はてなキーワード: インディペンデンスとは
恋愛工学2.0を使いこなす真の強者が、「私がこうすることで喜ばぬ女はいなかった」とばかりに持論を開陳ちんしたNoteが、男女の憎悪渦巻くインターネットを一日で塗り替えたのです。
しかし、これを怪文書と片づけてしまっては、MeTooとは何だったのか。
ハメ撮り動画を秒速アウトプットでもしない限り、信憑性はないと突き放されてしまっては、MeTooとは何だったのか。
我々はMeTooなどというSNSで傷を舐めあうスラックティビズムで自己満足せず、粛々と証拠と裁判によって抵抗すべきだという、強い決意の表れともいえるでしょう。
庇護される存在でなく、弱い存在でもなく、一人の自立した人間として立ち向かう。インディペンデンス・デイ!
しかし悲しいかな、ちんぽ騎士団長を守る姫君たちはいくらでもいるのです。
ちんぽ騎士団長の生き様は、依然として多くの女性たちを惹きつけるのであります。
合わなかった女性より、自分を支持してくれる大切な女性たちに時間を使う。嫌われる勇気!
一方キモくて金のないオッサンはどうか。
存在するだけで信頼度が低下していくデバフスキルを遺憾なく発揮し、挨拶や存在すら加害と扱われ、
今日も明日も石の陰で蠢く昆虫のように這いずりまわる人生を送り、ケアを求めるな、一人で死ねと願われて止まない。
彼らが藁にも縋る思いでインターネットにかじりつき、人寂しさを紛らし、粛々と人生を消化しているその頃、
ちんぽ騎士団長は社会的な正しさでその名を馳せながら、姫君たちと楽しく暮らしているのであります。
天道、是か非か。
おい、そこのお前!あさま山荘事件が大好きすぎてカップヌードル食う度に機動隊の気持ちになっているお前!なおかつ伊勢×戸田か戸田×伊勢かで議論したいが相手がいないお前!お前だ!お前に向かって俺は今書いてる!
『三体』だ!『三体』を買って読め!せめてKindleで無料サンプルは落とせ!BGMはRHYMESTERのThe X-Dayを無限リピートだ!
よし、Kindleの無料サンプルは読んだか?読んでないよな。面倒くさいもんな。あんくらいWeb上で読めるようにしといてほしいよな。まあいい、せめてSpotifyでRHYMESTERのThe X-Dayをリピート状態にして以下の文章を読め!
『三体』は最高だ!一般的なあらすじは「文革で物理学者の父を失った娘が云々」などとぬかしているが、無料サンプルで読めるその描写が最高であることはまったく紹介されていない。引用するぞ。
シュプレヒコールがおさまるのを待って壇上に立つ男の紅衛兵の片方が批判対象をふりかえって言った。
「葉哲泰、おまえは力学の専門家だ。自分がどれほど大きな合力に抵抗しているか、わかっているだろう。そうやって頑なな態度をとり続ければ、命を落とすだけだぞ! きょうは、前回の大会のつづきだ。くだらない話はもういい。次の質問に真面目に答えろ。六二年度から六五年度の基礎科目に、おまえは独断で相対性理論を入れたな?」
「相対性理論は物理学の古典理論だ。基礎科目でとりあげないわけにはいかないだろう」と葉哲泰。
「嘘をつけ!」そばにいた女の紅衛兵のひとりが荒々しい声で叫んだ。「アインシュタインは反動的学術権威だ。欲が深く、倫理に欠ける。アメリカ帝国主義のために原子爆弾をつくった男だ! 革命を起こす科学を築くためには、相対性理論に代表される資産階級理論の黒旗(反動の象徴)を打倒しなければならない!」
(中略)
「葉哲泰、これは言い逃れできないはずよ! あなたは何度も学生に反動的なコペンハーゲン解釈を撒き散らした!」
「それが実験結果にもっとも符合する解釈であることは厳然たる事実だ」これだけ厳しい攻撃にさらされても、葉哲泰の口調は落ち着き払っていた。紹琳はそれに驚き、畏れを抱いた。
「この解釈は、外部の観察者によって波動関数の収縮が引き起こされるというもの。これもまた、反動的唯心論の表れであって、その中でも、じっさいもっとも厚顔無恥な表現よ!」
「思想が実験を導くべきか、それとも実験が思想を導くべきか?」葉哲泰がたずねた。突然の反撃に、批判者たちは一瞬、言葉をなくした。
「正しいマルクス主義思想が科学実験を導くのが当然だ!」男の紅衛兵のひとりが言った。
