はてなキーワード: 絵画とは
情報ソースを出すまでもなく、岡山県倉敷市で小5女児を誘拐監禁した容疑で男が捕まった。
http://news.livedoor.com/article/detail/9061769/
【倉敷行方不明】被害女児の母親と父親の正体が と ん で も な く ヤ バ イ !!! 2ch「母親のインタビュー動画見た人いる?一切出てこないってヘンじゃね?」
http://www.news-us.jp/article/402097986.html
とにかくアタマの悪い連中が好き勝手に書いたものがまとめられている。
少し引用する。
これで、母親を疑うなってのが無理がある
これ以外に考えるのはちょっと無理がある
かなり厳しいと思えるが・・・
ネトウヨの顕著な傾向だと思うのだが
結論を決めつけるという例がここでも見られる。
推測をするのがダメだと言っているのではない。
推測をするのは勝手だが、上記にみられるように
「これ以外に考えるのはちょっと無理がある」
元に使うべき言葉ではないと思う。
こういうのを感情的決め付けともいうらしい。
http://matome.naver.jp/odai/2139981440515380701
まぁ、嫌なら見なければいいという話なのだが...。
倉敷市女児不明事件、犯人と思われる人物のネット相談が怖すぎると話題に
http://www.kimasoku.com/archives/7773557.html
2ちゃんのVIPに「好きな人ができました」というスレを立てた人物が
魚拓にあるスレッドを読むところ、今回の容疑者像とかなり重なる部分はあるのだが
細かなデティールが違ってたりもするので無関係なのかも知れない。
(まだ断定はできないとは思うが)
スレが進むうちに「スレ主は本当に今回の事件の犯人ではないか!?」
その止めようと促す人間の中の、とある書き込みを読んで感動に近いものを覚えた。
141 2014/07/17(木) 17:09:31 ID:4WrJDn4LyQ
1さんへ
私は貴方の恋心を否定するつもりはありません。
この世界でいくらロリコンと卑下されようが異常者と蔑まれようが
古来より文学になり、芸術になり、多くの人間の共感を得てきました。
ですが何故多くの人々がそれらを文章や絵画等にする事へ没頭したのでしょうか。
健やかな魂は日、一日と世界のあらゆる事象を飲み込み、成長を続けます。
心も体も儚げな少女から大人へと変貌するのはあっという間です。
聡明な貴方はきっとそれにも気づいておられるのでしょう。
だからこそ今、この瞬間にでも変わりゆく前の彼女と接したいと思い悩んでおられるのでしょう。
貴方が接触しようとしている少女は貴方の恋焦がれる少女とはもはや別の存在なのです。
もし彼女との接触が成功したとしても、貴方はすぐに落胆する事になるでしょう。
日々少女から女へと変わり行く生身の人間の姿を貴方はきっと受け止めきれないでしょう。
そこには今より更に深い渇望と憤りが待っているだけです。
142 2014/07/17(木) 17:15:25 ID:4WrJDn4LyQ
続き
絵を描く事です。
多くの先人達がそうしてきたように、
あなたの少女を永遠に貴方だけのものにする為に、貴方は絵を描くのです。
貴方の求める少女は貴方の絵の中で永遠に純真無垢なまま生き続けます。
何度も言いますが、貴方の永遠の少女はこの世には存在しないのです。
努々そこを履き違えて誤った行動は起こさぬように。
目先の単純な刺激で多少満足したとしても、
そして現実が貴方を襲い、貴方の憎悪する曖昧で無知蒙昧な人間によって
貴方自身の何もかもが否定され、その崇高な想いですら曝され、辱めを受けるでしょう。
気が狂うくらいに無事に帰ってくるのを望まれているよそ様の宝物です。
彼女に何かした所で貴方の欲望も、餓えも、何も満たされることはありません。
それどころか貴方が大切にしていた全ての事に虚実入り混じった泥を塗りたくられ
見知らぬ他人にその思いの丈を口汚く罵られている様を思い描いてください。
一時の衝動で自ら汚してしまわぬ様に。あなたの永遠の光と成す為に。
かの少女に接触するのはお止めなさい。そこに貴方の求める光は無い。
犯罪は良くない。
