はてなキーワード: 牧歌的とは
え? 1と2はどこにあんの? って?
1はこれだね。
2はこれかな。
優秀ブクマカーに捕捉されないと、これだけブクマ数に開きがつくというのは凄いですね。
さて、今回の問題はそんなに長文ではありません。皆さんの思考能力を試します。
ゲルシュタイン報告という、これもまたホロコースト否認派が忌み嫌うホロコーストに関する告発報告があります。否認派にとっては、少しでも内容がおかしければ全て間違いであり嘘であり捏造であり信用ならないものなのですが、ゲルシュタイン報告には実にたくさんの首を捻る記述がありので、さすがの正史派も取り扱いに困る報告書だったりします。クルト・ゲルシュタインはアウシュヴィッツではなく他の絶滅収容所を手伝った人物なのですが、戦後、この報告を書いた後自殺してしまいます。ですので余計に謎に包まれた感じもあります。
ゲルシュタイン報告それ自体については、ドイツ語ですが、以下をご紹介します。しかしいくつか修正バージョンはあるようで、私自身はこれ以外のバージョンを把握してはおりません。
NS-Archiv : Der Gerstein-Bericht
で、何が問題かというと、色々あります。本当にどう考えても間違ってるとしか言いようのない記述もありますが、その中でもこれがよく突っ込まれます。
さて、これは本当でしょうか? 実は正史派もこれを信じてはいませんでしたし、170〜180人の間違いであろうと言った人もいるそうです。
問題の段落を、上のリンクから、翻訳エンジン直訳で以下に引用しましょう。
そして、電車が動き出す。美しい若い女の子の前では、彼らはすべての裸、男性、女性、子供、義肢のない通りを歩いています。私は、部屋の間のタラップの一番上に ヴィルト船長と一緒に立っています。赤ん坊を胸に抱いた母親たちが出てきて、躊躇して、死の部屋に入っていく。- 隅に立っているのは屈強なSSの男で、貧しい人々に向かって牧歌的な声で「あなたには何も起こりませんよ!」と言っています。あなただけの部屋で深呼吸をする必要があります、それは肺を拡張し、この吸入は、病気や伝染病のために必要です。どうなるかと聞かれると、「そうですね、もちろん男性は家を建てたり道路を作ったりして働かなくてはいけませんが、女性は働かなくてもいいんですよ。本人たちが希望すれば、家事や台所の手伝いをしてくれるだけです。" - これらの貧しい人々の何人かにとって、小さな希望の光は、彼らが抵抗することなく会議室までのいくつかのステップを歩くのに十分である - 大多数は知っている、臭いは彼らに自分の多くを教えてくれます!これらの貧しい人々のために、小さな希望のきらめき。- そこで彼らは小さな階段を登っていくと、すべてが見えてくるのです。胸に子供を抱えた母親、小さな裸の子供、大人、男、女、すべての裸......彼らは躊躇しながらも、後ろにいる他の人たちに押し進められたり、親衛隊の革の鞭に突き動かされたりしながら、死の部屋に入っていく。何も言わずに多数派。炎のような目をした40歳くらいのユダヤ人女性が、殺人犯の上にここで流されている血を叫ぶ。彼女はヴィルト大尉自身から乗馬鞭で顔面を5、6回殴られた後、彼女も部屋の中へと消えていきます。多くの人、祈りなさい。私は彼らと一緒に祈り、自分を追い込み、自分と彼らの神に向かって大声で叫ぶ。彼らと一緒に部屋に入りたかった、彼らと一緒に死にたかった。彼らはその後、彼らの会議室で制服を着たSOの役員を見つけただろう - 問題は事故とみなされ、跡形もなく消えて処理されただろう。だから私はまだ許されていません。私がここで体験していることを、先に発表しておきます! - チャンバーが埋まっていく。しっかりと荷造りをしろ、それがヴィルト船長の命令だ。人はお互いの足元に立っている。45立方メートルで25平米で700人から 800人! SSは物理的にはありのままの姿で、それを一緒にしぼっています。- ドアが閉まる。その間、他の人たちは裸で外で待っています。言われてみれば:冬でも同じ!?そうだが、彼らは死を捕らえることができる、と私は言う。- そう、それだけのために親衛隊員が日記で語っているのだ。- 今、私はようやく、この機関がヘッケンホルト財団と 呼ばれている理由を理解しました。ヘッケンホルトはディーゼルエンジンの運転手であり、小さな技術者であり、工場の建設者でもある。ディーゼルの排気ガスで、人が殺される。しかし、ディーゼルが効かない! キャプテン・ヴァースが来ます 私がここにいる今日だけで、こんなことが起きなければならないと恥ずかしい思いをしているのがわかります。はい、全部見えています! そして、私は待っています。私のストップウォッチは全て順調に登録されています。50分70秒 - ディーゼルが始動しない! 人々はガス室で待っている 無駄だ!泣き叫ぶ声、すすり泣く声が聞こえる[13] ... ヴィルト大尉はディーゼルでヘッケンホルト親衛隊員を助けるはずのウクライナ人の顔面を鞭で12、13回殴った。2時間49分後、ストップウォッチがすべてを記録した後、ディーゼルが始動しました。この瞬間まで、人々はこの4つの部屋、4倍の45立方メートルに4倍の750人の人々が住んでいます! - またしても25分が過ぎていく。そう、多くの人が死んでしまった。電灯が一瞬だけ部屋を照らす小窓から、彼らが生きていることがわかります。28分後にはまだ数人しか生きていない。ついに32分後にはすべてが死んでしまった!
さて、読者はどう思われますか?
当然こういう問題の出し方ですから、700〜800人入ったという答えを私が持っていると、皆さん想像されるでしょう。でも、取り敢えずはそんなことが可能なのか素直に考えてみてください。どう思われますか?
