はてなキーワード: 絵画とは
マスダに記録する。
韓国は、10才から18才までとにかく大学受験の試験勉強のマラソンが始まる。
この4年間でとにかく詰め込んで詰め込んで習い事させる。
そしてそれは、課外授業という形で学校の中で行われる。
これは社会人になってからもそうで、朝の出勤前に英会話スクールで
1時間の塾に通っている人も多いそうだ。
そして、できあがるのは、
頑丈で、早く、元気な人間。
相当な学力成績を残して帰ってくる。
之以外には無い。
ホワイトカラーとで、社会的立場が明らかに違うのもおもしろい。
興るようで、彼らはディスリスペクトされる。
情報処理をすることには長けていても
イノベーションを興したりすることは不向きだそうだ。
美しい髪をつくる美容師、さまざまな職種がリスペクトされている場合がある。
GPS(これは米国の技術)、翻訳機能、匠の技から生み出される工学機械は
両者では、労働の質が違うと言える。
いやこれはさすがに言い過ぎた。そういうわけでない。
正確に言うと、
粘り強さがなく諦めが早い弱点がある。
付加価値を創造するには、日本人的な面も必要であると言いたいのだ。
ハードワークに耐えうる体力を持つ。
ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。
定義が曖昧で、玉石混交で、定性的に評価されるもの全般のことね。
すると、自分の感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。
定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。
そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、
そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。
「無い」事の証明は難しい。
だから「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。
だから、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)
キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。
だから、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。
(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立)
ファンタジーやSF、ミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。
だから、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。
これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。
ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。
SF(science fiction)の90%は、ゴミでカスでクソだ。
同じ基準を使って、映画、文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。
だから、SFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。
だから、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。
ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習のさなか宇宙人が侵略してきて、自衛官と海兵隊員が反目しながらも撃退するという
まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。
素晴らしく面白い、愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。
何が言いたいかというと、批評家の評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。
ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。
さっき言ったように、「馬鹿」であることは、比較的独自の軸になる。
その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンルは馬鹿にされて当然」のような、
「ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。
これは、BLを趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマンが通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。
好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。
雑誌の表紙に水着の女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場で休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。
ワリと珍しいのだが、硬派なSFとライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。
アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。
(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)
両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。
ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、
この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味があるかないか、だ。
「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。
ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、
「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」
とは、ならないだろう。
だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。
「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」
なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。
アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、
一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?
俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、
そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。
例えば、今話題のピケティの「21世紀の資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。
現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。
というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。
どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。
例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。
アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。
というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。
そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成が稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。
ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ」全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。
9割のクズを観てそのジャンルを否定するのが愚かであることは映画や絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。
小松 美羽(こまつ みわ、1984年(昭和59年)11月29日)は、日本の版画家。アーティストとして風土に所属している。
長野県埴科郡坂城町出身。2004年(平成16年)に女子美術大学短期大学部を卒業した。
2009年(平成21年)に「美しすぎる銅版画家」としてメディアに取り上げられて注目を集めた。
小松美羽オフィシャルブログ「千年先のMIWACODE」Powered by Ameba
http://ameblo.jp/komakoma-blog/
画歴
●日本版画協会入選(東京都美術館) ●女子美優秀作品賞2度受賞(ガレリアニケ・大学校内) ●大学版画展(町田市立国際版画美術館) ●ROSES展(スパイラルガーデン) ●銅夢展(すどう美術館) ●絵と花のコラボ展覧会(神戸異人館・ライン館) ●阿久悠トリビュートアルバム「Bad Friends」(ポニーキャニオン)ジャケットと挿絵を担当 ●流通専門誌 「 Value creator 」表紙を担当(年間) ●阿久悠トリビュートアルバム「歌鬼3」ジャケット・挿絵担当 ●TSUTAYAオリジナル絵本・絵担当 ●ギャラリータグボート(絵画・版画取り扱)
週刊プレイボーイ 掲載12月15日 週刊SPA! インタビュー掲載
12月15日 CS275池袋ウェストフードパーク「MEGA美の泉」OA(26:30~)
12月16日 阿久悠氏トリビュートアルバム「Bad Friends」発売
12月16日 夕刊フジ 阿久悠氏トリビュートアルバム「Bad Friends」発売紹介記事掲載(小松がジャケットと挿絵を担当)
12月16日 CS275池袋ウェストフードパーク「MEGA美の泉」OA(18:30~)
3月29日 日本テレビ「DON!」美人スペシャリスト特集コーナーにてVTR&生出演
4月22日 au携帯ニュース情報サイト「ニュースEX」にて「美しすぎる文科系女子」特集に登場(1週間連続)
4月24日 J-WAVE「kiss and hug」内「WHAT'S YOUR JOB?」コーナーにてゲスト出演
5月30日 スポニチアネックスにて阿久悠トリビュート「歌鬼3」紹介記事掲載
7月14日 阿久悠トリビュート「歌鬼3」発売 ジャケット・挿絵担当
7月 女子美術大学オープンキャンパス・卒業生紹介タペストリー
8月 ソニー・エリクソンau公式サイト インタビュー記事掲載
9月6日 読売テレビ ズームインSUPER(関西ローカル部分)出演
9月14日 日本テレビ「oha4!NEWS LIVE」仕事人名鑑プロファイルコーナー出演
12月18日~26日 TOKYO CHARACTERS COLLECTION 2010 バイナルメーションbyディズニーストア ミッキー作品展示(青山スパイラルガーデン)
なんだかフランス大変みたいですね。
ただ、僕もしがない表現者の端くれとして
ちょっと書いておこうかなと思って
筆をとってみました。
あるものなんですよね。
お前の表現を受けて
傷つく人を想像できないのか?って
話はあるわけですが、表現者なんて言うのは
どうしょうもない業でして、
誰かが傷つくとかどうとかよりも、
根っこの部分はそんなに大差ないなと
で、翻ってシャルリーの人たちは
喜ばれて良い反応があることに取りつかれてたか、
したんだろうなと思うわけです。
無いわけですが、表現者というのは
常に誰かにぶっ殺されるみたいな覚悟が
実際、殺されなくても、
友達なんかほぼ全員いなくなったし、
じゃあ、まあそれで辞めるかって言われても
辞められないんですよね。
辞めさせたいならそれこそ、なにかしらの
更生施設みたいなの入らないと無理だろうし、
まあはてなもそうでしょうけど、簡単に
みんな、表現することは
刺されるリスクを負うことだよという
自覚がないんでしょうね。
まわりまわって刺される可能性が
ありますよってことです。
「絵画、記念物、機械、製作物などの文化的財の全体が、そして特に、生まれた家庭の環境を構成している全ての文化的財が、ただそこに存在するだけで教育的効果を及ぼすという事実」
質の良い文化的財は、ただそこにあるだけで「全般化されたアロー効果」(ブルデュー)を発揮する。「アロー効果」とは、アメリカの計量経済学者ケネス・ジョゼフ・アローの言葉で、ブルデューはこれを以下のように解釈している。
「絵画、記念物、機械、製作物などの文化的財の全体が、そして特に、生まれた家庭の環境を構成している全ての文化的財が、ただそこに存在するだけで教育的効果を及ぼすという事実」。
単に裕福な家庭の子が進学で有利というだけでなく、
文化資本(上品で正統とされる文化や教養や習慣等)の保有率が高い学生ほど高学歴であることを統計的に証明した。
またその子供も親の文化資本を相続し、同じく高学歴になることも統計的に証明した。
彼はこれを文化的再生産と呼んだ。特権的文化の世代間継承と、学校がそれに果たす役割を解明。
社会構造が再生産され変化するメカニズムについて考察し、現象学的主観主義を発展させることも目指した。
「客体化された資本」(家庭の中にある文化的なもの、本、楽器、美術・骨董品、蔵書等)、