そうは思うが、ロリコンが犯罪なのかというとそうではないと思うのだ。
(念のため、断っておくが私はロリコンではありません)
その話を知り合いにすると、その彼も同じ経験があり、こう言った。
「そういうの読んで、同じ人間でもこうも自分とは違う奴がいるんだって思う」
確かにその彼はそう思ったのかも知れない。
しかし、殺人を犯したものも、かつては人を愛したことのある者もいて
同じ人間なんだと私は思うのだ。
どこか自分とつながる部分があったのではないかと思って
あの男にしたって、代々武士の家に生まれ
宅間守は幼少の頃、しつけとして暴力をふるわれることがしょっちゅうだったそうだ。
「お前なんか産まれてこなければよかった」と罵詈雑言を浴びせたと読んだ。
もちろん被害にあった子供の親御さんのことを考えると
こんなことを書くのは不謹慎と思う。
「今のは、誹謗とか批判ではのうて、純粋のワシの心から出たほんまの気持ち。わかってもらわんでもええ。言いたい事はまだある。それは、殺してしもーた子供達にや!わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に、生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。 あのガキが8人死んでくれたから、 俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!!でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!あははははははは!ほんまおもろい!ワシは死ぬことびびってないで。 遺族にはなにもできへんし最高や!、世の中どんなに金かけてもワシに一瞬にして殺されれば勝ちも負けもあらへん!。 世の中は公平やない!。わしは世の中の不条理をあのくそガキにわからせてやったんや。ワシみたいにアホで将来 に何の展望もない人間に、 家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかったんや、世の中勉強だけちゃうぞ!、とあのくそガキに一撃を与えたんや、 死ぬ前に世の中の厳しさが分かってよかったな、感謝せいよ。ワシはいままで散々不愉快な思いをさせられて生きてきた、でも、今日は、ほんま ワシは気分がええわ。 ワシを悩ませた糞親にも嫁の家族にも迷惑かれてな!親戚に守がいますなんて 千年たってもいえへんな!こんなケッタイなおっさんに一瞬や!ぶすぶす事件は、ほんま!、おもろい!、 ほれでも、ワシはまだ満足はしてないで!」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%84%E5%B1%9E%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B0%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
こんな言葉を被害者家族もいる場で叫ぶのはどうかしてると思う。
思うが、この発言から宅間守の人間としての弱さを読み取ることも出来ると思うのだ。
「わかってもらわんでもええ」
「ワシは死ぬことびびってないで」
「世の中どんなに金かけてもワシに一瞬にして殺されれば勝ちも負けもあらへん!」
「世の中は公平やない!」
「ワシは死ぬことびびってないで」 → 本当は怖い
こう私は理解する。
もっともサイコパスと言われる人は、人心を惹き付ける魅力があるとも聞くので
この言葉も宅間守自身が自己を擁護するために放った言葉なのかも知れないが。
「こんな犯罪を生み出した『社会』にも責任があるのではないか!?」
という考え方を私はしているのだと思う。
しかし「人が人を殺したい」と思ったことが一瞬でもあったとしても
私はそれが異常なことではないと思っている。
かといって、実行に移すのはまったくもってオススメしない。
ただ私はそういう人たちに心情を寄せる傾向があるだけだと思っている。
性癖というのは根深いもので、言葉で簡単に説明が出来るものではないと思う。
そういった願望を抱くことは今のところ、この国では違法ではない。
男が女を好きになるように
女が男を好きになるように
