はてなキーワード: 考察とは
(その①の続き)
http://anond.hatelabo.jp/20160404011015
二次創作の変動を分析する上で、まずは同人誌即売会(以下、同人イベント)のサークル数の推移を取り上げる。
2015年に開催された同人イベントの参加サークルを調査したところ、艦これで活動する総サークル数(2015年に一度でもジャンル「艦これ」で同人イベントに参加した個別サークルの総数)は約4100サークルであり、男性向け単独ジャンルとしては東方Projectの約5700(※)に次ぐ規模となっている。
(※)東方Projectの個別サークル総数の計算には、夏コミ及び冬コミを含めていない(一部で手入力の作業が発生するため、コミケの艦これだけでも集計が大変で、労力が続かなかった……)。また、東方季奏宴や東方駿河祭など一部集計できなかったイベントなどもあり、東方の個別サークル総数はおよそ1000~1500程度上乗せされるものと推定される。
この数字は2014年集計の約4300サークルと大差ないことから、艦これで活動するサークル数はすでに安定期に達したことが読み取れる。
また、各地の同人イベントの艦これサークル数の推移を確認したところ、こちらは2014年の調査から引き続き艦これサークルは減少傾向にあることが分かった。
2014年後半~2016年初頭にかけて開催されたイベントをいくつか取りあげてみても
・コミックトレジャー(オールジャンル):381(第25回)→372(第26回)→319(第27回)
・駆逐してやる!~なのです:65(第4回)→32(第5回)→16(第6回)
・我、夜戦に突入す!:375(第2回)→312(第3回)
・砲雷撃戦!よーい(東京):1010(2015年9月開催)→686(16年1月開催)→945(5月開催予定)
となっており、単独のオンリーイベントでも、また比較的強いとされたオールジャンルイベントでもその傾向は変わっていないことが分かった。
直近の傾向では、「神戸かわさき造船これくしょん」が唯一第1回開催から継続して拡大し、最大オンリーの砲雷撃戦に次ぐ規模となっているほか、5/8開催の「砲雷撃戦」もサークル数はやや減少傾向にあるものの900サークル規模に回復している。
その一方で、比較的健闘していると思われていた「艦娘まりんふぇすた」が今年3月の第3回開催を最後に閉幕となったほか、北方棲姫オンリー「ほっぽこれくしょん」がわずか4サークルでの開催となるなど即売会によっては落差が激しく、大規模イベントへの集約化が今後進む可能性は高い。(神戸や砲雷撃戦の傾向から、もしかするとすでに進みつつある可能性もある)
これらは、コミケの艦これサークル数推移とは逆行する動向であり、コミケにおける艦これの盛況からすれば直感的には理解しづらい。
ただし、コミケにおいてもC88(2015年夏コミ)で艦これの申し込み数が一度減少した(当選率が上がったため、サークル数自体はわずかに増加した)こともあることから、今後の推移は単純に予測できない。
また、個別の即売会の参加サークル数が減少する一方、コミケのサークル数は一応の増加を見せていることから、コミケへの集約が進んでいるとも考えられるが、同様の理由でまだ考察に耐えるだけの情報は不足していると言わざるを得ない。
収集していた投稿数の推移を確認すると、月ごとに変動があるとはいえ、
○週間平均投稿数
・2014年下期:3,650枚
と減少傾向が続いていることが判明した。
特に、特筆すべきイベントの少なかった2015年9月~11月は週間平均投稿数が3,000枚を下回っており、その中でも10月の第4週はついに2,500枚を割り込んでしまった。
pixivにおいてはほぼ同規模であった東方Projectの投稿数が年間を通して今なお週間平均3,500枚以上あることと比較すると、2014年から続く弱含みの傾向は一貫して続いていると考えられる。
