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2022-07-04

侮蔑表現を気に入るというアメリカ伝統について

最近赤松健候補をレドマツ呼ばわりするのがニガーと同種の深刻な差別問題だという主張が頻繁にされていて、酷暑残酷さに心を痛め後遺症心配するところなのだが、「ニガーを当事者が言うのはOKだが外部が言うのはダメ」という言説はちょっと違うので一言言わせてくれ。

 

この「罵倒文句を己らの呼称として使うようになる」っていうのはアメリカ伝統なんよ。

 

ヤンキーヤンキードゥードゥル

Yankeeは元々北部アメリカ人の事で、主に南部人(デキシー)が使う罵倒語だった。

ところがこれを北部の連中は気に入ってしまい、自分らの事をヤンキー自称するようになった。NY州の大リーグチームはNYヤンキースだ。今ではアメリカ人=ヤンキーという使い方も一般的だ。

一方外国ヤンキーという場合は大抵が罵倒語だ。でも当のヤンキー達は気にせず使い続けた。

 

日本の『アルプス一万尺』はアメリカ愛国歌ヤンキードゥードゥル Yankee Doodle歌詞勝手に改変したものだ。

元は独立戦争に先立つフレンチインディアン戦争時に参戦したアメリカ植民地軍を揶揄した歌だった。

軍服も揃えておらず統率も取れていない、キビキビも出来ないアメリカ人達を正規軍人の英国人達が嗤った歌詞だ。

doodleとはダラダラテレテレしてる、ボケっとしてる、暇なのでイタズラ描きするってな意味だ。特別な日にGoogleロゴ特別なモノに変わるアレもdoodleだがこれは最後意味のイタズラ描きって意味だな。

そんなアホアメリカ人が手入れもちゃんとしてるか判らん鉄砲持ってテレテレタラタラやってきたよ、あーあ。ってな感じの歌なんだな。

そもそもヤンキー自体軽蔑語なので酷い歌だ。

「いなかっぺキョロ充が街に行った。羽付き帽被っただけでダンディのつもりだ。イカしてるねぇ神聖モテモテ王国だねぇ」

ところがアメリカ人たちはこの侮蔑的な歌を気に入ってしまった。それで自分らの歌としてしまったのである

独立戦争で歌われ演奏され、独立後の米国軍行進曲にしてしまった。

ペリー日本にやってきた時に上陸後は鼓笛隊演奏で行進したのだが、その時の曲はヤンキードゥードゥルだったのだ。

 

こんな風に建国の初めからしてこうなので、「罵倒語を気に入って使い始める」というのは後にアチコチで見られるようになった。

思いつく限り列挙してみたい。

・Black

The blackとかblack manとか使われていたが、肌の色を直接に示すので差別的だった。特にトイレバス座席施設入り口区分けなどで「black」「colored」と書かれていたので猶更である

だが公民権運動で「ブラック イズ ビューティフル」のスローガンが使われると当事者プライドと結びつき、やがてblack musicなど一般化された。

ここでの意味の逆転はアメリカ伝統があっての事だ。

 

レッドネック

南部白人の事で、農作業で首が赤く灼けた様をからかった語で、保守退嬰的、閉鎖的、進取の気性が無い、低学歴民度が低い、反国家的など酷い意味が凝縮された罵倒語。

しかしこれを当人たちはポジティブ意味で使う事が多々ある。

それは「なんでも自分らでやる」というライフスタイルへの愛着と自負で、南部農家は食料の入手から機械の手入れ、家の修繕、家具作成、車の修理や改造など、何でも自分でやる。これは日本農家なども変わらない事で、全体的に器用貧乏だったり詰めが甘かったりするが都会の人間からすると広く何でも出来るスーパーマンみたいに見えるものだ。

以前、トラクター会社機械部分をブラックボックス化して信頼性を上げる代わりにメーカーじゃなきゃ修理できないようにしたら大炎上した事があった。https://jfaco.jp/column/2435

レッドネックスタイル」を理解していなかったのが原因だ。これは米国では結構大きな問題になり、欧州の「修理する権利」と結びつける形で法制化が進んでいる。

日本メーカーアップル欧州の「修理する権利」で叩かれて電池交換や社外インク可能にさせられているが、この背景にもこの「何でも自分でやりたい」というマインドがあるのを忘れてはいけない。金と財産権問題しか見えないのは飼い慣らされている為だ。

から今では米国外で何でも自分で作ってみる、直してみるのを動画にしているDIY youtuberなどもレッドネック自称している。

 

