はてなキーワード: 下町とは
当たると評判の占い、染心堂?
悪くないが違うね。全然違う。
1番に向かうべきは地下の生鮮食品街だ。
基本となるイモや玉ねぎ、ニンニク生姜のほか、季節の野菜としての青菜、大根などをしっかりおさえつつ、バジルやミントなどのハーブ、フルーツにんじんや、ウクライナ料理のボルシチに欠かせないビーツ、青森が生産量日本一、今が旬のやたら甘いぶどう・スチューベンなど、なかなかみない野菜や果物がそろっている。
どうせ安いのだから、いつものレギュラーに加えてチャレンジングな野菜を一品ほど買うのがいいだろう。
ビタミンとミネラルと食物繊維を摂ったとして、それだけでは片手落ちで、タンパク質も健康にか欠かせない。
豚や牛、鳥の各部位だけでなく、冷凍の餃子やロールキャベツもあるし、自家製ハムもある。
ここのボンレスハムはスーパーのペラペラの感じじゃなく、「肉!」って感じでうまい。
そして、ここで注目なのが350gで480円というアホみたいな安さのアメリカ産牛バラ切り落としだ。
牛と言っても切り落としなので、血の滴るような塊を口に放り込むという食べ方はできないが、牛丼や肉豆腐、オイスター風味の牛野菜炒めなどならこれで十分。
これを1回に使う分だけ小分けにして冷凍しておけば、夕食のメニューはかなり決まる。
おまけに卵も買えるので、牛丼の上に生玉ををオンしたい時にも安心だ。
ところでみんな知ってると思うが、認知機能を健全に保っている人は魚をたくさん食べている。
なので、1週間に1回は魚介類をメインディッシュにしようじゃないか。
もちろん好きなら毎日でもいい。
地下一階を歩いていると嫌でも目にとびこんでくる密!
群衆が品定めしているのはマグロのサク、牡蠣、サーモンのカマ、鯨の刺身もあるし、いまならサザエもあるぞ。
おっさん、おばさん、時々兄ちゃんなどをかき分けて、好みの海の幸を手に取ったら会計だ。
混みすぎててレシートとかでないし、キャッシュレス決済とかそういう話でもないからそこは注意だ。
宝屋の向かいにある韓国家庭料理 キムの家ではキンパやチヂミなどをテイクアウトできる。
中華天心もいけるぞ、手作り点心 また明日。では蒸し立ての肉まんやシューマイがモウモウと湯気をあげている。
人気すぎて肉まんなんか売り切れてることがよくあるぜ。
和食だって負けてない、天ぷら千代田で揚げたてサクサクの天ぷらもテイクアウトできる。
大丈夫、幸福物産店にいけば見たことない色のイモ団子とか、皮の食感を楽しむ中華の冷凍餃子、どう使うのか皆目見当つかない調味料などがあるぞ。
地下一階を回って大満足だが、帰りは1階のシャトレーゼを覗いて、午後に食べるアップルパイなどを検討するのもいい。
ただし、シャトレーゼはどの時間に行ってもレジが行列なので、生鮮の鮮度が落ちるのが嫌なら、先に行くのもいいかもしれない。
代表的な店舗だけを紹介したが、ブロードウェイの食料品店舗はまだまだある。
中野に来た際はぜひ地下に向かうエスカレーターに乗ってほしい。
あれ、なんで降りしかないんだろうな、謎だ。
じゃあな、いい夕食を。
そのことを知っている趣味仲間からは「俺もお世話になったことがある!」「今度転職したいんだよね、何かコツとか教えてよ」なんてよく言われる。
そんな中、とりわけ仲の良いオッサンが転職エージェントに登録して散々に言われたと愚痴をこぼしてきた。
俺は何の下心もなく「うちの会社のサービス使ってみる?○○さんの業種のあっせん多いから何か力になれないかな」と、その場でサイトを見せてやって、「ありがとう!あとで登録やってみる。頑張るね。」なんて一言二言会話したわけだ。
それから、一週間と少し。
彼の名前のデータが、自社のデータベースに登録されていた。うちの場合だと、本人の希望するジャンル・年収・勤務地などでフィルタリングされた求人を自動クロールし、担当者へメールで「こんな人いますけど営業かけますか?」とデイリーで流してくるのだが。彼の年収と住まいをそこで知ってしまった。
俺の妹や、年下の彼女よりも100万以上低い年収。年齢あたりの年収中央値の60%ぐらいだろうか。
住まいは、ユニットバス・独立洗面台なし・エレベーターなしのアパートの3階。築50年弱。治安が悪いと有名な都内の下町の駅まで自転車とバスを乗り継いで25分。なんと悲しい弱者男性っぷりだろう。
学歴も資格も職歴も年齢の割に薄っぺらい。エージェントによっては門前払いされるだろう。
そのオッサンと知り合った趣味は割とお金のかかるものではなく、「散歩」「読書」くらいの熱量で続けられるようなものだ。俺はもし転勤になろうと一人でも出来る趣味だから続けているんだけど、弱者男性たるオッサンには「金がかからない、そこそこ楽しい趣味」なんだろうな。
SNSにもパッとしない投稿しかないし、彼女は当たり前にいないし、旅行とか外食とかする様子も無かったんだ。でも性格的には本当に真面目でいいやつだから仕事はあっせんしようと思う。知人の紹介は賄賂対策等の規定でNGだから、チーム内の別の人間を担当にするしかないのだけど。
ああ、俺も弱者にならないように頑張って働こうっと。
アメリカ人の友達「偽物の教会で、お葬式の曲が流れる不思議な結婚式に出たのよ」「それ、日本の標準的結婚式です…」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1956479
これはつまり「ブライダル業界の結婚式」だが、なんでこうなったのか?。
今主流のこういう結婚式の始まりは1970年代なんだが、その元は60年代にある。
日本のイエ制度は明治に出来たようなもんだが(武家を除く)、昭和初期には堅固なものとなり、更に国家と天皇がイエに擬製されて人間はそこから逃れる術はほぼ無かった。ゲマインシャフトと国家有機体論の合体だ。
戦争に負けるとおせっかい焼きのアメリカが自由の形だけを作って置いていった。国家権力だけは縛ったからあとは勝手に使うがよいと。
それで戦後も時代が下り生活レベルが向上すると段々と生活や人生上の自由が増大化していった。
イエというのは家督であり、継げるのは長男一人だけだ。しかしその他の女子や次男以下も生き方が制限された。
長男は適齢期になると親が勝手に縁談をまとめて「あの家の娘と一緒になれ」。断った場合は勘当されて死ねと言われる。
次男以下は中学(尋常小学校)を出ると「小僧」の勤め先を親が決めてくるので、そこに入る。小僧っていうのは商家に住込みの店員見習いだ。然程の長時間労働ではないが「仕事」ではなくて24時間主人に仕える事が求められる。全人格労働だ。
こういう風習があったので会社勤めが一般化しても昭和中期まで独身者は会社の寮に住込みが基本だった。勿論集団生活で雑居だ。プライバシーとかいう事を気にする者はアメリカかぶれの不良である。