また、この傾向は前述の同人サークル数の推移とも一致し、加えてpixivの投稿数とサークル数の間には比較的強い相関があることから、二次創作における創作者の層は次第に薄くなりつつあると推察される。
閲覧数については、2015年6月6日以降に閲覧数に何らかの上方修正がかかったため、それ以前のデータとは単純な比較が困難である。
それ以降のデータでは、8月第2週(コミケ開催週)の週累計3,000万閲覧をピークに緩やかに減少を続け、現在はほぼ横ばいとなっている。
「pixiv1000user」などの固定タグの登録作品も減少傾向にあることから、特定の作品に閲覧が集中しているというよりは、全体的な傾向と言える。
pixivにおいては、艦これは投稿数、閲覧数ともに、何らかのイベント(コミケなど)に沿って増加する傾向にあるが、年月を追うごとにイベント時も平時も段階的に減少している傾向にある。(平時の投稿数を比較すると分かりやすい)
また、キャラクター「鹿島」の登場により一時期二次創作が活発になったが、pixivの動向を分析をする限りでは、実体としては既存のキャラクターの人気が爆発的に「鹿島」に移ったに過ぎず、投稿数や閲覧数の大幅な増加は見られなかった。
集計していた投稿数を分析したところ、「ニコニコ動画」の投稿数も減少傾向にあった。
2014年10月時点での投稿数は週平均で約500作品あり、アニメの放映された2015年2月には一時1,200作品を越える投稿があった。
しかしながらその後は一貫して減少を続け、2016年3月現在では約300作品に留まり、2014年の最小値を30%以上下回っている状態が続く。
ニコニコ動画で比較的人気の高い東方が約1,000(※)、アイドルマスターが約800(※※)、刀剣乱舞が約400であることと比較すると、規模は比較的小さくなってしまった。
(※)「ゆっくり」は東方の派生作品であるが「ゆっくり実況」は集計に含めていない、また同じく派生作品である「クッキー☆」に関しては異論も強いようなのでここでは集計に含めていない
(※※)シリーズごとにタグもあるようだが「アイドルマスター」タグのみを集計
特徴的な傾向としては、投稿作品のうち実に6割以上がMMD作品となっていることが挙げられる。(ニコニコ動画でのMMD作品は東方や刀剣乱舞に目が行きがちだが、実はそれらのMMD作品よりも艦これのMMD作品週間投稿数の方が多い)
このことから、未だ一定数の創作層がニコニコ動画に残留していることが読み取れるが、pixivと違って2015年は外的要因による投稿数の大きな変動も少なかったことから、現在の傾向はこれからも続いていくと思われる。
閲覧数に関しても、現在は週間で1万再生を越える動画は平均10作品で、投稿数と同じような減少傾向を示している。
唯一考察が困難な点が、これらの傾向とは裏腹に[艦これ]タグのPV数が未だ上位に存在していることである。
(http://www8328ue.sakura.ne.jp/index.php)
本来的にはタグのPV数と検索後に出てくるであろう艦これの動画閲覧数は正の相関関係をもつはずだと思われるが、実際にはそのような関係は読み取れない。
タグPV数の算出方法を熟知しているわけではないので考察は控えるが、一見するとタグ検索だけを行って動画を閲覧しないという不可思議な事態が起こっているように見え、腑に落ちない結果に思える。(どなたか詳しい方がおられれば、ご意見をいただきたい)
以上から、艦これの二次創作において、ニコニコ動画という場は主流から外れてしまった感が強い。
艦これの独擅場と言われた「ニコニコ静画」は、若干切り崩しが進んだ感はあるものの、閲覧数ランキングにおいては今なお強い勢力を保っている。
その一方で、投稿数はpixivと同様に下落傾向にあり、投稿者と閲覧者で乖離が進んでいるようにも思える。
これは、コミュニティの特徴として、ニコニコ静画は作品そのものよりも投稿者自身に人気がつく傾向にあることに由来していると考えられる。
