はてなキーワード: 市民感覚とは
そう、ちょっと思ったんですよ。人間嫌いなものだから常々思ってたことなんだけど、コロナでハッキリした。「日本人、そんなに上等な生き物じゃねぇな」って。だってそうじゃん、「自粛」って言葉に甘えたり、「自粛だからいいや」ってなったり、「もう我慢の限界ですね」とか言ってみたり。安きに流れやすいにもほどがあるでしょ。どうしてこんな状況で飲みに行こうと思えるのか、どうして旅行になんて行けるのか、どうしてそういう自分のエゴに観光地の住民とか帰省先の住民を巻き込めるのか。「自分は感染しない」「自分は感染させない」っていうその自信、どこから来るんですか?木星電波でも受信してるんですか?
結局のところ、根底には責任の波及を逃れたがる日本人の悪癖があるんじゃないかって思う。それと、ビックリするほど簡単な方に流れる人間心理。日本人は集団心理の怪物だって思ってるよ私。「自粛」って言葉は正にそれ。「自ら」やるものだから、言う側に責任はない。押し付けではないですよ(だから100%の補償とか出せません/だから批判する自分は悪くない)、そんな言い回しに聞こえてくる。ハッキリ言って陰湿。「自粛要請」「自粛しなさい」ってものすごい矛盾じゃん。その人が必要を感じて主体的に止めるから自粛なんだろうが。その結果が「自粛しろ」って指さす人と、「自粛だからいいじゃん」って飲んだり旅行行ったりする人の対立構造。ついでに「政府が悪い、自〇党を潰せ」とツイッターデモなるものをやる人たち。もうね、アホかと。
いやまぁ分かるんですよ、そうなる気持ち。こっちも卒業式と入学式とその後の同期との関りとその他諸々ぶっ壊されてるもの。冗談じゃねぇよって思うけど、だからこそ「それでもここまで他粛できてきたな、もう少しいけるわ」って思うわけで。自粛じゃないです他粛です、だって自分の関する余地なく無くなったんだもの。でもさ、それで「我慢の限界」って言ってどうすんの?そうやってズルズルと感染の輪を繋げて現状を引き延ばして、来年の卒業式と入学式と以下略もぶっ壊すのか?あとはどうしようか、「感染拡大はワクチンの普及率が問題で~」とか「政府の対応がマズイんですよ」とかテレビに出てる人間みたく分かった風に言うか?冷静に考えれば分かってくれると思うんだけれど、ここまで誰一人得をしてない。そりゃお互いフラストレーション溜まるよ。
冷静に考えて欲しい、その前に自分たちの責任なのだと。自動車運転過失致死傷罪がどんな刑罰になっても、結局のところ交通事故を起こすのは運転手じゃないか。君たちは交通事故が起こるのを「政府の刑罰規定が軽いからだ」って言うか?(制度上規定される)上流の行動が下流をある程度規定できる、それは間違いない。それで感染が収まるように誘導(そう、政治は誘導しかできない)できていれば完璧だった。が、残念ながら現状はそうではない。寧ろ逆と言ってもいい。
この点は確かに政府が悪いよね、分かる。正直色んな方面への"配慮"が透けて見える杜撰な対応は、あまりにも市民感覚の欠けた意味不明なものだって誹られても仕方ない(だからと言って官僚を批判するのはお門違いだと思うけどね)。だとしても、下流にいる我々一般市民の行動で何とか出来たことは、本当に何もないのか?ちょっと気を付ければいいんじゃないのか?多分、今休業要請食らってる経営者の人達はこう言うべきなんだ。「お前ら利用者が情けないから、自分を抑えられないから、こうして長々と商売あがったりの憂き目にあわなきゃならないんだろ」「本当に店を想うなら、しばらくテイクアウトだけにして引きこもっていてくれ」って。皆悪者になりたくないし客を減らしたくないから言わないんだけど。「政府」っていう格好のスケープゴートもあるし。
こうした悪癖がもたらす一番の害悪が、全員もれなく損をするっていう今の結果。一時の楽を求めたせいで感染は収まらない、だから店を閉め続け、飲み会旅行を断念し続け、ついでに色んな行事を諦め続けなくてはならない。仕事も上手くいかなくなるかもしれない。これで得をするのは、地球侵略を企むインベーダーくらいでしょ。『宇宙戦争』よろしく、そこらのバクテリアでそんな連中が死滅するのを待つべきなんだろうか?
いい加減さ、「ちょっと考えればこっちの方が得」っていう選択肢を取るようにしましょうよ。別に「皆の幸せを思って、思いやりある行動を」なんて言うつもりはない。そんなの偽善だし、何のインセンティブも無い(多分これでやる気の出る人は、とってもいい人だ。そういう貴方は是非とも自分を誇りに思ってほしいし、友達にいるなら一生の友人にするべきだ)。でも、自分やその周りの利得っていう考えなら違ってこないか?誰も得しない、もれなく貧しくなる社会。そんなの、当然ながら誰も望んでない。そのくせ今そうなっている。とっても残念なことに。ちょっと考えれば路上飲みなんて家で飲めば必要ない。ちょっと考えれば自粛警察なんてただの偏狭な輩だと気付く。ちょっと考えれば、「自分は仕事が無くなったんだぞ」って言って人を批判しても自分の職が見つからないって分かる。道徳とか倫理でなくてもいいから、そんな判断をしてみてほしい。「今度飲み会しようと思ってたけど、それぞれ好きな一品テイクアウトして宅飲みにするかな」って、ただそれだけでいいんです。それで世界はマシになる。
最後に言っておくけれど、僕は思いっきり日本人です。生まれも育ちも地方都市の一般市民。だから東京と大阪が今てんやわんやしてるのも、そのリアリティを知っているかと言われればまったくもって知らない。学生だから、職を失った人の辛さなんて知りようもない。幸いなことにそれでもなんとか回るくらいの環境だから、この状況下で生きるか死ぬかって人の気持ちも共感できないかもしれない。でも、あれこれ制約をくらってて生きづらい状況に辟易してるっていうのは、皆さんと共有しているつもりです。液晶に向かってやいのやいの言って世界を変えられる人間なんて、まずいない。でも、自分の行いを少しだけ見つめ直すことは誰にでもできる。月並みだけれどそんな風に思ったので、慣れもしない増田を書いた次第です。
緊急事態(1)のときは結構しっかり入場制限をしてた店も、まあまあなあなあな感じでやっている
一応「新型コロナウイルスの感染が拡大しています」みたいなアナウンスが繰り返し流れてたり、入場時の消毒とマスク着用は必須だったり、「混雑時を避けてご来店ください」の貼り紙があったり、そういう通りいっぺんの対策はある
でもまあ、実感としては普段通りだ みんなマスクつけてるだけで、人もそこそこいるし話し声も聞こえるし、売り物も普段通りにある
緊急事態(1)のときもマスクつけないでチャリで爆走しながら談笑してるグループとかおったけど、(2)でもその辺はあんまし変わらない気がする
マスク着用の義務感はかなり増し、(1)のときならつけてなかった人もつけてるような気はする が、仲間で集まって笑い合いながらウロウロみたいな行動はむしろ増えてる気もする
よくわからないぜ
(1)のときは東京で30人ってのを聞いて「もうダメだ、東京は地獄になる」とか言ってたとうっすら記憶してるんだけど、いまは1000人超えでピークアウトしたっつってホッとしている
まあ、絶対数より増減のトレンドのほうが大事といえばそうなんだけど、純粋に隔世の感がありますね
そんで、(1)のときは1日1000人も出たら「地獄」になるって雰囲気だったんだけど、実際市民感覚として地獄かというとそうでもない
先述したような、わりと弛緩した雰囲気が続いている
結局感染しても無症状の人のほうが多い時点でどう転んでも「地獄」って感じにはならないんだろうなという気はする 路上でバタバタ人が倒れ、出歩けば死体が目に入るのが当たり前…ってことには多分ならない
その地味さが恐ろしさなのだろう、とは思いつつ、緊急事態って言葉を実感を持って受け止めがたいのも事実
「コロナの話には皆飽きて、話題にものぼらなくなった」ってことはないんだけども、「ちょっとは話題にのぼるがすぐに忘れられて、ほかの楽しい話が始まる」って感じだ
やるらしいという話と、さすがにやらんらしいという話がある
やめますって言ったサイドが金を払わされるのでチキンレースみたいになってるという話があるらしいが、そのルールだとIOCが有利なのか…?
