はてなキーワード: ルノワールとは
なお野生のお子様ではないものの一時的ギャン泣き獣状態をおさめないクソ親とする
ルノワール 本当に無理
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この分け方でいくとつるとんたんは無理で丸亀製麺は当然OKとなる
結果自分が払ってる金額に「叫び声鳴き声泣き声でウッってなる瞬間などを減らし極力落ち着いて快適に過ごせるか」込みで納得してるかどうかってことかなと思った
そう考えると300円ちょいでお子様の声に文句言うのは筋違いなのかもしれない。でも自分もスタバに徘徊・咆哮・号泣の人(障害の人を含む)がいたらちょっと顔を顰めちゃうかもしれない。静かなお子様なら乳幼児でも全然気にしないけどそれはみんなそうだと思う。
「子連れは申し訳なさそうに利用しなきゃいけないのか」みたいなコメントが元増田にあった気がするけど「申し訳なさそうな態度」が大事なんじゃなくて「騒ぐ珍獣を宥めようとしているかどうか」が大事なのにそこが分かってないクソ親っているんだなって思った。宥めようとかその場から離れようとしているのに幼児が全然おさまらない場合もあるってのは仕方ないって分かってるので。
話を戻すと、その状態になっていて「子供はそれが仕事なので〜」ってツラで何もしないのが腹立つ金額の店かどうかってのが人によって違うんだろうなと思った。
2年くらい前にルノワールで仮想通貨の勧誘をしてるおばさんがこんな話をしていたことを思い出す。
「あれ、オタクくんはあたかも自分たちがイベントを成立させたかのように勘違いしてるけど
参加してるオタク君たちは、ただ電車に乗って他人様に迷惑をかけてることを自覚せずにイキってるだけじゃん。
ただこのおばさんがそういう話をしていたというだけだ。
私はこのおばさんに45万円を預けてマイナーな仮想通貨を買った。
1枚あたり3円で15万枚購入したことになる。
というか実際は0である。もはや買い手がつかない。
天気予報増田の言っていたとおり今朝はもちろん今週は寒いらしいので、
チャックの端にある、
チャックのレールの部分じゃ無くてチャックを通ってチャック通しをつなぎ合わせる列車みたいなのあるじゃない
でね、
しなった勢いで手の甲にバチコーンってヒッツしたの
夜のヒッツパレードじゃない方のヒッツで朝ヒッツといっても過言ではない分、
そのしなって勢いの付いたチャックのそのウィルソンじゃない方のチャックの部品が当たって
ファイナルファンタジーIIで自分で自分を殴ってもクリティカルヒットでないのに、
死にそうで生きてるけど、
思わず手の甲に青アザができちゃったぐらいで、
謎の青アザが膝にできるよりすでに謎は解決しているけど
なんだかみっともないなーってそう思うのよ。
痛いのはすぐに治っちゃったけど、
青アザが痛々しいわ。
まあ自分の青アザは自分がよく知って蒙古斑って言うぐらいだから、
みんな心配しなくてもいいわよ。
それはともかく、
年甲斐にも無くと言っても十分その年甲斐にはぜんぜん満たしてない歳なんだけど、
週末さー
気が付いたら夜が白んでいて
あさげ、ゆうげ、ひるげ、ってある家の、
てっきり「よるげ」かと思っていたら、
夜が明けかけていたのよ。
そっかもう「あさげ」かーなんつって。
というかクリアするつもりで、
私の見積もりが甘かったらしく10時間やってもまだまだクリア出来そうにないので
夜が白けてきて
私はホッと朝のデトックスウォーラーがわりに「あさげ」を一息で飲み干して、
1時間半ぐらいのおおよその目安にしてタイマーを掛けて仮眠したの。
直前に目が覚めるタイプの
目覚ましをしていてもなる前に起きちゃう現象に名称をつけて欲しいぐらい、
タイマーが鳴る前に目が覚めたの。
それはそれでいいんだけど、
約束の90分になってもタイマー鳴る気配が無かったから見てみたら
もとい
時分秒ってのが相場なんだけど、
年月日って数値で私は90年後に目覚めなければいけない設定していたのよ。
もう眠れぬ森の美女か、
それかエスエフのコールドスリープばりの90年寝るところだったわ。
無きことを得たのか
事なきを得たのか私は分からないけど、
仮眠しておこうと思った88分ぐらいで目が覚めて一安心だったのよ。
そんで5時にも飲んだ「あさげ」を7時半過ぎにまた飲むという
この「あさげ」のダブルヘッダー的な
1日で「あさげ」2杯飲んじゃうの!?って誰もがうらやむ状況だったわけなの。
でもさー、
結局その日1日ずっと眠たくて、
休日だからって朝方の時間までゲームしていたら生活が崩壊してしまうわって
何かを破壊したく思ったのか、
そのリズムを壊してみようとリズム壊しチャレンジに自ら挑んだの。
でも結果やっぱりどこかにシワ寄せが行くぐらいなドモホルンリンクルってレヴェルで
この時期ゆっくり湯船に浸かりたいほど
バブを抱きしめながら入浴して何か救いきれなかった履かない少女の儚い思いってファンタジーを私の中で紡ぐように
肌にも悪いし、
「あーもしもし、今日御社の記者さんが銚子の取材現場に向かってもうそちらに帰ってきてる頃だと思うんですがいかがですか?編集長」
「ええ、弊社の記者帰ってきてますよ銚子行きの列車に調子こいて乗って取材に行った弊社の記者が汽車で帰社しましたし」って
思わず私は、
お猿の篭屋の歌のように
えっさほいさが、
おんしゃへいしゃ!おんしゃへいしゃ!って聞こえるぐらいに
お猿の篭屋なわけ。
夜更かしはダメよってこと。
あと寒くなってきたから
