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はてなキーワード: 下町とは

2023-05-27

anond:20220602113821

賃貸マンションだと隣近所にだれが住んでいるか知らない

引っ越ししてきても挨拶に来ない、行かない

ネチネチのなにも完全に無関係

廊下ですれ違ったら、おはようございます、と言うくらい

下町の戸建ては田舎に近い感覚は残っているけど

2023-05-13

anond:20230513003222

じゃりン子チエ(漫画)。大人子供境界が薄く、誰もが問題を抱え、許し合っている、あり得たかもしれない、あったけどなくなってしまった日本下町風景を描いている作品

2023-05-06

anond:20230504110406

anond:20230504110406

東京大阪下町は似たようなもんだと思うんだけど、

京都ハイソエリアがわりと限られてて下町エリア比率が高いのでおかしな人に会う機会も多いのかも。

おかしな人というのは大体無害だし、

京都は、ヤンキー的な攻撃的な人に会う機会が圧倒的に少ないのでトータルではそんなに住み心地悪くないと思うんだけどね。

2023-05-04

35歳、既婚年収1500万円のリアル

この増田に触発されて書いてみた。

増田スペック

35歳男性、既婚、子供2人(1歳と4歳)、港区在住、額面年収1500万円ほど。仕事SE大卒転職歴4回。

住宅について

持ち家、ローン残あり、2LDKマンション、最寄り駅徒歩8分。妻の会社から徒歩8分くらいのところを買った。今から8年前に買ったので当時そんなに高くない中古マンション自分はほぼテレワーク。今の会社通勤は40分。

普段食事について

飲み会などの食事について

食事以外の買い物

ファッション

妻との馴れ初め

子供教育費用

車について

金融資産と年間収支について

転職歴と年収について

初めての転職第二新卒枠で入れた。いくら売り手市場からと言って、闇雲に転職しても対して上がらないのを2回目の転職で実感。

そこからOSS活動に精を出し始めたら、スカウトの数がかなり増えた。今の会社年収の上がり幅も事業内容もとても好きなので

しばらく続けようと思う。

2023-04-21

大阪下町舞台にした昭和の名作漫画じゃりン子チエ

令和の時代に再び人気を集めているというのです

なぜ、時代を超えて、共感を呼んでいるのでしょうか

ほんとかよw

ニュースってこうやっていっつも嘘つくからなw

2023-03-29

身寄りのない高齢者

 都内の話。私が住む築50年のマンションの向かいの部屋に93歳のおばあちゃんが住んでいる。小学校先生で、生涯独身。頑固でプライドが高く孤高の人だった。私は彼女には子供のころからかわいがってもらったのだが、他の近隣住民には気を許さず、いわゆる嫌われ者だ。近所では「先生」と呼ばれている。

 先生プライドが高く、下町の住人を下に見ている。教養生活レベルが違うのだろう。そんな態度で何十年もこの地域暮らしてきた。おのれの金と生活力で生きていけるうちはさしたる問題はなかった。近隣と騒音やなんかでもめるくらいのものだった。しかし昨年くらいから、足腰も弱くなり、自力生活するのは難しくなってきた。そうなると先生は知り合いや近所の者に片っ端から電話をかけ、おまえは年寄りの面倒を見るべきだと呼び出し、買い物やらなんやらをいいつけ小遣いを渡していたのだが、そんな生活が成り立つわけはなく、高齢者公的介護を利用することになった。ケアマネを見つけ、ヘルパー派遣されることになった。先生にとってヘルパーというのは下賤の者らしく、接する態度は酷いものだったようで、次々に事業者に断られ、もう区内には先生相手をする事業者はいなくなった。そんな先生を受け入れたのは隣の区の良心的な零細事業者ケアマネだった。ケアマネ献身的に寄り添い、ヘルパーを手配し、なんとか先生生活を成り立たせていた。