くらいだろうか。他にも幸福度ランキングやジェンダーギャップ指数で世界的にも高い地位を確立している、とか、移住先に良いとか、ラストリゾート的な扱いを受けていたり、後はタックスヘイブンみたいな扱いだったこともあった。
今回はニュージーランドが余り公に言わない部分をちらっと書く。
何で書こうと思ったかと言うと、朝日新聞でも書かれた「子供の幸福度」についてだ。日本は20位で「さすがは鬱苦しい国ですね」とか大盛り上がりしている人もいるようなんだけど、日本人がどこかピュアな国のように感じているニュージーランドは何位だったか知ってる?
41カ国中35位
ただ、現地にいる身としては、割りと「そんなもんだろうな」という感想だったりする。それはNZ社会にある動かしようのない格差というのがあるからだ。NZでは金持ちは金持ちのまま、貧乏人は貧乏人のままになるように社会が作られている。意図してそう作っているかは知らないが結果的にそういう国だ。
現地で聞いているところでは、子供の貧困や自殺率が深刻だ、という点。肌感覚で感じているのは、移民国家ならではの若者社会での将来に対する行き詰まりや貧富の格差だ。
長々書いたが、NZでは自殺が高くて結構問題になっている。日本人が大好きなジャシンダ・アーダーンが首相を努めていた2018−2019年が何気に最高記録に到達している。
https://www.nzherald.co.nz/nz/news/article.cfm?c_id=1&objectid=12262081
自殺率は10万人あたり13.93人。自殺者の内訳では、若者、マオリ族、パシフィカと呼ばれる人たちが特に多い。パシフィカというのは、サモア、トンガ、フィジー、ツバル、クック島のマオリ、ニウエ、トケラウ、キリバチの人たちらしい、実はこれらの国々はNZが管理というか、サポートしており、パシフィカたちはNZに移住することができるんだそうだ。ただ、日本人からしたらまるで異世界に感じるようなのんびりした国々らしく、資本主義の競争社会であるNZで振り落とされてしまう人々も相当いる。
日本では2万人くらいが年間で自殺してるんだっけ?1億人で2万、10万人で20人くらいか。日本よりは少ないな。ただ、10~24歳の間では10万人あたり35人に急に膨れ上がる。要は若者が結構自殺しているということだ。他にもいろんな指標があって、この数字を大したことがないように見せることも可能かもしれないがNZでは若者は割りとバンバン自殺している。
若者が自殺してしまうという理由はいっぱいあるんだろうが、まずはこの国には覆し難い貧富の格差がある。金持ちはどんどん上に行ってしまうように社会ができていると書いた。
例えばなんだが、学校だ。
学校ではディサイルという寄付金制度がある。貧困層が多い地域では寄付金は少なめ、税金の投入を多めにする。金持ちが多い地域では寄付金が多め、税金の投入を少なめにするというバランスのとり方をしている。
この制度の良いところはノーブレスオブリージを地で行っているところだ思うかもしれないんだが、実質としては教育の格差がどんどん広がるという制度でもある。税金でまかなえる部分は結局最小限なので、貧困家庭の学校に通う子どもたちには、最低限の教材しか与えられない。一方金持ちが行く学校では、こっちの金持ちなんかは普通に自家用ジェットで飛んでいける家庭ばかりなので、なんでも買い与えてしまえる。
2015年の記事なんだが、教育における大きな格差についての記事がある。
https://www.nzherald.co.nz/nz/news/article.cfm?c_id=1&objectid=11539592
この記事を読む前にNZの大学について少し書くんだが、NZでは大学の質は結構高く、最高学府のオークランド大学に大学ランキングで上に立っている日本の大学は、東大、京大しか無い。で、この大学に入るためにはNCEAという試験を受ける。
NCEAでは取ったスコアに応じてクレジットが溜まっていく、試験は高校に入ったくらいからコツコツと受けていき、LEVELは3まである。3を受けるには2に合格、2を受けるには1に合格というふうにステップを踏んでいく。クレジットは、各レベルの得点が高いほどたくさん溜まり、好成績を維持すればボーナスクレジットもある。
大学の学部に応じて、NCEAの必要なレベルと科目が指定されているので、受験生たちはこれらの科目を一生懸命勉強してクレジットをためていく。そして志願者の中からクレジットが多い順に合格、というようになっている。
そして、裕福な家庭の子どもたちは貧困家庭の子どもたちに比べて25%レベル2に合格する率が高く、30%レベル3に合格する率が高い。これは金持ちの子どもたちがどんどんと大学に入ってしまい、貧困家庭の子どもたちは大学に入れるほど学力が上がらないか、自分たちより確実に試験に合格していく金持ちたちに物量で遥かに不利な戦いを挑んでひっくり返す必要がある。
日本からNZに移住する人たちの中にもNZの教育は日本に比べて質が高いという人が結構いるんだが、このディサイルという制度を知らないで適当に選んでしまうと、偉いことになってしまうので、よく調べて、寄付金を支払えるか、その地域に住めるかとかを考えてこっち来るようにしましょう。
墓に御供物を残すと聞くと、なんとなく良いことのように聞こえるが、それが食品の場合、単なる「フードロス」でしかない。
御供物を残しても、墓に入った人物が実際それを食べるわけではないのだから、墓に供えた後は持ち帰り、自宅なりでそれを頂くというスタイルでも良いはずだ。
実際、自宅にある仏壇や神棚ではそうしているのだから、儀式的に何の不都合も無いだろう。
残った御供物は結局、カラスやアリの餌にしかならず、近所迷惑である。そのため、御供物を残すことを禁止する墓地も実際にいくつかある。
主体が墓地管理者の連合体なのか、宗教的連合体なのかはよく知らないが、墓に御供物を残すことを全国的に禁止すべきではないだろうか。
コロナ寡とでも呼ぶべき、墓参りする人間が少ないこのお盆は、墓参りの「新しい生活習慣」を根付かせる良いタイミングにもなるだろう。
そもそも、御供物として食べ物を無駄にすることに対して、宗教はどう思ってるのだろう?
それに、自宅に仏壇がある場合、墓と仏壇のどちらに死んだ人の本体が存在するんだろう?