「みんな無理だと思ってるが、政府が無理を通してやっちゃう可能性は否定できない」という感じだと思う
どうなった?俺個人としてはさすがに中止に賭ける
https://anond.hatelabo.jp/20201109184717
という文章を書いて400件近くブクマがついたので、それを読んで(読ませてもらって)思ったこと、考えたことについて、以下のとおり書いておく。
もはや、ほぼ愛知県知事リコール署名とは関係のない話になるので、あくまで俺個人の整理のための記述になる。
…
高須院長とその界隈を高みから見物しているつもりで、本当はこの騒動に食い気味にのめり込んじゃって、一番おかしいのはお前だろ、というブコメがいくつかあって、これは実際にその可能性がある。
俺は文中で自身の正気をちゃんと相対化できているつもりだったし、最後も、(俺にとってはもっとも合理的な理解である)愛知県知事リコールにおいては高須院長もその取り巻きも半笑いであって、仮に全てがおちゃらけに過ぎないのなら、頭から湯気立てて正気を失ってるのは俺だけだな、と書いたつもりだった。だから、お前も頭おかしいぞ、と言われれば、「だから自分でそう言ってんじゃん」という気はする。
ただ、「俺はてめえの頭がおかしくなってる自覚があるからつまり狂ってねえ!」というのは当然、矛盾している。
俺は自分のどうかしている具合について認識が甘すぎるんだろう。以前、何かの増田についたブコメで「この増田は自身の頭がおかしいことを自認しているが、おそらく増田自身が思ってるのとは違うかたちでおかしいんだと思う」というのがあって言い得て妙だな、と思った経験があるが、なんていうか、それに近いのかもしれない。
…
・お前は醜怪だ、という話
上の、俺の頭がどうかしているというブコメと似て非なるというか、印象的だったものがあった。
最初に反論しておくと、俺は誰かが真面目だったり熱心であることを理由に、おちょくられるのを無条件に免れるべきではないと思っている。
別に俺も、真面目かつ誠実に世のことを思っている人間に対して辻斬りのように悪意を浴びせるほど邪悪じゃない(とは思っている)。ただ、今回の高須院長の、86万筆という当初の目的に明らかに届かないにも関わらず、いかにも肉薄しているという空気を醸成しようとしたこと、結果として集まった43万筆の中身にも疑義がついているのにその検証を言下に否定したこと、署名活動中にリコール反対派を犯罪者呼ばわりしながら届けた工作活動の進捗を説明しないこと、ははっきり言って不誠実だし、リコールという制度を悪質にショー化する行為であって、それはおちょくられても仕方ねえよな、とは思っている。
で、ここからが少し複雑な話になる。
俺は、相手の悪口を書いたり、内容に虚偽を含めたりしない限り、不誠実で悪質な言動について相手を直接、ネット上でやり込めようとすることは許されると思っている(この考え方は本当に俺の異常性を吐露しているのかもしれない。「不誠実」で「悪質」を、ちゃんと主観を除外して判断できるつもりの上、攻撃のトリガーまで引くんだから)。今回の俺のリプライは、表面上は高須院長の味方にしか見えないものなので、(あくまで俺の中の)基準を満たしている。
一方で、俺は自分がほぼ悪意で行動していることを自覚している。義憤ではなく、私的かつ単純に「気に入らない」という感情にドライブをかけられていて、まともな人間はこんなことをそんなにしない。
つまり、高須院長の言動は真っ当な市民感覚によって非難されるべきだと思うけど、俺が従っているのはそういう倫理観ではまったくないし、取っているアクションもネジクレている。
お前は醜怪だ、という指摘はその点でこたえるものがあった。
…
・俺がtwitterで捨て垢を使ってリプライを送った / 先の増田はtwitterで当該のリプライを目にしたまったく別の第三者によって書かれた、という話
皮肉ではなく、おもしれえな、と思った。
この人たちには、本垢で有名人をおちょくったり、そのことを武勇伝めかして増田で書くことは想像を絶しているらしい。どちらが真っ当な感覚かはわからないが、この人たちの方がまともな気もする。
異常でわけのわからない行為を合理的に説明しようとすると、かえって、実態と異なる推論がはじき出されてしまうということで、これは頭を働かせている側がいけないのではなく、そもそも現実に起きていることがのっけからおかしいので、そうならざるを得ない。
おもしれえな、というのは、まるで、先の増田で高須院長たちの行動を理解しようとした俺自身のようだったからだ。つまり、「まったく事実に反した異様なツイートに大量の支持が集まるって、俺の理解できる世界を完全に超えている。もしかして、院長もその支持者も、全然本気でやってなくてふざけてやってんじゃねえのか?」。こんな俺の考えも、見当違いの方向にぶっ飛んだ推測なのかもしれないな、とあらためて思った。
…
・今回のリコール運動の中にもいろんな思惑があるよ / 個人の中にもマジの部分と半笑いの部分や時期があるよ、という話
言ってることはわかるんだけど、俺としては以下の1~4のどれかで断言してくれた意見の方が面白かった。
お前が面白いとかどうとか知らねえよ、という感じだと思うが、そう感じた理由はあとで書く。
…
・1~4の話
2. 院長はマジだが取り巻きは半笑い、という70過ぎのジイサンを見世物にした構図
ブコメを見ると、1, 4にそれなりに割れて、2、3がちょいちょい、というように見受けられる。
俺はこれが本当に面白くて、おそらくはこれまでの印象や知識によって、あの運動が各人で全然違う見え方をしていることがわかった(もちろん先の増田にブコメをつけた人々の意見なので、世間全体ではまた違うんだろう)。
俺が1ではなく2~4を選ぶのは、あるブクマカが仰っていたハンロンのかみそり(愚かさで説明できることを悪意で解釈してはいけない)が、この場合機能するのかな? という疑念があるからで、俺にとっては悪意や冷笑のために時間と労力を割いて敵方を嘲弄することはちゃんと合理的な行為だからだ。
こうして考えると、人間は自分をモデルにしてしか他者の行動を推論できないことがよくわかる。実際は1の可能性も十分あるだろうと思う。
あと、4の中にも高須院長と取り巻きが共犯ってパターンと、院長と取り巻きの意志共有はされていなくて、結果として4が形成されてるだけってパターンがある、と指摘している方もいて、なるほど、と思った。
いずれにしても、1~4のいずれかが今回の運動のメイン層であり、グラデーションはあっても、あるいは個人内でスタンスのうつろいはあっても、コアになる部分があると思う。
俺が「色んなやつがいるよ」的な解釈にあまり乗れないのは、「巨大な運動の内部に様々な思惑があるって、そりゃそうだろうな」っていう一般論でしかないのであんまり面白くないからだが、(ここから少し大仰な話になるので、狂人に訳知り顔されるのが不快な方はすみません)、もう一つ理由がある。
ブコメを読んで色んな見方があることがわかって、その中には「◯◯に決まってるじゃん」と断言するものもあって、正直言ってこれは便利だな、と俺は思った。
これってつまり、一つの現象をめぐる解釈について、どれだけいい加減な放言を言い散らしても、誰かしらは味方してくれるし、耳を貸すということじゃんな?