「それは、正しい思想が天から降ってきたと言うに等しい。真理は実験によって見出されるという原理を否定し、マルクス主義思想がどのようにして自然界を理解するかという原則に反している」
紹琳とふたりの大学生の紅衛兵は、無言で同意するほかなかった。中学生や労働者出身の紅衛兵とは違って、彼らは論理を否定することができなかった。しかし、附属中学の若き闘士たち四人は、反動分子を確実に攻め落とすための革命手段を実行した。
最高かよ!!! 時はあさま山荘事件の数年前だが、アカの本場中国でも似たようなどうしようもないことが起こっていたのだ!引用の最後の部分で作者がたくみなカメラワークを用いて批判者側の「論理の欠如」を指摘しているのがまた光り輝いている。そうなのだ。この手の議論には論理というものがまったく存在しない。あるのは連想ゲームだけなのだ(「物理学者のお前は自分がどれほど大きな合力に~」「アインシュタイン=核兵器=帝国主義=敵」)。あさま山荘事件でもそうであった。無色のリップクリームを塗ったことと、彼女が死ななければならないということの間にまったく論理的な関係は存在しない(そもそも何かと誰かが死ぬということの間に論理的関係が成り立ちうるのかという問題は置いておくとして)。そこにあるのは、「革命」や「自己批判」といったマジックワードを挟んだアクロバティックな地滑り的連想ゲームだけである。
しかし、しかしである。われわれはそうした連想ゲームに時として身を委ねてしまう。どころかしばしば喜んでその中に身を投じさえする。あさま山荘の彼らが目指した「革命戦士」という存在にどうしてもワクワクしてしまうのは、そこからこれまでわれわれが目にした「革命」や「戦士」についての輝かしい言説やビジュアルがまさしく連想ゲーム的に引きずり出される快感にわれわれが抗えないからである。
「ベネディクト・アンダーソンは国民国家を『想像の共同体』と呼んだ」と言われるとき、たいていアンダーソンが主張したかったことは無視されている。アンダーソンはこうも書いている。「国民国家は『想像の共同体』であるからこそ強いのだ」と。どういうことか。例えばご近所たちは想像の共同体ではない。そこに想像力が働く余地はないからだ。近くてよく見えるがゆえに嫌いなところがよく見えてしまう。しかし国民国家は想像の共同体であるから、そうしたデメリットを回避することができる。逆の意味で、人類もまた想像の共同体ではない。そこにもまた想像力は働かない。あまりに大きな対象であるがゆえに、想像することができないからである(それを想像できるように「地球市民」とかいろいろなレトリックが開発されては頓挫した歴史があるわけだ)。つまり国民国家は想像するのに小さすぎも大きすぎもしないがゆえに、人間の持つ最も偉大な能力=想像力/創造力を刺激する存在であるがゆえに、これほど大きな存在になり得たのだ。世界大戦を二度経験して、戦後もエコやらなんちゃらがあってメイクアメリカグレートアゲインな今、人類は人類を想像力の対象にすべきであると誰も[誰?]がわかっているはずであるが、そうした方法は未だ見つかっていない。めっちゃナウい想像力を持ってそうなイスラム国ですら国を名乗る時代である。
そうした状況にある人類に対して、「地球市民」としての自覚=想像力を持たせるために一番手っ取り早い方法は、宇宙人に攻めてきてもらうことである。映画『インディペンデンス・デイ』があれだけ面白いのは、その「俺たち感」を徹底して純粋なものとして描けているからだ(もちろん「俺たち」と書いたようにそこからは女性が排除されているのだが、それもまた「俺たち」の盛り上がりを純化させるように働いている)。しかし、この方法には大きな問題がある。それはわれわれの知る限り宇宙人が当分の間攻めてきそうにないという点である。したがって二番目の方法が取られることになる。それが科学教育である。ひとりの神様とか王様の下で人類みんなが仲良くするのは無理だとわかったので、次は科学様の下で人類全員集合しましょう、というわけだ。まあ、承知のようにこの方法にもいろいろ問題はあるのだが、他に良さそうな方法もないので多くの人々からのんべんだらりと支持されているといってよい。