女子は妙齢になるとやはり親が勝手に嫁ぐ先を決める。断るのはアメリカかぶれの不良である。そもそも断ると生きていく術が無い。本人が何とかなっても家族が村八分になる。
商家に女版小僧として働くというケースもあった。勿論住込みの全人格労働だ。これも妙齢になると主人が見合いの相手を見つけてくるので恋愛期間なく結婚せねばならない。
戦後生まれの団塊世代が成人する60年代末になると都会ではそういう古いイエに縛られない核家族が増え、子供用個室が出来たりもした。
でもそれは都会の話で、田舎の方ではまだ古いイエに縛られたままの人間が多かったのだ。
例えば中島みゆきの『ファイト』は1982年の歌だが、「薄情もんが田舎の町に砂かけんのか、出てくならお前の身内住めんようにしちゃる」と言われて長距離切符燃やそうとしたが出来なかった。東京行の文字が滲んだ切符をまだ持ってる、っていう節がある。
なんでこんなキツイ歌詞を考えつくの…と思うがこれは中島みゆきの深夜ラジオに送られて来たリスナーのハガキの内容を切り貼りした歌詞なんである。
つまり1970年代末~1980年代頭にもこういう思いをした人は居たという事だ。
「ファイト」の語感だけで元気を振るう歌だと思っていると衝撃を受ける事と思う。苦難や挫折が生々しいのだ。
勉強を頑張って東京の大学に進む事が出来るように先生に親を説得してもらう(余計な勉強なんかして更に大学に進もうなんて親不孝のアメリカかぶれの不良である)。
集団就職に参加する。
一度商家に入り、数年奉仕し18or20歳の年齢制限をクリアして暇を貰い、水商売に入る(増田の親のパターン。単に不良である)。
そういう状況だったから古い世間では自由恋愛=不良であった。それは流行恋愛歌に乗せられて人の道を踏み外すアメリカかぶれの不良である。
一方、若者からすれば自由恋愛とは誰と恋愛してもいいよという状態の事だけじゃなくて因習から逃れる解放のテーゼだ。
人は好きな人と結ばれる権利がある。それを称揚すべきである。ロマンチックラブイデオロギーだ。
そういう訳で沢山のフォークソングで自由恋愛が称揚されるようになった。1960年代には社会への異議申し立てという歌詞が多かったのが、70年代になると安保闘争の挫折も相俟って現状肯定、恋愛称揚などのポジティブ系にシフトしていく。
有名なのが吉田拓郎の『結婚しようよ』1972年で、僕の髪が伸びたらチャペルで結婚式を挙げよう、というもの。
チャペルはキリスト教会の礼拝場の事なのだが、実際に多く使われるのはミッション系大学の礼拝場だ。要するに学生結婚したいねという欲求を惹起する歌だ。
もう一つ有名で披露宴でも使われるのがチェリッシュの『てんとうむしのサンバ』(1973年)で、夢の国の森の小さな教会で結婚式を挙げました、という歌詞。
こういう曲のヒットにより「小さなキリスト教会での挙式」というのが憧れとなり、実際にミッション系大学併設の教会での挙式が多く行われた。因みに式の前に洗礼を行って形だけでも「キリスト教者」になっておく。
ただ、ミッション校の教会は限られていてパイが少ないし両方の親族が沢山来たら礼拝堂に入らない。
でもそれがまた「イエvs.イエ」の結婚式へのアンチテーゼとして働いた訳だ。
なんでキリスト教会なの?と言えば、それは第一に西欧への憧れであり、第二に「日本古来の神式、仏式でないから」だ。神式、仏式にはイエの因習の表象をまとっていた。
今は厳かな神式も人気で特に鎌倉鶴岡八幡宮の舞殿で行われる神前式は人気だ。これには団塊/全共闘の残した軽いノリへのアンチテーゼで権威的なものを好むというテイストもあるだろう。
でも今の神前式を選ぶのと60年代の仏/神前式は意味が違うのだ。現代のは一度因習との結びつきが嫌われて廃れ死んだ後に、「博物館入り」して個人にとって安全になったものだ。安全になったので「自由意思で選択」しているのである。
「花嫁は夜汽車に乗ってとついでいくの」という『花嫁』(はしだのりひことクライマックス 1971年)なんか歌詞をよく確認してみたら駆け落ちなのな。こいつを披露宴で掛けるのはヤバそうだ。
それ以前の結婚式は仏式/神前とあったが、特に都市部だと著名な特徴があった。
それは「祝言(しゅうげん)として能の演目『高砂』の一節の謡いを仲人がやる」という事。俗にいう「高砂や~」である。
https://www.youtube.com/watch?v=Zm1Se2fRnvU
これをこの調子で仲人が謡う。これは都市部では必ずやる。絶対にやる。だから仲人はこの祝言を暗記して慣れない能の謡い方を練習した。それを笑った落語もある。「高砂や~」って練習してる時に「とうふ~」と豆腐売りが来ちゃって混じって覚えちゃうのな。
これは恐らく江戸時代後期には一般化していたと考えられるが、廃れた時期ははっきりしてて団塊世代の適齢期だ。
ちょっと脱線だが老松町という地名があったり地名変更で無くなったが祭りの町内会名や祭りの神輿や山車の提灯なんかで出てきたりする。
でも昔は結婚式では「必ず」高砂の祝言を謡ったのだ。『高砂』の内容とは、神主が兵庫県の高砂で老女老男に出会い、我らは片や高砂の、片や大阪市住之江区の住吉大社の老松だと言われる。小舟に乗って去った老夫婦の後を追って船で住吉に向かうと、住吉明神が神々しい舞を見せた、というものだ。
まぁ今は埋め立てで遥か内陸になってしまって阪堺電軌じゃないと行けませんがね…。
この「老松」なのですよ。昔は結婚式で必ず仲人が高砂を謡った。故に門出の歌なのですな。
関東大震災で下町が壊滅すると多くの人が板橋区とか池袋、世田谷、杉並などの郊外に移り住んだ。すると農村の人口が増えて村から町になり区画も分割される。そこでめでたい瑞祥地名として新婚の門出と長寿と願って老松町というのが増えた。
でもその後字面が年寄臭いって事で消えてしまった。『高砂』が廃れた現在から見るとやっぱ年寄臭く見えるけど、それは習俗が途絶えて常識が消えたせいなんでありますな。
会場が教会だったり披露宴でフォークソングとか歌うし高砂やはやらないしで、この新しい結婚式に保守的な人らは憤慨していた。
どのくらいかというと、わざわざ入試問題に新型披露宴を批判したり、親戚のオヤジがマイクを渡されてフォークソング披露宴への憤懣ぶちまける説教演説したのを現代文の問題で出したりするくらい。そんなのを入試に出すなよ。過去問としてアーカイブされて10年以上参照されるんだぞ。
しかし芸能人などが次々とキリスト教式で挙式するようになる。するとこれは大きな需要であるから「ブライダル業界」が立ち上がり、洗礼とかがない宗教的に気軽なキリスト教式結婚式を提供するようになったのだ。それまでは互助会のような組織が主だった。