もしどこかの世界線で、俺が今と同じくらい世に倦んでいて、今と比べ物にならないくらいもっと金持ちで頭が良かったら、「××について、正解は1~4のうちどれでしょう?」の中で、自分にとって一番得で、自分の憎悪で人がたくさん泡を吹いて苦しんで、みんなができるだけ不幸になる答えについて、それを信じてくれる人たちに頑張って吹き込むのにな、と割とマジで思った。
そういう悪意に対抗するには、どれもが正解に見えるうちのもっとも核心に近いものを常に求めるぐらいが関の山でほかにどうしようもなく、「色んなやつがいるよ」は答えとして絶対間違えようがない一方で、悪意の味方になり得て助かるかもな、と思うので、あんまり好きな回答じゃないな、と思った。
言い換えると、これ! という正解を常に抱えながら、科学的な証拠があれば別の正解に賛同できる柔軟性が市民には必要だ、ということになり、皆さんにはこれができるだろうか。ちなみに俺自身は絶対にできないと思う。
…
・オウムの話
「ふざけきってるようであいつらはマジだぞ」という1を選んだ人の中に、オウムとの相似を見た人もいて、そういう見方もあるのか、と思った。なんとなく村上春樹の『アンダーグラウンド1・2』を思い出した。
ウヨの考えてることなんてわかるわけねーだろ、というブコメもあって、俺もまあ先の増田で高須院長の取り巻きのことを途方もないアホか、(俺と同じ)悪意の塊かの二択の後者寄りでとらえてるので、いさめる気も権利もないんだけど、仮にあいつらがマジなら、誰かが高須院長の取り巻きたちの話をマジメに聞いてやったほうがいいのだろうか、とも思った。これは、『ボウリング・フォー・コロンバイン』でマリリン・マンソンが学校銃撃事件の主犯だった少年たちに向けた言葉から思いついたんだけど(「黙ってあいつらの言いたいことを聞いてやる。誰もそれをしなかった」)。だけども、俺には無理だ。理解できないやつとも、俺と同じくらい醜いやつとも話す気力も知性もない。善良で体力のある人に頑張って欲しい。
なお、理解の及ばない排他的な方向に加熱している、という意味でのカルトや『ボウリング・フォー・コロンバイン』の例えであって、暴力予備軍とみなしているわけではないことは言い添えておく。
…
・ポコチンの皮の話
バカバカしいことだが、俺は先の増田を書くにあたって、高須クリニックで包茎手術をやっていることを確認していた。
https://www.takasu.co.jp/danseiki/
俺がお詫びしなければならないのは、他人の生業を揶揄するような文章を書いてしまったことだ。これは本当に俺の想像力が欠如していた。高須氏にも美容整形に携わる方々にもお詫びいたします。申し訳ありませんでした。
ニュースを見ていると、そんな疑問が浮かぶのだけれど、いくら空気を読まない私だって、それを口に出す勇気はなかった。これは、そんな私が一冊の新書によって、正義のために物を破壊するのにも、道徳的・理論的根拠があるのかもしれない、と知った経緯だ。
増田に入りびたっていると、世の中にはいろいろな立場があって、さまざまな正義があることがわかる。残念ながら、複数の正義の間でぶつかり合いがあることもまれではない。表現の自由と見たくないものを見ない権利で、レスバトルが毎日のように起きている。あるいは、外国人・移民の権利を尊重したら、女性の安全をないがしろにしてしまったケースもある。2015年のケルン大晦日集団性暴行事件なんかがその例だ。弱者をいたわろう、財産はみんなで公平に分けよう。そうした基本的な原理では同意できるのに、個別のケースでは意見の一致が見られることはめったにない。工学部出身の私としては、実験すればすぐに答えの出る理系の学問と勝手が違い、社会の複雑さに戸惑うばかりであった。
そうするうちに、結局のところ正義の根拠ってかなり曖昧でいい加減なんじゃないか、みたいなことを思うようになった。正義の論理的な根拠がわからなくなったのである。もともと正義についてはサンデル教授の本くらいしか読んだことがなく、哲学は専門外だ。
たとえば、大日本帝国が中国北東部に傀儡政権を作るのが悪だとすれば、アメリカがイラクやアフガニスタンを空爆したり、親米政権を樹立したりするのとどう違うのか。アメリカが中東に派兵するのならあまり気にならないが、ロシアがクリミアを占領・併合したときに動揺してしまったのはなぜなのか。本質的な違いはほとんどないのに。
日韓関係だってそうだ。たとえば、国家の間で解決済みであるはずの補償問題を、個人が請求することは可能なのだろうか。それとも、個人の権利が拡大する世界的な流れのなかでは、必ずしも不合理な話ではないのか。大統領が変われば民意が変わったことを意味するので、前政権の約束を反故にすることは許されるのか。
他にも、裁判員制度で、発達障害のある犯人に厳しい判決が下されたことがあるけれど、市民感覚は医学の最先端の知識と乖離していることも多い。専門家ではなく、偏見もある市民を本当に裁判に参加させていいのか、心配だ。
で、直近の例で特に印象的だったのが、冒頭に述べたように、BLMで無残に引き倒される銅像だった。革命直後に独裁者の像が倒されるのには全く違和感がなく、それどころかほとんど何も感じない。しかし、歴史上の偉人がこうして再評価されるのを見ると、これは正しいのかどうか、よくわからなくなった。現代の価値観からすれば、彼らの過ちは確かに明白だが、こうして公衆の面前で侮辱に近い目に合わせていいのか。法の不遡及の原則、という聞きかじった知識を思い出してしまう。