「身体化された資本」(ハビトゥス;慣習行動を生み出す諸性向、「構え」「ふるまい」)
の3つの客体がある。
国家貴族になる学生は、実は統計学的に両親の学歴資本、文化資本、経済資本、社会関係資本が高いことが挙げられる。
4歳までに、専門職家庭の子どもなら自分に対して発せられた言葉を5000万語、聞く。労働者家庭の子どもは3000万語、福祉家庭の子どもは1200万語だった。
就業人口の4割近くを占めるはずの生産労働者は美術館の観客全体の4%でしかなかった
カラオケと飯を男女数人(男全員医者)で行ったが、モテるやつとモテない奴の差がなんとなく肌で感じ取れた。
KYとは違うが、ずれて盛り上げてるっていうか、出川っぽいっていう感じ。
確かに、出川がどうやって女にモテるんだって思う。モテるらしいが、モテル理屈が分からないし、俺が女ならNGな気もする。
俺とかモテナイ奴は、一人だけ爆笑したり、変に自分だけ乗ってる感じの話かただった。
普通に話しして、相手が反応する。
これは女子側の受け取りもあるが、男からのボールの投げ方もうまいのかもしれない。
俺とかモテナイやつも、10回話しすれば、3,4回はそういう受け答えがもらえるが、そのほかは独り言として流されるか変な応対に終始する。
デブっつーか。引き締まってないっていうか。BMIが大きく標準とずれてるっていうか。
いわゆるポチャデブはいないし、全員体はできてるガチムチなんだけど、たるんで見える感じ。
脱ぐと全員それなりなんだよ本当に。だけど、腹が出てるっていうか。
やっぱ、だらしない体型ってのはあると思う。モテルやつらは全員筋肉にカットができるっていうかな。
筋肉があるだけでは脂肪が乗ってたらちょっとよさが分からない。
あと、服装だけど、モテる奴は、秋コーデっていうかな。革ジャンだの、帽子だの、マフラーだのブランドだのを2,3個はつけていた。
決して高くないとは思うんだけど、それも全部あわせてるわけではないけど。なんか突っ込まれても大丈夫な感じ。
俺とかモテナイ奴は、ジャージ、ユニクロ、しまむら。当然ヒゲもそらない。
まあ、そういう見た目が分からないってのがアスペっぽい感じに拍車かけてるんだろうと思う。
でも、マジで、子供のころから絵画のセンスゼロなんだなwクラス最下位。そんで、字もクッソ汚い。かけりゃーいいだろっていう字を書くんだな俺らは。ひらがなでも意味さえ通じれば漢字いらんだろ、みたいな。
④自分で完結して話してる
会話でコミュニケーション取ろうとするんだけど、自分の頭の中で話ししながら完結してるんだな、モテない奴は。相手の反応が予定調和で持ってこれるようにある程度成型して話しないとむちゃくちゃな話になって100%失敗するんだけど、そうなると相手の反応も決まっちゃうから、先に笑ってるみたいな。
でも、確かに話聞いてるとIQ高そうな発言なんだな。よー頭回るわっていうか。
逆にモテる奴は、相手にかなりゆだねてるっていうか。相手がどう反応するか分からないことをやってる。現実を生きてるっていうか、人格の30%くらいを相手に譲ってるっていうか。なんつーか、相手と自分での共通点を作ってるって感じ。コンビニでなく、一緒に料理してるみたいな。
モテない奴は全部自分で作っちゃうんだよなあ。俺もそうなんだけど。ある程度分岐を確認してからエロゲーの選択肢を選ぶみたいに会話を進めてるっていうか。モテる奴は、MMORPGっていう感じっつーかな。
モテない奴はお互いに共通の山とかお城とか見て品評しあってる感じで。モテる奴は、お互いを向いてお互いに興味持ってる関係を選べてるっていうか。
自信がないから、「俺らに興味もたれてもクソほども楽しいことないでっせ~」っていうのが自分で分かるから最初から自分への興味をもたれることや自己アピールを排除しちゃってるっていうか。
⑤リアルでの付き合いはできるけど、SNSとかラインとかの付き合いは薄い
なんつーかなあ、自分のプライベートは自分だけで完結させてるみたいな。
よくよく考えればそういうのでちょっと頑張るだけで苦痛なリアル生活がよくなるなら、やっとけってなるんだけどさ。
なーんか、仲がいいどうしでないと楽しめないんだな、モテナイ奴は。
⑥ここまで一貫してる
①~⑤までいろいろ書いたけど、これ全部の根元がなんか一つ何かで一致してる感じを感じた。
ナルシストと違うけど、やっぱいわゆるアスペっていうか、発達っていうか。それはもう性格レベルかー?っていうの感じる。
どうやったら身奇麗にできるか?ってのが、なかなか分からない。何をするかを具体的に言われないと分からない。
なんとなくできてるっていう状態がまったく理解できない感じ。
漫画の絵の動きについて、いろいろ話が絡み合って切り分けができていないと感じたので、趣味でイラスト描くくらいの素人ですが書きます。長いです。
漫画において「動いてるものを描ける」ことと、漫画としてそれが「動いて見える」かは別物です。
安彦氏に関する話ではそこがごっちゃになっていると思います。
「Cコート」は読んだことないですが、この画像の右ページについて。
ページを開いて右上からデカイ男の身体に沿うように目が行って、ドドドの効果音と脚に視線が流された瞬間に次のコマのテニスラケットに目が行きます。視線誘導で読者の視線を巧みに操る中で大胆にアクションを展開させ重量感とスピード両方を表現してます。
この絵に対しても動いていないと感じる人もいるでしょうが、普通の認識で言えばとても躍動感がある画面で、多くの人が動いていると認識するに足る画像と思ったのですが、いかがでしょうか。この画像は動いて見えてもほかの絵では動いて見えない、という場合、それは作者の意図なのでまた別の話だと思います。
とりあえずこの画像だけで安彦氏は動いて見える絵を描ける、と言い切ります。
氏は絵が上手いしアニメーターなので「動いてるものを描ける」のは当然です。それだけではあれなので、もう少し詳しく書きます。
某ブログにも出てきた「リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座」では動きは4サイクルエンジンに例えられ、それぞれ「吸入」「圧縮」「爆発」「排気」と分解されています。
アニメーターである著者の西澤晋氏は絵に躍動感を与えるには「吸入」「排気」が大切で、安彦氏はそれを描けると書いています。
これは主観でもなんでもなく、ただその絵が描かれているか、の事実でしかないので、この判断を保留する人がいるのが謎です。上の画像で言えば左ページの飛び込んでる女の子は「排気」です。他にも、氏の漫画をパラパラめくると「圧縮」「爆発」のようなはっきりしたポーズではない動きがたくさん描かれていると思います。簡単に言うとそれらが「吸入」「排気」です。
アクションのメインである「圧縮」「爆発」は描きやすいのですが、それだけが描かれた漫画に人はあまり躍動感を感じません。「圧縮」「爆発」は止まっているポーズにも見えるので、(実際静止した状態でそれらのポーズをとることができるものも多い)それらを羅列しても、止め絵の連続にしか見えないのです。ちょっと失礼な例の出し方ですが、池上遼太郎氏などはこの典型です。