クィア

Queerは元々罵倒語で変なやつ、男性同性愛者(婉曲)とかの意味だったのだが、意味が逆転されてポジティブ意味になった。

1985年バロウズ著『Queer』の日本語は『おかま』だ。この題は訳者山形浩生が付けたのか?ちょっと意味が違うと思うのだが。つーか、1985年でも男性同性愛を一緒くたにおかま呼ばわりはしてなかったんじゃないか?どうも腑に落ちない邦題だ。

Wikipediaには頭でっかちな事ばかり書いてあるが、実際はドラッグクイーンとかのワザとらしい性的倒錯仕草クィアとよんでたのが、マジのトランス女性などが世間に認められるようになると(イスラエルのDana Internationalなど)弾き出されて「LBGTに収まらない性的違和」を是認する意味になったとう感じだ。

この辺の変化、日本だと90sドラッグクイーン代表井原秀和円奴S(まるやっこスーパー)が女性目指すようになったのが象徴的。90sのクィアポジティブ化は米国ハウスシーンと共にあった。

 

・米民主党シンボルとしてのDonkey(ロバ)

ロバには馬鹿間抜け、グズ、ウスノロノロマ、うすらバカ等の含意がある。

勘違いしてはいけないのは、当初の民主党南部農民支持層保守政党で黒人奴隷解放に大反対していた。民主党共和党共に今と支持層、支持地域が逆転しているのである

大統領選で、そんな南部民主党出身大統領候補アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)をスマートで都会的な北部共和党議員たちがjackassと詰って呼んでいた。jackassは雄ロバの事だが、馬鹿間抜け、グズ、ウスノロノロマ、うすらバカ等の意味もある。

これをレドマツさんじゃなかった、アンドリュー・ジャクソンは気に入ってしまい、「アンドリュー・ジャッカスです(観客ワハハ)」とか自陣の象徴として使ったのである

それでその後もそのうすらバカでグズで間抜け象徴であるロバを大統領選で使うようになって今に至るというわけだ。

 

・Trap

ビデオチャットで「いい女やな~」「ぎゃ!ちんこある罠や!」っていうイタズラが元々なんだけど、すぐに生えてないなら興味ないっていう増田みたいなのが増えてtrapは売りに。

これはアメリカ伝統関係あるだろうか?3%ぐらいは関係ある気がする。付いててお得だし。

 

映画アンタッチャブルでの一コマ

1987年ブライアン・デ・パルマアンタッチャブル 』では主任捜査エリオットネスがガサ入れでヘマした所を記者写真に撮られ新聞トップ記事にされ、その記事オフィスに貼るシーンがある。

これもアメリカ伝統があっての事なんだろう。屈辱に耐えるのではなく、「侮辱を気に入る」のだ。それが先人がしてきた事だから。 

 

という訳で単にいつの間にか意味が逆転してしてしまうのではなくて、アメリカ場合侮辱を気に入る」「恒久的に自分表象にする」というコードがあるのだ。単に悪口を逆手にとって「○○ですが何か?」というのと違うのはその語をずっと使うって事だ。逆手に取るのとは違うマインドなんである

 

からニガーを当事者けが言ってもいいというのはこのアメリカ伝統の過渡期にある可能性があって、そのうち普通に使われるようになるかも知れないって事である

だったら差別語は何言ってもいいんだな、とか言って差別発言で炎上して失職したり家が突き止められたりというバカが出るのもネットの常である

2018-04-15

少年ヨルハ』を観ると、論理ウィルス感染する事で、自身の内に秘めた少しドロっとした感情が表に出てくるようです。

アダムに指摘された心情はそのような、他者には知られたくない部分だと思います

あの場面では、字面雰囲気から「殺したい」という文言が浮かびやすいですが、

9S場合、あの時点で2Bの正体に気付いていたとしても、「殺したい」と思うまでには至っていないとみています

それよりも、やはり、アンドロイドとは言え、異性ですし、「犯したい」かな、と考えています

生殖器を持っていないアンドロイド機械生命体には、「犯す」という概念は持っておらず、言語化が出来ないが、感覚としては持っているので、「△※したい」という表現になった、とか…。