科学の持つ大きな問題として真っ先に挙げられるのが、それが神様よりも信頼可能か?というものだ。科学教の信者はそうだとなんの疑問も持たずに答え、異教徒たちはおらが村の神様の方が偉いと主張する。そこを調停するのが科学哲学者の役割のひとつであったが、どっちつかずとして双方の陣営から攻撃されるため調停役に名乗りを上げる科学哲学者はほぼ絶滅している。
(注:ネタバレ防止のため人名や固有名をアルファベットに置換している)
「Aくん、きみは仕事の範囲を逸脱しかけている」Bが首を振りながら言った。「研究は理論的なものだけに絞るべきだ。こんなに手間をかける必要が本当にあるのか?」
「Bさん、この実験は、大きな発見につながる可能性があるんです」とAは懇願した。「実験は絶対に必要です、とにかく、一回だけやらせてください。おねがいします」
「B、一度だけやらせてみたらどうかな?」Cが言った。「オペレーションはそれほど大きな手間でもなさそうだし。送信後、エコーが帰ってくるのに要する時間は――」
「十分、十五分だろう」Bが言った。
「だったらXシステムを送信モードから受信モードに切り替える時間もちょうどある」
Bがまた首を振った。「技術的にもオペレーション的にも造作ないことはわかっている。しかし、C、きみはどうも……、この手のことには鈍感みたいだな。赤い太陽に向かって超強力な電波を送信するんだぞ。こういう実験が政治的にどう解釈されるか、考えてみたことは?」
AとCは、どちらも茫然としたが、Bの反対理由が荒唐無稽だとは思わなかった。逆に、自分たちがその可能性を考えもしなかったことにぞっとしたのである。
この時代、すべてのものに政治的な意味を見出す風潮は、不合理なレベルまで達していた。紅衛兵は、隊列を組んで歩く際は左折のみ許され、右折は禁止された。信号機は、赤が進めで、青が止まれでなければならないと提案されたこともある(周恩来首相に却下されたが)。
(中略)
そういう風潮に鑑み、これまでAが研究報告を提出する際は、Bが必ず綿密な査読を行っていた。とくに、太陽に関する記述は、専門用語であっても、くりかえし吟味し、政治的危険がないように修正した。たとえば、“太陽黒点”という言葉は使用が禁じられた。太陽に向かって強力な電波を送信するという実験については、もちろん、千通りのポジティブな解釈が可能だが、たったひとつのネガティブな解釈がなされるだけで、関係者全員が政治的な災難に見舞われるにじゅうぶんだった。Bが実験の要請を拒絶する理由は、たしかに反駁のしようがなかった。
イアン・ハッキングがイヤンと言いそうなくらいむき出しの「科学の社会的構成」である!ここでも論理が連想ゲームに膝を屈している。このことを中国に特殊なものだと考えるのは科学教の信者である。似たようなことはどこの国でも多かれ少なかれ起こっている(また国家がくくりとして出てきてしまった!)。STAP細胞は論理を飛び越えればどんなものまでが「発見」されてしまいうるか、という好例であろう。それでも科学教の信者は言うだろう。「STAP細胞は誤りであることがわかった!これこそが科学の勝利ではないか!」と。残念ながら科学はそんな単純なものではない。たとえばケプラーの理論はそれ以前の理論よりシンプルでもなければ正確でもなかった。そのあたりのことはスティーブン・ワインバーグ『科学の発見』に詳しく書いてある。「それでもわれわれは今はケプラーの理論が正しいということを知っている!これが科学の進歩だ!」という主張は残念ながらワインバーグとは仲良くなれるが歴史学者からは異端扱いされるだろう。このワインバーグの本は、「ノーベル賞物理学者が科学の歴史について論じたら歴史学者から総攻撃を食らった」というそれじたいSFにガジェットとして出てきそうなシロモノなのだが、けしてトンデモ本でなくワインバーグは確信犯的にその地雷を踏んでいる。非常に面白い本なので『三体』を読んだあとにはぜひこの本を読んでほしい。『三体』に出てくる宇宙物理学の理解の助けにもなるし。