人間は描かれた絵の前後の動きを勝手に想像します。様になりやすい「圧縮」「爆発」を描くより、動きの予兆を感じさせる「吸入」の方が、見る人の想像力が刺激され絵に生命力を感じます。ギリシャ彫刻などいい例ですが、あれらは「歩き出す手前」「腕を上げる手前」などの一瞬をかたどっているため、彫像を見る人はそこに見えざる動きを感じ取り「まるで生きているよう」と評します。(絵画などで寝そべっているポーズでも、呼吸やかすかな動きのタイミングを切り取って生命感を与えています)
ちなみに動きの直前を描くと生命感が宿る、というのは上記のように絵を描く上や生命を表現する上での基本中の基本です。ただ、デフォルメされた漫画絵で微々たる動きの呼吸の「吸入」「排気」を表現するのは難しいので、もっぱら大きなアクションで使用することがメインになります。(「吸入」「排気」と呼べるかは判りませんが安彦氏は叫んだり、大きく息を呑む動きの絵に特徴があったります)
http://www.suruga-ya.jp/database/pics/game/185021560.jpg
漫画ではありませんが、この絵なんかも人物の呼吸が伝わるすばらしい絵だと思います。
じゃあみんな「吸入」「排気」を描けばいいじゃん、と思うかもしれませんが、それが難しいのです。そもそも絵を描く人間としては、やはり人物に「圧縮」「爆発」のようなポーズを決めさせたくなるものです。それが、中途半端な動きである「吸入」「排気」の絵を描くと、残尿感のようなものを覚えてしまうのです。
また、漫画内であるひとつのアクションをする人物を描くにしても、人間には間接が無数にあり、それらが常にひとつの動作を指向しているわけではないのです。
バットでボールを打つ動きにしても、腕はバットを振っていてもボールが当たれば指はバットを放さなければいけないし、踏ん張っていた足も次は走り出さなければいけません。本当はもっと細かいのですが、それらひとつひとつの「吸入」~「排気」の要素が複雑に絡み合っているのが、一つの「動き」なのです。漫画のコマ内には流れる時間が存在し、決して一瞬を切り取ったものではないので、時間軸が同一コマ内でも違っていることがたくさんあります。そこに上記の要素も加わるのです。
いちいちこれらのことを考えていては、連載のスピードで漫画をかくことができないのでどうしても類型的な絵になります。そうなると、「吸入」「排気」の絵を描いていても、どこかでポーズをとっているような硬い絵になってしまうのです。このような中で自然に「吸入」「排気」の絵を描ける、というのはすごいことなのです。
(いしかわじゅん氏がどういった意図で発言をしたのかわかりませんが)上記のように安彦氏は動きのある絵を描けます。(多くの人が動いている、と認識できる絵を描いていると個人的には思います)しかしそれでも「安彦氏のこの絵は動いていない」「ほかのこの漫画より動いていない」など思う人があったら、それは意図的にそう描いているのですから、安彦氏がなぜそのように描いたのか考えてみるのがいいのではないでしょうか。というか、僕には動いてるようにしか見えないので、どう動いて見えないかを増田あたりに書いていただけると助かります。(これすごく大変だと思いますが。。)よろしくお願いします。
そういや大友克洋美少女描けない問題のことも思い出したんですが、なんであんなに絵が上手い人が美少女程度を「描けない」と思う人がいるのかが判りません。結局、みんな自分が好きな絵が上手い絵、嫌いな絵が下手な絵って認識なんでしょうか。これ、自分もやってしまう間違いなんですが、好悪と上手い下手は別です。自分にはそれがわかるなんて思わないことが大事なんだなと最近思います。勉強が大事です。
長々ありがとうございました。本当は、漫画の絵が動いているとはどういうことかを視線誘導メインで書こうと思っていたのですが、思ったより長くなってしまったので別の機会に書きたいと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20141102082350
安彦氏は動いて見える漫画を描けるか、ということを証明するために貼ったリンクなので、とりあえず右ページが動いて見えるならよしと思って貼りました。左ページについて言えば確かにスローに見えますが、写っている右ページの下段にもコマが見えますし見開きのノドも完全には見えてないので、個人的にはここらへんで左ページにつながる何らかの描写があるのではと勝手に考えていました。
ぼちぼち来春の就業を控えている学生さん達が、社会人装備を揃える時期に近づいているし、
クリスマスだの年末年始の実家だのでもプレゼントで貰ったりするかもしれないので、
リア充爆発しろ。じゃなかった、装備品でも特に高めの腕時計についてちょっと言っとこう。
高いから良いものではないし、その装備品はオプションだよ、という点についてね。
まず、「これは高かった」という話が下品だっていう感覚は、持っておこう。
次に「高いから良いものだ」という発想は、骨董品でダマされる爺さんと同じだと言うのも基礎になる。
tpro business
腕時計はもはや実用品ではない。宝飾品は値札に価値があるのであって、安くしたらダメ。
qESstTkj
機械式腕時計なんてもんはもはや高いから意味があるもんであって、安くなったからといって需要が増えるとは思えんねえ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/ascii.jp/elem/000/000/939/939920/
この手の「宝飾品は値札に価値がある」という価値観は、セールストークであって「売る側の都合」というのは抑えておこう。
例えば、ダイヤモンド。
3.0カラットのカラーがHで、VS2クラリティとなると、おおよそ200万程度の価値がある。
これが、4.0カラットになると、400万ぐらいだ。
(VS2は、一般人がお目にかかれる最高レベル程度。I3なんかだと4.0ctでも150万くらいだったりする)
つまるところ、金の延べ棒なんかと同じでインフレ・デフレと無関係な、一定の価値を持つ資産としての意味合いだ。
突如政変が起こりました中央銀行の都合でインフレします、みたいなのに影響を受けないための、防衛的な意味合いの資産。
一般人にはあまり関係がないが、客観的な価値は知っておいても良いかもしれない。
有名なところで言えば、シータが身に付けていた飛行石のペンダントだろう。
魔除けであり、王家の証としても意味を持っている。(劇中ではもっと他の価値があるけど)
例えば軍人は略章・略綬として、「勲章を持っている」事を示す小さなリボンをつける習慣がある。
大抵の軍隊では左胸に付けているが、これには金銭的な価値は無いしファッションでもない。
アメリカにおけるパープルハート章の様に、その授与歴は名誉を示すものだ。
まあ、十字架のネックレスやミサンガ等なら、馴染みもあるだろう。
簪や櫛、カフリンクスからネクタイピン、メガネマフラーベルトに手袋と、
そのカテゴリーとして宝飾品がある。
これは権威を示すのでも魔除けでもなく、センスを示したり何かを表現する為に身につける。
腕時計がもはや実用品ではない、というのは一定の説得力がある。
まあ、メッカの方角を示すクォーツ時計なんていうヒットした実用品もあるし、
スポーツウォッチなんかの実用品として使われている分野もあるけど、
腕時計というのは、宝飾品として位置づけられていると言って良い。
では、先の3分類のうち、どれだろうか?