道徳的には、人種差別は絶対的な悪である。しかし、それに抗議する過程で必ずしも公共のものを壊す必要はないのではないか。撤去を求める署名運動を起こせば十分なのではないだろうか。銅像を破壊する意図は正しいが、間違いなく違法な行動だ。違法であるならば、BLM運動の正当性に傷がつくのではないか。結局、正しさには根拠などやはり存在せず、その場の大衆の熱狂しかないのではないか。そんな次々と浮かぶ懐疑に苦しめられた、反差別運動に対しての恐怖まで感じるようになってしまった。
そんな自分に困惑しつつ、久々にリアル書店に足を運ぶと、「あぶない法哲学」という新書を見つけた。法哲学の本らしい。つまり、どうして法律や道徳が正しいのかを理論的に分析する学問だ。
これだ! と私は膝を打った。私のもやもやはこれで解決するかもしれない。早速購入し、一気に読了した。著者はオタクらしく、ところどころ漫画やアニメのたとえが出てくるのでわかりやすい。しかし、レベルを下げたり読者に媚びたりするようなことはしていない。そして、実在の事例や過激な思考実験を見せることで、常識を疑ってかかることを、私に教えてくれた。
この本で学んだ重要な概念として、法実証主義と自然法論がある。
法実証主義というのは、ざっくりまとめると、法律が正当性を持つのは、定められた手続きに従っているからという理由しかなくて、そこに道徳的な価値判断は介在しない、というものだ。そして、どれほど内容がおかしな法律であっても、正当な手続きで撤廃されない限りは、それは守られるべきものだ、とする。
もう一つの自然法論は、大まかにいえば議会で定めた法律よりも優先すべきルールがある、というものだ。さっきと違って道徳がかかわってくる。もちろん、人間の良心や常識は、時代や地域で一貫したものではありえない。しかし、法律が追い付かないほど変化の激しい現代にあっては、法が整備されていない状態での一つの指針・根拠とすべきではないか、と著者は述べていた。
ここで大事なのは、法律を正当化するのは手続きのみであり、それが人道に則っているかどうかは、実は関係がない、という考え方が存在することだ。
ソクラテスの最期はよく知られている。アテナイの若者を堕落させたという不当な罪を着せられ、死刑となった。弟子たちはソクラテスに逃亡をすすめた。というか、当時は死刑判決を受けたらその都市国家から逃亡するのが当然だった。しかし、ソクラテスはあえてその判決に従った。悪法であろうともそれを守る義務がある。私はここで死ぬ。悪法を制定した市民はその結果を引き受けよ。ソクラテスは命を賭して法を制定した市民たちに、自分たちがどれほど愚かな法律を無自覚に作ってしまったか、を訴えたのである。
一方で、市民的不服従という考えもある。キング牧師はアラバマでの激しい抗議活動のゆえに逮捕された。彼の方法は、多くの人々の抗議の模範となった。つまり、自分が良心ゆえに受け入れることのできない法律は自覚的に破るが、国家を尊重しているという姿勢を示すために、甘んじて法の罰も受ける。これを繰り返すことで、逮捕している国のほうがおかしいのでは? と多くの人が考え、行動するようになる。確かに法律を破ってはいるが、法律に従って罰を受けることで、遵法とは別の手段で正義への敬意を示しているわけである。
道徳とは関係なく、法律を制定することは可能である。そして、不正な法律や、放置された不正義に抗議する手段として、法律を破るという方法が理論化されている。よって、違法な手段で正義を追求することは可能である。この結論は、良くも悪くも定められた手続きを重んじるタイプの私としては、非常に大きな驚きであった。
人種差別に抗議する方法として、銅像を引き倒すのは、確かに器物損壊罪だ。しかし、それが正しいと考える人々は、単純な感情で動いている暴徒とは限らない。正しいかどうかはともかく、彼らの立場をサポートする理論化された法哲学が、実際にあるのだ。
自分は、法学部の一年生が学ぶことを、この年齢になってやっと知ったのだろう。だが、こうして知識が増えたことで、自分の感じていた違和感を少しだけ言語化できた。今後は、何らかの形で国際法とその背景の思想について学び、先ほどの例に挙げた、大国の軍事行動の背後にある理論を理解したい。
本論では法律の有効性に対して一定の疑問を投げかけているが、積極的に法律を破ることを推奨する文章ではまったくない。また、法に関しては無知も同然なため、誤解があるかもしれない。ご指導ご鞭撻のほどを乞う。
資生堂 アネッサ筋肉CM取り下げか 性暴力抗議デモ「オナニー」発言の弁護士出演で抗議殺到
判決文読まずに、司法のルールも知らずに「私が有罪と思ったことを無罪にするな」と主張するのって「オナニー」じゃないの?
「司法が市民感覚と乖離してる~」ってお決まりのフレーズ言うかもしれんけど、市民感覚に最大限寄り添った市民感覚通りの裁判をなんていうか知ってる?
「人民裁判」っていうんだよ。それを是とするなら法律いらないんじゃない?
推定無罪原則を破棄して「合意の証明」を求めたりするのもそう。オナニー。
君が大手を振って外歩いてられるのなんでか知ってるか?「犯してない罪を着せられない」という当たり前のことが守られてるからだぞ。
それを自ら破壊しようとしてどうするんだ。あ、対象は男だけですか?
弁護士と資生堂の表現の自由を奪う。使った資金や作った人の労力、思い入れなど微塵も考えずに表現を踏み潰した。
こいつらどれだけ腐ってるの?思慮が足りないの?自分のこと以外考えられないの?