コンビニのおにぎりの紐を引っ張るだけで開けられる仕組みを発明したのは自分だと主張する人にこれまで6人会って来たけど、この中の誰ひとり楽譜を読める人はいなかった。それもジャクソン5が人格統合される前の話だから、2分の1の確率でゼラチン状の塊になるし、仮に人間の形を留めていても会話をすることはまず望めなかった。だから駅まで傘を届けに行った時も、ほとんどの改札はNECのPC98で動いていたし、止まる電車もすべて1980年代へと向かっていた。あの時前の方に座っていた人はみな48時間以内に死亡していたというから、いかに日本全体が浮かれていたかが分かる。今だったら豆を撒いても回収には行政の許可が必要だったかも知れない。牧歌的な時代というべきか...。
むかし彼女とブダペストに旅行に行って、チタデラって名前のちょっとした山に登った。
英語かイタリア語かフランス語か知らないが、とにかく城砦を意味するCitadelって単語からきた名前らしい。たしかに無骨な砦のようなものが頂上にあった。
砦そのものには入れないが、高度と位置がちょうど良くて市街が一望できる。いろんな国籍の人が集まって街を見下ろし、思い思いに写真を撮ったりしている姿は牧歌的で素敵だった。ドナウの真珠と呼ばれるだけあってブダペストの街は美しく、それなりに感動した覚えがある。俺たちもドナウの真珠をバックに写真を撮ったが、自撮りが下手すぎて2人の顔ばっかり写っていた。
チタデラ、いい思い出だ。
で、この前なんとなくグーグルマップを見ていたら近所に「知足寺」という寺をみつけた。ちそくじ、とでも読むのだろうが、ちたでらとも読める。なんてことはない普通の寺だが俺たちは大いに盛り上がり、日本のチタデラへと向かった…というのはウソで、彼女は「べつに行くほどではないかな…」とつれない態度だったので俺だけ行った。
普通の寺だった。人はいなかった。境内に入って声をかけられたら怖いので、外から眺めるだけで帰った。
彼女にその話をすると、「よかったね」と言われた。 完
嵯峨野観光鉄道に恨みはないしむしろ積極的に乗ってみたいけど、動画を見た感じ圧倒的に速度が足りない
ああいうキレイな景色の中を牧歌的なスピードで走る体験を求めてるんじゃない もっとこう猛スピード・落ちたら死ぬ・触れても死ぬ!みたいなヒリヒリするような緊張感が欲しいんスよね
https://wwr-stardom.com/news/release523/
正直、存じ上げない方だったし、テラスハウスも見ていないので事のいきさつはよくわからない。
見出しが目に入ったとき、事故死か、急病か…もしかしてコロナ?…とか思った。いずれにせよ若いのに残念なことだ、と。
原因(と思われる事象)は、ネットの歴史で嫌というほど繰り返されてきた、ありふれた事件のひとつではある。具体的な案件、被害者を挙げればいとまがない。対処法も千差万別、裁判所に持ち込んで徹底抗戦をする、これも有名税と割り切った対応をする、など。
ただ隣国・韓国で相次いだ、トップアイドルと言って差し支えないレベルのタレントの自殺事件があって、様相がすこし変わってきてもいた。そしてついには、日本でも 同様の事件が起きてしまったということか。
いわゆる、こうしたネットイナゴ/ネット暴徒にどのように立ち向かうか、また、そもそもここで言う悪とは何なのか誰なのかといった論は差し控える。付け焼き刃の知識で雑な論を書いても何も実るものはない。
ただ、私自身、この事件に腑に落ちない、わだかまりを感じている。すなわち、SNSで叩かれて、なぜ自ら命を断たなければならないのか、ということに、左脳的なところでは承知していても右脳的なところで納得がいっていないのだ。
私事で恐縮だが、昨年書いた増田がプチ炎上をした。頭の悪いことにセルクマなんていうものをしていたため、はてブの通知は大変なことになった。ブクマ数が10を超えたところで「おや?」となり、そこからはあっという間だった。ブラウザを更新するたびに数字は増え、アプリを開くたびに通知が届いていた。最終的に300くらいになっていたはず。というのは、該当する増田およびブクマをこころの裡に封印しているからだ。思い出したくもない屈辱である。
そんなに大したことのない数字ではある。しかし、こちとら鳴かず飛ばずで10年やってきた。今回もひっそりと増田の片隅に埋もれるものだと信じて疑わなかった。そういう身に、これはかなり刺激の強いできごとだった。
このとき私が試みたのは、アプリを消すということ。10年やってきてそこそこスターもつけてもらったアカウントだし、物書きなので、一度書いたものはどんなに拙かろうが残すべきである、それを含めて責を負うべきなのだ…などと半端なプライドがあったりもした。アカウント/エントリーを消す、という方策は初めから俎上に上がらなかった。代わりに、アカウントと実世界で生きる「私」との間にある接点を切り離すことにした。
どれだけ反論してみても意味はない、ただ時間が過ぎるのを待つしかない、ということを長年のネット経験で感覚的に理解してもいた。そうして半年ははてなのサイトには近づかないようにしようと誓った。その代替として、グノシーだのスマートニュースだのを入れてみたが、これらは端的に言ってクソだった。
私は1980年代初頭の生まれでいわゆるアラフォーという年代なのだが、ネットの世界は極論的には物理の力で強制的に遮断できる、という観念がどこかにある。
「勇午」という漫画で、敵に逆探知(?)かけられそうな時に電話線もろとも切断する、というシーンがあったはずなのだがまさにこういうイメージだ。
ところが今の10代〜20代前半の人たちの文章を読んだり、動向を追ったりすると、SNSが日常やこころの深いところまで入り込んでいることが見えて驚きを禁じ得ない。
「言葉の暴力が人を殺す」とはネット時代以前から言われ続けている。それ自体は新鮮な論ではなく、ここに疑いの余地はない。彼女を死に至らしめた誹謗中傷を許さない。書き込んだ奴らは恥を知れ。まったくもってその通りである。
ただし、善人ばかりで回らないのもこの世の常。防衛の手段としてなんらかのオプションを持つことも生き抜くためには必要な知恵かと考える。その際、SNSを、そこで持つペルソナを自身から切断するという手段は、もはやネット黎明期の牧歌的な幻想なのだろうか。