現代の一般的な日本人は、ファッションアイテムか、権威の誇示のどちらかだろう。
(私は魔除けとして水晶の腕時計を身に付けている!と言う人は少数派だろう)
ここに不幸な逆転があって、特に日本の男性社会人にとって、権威を価格に求めることがある。
腕時計には宝飾品としてではなく、芸術作品としての側面もある。
美しい機構があり、それを組み立てる職人が居て、その作品性を買う、というパトロンがいる。
これは、布に塗料を塗りたくった「絵画」に価値を見出す人間がいるのと同じだ。
みんな大好き『なんでも鑑定団』の中島誠之助さんは、値段が低かった壷や皿に対しても、大事にしてねと言う事がある。
粗悪なコピーや露骨な偽物には嫌な顔をするが、数が多い人気がない市場で売れないものに対しては愛を持って接する。
これは、「良いもの」と「市場価値があるもの」とに差があることが解っているからだ。
同じように、本来「良い腕時計」と「高価な腕時計」とは、独立の概念のハズなのだ。
ファッションアイテムとして、スーツに似合うベルトや盤面を選び、他の装身具(カフリンクスやネクタイピン)との調和が大切であって、
品質が良く手入れが頼みやすく、好みの形があるからという理由で「結果的に」高価であることがある、というだけのハズなのだ。
湿度が高く夏暑いから皮ベルトでなくメタルにしようと考えた時点で、それは実用品なのだ。
同じように「社会人なら10万円以上の腕時計は付けないと」みたいなバブルを引きずる親父の意見は無視して良い。
さっき、ファッションアイテムとして選ぶと結果的に高くなるという話をしたが、実はファッションは外見なので、クォーツで良い。
なぜ「機械式」なのかという理由は、それが「嗜好品」だからだ。
チチチと着実に動き、秒針がスムーズに流れ、週に数分ズレたとしても、その歯車の塊を腕につけることが楽しい。
冠婚葬祭と接待の時に、古い知り合いからもらった昔のオメガを付けることがあるが、やはり場にすんなりと馴染む。
油を挿そうが調整しようが日に3分はズレる時計だし、中古でも大した値段じゃないが、自己満足できる。
その意味で、実用的な品質で、つけていて楽しくなるような機械式腕時計が手頃な価格で手に入るのであれば、それは喜ばしいことだ。
「MENSA(メンサ)とは、1946年にイギリスで創設された、全人口の内上位2%のIQ(知能指数)の持ち主であれば、誰でも入れる国際グループです。 」
とある。
そして、MENSAは自分たちの団体のことを「高知能団体」と呼んでいる。全人口内の上位2%とは、IQにして148(標準偏差σを24とする)となるので、これはかなりの高知能ということになるだろう。単純に考えると50人に一人程度存在するということであるから、その希少さはかなりのものだ。そして、日本で有名なMENSAとは正式には「JAPAN MENSA」というものらしく、これはMENSAの日本支部であるという。(以後のMENSAという記述はJAPAN MENSAを示すものとする)
MENSAについては私も昔から知っていて、「へぇ、そのような団体があるのか」と興味は持っていた。
ところが、先日大学の友人がMENSAの入会テストを受けてきた所、どうやらこの試験というものは所謂「IQ(全知能)」を測るテストとは少し違うものらしい。このような入会テストを行っている団体が「高知能団体」として世間に認知されていくのは良いことなのだろうか、少し疑問に思った。
そこで、一応大学で医学を専攻した身として、MENSAに対して一言述べておこうと思いこのブログを書くことにした。
MENSAの知能測定方法が「全く無意味」というわけではない。知能の限られた部分しか測定していないということである。そして、それこそが一番の問題なのだ。
医学的に知能指数を測る方法は何種類か有る。(知能指数 - Wikipedia)
かなり初期のものとしてはビネー式知能指数テスト。こちらは「子供向けの知能指数テストであり、大人には有効ではない」ということが明らかになっている。そこで、登場したのが「WAIS」と呼ばれる知能指数テスト。現在、大人が医療機関で知能指数テストを受ける場合には、大抵「WAIS」を受けることになる。(田中ビネー式については割愛)
ところで、MENSAの公式ホームページには「入会テストの受験は15歳以上に限る」と記されている。つまり、子供向けではなく、大人を対象にしたテストであるということだ。
そこで、医療機関で実施されている大人向けの知能テスト「WAIS」について少し詳しく見ていこう。
WAISは現在、14の下位検査から成り立っている。(ウェクスラー成人知能検査 - Wikipedia)
- 知識:文化によって獲得した一般知識の程度。(例「ビクトリアの長は誰ですか?」)
- 理解:抽象的な社会慣習、規則、経験を扱う能力。(例「一石二鳥という諺はどのような意味ですか?」)
- 算数:数学問題を暗算する集中力。(例「1ドルで45セント切手を何枚買えますか?」)
- 類似:抽象言語理解。(例「りんごと梨はどのようなところが似ていますか?」)
- 単語:学習や理解の程度、および語彙の言語表現力。(例「ギターとは何ですか?」)
- 数唱:注意・集中。(順唱例「1-2-3」、逆唱例「3-2-1」)
- 語音整列: 注意と作動記憶。
動作性検査
そして、これらの知能検査から各々の「知能指数」を算出。それらを総合して全知能(合成得点による全検査IQ)を算出することとなる。
ところで、なぜこのような成人向けの知能指数テストが行われるのだろうか。WAISのスコアから何が分かるのだろうか。
実は、WAISのスコアは高ければ良いというものではない。それぞれの分野のスコアがある一定の範囲内(15以内)に収まっていることが重要なのである。そして、これの範囲を超えてしまうと、発達障害との診断が下る可能性が高くなる。医師はそれを一つの目安として発達障害の診断を下すことになっているからだ。
つまり、部分的に隔たった知能は「発達障害」である可能性を示唆することとなるということだ。
さて、MENSAに話を戻そう。
実は、これはWAISで言うところの「行列推理」だけを問うものなのである。
