2015-01-14

表現者と殺される覚悟

なんだかフランス大変みたいですね。

ただ、僕もしがない表現者の端くれとして

ちょっと書いておこうかなと思って

筆をとってみました。

人間表現するものは、言葉であれ

絵画であれ、写真であれ、誰かを傷つけて

その結果自分報復が帰ってくる可能性が

あるものなんですよね。

お前の表現を受けて

傷つく人を想像できないのか?って

話はあるわけですが、表現者なんて言うのは

どうしょうもない業でして、

誰かが傷つくとかどうとかよりも、

思いついてしまったもの

自分の中で沸きあがってしまったもの

吐き出さないと自分を保てないのです。

サイコパスドラッグジャンキー

セックス中毒症みたいな人たちと

根っこの部分はそんなに大差ないなと

自分でも思ったりしています

で、翻ってシャルリーの人たちは

自分風刺画が、一部のフランス人

喜ばれて良い反応があることに取りつかれてたか

危ない宗教揶揄するチキンレースにはまっていたか

したんだろうなと思うわけです。

まあ、殺した側に正義なんか1ミリ

無いわけですが、表現者というのは

常に誰かにぶっ殺されるみたいな覚悟

必要だよなーというのを今回の事件で感じました。

実際、殺されなくても、

僕の表現不快だということで、

友達なんかほぼ全員いなくなったし、

家族とも縁を切られたりしていたりします。

じゃあ、まあそれで辞めるかって言われても

辞められないんですよね。

辞めさせたいならそれこそ、なにかしらの

更生施設みたいなの入らないと無理だろうし、

入って辞めてしまったら、まぁ死ぬんでしょうね。

最近TwitterやらFacebookやら、

まあはてなもそうでしょうけど、簡単に

表現者になれてしまうから危うい。

みんな、表現することは

刺されるリスクを負うことだよという

自覚がないんでしょうね。

官邸の前で原発反対言うのも、

朝鮮人よ国に帰れと渋谷交差点で叫ぶのも、

Twitter上司ぶっ殺したいと書くのも、

まわりまわって刺される可能性が

ありますよってことです。

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