嫌なら見るな、買うなで終わりだろ。
CM潰しを呼び掛けたり、不買運動を呼び掛けたり、海外に拡散しての不買すら狙ったり。
資生堂が寛容でよかったな。
今回の件で思ったわ。
こいつら、人治主義目指してるだけだ。自分たちが決定権を持ってる人治主義を。
もともと支持してなかったけど、今後とも絶対に支持しない。
邪魔する奴がいたらそっちを支持するし、なんなら私も邪魔する。
https://digital.asahi.com/articles/ASL8R4S75L8RUCFI00B.html
回答としてとても全うで、納得のいくものだった。だったのだが、当然回答者が岡田斗司夫である以上、「朝日新聞は岡田斗司夫が指導者という立場を利用したりして精神不安定な女性数十人と異性関係を持ったことが判明したあとも、彼を切らなかった。metooと程遠い人権感覚の会社だと思ってる。 」というブコメがついている。
ブコメをつけた人を非難したいわけじゃなくて、これは正にme tooにおけるある種の「正義」の本質を表している。つまり、「言動そのものや、その人が作り出したものの是非ではなく、その人の社会的状況に応じてその人の言動を判断する」。
これは、不正義の是正を誰かに任せるのではなく、評価者自身の判断で不正義を是正するものだ、ということになる。一面の真理はあると思う。社会は完璧ではないので社会や公的機関が必ずしも正しい在り方をしているわけじゃなく、それを正すのは社会に生きる人間であるべきだ。そのような仕組みが市民社会であり、社会的不正義に対して暴動や大規模なデモが起きるのはある種「健全」なこととは言えて、そういう事例が散見されるアメリカやフランスと違ってどうして日本は……という話題は、本筋からズレるので閑話休題(こういったある種の国ごとの政治態度や市民感覚の違いをまとめてる研究書どっかにないですかね。真面目に読むので割と本気で募集している)。
そういった考えの裏には、実のところかつてのモヒカン族とは全く逆の価値観がある。評価するかしないか、という価値判断だ。
上記の例で言えば、岡田斗司夫は評価されていい人間かどうかである。とりあえず自分の評価は差し控える。その全く真逆の例で言えば、〈ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー〉シリーズの監督を務めていたジェームズ・ガンが、過去の不適切なツイートを理由にシリーズ監督から降板させられた事件だ。その二つの違いはなんなのか。違いはいくらでも挙げられる。実際に問題になっているのが実在の女性との実際の関係に関する話題か、不特定多数に対する言及だけか。日本国内で活躍する批評家か、全世界的にヒットした作品を生み出した監督か。社会的な評価の違い。味方についた人がどの程度いたか、それが大きく報じられたかどうか。「不正義」とされるものは白か黒かではなく様々なグラデーションが存在し、「灰色は白である」=推定無罪の価値観はあくまで刑事事件=公的権力が市民を罰する際に発生するものであり、このような違いが発生するのは当然である。だが一方で、ジェームズ・ガンは擁護されるのに、『二度目の人生を異世界で』の原作者「まいん」氏が炎上した挙げ句にアニメ化が中止になるのは当然であるとされる。問題発言が日本における大きな政治的争点かどうか、という違いはあるが、それ以上に大きな違いは、2人がどんな作品を書いていたか、と言ってしまっても差し支えないのではないか、と個人的には思っている。一方で、慰安婦を揶揄していた「月曜日のたわわ」の比村奇石はさほど炎上せずに未だに活動を続けている。比村奇石が炎上しないのは不思議だなと思っているが、とはいえ自分自身、「うっわー気持ち悪いことしかやってねーなこの人、でもめっちゃエロい作品書くな。もっとやれ」って思いながら毎週月曜日を楽しみにしている。しかし本当に邪悪。
雑多になってしまったが、何が言いたいかというと、me tooというのは「何が正しいか」ではなく「どんなかたちの正義を指示するか」というある種の価値観、雑な表現であるところの「政治的態度」を求められている。正義に対するコミットメントである。だが正義は一枚岩ではなく、黒と白の間には無限のグラデーションが存在し、結果me tooのような価値観はある種のダブルスタンダードを許容する。
社会において「理性的判断」というのは存在せず、人間は社会のなかでしか行動ができず、社会のなかで行動するなら結果的に社会にコミットしなければならない。あたかも村上春樹がデタッチメントからコミットメントへの転換をした(「せざるを得なかった」と言っていいのかは、正直わからない)ように、これはある種当たり前のことなのだが、その事実を前に困惑するひとは少なからずいるのではないか、と思っている。自分は比較的その変化を受け入れている側の人間ではあると思うが、困惑する人間がいるのはよくわかる。人間は矛盾する生き物だからね。
だがはあちゅうてめーは駄目だ。
自分は法律を専門にして生きていているけど、刑事事件とはあまり関係がないから、そこまで詳しいわけでもない。
自分が死刑についての投稿とか、それに限らずとも法律に関係する投稿を見て、新たな観点だな、と思うことは殆どないと言っていい。既存の議論を上手にまとめて紹介しているものとか、自分の立場を適切に述べているものはもちろんあるけど、とりわけ断言調で書かれたもので、なるほどなあと唸るようなものはない。大抵の場合、すでに、それに対しての反論が議論されているものばかりだな、と思う。
死刑や刑罰に関する議論でよく出るものだと、例えば刑罰は何のためにあるのか、というようなものがある。
これについて既存の議論を簡単にまとめれば、割と最近までは、応報刑論と目的刑論との二つの考え方が対立していたと説明されていて、前者は犯した罪に対して罰を与えるのが刑罰の本質であり、後者はもう2度と犯罪を犯さないように矯正したり、社会に対して犯罪を犯すとこういう辛い思いをするからやめたほうがいいよと伝達したり、あるいは犯罪を犯すような人を社会から隔離することで新たな犯罪が発生することを予防することを目的として与えるのが刑罰だというもの。
前者はカントやヘーゲルに遡るようなクラシックなものだけど、罪に対して罰を与えるっていうけど、それは何のためになされるのか、本質というのは何なのかよくわからないよねという批判がある。
後者については、再犯可能性が非常に高い人だと、どんなに軽い犯罪でも、犯罪者なら終身刑にすることになるよね、とか、さらにその考えを進めて、犯罪を犯しそうな(けどまだ犯罪を犯していない)人を刑務所に入れようとかそういう話ななってしまうけど、それでは流石に良くないよね、といった批判がなされている。
それを踏まえて近年では、社会的な規範を回復するためになされるのが刑罰である、というような学説も有力で、結局、応報刑論と目的刑論ってそんなに違わないのかも?みたいな話になっているとのことでした。
(この辺の学説的なことは刑事法ジャーナルの54号に最近の議論がまとまっている。)
で、そういう刑罰の本質についての議論自体はどうでも良くて、自分が思っているのは、自分が考えついたことは、誰かすでに考えているだろう、更には批判も尽くされてそれに対する再批判がなされて、という風に議論は進んでいる、という風には思わないのだろうか、ということ。
自分は一応、専門と言えるものがあって、様々な学者が一生を懸けて知恵を絞って、あるいは、実際の社会の中で様々な人たちが工夫を凝らしていろんなことを考えてきてることを感じてきたから、そんなに簡単に新しいものは生まれないということを強く思っている。あるいは逆に、自分の思いつきについては、既に前向きな批判がなされていることが大半で、自分の考えをブラッシュアップするのはその意味では容易だと感じている。だからこそ、自分の専門外のことでも、自分が何か感じたことや思いついたことがあったら、調べてみることは大事だし、軽率に発言するのは意味がないことだなとも思う。