馳せ参じるように風邪引かないようにってことが言いたかったのよ。
うふふ。
昨日買っておいた食べ損ねた海鮮チラシシースーを。
海鮮チラシなら話しは別よ!
お供の「よるげ」がなかったわけではないけど
ついついゲームやり込んじゃって食べるの忘れていたのよ。
さっき「あさげ」って言ったけど
お味噌を水で溶いたものを味噌ウォーラーって言うのはぜんぜんありだから
さすがにそれはしなかったけど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
美術手帖で連載中の「シリーズ:これからの美術館を考える」の第6回、横山由季子(金沢21世紀美術館学芸員)による「シリーズ:これからの美術館を考える(6) ブロックバスター展は善か、悪か|MAGAZINE | 美術手帖」。一読して何が言いたいのか理解し難かったが、それもそのはず、書いている本人が考えがまとまらないと言っているのだった。
まとまらない考え、逡巡をそのまま書いてしまいましたが、現状を共有することで、今後の共催展、ブロックバスター展について考えるきっかけになれば幸いです。
「考えまとめてから話せ、バカ」で済む話ではあるけど、一部好意的に受け止められている様子もあり、少しこだわってみたい。
まず、かなり気に食わないことの一つに、ブロックバスター展について「善か、悪か」と問うている点がある。「善悪」というのは倫理道徳的な価値判断であり、展覧会の評価をするにあたってはなじまない言葉である。「是非」でよかったはずだ。にもかかわらず、横山は敢えて「善悪」という強い言葉を用いた。その理由は推測することも可能だが、不要だから止めておく。ただ、私自身は「善か、悪か」という問いに答える気にはならないし、また応じて「ブロックバスター展は悪だ」と言っている人がいたら異様だと思う。些末な問題ではある。しかし、筆者の立ち位置や考え方が無意識に出ているように見受けられる所、注意を要する点である。
次。筆者はタイトルで「ブロックバスター展は」と議論の対象を提示する。そして文中で「ブロックバスター展」の定義を明確に行う。ここまではまったく素晴らしい。だが、なぜか横山は文中でブロックバスター展以外についても語り出してしまう。こんなわずか短い文章にもかかわらず、その対象を固定することすらできない。大丈夫なのか、この人?
実際に対象になっているのはブロックバスター展と共催展である。前者も後者の一部だが、このうち60~70万人ほどを動員したものを指すと定義している。もちろんそれ以上動員した場合も含まれるのだろう。また、共催展以外でこの規模の動員は不可能と考えられる。すなわち、60万人以上の動員を記録した展覧会はブロックバスター展だと言っていい。明確だ。
共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれるものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議でメディアの担当者と話していても、60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚がある。
共催展一般が共通するものであるならば、わざわざ分ける必要はない。だが、60万を越える規模になると、単に量の違いではなく、質の差が出るようだ。「60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚」というのはそういうことだろう。ならば、「ブロックバスター展」と呼び分けることに意味が出るわけだ。
しかし、結局筆者が俎上に乗せるのは共催展一般であって、ブロックバスター展特有の問題についての指摘はわずかしかない。筆者は読者にブロックバスター展のみに絞って考えて欲しいのか、それを含めた共催展一般について考えて欲しいのか不明である。というよりも、筆者自身の中で、その程度のことすら整理できていないのではないかと思われる。
そんな筆者横山が共催展やブロックバスター展の「現状」についてどのように認識しているか、批判的に捉えているか、文章を引用しつつ細かく見ていこう。
ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段は美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術の裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。
一過性の消費の何が悪いのかさっぱり分からん。人生は短い割に、世界はあまりにも豊かだ。誰しもが、美術とがっぷり四つに組んでいる暇があるわけではない。すべてのことに入れ込むことはできないわけだ。学芸員と成るほど美術に真剣に取り組んでる横山も、例えば音楽とか、芝居とか、映画とか、ほかのジャンルに関しては一過性の消費で済ませていたりするわけでしょ? 美術に対してそういう態度をとる人たちを批判する権利なんかないわな。
ブロックバスター展やそれに準ずる共催展に足を運ぶ人の多くは、作品を見に来ているのね。有名作に心踊り、傑作に胸を打たれに来てる。学術性とか、正直無くても構わないとすら思っている。
最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。
共催展の数を減らして、ブロックバスター展に集約していると読めるけど、事実なのか?