ホテルなどでの挙式よりは断然安い。しかし教会での式よりは断然高い。
だから団塊のイエへの抵抗から始まったブームが大きくなって70年代中頃に業界化し、80年代には完全に一般化してこっちが主流になったのである。だが80年代には色々行き過ぎて珍妙な式が行われており、それでまた年配者の顰蹙を買ったようだ。ハイジみたいなブランコで新郎新婦が登場とかラブソングカラオケ熱唱とか色々おかしい。
だから「なんで偽物の教会でやるの?」と聞かれたら「それが昔は近代的な解放だったんだよ」「その意味が社会から消えても形式と業界がそのままになってるんだよ」「貴方の国の若い人らもハングルやひらがなを混ぜて書く事があるけど、それも同じ抑圧からのサブカルチャー的解放の意味があるんじゃないの」と言えばよい。
それとは別にやっぱあの形式の結婚式にはダサさを感じるし、偽物の教会も中途半端で教会建築への理解の少なさが出ちゃってる。標準的形式の練り直しはすべき時期かもしんない。
小学6年生[4]の少女・ふうちゃんは、神戸の海岸に近い下町にある沖縄料理店「てだのふあ・おきなわ亭」の一人娘。両親は沖縄出身で、店には母の遠戚に当たるオジやん、鋳物工場で働く青年のギッチョンチョンとその先輩の昭吉くん、左腕のない溶接工のろくさん、父の親友のゴロちゃんといったやはり沖縄出身の人々、そして神戸生まれで艀乗りのギンちゃんといった常連が集まっていた。神戸で生まれ育ったふうちゃんは自分のふるさとが神戸と沖縄のどちらなのだろうかという思いを抱いていた。
初秋のある日、ふうちゃん一家は神戸の山の方にいた。ピクニックの趣だったが、それは神経科を受診する父の付き添いだった。ふうちゃんの父はこの半年の間に精神を病んで家族ともほとんど会話しなくなった。父は発作を起こすと「ふうちゃんが殺されるやろが」とつぶやいたり、ふうちゃんを抱きしめて泣いたりした。ふうちゃんを気にした担任の梶山先生は、沖縄の草花遊びの載った雑誌を贈る。ふうちゃんは草花遊びを店に飾って父を喜ばせようと考える。
ギッチョンチョンは沖縄出身のキヨシという少年を店に連れてくる。キヨシに沖縄の言葉を教えようとしたギッチョンチョンは、言葉の問題で自殺した沖縄出身者を軽蔑したギンちゃんを殴った。店で喧嘩した罰としてふうちゃんは二人に草花遊びづくりを手伝わせた。ギッチョンチョンは、キヨシが金を持って出ていったことや親と離れて育ち「捨てられた」と誤解していることを明かし、「肝苦(ちむぐ)りさ」[注 3]だと話す。草花遊びで店を飾ると常連客は歓迎したが、ろくさんは店の外でアダンの葉で作った風車を握って泣いていた。ふうちゃんは母からろくさんが戦争で子どもを亡くしたと聞く。だが、それ以上の戦争の話は「悲しいことは一日も早く忘れてしまいたいやろ」と教えてもらえない。ふうちゃんはギッチョンチョンに頼んで沖縄戦の写真の載った本を見せてもらう。しかし集団自決の写真を見て嘔吐してしまう。
ふうちゃんはキヨシが勤めていた料亭で「オキナワ」と蔑まれていたことを知る。ギッチョンチョンの金を返しにきたキヨシを追いかけたふうちゃんは右足のアキレス腱を切って入院した。ふうちゃんは父がなかなか見舞いに来ないことを不審に思う。病院で付き添ったキヨシはおきなわ亭で働くことになる。沖縄出身の若い女性が孤独死したという新聞記事をきっかけに、キヨシは自分の姉が19歳で自殺したことをふうちゃんに打ち明ける。それ以来、キヨシは進んで沖縄料理を覚えたりするようになった。
全快後、ふうちゃんは自分の入院中に発作を起こした父が同級生の家に現れ、警察に通報されたあと病院に5日間入れられたことを知る。キヨシはふうちゃんを元気づけようと、沖縄菓子を作ったり、ギッチョンチョンからふうちゃんが付き添いを頼まれたデートを実行するなどした。
梶山先生が授業で自分たちの歴史をたどる勉強をしようと呼びかけたのに応じて、ふうちゃんはもう一度沖縄の歴史を調べようとする。だが周囲の人に話を聞けば相手の辛い部分に触れてしまうことに悩み、先生に手紙を書く。先生はふうちゃんの気持ちを思いやれなかった自分を恥じる、いっしょに勉強したいと返事に記した。
ふうちゃんの父が一人で外出して不審な行動をしているという話があり、その現場である明石市の海岸に行ったふうちゃんの母やゴロちゃんは、その場所が父が少年時代に戦火にあった沖縄本島南部の海岸に似ていることに気づく。父の発症の原因が戦争と関係しているとわかったことに周囲の人々はショックを受ける。キヨシは自分の姉の死や母が家を出て行った理由を考えるようになる。キヨシは所在のわかった母親にふうちゃんと会いに行き、その疑問をぶつけた。母は今は話せないが必ず手紙で説明すると涙ながらに答える。まもなく手紙が届くが、キヨシはいつもの通りだった。
その矢先キヨシはかつての不良仲間から、グループを抜けた制裁として殴打を受ける。キヨシは抵抗せずに耐えていたが、沖縄を侮辱する言葉を聞いて相手を傷つける。重傷を負ったキヨシは入院して二度にわたる手術を受けた。キヨシが回復に向かうと警察が事情聴取に病院に来る。過去の前科があり、今度も相手に傷を負わせているという理由だった。居合わせたろくさんは「警察は公平な立場」「沖縄も関係なく法の前には平等」という警官に根元しかない左手を見せ、日本兵の命令で幼いわが子をこの手で殺し集団自決に参加したことを告げて、これでも平等と言えるのかと尋ねると警官は沈黙した。その夜、ふうちゃんの母は父が幼少期に辛い目に遭ってきたことをふうちゃんに話す。翌日、キヨシは自分で書いた手紙をふうちゃんに渡した。その中にはキヨシの母の過去について触れられていた。
ふうちゃんの卒業とキヨシの退院に合わせ、ふうちゃんの母は一家とキヨシで父の故郷である波照間島に行くことを決める。だが、出発前夜、父は急逝する[注 4]。物語は、ふうちゃんがキヨシと冒頭の「ピクニック」の場所にもう一度来た場面で幕を閉じる。
8年前、下町に引っ越して驚いた。狭いスペースの植え込みや家の前に植物を大量に育てる家だらけだった。
特に玄関前の道路脇スペースと街路樹の植え込みは、完全にその家の私有地だった。
我が家はビルの三階だが、ビルの前の植え込みは隣の家のおばちゃんが世話する庭木スペースになっていた。
椿、薔薇、いちじく、夏はひまわり、かぼちゃなどが所狭しと植えられ、同時に雑草も勢いよく繁茂し、都内とは思えぬワイルドなガーデンだ。
私と夫は都会のジャングル空間が結構好きで、帰宅する際にはどんな雑草がどれぐらい育っていたか、見たこともない謎の草が生えてきたら画像にとって調べたり、日々楽しんでいた。
区の管理でシーズンごとに、雑草は刈られ丸坊主にされてしまうが、例年旺盛な生命力で春先から夏にかけてどこからともなく復帰する。
