。
ページの流れと同様に、コマ内でも情報は右上から始まり左下に行く。
だから、左ページの一番最後の、ページをめくらせるためのコマは、話の次の展開が気になるコマにする。
そして右ページの一番最初のコマは前のページからの流れと、そこから展開が続くコマにしなければいけない。起承転結の「結」と「起」。
そして途中から見てもある程度内容がわかるように、最初のコマ(または複数コマ)は5W1Hが(最低限)わかるコマになる。
マンガは1ページ5~7コマが基本。1ページ5コマと仮定した場合、見開きページでは1コマ目が「結」「起」、10コマ目が「転」になるようにコマごとに情報を振り分ける。
(ここでいう起承転結とは、物語内のサブエピソードやシーン毎の小さな起承転結。これが連続して大きな起承転結になる)
ネームとは、いつどれくらいの情報を見せるか、ということだと書いた。では適切な情報量の目安は何か。
リズムのずれた音楽は聞いてもらえない。マンガも同様。他のメディアも同様。話はリズムが大切だ。
しかし、音楽や映像と違って、マンガは読者の時間を支配できない。
そこで視覚情報の多寡でリズムを作る。リズムのある文章、の絵バージョン。
そしてリズムは一定では退屈で、バランスを考えアクセントも入れる必要がある。こうして大まかな情報量の配分が決まる。そして細かく検討していく。
アクセントにする箇所は他と差別化するために、情報を増やすか、逆に情報を搾る。
大ゴマの場合、前のコマは小さくしてアクセントを引き立たせる。密度の高いコマの前は密度を少なくする。その逆もまた然り。
これらを先ほど書いたページの内容に合わせて配置する。こうしてコマ割ができる。
長々書いたが、超大雑把にこんな感じだということです。
また単純にネームの話にしても、物語情報の部分は上手くいってても、レイアウトや絵の選択を間違える、とかいろいろあります。
(「驚愕のシーンで顔のアップ」という場合、どの程度のアップか、絵の密度、キャラの視線の向き、汗の位置、台詞の有無、など)
そうなってくると、もう複雑すぎてわけわかんなくなるので、個別に作品を掘り下げていくしかないです。ただ、そういう「絵」の情報の選択の基礎になるのは、やはりネーム(何をどう伝えたいか)です。マンガ家によってもネームの扱いが違ったりもしますが。
Facebookで俺が住んでる区の地域コミュニティが出来たというので参加してみた。
当初は区内のどこぞで事故があったとか、どこそこの店が美味いとか、あそこの廃墟が解体されたとか、まさに地域コミュニティならではの内容だったのだが、参加人数が増えるに連れてだんだん情報量が膨れ上がり、それに連れて変な奴が増えてきた。
加藤はあちこちのテレビ局に出入りしてるのか知らんが、タレントの誰それに会ったとか、六本木ヒルズが見える会議室で仕事してるとか、神田の蕎麦屋が美味いとか、地域コミュニティとは全く無関係な情報を垂れ流し始めた。そのうち何を勘違いしたか、
「◯◯区コミュの皆さん、私は今夜徹夜仕事なので返事が出来なくてごめんなさい」
当然揉めるよね、地域コミュニティなのに、全く関係ない六本木やら神田やら個人の話題ばかり流すわけだから。そのうち表で裏で加藤への批判が吹き出して、コミュニティが荒れ気味に。
そんなある日、管理者権限を持ってる一人が動き出した。こいつが区議会議員。やったことはというと、
----
◯◯区のコミュニティで、区と無関係な内容を投稿することにどう思いますか?
・良い
・悪い
----
小学校の学級会じゃないんだからと思っていたら、加藤とその取り巻きがアンケート内容をアレコレいじり始めた。
・良い。区内に住んでるんだから。
・良い。誹謗中傷厳禁。
という選択肢をどんどん追加していった。
当然、「良い」系の選択肢にはどんどん賛成票が付く。
一方で、「悪い」のコメント欄が荒れ始めて、
「地域コミュニティなのだから、地域の話題にすべき。当初のようなお店やイベントの情報共有を」
というコメントに対して、
「クレクレ厨乙!」
とか、
「よその地域の話には興味がありませんし、このコミュニティはそういう目的でないと思います」
というコメントには、
「嫌なら見るな!」
吐き捨てる加藤。
批判というか罵倒された回答者は続々とコミュニティを抜けていった。
こうして荒れまくったアンケート、発起人の区議会議員はというと、仕切るでもなくディレクションを示すでもなく放置。顔写真はガッツポーズの威勢のよい格好してるのにね。
ネットのコミュニティすら仕切れない奴が、どうやって区制を仕切っていくの?