また男が男を好きになるように
女が女を好きになるように
それを簡単に「死刑でいいよ」なんて言葉で簡単に片付けるなと言いたい。
犯罪がよくないのは当たり前の話で
それに「何があったとしても俺は人を殺さない」と言い切れる人はいないと思う。
もしいれば、それは想像力の欠如じゃないかと思う。
こうしたことを発言すると「不謹慎」だとか「ズレてる」と他人からは言われる。
はたしてそうなのか。
なので、匿名ダイアリーにて自分の思うことを書かせてもらいました。
やはり私は、ズレているのだろうか。
例えば、簡単な生活のコツみたいなのがある。
「お肉を切る時は押し引きしないで、どちらかの方向だけに力を込めるといい」
「水彩絵の具は薄い色から塗り始めるといい」
…とかそういうやつ。
そういうのを「コツ」として個別の知識で覚える場合、そのコツの「使い方」を知っている状態になる。
これが単体としての「知識」。
で、それらのコツがなぜそのように作用するのか、きちんと理由ってもんがある。
物理的な力がどう働くのか、なぜ色を塗る順番があるのか、それぞれに物理法則だとかそういうのが働いているわけだ。
そこを理解するとワインの栓だけでなく、同じ理屈が働くものに対して同じコツが適用できるっていうことに気がつく。
物理的な知識だけじゃなくて、例えば絵画や音楽、文学などでも「その表現がどういう理由から来ているか」「そしてこの表現はその理由を作品の中に含むことで何を目指しているのか」っていうのを掴むとものすごく面白く思えてくるケースが多々あって、そういう楽しみ方を体得している人は「教養のある人」だなぁと私は思うよ。
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
http://anond.hatelabo.jp/20140605083137
これ結構面白かったが、「デビューの仕方がわかんない」とかいってる奴もいるので教えてやるよ。
作家や漫画家でデビューするには、以下の方法が一番手っ取り早い。
大抵の人間は「最後まで書く」ができない(それどころか、最初の一行すら書けない)。なぜか。書いても駄作しか書けないから。書いても書いてもゴミしかかけない。ゴミを生み出すことに膨大な労力を費やす。それを乗り越えて、そのゴミを最後まで作りきる。これがまず第一歩。
書き上げた後、「新人賞に送る」のも難しい。だって手許にあるのはゴミなんだから。ゴミを送ってもどうせ落選するので、出さない方がいい。そうすれば少なくとも、落選して傷つくことは避けられる。いつかゴミじゃない傑作がかけたら応募しよう。なろう、なろう、明日はひのきになろう……。なりゃしないんだそんなもの。そうやって消えていく人も多い。というわけで、送るのが第二歩。
最後はこのサイクルを、合格するまで繰り返す。これも出来る人は少ない。新人賞に送って一次選考で落ちる。自分にセンスがないことを知る。じゃあやめよう、といってやめていく。君、二歩しか歩いてませんから。それで山頂まで登れるか。
こういう人たちのことをなんというか。「才能がない」という。才能がないというのは、生まれ持ったセンスがないということじゃない。自分の実力を伸ばすための戦略と根性がないことを言う。上記に書いたことは後者の「根性」の部分。
ワナビーがデビューしなくても誰も困らない。ほっといても作品を書き上げて送ってくる連中が山ほどいる。「デビューできないんです」とか言ってる場合じゃない。「あっそ、じゃあやめれば? 誰も困んないよね、それ?」といわれるだけ。
と、ここまでが「まず、デビューしましょう」という一文の意味するところと推察する。ちなみにデビューしたところで、そこが始まりだから勘違いしないように。デビューするというのは高尾山にハイキングに行く程度のもの。雪山登山でもクライミングでもなんでもないし、マッキンリーでもK2でもマッターホルンでもない。「デビューできない」と嘆いてる奴は、「エベレストにいつか登りたい」「でも高尾山が登れないんです」とかいってるゴミと同じ。
本題に入る前に少しシリアスな話題があるので聞いてほしい。
男女にイメージについて聞くと面白い。男はほぼ例外なく目を閉じても真っ暗と答え、女は半数がありありとイメージできると答える。これはなぜか?