おばちゃんが我が物顔で植えたイチジクやバラの成長を見守るのもワクワクだ。
一度たわわに実ったイチジクが、心なき夜盗被害によりすべて失われた際には、おばちゃんと怒りを分かち合ったものである。
街路樹以外の植木を、期日内に全て撤去する張り紙が貼られていたのだ。
おばちゃんが管理していた超密スペースにも、例に漏れず張り紙が貼られ、私と夫は大きく育ったイチジクの木や見事な椿の木はどうなってしまうのだろうと、陰ながら心配した。
5月になると町内の街路樹の植え込みは、街路樹以外全てキレイに雑草ごと引き抜かれ、丸坊主にされてしまった。
あとに残ったのは、ひょろひょろしたヤマボウシのみだった。
しかし雑草の生命力はすさまじく、9月現在、我が家の前にはどくだみとノウゼンカズラが猛然と幅を利かせむくむくと育っている。
まったく釈然としない。
町の人たちが狭いスペースを利用して緑を楽しむささやかな幸せを奪った区に対して、猛然と抗議すべく。
7月の半ば、私はスペアミントとレモンバームの種をネットで大量に買い、雑に全力投球スタイルでばらまいた。
そして今、雑草のみでジャングルとなった街路樹の植え込みには、レモンバームとスペアミントが育ちつつある。
ま、これも立派な雑草だ。
いつ終わるとも知れぬ夏は未だ続いているので、粛々とミントが育つ雑草ジャングルを、これからも夫と日々見守り続けようと思う。
とてもとてもフツーの人が買えるマンションでも住めるマンションでもねぇな・・・
事業が大当たりしてマンションを買うのはなんとか出来た+固定資産税払えたとしても、
駅は徒歩圏で美味しそうな食い物屋はあるものの、大型病院やスーパーや公園無いし(ある物件はさらに跳ね上がるか非公開物件)、
民度が高い地域は高台にあることが多く、坂が多いので基本的に車移動が前提だが、
道幅も地方のように広くは無く、年取ったら億劫で運転する気は起きないので、タクシーか誰かが運転することが前提
いやもうこれが余裕のレベルの成功おさめたのなら、クソ狭くて良いのでニューヨークかカリフォルニアに家買うわ
よろしい、どーせ庶民なのだし、交通の便が良い下町情緒あふれる地域に住むよ!中核病院やスーパーや公園や図書館もあるしね!でも、
中古で約1億とか1.3億とかだぜwwwwwwしかもクッソ狭い
でもまぁ事業が大当たりして大金を手にすればそれなりに住んでることがイメージ出来る範囲でしょうか。坂なくて徒歩で行けるし
あと下町でも足立区・葛飾区あたりなら駅前のタワマン新築1億くらいから買える模様、中古なら7千万くらい
この辺りも中核病院やスーパーや公園や図書館が徒歩圏内で坂がないからね
なお、それ以下のクラスになってくると住人が永住想定で買ってないので将来的に空室だらけマンションになってしまったり、
永住想定で買っていても購入層の収入や物件の価値的に建て替えや適切な修繕が見込めない、
そういうマンションになってくるので、かなりビミョーな感じ
もちろんこのクラスのマンションでも転売で儲けたり・売り時まで住んで収支をプラマイゼロにした人も現実には存在するので、
物件を読めるか・売り時を読めるかって話になってくるのだろうけど、それが余裕なら本業を不動産投資にした方が良さそうです
よろしい、火事と建築資材の安っぽさは忘れて住宅密集地にあるお手頃価格の家を見ようじゃないか
どれもこれも1Fにトイレバスキッチンを置けない、ファーーーーーーーーーーーーーwwwwwwwww
年取ったり、足腰の怪我した時に、そこそこ急な階段登れないンゴwwwwww
1Fにトイレバスキッチンちゃんとぜんぶおける物件や急じゃない階段やエレベーター作れる物件は、
億近くか億超え、立地が微妙(周辺になにもないor駅から遠いor主要駅ターミナルにアクセスしづらい)か、
建て替え条件がかなり厳しめとかなんかそういう感じ
(1人想定もしくはミニマリストのカップルならそこそこ魅力的な物件もあるけどね)
家賃18万を10年払ったら2000万になるし家買いたいなぁじゃねーんだな・・・
40年払っても8千万くらいだし途中で住み替えられるしな。賃貸推すのも道理ですわ
宝くじが当たったら事業が大当たりしたらとか夢見ないでも手が届きそうな範囲の価格のマンションや戸建に住んで
いい感じの売り時に売ってまた買ってが出来るセンスや知識が欲しい
anond:20220923151133 anond:20230131135931 anond:20230328231847 anond:20230328232845 anond:20230628093936
なんとなく消化したくなったので以下書いてみる。
2、3年前の話だが、「某有名マンガのアクリルスタンドの素を作るバイト」をした。
当時派遣バイトに登録していて、その日行かされたのがゴミゴミした下町っぽい場所にある会社だった。
初めて訪れた場所だったので、入り口が分からず、出てきた会社の人らしきおばさんに尋ねると、睨みつけられたまま言葉も発さず上を指差した。外の階段を上がって2階に行けということらしい。派遣とはいえ、今までこのようにあからさまに雑な態度を取られることはなかったので、入る前から会社のレベルを察してしまった。
2階に上がると同じ派遣会社から来た人は4人くらいいて、「社長室」に通された。2階は2部屋あり、我々の今日の作業場はその狭い「社長室」らしかった。自社パート、もしくは社員たちとは分かれて作業するらしい。
その会社は零細っぽさを漂わせているが、まぁまぁ長い中小企業のようだ。
「社長室」には先代の社長、つまり今の社長の父親の写真がビックサイズで飾られてあった。なにやら叙勲もされたのか、勲章か何かをつけたお爺さんの写真がどこかの国の指導者のごとくデカデカと飾られている。当時もらったらしい賞状も誇らしげに飾ってある。上にはそこそこ立派な神棚があった。横にある小さな本棚には税理申告に関する「よくわかる」系の本たちと共に、百○尚樹の本たちがあった。
「社長室」で待機していると、社長がやってきた。我々派遣の担当は社長である彼が直接やるらしい。初老の彼は始業開始時刻に合わせて神棚にパンパン手を叩いて深々とお辞儀をした。
そして我々に対して本日の業務の説明をした。本日の業務は、とあるマンガのグッズのシール剥がしだという。プラスチックに幼い女児や若いイケメン男性、クールビューティーな感じの女性がそれぞれプリントされてある。増田はマンガやアニメに疎く、もちろんそのグッズなどのこともよくわからなかったのだが、このシールを剥がしたものがアクリルスタンドというやつの素になるらしかった。そういえばアイドルオタクの友人が持っていた気がする。