甚だ疑問に思った出来事だった。
ここに至るまでの経緯自体には問題あると思うものの、安保法案には大枠で賛成する20代半ば。
ただ今回ここまで抗議活動が盛り上がるまでは、法案に反対する人たちの意見にも半ば同調することが度々、いや、もしかしたら半数以上の割合であったかもしれない。
そんな私の考えを結果的に一変させることになったのが、今回の抗議活動の盛り上がりだった。正直予想もしなかった。
まず、反対派のなかから前述のような「これは一理あるな」と一瞬唸ってしまうような意見が、自分の情報アンテナに拾われる割合が大幅に減ってしまった。
視界に入るのは罵倒、そして揚げ足取りばかり。情報量そのものが大幅に増えたのが最大の要因であろうが、わざわざノイズだらけの地雷原の中から「一理ある」と思うような意見を掘り当てる気力なんてとりわけ平日にはない。
抗議活動の主体者は「もし本当に中国や韓国が攻めてくるというのなら、僕が九州の玄関口で、とことん話して、酒を飲んで、遊んで、食い止めます。それが本当の抑止力でしょう?」と語ったそうで。フォロワー含めて既に政権に対して罵倒だらけになってますが、それらの近隣国が現政権、あるいはそれを上回る卑劣な行動をとったとき、いかが対処するのでしょうかね。
もうひとつ、主題はこちら。今回の法案反対活動がそのまま学生運動のリバイバルにしか思えない件。
その意味だといまは68年頃なのでしょうか。当時と異なり高学歴者の参加率が低く思えるのは、その層の思考の保守化もあるのかな。労働者層の参加比率も低くなってるようにみえますが、勤労環境の変化という言葉でお茶濁し。
今回を火種に安保法案のみならず、あらゆる事案について反対の抗議活動はこれまでより増えることになるでしょう。さまざまな組織も形成され、人も集まり、なにより人脈ができた。これは間違いなく大きい。
別件で「代案の提示がない反対(活動)は容易」と揶揄されていたが、ハードルはさらに下がることになりそう。
そして時間が経過するごとに巨大化した組織内・間の意見・見解のすれ違いが徐々に発生することになろう。
前述の「敵が攻めてきたら酒を飲んで語り合う」人は、もしかすると罵倒なんてしない人なのかもしれない(調査不足なのでここは仮定としつつ)。
だけど反対活動をおこなっている、あるいは支持している人達にはいくらか、いや、大勢、罵倒をするような人々も含まれている。
今は安保反対という明確で大きな共通目標があるから一致団結できているが、それがなくなったとき、あるいは時間が経過して徐々に意見や見解のすれ違いが増加してくるとどうなるか。それは学生運動が辿った歴史そのものが黙示録になってるようにしか私には思えない。
「日本、そして自分を巡る環境の将来を案じて」抗議活動をおこなっている学生が多いそうだけど、私にはどうしても短絡的な動機にしかみえず、前述の罵倒や揚げ足取りも加わって、抗議活動そのものへの不信感を募らせることになっているのが正直現状です。
ぼくの考えは1ミリも変わらない、どころか、この確信は強固になっているので、あらためて書いておきましょう。
わかりますか。専業ブロガーのブログはダメなんです。もう、読んでて全然面白くない。
異論がある?異論は認めません。じゃあ面白いブログを教えてくださいよ。ぼくは本当に、ブロガー専門で生活している人のブログで「面白い!」と思った試しがありません。
なぜか。教えて差し上げましょう!