だから、いろんな社会的なトピックに対して、いろんな人から条件反射的に自分の思っていることを述べて、しかもそれが間違っていたり批判があるということに想いを致さない様子を見ると、心が痛む。人類が協力して分担して、何世代にもわたって知恵を絞ってきて、それを上手にまとめて教えてくれる人すらいるのに、酒の肴にしてるならまだしも、大真面目に自分の議論が絶対正しいかのように自信満々に理論を展開している人を見るのは辛い。
こういうことを言うと、学問と市民感覚はずれがある、学者は象牙の塔でしょうもない、みたいな意見も出るかもしれないけれど、少なくとも法律学の領域で、市民感覚のようなものが議論に全然反映されてない、ということはあり得ないと思う。もちろん、立法の対応や学会の対応が遅い、ということはあるだろうけれど、市民感覚なんてどうでもいいから無視しよう、なんということはなくて、市民感覚がどのように醸成されてきて、今後どうなっていくかということも、議論されているのが普通だと思う。
予断を持たずに事件に取り組み、判決などで具体的な理由を示すにあたっては、最終審としての説明責任を果たす内容になるよう、力を尽くしたい。最高裁には多様な紛争についての不服が申し立てられ、どの事件も最終的な決着が求められている。社会的に影響の大きな事件も少なくなく、責任の重さを日々痛感している。
広い視野の下で、公正な判断を行うことが期待されていると感じる。その期待に応えるためには、判断の内容を説得力ある分かりやすいものにすることが大切である。また、裁判所の存在が国民に身近なものとなるよう、情報発信や手続きの工夫などといった面にも一層留意する必要がある。
地裁や高裁で勤務した時代、3人の裁判官の間でさまざまな議論を重ね、充実した判断につながったと感じられた事件は、著名かどうかを問わず長く記憶に残っている。最高裁においても同じだろうと思う。
任命権限に関わる事柄であり意見は差し控えたいが、現在、バックグラウンドの異なる同僚裁判官とさまざまな角度から率直な意見交換ができる環境にあり、日々の仕事にとって大きな意義があると感じている。
裁判の中で憲法判断を示す立場にあり、お答えは差し控えたいが、憲法は、我が国における「法の支配」の基盤となるものであり、普段からそのありように国民の目が注がれていることは、大切なことであると考える。
前項と同じ。
これまでに関与した定数訴訟についての私の意見は、大法廷判決の中で示してきたところであり、これからも個々の事件の判断の中で示していきたい。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
法的判断が司法に求められている大きな問題の一つであるが、今後訴訟が最高裁に係属する可能性があるので、意見は差し控えたい。
国民の皆さんの理解と協力に支えられて、制度が定着しつつあることを、刑事裁判に携わってきた者としてうれしく思っている。大改革であり長期的なものさしで改善を図っていくべき課題もなお残っているが、刑事裁判が、「開かれた司法」の方向に大きく変わったことは確かである。
誤判を防ぐためには、一つ一つの事件において、当事者が適切な訴訟活動を行い、裁判官が曇りなき目で判断を下すことが、何より重要である。制度や運用の改善点については、法曹三者の間で、実情をもとにして、率直で冷静な検討を深めることが欠かせない。
国民の間で議論を深めていくべき重要なテーマであると思っているが、具体的事件に関与する立場にあるので、立法論に関わるご質問についてはお答えは差し控えたい。
重大な刑事事件は裁判員裁判によって審理されており、今回の新制度の運用については、裁判員裁判の証拠調べにおいてどのような評価が示されるかが、重要なポイントになると思う。裁判員裁判と同様に、長期的なものさしで検討すべき問題であると考える。
さまざまな課題を抱えていることは認識している。法曹養成制度も教育制度の一つであり、時間をかけて行うべき人づくりの土台だといえる。長期的なゴールを見定めて、じっくり検討していく姿勢も大事だと思う。
国際的な経済活動が原因となった訴訟はこれからますます増加すると思う。裁判官は、紛争の背景にある実情も視野に入れた上で、判断を下すことが求められる。そのためには、研修、人的交流などの機会も一層充実させる必要がある。
「開かれた司法」を推進していく上で、テクノロジーの活用は重要な柱の一つだと考える。それだけに、単に「便利かどうか」というのにとどまらず、司法へのアクセスや裁判手続きの将来のあり方も念頭に置いた上で、総合的に電子化などの改革を進めていく姿勢が大切だと考える。
個人的には、今年は名演と観客席の熱気が一体となったライブに出会う機会が多く、終演後はその場の一員であった幸福感を味わえた(例えば、ロシアの劇作家チェーホフの「ワーニャ伯父さん」)。
「尊敬」という意味とは少し違うように思うが、強さ、弱さを含めて、人間的魅力に富んだ人物として、最近興味があるのは、森鷗外。趣味はコンサート、観劇。好きな言葉はゲーテの「人間は努力する限り迷うものだ」。
千葉聡の「歌うカタツムリ」。身近な生物を手のひらの上に乗せながら、生物進化に関するダーウィン以降の研究の歴史が物語られており、科学読み物として非常に新鮮だった。
約40年間、弁護士の活動から培った経験や市民感覚を踏まえ、弁護士出身の裁判官であることの自覚と誇りを持って、正義と公平にかない、かつ、健全な社会常識にかなう法律の解釈・適用に努めていきたいと考えております。最高裁裁判官に就任して約1年3カ月経過しました。最終審としての判断の重さを更に自覚し、一つ一つの事件に謙虚に向き合い、よりよい判断・解決のため、誠実に職責を果たしていく覚悟です。
裁判所に対して、一つ一つの事件について、迅速かつ適正妥当な判断を期待していると思います。最高裁判所としては、主な事件の判決などについて、ホームページなどでも公表していますし、法廷の傍聴人の方々にも事件の争点など概要がわかるような工夫を積極的に進めています。
個別事件の判決の中で示した意見のとおりであり、これを離れてお答えするのは控えさせていただきます。
いずれの質問についても、憲法で定められている任命権者が判断する事柄ですので、お答えするのは控えさせていただきます。
憲法の改正は、国会の発議により国民投票を経て行われるもので、主権者としての国民が判断される事柄であり、各国民が真剣に考え議論すべきものと思います。
国家存立の基盤である国の安全保障政策については、各国民が自分の問題として真剣に考えるべき事柄であり、司法の立場にある者として、個人的意見は控えさせていただきます。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
裁判所は、どのような訴訟においても、法にのっとり公平かつ適正妥当な判断をしていかなければならないものと考えております。
裁判員制度はおおむね順調に運営されてきていると思いますが、問題点もご指摘のとおりあります。更なる審理の工夫や制度の広報に努める必要があると考えております。
誤判は絶対にあってはならないものです。刑事事件の事実認定においては、思い込みを排し、様々な視点から十分に証拠を吟味することが大事です。刑事司法に携わるすべての者が、誤判防止に向けて、それぞれの立場で誠実に職務を行わなければなりません。
死刑制度の存廃や終身刑の創設などは、最終的に国民の意見により決められるべき立法の課題であり、司法の立場からの意見は控えさせていただきます。とはいえ、死刑は究極の刑罰であり、その適用は極めて慎重に行われるべきものと考えております。