一方男性率の高い理数系の学部ではイメージを軽視する伝統的風潮が根深い。これはプラトンから来てるのだがな。本質を直観すべきでありイメージなど些末も些末、ゴミクズ同然という考え。対する女性率の高い芸術系の学校ではイメージを尊重する。『脳の右側で描け』に始まるイメ描きの連綿たる伝統があり、ナンシー関の記憶スケッチアカデミーは今や市民権を獲得した。
ここに来て先ほどの問いの答えが見えてくる。性差よりも習慣の問題なのだこれは。そして男である諸君は驚くほどイメージを軽視している。だから真っ暗なのに輪をかけて真っ暗。糅てて加えて真っ暗なのだ。
そこで世の中の男性に活、いや喝を入れようというのが本記事である。シリアスでもなんでもないくだらない前置きは終わりにしてちゃっちゃと本題に入ろう。
煮ても焼いてもまずこれをやりなさいというのがこれ。詰将棋マニアの巷間では「ブラ詰」とも呼ばれる。早い話が目隠し詰将棋である。脳内詰将棋という蔑称、いや別称もある。
こまけーこたーいいとして大切なことだけ言うと、これには2つのスタイルがあって1つがアイマスクをして符号の読み上げを聞くものでこちらが本格的なやり方。(そもそも符号ってなんだよってレベルの人はggるなりしてください)
もう1つが手軽な方法で詰将棋の盤面または印刷された紙を見て5秒で初形と持ち駒を覚えて目を閉じて脳内で解く方法である。ほとんどの人はこっちでやったほうが身のため世のため人のため。最初は詰将棋の入門書をテキトーに購入して1手詰めや3手詰めから始めるとよろしい。
先ほど理数系のイメージ軽視に賽を投げかけたが分かってる人は分かってる。暗算が得意なタイプがそれだ。私は一流大学の数学科を出て現在底辺大学の数学科にいるのでよく分かるが数学畑では手を動かすことをモットーとする物理畑とは正反対に計算が軽視される。しかし一流の世界ともなると話は別でノイマンのような暗算の達人が割といる。数学の天才には二種類いてラマヌジャンのような数覚がずば抜けたタイプは案外少数派なんだ。数論は数学の女王。岡潔も晩年は『情緒と創造』を著している。
底辺大学だと数学は論理の学問といったことを平気で言う先生もいる。論理は当たり前の大前提であり無味乾燥なつまらないものだ。そう世間で計算がつまらないと思われてるのと同じくらいに。実際、数学ではなくコンピュータサイエンスで計算理論を学べば分かるし学ばなくてもある程度想像がつくだろうが論理とは計算であってそれ以外の何者でもない。計算も論理もつまらないそのことには全く同意するが無価値というわけでもない。忘れもしない卒業の日同級生になぜ暗算をするのかと訊かれて私は暗算で扱う数学的対象に親しむためと即答し彼または彼女はもっと早く教えてよと地団駄を踏んでいた。
数学の素養がない人たちへ。最初はアイマスクを着用せずJSやJC(俗に言う小中学生)が学んでいる幾何のパズル問題(『目で解く幾何』シリーズなど)をやり次第に他分野や高校数学や大学数学科の数学や工業系の応用数学に守備を広げる。意識高い系より意識広い系で頼む。
数学科には将棋ならまだしも美術に造詣が深い先生が結構多いがそれに比べて写真芸術に関心のある人は拍子抜けするほど少ないと思う。つまり数学的美と将棋の美はクロスオーバーするが数学的美と写真芸術の美はオーバーラップしないということだということだ。つまり詰将棋と暗算の不足分を補うのにカメラはやはり大事なんだよなあ。