1. 守りに入っている
まさにイケダハヤトさんが書いてる「まだ東京で消耗してるの?」のブログは象徴的で、あれつまらないと思うんですよ。イケハヤさん見てますか〜?つまらないですよ、最近。
いや、イケハヤブログは良くできてますよ。セルフメディアとしては日本一だと思います。煽り見出しの選択もうまいし、それとは分からないようにこっそりとチマチマ稼ぐマネタイズもうまいです。
でも、決定的に「面白くない」んですって。
何かと言うと、ブロガーは「攻められない」んです。自分の居場所であるブログを、自分を、守らないといけません。彼は自分のブランディングを傷つけることができません。
サラリーマンはブログで生きているわけではないし、匿名でも書けるので、ブログには何でも書くことができるんですよ。他人に読まれなくても、自分にとって面白いことは何かと考えるエントリーを自由に書くことだってできる。一方でイケハヤの記事は炎上に溢れていますが、それは模倣可能で、もはやコモディティなんですよ。
最近流行ってるじゃないですか、毒のある炎上って。「ブログ芸人」はアートではなく、ビジネスの領域の「テクニック」に堕しました。イケハヤは一つの時代を築き、今終わりかけているのです。勝手ながら、次の変化に期待しています。
…と、イケハヤに対して愛の刃を振るってしまいましたが、要するに「もうつまらない」んです。専業ブロガーの最高峰の集大成ともいえるイケハヤですら、もう面白くない。小銭ねらいの炎上より本当に言いたいことを優先する覚悟が、これからのメディアには求められるのです。
イケハヤには言わずもがな、守るものがあります。ブロガーであるイケハヤが文章を書くとき、イケハヤは「こんなこと書いたら炎上しないかも」という恐れが頭をよぎります。そしてイケハヤは、結論を変え、文末のエッジをねじり、「笑い」と「愛」を手放してしまうのです。ああ!
自分を燃料として炎上するセルフブランディングのブログからは、もう「面白いもの」は生まれてこないんです。炎上のテクニックを極める方向にしかいかない。あとは意識高い系とか社畜批判コンテンツ。ツイッターの大学生のアカウントでいいじゃん、それ。あとは「◯◯が超つまらない理由」とかね。NAVERまとめでいいじゃん、nanapiでいいじゃん、それ。あなたの貴重な人生を割いてまで書く意味はない!
2. 変化が遅すぎる
まぁそりゃそうで、「毎日10時間ネットばっかり見ているイケハヤ」と、「毎日3時間しかネットを見ずにあとはハードな仕事をしたり美味いモノを食ったりしている田端信太郎」がいたら、後者の方が経験値もあがるし女にもモテるんですよね。専業ブロガーは経験値が少なすぎるんで、変化が見えないんです。
イケハヤのようなブロガーは、一日中ブログのことを考えています。データを見て、PDCAを回しています。毎日のように書いているので、ブログを書くスピードも上がります。
イケハヤは今や、1日15本の記事を生産できます。毎日10本更新を365日続けて、3,650本。兼業ブロガーはせいぜい1日に1本でしょうから、365本。そりゃ、記事の濃さは違いますよね。はい論破。…小銭稼ぐなら、薄い炎上記事を量産するより要領のいい方法がいくらでもあるのに。
読者は、イケハヤの変化を望んでいるんです。みんなドラゴンボールが好きですよね。孫悟空がいつまでたっても成長しなかったら、飽きるじゃないですか。
変化しなければ、成長しなければ、面白くないのです。ブログのPVと、チャリンチャリンと落ちてくる小銭ばかりが気になって、狭量な考えのブロガーに終わるんではなくて、多様な考えの人と沸騰的なコミュニケーションを取るような情報量の多い経験に徹底的に時間とエネルギーを注いで、人生の幅を拡げるべきなのです。そうしなければ、イケハヤは主人公にはなれません。イケハヤはいつまでたってもイロモノか、懐かしのブログ芸人の域にとどまります。
3. みんなと同じようなことしか書けない
ブロガーとして成功するために知っておくべき、真理を伝授しましょう。目ん玉洗ってよく読んでください。
この2つの真理から導き出されるのは「専業ブロガーは他者との交流が決定的に欠如しているがゆえに、どれだけ頑張っても同じようなことしか書けない」という帰結です。
面白い文章が書きたければ、自分が面白くならないといけません。面白い生き方をすれば、あなたの文章能力が低かろうが、あなたのブログは読まれます。
あなたの生き方が薄っぺらで独善的でつまらなければ、どれだけ技巧を凝らしても、ブログは面白くなりません。面白がられたとしても、一発ネタで終わりですね、せいぜい。テクニックレベルの話は、すぐに飽きられます。
イケハヤは社会的には珍しい立場でもなんでもなく「新卒で入った大企業を1年で辞めて」「次に入ったベンチャーも1年で辞めて」「社会人3年目に独立して」「ブロガーとして生計を立てており」「東京を捨てて高知の山奥に家族で住んでいる」という、割とオリジナリティの高いバックグラウンドを有しているつもりのようですが、この程度のドロップアウトした人間などいくらでもいますし、書く文章など大して面白くないですよ。
イケハヤ程度の人間なんて無数にいるんです、この日本において。その立場を選ぶかぎり、イケハヤは「その程度のこと」しか書けません。ニートのブロガーの方がよっぽど面白いですよ。ニートの方が珍しい存在ですから。
クリエイターになりたければ、まずは環境を選べ、ということです。あなたが他者の相反する利害に揉まれるような混沌とした環境にいればいるほど、生み出すものは面白くなります。専業ブロガーに甘んじているかぎり、差別化ができないのです。
4. 応援したくならない
イケハヤのブログって、あんまり応援する気にならないんですよねぇ。だって、別に誰が応援しなくてもイケハヤは生きていけるわけですから。
一方で、たとえば宮森さん。いろいろ捨てて実家に戻り、ブログを書きまくっているようです。これはもう、応援したくなりますよね。たまにブログを見て、面白い記事を見つけては拡散しています。でもいつか家を出るような気がしますし、ぼくはそれを勧めますね。ブログで食うのはいいけど、イケハヤのマネはして欲しくないものです。
イケハヤも現在、ブログで活動していますが飯は3食食ってます。食欲の問題は別ですから。月収もやっと3万円超えた程度なのにね。しかし、イケハヤはあのブログで生きていこうと決めたようです。それは自分が生きるために、他人の生き方をけなしながら炎上しつづけるということです。そんな生き方の価値が、他の人よりそんなに高いものなのでしょうか?