すなわち、MENSAの試験においてスコアが高いということは、WAISで言うところの「行列推理のスコアが高い」ということのみを指し示す結果であり、(各能力の発達がある程度独立であることを考慮すれば)上述した「発達障害」である可能性も、一般の人よりも遥かに高いということである。
つまり、MENSAという団体には、世間よりも遥かに高確率で発達障害の人が存在していると考えられるだろう。
MENSAが高知能団体を自称するのであれば、最低でも言語性知能や他の動作性知能のテストを必須にしていただきたいものだ。
行列推理のスコアが高いだけで「高知脳団体」と言われても、それは詐称に他ならない。むしろ、行列推理だけのスコアが高いということは、高知能であるということを示すより、発達障害を示唆する可能性の方が高いとすら言えるだろう。
ASKAの詞の特徴の一つは、複雑な比喩を折り重ねていくことにある。そうした複雑な比喩の解読については、「On Your Mark」の楽曲分析で先日書いたところである(http://anond.hatelabo.jp/20140924014048)。
しかしながら、私はCHAGE&ASKAの熱烈なファンであるけれども、「比喩」の観点から歌詞を見ればASKAよりも巧者は他にもいると思っている。例えば、スピッツ。「ロビンソン」の印象派の絵画を思わせる複雑な比喩を見るとASKAに少々分が悪い。では人生の機敏という観点から見ればどうか? 私の考えでは、ASKAは中島みゆきに遠く及ばない。しかしそれゆえにASKAの歌詞は二流であるわけではない。
ASKAの詞はJ-POP史上稀に見る「音楽性」を持っている、というのが私の意見だ。「言葉が音楽性を持っている」とはどういうことか? 分かりやすい例として、まず"YAH YAH YAH"をとりあげて、それを説明したい。
「YAH YAH YAH」のサビは、ご存じのように、ひたすらYAH YAH YAHが繰り返されるだけである。しかし「YAH YAH YAH」という発音には極めて綿密で、天才的な直観があると私は考えている。仮に、YAH YAH YAHの部分を「ウ」でも「エ」でもよいが、別の母音に置き換えたものを想像してみると、「YAH YAH YAH」という曲そのものが成立しなくなることが了解されるだろう。YAH YAH YAHの発音の秘密はそれだけにとどまらない。その前の歌詞に注目する必要がある。
この部分を読むと、「イ」の発音が異様に多いことに気がつく。「イ」は、歯を食いしばって発声される。怒りを耐え忍ぶかのような身振りを発音が要求している。そして、サビに入る時に「ア」の開放的な音に切り替わる(殴りにいこう「か」)。サビの一個手前に、このような母音のドラマが隠されている。この「イ」と「ア」の動きをYAH YAH YAHというサビで何度も何度も再現するのである。なお、「今から一緒に」の前にある「勇気だ愛だと騒ぎ立てずに その気になればいい」では「イ」で終わっているので、まだ耐え忍ばなければならずYAH YAH YAHと叫ぶことができないように発声的にも規制されていることが分かる。こうして見てみると、一見単純に見えるYAH YAH YAHの歌詞には天才的な音楽的直観が働いていることが分かるだろう。
そうした作詞法はASKAの専売特許ではない。そうした作詞法を意識的に採用しているのは、ASKAも尊敬している井上陽水である。陽水は、「Tokyo」の冒頭部分「銀座へ鳩バスが走る」という歌詞の秘密を次のように語っている。
タモリ で、それを作りたいってことに、なんで銀座が浮かんできたわけ? しょっちゅう行ってるから?
陽水 いや、そういうことじゃなくてホラ…、東京でね、やっぱり一曲ね[作りたいと思ってたから]。で、「銀座へ~」っていうね、あのー、人によってね、いろいろ、発音でね、取り柄がある発音とあんま響かないのがある。「銀座へ~」っていうのが、この口にすごく合ってたの。「銀座へ~」、あ、響くなあ、って。
7:00-7:40頃 https://www.youtube.com/watch?v=szB9lhaX2XY
井上陽水の曲を聞いてみると、たしかに言葉の「音」に対する独特の"美意識"があることが分かる。これはこれで、余人には真似しがたい孤高の美をたたえている。「Tokyo」であれ「Make-up Shadow」であれ、言葉に対するきわめて繊細な美意識を私は感じる。
完全に余談だが、全世界的に流行した「Let It Go」の歌詞にも言葉の音に対するこだわりを強く感じるので紹介しておく。
My power flurries through the air into the ground
My soul is spiraling in frozen fractals all around
And one thought crystallizes like an icy blast
I'm never going back, the past is in the past
この部分は、一番の大サビに向かう、心躍る箇所だ。
歌い始めの「My power flurries through」の部分は、口をすぼめる内気な発音が多い。しかし、「the air」の所でやや反抗的な「エ」の発音がやってきて、「into the ground」で一回大きく開放的になるが、すぐに締められる。「My soul is spiraling in frozen」までは基本的にはやはり内気な発音が多い。「fractals」のところで「the air」とは別のしかたで(歌い方で)反抗的な様子を見せるが、これも「all around」の個所で一回開放的になるが閉じられる。こうした発音のドラマの最後に、「the past is in the past」の個所がやってくる。このようにして、まことに開放的で、ドラマチックな「ア」の発音がここに訪れるのである。
このように、言葉の音に対する意識は世界的に存在する。しかしながら、日本語は、世界の様々な言語と比べても「母音」の割合が非常に多いという特徴をもっている。日本のロックミュージシャンたちはこの母音に苦しめられてきたのだ、と言っても過言ではないだろう。そこで例えばサザンは子音に着目した。サザンは日本語における子音の可能性を大きく拡張したミュージシャンとして評価することができる。しかし、ASKAはあくまで「母音」の可能性にこだわったミュージシャンであると私は考えている。日本語の本来の特徴が「母音」にあるのだとしたら、その「母音」を徹底的に活用したのがASKAである。