芸術論において言い古された表現だが音楽は音の瞬間の芸術であり写真は光の瞬間の芸術である。だからシャッターチャンスやチラリズムという言葉が端的に表しているのは瞬間性。写真家は人物や風景をとるとき手でフレームを作る。このあたり詳しく書かれた文献が少ないがこの切り取り方には必ず意味がある。単になんとなくバランスがいいからそう切り取るのではない。シャッターチャンスという言葉から誤解されがちだが確かに瞬間のおもしろさを切り取るのが写真芸術であるが決しておもしろい瞬間を切り取るのではない。この違いが大切でおもしろいものはわざわざ写真にしなくてもおもしろいのであって思い出アルバム程度の価値しかなく芸術たりえない。つまりおもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけりで、おもしろさを能動的に発見しそのおもしろさを表現するには今この瞬間しかないしかもこうフレームを切り取るしかないと断言できるのである。そんな見方を学べるのはカメラくらいしかない。数学では学べないし絵画もにているようで全く違う。写実的な絵画であれそこで必要とされるのはある種の演出でありもっと乱暴に言えば捏造であるから、あるがままの良さをうまく切り取って見せる写真的な見方とは根本が違う。
そんな見方を身につけて日常の「あれ」「おや」「あら」「おっ」と思う点が増えるとそれが理解や記憶のフックになる。理解というのは必ず興味から始まるだろう?しかし興味は洪水のように訪れて過ぎ去っていく。つまりアイデアマンはメモして興味を書き留める。だからメモする時間と労力すら惜しいのでだから「これならここが気になる」とフックをつけて興味をブックマークしておくことで未来の理解や記憶のきっかけになる。そういう面白い体験をしているんだよカメラマンという種族は。
以上簡単に見てきたがどれ1つとっても始めたその日から人生を揺るがす劇的な効果があるので試してみてほしい。また6つの方法は相補的な働きをするようチョイスされており、1つでも欠かすのはもったいないので6つ全部試してもらえるともっとうれしい。
だったら、芸術品としては認められない といえばいいだろ。
美術品としては認めるがクレームがつくから展示できない。というのはナンセンスだ。
第一、だったら キリスト教的な宗教画を展示するな。仏像を展示するな。
どこからが展示できる宗教・政治的な作品で、どこからがダメか?をクレームがつくからで足きりするのはあきらかに、言論の自由に反してる。
美術品としては認めるが、反対者からクレームがつくから展示できないというのはナンセンスの極み。
だったら、反キリスト教的な宗教からクレームが付いたら2度とキリスト教的な絵画を展示しないのか? そんなわけないだろ。 判断が個人的すぎる。公営組織を運営する裁量に欠けている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E7%B5%B5%E7%94%BB
詳しくはwikipediaでも参照にしてもらいたいのだが、要するに、ごく普通の風景を描いているように見えて、実際にはその風景は現実には存在することの有り得ない、といったそういう絵のことである。
例えば、人々の足元に落ちる影の向きがそれぞれバラバラだったり、あるいは、走っている機関車の煙突から延びる煙が、風に靡くことなく真っ直ぐ立ち上っていたり。
因みに「形而上絵画」において有名な作家と言えば、イタリア人のジョルジュ・デ・キリコがいる。
ググって形而上絵画を探してみようとしたところ、中々見つからなかったので、彼の有名な一枚である『通りの神秘と憂愁』を例として貼っておくことにする。
http://blog-imgs-45-origin.fc2.com/c/a/r/carcosa/chirico.gif
◇
ところで、僕は大手ギャルゲーメーカーの『key』のドンである、麻枝准の曲が好きである。
特にその中でも、彼がごく初期に書いた『恋心』という曲が好きである。
十年近く前に、ipodで繰り返しこの曲を聞いていたことを思い出す。
時には、学校へ向かう途中に口ずさんだりもした。
そして、この曲を聴いている時に、いつも僕が思い浮かべるのは、一本の木が植わった起伏のある平原である。