ちょっと咳っぽい。2日くらい前から、鎖骨の下あたりがもやもやと炎症を起こしているような感じだ。耳の下のリンパ腺を押してやるとちょっと痛い。食欲も少しだけ落ちたような気がする。ただ、熱はない。
半年前の世界なら、まあ単なる「風邪」ですね。これぐらいの症状じゃ休む理由にもならない。ところが、いまのこの世の中では、背筋にひやりとしたものが走る。いまいちばんヤバいアイツに罹るということがもたらすのは、肉体的なダメージ、それもさることながら社会的なダメージもかなり大きいからだ。
今朝、アパート(半分シェアハウスみたいな)のグループメッセージに、近所の交番でコロナ感染者が出た、と来た。消毒をしていると。怖いですねー、こんな近くまでもう来てるんですね、と別なメンバー。怖い、確かに怖いのだが、自分を感染したひとのその身に置き換えると、さらに怖い。プライバシーもへったくれもない。これがパンデミック下の世界なのか。
(まるで某ロードの歌詞のようだが)ちょうど3年前のいま頃、当時暮らしていた広島から、横浜に引っ越すにあたって準備を進めていた。そのまっただ中に風邪を引いてしまった。発熱、止まらない咳、食欲減退(食欲魔神のわたしとしては、これがいちばん辛かった)。
普段は近くのドラッグストアで風邪薬を買ってきて、安静にしとくくらいのことで終わりにしてしまうけど、なにしろ日程は決まっていて、悠長なことも言ってられない。やむなし、内科に行った。およそ3年ぶりくらいの来院だった。
センセが言うには、インフルエンザも陰性、単なる風邪、お薬出すから安静にしときなさい。まあ、安静になんてできないけど。何しろ旅立ちはもう4日後に迫っていた。いわゆる汚部屋状態のリカバーだったから、とにかくやることが多いのだ。
盛大に咳き込みながら引越し作業を進めた。その一方で、親しくしてくれた友人たちと飲みにも言った。美味しそうなものが並んでいるのに、食欲が全くわかず、酒ばっかり飲んでいた。締めにラーメン屋へ半ば強引に連れてかれたけれど、ひと口ふた口すすったくらいで吐きそうになってしまい、しょうがなし、残りを食べてもらった(これもいまの世の中ではNGですね)。いつもなら白飯追加で注文していただろうに。食べられないということがこれほどまでに辛いと感じたこともない。
当日になって、ようやく「むさし」のおにぎりを新幹線で頬張れる程度には回復したものの、咳は止まず、その後、新居に荷物を入れて、イケアやらヨドバシやら回って買い換えるものを買い替えて、そして1週間後、新しい職場で働き始めてからも、まだ続いていた。結局、完治といえる状態になったのは、発症から2〜3週間くらい経ってからだった。
別にインフルエンザでなくとも、タチの悪い風邪というものは、これくらいタチが悪い。正直、いまをときめく、新型のアイツの症状も、大部分の人間においてはこんなものか、もっと軽いだろう。肉体的なダメージで比べたら。
ただ少なくとも、このパンデミック下における世界とは、緊張感が全く違った。インフルエンザでもないなら、こちらの免疫力の問題で、人にうつして悪くなることもなかろう、とマスクすらしてなかった。
ちょっとぐらい体調が悪くても、気にも留めない。そんな牧歌的な世界が、いまは懐かしい。
いまは、ただピリピリしている。体調が少し崩れるごとに。お腹が空かないなんて、むしろダイエットのいいチャンスぐらいに考えていたのに。
このウィルスの特性上、ウィルスを持っている人を遠ざけるしかないから、人びとは防御的に動かざるを得ないのだろう。それが時として、過剰にヒステリックに見えて、怖くも思える。
いまや、咳が出るくらいの症状を「風邪ですね、お大事に」と流すことはできない(例え本当にただの風邪だったとしても)。そして、ただただ肝を冷やすばかりだ。世間の矢面に出ないように。
去年は池袋で桜を眺め、来年の自分はどこにいるか考えながら、ぼんやり米をほうばっていた。
それがまさか在宅勤務になって、マンションの桜を見ながら弁当を食べてるとは思わなかった。
マンションの桜はいつも子供が遊んでいる広場に咲いていてやや近寄り難く、いつも気がついたら散っている存在だった。
在宅勤務の昼休憩は12時からと決まっている。チャットで休憩に入りますと伝えるのもルール。
いつもの弁当箱じゃなくて、洗いやすいタッパーに米と昨日の残りの春巻きと卵焼きだけつめて階段を降りると、マンションの広場にはそこそこ人がいた。みんなそれなりの距離を保っている。
同年代の夫婦はシートを敷いてお弁当を広げ、老夫婦はベンチに座ってパンを食べて、子供と母親はサッカーをしていた。
わたしも空いていたベンチに座って、秒で作った雑弁当を食べ始めた。見た目は最悪だけど美味しい。
こんな真っ昼間から、後ろめたさもなく、堂々と当たり前にマンションの敷地内にいるのに不思議な気持ちになった。
桜を楽しみながらタッパーの中身を食べて、お茶を忘れたことに気がついて部屋に戻った。
さっきまでいた広場を見下ろすと、サッカーをしていた子供と母親の輪に父親が増えていた。平日の昼間から家族3人でサッカー。父親も在宅勤務で昼休みなのだろうか。いい光景だ。
少し昼寝をして、チャットで戻りましたと言ってまた仕事に取り掛かった。
在宅勤務になってパワハラめいてる上司への緊張と萎縮がなくなった。画面に資料が映ると声だけになって圧が減る。バンバンと机を叩くマウスの音が聞こえないから資料に集中できる。資料が映ってない時は上司のウインドウを小さくしてしまえばよかった。小さい画面の中で動く上司はいかつい顔をしていても怖くない。愉快。
仕事が終わった後は、凝り固まった体をどうにかしたくて、そして少しでも運動不足が解消されるように沢山の家事をする。
食器を洗い、ご飯を作り、ルンバとクイックルワイパーかけて、洗濯とトイレ掃除をする。
今まで平日夜に家事をすることなんてほとんどなかった。かろうじて弁当箱だけ洗って他は放置していた。
ご飯を作り出すと匂いにつられたパートナーが、休憩がてら部屋から出てくる。
一緒にごはんを作ったり、やることがなければ他の家事をしてくれる。
