はてなキーワード: 情報量とは
http://anond.hatelabo.jp/20160222000455
まったく同感。自分(ちなみに高橋名人世代w)もやり始めの頃は同じ印象を覚えたよ。
そして気づいたのは、パズドラって狭義のソシャゲーではないけど、
ゲーム画面の向こう側にリアルな交友関係を前提にしたゲームなんだなってこと。
友人や知人、家族なんかに攻略法を教えてもらいながら先に進む。
だから、あえて「この先何をしたら良いか?」を明示していないし、
明示していないことがゲームを通してのリアルの人付き合いを促進する。
現在のコンソールゲームだったら、プレイヤーはゲーム内で適切なタイミング
かつ適度な情報量で何をすべきかが指示されている。その適切さがゲームの評価にすら繋がる。
(その全く逆で世界的にバズった『P.T.』もあるけど、あれは例外中の例外)
パズドラのCMなんか見ても、もはやゲームとしての楽しさより、
パズドラを通してのリアル交流が主眼になってるのがよく分かる。
また、リアル交流が豊かであればあるほど、ゲームの進行も円滑になるように設計されている。
パズドラじゃなくてツムツムなんかも、一人でプレイしてると「ハート(残機ポイント)」の関係上、
一度にせいぜい15分くらいしか遊べないけど、リア友からハートを送って貰えば、いくらでも遊び続けられる。
オレは娘との会話のネタにツムツムを始めたけど、
娘がツムツムを1時間近く遊び続けているのを見て、初めてそんなゲーム設計になっていることを知った。
(これは教えてもらうまでは意外に気づかない要素だ)
ちなみに、娘はツムツムでオレとフレンドになるのが嫌だとさ(泣)
ヒトをヒトたらしめているのはその “脳の大きさ” に他ならないが、その肥大化した脳は大きくなればなるほど「情報を求め、常にインプットされる情報が多くなるように行動する」というロジックを脳の基本的な機能として組み込んでいった。
そのロジックに従い情報を吸収し続けた結果として脳が肥大化したのか、大きくなったからこそより情報を欲するようになったのかはニワトリ・タマゴと同種の話であろうが、いつの頃からかヒトはこの巨大な脳のために常に情報をインプットし続けるよう行動するという習性が備わった。
そう考えると今、皆がひたすらにスマートホンに顔をうずめている光景も納得がいく。現時点で最も効率良く、場所や時間に縛られずに情報を得られる “窓” がスマートホンだからだ。
コミュニケーション欲求も、とどのつまりは自分の社会的位置情報の取得、あるいは周囲の “ノード” との相関関係の確認作業である。他者との “共感” のやりとりにしても、「分かり合う、分かり合えるかどうか」というのはつまりは情報通信プロトコルの動作確認的な意味合いが強い。相手と“会話”という名の情報通信が可能かどうか。他者との関係性は情報流入のためのインフラそのものであり、インフラの出来によって得られる情報量に大きく差がでるのだ。
ここにおいて情報の中身や質は関係がない。常にインプットし続けることこそが目的であり、それこそが脳の “要求” なのだ。脳への情報インプット効率を高めるためにヒトは “インターネット” を構築しそこを覗くための窓である “スマートホン” を作った。すべてはヒトの脳が欲したものだ。