臨時で派遣を4人呼ぶぐらいには納期が迫っているらしかった。大量の同じプラスチックを供給され、とにかくたくさん剥がせという。4人のうち増田を含む2人は初めてで、シール剥がしの要領がなかなか掴めず、初めは一枚剥がすのにも若干もたついた。なにせ、プラスチックが小さく、キャラクターの髪型などのデザインもあって、初めてには少し剥がしにくいのだった。
1人、何回か来ているという中年の女性がいて、さすがに速かった。速いですね、などと3人で言うと彼女は「慣れです。」と冷静に返した。なぜか印象に残っている。中年女性は何回か来ているので、我々に色々情報を教えてくれた。休憩はお昼に1時間きっかりしかないとか、それでも一応トイレは自由に行けるとか、パートの女性ですごく性格のきつい人がいるとか。
しばらくやっているとなかなかスピードも上がった来た。所詮は「慣れ」なのである。我々が黙々とシールを剥がしていると社長がやってきた。我々の作業をしばし見て、増田以外に初めて訪れた女性に対してイライラした様子で注意をした。「ちょっと、遅い。サボらずもう少し速くやる努力をしてよ。」増田と女性は目を合わせた。女性はサボってなどいなかった。
雑な言い方に2人してげんなりした。
その後、昼休憩を挟んでなぜかパートたちと合同の部屋でやることになった。パートたち、喋る喋る。子どもたちも知った間柄なのか、子どもたちの話や下世話な地元の噂話などをずっーっと喋っていた。そして隣に派遣がいるにも関わらず派遣をこき下ろすような会話。
彼女らはチンタラチンタラとシールを剥がしながら自らの会社もこき下ろす。「アニメのおかげで仕事もできて良かったんじゃないの。こんだけ派遣も頼めるくらいなわけだよね。まあ、アニメ様様だよね。」…などなど。
詳しく書くほどでもないので書かないが、永遠と流れてくる話がクソつまらなく、またあまりにも品性がなかった。生まれて初めて「耳が腐る」という感覚を得た。シール剥がし以上に苦行だった。
また、パート女性たちは、社員なのかバイトなのか、高卒くらいなんじゃないかと思われる、とにかくかなり若い女の子に対しての扱いやあたりがひどかった。結局1日しかいなかったので事情はわからないが、あれは職場イジメと言っていいだろう。若い女の子は終始オドオドしており、居た堪れなかった。これもシール剥がし以上に苦行だった。
それでも増田たちは幼女キャラクターのシール剥がし量産に努めた。これが今日の仕事なのである。このキャラクターは小さく、剥がすのに手間取るが、髪型にツノみたいなのがあり、その出っぱった部分に爪を入れると剥がしやすかった。若いイケメン男性とクールビューティーな感じの女性は、幼女より身長がある分そこそこ剥がしやすかった。
いよいよ待望の終業時刻がやってきた。社長室を出て、ゴミゴミした下町を駅に向かって歩いた時の解放感が思い出される。腐りかけていた耳を外気にさらし、間一髪のところで蘇らせることができた。危なかった。
同じく初めて訪れた女性と堰を切ったように本日の現場のヤバさについて語り、多少スッキリした。あっという間に駅に着く。若い女の子の置かれている状況についても話が及んだが、所詮、我々スポット派遣にできることなどないのである。彼女は今元気だろうか。
増田と女性の携帯には派遣会社から明日の勤務も依頼するメールが届いていたが、2人して断った。
家に帰ってそのマンガを検索してみた。かなり有名らしい。(実際、後にアニメ化もされて世界的にも人気を得ているようである。)
あれから増田はアクリルスタンドというものを認識した。増田にはアクリルスタンドの良さがわからぬ。そして、見ると少し苦い思い出が蘇ってくる。だが、この世にはオタクに限らず、またアクリルスタンドに限らず、たくさんの欲望が存在しており、それで世界は成り立っている。例えば増田が経験したクソみたいな仕事のおかげで、好きなキャラのアクリルスタンドのきらめきを楽しみ心から喜んだ人もいるのかもしれない。
この前よくいく料理屋で一人飯をしてたら、「この地頭はいいねぇ、下町の情緒があるね!」 という声がしたから隣を見ると、カウンター席で何かの撮影をやってた。カメラやら照明やらの人たちに囲まれて、唇の厚いおじさんがスーツを着て、皿に載せた焼き地頭を食べながら論評している。たしか多部田先生とかいう人だ。テレビのグルメ番組でたまに見かけるが、実物はわりと普通のおじさんだった。
最近は地頭ブームらしく、自分もお盆休みに長野まで行って収穫してきたのでレポ。地頭農園の入口で料金を払うと、目の前いっぱいにひろがる地頭畑に通される。畑一面に、土から出たイガグリ頭が何列にもきれいに並んでいるので、なかなか見ごたえがある。その中から好きな地頭を選んで収穫するシステムになってる。さっそく目についた地頭の両耳を掴んで、勢いよくねじると、採れる。
採りたての新鮮な地頭をその場で食べられるように、畑の脇の方で炭火を起こしているので、自分で採ったやつを持っていくと、網の上で焼いてくれる。真っ黒こげに見えるくらいまで火を通してから皿に取って、ナイフで割ると、中はホクホクの地頭が食べられる。かなりいけたので、お土産にもう一個採って帰った。
お恥ずかしい話なのですが、私の地域はよく言えば下町、悪く言えば治安の悪い田舎なので体の悪い60代シングル親を持っている友人は多いです。
配偶者が死んでるパターンは少ないですが、元配偶者と関わりを持たずに暮らしている親というのが珍しいという感覚はありません。
これについては、友人たちにLINEなどで、あまり重くならない感じでどれくらいの頻度で会ってるのかをヒアリングした結果でした。
得た情報源はあくまで私の身の回りの友人なので、バイアスの掛かった情報であるとも今気づきました。
なので、ここら辺を平均かどうか図ることはほとんど不可能なのかもしれません。
そう考えると「個々による」としか言いようがないので、増田さんのおっしゃるように旦那の好きにしてもらうしかないかもしれませんね。
年越しの件で折れてくれたのは、二人きりで過ごせるのは多く見積もってあと2回という少なさというのが旦那側の決め手になったようでした。
子どもができたら旦那一人で一族旅行に行くもよし、情勢によりますが私と子も一緒に行くもよしで、子が出来てからはいくらでも行ってきてねという落とし所です。
30年ずっと欠かさず行ってきた一族の年末年始旅行と、新婚で子がいない状態の夫婦ですごす残り2回の年末年始、どちらの方が経験としてレアなのかを天秤にかけて、後者を旦那が選んだ、選んでくれました。(お互い普段は休みがほとんど合わないのも判断材料になったかと思います。)
就職予定だった好きな職種を諦めてまで7年間、20代の全てを母親を養うために働いた息子と無職の母親という状態を、依存した関係性というのは言い過ぎなのでしょうか?