メディアづくりにおいて「応援される」という要素は超重要です。面白い存在であれば応援されるし、応援されればさらに面白いものを作れるようになります。しかしイケハヤのような拙い炎上芸も、かなり飽きられています。だからこそ彼にも焦りがあるのでしょう。
住宅ローンの記事なんて、自分さえ儲かれば他人をだましてもいいという領域まで行っちゃってます。あれには呆れました。これまで珍獣を見るようにして面白がっていたまともな大人たちも、あの記事で読むに値しないブログだと決めたことでしょう。個人的には謝罪エントリーがあってもいいと思うレベルです。
もちろんイケハヤは「安全な立場にいる以上、あなたは応援も、期待もされません」というはずです。そりゃそうでしょう。彼はそれでしか生きていけないんですから。しかし、あんな記事を書くような危険を冒すことに何の合理性もありません。
普通の人は「これから起業して社会を変えてやろうと思っているんです!」なんて浮ついたことは口にしませんよね。言ったとしたらアホ扱いされます。そもそも社会とは、他者との齟齬が渦巻く空間なのですから。だれか一人がコントロールできる社会の、どこが豊かなのでしょうか。そんな貧しい社会を願っているなんて、よほどのコンプレックスがあるか、あるいは何も考えていないかどちらかでしょう。
まあ「でも、リスクヘッジのために会社は辞めませんけどね(てへぺろ)」とか言ってたら、それなりに考えている利口な人なのかもしれないなと思いますが。これと一緒です。
武雄市の公務員を辞めて高知に来たイケハヤのアシスタント・里本さんは、「公務員辛すぎて辞めました。ブロガーになりたいです」と、なんか死にそうなメールをイケハヤに送ってきたそうです。イケハヤは手を差し伸べて、応援してあげないといけないと思い、彼が公務員を続けていたら、イケハヤは応援していませんからね、と言ってるそうですが、ぼくにはどうでもいいです。ただ里本さんには、しばらく世話になったら丁寧にお礼を言ってイケハヤの元を去った方がいいと思います。マジで。
「アルケミスト」でそんな表現があったと思いますが、後ろのドアを閉じるから、前のドアが開くんです。…なんて言いますが、そんなの詭弁ですよ。後ろのドアを閉めたら、前も閉まって閉じ込められる可能性の方が高い。前のドアが開く保証なんかないですって。
そんな詭弁を弄しているうちは、誰もイケハヤに注目しないし、応援もしてくれません。誰でも自力だけじゃ面白いものは作れませんよ。
…なんて、自分の利益のために他人を煽ってアフィリエイトを踏ませようとするなんて、しょぼい商売じゃないですか?