 そんな折、今年に入り、先生蜂窩織炎だか脊柱管狭窄症だかが悪くなって、入院することになった。リンパのガンを乗り越えた先生にとっては大した病気ではないのだが、立てないのはこたえた。先生東大病院しか信じておらず、ずっとかかりつけにしていたのだが、東大病院入院を受け付けない(過去にさんざんもめていた)ので、しぶしぶ紹介された関係病院入院することになった。二か月ほど入院していた。入院弱気になった先生ケアマネの勧めに従い、有料の施設に入所をする決心をし、退院した足で施設に向かった。

 しか先生の態度は施設に着いた途端に急変した。医者ケアマネが画策して非人道的機関監禁されるのだと激高した。先生は耄碌はしているものの、認知症ではない。入院から心に貯めていたせん妄が爆発したようだ。まだ正式契約していない施設側はなすすべがなく、帰宅することに。施設良心的にも先生の自宅まで自社の車で送ってくれたらしい。とにかく先生は立てない状態で私の家の向かいに帰ってきた。

 先生は知人や近隣住民電話をかけて呼び出そうとするが、もう先生相手をするものはあまり残っていない。なにしろ善意で世話をしにきたマンション管理人を怒鳴りつけるような人だ。しかたなく先生は私に電話をしてきた。先生は私の幼少を知っており、なにか強い思い入れがあるらしく、私だけは気を許せる優しい人間だと思い込んでいる。私の両親が学者だったことも大きな要素のようで、しがない零細障害者福祉事業を営む私をなにか福祉世界の大きな存在だと思い込んでいるようなことを言う。いままでもたまに私も家にいて呼ばれれば徒歩2メートルの向かいの部屋にいき、水を汲んで出したり何か買い物をしたり、おむつを替えるくらいのことは職業柄たやすことなので、助けを求められたら応じていた。先生は私にはとてもしおらしい態度で接する。申し訳ないと思うと1万円だか3万円だか買ってきたおにぎりだかおせんべいだかを渡してくる。気が済むならと私も受け取る。だが、今は施設を断った先生にはヘルパーもおらず、私も仕事があるので行ける時間は限られており先生の全生活を支えるのは無理だし、そんな気は毛頭ない。どうしたものかと思っていると、先生ケアマネと話す機会を得た。

 ケアマネが言うには、先生ヘルパーの使い方はめちゃくちゃで、自社のヘルパーは全員泣かされてもう使い物にならず、無理を言って大手派遣を頼んでいたがそこも苦戦し、入院施設行きが決定した折にすべて白紙になってしまったらしい。地域の同業に悪名が轟いている先生に今からヘルパーをそろえるのはかなり難しいらしい。しか先生をひとりで置いておくわけにはいかないので、疎遠になっている姪に施設入所の契約書にサインをもらい、半ば強制的連行ししばらくは拘束することが先生安全を考えても最良と判断している、とのことだった。話を聞くと施設もそれほど悪辣でない大手で、その言い分には同意できるところもあった。姪は医者で週に一度しか休みがなく、契約書にサインはしても先生との直接の対話絶対拒否するという姿勢らしい。ちなみに保証人になるわけではなく、保証会社が間に入るそうだ。

 退院直後はせん妄ケアマネ病院グルになって私を牢屋のようなところに引き渡したと言っていた先生も、すこし落ち着き、また一人で暮らす不便さに弱り、今日面談ではしおらしくなっていたが、だからといって施設に行く気はまだない。ケアマネヘルパーの手配を懇願していた。立ち会った私は先生のためにも一時的施設に行った方がいいのではと進言したが、人の言うことを聞く人ではない。先生の家を出たあと、ケアマネと、もうすこし弱気になるのを待とうということになった。

 私が気がかりだったのは、せん妄はあっても認知症ということではない当事者を、疎遠な家族サインだけで強制的高齢者施設に連れて行き拘束して薬で大人しくさせるという方法は法的に問題があるはずだが、そういうケースはあるものなのかということだ。ケアマネに尋ねると、あまりないと。確かに法的には問題があるし、先生は恨みを忘れる人ではないし、弁護士を使う人脈や資力もあるのでリスクがあることを認識していた。それでもそれが本人のためと考えたとのこと。そして法的にも問題ない方法は、訪問医師を一度入れて、精神科に繋げ、医療保護入院という形でまずは精神科収容することだということも理解していた。それを聞いてすこし安心した。