パートナーは週の半分は会社に泊まり、もう半分は終電という働き方をしている激務の人だった。平日はおろか、土日でも会えない期間があった。
それが4月になった途端、突然今までの倍以上の時間を一緒に過ごせるようになった。
昨日は引っ越し2年目にしてはじめて魚を焼いた。魚焼きグリルの使い方がわからなくて二人で調べながら頑張った。
冷蔵庫をあけて食材がぎっしり詰まってる光景もはじめてでわくわくする。今まではコンビニかマクドか外食だった。
パートナーの集中力が切れて深夜休憩にはいるタイミングで、少し歩いて二人でスーパーに行く。
年末に買った米3キロがようやく無くなった。元々少なくなってたけど毎日食べてるとあっという間で驚いた。
肉や野菜をエコバッグに詰める。腐らすことなく干からびさせることなく使い切れる確信を持てて嬉しい。満ち足りた気持ちで帰り道を歩いた。米は重いから交代で持って、Amazon使えばよかったのになんで買ったんだと笑った。多分ふたりともこの非日常に浮かれていた。
すっかりコートのいらない気温になっている。
夜桜が綺麗だった。
月も霞がかって風情があった。自然の美しさをそのまめ受け止められる心の余裕がある。
夜桜を見上げながらずっとこんな生活をしてみたかったと気がついた。
夢が叶った気分でいる。
実際に似たような生活をしていた期間もあったけど、それは無職の時はだった。焦燥感と自罰感情で自暴自棄だった。
ていねいな生活ってこういうのを言うのかな。心のゆとりをもって生活する日々がこんなに幸せなんて知らなかった。
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https://b.hatena.ne.jp/entry/s/japanese.engadget.com/jp-2020-02-08-ota.html
ブコメでも「販売店がインフォテインメントを初期化し忘れたのかな?」なんて牧歌的なコメントが見られるので解説しておく。もっと邪悪なことが行われている。
ナビの機能で車の動作や性能を遠隔で動作、追加、削除、ロックできる。
ドライバーが車に近寄って、カードキーかリモコンキーで車を開錠する(機械的な鍵穴は一切無い)と、普通の車なら車のセキュリティ装置とキーが相互に認証して終わりだが、テスラの場合は、そこから車がマイテスラアカウントにログインする。全てのテスラ車はマイテスラアカウントに紐づけられていて、必ずSIMカード入りのLTE無線が搭載されていて、ちょうどMDMでプロビジョニングされた携帯のようにテスラによって集中管理されている。販売店は全て直営で、中古車を譲渡する際は必ずテスラへの申請とマイテスラアカウントの紐付け変更が必要になる。これを行わないといつまでも前の持ち主が所有していることになる。そして、テスラは全ての車の構成ファイルをサーバー上に持っていて、自動運転や加速性能の購入その他アップデートがあると、車がログインした際に変更通知を受け取り、必要なファイルをダウンロードしたりリミッター設定を変えたりする。
現在では一般の自動車でもSIMカード入りの無線機能が搭載されていることが多いが、利用者と紐付けたり車の他の機能と連携させるようなことは常識的にはやらない。
これら全ての仕組みはセンターコンソールの巨大なナビ(前期型ではTegra 3、現行はIntel Atom)で実行される海賊版Ubuntu Linuxで管理されている。
カリフォルニア州の欠陥車返品制度(保証期間内に保証修理が繰り返されると、法律上の欠陥車として強制返品できる)で返品された車がテスラから再販売され、それを中古車販売店が購入し再販売した。
その後、いつの間にか構成が変更され、テスラが「搭載済み」として販売した以下の三点が遠隔で「削除」された。後の二つは対外的に「物理的に機械装置が異なる」と説明されてきたもので、前例がない。
・「完全自動運転」機能(レベル2の車線維持・自動車線変更機能)
・パフォーマンスアップグレード(通常型と仕様の異なる大型モーター)
・ルーディクラスアップグレード(通常型と仕様の異なる配線変更、リミッターソフト解除)
おそらく、テスラは旧型のモデルS、モデルXの売り上げを新型のモデル3に食われている。モデル3は表向きモデルSの下位互換とされているが、ソフト的なリミッターを全て外すと0-100km/h加速が2秒デッドという噂も立っているほどで、パネルの浮き、シワも少なく、特に中国生産分は日本車や韓国車と比較できるほど仕上がりがよいと言われ、全体にテスラの中で最も出来が良い。でありながら戦略的価格設定のため旧型に比べ最大4倍安く、マージンが存在しない。このような状況で、表向きは上位互換である必要があるモデルSやモデルXのパフォーマンスモデル中古車が出回ることは避けたかったのだと思われる。問題の車体は自動運転のためのカメラやコンピュータ類が古く、テスラは最新型への無償交換を既に度々確約している。テスラは最近、自動運転ソフトの全面刷新に何度目かの再挑戦を進めているので、その過程で「安く手に入れたパフォーマンスモデルで自動運転も改良してもらった」という評判が立つことを避けたいと思わせる知見があった可能性もある。
上に書いたように、テスラの性能や構成は車台番号で決まり、マイテスラアカウントと紐付いていて、テスラ社の判断でサーバーから勝手に書き換えることができる。
いちゲーオタ中年男性のハートのど真ん中の最奥部に抜けないほど深く突き刺さった「テン年代ゲーム」10本をランキング形式で挙げていきます。お付き合いください。
のっけから「特別賞」から始めることをお許しあれ。ランキング発表後だと、1位よりもスペッシャルな空気を醸し出してしまいそうで。それを避けたかった。
でも、本作がとくべつな1本であるには違いない。だから悩んだ挙句の……「特別賞」。まんまでごめん。
個人的には『ノベルゲー」って昔からあんまやらないんです。ノベルゲーやる時間あったら小説を読むほうが(たいてい)有益だろう、という長年の思いこみ集積のせい。でも、『Doki Doki Liteature Club』は例外。ゲームらしいインタラクティブな要素があるわけじゃないのだけど、小説でもマンガでもアニメでもこの表現は絶対不可能。