スマートホンに顔をうずめ常に何かしらの情報を追っている方が、よりヒトの脳が求める要求に忠実なのであり、“より人間らしい” のだ。スマートホンなどに抵抗を感じ「おかしい」と声高に叫んでいるような人間は、古い習慣に囚われ脳の要求を無視する「人間らしくない」生き物だ。ヒトであるならば素直に脳の要求に従い、貪欲に情報を貪り続けなければならない。
ヒトはもうスマートホンを捨てられない。情報によって強化された脳がより強く情報を求め、もうそれを抑制することはできない。まるでクスリによって手に入れたチカラに依存し飲み込まれていった鉄雄のように、ヒトも制御できない情報流入で溺れ壊れていく。その過程の真っ只中に我々はいる。mn3
以前は特に何も考えず漫然とコメントを眺めてそれなりに楽しんでいた。
アイコンを見かけるだけでテンション下がるユーザーが現れるまでは。
そいつは、俺の書いたコメントに過剰反応して俺のはてブに誹謗中傷タグを付けた。
だが気色が悪いことに、そいつは今ものうのうとそれっぽいコメントを残しては、
それなりに大量のスターを稼いでコメントの上位でうろうろしていやがる。
非表示にすればいい、とも思うが、それはそれで情報量が減るしなんとなく気持ちが悪い。
そのコメントがそれっぽいことを言っていれば言っているほど。
お前、俺に誹謗中傷タグつけといて、よく平然とそれっぽいこと書けるな。
なんだか、むなしい。
超わかる。
あいつら「いかにイケてる(と俺らが思う)論文タイトルをつけるか」に命掛けてるから。
タイトルに何の情報量も無くて科学論文としての体裁保ってねーだろって論文いっぱいある。
競争が激化しすぎて一発芸の世界みたいになっちゃってるんだよね。とにかく初見でインパクト与えた奴が勝ち、みたいな。
査読システムもなんか大学受験ゲームみたいな感じになってきちゃって、ルールブック丸暗記してきましたか?みたいな評価になってる。
とにかくなんでもいいからstate-of-the-art出せばオッケーだしstate-of-the-artじゃなかったらクソだよね、学問的に意味のある積み上げ?そんなもんはstate-of-the-art出してから言えよカスwwwwwって感じになってる。
そんでサクっと一発インパクト出して(情報系なら)GoogleとかFacebookとかMicrosoftあたりに就職すればOKっていう。
社会の価値観を内面化できないっていうのは、人間(じんかん)で生きていけてないという意味で、
正直、うすら気持ち悪い奴だなぁという感じはある。
「痛さ」を強固な価値判断基準として重きをおいてるみたいだけど、言い換えれば「痛い」とは「社会の標準に沿ってない」ということとほぼ同義だよね。
「社会の価値観を内面化できない」ということを言ってるんだから、定義から「痛い」のは当たり前であって、「痛い」と指摘することは何も情報量を増やしてないと思うぞ。
ん?敢えて痛いことをしている人と天然さんとでは、改善の見込みがまるで違うと思うんだが?
てめえの読解力のなさを棚に上げて人の文体の攻撃や揚げ足取りにシフトするのはみっともないからやめたらどうか。
引用記法まで持ち出して大得意のようだけど、お前のしている質問の答えはその引用中にすらでかでかと書いてある事くらい、岡目八目じゃなくてもわかるレベル。もっと周囲の目とか気にしたら?
「責任を担うべき自らの仕事」がわからないなら社会人やめたら? 何を持って「責任を果たした」ことになるのかすらわからないなら社会に出て役割果たすのやめたら?