 さて姪のサインは来週の月曜日にもらえる手筈だそうだ。どうなることやら。

補足書きました https://anond.hatelabo.jp/20230401032524

2023-03-23

anond:20230323133046

一方で宮前平とか国立とか浦和区って相変わらず御三家中学に鬼ほど受かるんだよな

あと雪谷旗の台みたいな下町でも

社会学的に面白いから考察して欲しい

2023-03-22

anond:20230322083736

ID:death_yasude

はてな動物園と蔑まれ東京公立中学校地方より遥かに進学実績いいぞ


大田区下町住んでるけどそこらへんの公立中学生の会話が

「結局他の3人とも日比谷かあ」

「俺たちだけ慶応かあ」

とかでビビった。地元じゃ考えられん。

あと普通に塾行ってサクッと開成麻布に抜ける子とかも普通公立小でもゴロゴロいるのね。

2023-03-11

anond:20230311024625

北朝鮮工学エリートが作ったミサイルよりも日本下町職人が作った下町ロケットガーとかいうお伽話、好きな奴多いよねこの国。そんなこといってる間に日本ロケットは失敗して北朝鮮ミサイル成功して日本は滅びるんだろう。

2023-03-10

anond:20230310094258

教養というか境遇だな

東京下町とかお相撲さんがいる環境暮らしてると鬢付け油の香りを知っている人は多い

2023-03-08

ロケット材料下町職人しか作れないっていうなら

北朝鮮とかどうやって作ってんだよって感じだし

北朝鮮ちゃんとした技術者が作ってるんじゃないの?

なにそれ誇ることなの?

って毎回思うんだけどw

2023-02-16

anond:20230215155526

下町大量破壊兵器作ってるの草

それって戦争始まったら真っ先に

標的になって

攻撃されて死ぬ

 

ガンダムってそんな感じやろ

2023-02-15

すごいいいこと思い付いたんだけど

ガンダムシャアとかアムロとかそんなのとか表立ったのしか知らないけど、

モビルスーツ開発物語的な下町工場みたいな

臭い開発ドラマガンダムがあっても面白いと思うんだけど

ただたんにメカニックガンダムの話しとかならガンダム見れるかもなーって思ったんだけど

そう言うガンダムシリーズモビルスーツ開発歴みたいなそう言う

町工場ガンダムってあっても普通に人気でると思うんだけど

なんか通常のガンダムって話しが説教臭くて取っつきにくいんだよなぁ。

そう言った角度からの話も合っても良いと思う

それが無理ならせめてモビルスーツメカニックの人は絶対いるわけじゃん

そう言う人にスポットを当てた話しもあったら見てみたいなぁ。

あとガンダムの中の組織施設社員食堂とか、

これは絶対いか

2023-02-10

anond:20230210120011

 日本社会党中央執行委員長議員淺沼稻次郞君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説さなか、暴漢の凶刃に倒れられました。

 私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます

 ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに本会議のこの壇上で、その人を相手政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手政策論議を行なおうと誓った好敵手の席であります

 かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党党大会に、また、あるとき大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこからつの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります

 私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。これこそ、故淺沼稻次郞君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります

 淺沼君は、明治三十一年十二月東京都三宅島に生まれ東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田北沢新次郞教授高校時代河合栄治郞氏らの風貌に接し、思想的には社会主義洗礼を受けられたようであります

 当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然社会主義運動の戦列に加わったのであります

 大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動実践情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります

 すなわち、同十四年農民労働党書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党巡礼されたのであります

 君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和一年の第十九回総選挙東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります

 戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一国会召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会運営努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります

 翌二十三三月、君は、日本社会党書記長当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります

 かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身社会党シンボルとなるまでに成長されたのであります。淺沼君の名はわが国政治史永久特筆さるべきものと信じて疑いません。

 君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります

 淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります

 君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります

沼は演説百姓

よごれた服にボロカバン

きょうは本所の公会堂

あすは京都の辻の寺

 これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります委員長となってからも、この演説百姓精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります

 「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。

 君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町アパート質素生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったか物語ものと考えます

 私どもは、この国会において、各党が互いにその政策披瀝し、国民批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じますしかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。

 ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼言葉にかえたいと存じます

2023-01-19

anond:20230119112307

というよりその工場のまま生き残ること、従業員を辞めさせないことを目的としすぎなんだよ

それでみんな貧乏になってる

下町工場合併して、似たような工程を一つにまとめれば効率化できて人を減らせて、人を減らしたら残った人は従来のN人分の仕事ができるようになり、その分給料も上がるし効率化して売上も利益も増え下町工場大企業になれる

でも、人を切ることを恐れているというより、変わらないこと、切らないことを美徳としているから小さい工場が乱立したままで非効率な状況が続いている

この国って

下町町工場で作ってる部品ロケット作る!!

これが日本技術底力!!

みたいな悲しいストーリーいつまで続けるんやろうな

 

仮に高い技術があったとしても

下町に押し込まれてる時点で夢も希望もなくない?

 

世界通用する高い技術力があるのに(経済力意味でも社会的評価意味でも)大きくなれないってことは

何かしらの圧力や、欠点存在するってことやろ?

 

まず世界通用する技術下町にあるってスートーリー自体

ファンタジーだと思ってうたがってるが

事実だとしても世界通用する技術は実は下町にいるんですって

悲しすぎひん?

 

利益を誰かに搾取されてるか

自分能力を上手く使えてないってことに、一体どんな希望があるんや。

2023-01-11

今日、30歳になった

私は、1993年1月に生まれた。1歳から大学までは、神戸市生活していた。神戸はとてもいい場所だ。街の中心部である三宮はおしゃれな街で、大阪駅までも直通で30分。中華街で有名な豚まんを食べ、旧居留地優雅建築を抜ければ、港から海を見渡せる。中心部から少し足を伸ばせば、B級グルメを出す飲食店が立ち並ぶ下町長田六甲山の麓に日本屈指の酒蔵を擁する灘などにも行ける。どの地域個性にあふれた「退屈しない街」だ。この街で人生3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。

私が住んでいた地域には大学があった。このキャンパス自然豊かなことで知られていて、敷地内に公園や池があったので、私は物心ついたときから時々家族とこの大学内を散歩していた。子どもだった私は漠然と、大きくなったら私もこんな学校勉強するのかな、なんて思っていたものだ。

私が小学校にあがる前のある日、父とふたり大学の中を歩いていた。ふと父が「父さんは今日こっちの道に行きたいんだ」と言って、普段は入らない芝生の中へ私を連れて行った。杉の木立の中には、小さな茶色の碑があった。父はその石碑の前で足を止め、静かに手を合わせた。「これは何なの?」と尋ねると、父はこの石碑が、阪神淡路大震災で命を落とした学生たちを追悼するための慰霊碑だと教えてくれた。銘板に刻まれ名前の中には、地元教員をしていた父の教え子がいるという。父は何十年も教員として勤務していたが、彼が家庭内で教え子の話をすることはほとんどなかったので、少し驚いた。

小学校にあがると、音楽の授業で「しあわせはこべるように」という歌を習った。この曲は阪神淡路大震災のことを歌っており、神戸市内の小学校では震災学習の一貫として習うのだ。たぶん、1995年以降に神戸市勉強した人間なら、誰もが諳んじて歌える一曲だろう。小学校でも中学校でも、毎年1月17日には黙とうを捧げ、校長先生お話を聞いた。ある年の学校新聞1月号に、同級生とその妹のことが書かれていたことも覚えている。2学年下に在籍していた彼の妹は、まさに阪神淡路大震災の混乱の中、1月17日、被災直後に生まれたという話だった。

高校生にもなると、「しあわせはこべるように」を合唱する授業はなくなった。進学校だったので受験勉強は忙しく、みんな志望校に入るため必死だった。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。先輩は部活でも目立っていて、関西の超有名大学への現役合格を果たしたことはすぐに後輩の私たちにも知れ渡った。卒業式の日に卒業生代表挨拶担当したその先輩は、両親を阪神淡路大震災によって亡くしたことをみんなの前で話してくれた。10年以上が経った今でも、あのスピーチを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。