本作の凄さについてはもはや語り尽くされている感があるし、強く深い思い入れを持っている方が世界中にいらっしゃることも存じておりますし、まだプレイしていない方のためにも、内容については何も言いたくない。
でも、これだけは言わせてほしい。
本作は「神は存在を愛している」ってことをギャルゲー/ノベルゲーのガワで見事に顕してみせた一大叙事詩である。ここには生があって、性があって、詩があって、死があって……愛がある。さらには現象学的「彼方」をも開示してみせる。
その(一見)破天荒、かつ強烈な内容に憤怒するかもしれない。ショックのあまりマウスを壁に叩きつけるかもしれない。号泣するかもしれない。戦慄するかもしれない。でも最後にはきっと宇宙大の愛に包まれる……絶対。
ああ、すっきり。
では、こっから心置きなく2010年代・心のベスト10を発表させて頂きます。
「……なんか妙に懐かしいな。子供の頃、お前と行った鵠沼海岸をまざまざと思い出したわ」
ゲームと本の山でとっ散らかった僕の部屋にやってきて、このゲームをしばらく遊んだ君は、いかにも重たいPSVRヘッドギアをつけたまま、そう呟いた。
僕はかなり潔癖症だから、君が顔じゅうに汗をたっぷりかいてることがひどく気になって、除菌ティッシュ片手にそれどころじゃなかった。
けどさ、あの頃君と一緒に見つめた空と海の青さに、まさかVRの新規アクションゲームの中で出会えるとは夢にも思わなかったよ。
ハタチん時、『スーパーマリオ64』を初めてプレイした時の驚きと、海辺で自分の子と君の子が一緒に遊んでいるのをぼんやり眺めてるような、そのうちに自分たちも同じくらい小さな子供に戻って、一緒に無邪気に冒険してるような……切なくて温くて微笑ましい気持ちがじわじわこみあげてきた。そのことに、僕は本当に心底驚いたんだよ。またいつでもやりに来てくれ。
「あー、なんかシャベル持ったナイトのやつでしょ。古き良きアクションゲームへのオマージュに溢れる良質なインディーゲーって感じだよね、え、あれってまだアップデートとかやってんの? なんかsteamセールん時に買って積んでんだけど、ま、そんな面白いならそのうちやるわー」
あなたが『ショベルナイト』をその程度のゲームだと思っているのなら、それは大きな大きな間違いだ。
プレイ済みの方はとっくにご承知と思うが、本作はレトロゲーもオマージュゲーもとっくに越えた、誰も登れない山頂に到達した類い稀な作品である。アイロニーと切り張りだけで作られた、この10年で数えきれないほど溢れ返った凡百のレトロ風ゲームとは、かけ離れた聖域に屹立してゐる。
そして3つの追加アプデ(大胆なアイデアに溢れた全く新規追加シナリオ。今月でようやく完結)によって、本作は10年代下半期にリリースされた『Celeste』や『ホロウナイト』の先駆けとなる、傑作2Dアクションとしてここに完成したのだった。さあ、ショベルを手に彼の地へ赴け。
このゲームの印象を喩えて言うなら、
久し振りに会って酒でも飲もうものなら、いちいち熱くてしつっこい口論になってしまう、共感と嫉妬と軽蔑と相いれなさのような感情を腑分けするのが難しいくらい綯い交ぜになっている面倒きわまりない幼なじみ、みたいな。
正直、ランキングにはあまり入れたくなかった。が、初プレイ時の衝撃をまざまざと思い出してみると、やっぱり入れないわけにはいかぬと悟った。
もし未プレイだったら、このゲームはできればPC(steam)でやってみてほしいとせつに願う。当方バリバリのコンシューマー勢なので、ゲームでPC版を薦めることは滅多にない。だが、コンシューマー機ではこのゲームの持つ「鋭利なナイフ」のような「最後の一撃」が半減してしまうだろう。
作者トビー・フォックス氏は、かつての堀井雄二や糸井重里の系譜に連なる倭人的王道シナリオ(コピー)ライターと感じる。
確認のために本作の或るルートを進めていた時、初期ドラクエと『MOTHER』と『moon』が携えていた「あの空気」が30年ぶりに匂い立ってくるのを感じて眩暈がした。会えば会うほど凄みを増す狂人のような作品だ。
2020年内に出る(であろう)2作め『DELTARUNE』において、トビー氏は堀井/糸井が書け(書か)なかった領域に確信犯的に踏み込んでくるにちがいない。それが半分楽しみで、半分怖くて仕方がない。
その山の森の奥には古い洋館があった。
庭は川と繋がっていて、澄んだ水が静かに流れていた。
君は川沿いにしゃがみこんで1輪の花を流していた。
俺は黙って君を見つめていた。
君は俺に気づかない。
俺は木に上ったり、柱の影から君を見守ったり、触れられない手で君の髪を撫でたりしているうちに……君の可愛がってたシェパード犬がこちらにひょこひょこやってきて、ワン、と小さく吠えた。
ああ、なんだかこのゲームやってると批評的目線がどんどんぼやけていくのを感じる。まるで透明な死者になってしまったような、奇妙で懐かしい感覚に否応なしに包みこまれるような……。
本作は「VRで描かれた古典的AVG(アドベンチャーゲーム)」であると言われている。個人的には、そんな持って回ったような言い回しはしたくない。
VRでしか描けない世界と情緒に対して、あまりに意識的な本作。その手腕はあざといくらいなんだけど、実際に本作をやってみるとあざといどころじゃない。泣くわ。胸の内に熱いものがこみあげてくるわ。
『Deracine』はプレイヤーの原風景をまざまざと蘇らせる。かつて失ってしまった友人を、失ってしまった動物を、失ってしまった思い出を、「ほら」とばかりに目の前に差し出してくる。そのやり口はほとんど暴力的でさえある。
もしVR対応しなかったら、知る人ぞ知る良作(怪作)止まりだったであろう本作。
かくいう俺もPS Storeで見つけて何となく買った時は、まさか2010年代ベストに入れることになるとは思わなかった。怪しい仮面被ったバレリナ少女がサイケ空間を飛び回ってんなあ……製作者はドラッグでもやってんのか?くらいの。
しかしPSVR対応した本作を再度プレイして驚愕した。怪作がまごうことなき傑作に生まれ変わっていたのだ。あるいはコンテンポラリーアート作品としての本質を露にしたとも言える。ああ、VRというハードではこんな事態が起こり得るのか……。