日差しは、まるで雨の日の朝に部屋へと差し込む時のように、薄い青色をしている。
平原には一本の木を除いては、構造物と言えるようなものは全くなく、一切が見渡せるようになっているのだが、その地平線のいずれの場所を眺めても、例えば太陽とかそういったような光源は見当たらない。それでも、空と平原は一様に、薄ぼんやりとした青色に照らされている。
先日、久々にこの『恋心』を聴いてみていた。
iphoneを購入したのを機に、ipodに代わるデジタルプレイヤーとして、試しに昔好きだった曲を掛けてみていたのだ。
すると、かつて僕が聞いていたのと同じように、例の、あの青褪めた、薄ぼんやりとした風景が浮かんでくることになる。
僕は、その風景に懐かしさを感じながらに、十年前聞いていた当時よりも、ずっと克明に風景を思い出しつつあった。
どんな君を好きでいたか、もう思い出せない。
楡の木陰に隠れて、僕を呼んでいた
僕はその歌詞に耳を澄ませながらに、ふと、何か不自然なことに思い当たったような気がしていた。
自分が思い浮かべている風景に関して、何か、おかしな点があるように思えたのだ。
そして、その不自然な点、というのに、僕はすぐに思い至ることができた。
つまり、360度全てを見渡せる平原において、光源の一つも見当たらないのに、空や地面が一様に同じ程度に明るい、なんていう光景は、実際のところ有り得ないということである。
キッチンに立って、サラダを作るためのお湯を沸かしながらに、暫く、僕は意識の空白に立ち竦んでいた。
その暗闇から回復したのは、そう時間を経てもいない時のことだったと思う。
僕の耳元には、イヤホン越しに、変わらずその透明な歌声が響き続けていた。
彼女は歌い続けていた。
僕は耳を澄ませていた。
僕はその歌詞にぼんやりと耳を澄ませながらに、一つのことに思い至っていた。
そう、僕が十年前に思い浮かべていた景色は、きっと、本当には存在し得ない景色なのだな、ということにだ。
そして、暫くの後に、僕はひとまず気を取り直して、もう完全に煮立っていた鍋の、電磁調理器のスイッチをオフにしていた。
どこまでも続いてゆく、悲しい景色、君と、笑っていた
いつまでも傍にいるよ、夢の中で、君と笑っていた
麻枝准 - 『恋心』
だって日本の情操教育ってさ、絵画でも国語:読解や読書感想文でも、
「思った通りのことを書きましょう」で、技術を教えないじゃん。
国語の試験で「作者の言いたいことはなんですか」という問いに対して
「受け止め方なんて人によって違うじゃん」とか、
「作者が「そんな答え知らね」というような解答じゃ駄目だろ」みたいな返しがあって
「思ったことは全て正しい」という風潮になってるんだよね。
前衛芸術で「何が表現されているのかさっぱり解らない」があるんなら、
「でもこの造作、テクニックは凄いよね(あるいは「へぼじゃん」)」というところまで持って行けない。
だって芸術家も作家も画家も、そんな学校教育のあり方に文句を言わねーんだもん。
さらに普通の人が普通に「私はこう思います」って言っても、実はそれはメディアなり権力者なりどこからかに、
そう思うよう誘導されている可能性が非情に高い。
アキバとかにある悪徳絵画店って全国のデパートや商店街にも結構あるのな。
あそこで働いてる子って、どこで見つけてくるんだってほど美人が多くてびっくりする。
向こうから話しかけてきてくれるから人見知りなやつでも、美人と簡単に出会えるのが良い。
ああいう美女を喰ってみたい。
百戦錬磨のキャバ嬢を口説くよりは簡単じゃね?って思った。キャバクラに通うより安く済むしw
こういうのをもっと進化させて、最終的には食べちゃう方法を考えてみた。
http://ameblo.jp/teblog/entry-10269616889.html
これは金持ちの振りをするのが良いのではないか?