ハッキング空間でのやり取りのため、

→ 明確に言語化されていなくても、意図意思は伝わる。

→→ スパイク・ジョーンズの『her』的な。

宗教ロボ編の脱出時や、ジャッカス発言から破壊衝動性的快感の関連が匂わされているとみています

そんな風に考えると、アンドロイドにとっては「殺す」≒「犯す」ともなり、2Bタイプ対して喜々と向かっていく、9S(汚染)にも通じるかな、と…。

また、設定資料集をみると、アンドロイド達にとって、人類は恐れ多い存在であり、その真似事を行うことすら、はばかられるらしいです。

人類アンドロイドの決定的な違いの一つとして、生殖行為があります

性欲に対して、現人類と同じようにタブー視している面もあるかもしれませんが、神に等しい存在の、それも聖域に対して、それを望む事、望んでいることを他者に知られる事は、非常に恥ずべきことなので、アダムに指摘された際に、感情的に否定したのかな、とも考えています

2018-01-29

https://anond.hatelabo.jp/20180129032542

陰湿イジメかどうかと、危険かどうかはまた別の話で、「陰湿イジメ」かつ「危険であるから炎上したのであれば「危険」なだけで炎上するような世の中になってほしい、と思わなくもない。

から十年ちょっと前、我々のサークルではジャッカス流行っていた。動画を見てパクり動画を撮って、サークル納会でそれを見て楽しんでいた。

私も考えなしにそのブームに乗って、スーパーのカゴ乗せる台車暴走したり、スキーウェアを着てスキー板をつけて道路を練り歩いたり、原付きにくくりつけたスケボーに乗って原付の2速に振り落とされて河原ごろごろ転がったりした。金曜日に「明日◎◎河川敷ジャッカスやるよ」って言われたら二つ返事で参加した。

見る方もやる方もゲラゲラ笑ってて、ただちょっと変で危ないことしてるだけでとてもハッピーだった。すごく楽しかった、先輩が死ぬまでは

先輩は、飛び込めるだけの深さがないプールに飛び込んで首の骨を折って死んだ。

楽しいから真似していいわけじゃないんだってその犠牲があるまで気付けなかった私達はすごく頭が悪かった。

プールでなくたって、スキー板のまま車に轢かれたり、川に流されたり、死ぬような危険はどこにでもあったのに。

素人がやったらだめなんだよ。素人っていうのは、日本テレビの人も含めて。

anond:20180129032542

ジャッカスって面白くないもん

ダウンタウン罰ゲームリアクション芸人のほうが笑えるし面白い

たけしのお笑いウルトラクイズって知ってる? 知らない?

アメリカの芸ってすごく大味

料理と同じで素材ぶち込んで単純に調理して消費して終わり

たけし軍団リアクション芸と同じ

ダチョウ出川みたいな様式美まで行かない

ジャッカスボックス持ってたけど、すごく後悔したもんね・・・

アメリカ人気取りしたいだけだったと気づいて反省した

2017-08-22

https://anond.hatelabo.jp/20170822073915

増田もそういうジョークだんだん理解するようになったりとか大人階段だんだん登っていくわけだけど、

から来る人や過去自分のことをそんなに蔑まなくてもいいんだよ。

ジャッカスとか電撃ネットワークはそんなスノッブでも面白いよ。

2015-02-02

ライトノベル構造的に馬鹿にされる宿命にある

ライトノベルに限らないが、構造的に「馬鹿にされる」場合がある。

定義曖昧で、玉石混交で、定性的評価されるもの全般のことね。

すると、自分感性で都合良く石だけピックアップして馬鹿にできる。

定量的に計測できたって、好きに時系列を切り出して、定義付けを恣意的にすればなんとでもなる。

そして、「なんとなくこういう批判がある・こういう擁護がある」と藁人形を用意すれば、

その架空人形サンドバックにするのは、とても簡単だ。

そこで、馬鹿にするのはどういう人か、何が批判足りえるのか、振り返ってみよう。

まず、ライトノベル批判否定形から追い込んでいく

「無い」事の証明は難しい。

から「有る」もので「ライトノベルで無い」モノを追いだしていこう。

表紙がアニメ絵である

太宰治ライトノベルか?

表紙がいわゆるアニメ絵柄かどうかは、絶対的な要因ではない。

から、「絵が恥ずかしい」というのは、表紙絵に対する批判であって、ライトノベル批判とは違う。

(勿論、「アニメ絵は恥ずかしい。太宰治もあれじゃ買い難い」とする批判はあるが、ライトノベル批判とは別軸)

キャラクター小説である

京極夏彦京極堂シリーズは、ライトノベルか?

キャラ立ちという意味で、ホームズを超える名探偵は出てきただろうか。

から、「類型的なキャラクターが出てくるだけ」というのは、その手の小説批判であって、ライトノベル批判とは違う。

(以後省略するが、そういう批判は当然あって良いが、ライトノベルとは独立

子供ティーンエイジャー)向けである

ハリー・ポッターは、ライトノベルか?