話がそれた。『三体』である。まあ、歴史学者から異端扱いされようが科学者は科学者でやっているのである。……本当に?「科学をする」とはどういうことか説明できるひとは今のところ地球上に存在しない。どころか説明できるひとが今後現れる可能性もまた科学哲学者によってほとんど否定されていると言ってよい。では科学者は何をやっているのか?われわれのような皮肉屋に言わせれば「教義の精緻化とその確認作業」とでも言い捨てられるだろうが、『三体』はそこに真摯に向き合っている。どころか、その先までをも作品の中に織り込んでいる。ネタバレになるので詳しくは話せないが、科学を「打倒する」ことを本気で考えてみた人はいるだろうか?いないだろう。『三体』はそれを本気で考えている。誰がなんのためにそんなことをし、さらにそれに抗うには何をするべきかを描いている。そしてその描き方がまた最高なのである。作中、ある「組織」が出てくるのだが、それがまたなんとも、「アカい」のである。もちろんそれは最初の引用で出てきたような無知蒙昧なアカさではない。連想ゲームではなく論理によって貫かれた「アカさ」というものがあるとしたら、こういうものだろうという迫力がある。
作中にこういうセリフがある。「中国では、どんなにすばらしい超越的な思想もぽとりと地に落ちてしまう。現実という重力場が強すぎるんだ」と。これはおそらく作者の嘆きでもあろう。その重力場から逃れるために、作者はこれを書いたのだと思う。中国の現実の重みは、隣にいるわれわれも知るところだろう。この作品は、その中国の現実の重みを、実に力強く脱出していると思う。それがこの文章で伝わったかどうかは甚だ心もとないが、一人でも多くの、未だ北田暁大先生のTwitterの件に心の整理がつけられていない人々が、『三体』を手にとってくれるよう望む。
サービスの内容に言及しているサイトが見つからなかったので自分でメモしておく。
余談だけど、ステマっぽい配信サービスの比較口コミサイトみたいなところに「解約がしにくいし勝手に余分なサービスがついてたから☆1」みたいな低能脊髄評価してるやつはなんなの?使い方悪いだけじゃないの?
○サービス内容
・月額税込み2,014円でDVD新作、準新作が8枚まで、CDは新作も含めて借り放題→https://www.discas.net/netdvd/dcp/guide/gidService.html
・専用サイトから借りたいCDやDVDを選んで自分のリストに1位から順番にランク付けて入れておくと、ランクが高くかつ在庫があるものから2枚1セットで勝手に送られてくる。
・もうちょっと出して月額税込み3,964円だと最大4枚1セットで送られてくるけど高すぎる。
・鑑賞なりリッピングなりしてポストに投函、返送処理されると次の2枚が送られてくる。
○メリット
殆ど唯一にして最大のメリット。Huluやアマプラ、itunes, ネトフリ等の配信サービスにはないような新作映画、マイナーCDが借りれる。
特に個人的には、インディーズバンドや国内外ジャズプレイヤーの新作、アイマスやゲームサントラ等オタク系の新旧CDも借りれるのはでかい。
配信サービスにあるような大作映画じゃないマイナーな昔の思い出作品などもだいたい取り揃えている。
当該商品の希望順位を1位にしていても、自分に在庫が回ってくるのが運悪いと何ヶ月も先になる。以下は自分の場合で、需要が供給を上回っていて全く発送されなかったケース。
一般的に超話題作のCD(最近だとWANIMAのアルバムとか。レンタル在庫が数百枚あっても1位登録者数2,000人とかで一生順番が回ってこない)
TSUTAYAの入荷量をユーザー希望数が上回ったマイナーCD(レンタル在庫5枚、1位登録者数50人とかで一生以下略。特にアニメ系に多いイメージ)
逆にBD・DVDの映画はどんな新作でも殆ど在庫が豊富で待たされることはあまりない。
②2枚1セットで発送されるので、常に希望リストへ複数登録しておく必要がある。
借りたいCD・BDが同タイミングで複数在庫がご用意されれば良いのだが、そんなタイミングは珍しい。往々にして借りたい新作とセットで、
別に観たくもないけどとりあえず発送条件を満たす為に適当なダミー映画など(インディペンデンス・デイとか。無印ね。2はクソ)をカートに入れておいたりする必要がある。
往年の任天堂も真っ青のセットレンタル。そして罠としては、1位に借りたいCDを置き、一緒に借りるためと思ってうっかり2位にインディペンデンス・デイ、3位にスターウォーズEp1を入れておくと、
在庫の優先順位的にその2作だけが先に処理されて、結局1番借りたい1位のCDがいつまで経っても回ってこない。だからダミーは常に1本を維持しておかなければならない。