当たり前なのでは。
ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外の作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。
ブロックバスター展や美術館展など、学術性の低い展覧会を批判する人って、だいたい欧米によく行っていて、そこで十分に作品を見ている人なんだよね。だから、そういった展覧会が名作や有名作を持ってきているということ自体に意味を見いだせないわけだ。でも例えば、今後10年間、海外所蔵の作品を見ることを一切禁じるって言われたら、我慢できるの? できないでしょ。できないなら「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり」とか言って欲しくないよね。子供や仕事で忙しい人、貧乏人、障害者、老人。誰しもが気軽に海外に行けるわけではない。そういうところにブロックバスター展の意味の一つがあると思うんだよな。弱者に優しいという点を鑑みれば、筆者の問いかけに「ブロックバスター展は善である」と答えることも可能かもしれない。
共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者に展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館や展覧会の未来はそう長くはないであろう。
若者じゃないから分からないけど、どっちかというとやはりブロックバスター展の方が若者にリーチしていて、それより規模の小さい共催展に問題がある気がするけどなあ。今なら例えばフェルメール展とルーベンス展。
近代美術の延長線上に現代美術を位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆や草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディアが現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術と現代美術をつなぐ展覧会を企画したり、現代美術を一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。
これはブロックバスター展や共催展の問題じゃないよね。美術館や学芸員が怠けていたからこういう状況になったんじゃないの? 「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ」んでしょ。美術館主催で粛々とやってればいいのでは。
数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代や主題ごとに画業をたどるようなオーソドックスな構成となりがちだ。先行研究や調査をふまえた新たな視点を、カタログの論文や作品解説のなかで示すことはできても、展覧会の構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館やルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館の学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画の自由度が低くなるという側面もあるだろう。
そういう学術性は不要なんだって。単にいい作品を持ってくればいいの。学術性を発揮したいのであれば美術館主催の展示でやればいい。それでは自分の能力が十分に生かされないと感じるなら本場の美術館に就職してください。あと、日本の学芸員よりオルセーやルーヴルの学芸員の方が信用できるから、その場合は口出さなくていいよ。
オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、そして日本語や中国語、韓国語の資料も網羅されている)、それを日々リアルタイムで更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。
日本がフランス絵画についてオルセーと張り合う必要なんかないよ。自国の美術の研究環境が貧弱なこと(いろいろ話を聞くに相応の事実だろう)については悲しむべきことだけど、西洋美術は基本的に横のものを縦にしてればいい。もちろん立派な研究をなしとげれば敬意を表するが、俺達のブロックバスター展を研究発表の場として利用してくれるな。
私はブロックバスター展やそれに準ずる規模の共催展を楽しんでいるのだ。それを学芸員風情の浅薄な考えや安っぽい使命感によってぶち壊さないで欲しい。日本に居ながらにして傑作や有名作を鑑賞することができる。これだけでブロックバスター展は素晴らしいものなんだ。ということを学芸員や玄人気取りに理解してもらいたいのだが、なかなか難しいのかもしれない。
基本的な戦法は、「同じ文字で攻め続ける」です。始まる言葉が少なく、終わる言葉が多い「ル」攻めが基本ですが濁点が有効なら「ズ」の方が効果的です。
それで攻め続けるだけで、だいたいは勝てるはずです。
しかし、逆に自分が「ズ」攻めを食らったときのために「ズ」で始まる言葉を羅列しておくです。
そして取っておきの「ズ」で始まって「ズ」で終わる言葉
相手が中級以上のしりとリストならば「ズ」攻めを使ってくるかも知れません。「ズ」攻めを食らい続けて散々つぶした後に「ズ」返しをする戦法が最強です。