イケハヤはそれをわかっちゃいない。
イケハヤやはあちゅうはサギを突き詰めるために、引っ込みがつかなくなって、全裸になっているわけですが、そろそろ目を背けられるときが来るでしょう。今はもう、そういうサギが求められている時代じゃないんですよ。ぬくぬくコタツに入って読むに値する本物の作家の本でも読んで、ネットの作家気取りをバカにして過ごしましょう。以上、サラリーマンのみなさまにはどうでもいい話でした。騙されるなよ。
んー。なんというか。わかりやすくしようというのはわかるんだけど、それゆえにどうしてもすきになれない。描かれているすべてが既知すぎる。ワクワクしない。
「わかってること」を繰り返し説明してるだけのように思うし、単純戯画化がすぎる気がする。
実際の日本と違って直接民主選挙やってたり中抜き構造になってるから単純比較するのは間違いなのもわかってるけどそれにしても、国家というものを描くにしてはチープすぎる印象がある。ネットの、しかもかなりレベルの低い層の描写を国家全体として描いているような気がしてどうも気分が良くない。 いろんな要素入れようとしてすべての描写がどれもスッカスカになってる感じがする。
5話の感想で「郵政選挙の頃まで時代が逆行しちゃってるけど、ここから新しい話作れるの?」と書いた。あまりにも郵政選挙まんま過ぎて、こいつら新しい何かを提示するつもりがあるのか?ってげんなりした。今何年だとおもってんの。この作品を作ってる人たちは、あのあたりに元凶があると思ってたりとか、今もあの頃も全然変わってなくて、あの事件が象徴だと思ってるのか、そのあたりも未だによくわからない。
クラウズの問題点もさ、こんなにリスクでかすぎるものをいきなり国家のシステムとして取り入れるとか菅山首相はアホかという話は1期が終わった時に散々文句言った。そのリスクの顕在化というか、当然のように起きると予測された反動を延々と9話まで描いてきてるわけだけど、それって話が全く先に進んでる感じがしないじゃないですか。
1期っていろんな問題を踏まえつつ、それでも信頼や情報公開を武器とするとして前に進もう、未来の可能性を考えようという信念が感じられたからワクワクしてたのに2期になって話はひたすらに後退していってる。1期終了時点から当然のように想定できたことが想定通りに起きてるだけ。 こんな既知の問題の説明だけ丁寧にやられても、それだけなら教科書読んでる方がよっぽど情報量多いし、正確だしで楽しいよ。 これは教育アニメじゃないんだから、アニメにしか描けないことをやってほしい。エンタメとして、何かワクワクさせてくれる要素がほしい。未知のなにかが欲しい。
小学校時代にいじめを経験して、中高では孤立することでそれから逃れていた自分の視点で書く。
図書館に逃げるって、すごくすごく正解かも知れない。
絵と言っても漫画絵だ。
授業中に落書きしていた教科書を生徒全員の前で先生になじられたことからいじめが始まった。
先生としても、いじめを容認することでぼくがそんな趣味をやめてくれればありがたいくらいに思っていたのだろう。
自分にしてみればそんなことは知ったことがない。
別に誰に迷惑をかけるでもなく、自分は好きなことをやっていたかったんだ。
というか、その頃は自分の衝動なんて上手にコントロールできなかった。
いじめられる全員がそうとは限らないけど、すくなくともぼくがいじめられる原因はその特異な趣味ももちろんだけど、周りの輪に馴染めなかったことにあった。
外で遊ぶくらいなら趣味に没頭したかったのだから、そっとしておいて欲しかったのだ。
彼らにしてみれば、良かれと思う誘いを断るのだから罰っせられて当然くらいに思っていたのだろう。
先生からの余計なお墨付きも手伝って、いじめは日に日にエスカレートしていくばかりだった。
輪を作ってそこに参加することが学校の常識だから、それに参加できない人間は罰を受ける。
すくなくともいじめる側の行為を正当化していた理由はここにあったと思う。
ぼくの唯一の救いは、両親共働きで夜が遅かったから、体調が悪いと嘘をついてもさほどうるさく言われなかったことだ。
その代わり布団に入ってないと疑われるので、その時間は好きな絵を書くことを我慢しなくてはならなかった。
すべり止めを滑った人間があつまるような落ちこぼれ学校だったせいか、自分が輪に入ることを拒んでいたらそのうちだれも誘うようなことはなくなっていった。
おかげで幸いいじめられるようなことにはならなかったが、親にも心配をかけず孤立が許されるという環境の存在は大きかった。
そう考えると、図書館っていうのはもともと一人で作業をするための場所だ。
空間が開けていたり、テーブルが続いていたり、うるさくしてはいけないとか最低限のルールはあれど。
コミュニティを作ることが前提である学校と違い、それぞれがそれぞれの目的をもって訪れる場所であり、そもそもコミュニティの存在が不要なのだ。
だから輪にはいらないことは罪ではないし、逆に目的を共有できる人間とは自由にコミュニティを作ることができる。
この、入らないことが罪ではないということはとても重要だ。
しかも何が素晴らしいって、そこには生涯の時間をかけても読みきれないほどの本があるんだ。
その気になれば、どんな道のプロにでもなれるほどの情報量があるんだよ。
義務教育という考えには反するかも知れないけど、これからの時代はそれこそそうした教育なんかが役に立つとは思えない時代になってきているんだ。
常識なんて普通の生活を担保するための保険みたいなものなんだから、それを全て捨てて好きなことに突き抜けて世の中に新しい価値を生み出すことだって選択肢としてあってもいいと思うんだ。
それに、共通の趣味の本から始まるコミュニティなんて、考えただけでも素晴らしいと思わない?