③「月8枚までは新作も借り放題」というフレーズの罠
前述のように早く借りたい作品を回してもらう為にたいして必要でもない別作品とセットにしてもらうと、当たり前だが「2枚借りた」ということになる。
これを月4回繰り返すと、借りたい作品4つとダミー作品4つを借りることになるが、この借りた作品全てが「月8枚までは新作も借り放題」にカウントされる。
CDをメインに借りるだけなら問題ないのだが(CDは9枚目以降も新作でも借り放題)、タイミングが悪いと8枚借り切った月の後半に見たい映画がレンタル開始されたりなんかして、
翌月までそもそもレンタル不可能になったりする。借り放題という言葉の意味とは。
自分が住んでいる所がど田舎だからというのもあるが、1:メールで発送連絡がくる→2:家に届く→3:翌日近所のポストに投函する→4:返送処理される→5:次の2枚が発送される
この5ステップでだいたい5~6日間かかる。つまり定額借り放題を謳っていても、物理的に借りれるのは1ヶ月にどんなに早くても12枚が限度。
逆に、東京へ出張した時に山手線駅前のポストで朝投函したら、その日中に返却処理と(たまたまタイミングが良いというのもあったけど)発送処理がなされた。
このスピード感覚から察するに、東京近郊だと前述の5ステップが3~4日で済んでしまう。こうなると、在庫が回ってくる順番のアルゴリズムにも住所格差があるのではと疑ってしまう。
○じゃあどんな人に向いているのか?
デメリットが目立つように見えるが、月に6~8枚好きなCDが借りれれば自分としてはこのままサービス継続しようと思う。つまりこのサービスがマッチしている顧客というのは、
仕事帰りに豊富な在庫を持つレンタルショップに寄れるような環境ではなく、
週末遊びに出た際寄り道をするにしても、時間や往復交通費やその店に在庫がなく無駄足になるリスクを考えると結局月額2,160円より高くつく可能性が大きく、
ネットの定額配信サービスでは微妙に自分の好みなレパートリーが満たされず、
ソシャゲ(主にミリシタ)にたくさん課金をしてしまいCDを全部買うのがちょっと痛手に感じるけどレンタルはして楽曲を抑えておきたい、
新作が回ってこなくても気長に待てるくらいの熱量の、
そんなど田舎に住むライトオタクだと思う。だからこれからも継続利用するのでTSUTAYAディスカスは可及的速やかにアイマスのCDレパートリーを増やしてくれ。
「特攻」に衝撃を受けた結果、アメリカは「自己犠牲攻撃(とその効果)」に対して過剰な思い入れをもってしまったような気がしてならない。個人的には、映画「インディペンデンス・デイ」で、ラストシーンの演説からの爺の特攻攻撃で敵倒してバンザーイってシーンで「お前らも結局追い詰められたら洗脳からの特攻攻撃がメインなんじゃねーか」って理不尽な思いをもったが、考えたら「ターミネーター2」でも、サイバーダイン社の研究者が(瀕死の怪我を負ったせいではあるものの)自爆攻撃をしかけるシーンとかあった。「絶対不利な戦いでも、自爆攻撃しかければ何とかなる(少なくとも衝撃と恐怖を与えられる!)」という無敵感、なんかアメリカ人の心に響いたのではないだろうか。そういうのが、突き詰めて9.11に繋がったのかと思うと、いろいろ感慨深い。
彼とはあまり趣味があわなかった。はじめは、年齢が14歳も離れているのでジェネレーションギャップは仕方がないと思っていた。しかし、付き合いが長くなってくると、私と彼の趣味の相違は年齢が原因ではないことに気がついた。「この人と同級生でもあまり話があわなかっただろうな」というタイプだったのだ。
美大に通っていた私は、いわゆる青文字系、サブカルチャーみたいなものが好きだった。好きな芸能人はピースの又吉と小松菜奈、好きな音楽はくるりとtofubeatsや好きな映画は岩井俊二とグザヴィエ・ドラン。赤い口紅をつけて、現代アートの展覧会でデートしたかった。
大手メーカーで営業をしていた彼が選ぶものは、私の感覚と少し違った。好きな芸能人は磯山さやか、好きな音楽はキロロとミスチル、好きな映画はインディペンデンスデイ。カラオケが好きな人で、キロロの「長い間」という曲を覚えて歌ってほしいとリクエストされた。彼は赤い口紅を嫌っていたし、ゴッホとゴーギャンの区別ができなかった。