ファンタジーSFミステリから哲学に至るまで、子供向けに書かれた本を読む大人は多い。

から、「子供向けに書かれた小説を大人が読むのは」というのは、その手の読者批判であって、ライトノベル批判とは違う。

設定が稚拙である文章が頭悪そう

これに関しては、まさに定性的な(感性の)話になるため、具体例は省略したい。

ここでは、スタージョンの法則(啓示)を引用するだけにしよう。

SF(science fiction)の90%は、ゴミカスでクソだ。

同じ基準を使って、映画文学、民生品等々の90%がクソだと示せる。

からSFの90%がクソだという主張(または事実)は、究極的には何も意味しない。

なぜなら、SFは、他の全ての芸術形態品質と同じ傾向にあるという意味しかないからだ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Sturgeon's_law

から、「ライトノベルの大部分はクソだ」という批判は、何の情報量も無く、ライトノベル批判とは違う。

馬鹿にする、と、批判する、との違い

ここで映画バトルシップ」を持ってこよう。

ハワイ沖で行われる海軍の多国合同軍事演習さな宇宙人侵略してきて、自衛官海兵隊員が反目しながらも撃退するという

まあ、インディペンデンス・デイと戦艦ミズーリを足してブリトーで割ったような映画だ。

素晴らしく面白い愛すべき馬鹿映画だが、批評家からは当然のように酷評されている。

何が言いたいかというと、批評家評価と、馬鹿であるかどうかとは、分けて考えられている。

ビール片手にゲラゲラ笑いながら見るような「ジャッカス」みたいなのを「馬鹿だ」と言うのは、批判ではない。

それは賞賛なのだ

馬鹿にしているのは誰だろうか

さっき言ったように、「馬鹿であることは、比較独自の軸になる。

その上で、馬鹿にしているのは、例えば「パンチラの絵を付けて恥ずかしくないジャンル馬鹿にされて当然」のような、

ライトノベル」を「小説の一ジャンルとして、格下である」とする主張しか、残念ながら観たことがない。

比較的、嫌悪感忌避感のようなものだ。

これは、BL趣味とするのは気持ち悪いだとか、サラリーマン通勤中に漫画雑誌を読むのはガキっぽいとか、そういった類の主張だ。

好悪の主張であって、それはそれで、仕方がない面はある。

雑誌の表紙に水着女性を持ってくれば売上部数が上がるが、職場休み時間に読むのはどうだ?というレベルの話だ。

批判としてありうる話

ワリと珍しいのだが、硬派なSFライトノベルSFとが全く同じ題材を描いているものがある。

アーサー・C・クラークの「楽園の泉」と、野尻抱介の「ふわふわの泉」だ。

(まあ、内容的にはチャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」のもじりの方が相応しいとは思うのだが)

両者とも、「ロケット以外で宇宙に進出するための、巨大構造物を作り上げる人物」が主人公だ。

ポイントは、「楽園の泉」がハードSFか否かであるとか、「ふわふわの泉」がラノベかどうかではなく、

この両者を比較して、「どちらが低俗か」を論じる意味あるかないか、だ。

「どちらがより高尚か」や「どちらの方が格上か」でも良い。

ここまで題材が同じだと判りやすいのだが、

「大人なら、『ふわふわの泉』ではなく、『楽園の泉』を読むべきだ」

とは、ならないだろう。

だって、違う作品なのだもの。それは批判ではなく好悪の主張だ。

逆に言えば、作品の質についての批判なら出来るはずだ。

「『楽園の泉』は、建築家の名声について拘りすぎて主張がボケている、『ふわふわの泉』の方がSFとして良く出来ている」

なんていうのは、馬鹿にしているのではなく、(正しいかどうかは別として)SFを軸にした批判になる。

真っ当な批判は可能なのか?バカにする方の品性を疑うべきか?

例えば、俺TUEEEE系と言う価値基準において、

アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯」と、司馬遼太郎の「梟の城」と、佐島勤の「魔法科高校の劣等生」とを、

一緒に並べて比較して、「魔法科高校の劣等生を読むのは馬鹿だけだ」と言うことに、意味があるだろうか?