だから、本当に、そういう同じ問題を抱える人達と、それに理解がある大人たちとが集まって、すごく慎重にルールを作り上げていくことができたら、少なくとも悲惨ないじめだけでもなくすことができるかもしれない。
当然、子供を食い物にしようとする大人とか、すぐにお金の匂いを嗅ぎつけてくる大人とかから守らなくてはいけないから簡単なことではないと思う。
でも、図書館って、孤立と自分の好きなことに没頭することが許される類まれな空間かもしれないって思ったんだ。
これがきっかけになって、たとえ世間からは逃げ込んだ人間同士と言われても、そこで立派な知識や大切な仲間を見つけることができたらどんなに素晴らしいことだろう。
もちろん、心も体も疲れている人は何もせずに休んでほしい。
すべての図書館がそれをすぐに許しくれるわけではないかもしれないけど。
何かをするには体力も精神力も必要なのだから。どこかに隠れてでもそれを蓄えてほしい。
それ書いたの俺だけど、俺イケハヤと青二才のことはほとんど知らないから全く話に挙げる気ないんだよね
よく池田信夫とごっちゃになるくらいだし
その文を詳しく噛み砕くと
「君から『イケハヤは人を怒らせるのがうまい』という評を聞いたところで、君はうまかろうがまずかろうが大抵のものに激怒するからどれほどのものかわからんし
『でも俺は怒らないけど』と付け加えたところで、君は普通の人が目くじらたてないような発言にもいちいち腹立てるから本当かどうかわからんし
という意味になるわけだが、これ明らかに君の人物評の信用ならなさを話題にしてるのであって、この時点でイケハヤは完全に話題から落ちてるんだよね
君、国語の成績悪かったでしょ
いつも疑問に感じてたんだけどさ。
たとえば最新の記事のこれ見てくれよ。
このカツ丼の絵、なんなんだよ。この回に限らないけどこの人の描く料理っていつも、ただの「黄色くて白くて黒い何か」じゃねえか。
「かつ丼」って横に描かれてない状態でこれ見て「わあ美味しそうなカツ丼」って思うやついるのかよ。「あれ?ロールシャッハテスト?」と思ったわ。
俺にはこれ、どんぶりにぶちまけた吐瀉物か、上から見た火山の噴火口にしか見えねえよ。ぶっちゃけ「実はこの絵、今朝出したうんこです」って言われても納得するぞ。
「トロ~リ」って書いてあるけれどこの絵のどこにとろみ感が出てるんだよ。そこは擬音じゃなくて描写力でカバーするのが漫画家だろ。
もしかして写真を反転させただけなのかな?とも思ったけれど、それでもこれはねえんじゃねえかな。カツも卵も玉ねぎも米も見分けがつかねえよ。
そんで食事シーンも毎回一緒。いっつも同じ構図でカエルが汗かきながらハフッハフッ言ってかっこんでるだけ。他にパターンねえのかよ。
食レポにしてもグルメ漫画にしてもそうだけれど、こういった視覚的表現はいかに食べた後のリアクションで食欲を喚起させるかも重要なのに。
いや、正直ワンパでも別にいいし、表現を派手や大げさにしろとも言わないけれど、にしたって「同じ構図でカエルが汗かきながら器かっこむだけ」はあんまりだろ。
同じ「食事シーンはいつも器をかっこむだけ」でもドラゴンボールは美味しそうに見えるのに、この違いはなんなんだ。
本来が漫画という表現の制約上、添え物にしかならなくなる文章も情報量が少ない割にたいして的確でも美味そうでもないしよ。
これってグルメ漫画として成立してんのかと毎回思ってるんだけれど、みんな「美味しそう!」ってコメントするもんだから成立してるんだろう。
でも俺、いっつも首をかしげるんだよな。