新制度は、捜査・公判が取り調べ及び供述調書に過度に依存している状況にあるとの指摘を受けて立法化されたものであり、これにより、刑事手続きにおける証拠収集方法の適正化及び多様化がされ、公判審理の更なる充実が期待されます。
具体的な政策についての発言は控えさせていただきますが、法科大学院で5年間教壇に立った者として、法曹養成の理想に向けて開校した有力な法科大学院で募集停止が相次ぐこととなり、残念でなりません。社会の様々な分野で法律家が活動することは、法の支配する公正な社会を実現するために必要であり、大変意味のあることだと思います。わが国社会の今後の発展を支える有為な人材として質の高い法律家をいかに計画的に養成するかという観点で検討されることを望みます。
国際取引事件、家事渉外事件をはじめとする国際的紛争事件に十分対応できるよう、裁判所における人材の育成が求められるものと考えております。
裁判手続きのIT化のあり方としては、裁判手続きの利用者の利便性の向上だけでなく、本人訴訟への対応を含む関係者の手続き保障、情報セキュリティー、事務の合理化を含めた費用対効果などの諸般の事情に配慮しつつ、裁判手続きにとって真に望ましい姿を探る必要があります。
趣味は、歌舞伎鑑賞です。尊敬する人物は自分を育ててくれた両親で、感謝と尊敬をしています。好きな言葉には「道を伝えて、己を伝えず」という言葉があります。日本の幕末から明治にかけての動乱期に、キリスト教の伝道を行った宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズの生き方を表現した言葉です。私はキリスト教の信徒ではありませんが、ウィリアムズは、幾多の困難に全身全霊で立ち向かいながら人々の心を一つにまとめ、教会や学校・病院を造り、社会や世界を動かしました。そのような信仰の姿こそが、「『道を伝え』ることではないか」と思われます。そして「己を伝えず」。真の意味はいまだ計り知れないものの、「自分の考えを相手に独善的に押しつけようとしない」とか、「自分の名誉や欲望のためにけっして人を利用しない」と解釈されています。事実、ウィリアムズは一介の宣教師に過ぎない自分の名が記憶されることを徹底して拒み、日記や手紙の多くを燃やしまでしたとも言われています。
https://togetter.com/li/1093213
なにやらはてなブックマークがあるツイートで盛り上がっていた。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/CatNewsAgency/status/843667650999799808
https://twitter.com/CatNewsAgency/status/843667650999799808
まとめはそれを元にしたまとめ(なんだろう)が、なんとなく観点がずれてる気がしたので、長文だが意見を書かせていただきたい。
100文字では書けん。
「歴史学は歴史学者の独占物なのか?」という「問い」に対しては「独占するべきではない」と思う。
そして、教授陣とはまた違った「在野で歴史を考える者」の意見も、また参考にされるべきなのだ。
まあ、教授が左翼云々は偏りだというまとめでの指摘も最もだけど。
「科学」が「市民感覚」でないがしろにされて良いのだろうか。それは豊洲の件で大いに問題になったはずだ。
豊洲は科学的に安全なのに、「安心」できないから駄目などと言われている。
まとめを読んで、豊洲の例を惹かれて説明されている、このあたりが自分としては特に心配に思った。
「エリート独裁」的なことが行われてしまえば、それはそれで問題である。
まとめ文中では軍事を例にして、専門家だけで暴走することの危険性が語られているが、これはある程度当たっていると思う。
この国は、関東軍の暴走という自称から戦争が始まってしまった国なのだ。それは反省し、今後戦争をおこさないようにすべきだ。
でもその例で言えば、軍人が絶対に無理という作戦を政治家が指示してしまった場合はどうなるのだろう、とも思った。
戦前の反省を元とした言説にこのようなことを突っ込むと、特にリベラルなはてなーには、やれ軍国主義だのなんだの言われるのかもしれないが
現実問題政治家が専門外のことをそこまで指揮を取れるのか。それは歴史学にだって言えると思う。
そこで思ったのは、「様々な説を検討する段階をオープンにすること」そしてそれによって「バランスを取る」ことである。
結局、学者の独占も、過度の政治の介入も両方よろしくないのだ。今回の件は、ある一つの説を押し通そうとしてしまったというところに問題があるようにも思える。
所謂主流の説、「権力を持った学者」の説を押し通すのではなく、オープンにしていく。それが必要なのではないのかと思った。
そして、教科書に関しては、複数の説の併記も必要なのではないか。
東大と京大で学派が違い、入試問題で採用する説も微妙に違うということも起きているが、
ポケモンGOを操作中の交通事故で、不幸にも子供を亡くした親御さんが「車で操作できぬように」という発言をし
私自身、ポケモンGOは関係なく運転手が悪いと思うが、もし自分が子供を亡くした親だとすると
気が動転していてこういったことを言ってしまってもおかしくないだろうと感じる。
大勢の児童と教師が亡くなった石巻市立大川小学校の裁判では、地裁判決後遺族が「学校・先生を断罪!」という横断幕をかかげ
子を亡くしたときに、理性的な行動を取るというのは無理があるだろう。
司法改革の一環として、被害者参加制度や裁判員制度などが取り入れられているが、この流れが進めば遺族の声をより直接的に判決に取り入れることになりかねない。
もし、死亡事故の遺族が望んだ判決が出るのなら、死刑数は飛躍的に増えてしまうだろう。
東京五輪エンブレムの使用中止に、ネット炎上の影響が「無かった」とは言えないと思う。
もちろんこの「思う」は、関係者に取材をあてて話を聞いたわけではないし、感想レベルだ。
でも、まあそうかな。そうだろう?当たり前だろ!というネットの個々人の反応は予想がつく。
何の証明も無く、何の責任も負わず、ただの「感情」のうねりが、エンブレムを使用中止に追いやったのじゃなかろうか。
そうした“リアルの与論”に近い性質を帯びるようになった“ネット世論”が、警察や裁判所や第三者機関を介するでもなく、リツイートやシェアやまとめサイトを経由して増幅し、テレビや週刊誌を先回りするかたちで問題を暴き、批判し、蹂躙していく――その風景が、私にはとても恐ろしく感じられた。
(与論はたぶん世論の誤字なんだろうけど、何箇所も有るし俺の知らない用法なのか……?まあ良いや)
シロクマセンセイの「メシウマしたい個人が大挙して押し寄せて、それが世論になるの怖え」というのは、感覚として判る。
ただ、ネット→マスコミ→世論、という、ワイドショーロンダリングによるお茶の間意思形成に一役買ったのじゃないかとは、思う。
その意味で、ギリギリ一歩踏みとどまって、既存のメディアスクラムというか、メディアリンチまでで済んでいる。
勿論この社会的制裁ってやつだってどうかとは思うが、「捏造確定」のような報道は、少なくともしていない。
まあ老獪とか言うのかもしれないが、流石に法務があるようなところで、無茶はしなかろう。
例えば、シロクマセンセイへのブコメにこんなものがあって、スターを集めてる。
augsUK 盗用や捏造の指摘を「叩き」と言ったり「暗い情念」と表現するのは、単純にその人の倫理観がねじ曲がってんのかなとは思う。そもそも「ネット」が一つの人格で動いているような表現がとても気持ち悪いけど。
ブコメ中で「盗用や捏造」と言っているが、何のことだろうか。立証されただろうか。それasgsUKさん個人が、責任取れるだろうか?