夢だった職業を諦めていたところを、生活費は私がほとんど出すからもう一度挑戦してみようよ、このままじゃ人生楽しくないよ、と後押しして一緒に暮らしている私の状態は「旦那を支えていない」と言えるのでしょうか?
そもそも、両親の不仲から発生した父親の自殺を息子である旦那がここまで負担を負う状態にあることが不自然に感じるのです。
ただ、義母の場合は20代も全て頼りきり、さらにこれ以降も息子を頼っていくのかと思うと親として情けない状態にあるように見えます。
お恥ずかしい話なのですが、私の地域はよく言えば下町、悪く言えば治安の悪い田舎なので体の悪い60代シングル親を持っている友人は多いです。
配偶者が死んでるパターンは少ないですが、元配偶者と関わりを持たずに暮らしている親というのが珍しいという感覚はありません。
これについては、友人たちにLINEなどで、あまり重くならない感じでどれくらいの頻度で会ってるのかをヒアリングした結果でした。
得た情報源はあくまで私の身の回りの友人なので、バイアスの掛かった情報であるとも今気づきました。
なので、ここら辺を平均かどうか図ることはほとんど不可能なのかもしれません。
そう考えると「個々による」としか言いようがないので、増田さんのおっしゃるように旦那の好きにしてもらうしかないかもしれませんね。
年越しの件で折れてくれたのは、二人きりで過ごせるのは多く見積もってあと2回という少なさというのが旦那側の決め手になったようでした。
子どもができたら旦那一人で一族旅行に行くもよし、情勢によりますが私と子も一緒に行くもよしで、子が出来てからはいくらでも行ってきてねという落とし所です。
30年ずっと欠かさず行ってきた一族の年末年始旅行と、新婚で子がいない状態の夫婦ですごす残り2回の年末年始、どちらの方が経験としてレアなのかを天秤にかけて、後者を旦那が選んだ、選んでくれました。(お互い普段は休みがほとんど合わないのも判断材料になったかと思います。)
就職予定だった好きな職種を諦めてまで7年間、20代の全てを母親を養うために働いた息子と無職の母親という状態を、依存した関係性というのは言い過ぎなのでしょうか?
夢だった職業を諦めていたところを、生活費は私がほとんど出すからもう一度挑戦してみようよ、このままじゃ人生楽しくないよ、と後押しして一緒に暮らしている私の状態は「旦那を支えていない」と言えるのでしょうか?
そもそも、両親の不仲から発生した父親の自殺を息子である旦那がここまで負担を負う状態にあることが不自然に感じるのです。
ただ、義母の場合は20代も全て頼りきり、さらにこれ以降も息子を頼っていくのかと思うと親として情けない状態にあるように見えます。
高校に入学したとき一番がっかりしたのは、クラスに可愛い子が一人もいなくて
うちのクラス、ブスばっかだな。。とクラスの男子も同意見だった。
ブスだなと男子同士ではいっていても、クラスの女の子と気軽に口を聞く習慣も勇気もなかった。
共学なのに、ただ一緒にいるだけ。
でも性への関心だけは異常なくらいあったので、好きなアイドルの写真をみては
こんな子、うちの学校におらんかな、いたら告白するのになー、と嘆いていた。
そして3年生の修了式前、最後の授業が終わったときのこと。チャイムが鳴って
ふと、隣の席をみると、隣の女の子も満面の笑顔で、自然に目があった。
ばんざーいって感じだよ、と
返事をした。
あっという間だったね。高校。なんか終わっちゃうとさみしいね。
その子が続けた。
んーそうなんだ。
と返したあたりで、ふと気が付いた。
初めて隣の子としゃべったということを。
そして、しゃべって初めて、その子の表情、瞳の輝き、目じりの、口元の動き、そして言葉が、
すべて一体となって形作る笑顔のさわやかさに気が付いた。
背が低くて、太目で汗っかきで、鼻がまるまっちくて、ボブっぽい髪型の女の子だった。
8月13日記。品定めなんかして、やーね男子はこれだから!クラス女子代表より!みたいなブコメがトップにきていたのをみて、さらに台無しにするような蛇足を記してみたいと思った。男子は、クラス女子全員NGみたいな感覚をそのままもって大人になっていくわけじゃない。俺のその後の物語にも何か伝えられるものがあるような気がした。壁に突き当たって苦しんでいるそのときは、切実な問題でも、時間が経って振り返ってみると、それはいつの間にか物語の一部になっていて、そのタイムカプセルに入ったいい思いもつらい思いも全部をひっくるめていとおしく思い出すことはあるんだろうと思う。
こっそり、その後を追記するので誰も見ていなくていいと思う。なお上記の文章は、トラバしたティーンの甘酸っぱい一瞬を切り取った元記事に、男子側に存在した感受性を返したところで完結している。以下は、そこからは完全にスピンアウトした俺の物語。
学校最後の日に隣の子の可愛さに気が付いた話の後日談から始める。
最期の授業のあと、あっという間だったね、という、あの子の言葉がずっと心に残っていた。帰りの電車のなか、あの子の仕草や笑顔が思い出された。
なぜもっと早く気が付けなかったんだろう。気が付いた時には、もう会えないのだ、という意味では、あっという間だったんだ、確かに。
それに引き換え、「んーそうなんだ」としか返せなかった俺。それは鮮烈な喪失感だった。
卒業式の夜、卒アルを手にした俺は、最後の日の記憶を重ね合わせながら、あの子で一発抜いた。
あとから辻褄を合わせれば、このときの喪失感は知らず知らずに憧憬へと結びついていったのかもしれない。
時は流れ、すっかりそんなことは忘れていた。もうすぐ大学生活3年目になろうかという頃。
俺はどちらかといえばブサメンの部類だったが、なぜかその子がなついてきた。
バイト先のいい感じのイケメン男子たちは、さくっと他の可愛い子を捕まえていた。ということで、余り者同士っていうのかな。。
ぽ っちゃり体形で外見コンプレックスを抱えた子だった。
私なんかブスだしデブだから、誰も相手にしてもらえないんだよね、
という彼女の体重は見た目、小柄ながら80キロくらいは有りそうだった。鼻の下にある大きなほくろが目立ってしまい、どうしても人の目線がいく。そんな他人の視線をこれまでの人生でいやというほど浴びてきたのだろう。小学生男子だったら、やーい鼻くそデブ、くらいのことは軽いノリでいってしまいそうだ。
「いやーそんなことない、男子は結構、女の子のいいところに後から気が付くってことも多いんだよ、昔さ、高校の最後の授業のときに、今までほとんど喋ったことのない子とさ、初めて笑い合ったことがあって」と思い出話をした。
「増田君もさ、あなたのよさって見た目のカッコよさとかじゃないから、なかなか気が付かれないと思うんだよね、私は気が付いていたけど」