私には彼の趣味がよくわからなかった。磯山さやかはかわいいし、キロロの「長い間」はいい歌だし、インディペンデンスデイは今日の土曜ロードショーだった。それらの良さがわからないわけではないが、そういうものを「良い趣味」だと感じることは難しかった。これからも難しいと思う。
彼は、私が赤い口紅をつけると「ちょっと派手だな」と顔をしかめた。彼とデートするとき、私はピンクの口紅をつけ、赤文字系の店で購入したワンピースを着るように心がけた。彼はとても優しく、マメな性格で、仕事を精力的にこなしており、私はそんな彼が好きだった。ただ時おり漠然と、「この人は私のパーソナリティーにあんま興味なさそうだな、興味ないってか私の趣味の領域について考えたこともなさそうだな」と思って寂しくなった。
結局、「早く結婚して子どもが欲しい」という彼の期待に応えることができず、半年もたたず破局した。
そのすぐ後、ものすごく趣味があう男性と出会った。彼は当時26歳だったので、年齢も近い。ただ、「この人とは年齢が離れてても話があうだろうな」と思うような人だった。
彼の好きな芸能人は二階堂ふみ、好きな音楽はくるりとtofubeats、好きな映画はダージリン急行だった。ガロ系の漫画や町田康の小説が好きで、とにかくサブカル臭がすごい人だった。恋に落ちるのに1秒もいらず、私は久しぶりに赤い口紅をつけて彼とデートを重ねた。彼は私の口紅をほめてくれた。音楽、映画、小説、お笑い、彼の話はどれも面白く、「世の中にこんな趣味のあう人が存在しているんだ」と私は有頂天になった。彼は無精な性格で、仕事への情熱はあまりなかったが、それでも私は彼を好きだった。
しかし、彼とは2回目のセックスのあと連絡がとれなくなってしまった。「愛してる」、でもまさかね、そんなこと言えなかった。彼とはそのまま終わってしまった。
なんかアイドルがナチっぽい軍服を着てた問題がありましたが、それを見て20年近く前にやっていたメタスラXのことを思い出したので書かせてください。
そのシンボルが赤のバックに白枠の黒いバツ印という、あきらかにナチスをイメージさせるデザインです。
多少問題になってもおかしくない気もしますが、悪役ということもあって海外も含め特に問題視されているのは見たことがありません。
そんなメタスラシリーズですが、みなさん御存知の通りメタスラXでは後半からマーズピープルという宇宙人が共通の敵として出てきます。
(ステージ4でいきなりUFOが出てきて直線的な狙い撃ちで攻撃してきますが、普通のSTGのような切り返しテクが必要になるなど、メタスラ的に「異質さ」を感じさせました)
特にラスボス戦ではモーデン軍と共闘することになり、なんというか最初に見たときはゲームセンターでちょっと感動してしまった記憶があります。
おそらく1ゲーム中だけでもマルコたちは100人単位でモーデン軍を虐殺しているはずです。
(普通に撃ち殺すと100点ですが、近接だと500点です。全クリ時に200万点ちょいですが、ステージクリア時や捕虜、アイテムの得点が大きいので、兵士だけの得点は50万点分くらいだと思う)
(マーズピープルは近接で1撃ですが、死ぬ直前までハンドガンで撃ってから近接をとどめを刺すことでハイスコアが狙えます)
(なお、ショットガンなどの爆発物は大ダメージですが1発100点なので、ハイスコアを狙うときは極力使わないようにしましょう)
モーデン軍視点で考えてみるとはマルコたちは完全にカタキだったわけですが、それでも共闘してくれるのはすごい懐の広さ。
さらに、ラスボス戦最後にマルコたちのためにモーデン軍から支給されるメタスラ。
今までの戦闘を通して、最高のメタスラ乗りがマルコたちであることをわかっているということなんでしょう。
最後に名も知らぬ兵士が戦闘機でUFOにつっこんで自爆するというインディペンデンスデイのオマージュで終わります。
モーデン軍が悪のシンボルだったとしても、兵士ひとりひとりが悪だったわけではなく、むしろ祖国の正義のために戦っていたわけで、なんというか人と人はいつか理解し合えるんだなぁ、と。
今思えば少年マンガ的なご都合展開なんですけど、当時はそれでも心打たれたものなんです。
で、今回の問題に戻るんですが、服自体はいいんじゃないの?って思うわけです。