画を作っているサンタモニカ・スタジオ(ゴッド・オブ・ウォー、風ノ旅ビト他)の仕事はいつだって凄まじいクオリティでため息が漏れるのだが、VRとの相性は抜群だ。とりわけ今作での仕事は白眉と言える。
とにかく、思わず自分と少女の頬をつねりたくなるほど美しい。少女が、景色が、色彩が、確実に「もうひとつの世界」(夢、とは言いたくない)を現出させている。
そして本作は本質的な意味で——究極の恋愛ゲーでもある。誰も認めなくても、俺はそう強く感じる。あの少女と過ごした時間を、あの少女が内に秘めていた闇の部屋を、あの少女が戦っていた怪物を、そしてこの狂気と色彩にみちみちた世界を日常生活の中で思い出す時、この胸に去来するのは——それは「恋」としか言い様のない儚い感情だ。
書き始めるまで、本作がここまで自分内上位に食い込むとは思わなかった。
が、確認のために軽くプレイしてみたら、やっぱりとんでもなかった。
実験施設内部に、そして自分の内側(Inside)に展開するめくるめく不穏な景色。ディストピアの先にある、吐き気をもよおさせると同時に、穏やかな安寧に包まれるような、唯一無二のビジョン——を完璧に描ききった本作。
終盤の怒濤の展開と比類なき生命体描写のインパクトに心奪われるが、本作の真骨頂は木々や空や雲や雨、海などの自然情景(それが何者かによって造型されたものであれ)の美しさだと思う。荒んだ世界の中、思わず立ち止まって、天に祈りを捧げたくなるような敬虔な心持ちを強く喚起させる。
俺にとって『INSIDE』とは、自己の内面に深く潜るための潜水艦、あるいは哲学書のページを繰っても繰っても掴めない、自分と世界との乖離を自覚するための尖った注射針であり、神なき世界の宗教である。
灰色にけぶった空の下、雨降るトウモロコシ畑で無心で佇んでいた時のあの安寧と絶望感に、これから先もずっとつきまとわれるだろう。
人の生には「もっとも幸福な時期」というものがたしかに存在するようだ。そして、それは必ずしも幼少期だったり青年期だったりする必要はない。
俺にとっては、傍らに愛猫がいてくれて、WiiUと3DSが現役ハードで、仕事から帰ってくると毎日のように今作にあけくれていたこの頃が——生涯でもっとも幸福な時期だったと言いきってしまいたい。なぜなら、幼少期や青年期と違って、その記憶ははっきりと想起できるから。
そして後から振り返ってみて、その時期がどれほどありがたいものだったかを確認し、やるせない気持ちに包まれるのだ。「ああ、やっぱり」と。
総プレイ時間は生涯最長となったし、この作品を通じて(自分にしては珍しく)老若男女多くの「オンラインフレンズ」ができた。
が、続編『スプラトゥーン2』は発売日に購入したものの、ろくすっぽプレイしなかった(できなかった)。
その理由は(おおざっぱに書くと)3つ。
ひとつは『2』発売時、先に述べた、俺にとってもっとも幸福だった時代が過ぎ去っていたこと(ごく個人的な理由だ)。
ふたつめは、初代スプラトゥーンが持っていた、俺を夢中にさせるサムシングが『2』には欠けているように感じられたこと(批評記事ではないので、それについてここでは掘り下げない)。
3つめは、次に挙げる同じく任天堂開発の対戦ゲームの登場である。
それは35年前に夢見た未来の『パンチアウト!!』だった。そして20年前に夢みた『バーチャロン』と『カスタムロボ』の奇跡的融合であり、同時にそれらとは全く別次元に昇華された「理想的格ゲー」であった。
『スプラトゥーン』で「共闘」の愉しさを味わった俺に、本作は「見知らぬ相手とサシで戦う」ことの妙味と厳しさをばっちり思い出させてくれた。
そして画面内のキャラをこの手で操る——そんなあまりにも原初的な「ゲーム」の喜びが本作には隅々までみちていた。こればかりは「Just do it」(やるっきゃない)。
やがて俺は日々のオンライン対戦では飽き足らず、リアルの大会にまで足を運んだ(あっさり敗退してしまったが……)。そんなゲームは、おそらく生涯最初で最後だろう。
余談だが、Joy-con特性を生かした「いいね!持ち」による操作こそが本作の革新性であると信じているのだが、革新性よりも「合理性」と「勝率」を求める猛者たちには殆ど浸透しなかった。
「いいね!持ち」メリットをうまく調整できてさえいれば、本作は『e-sports』ゲーム初の従来型コントローラーから離れた(両腕全体を用いた)操作形態を実現していたはずで、それについては至極残念だが、現在開発中であろう『ARMS2』に期待したい。
2010年代下半期は、俺にとっては「VRに初めて触れた年代」としていつまでも記憶されることになるだろう。
2017年冬、とにかく『Rez infinite』をプレイしなければならない——そんな義務感でPSVRを勇んで購入した。配線がややこしい機器をPS4に繋げ、想像していたよりもさらに重たいヘッドセットを被り、本作をプレイすると——すぐに「ここには未来がある」と思った。いや、正確じゃないな。「未来に至る——今の時間と自分」をばっちり感じたと言うべきか。現在は可視化され、360度方位に顕在し、俺をユニバーサルに包みこんだ。
AreaXを初めてプレイした時の、重たい身体感覚から自由になり、魂だけが全宇宙に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから過去30数年を振り返ってみても、5歳の時に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。
これだけ長いこと「ゲーム」なるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚を初めて得られたことに深く感動し、ラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように思い出せる。
そして『Rez infinite』の「次の体験」を今か今かと待っている。
『Rez infinite』からのまさかの……自分に驚き、何度も自身に問うた。
あれだけ昔から『どうぶつの森』嫌いだったお前が。とび森を。テン年代1位に。据えるつもりか?