高校卒業すると、私は自分実家から一番近い大学に進学した。それは、子どもの頃から家族散歩していたあの学校だった。私の学部はかつて父と散歩したキャンパスからは少し離れていたのだが、それでも時々あの慰霊碑を見に行くことがあった。いつのまにか、私は父の教え子だったという誰かより1歳年上になり、成人を迎えた。成人式の会場に向かう途中のタクシーでふと「私たち、本当はもっとたかもしれないな」と思った。

大学卒業して上京すると、色々な地域出身のさまざまな年齢の人と関わりあうようになった。地元神戸なんです、と言うと、ほとんどの人が「おしゃれなところだね」なんて言ってくれるので鼻が高かった。しかし時々、50代くらいの人と話すと「震災の時、もう生まれてた?」と聞かれることがあった。生まれてたけど2歳になりたてで記憶はないんです、と返すとだいたいそこで話は終わるのだが、ごく稀に「実は僕は当時大阪に住んでいて…」と、当時の記憶を話してくれる人もいた。

ある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東京出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。乗っていた電車が止まったこと。復帰のめどが立たず、線路を歩いて帰ったこと。その時、自分の前を歩いていたお姉さんが泣いていたこと。

その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は関西から、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。私も被災者だから分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。阪神淡路の時に2歳だったよ、と告げると彼は気まずそうに「そっか、そっちか」と呟いた。

彼は私より少し年下だったから、もしかしたら阪神淡路大震災のことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。小学校社会教科書にはきっと地震のことも載っていたはずだけど、自分高校生の時に体験した東日本大震災の方が記憶としてはハッキリしているに違いない。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。

私は今、違う場所暮らしているけれど、今でも自分が育った神戸はとてもいい場所だと信じている。街の中心部である三宮駅前には、かつて「神戸阪急ビル」という名のビルがあった。この辺りは震災で大きな被害を受けてめちゃくちゃになったという。街のランドマークだったというビルは取り壊され、それからずっと低層のビルが駅舎に繋がっていた。このビル2021年高層ビルとして生まれ変わり、震災前の姿を模した外観でリニューアルオープンした。私より年上の世代は新しいビルを見て「元の神戸の姿だ」と喜んでいたが、私には正直良く分からなかった。私が毎日のように遊んだ三宮は「仮の姿」だったのか!それでも、西洋風のモダン茶色ファサードは、「私の好きな神戸」の姿に近いような気がしていいなと思った。

私は今日、30歳になった。平成初期に生まれ私たちは、阪神淡路大震災記憶とともに生きる「最後世代」だと言われている。確かに地震は私にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まだ2歳になりたてだったから当日の記憶もまばらだ。でも、成人式の時にふと過ったあの感情を、誕生日のたびに思い出すのだ。阪神淡路大震災がなければ、私たち、本当はもっとたかもしれない。地元同級生は、実はもっと多かったのかもしれない。自分人生のどこかのフェイズで、あの時いなくなった誰かが私の大切な人になっていたかもしれない。

記憶も年をとる。誤解を恐れずに言うと、阪神淡路大震災のことは、これからどんどん忘れられていくだろう。神戸と縁のない人たちにとっては、もうすでに阪神淡路大震災のことは別の災害記憶に塗り替えられているかもしれない。はっきり言って、これはどうしようもない、誰が悪いわけでもない、日本に住んでいる限りは、大きな地震が定期的に起きることは避けられないのだから。でも、少なくとも私は― 傷ついた神戸の街に育ち、ゆっくりとその傷が治っていく中で青春を過ごした私は、これから阪神淡路大震災を忘れることはない。「最後世代」という言葉は、「私たちは本当はもっといたのかもしれない」とリアルに思える「最後世代」だということなのだろう、と今は思っている。30歳になった今日も、またふと考えた。私と一緒に年をとってくれる誰かが、本当はもっといたのかもしれない。

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