「質感」や「デコボコ」というのは話を分かりやすくする一例で、意外と人間、トータルな情報量を受け止めて読解してますよ、という例えです。
ここらへんの細かいお話しは「ノンバーバルコミュニケーション」とか調べてくださいな。
◇◇◇
多分美術展を楽しむ素養自体は俺より遥かにあると思うので、何かのはずみでここらへんの機微が、ぽこっと納得できたりするかもしれません。
実のところ「そんなのは例外、ニッチな遊びだ」という意見は、メチャメチャよく分かるんですよ。俺もそこで10年以上は足踏みした。
ただ、世の中には言語的なアプローチ以外もあるんだと丸呑みすると、色々いい加減に楽しめてチョロいんですわ。
◇◇◇
まぁこんなのはただの言葉遊びなんでクソの役にも立たないんですが、もしかしたら10年分の近道になるかもしれんので、頭の片隅にでも放り込んどいてくれると嬉しいス。
展示物にもよりますが、絵画といえど完全な二次元ではなく、厚みと質量を伴った造形物なので、その質感を観察するには実物を見るしかないと思います。
写真になった時点で、色も絵具の厚みも光の反射も情報量が減ってしまいます。
対象物の立体としての凄みを写真という二次元に変換するのが難しいから、21世紀の今もプロの写真家、というのが存在しています。逆にいうと、プロですら再現が難しいくらい、物質そのものがもつ情報量というのは多種多様で膨大です。
なので、そうした質感や物質としての強さを手掛かりに、展示物の文脈を読み解いていくことが、美術を鑑賞するいちばんの醍醐味なのではないでしょうか。
面倒だから詳しくは書かないけど、自分が受け取る情報量と幸福感の度合いは反比例するみたいだね。ここ半年の生活感の変化に非常に感動したので、この場でシェアしたいと思う。
これは厳密な心理学の研究結果なんかでは全くなくて、単に半年間(無理のない範囲で)ネットとテレビから離れた自分の実感だから、効果には個人差があるのかもしれない。とはいえ、少なくとも長年悩まされてきた抑うつ感、不安感、焦燥感のようなネガティブな感覚は日常から消え去ってしまったし、以前はリアルでの人付き合いが嫌いで仕方なかったけど、最近はわりと楽しめるようになってきた。あと、何かをやる前から怖気づくことも少なくなったし、そもそも何かをしようとする気持ち自体が増してきた印象すらある。
その代わり、当然、世の中の動きとか政治問題には疎くなってしまう。しばらくぶりに増田をのぞいたらどこか遠い国の出来事に感じてしまうくらい、かつての情報に対する感度、皮膚感覚はなくなってしまったようだ。むしろ最近は人に何かを話すよりも、人の話を聞きたいという気持ちの方が強くなってきた。
たった半年でこれほど精神面での違いを実感できるとは意外だった。この実感から自然と思いついたのは、自分を苦しめ続けてきたのは、世間を騒がせる問題や自分の不甲斐なさ、能力不足ではなくて、単純に多すぎる情報だったのではないか、ということ。
ただ、これは「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い」という価値観を真っ向から否定する生き方なので、知的で思慮深い増田ユーザーの多くに反感を買う考え方かもしれない。
また、これはSNSで見られるような「リア充」とは何か違う感じがする。肩の力が抜けて毎日を楽しめるものの、他人に自慢できるほどのことは何もしてない。自慢するために何か変わったことをしたい、という気持ちもあまりなくなってしまった。楽しければベタでも別にいいじゃん、ってノリで満足できる。
とはいえ、日常が満ち足りていて、朝起きることが楽しみで仕方ないという生活は、現代的な情報収集&情報発信に余念のない生活と比べても、それほど悪いものではないと思う。日常に何か変化を起こしたいな、と思う人がいたら、暇つぶしに試してみる、実験してみるくらいの気持ちが試してみて。経験上、3週間くらいで変化が出てくるはず。効果が出るまでは禁断症状がやばいけどね(笑)
食品だって食べ過ぎても、食べなすぎても健康を害すように、情報も不足すれば生活に支障をきたすけど、過剰でも(特にそれを処理する脳、ひいては精神機能に)問題が起きるのかもしれないね。
先に男根のメタファーなるものが話題になったが、それでは男根の直喩とはなんだろうか、という疑問が呈された。
考えてみると、画像や映像で「メタファー(隠喩)」という表現は使われるのに直喩はみない。それはどうしてだろうか? また男根の直喩はありうるのか? その場合はどういうものがそれに相当するのか?