お前はそんなにぶつ森好きだったのか? ありがちな中年男性みたいに「しずえ萌え」になったのか? それとも親子くらい歳の離れたフレンドと時々会えるからか? おいおい、かあいこぶってんじゃねーぞ、と。
だが本作を1位にした決定的な理由——それは、テン年代初頭に放たれた今作から「仮想世界」における、人間存在の理想的な在り方の萌芽をひしと感じたからだ。
一発で脳内に凄まじいヴィジョンを注入した『Rez infinite』と比べると、まるでアリが餌塚に砂糖を運ぶようなゆったりとした足取りだが、本作は確実に世界中のゲームファンに「もうひとつの世界」をキュートな顔つきと口調(しずえ嬢のような……)でじわじわと浸透させ、人々の無意識をしれっと変容させ、もうひとつの生活を愉しませ、ネット接続により文字通り「飛び出させた」。
『どうぶつの森』は今年3月に発売する次作『あつまれ どうぶつの森』においてさらなる大きな広がりと変化を見せてくれるだろう。
が、俺は本作をとくべつに、個人的に、偏執的に、限定的に愛しているのだ。
それは故岩田社長が生み出した『3DS』というハードへの偏愛と、ゲーム機では3DSだけが備えた「裸眼立体視」——ARとVRを折り合いし、先取りした——唯一無二の機能によって『どうぶつの森』というクローズドな世界をまるで飛び出す絵本のごとく彩り、「夢の中で他者の森を訪ねる」という奇妙かつ魅惑的な通信世界を生み出し——
要は、全シリーズを振り返っても今作『とびだせ どうぶつの森』だけが持ち得た、この奇妙で牧歌的で神秘的なアトモスフィアに由るものだ。
カフカ『城』や村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』主人公のように、俺はある時、この森の中に、夢の中に、村の中に、これからも留まり続けることを選んでいた。
そういうわけで、本作を迷わずにテン年代1位に据えたいと思う。
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長々とお付き合いくださって本当にありがとうございました。
余談ですが、最初は「順不同」にしようと考えていたのです。これほど自分にとって大切なゲームたちに順位なんてつけるのは相当失礼な気がして。
でも、敢えてつけてみた。並べてみたら、なんとなく自分内重要度みたいなものがぼんやり浮かび上がってきたので。
異論提言はもちろん、よかったらあなたのテン年代ベスト(5本でも20本でも1本でも)教えて頂けると、いちゲームファンとしてめっぽう嬉しいです。
子供は未就学児ではなくなり、育児にかける手間という意味ではだいぶ軽減できてきたなーと思ってます。幼児まではめっちゃ大変だった。
2人目の子どもが産まれたとき、会社に育休を取らせてと相談したけど、「みんなが真似したら仕事が回らなくなるから」というわけのわからない理由で却下されてしまった過去があります。
会社は大企業で、男性の育休制度はあったけど、まだ取得した人はいないという状態。もう10年以上前の話ですね。懐かしい。
「出世に響くよ」みたいなこともアドバイスという体で言われたりして、牧歌的な時代でした。
育休、結構じゃないですか。ポーズだとか、そんな時期に育休とっても育児の役にはたたないよとかいろんな意見が飛び交っていますが、私は良いと思いました。
「大臣の2週間育休取得」に期待することとしては、
あたりなのかなと思います。
男性の育児参画重要ですよ、女性の社会進出にはもっと男性の協力が必要ですよ、と一生懸命言ったところで、政治を行っているおじさん(おじいさん)たち自身の振る舞いがそこに立脚していないと全く説得力なしだと思うんです。大臣には育休取得をぜひとも成功させて、背中を見せてほしいと思います。
と、まあ基本的にはそういう気持ちなんですけど、もやる部分というか、こういう考え方もあるよなーという気持ちが自分の中にあるんです。
それは、社会的地位や影響力があり、お金もある人は、育休取得ではなくて、例えばシッターやヘルパーを雇う、サポートのサービスをフル活用して、仕事もしつつ、育児もこなすみたいな背中を見せられるんじゃないのってことなんです。
育休をなぜ取るのか。それは育児が大変だからですよね。大変なことをもっと気軽にアウトソースできる。そのことに寛容な社会を作って欲しいなという気持ちもあります。
自分の子どもは自分たちだけで育児しないといけない、みたいな空気ができるのがすごく嫌。育休を取る理由が、育児が大変だから、ではなくて、自分の子どもがかわいく、新生児・乳児のときにたくさん触れ合っておきたい、という理由であれば話が違うんですけどね。
育休の取得については、それなりに立場のある人、責任のある人が、家庭と職場の板挟みになりやすいと思うので、育休取る・取らないの選択肢に加えて、外部サービス活用(その充実)がもっと議論されると良いなと思っています。