こうやって私が言葉の音に対して敏感になったのは、チャゲアスの音楽を聴いてからだ。ASKAは、まず歌唱からして、母音を強調している。これは良くも悪くも「古さ」を感じる歌唱であろう。母音を強調する歌手として、例えば尾崎紀世彦や布施明を挙げることができる。彼らの歌唱には「昔ながらの情念」を感じる人が、とくに若い人になればなるほど多いのではないだろうか。一方、母音を強調しない歌手、小田和正の歌唱にはそうした「古さ」を感じることはないのではないか。母音は、本能的な部分に訴えかける、ほとんど呪術的と言える原始的な力をもっている。しかし、それを真に受け止めるためには現代人はいささかシャイなのだ、というのが私の持論だ。母音とは、一種の「ますらをぶり」である。ASKAは「ますらをぶり」のシンガーである。
私の見立てでは、ASKAが母音から歌詞を構成する方法を意識化したのは、だいたいシングル「WALK」以降である。「WALK」より前の曲には、母音に対する美意識を見出すことが難しかった。逆を言えば、WALK以降には母音に対する鋭敏な感覚をASKAの曲に感じる。国民的シンガーCHAGE&ASKAが出来上がったのは「SAY YES」であるが、「SAY YES」と同レベルの作品を量産できるようになったのはだいたいシングル「WALK」の時期からだ。一つ一つ楽曲分析をして証明をすることもできなくはないが、それをするとなると、ちょっと本格的にやらなくてはいけない。そこで、ASKAの曲の中でも、母音の使用がもっとも素晴らしいと思う楽曲を一つ見てみることにしよう。「はじまりはいつも雨」だ。
「はじまりはいつも雨」はASKAソロの曲だが、チャゲアスVer.も残されている。私の一番好きな音源である(https://www.youtube.com/watch?v=5mzj72QxrYo)。
「はじまりはいつも雨」は、メロディーと歌詞の二つが複雑なハーモニーを形成しており、決して不協和音をつくっていない。母音の使用法も極めて洗練されている。しかしながら、冒頭から母音の分析をはじめても感覚的に分かりづらいと思うので、もっとも分かりやすいところから見てみよう。それはサビの終わる所である。
失くした恋達の 足跡(あと)をつけて(二番)
まず気がつくのは、これら全ての終わりが「エ」で終わっているということである。仮にこれを「エ」以外の音だと考えてみよう。すると、この曲自体がぶち壊しになることが分かると思う。「ア」だと少々なさけない感じがするし、「イ」はやや幻想的になるかもしれないが悲痛な雰囲気も漂いそぐわず、「ウ」はそこで完結してしまい、「オ」では重すぎる。ここは「エ」でなければならない。暗い街中に消えていく複雑な余韻は、ここでは「エ」によってしかつくることができない(なお、似たような曲として井上陽水「帰れない二人」があることを指摘しておく。また、ASKAは「はじまりはいつも雨」を作る時にその曲を意識していると私は考えている)。
さて、この曲における母音でもっとも美しいと思うのはサビに入る前の「誰よりも 誰よりも」という箇所だ。J-POP広しといえども、このような「オ」の大胆な使い方をして、それが成功をおさめている例を私は他に知らない。この箇所は「ア」と「ウ」でも成り立たないことはない。しかし、「ア」だとあまりに開けっぴろげで楽観的すぎるし、「ウ」だと少しストーカーのようないやらしさを感じる。ここはやはり「オ」でなければならず、「オ」という少しくぐもった母音によっていささか内気な青年の、胸の奥底からやってくる高鳴る期待が的確に表現されていると私は考えている。言葉の「意味」ではなく「音」によってこんな複雑な操作をできるシンガーソングライターが今どこにいるだろうか? たいへん残念なことに私はASKA以外に知らない。
他にも「はじまりはいつも雨」には美しい母音が色々ある。例えば「今夜君のこと誘うから 空を見てた」の「と」の遠慮がちな「オ」とその後にメロディーとともに上を見た時にある開放の「ア」であったり(綺麗な夜空を見て嘆息つくような場景が思い浮かびます)。こういうことは言いすぎると野暮になることかもしれない。とりあえずは「はじまりはいつも雨」を聞いていただきたい。それから、「Say Yes」や「no no darlin'」などのチャゲアス名曲群から美しい母音たちを集めて、それぞれ言葉の音を解釈してみるのも一興だと思う。
こんな時間にこんなことを相談する友人もいないキモオタなので書きます。読み返してどんなJ-POPだよと思いましたが無視して投げます。
ゲームとかアニメとか漫画とか映画が好きな20代前半標準的キモオタピザニートの俺と、華やか系お嬢様女子大生の彼女の話。
彼女から(それとなく)告白されて、あらためて俺から告白して、去年の冬ごろから付き合いはじめた。知り合ったのはバイト先で。同じシフトになって、ときどき話すようになって、連絡先を交換して、それからくだらないことでもメールするようになって、週に一回くらい長電話をするようになったころに、俺のことを好きになったかもしれないということを言われて、6か月前にフラれた傷も癒えかけてたタイミングで、くらっとして、そのときに俺の淡い期待は、恋になったのだと思う。
付き合いたてのころはいろいろなところに行った。ネズミ王国うんちゃらとか、そういう定番中の定番も俺にとっては目新しかった。彼女のとなりで映画を観るだけでよかった。たとえ映画がつまらなくても、彼女の手がそこにあるだけでうれしかった。
でも、外食には金がかかる。映画を見るのにも、喫茶店に入るにもとにかく金が必要だ。俺はくだらないミスがもとでバイト先をやめてしまった。だから、週一回だったデートが、月一回になった。
ふたりとも実家暮らしで、どちらかの家で遊ぶこともできない。それができればいくらかはマシだっただろう。それとも車の免許と車を手に入れて、ドライブデートでもすればよかったのかもしれない。それともネットカフェのカップルシートに入っていちゃついてみたりすればよかったのか?