俺のいいところをしっかり見守ってくれていて、俺の生き方に干渉しない、そういう彼女の接し方は居心地のいいものだった。
言い換えれば自分は努力しないで、いいところだけ褒めてくれる、都合のいい女だった。居心地の良さを「好き」と言い換えていいのかは微妙だった。
それからというもの、その子からは電話が増え、手紙が増え、あたかも俺の彼女のようにふるまうようになっていった。
デートするときは、バイト先からは遠くかけ離れた場所を選んで待ち合わせた。街を歩くときはちょっと離れて歩いたりした。
しかし、彼女の俺に対するふるまいが目に見えてハッピーになるにつれ、バイト先の同僚たちにバレないようにするのが、いよいよ難しくなってきた。
正直、俺は、笑い者にされるのが怖かった。お前、あのブスと付き合ってんのかよwwwwという同僚の声が呪いをかけていた。そういって笑われるのがオチなので、彼女との関係をひらすら隠していた。
びしっと決めた男の子が可愛い子を連れて歩く―これが憧れの大学生活だったが、現実の俺は、何を着ても似合わず、ダサいファッションセンスで、地方都市の無名大学。
しかもつぶしの効かない文系。就職にも不安を抱えていた。いざとなったら、実家の食堂を継ぐかな、と甘ったれたようなことを考える、しょうもない大学生だった。
最悪、こいつと一緒になって家業を継げば親も喜ぶかな、それともデブの嫁は嫌がるかな。
俺たちの関係は、周りにうすうすバレていて、陰できっと笑い物にしているんだろうと思うと、あえて耳をふさいでいた。
でも、内心、そいつが好きでたまらなかったので、ホテルに入っては、外で離れていた距離を取り戻すかのように、何度も何度もエッチをした。
次第に、周りの目線が気にならなくなり、いつしか人前で手をつないで歩くようになっていた。
まだ正式じゃないんだけどね、と前置きしつつ、東京にある大手の企業に就職が決まりそうだという。
え!!!何それ。お前、4年だったの?というか、年上だったのかよ!?
愕然とした。ということは来年の春には、お前は東京。離れ離れになっちゃうってわけ?
彼女はむくんだ人差し指で、鼻の下の汗をぬぐいながら言った。デブの汗は半端ない。
「わたしね、こんな見てくれでしょ。ずっと独りで生きていけるようにならなきゃって、覚悟して生きてきたんだよね。」
恐る恐る聞いた企業名は、海外にも名の知れ渡る大企業。しかも事務職ではなく総合職採用だった。さすが旧帝大の子は違う。身分の違いを思い知らされた。
ねえ、増田君、ちょっと先の話だけどさ、卒業したら、一緒に東京で暮らさない?
俺はフリーズしたデスクトップ画面で固まるマウスを動かそうとするように言葉を探したが、出なかった。
「お給料ももらえるようになるし、今よりおいしいもの食べれるよ。東京のオシャレなレストランで食事とか、楽しそうじゃない?」はつらつとした声だった。
いいな、お前は意気揚々としてて。俺みたいな三流文系、雇ってくれる東京の会社なんかねーよ。そう思うと、くやしさと情けなさで胸がいっぱいになった。
と同時に、デブ女の稼ぎで、東京の下町でパチンコしながらヒモみたいに暮らしている自分の姿が脳内再生された。
お前さえよければ、実家の食堂一緒にやるか、と思っていたけれど、俺の勘違いだったみたいだな、そんな言葉も出かかったが、何も言えないまま。
まいったな。一流大手かよ。こんな俺に人生預けられやしないよな。。
俺自身の甘さを突き付けられていた。
何もかも。ただ、俺になついてきているだけにみえた彼女は、しっかりとした人生設計を持っていたのだ。年上だったことも何も知らず、いい気になってた。
そして、ゴメン、俺ちょっと帰るわ、唐突にそういって、彼女と別れた。
その夜、彼女から電話が鳴ったが、俺は出なかった。翌日から、手紙が何通もきたが、未読が積み重なっていった。
彼女の電話を無視している大人げない自分を恥ずかしく思いながらも、一方で根本的に自分の人生を考えなければいけないという焦りが強まった。
デブ女を連れて歩くのがカッコ悪い、なんて思っていた自分を恥じた。何様だったんだろう。人前で手をつないだって一体何を克服した気になっていたんだろう俺。
彼女のほうがよっぽど堂々としていたし、しっかりしていた。
年上だって知ったときに、瞬間的に、俺は見くだされた、と錯覚した。見守られているというのは、錯覚じゃなかったかもしれないが、余り者同士というのは、俺が勝手に思い込んでいただけだった。それとも何、学生時代最後の思い出に年下の子と遊んでたってことかよ。つり合いがとれてない。俺、ダメだわ。絶望的な学歴コンプレックスに苛まれた。
彼女とは気まずくなって連絡をこちらから返せないまま、それっきりになった。
今思えば、彼女はものすごく傷ついていたと思う。今だから想像できることだけど、当時はバカだった。バカにしやがってよ、と思っていた俺が心底バカだった。
俺は翌春、休学申請を出した。バイトでためたカネで、アジア、アフリカ、中南米を回った。
彼女が知らせてくれた東京の住所をたよりに、時折、現地から絵葉書を書いた。今、ここにいる、とだけ知らせるために。自分から去ったくせに、どこまでも未練がましい俺だった。
ブラジルでは、現地で意気投合した女の子とその日のうちにセックスした。そんな風に、成り行きでセックスした人数は、アジア、中南米で4,5人くらいになった。
人種も外見も本当に多種多様で、外見コンプレックスって、日本だけの話じゃないかと思うほど、日本にいた時の美的感覚がすべてリセットされるかのような経験だった。隣の子にも無関心で口もきけなかったあの高校時代、ブサイクな女の子の基準って一体なんだったんだろう。
言葉は、現地でバイトをすると、驚くほどのスピードで身についた。
世界の人々の多様性を実感したという意味では、よい経験だったが、多様性などくそくらえな日本社会に順応するには、自分探しの旅は、却って迷わせるきっかけとなった。
日本社会は窮屈で生きづらい、という思いを却って強くしてしまった。変われた気がしたのに、ある意味で、何も変われていないことに気が付く。適応障害だった。
卒業してもふらふらと実家にいるのも気まずく、東京へ出た。6畳風呂なしのアパートで、バイトで食いつなぐ日々。
就職氷河期の真っただ中、夢を追いかけ、機会があれば海外へ出て2年ほど戻ってこなかった。自分の人生を考え直すといっては自分探しをはじめ、却ってますます人生に迷っていた。
気が付くと、7年が経っていた。30にもなるのに、無職だった。昔、付き合ったデブの彼女のもとでヒモしていたら今頃どうなっていたかな、と夢想した。俺自身が変われない限り同じ結果か。