俺TUEEEE系の源流をたどって、湖の上を歩く男の話まで遡ったり、本邦においては勧善懲悪の仮託先であるとか、

そういった論文を描くことは意味があるかも知れないが、「馬鹿にする」というのは比較的には品のない行為だと思う。

例えば、今話題ピケティの「21世紀資本」を読むのが大人で、百田の「海賊とよばれた男」を読むやつが馬鹿にされてもしょうが無い、みたいな言い方はしないだろう。

現代ソマリア海賊を描いた「キャプテン・フィリップス」を見て「『パイレーツ・オブ・カビリアン』を見るとか馬鹿にされてもしょうが無い」みたいなことは言わない。

というわけで、馬鹿にする方の品性を疑うべきだと言うのが、オレの意見になる。

補足として:ただし、ラノベに出来の悪いものがあることを否定するものではない

どんな作品でもファンは居て良いと思うし、蓼食う虫も好き好きと言う。

例えば俺はバトルシップが大好きだが、蛇蝎の如く嫌う批評家が居るのも否定はしない。

アナと雪の女王よりはベイマックスの方が面白いとは思うんだが、GoGo好きなだけだろと言われれば否定はできない。

というように、主観的な好悪と、その技芸における比較批評、そのジャンルでの売上高なんてのは、全て独立の話だ。

そう言った点で、ラノベの中に上手い下手、エロに寄り過ぎだとか構成稚拙だとか、そういった批評はあって良いと思う。

ただそれは、作品単位、出来ても作家単位の話であって、「ラノベ全般に広げるのは主語が大きすぎて乱雑に過ぎる。

9割のクズを観てそのジャンル否定するのが愚かであることは映画絵画においては一般的なのに、ラノベがそうでないのは不幸なことだと思う。

2015-01-22

学習」した結果、嫌な大人になってしまった

半年ROMれ、みたいな事はもはや死語なんだろうが、

ネット学習した結果、嫌な大人になってしまった気がする。

具体的に言うとだ、ケンカを売らなくなった。

揚げ足を取らなくなった。馬鹿にしなくなった。指摘すら最近はしない。

「それ文中に予想されて既に書かれてるじゃん」とか

性格言葉遣いしか批判するとこ無いのか」とか言うとこから

データ範囲恣意的に切ってるよな」とか

「ソレは因果じゃなくて相関だよな」とか言うレベルですらも。

ブコメにすら書かずに心の中で、

一生懸命自己紹介お疲れ様です」

とだけ呟いて、世の中には幼稚園児みたいな馬鹿が多いなーとスルーするようになった。

もう、感覚尺度(例えば気温)に棒グラフが使われてたり、

逆に比率尺度(例えば収入)がゼロ点じゃないとか観ても、

「ああ、マジで高等教育を受ける機会がなかったんだな」

とかしか感じられなくなった。

だってさ、まともに大学行ってりゃ、引用作法はみっちり叩き込まれるじゃん。

多少面倒でも孫引きせずに1次データないか観に行ったりさ、分野はどうあれ史料精査はするだろうしさ、

邪推して相手をくさしても良いこと無いとか、大人になったらある程度わかるじゃない。

ある程度のことはやってみる前に判って、その上でやってみるわけじゃない。大人なら。

んでさ、ネットには言葉が通じる理解力のある大人が多いと思うわけだよ。最初はさ。

触っちゃヤバイ人も居るけど、大抵は、まあ、勢いでつい書いちゃうとか、情報が足りないだけとか、思うじゃん。

聖人じゃないんだから、いきおい暴言も吐くだろうし、一旦振り上げた拳は降ろすの難しかろうし、恥もあるから間違いを認めたくないとかも判るよ。

からさ、炎上狙って書くのあざといな、コメントすんの止めとこ、みたいなのはまだ良いんだよ。判ってやってんだから

ワザと棒グラフの足下省略したな、みたいなのはヒデえな、とは思っても、意図したとおりなわけだよ。3D円グラフとか。

でもさ、わりと本気の馬鹿も多いじゃない。

ここで言う馬鹿は、悪い意味馬鹿ね。DPZには載らないタイプ馬鹿ジャッカスとも方向性の違う馬鹿

ああ、何言っても疲れだけが蓄積するんだろうな、みたいなやつ。

から、ちゃんと啓蒙みたいにデータ引っ張ってきて丁寧に論述してるのを見かけると、本当に尊敬する。

で、振り返って自分は何やってるかって言うと、何もしてない。

絡んでも何の特もないなと思ってスルーするだけ。

わざわざ非を指摘する熱量を持てなくなった。

情報曖昧ときに、コメントを残さなくなった。

嫌な大人になったな、と自分で思う。どうすれば良いだろうね?

リアルなら良識ある大人の態度なんだろうけど、ネットでそれだからさ。

変に嫌みを言わないだけ、マシなのかね。

2010-08-28

今日辛かったこと

飯の最中ジャッカスを観てたらウンコシーンに当たってしまった。

オエッってなりながら鑑賞と食事を継続した。

 
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