でも、自分の人生このままで良いのか、とか悩んでそうだし、うまく振る舞えば割と簡単に行けそうな気がする。
パチもんの腕時計とか身につけて、名刺(1000円ぐらいで100枚ぐらい作れる)作って、社長ってことにすれば良いんじゃね?
サイトとか作るなら適当に年1000円ぐらいのドメインを契約すれば良い感じ。
もっと簡単なのは社長の写真やプロフィールが出てない会社のサイトを探して、それを名刺に印刷するとか?
奥さんや恋人が居る奴は匿名で借りられる携帯電話(simだけなら一日150円ぐらい)があるから、それを使えば良い。
こういう店は、最初だけ若い美女が対応するが、脈有りで本気の商談になったら、年増(と言っても20代後半ぐらいだが)が出てくる事がある。
(俺が行った店では最初から最後まで若くて可愛い子が対応してくれたが)
その場合、こっちは最初の美女を喰いたいのだから、年増が出て来た瞬間に「お姉さんが良かったな〜。興味なくなったので帰ります」とか言って
席を立てば、結構残ってくれるんじゃないだろうか?
たぶん、このぐらいの非情さが無いと、プロ(?)の美女を喰うなんて、そもそも無理だろう。
なんとか意中の若い美女を席に着かせたら、あとはその子が個人的な取引をしたくなるような設定を適当に作って話していけば良いのではないだろうか?
「実は昨日受付嬢が妊娠して辞めちゃったから大変なんだよねー。月給40万も払ってたのにさー」とか
なんでも良いから適当なことを言ってれば、どれかヒットするはず。
ラブホでも良いんだろうけど、自分の部屋(っぽい何か)があれば、もっと簡単に連れ込めるんじゃないか?
「部屋にこの絵を飾りたいんだけど、合ってるのか分からないから、見に来て欲しい」とか言えば、ノリノリで来てくれそう。
都内だとタワマンの一室を貸しスペースにしてるサービスがけっこうあるから、
こういうの使えば、住所もバレないし金持ちを装ったまま行けるし、悪くないんじゃね?
最初に店に行く前に部屋を借りるのは無駄だから、何回か通って相手を信用させ、完全に落とせそうになった時点で借りるのが良いと思う。
散歩がてら店によって10分ぐらいで「次の予定があるから、また来ます」とか言えば通うのもそんなに負担にならない。
部屋に連れ込めれば、向こうも下心あるだろうから、なんでも好き放題できるでしょ。
俺はパイプカットしてるとか適当なこと言って、生中だしとかするのを最終ゴールにしたいw
金持ちの振りをしてしまうと、絵の購入を断るのが難しくなりそうだ。
正直こんなの「う〜ん、俺の部屋にこれが合うか分からないんだよね〜」で済むと思うが、
部屋までやってきて、生中出しまでさせてもらって、どうやって断るかは難しいかもしれない。
最悪スキを見てダッシュで逃げてしまえば良いだけだろうけど、もっとスマートな方法とかあれば教えて欲しい。
もっとこうしたら良いんじゃね?とか、こうやったら上手くいった!とか、
逆にこういう危険があるとか、なんでも良いから情報があれば教えてくれ。
随時まとめていくから。
自分がどのようにすれば成長するのか、また、どのように成長することができるのか、ということをイメージできない人は、実際に才能があったりあるいは大きな成長の可能性を持っていたとしても、それを上手く現実的に獲得することは難しいものだ。
というわけで、才能がある人は、まず自分の才能とは一体何なのかを把握しなければならない。
一体自分にどのような可能性があって、そしてその可能性は、いかなる手段を持って実現可能なのか、ということを反省していかなければならない。その方法と、可能性を、模索し続けていかなければならない。
例えば、歴史に残る芸術家と呼ばれる人々は、我々とは全く違った方法で世界を見ているということがある。