俺にはもうわからない。わかったのは、恋人との関係を維持するのには、世間で言われているよりもっと具体的な理由で金が必要だということだ。金がなくても愛があればなんてことはありえない。愛は金の代わりには使えないからだ。愛で高級ホテルのスイートに泊まれはしないし、夜景の見える豪華なディナーをごちそうできたりはしないんだ。
思い返せば酷いこともした。あの日の待ち合わせをすっぽかしたことは、謝っても謝りきれないほど後悔している。見に行きたいと言っていた絵画展は結局行けないまま終わってしまった。あの映画も観たいって言ってたのに。一緒に行こうねと言ったのに。
彼女はそれを許してくれたのだろうか。俺は彼女にちゃんと謝れたのか。それがわからないまま、夏になって彼女は忙しくなった。このふたつきほど、ほとんど会えていない。不安のなかで、電話口の彼女の声から、感情が冷めているのを感じる。
まだ別れると決まったわけではないのに、俺は、別れると決めてくれたらどんなに楽かなんて考えている。あなたの、あのときのあのことが許せなかった。そう告げて、去ってくれたら。
俺は、そう思ってしまうことが申し訳ない。彼女が、俺なんかの彼女でいてくれていること自体が、とてつもなく幸せなことなのに、そう思うのは間違っている。そんな葛藤に毎夜とらわれて眠れない。そうして俺もだんだん心が冷えていく。それが怖い。
会えないのは、彼女のせいじゃない。ふたりとも会いたいと思ってる。大丈夫、落ち着いたらまたもとどおりになる。
そんな人間が普通の受験についてどうこういうことは出来ないはずだけど、
音楽を習わせる様なバカは金持ちだけだかからそういう親に感化されて。
で、元増田は別に音楽で食ってるわけじゃなくてたまたま海外に行く仕事について典型的なカイガイガー、トシガーになったアホ、を演じてる屑だろ。
ピアノ、語学、右脳開発、水泳、絵画教室、舞踊、などなど、一人の子供が3つ以上の塾を掛け持ちしているのも珍しくない。まだ小学校前なのだけど。
周りは山あり川あり田んぼあり海ありの、自然環境に恵まれたエリアであった。
高校にあがり、私は音楽を志すようになり、その都市中心部にあった音楽教室へと通った。
そこの先生がことあることに「親御さんたちの教育への関心度が低い。高校3年からようやく進路を考え始めて、子供を通わせるとか。。」と、よく嘆いていた。
私もそのうちの一人であった。
今現在、私は海外のちょい大き目な都市で生活しており、子供が生まれた。
私の妻しかり、周囲も子供の教育には非常に熱心だ。 近所の人と会うと必ずといっていいほど、子供の習い事、子供の教育についての話で盛り上がる。
ピアノ、語学、右脳開発、水泳、絵画教室、舞踊、などなど、一人の子供が3つ以上の塾を掛け持ちしているのも珍しくない。まだ小学校前なのだけど。
私の親も含めて、周囲はやはり、私が学生だった20年ほど前と同様、子供の教育についてはほとんど関心を示すことはない。
「健康であればいいじゃないの」
「何もしなくたって、子供は育つし勉強もするようになる。勉強できないのはできないで道はある」
と、私の知り合いの旦那さんが言っていた。
今なら絵が一番簡単。
絵っつっても絵画とかみたいな高尚なのじゃなくて二次元萌えイラストのことね。
今の時代無料でソフトがいくらでも落ちてるし勉強になる講座やメイキング動画も掃いて捨てるほどある。
リアル中学生や高校生でも数ヶ月~数年でパッと見ラノベイラストっぽいものを描けるくらいまですぐ成長するんだから、
彼らより知性と判断力に秀で設備投資(ペンタブレットとか27型ディスプレイとか)出来る経済力もある大人ならすぐ量産型承認を得られるくらいの腕前にはなれる。
一回絵をやってみて自分には思わぬ才能が秘められていたと感じるなら、次のステップとして同人で小遣い稼ぎに挑戦してみるといい。
以上
アクセス数稼ぐのが狙いなんだろう。ノウハウが蓄積されているようで、うっかり開いてしまう。
1. ●●した結果www
たいてい当然の結果か、一般には当てはまらない特殊な事情が導く結果。
2. 今どき●●な奴www
何かを妄信的に薦めたい方々が頑張っている記事。
3. なぜ●●なのか?
きちんと理由を説明するか、せめて自説でも紹介すればいいのに、「なぜですか?」と聞くだけの記事がたまにあると、興味があればあるほどがっかりする。知恵袋で聞け。
どうせテレビやラジオの書き起こし。冗談なのか本心なのかは口調や表情、雰囲気、前後の文脈がないと分からない。
たいてい10分を1回だけではない。そして毎日10分に妥当な結果が得られればいいほう。1日1杯のコーヒーを我慢するだけで絵画が買えるかもしれないが、毎日コーヒー買って飲むわけではない。
wが3つ程度ならまあ、wインフレのご時世だからニヤリとできれば満足するのだが、wを5個以上つけるべきほど笑うことはまず無い。
7. ●●- 東スポWEB - 東京スポーツ新聞社 / ●●:朝日新聞デジタル / (虚構新聞)
冗談はたまにで充分。まして、生活に影響のある社会的政治的な情報には不要。
虚構新聞はタイトルでは見分けがつかないようになっているので(かっこ)をつけた。時間がない時はタイトルだけ流し読みすることがあるのに、そのタイトル自体が嘘だと害悪でしかない(他のはサイト名が書いてあるから、まだ良心的であるといえる)。
8. ●●について、そろそろひとこと言っておくか
最近はあまり見かけなくなった。要は旬を逃しただけで、たいしたことは書いていない。そもそも筆者がこの件について言及するのを待っていた人がいるのかどうか、甚だ疑問である。
タイトルからして既に後出しジャンケンであるが、中身を読むと勝ちでも負けでもない。あいこ。
事故のはずがない。生放送ならともかく収録番組でそのまま放送するわけがない。乳首すら映っていないのに何が放送事故か。がっかりだ。
無理に10個挙げてある感が拭えない。最初の3つくらいしか同意できない。
●●三傑とか四天王でも同じこと。語感のいい数の「タイトルありき」の記事だから、内容が追いつかない。
中学の時に作文が上手な女の子がいて、彼女の付けるタイトルは、意外性のある想像力を掻き立てられるものだった。
タイトルも素晴らしいが、本文はその何倍も読む価値のあるものだった。
俺たちが「修学旅行の思い出」「金閣寺を見て」なんて駄文を書いている中、「もみじ」というタイトルなんだよ。
読んでみると、いきなり帰りのバスから始まるの。で、リュックにもみじの葉が紛れ込んでいるのを見つけて、「どこのもみじだろう?」と思い返すのが本文。
「○○でリュックを開けたけどもみじはあったかな?帰ってから写真を見てみよう」「○○のもみじはキレイだった。あそこのだったらうれしい」とか。
結局どこのかは分からないんだけど、一緒に行ったから「あそこにもあったよね」と、話したくなるんだよ。
歌や絵画といった芸術だけじゃなく、プログラミングやその他自分発信で一から何かを作る仕事をしている人がうらやましい。
人から何か指示されて作ったものではなく、自分で創作したい常々思っている。
社内SE的な事をしているので、業務内容を聞き効率的な作業方法を作り上げる、といえば一から作り上げている行為なのかもしれないが何か違う。
結局は目先の作業効率を上げる為にやっているだけの行為で創作的な行為ではないと思う。
ほぼ定時で仕事は切り上げるので、自宅で創作活動を行えばいいのだがそれは出来ない。