捏造していないと裁判の末に証明されて、名誉棄損で訴えられて、30万くらい払う覚悟でブコメ、してないよね?(してたらゴメンネ)
法治国家における倫理観としては、「疑わしきは罰せず」で、容疑者を犯罪者として扱わないことなのかな、と思う。
で、たぶんこの流れを読んでギョッとしたんじゃないかな。
え、いきなり個別のブコメを取り上げてナンカ言うのかよ、みたいな。
そう思ったのであれば、それは「「ネット」が一つの人格で動いている」となんとなく思っているからだ。多分そうだと思う。
当然、それぞれのネット上の発言は、それぞれ別の人格で、それぞれ別々に各発言に意思と責任があるんだけど、そう思ってないんじゃないかな。
だから、言葉が「軽い」し、覚悟がない。まあそんなもんだとは思うけど。
例えば、ザハ・ハディドの個人攻撃あったよね、ちょっと後味悪かったよね、みたいな記事に、こんなブコメがあってスターを集めてる。
Matsuriame そうかなぁ。競技場に関しては「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし、「ザハのせい」にしたがって、建築家だけに責任を押し付けて降ろしたのはむしろ発注者の人達だったけど。
まあ、「そうかなぁ」って書いときゃ免責みたいな空気感、あるよね?
xevra ザハの物を本当に作ろうとするのはクレイジー。ザハは模型を見て楽しむ物であって実際に作ろうとしちゃダメだ。デザインは素晴らしいからコンペは通過しちゃうが実現性無視してるから到底作れない。
はてブで1000超えってワリと珍しいんだけど、xevraさんの他にも「金かかるのデザイナー(ザハ)のせいなのね」というブコメの大合唱ですね。
他にも記録はイッパイあるけど、Matsuriameさんは、ググったり、ブコメを振り返ったりしない人なのかもしれない。(スターつけてるヒトもね)
そういう自分の発言がホントかどうかの責任を意識しないし、取るつもりもないのは、まあ放言じゃないかなぁ。(無責任話法)
勿論ここでは、「そうかなぁ」って書いてて、強く「いや違う!」とはコメントしてない。
感想だし違ってたらゴメーンネってすれば、別に良いじゃんブコメだし、みたいな空気感、あるよね?
「「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし」って、嘘ついても、いや嘘じゃないよ感想だしそういう言い方はヒドイ、とか思うのではないかな。
見境なく社会的制裁を振るう現状は、褒められたものではない。昔だったら居酒屋談義で終わってしまったはずのネガティブな情緒が、インターネットを介してこんなに繋がり、こんなに盛り上がり、こんな風に“世論”に直結して構わないものだろうか?
「構わないものだろうか?」というか、法治国家ならシステム外のプロセスも経ていない圧力でひっくり返るのはマズイと思うよ。
とはいえ、感情や情緒は大切にしましょうというのは、日本のシステムにはプロセス中に組み込まれているし、拡大傾向にある。
amakanata 今回のシロクマさんの見方はちょっと違うんじゃないかなぁ。世界的な賞を許可を得ずに素材を使ったデザインでごまかし続けた人間の作ったものを神輿にしたくない、という庶民の感情の健全な発露でしょ。
「ごまかし続けた人間の作ったものを神輿にしたくない」という「ネガティブな情緒」で、「庶民の感情の健全な発露」として「“世論”に直結」。
シロクマセンセイの見立てとそう言ってること違うようには思わないけども、amakanataさんの感覚は、ざっと見ブコメの5割くらいの感覚には近いように思う。
(本人の属性で作品の価値が上下するのは日本では良くある話だし、事業に関わる人の身ぎれいさを要求するのは日本だけじゃないしね)
amakanataさんは「ごまかし続けた」という具体例とかそれが真実ごまかしたのかを立証する責任があるとは思ってないだろうし、まあ実質ないんじゃないかな。
ちょっとブコメするのと同じ気軽さで簡単クリックで1万人自動訴訟できる世の中になったら、またちょっと違うんだろうけど、その非対称性の話はまた別の機会に。
ただ、「ホントだったらヒドイ(=嘘でも責任は俺にはない)」みたいなデマ一直線の発言も、居酒屋談義や床屋政談ならアリだと思うし、そこを気にするのは健全ではない気もする。
監視社会じゃねえのにそんな発言まで責任持ってしなきゃいけねえの?みたいな。いやほんとは責任もってしなきゃいけないんだけど。
信頼出来ない上司の業務命令には疑いの目を向ける、ではないけれども、本質的なところに不信感があるのではないか。
つまり、知性主義というエリートのやることに、なんか違うのではないか、どうも信頼出来ない信用出来ないとの思いがあるのではないか。
それが、判りやすい形で出た今回のエンブレム炎上騒ぎで、「普通の市民の道徳的な感覚として、まっとうな結果」と思う人が多いのであれば、
それは「メシウマ」が(ホフスタッターの言う本来の意味での)「反知性主義」として機能し始めたということなんじゃないかな、と思う。
エリートの言うことは信頼出来ないから、市民団体が監視をします、では無く。
一人ひとりの小さな放言や、調査結果や、情緒からくる感覚や感想が、まとめサイトに束ねられてマスコミがすくい上げて拡大する。
そこには警察の捜査も、弁護士や検察官の立証も無く、過去の蓄積からの裁判所の判断もなく、法律もルールも無縁の所で、
そうだろう、そうに違いない、絶対そうだという、責任のない感情的な判断が積み重なることで、「事実」になる。
それはある人から見れば「暗い情念」だし、ある人にすれば「常識的な市民感覚」だろう。
動機が行為を正当化するとも免責するとも思わないけど、そういうものかもしれない。
クリックで参加できる人民裁判だし、結果死人も結構出てるけど、改まらないしね。
(この増田も、5人から訴えられる可能性あるしなあ。たぶんダイジョブだと思うけど。裁判面倒だよなあ)
「反知性主義」判り難いという指摘を直接受けてまあそうかなとおもったので追記。
「知性主義」は、「専門家主義」と置き換えてもらうのが、一番ホフスタッターのニュアンス近いと思う。
「反知性主義」は、「反専門家主義」となって、つまり「専門家の判断ではなく、むしろ専門家ではなく専門的な知識がないからこそ、正しい判断が下せる」という主義とか態度のことね。
模倣の判断や、建築実現性、刑事民事の責任まで、デザイナーや建築士や弁護士でない、知識を持たないヒトが正しい判断をくだせていると考える(またそれを支持する人がいる)というのは反専門家主義(反知性主義)が受け入れられる土壌が育ってきているのではないか、という話。
専門家でない人達の声で(途中に週刊誌や新聞の専門部署を経ずに)、専門的な判断が覆る怖さについての話なのかなと思っている。
まあ、医療や災害に関しては、ネットでもまだ反専門家主義者が批判されるのを見ると、専門家たちが丁寧に説明することが重要なのかな、と思う。
(とはいえ、教育関係のひっくり返らなさを観ていると、今回の炎上は個別事案であって、脇が甘かったからこそってことなのかも知れないけど。ぬ、訴えられる可能性が上がった気がする。熱狂的な個人は手打ちが面倒だからボカスぞ)