7年もたつと、彼女が同じ東京にいる、という確信すらなかった。総合職だし、今頃バリバリのキャリアウーマンなのかな。想像できないけど。
当然、連絡もない。いい男をみつけたかもしれない。いや、あいつじゃ無理かな。。。なんてね。
片や、俺は野垂れ死に寸前の極貧生活。この頃の稼ぎは年90万~150万くらいだったと思う。一キロ178円のパスタと閉店間際に200円になった弁当だけが頼りだった。
自分のみじめな境遇を恥じて、実家へは5年以上戻っていない。心配する母からは時折セーターなどの荷物が届いた。こんな手紙を添えて。
「食堂をやったって全然構わないんだから。ただし一人じゃできない仕事なんだからね。伴侶を見つけなさい」
婚活のスタートラインにすら立っていない俺は何もかも惨めだった。
そんなある日、バイト先の会社に事業拡大の話が持ち上がった。扱っている商品の海外展開らしい。
「英語はNYのレストランでバイトしてましたから少しは。あと、スペイン語とポルトガル語を少々。挨拶だけならスワヒリ語、アラビア語、ピロートークならタイ語もOKです、口説けますww」
というと、とりあえずTOEICを受けといてくれ、という。俺は営業社員として採用され、俺の7年間の極貧生活に終止符が打たれた。
英語は得意だと胸を張ったものの、TOEICを受験してみたら490点だった。最悪だ。バカであることがバレないよう、点数を隠したが、すぐにバレた。
しかし、毎回受け続けた。翌々年、まぐれで出した890点で頭打ちとなり、その後850前後で停滞。これで限界かな。さすがにTOEIC受験に飽きた。
点数などどうでもよく、仕事が猛烈に楽しくなった。慣れない英語の契約文書と格闘した。会社は数年後、外資に買収された。
お金がない頃はいけなかった都会の風俗にも少し足を運んだ。30代になってお金ができて初めて風俗に関心を持った。
東京にはマニアックな風俗が山ほどあって、ぽっちゃり専門店というのも立派なジャンルの一つだということを知った。昔、抱いた女を思い出した。
昔、付き合って別れた彼女が心の痛みになってときどきチクチクとした。
気が付くと、34歳になっていた。社会人になると、時間が経つのが早い。遅咲きの新人だった日々はあっという間に過ぎ、いつの間にか、下をみれば部下がいた。
今もあいつは、東京にいるんだろうか。これだけ広いとどこかで偶然にすれ違っても気が付かないよな。気が付くと彼女のことを思い出すことが増えた。
ある日、酔っぱらって帰ってきた夜、昔の写真やら手紙が無造作に突っ込まれた段ボール箱をひっくり返した。確かあいつのメールアドレスがどこかに書いてあったはず、と思い出したからだ。
酔った勢いで、メールした。「久しぶり。まだ東京にいるの?俺も今東京で働いているよ」とたった一行。
俺は一体、あいつに何を期待しているのか。。俺のことなんかとっくに忘れてるに違いない。今頃ひとりで何を思い出にひたって、恥ずかしい俺、と。
翌朝、返信が来た。
かなり長いメールだった。
送信のタイムスタンプをみると、4時12分。夜更けまでかけてしたためたメールだったことが伺えた。
今、東京には住んでおらず、地元に戻っていること。最初に総合職として入社した大手企業は、課長補佐の試験を受ける前に、心身の不調で諦めたこと。
そのあと関連会社へ出向、そして転職したが体調を崩して心療内科に通院していたこと、今は小さな会社の事務職をしていると。
今ハマっている趣味のこと。15年間の人生がつづられていた。総合職、やっぱり男社会は厳しかったのだろうか、つらい挫折を経験したことが行間に読み取れた。
ちなみに体重はちょっとだけ増えちゃったの、という。男関係は何も文面に触れられていないが、独身と確信した。
「増田君は今どこ?何してるの?」
「会いたいよ」
ほぼ15年ぶりに会う彼女は、ちょっと太ったどころではなかった。巨漢に成長したというべきだった。
36歳。20代のつややかさとハリは、やや失われていて、いよいよ年増の兆しが顔のたるみ具合にうかがえた。
10年前、親にお見合い写真を作ってもらったの、ほら。この時がベスト体形だったわ、彼女はそういってみせて笑った。
その写真には鼻の下のほくろが写っていた。それは目の前の今の彼女には、美容整形の痕跡だけがわずかに残っているだけだった。
「増田君、”新人”としてがんばってるんだね。社会人としては私のほうが先輩ね」
人のいいところを相変わらずよくみている。俺が今の仕事の話をすると、彼女はフフっと年上の表情をのぞかせて笑った。
翌朝、朝一の新幹線。別れ際、俺は言った。
なあ、今すぐ返事しなくていいんだけど、一緒に東京で俺と一緒に暮らさない?
東京のオシャレなレストランで一緒にメシ食いたいって、以前、お前言ってたよな。事実上のプロポーズだった。
「いっとくけど、15年の間、ずっと健気にあなたのこと待っていたわけじゃないからね!」これが彼女の返事だった。
そういわれて、俺は15年間、彼女の面影を探していた気がした。それは学生の頃のように、「いいところだけみてくれる」女に甘えたかったからなのか。でも、新幹線に飛び乗って会いに行った俺はそれだけでは説明がつかない。それとも、経済的に自立して、やっとつり合いがとれるようになったという自信なのか。同じ人生を歩みたい。それは、どこからわいてきた思いなのか。
大手から内定もらって意気揚々としていたあの頃のあいつと、心に包帯をまいて必死に生きてきた今のあいつと。
それから1か月後、彼女を連れて実家へ行った。100キロ近い巨漢を前に、母親がのけ反りそうになっていたのが可笑しかった。
「お前、こういうのが趣味だったの。。。。」母親がつぶやいたのを、今でも忘れない。
俺たちの結婚後、まもなく父が急逝した。家業はついに店じまいとなった。一方、嫁姑問題は杞憂で、俺たちが結婚して、つい先年に母が他界するまで良好な関係だった。
お!これは。最近は少なくなってきましたが、東京下町名物の「家賃を払ってない味」ですね。チェーン店にはない昔ながらの味付けですよね。
ん、ちょっと待って。この後味は「従業員の社会保険料を払ってない味」も入ってませんか。いや、もうちょっとこれは奥行きがある。ひょっとして「従業員を管理職にみなして残業代を節約している味」にもなってませんか?待てよ。それだけじゃない。「時間給あたりに直すと最低賃金を下回る味」ですよね。いや、食通だなんて、そんなのではありませんよ。ただ、厨房で鍋を振るうベトナム人バイトの方の明るい表情を見て、そうなのかなと思っただけですよ。
(小声で) 店主。ここだけの話、まだ、この味には何かありますよね。「売上を過少申告して脱税した味」も入ってませんか?いやあ、やっぱりこのレベルの名店にもなると一手間ふた手間かけてるんですね。今日はご馳走様でした。