むしろナチっぽい服を着て仲良くしている絵、っていうのが一番の平和なんじゃないですかね。
ウェルカム トゥ BEAT(ビート)板 | WAO! English BEAT特設ブログ BEAT板
なんだか軽快すぎて中途半端にちゃらんぽらんな雰囲気のブログがヒットしてしまった。
英語発生促進アプリ「ワオイングリッシュビート」の特設ブログで、。その名前がBEAT板。
リンク先はそのBEAT板の「ウェルカム トゥ BEAT(ビート)板」という記事。
どうやら「ビート板」で引っかっかってきたようだ。
とりあえず読んでいくと、小野ほりでいがよくやっている様なゆるいキャラクターが掛け合いを行う形式で、ブログのコンセプトが説明されていた。
その、赤坂泰彦と小林克也のミックスみたいな英人とハッチポッチステーションのパペットみたいな髪型のエマによる凡庸なやりとりを読み解いたところ、このブログは英語学習の指南の他に外国人との話題作りのためのネタを紹介してくれるらしい。
「美容」「エステ」「グルメ」など大人の女性がハッピーになれる情報
の紹介の最後にインド式英語のワンポイントレッスンを差し込むとのこと。
想像から遠く離れたサイトがヒットし、テンションが少し下がってしまったが、エマのセリフである一言がやたらと気になってしまった。
ちなみにブログのライターは「WAO! English BEAT」のストーリーで学ぶ
インド式英語「ナゴヤ・マシーン」に登場するキャラクターたち。
もちろん私もライターよ
ナゴヤマシーンってなんだよ。
架空のキャラがライターっていうのを見たのは進研ゼミ以来だよ。
万が一炎上したらなんかややこしいことになりそうだぞ、おい。
「ワイルド・ワイルド・ウエスト」という映画をご存知だろうか?
名だたる映画で撮影監督を務めたのち「アダムスファミリー」で監督デビューしたバリー・ソネンフェルド。
ラッパーとしてグラミー受賞を果たす成功を収めたのち「バッドボーイズ」や「インディペンデンス・デイ」への主演により俳優としても飛ぶ鳥を落とす勢いだったウィル・スミス。
両者が当時大ヒットした「メン・イン・ブラック」に続くディザスター・ムービーとして手を組んで制作した映画が「ワイルド・ワイルド・ウエスト」である。
スチームパンク調のウェスタン映画という斬新さと巧みなVFXで話題を集め興行収入も上々だったのだが、内容は酷評されその年のゴールデンラズベリー賞を5部門も受賞してしまった残念な映画である。
素晴らしいスタッフのもと、期待感を抱かせる派手な映像を用意しながら、結果的に駄作の烙印を押されたこの作品は、「なんか惜しい映画ランキング」が存在したのならばトップ10に食い込むだろう。
で、今回はこの迷作が引っかかることを期待したわけだが、実際は「ビート板」に引っ張られすぎた。
水泳に関係するサイトが引っかかればまだ納得もできたが、トップ3のうち2つは学習教材のPRのためにつくられたブログである。
最高の一言に尽きる。
これほど心に響くものはなかった
未曾有の大災害が一人の天才やら奇跡の発見、メカゴジラといった虚構の兵器によって解決されるのではなく
電車爆弾、ビルのドミノ倒しという人類の叡智の蓄積でなんとか無力化まで持っていくプロセス
会議シーンでは出来る人間がゴロゴロ出てくることで、ワンシーン、2シーンだけ登場するキャラクターも誰もが主役となっていて
あくまでも現実の日本人vs現実の災害という図式を最後まで保つことに成功している
インディペンデンスデイのような感動の演説にも涙がなく、ゴジラ停止後もパシリムのような喝采シーンが無いのもいい
もちろん感動的な音楽が流れることもない
スローモーションで抱き合ったりもしない
いつ人類を再び壊してしまうかわからないゴジラを抱えたまま歩みを止めることはない
「今の日本映画でこれだけのことができるのか」という感覚を超えて「今の日本にはこれができる」という錯覚に陥るのは
前半の淡々とした会議、テレビ報道、お役所仕事といったリアリティが機能しているから
キャラクターとしてのゴジラでなく、舞台装置としての彼をここまで描いた映画は存在しなかった
そして我々が紛うことなくその舞台の上にいることをはっきりとつきつけてくる
少なくとも今後数十年これを超えるゴジラは現れない