というのは、彼らの世界において、彼らの頭上に張り出している青空は、我々が普段意識するものよりもずっとずっと高く見えているかもしれない。彼らの頭上に存在する空は、我々普段想像しているほど、低きにあるものではないのかもしれない。
これが一体どういうことかと言えば、つまり、我々にはある種の気付きが必要だということだ。
空というものが、我々が普段想像するよりもずっと高くにあるものだということに、ある瞬間からふと気付くとする。そうすれば、それと時を同じくして、例えば絵画に対する見方や描き方が変わったり、あるいは小説に表す際の表現の仕方が、少しずつ変わっていったりするものだ。それは、一つの可能性に対する気付きである。気付いた瞬間から、可能性を実現に移すことができるようになる。表現、アウトプットに、気付いた事柄を移していくことができる。そして同時にそれは、可能性が仮に存在していたとしても、我々が意識しない限りで、それを実現することは難しい、ということでもある。
虚数時間は我々の予測臨界を超え、絶対明度を保ちながら半翡翠系の償却を反芻している。自己と飼猫の因果が杞憂より出づる撲滅世界の混沌と瞑想神経の齎す瑕疵とを綯交ぜに茫漠とした紗紗と蚕を行き来する。熱烈なる過保護によって朴念仁を生産する孤高なる過程は、明滅する光束の結び目から漏れ出す蒸散による化天を誘い、露光による庶子の影を永遠に棒状の壁画に内在せしめる。既知の文書が未知の閲覧者と邂逅した時、戦前の見開かれた鉱山での惨劇を三度繰り返しながら、双頭の獏が絶命の折に嘶くのと同期して、別離による救済を市井の同胞に振りまく真似事をする。叙勲されし数多の草魚が道標を尽く薙ぎ倒し、その後釜に座る極小なる淫らな猩々が紅の印鑑を倒れゆく少女像に拭い絡ませる様は、恰も冷静なる貴族が病状をひた隠し越冬の危機を乗り越えるのに似る。時々刻々と謀殺されし護摩壇の姫君の肢体が腐敗と熟成の報奨に狂おしく同調している折に、微細なる裂傷を結合しながら徒歩にて断崖を捻る未練がましい使徒が手にした免状を衣と引き換えに八つ裂きにする。傍若の限りを尽くした赤児と液状化した母親が手を繋ぎ目真苦しく螺旋を描きながらもう一人の裏切り者の足跡を舌で滑らかに擦り、その呪縛に素っ頓狂な声を上げた隣人が悪鬼と冒険した凡人と化して急襲しながら霊山の内部構造に激突した。唖然とする七匹の蛙は幕間に喇叭を回転させながら右側だけでタンゴを祭り、渦を巻いた板状の貝殻の上で割譲される順番を望んでいる。早朝に深淵より点在せし顔面が、虹色に曇った延髄を海面に落とし、塗り固められた臍帯を蛇腹にしながら浄化槽で探索する二連の秘部を必死に灯台に繋ぎ止めようとするが、監獄より返納された御影石の売人達による秘密組織が泣き声を追跡しながら別居中の蓮根畑の先端に波及してくれと請願したため、橋の開閉により眼球が飛び出して乳白色の絵画に侵蝕し、慈愛と連想ゲームから成る仏の荒野に自ら至った。
つか、とっくの昔に業者間とかそういのは料金後納のスタンプとかになってるし
書留とかそういう追跡システムはとっくにバーコードになってる。
ただ逆に、個人間でも季節の挨拶とかは記念切手を薦められるように、あれは絵画的な価値を含めるもの。
文化は効率化では語れないし、効率化出来る所はとっくにしてる。風情の問題。
郵便システムはそもそも公共事業で、山里離れたたった一人しか老人が住んでいない村でも、住所さえかけば100円未満で手紙を運んでくれるシステム。
そのシステムを良く見ると、すげー無駄だけど、公共事業ってすげーなぁと思うよ。
局員のおっちゃんが、おっちらおっちら、山奥まで運んでいって81円てすげーよ。
風情のない公共事業はなんだろうね。味気ないよね。