比喩とは、異なる2つのものを性質の共通性によって連想(類推)させ、結びつけるものである。
それゆえ比喩は比喩対象(=比喩されるもの。「被比喩物」)、比喩しているもの(比喩対象以外のものであることを要する。「比喩物」)、両者の性質の共通の3点を満たす必要がある(以上を「比喩要件」と呼ぶことにする)。
してみると、隠喩は比喩要件を最小限に満たしたもの、直喩はそれに加えて比喩性を明示したことをいう、と考えられる。
ところで比喩であることを明らかにするには「ようだ」など、比喩性を直接に明示する文言を使うことが一般的である。
辞書の定義には「ようだ」「ごとし」「似たり」などの比喩を表す文言を用いたもの、とまで書くものもある(広辞苑など)。
しかしそれ以外の方法で比喩性を明らかにすることが妨げられないのではないか。比喩であることが明らかなもの、という定義も存在する。大体にして「などの比喩を表す文言」という定義自体、曖昧であり却って議論を混乱させる。本質としては比喩であることが明示されているか否かが重要だろう。
そこで、凡そ一般に比喩性を明らかにすれば、直喩が成立すると考える。
比喩性は比喩要件を満たせば認められるが、同時に我々は比喩要件を満たした表現を見ると、それを比喩であると認識する。
この観点に立つと「ようだ」「ごとし」「似たり」などの文言を使う方法は、比喩要件充足を包括的に示す方法と言える。
それでは「明示」とは何を意味するのか。
これは、受け手に高い蓋然性を以って<上記の比喩性=比喩要件充足を伝えようとしていること>が理解されるものと考える。
まず比喩要件を各個に検討し摘示するような表現が考えられる。比喩要件を各個に検討し摘示する表現はかなり不自然な表現であるから、<上記の比喩性=比喩要件充足を伝えようとしていること>が理解される。すなわち、比喩要件充足が明示された、と言える。拙い例で申し訳ないが「あの子は虎だね。強くて大きくて五月蠅いが、それでいて可愛げがある」などの言い方を例にしたい。最初の文単独で見れば隠喩のように見えるが、しかしこの文章全体からしてこの言い回しは直喩である、ということになる。本来受け手の側で「発見」される(後述)性質の共通性をわざわざ述べる不自然さが比喩性を明示するのである。
しかし方法はそれだけか。私はほかに「比喩するものの存在の明示すること、及び比喩対象(被比喩物)の存在が特定できるほどに明確に共通の性質を示す」という方法でも可能ではないかと考える。何故ならそれにより結局比喩物、被比喩物、共通の性質が明示され、比喩要件充足及び比喩要件充足を示そうとしていることが高度の蓋然性を以って理解される、と思うからである。
(またこのほかに、そもそも被比喩物を模したことが公知の事実となっている比喩物というものもある。男根と張型の関係はこれに当たろう)
さて後者の「その他の方法」をわざわざ提示するにはそれなりの理由がある。これは、言語表現以外で比喩性という一種の関係を伝えることには困難が伴うと考えるからである。
詳述するとこういうことである。画像や映像における「メタファー(隠喩)」は言語表現とは異なる。言語表現においてメタファーは比喩物と被比喩物を示し、共通性は読者が発見するという形を採る。なぜ読者がわざわざ発見するのかと言うと、それは比喩物と被比喩物がズレているのにも拘らず、同一性を示す言い回し(AはBだ、が典型)が使われるからである。
映像では被比喩物が示されず、ただ比喩物のみが存在するという場合がある。その代わり、比喩物と被比喩物の関係は共通性が見出しやすいものとなっている。それは同一性に気付く手がかりがないからそのように設定して用いざるを得ないところもあるが、画像や映像は情報量が多いため、共通の性質を見出すことが容易であることも大きな理由であろう。
こういう性質を持つがゆえに、画像や映像において「~のメタファー」なるものは見いだせるのに、直喩は見いだせないのである。しかし、先に示した直喩の考え方によるならば、画像や映像においても辛うじて直喩は認め得るのではないか。映像や画像であれば、似たものを並べれば、それは比喩物、被比喩物、共通の性質を同時に示したことになり、これは「各個の明示」に近い。
またそうでなくとも「その他の方法」によることも可能である。例えば動作を含めれば、共通の性質がより鮮明に打ち出され、それにより被比喩物が特定されるだろう。画像・映像表現ではこちらが使いやすいのではないかとも思われる。
以上より、画像や映像における直喩は成立しうる。そして如上の直喩概念によるならば、男根の直喩とは、例えば次のようなものが考えられる。
張型(物自体)