実際にランキングの上位の作品を見てみると、見覚えのある常連投稿者の作品であることがほとんどである。(艦これに関しては、およそ5人の投稿者でランキング上位が占められていると言っても過言ではない)
やや特殊なコミュニティではあるが、「ニコニコ静画」の傾向もこのまま大きな変動はないものと考えられる。
人気の推移を分析する上で、匿名掲示板の動向は指標としてはいささか不適切であると考える。
匿名掲示板はそのコミュニティごとに作品の扱いが大きく異なり、一概の分析が非常に困難であると言わざるを得ない。
例えば、おーぷん2ちゃんねるでは艦これ関連の話題は比較的抵抗なく取り扱われ、ブラウザゲーム板などは艦これに関するスレが大部分を占めている。
旧来の2ちゃんねるでも比較的似たような傾向であるが、一部で(詳細は述べないが、様々な理由により)従来ファンだった層がいわゆるアンチに転化してしまったという特殊な事情を抱えるスレも少なくない数あり、分析にあたっての取り扱いを一層困難なものにしている。
また、ふたばちゃんねるは更に事情が複雑で、複数ある「虹裏」の中には艦これの話題を扱うのが非常に困難な場所も存在する。(これも詳細は述べないが、様々な理由によるものである)
ふたばちゃんねるには艦これの話題を専門に扱う「艦これ板」も存在し、特定の話題を専用に扱う専門板の中では最大の規模を誇っているが、近年はやや人数の減少傾向が見られる。
ふたばちゃんねるでは、算出方法は不明であるが、現在その板を見ている人数が目安として表示され、イベント時を除く平時で、艦これ板のピーク時間帯の人数は板設立当初で400人規模、昨年の夏ごろでおよそ350人程度であり、現在は300人程度となっている。
同じくふたばちゃんねるで東方の話題を扱う東方裏板では昨年のうちに人数が150人程度から200人程度まで増加しており、一方で刀剣乱舞板は10人を下回っていることに鑑みれば、やはりそれぞれのコミュニティの性格というものが強く表れてしまうことが分かる。
以上のような理由で、人気の動向を分析するにあたり、匿名掲示板などの分析は行わないこととした。
また、Twitterに関しては、未だ定量的に分析する手段が確立されておらず、今回も分析から除外した。
長くなってしまったが、以上の結果をまとめると、次のような事実が浮かび上がってくる。
・公式関連の人気は今なお強い。
・二次創作関連の人気は停滞気味で、下落傾向が見られる。
・公式関連でも書籍は縮小気味で、二次創作と似たような推移となっている。
・Vita版やコラボグッズなど、新規性の高いものには人気が集中する
つまり、
大きく分けて、公式関連と二次創作関連で人気の二極化が進んでいる
ということになる。
これは意外な結果だ。
かつては「公式関連は展開が遅い」「グッズの絵柄が既存のもので新規性がない」「二次創作は好調が続いている」と言われていたが、現在の状況を分析した限りでは、むしろ公式関連に人気が集中している。
このような傾向になった理由を考察してみると、主因はここ最近の公式関連の矢継ぎ早な展開にあるように思われる。
Vita版やアーケード版の発表、更にはコラボグッズの展開など、ここ最近は公式関連の発表が相次いでおり、にわかに活気づいているという印象を受けた方は多いと思われる。
上述の分析結果を見るに、いずれも人気なのはVita版やアーケード、オーケストラコンサートなどの、艦これにこれまでなかった新規性の高い出来事が中心となっており、人気となったコラボグッズも、従前の公式グッズとは違い、新規に描き下ろされた絵を使用したものであった。
一方で同じ公式関連でも書籍が下落傾向にあるのは、書籍そのものが「前の巻の続き」という継続性の強いものであって、2015年は新規展開による目新しさというものがなかったためではないかと思われる。
また、二次創作関連は上記の分析結果を総合する限りでは、2014年末~2015年初頭にかけてのアニメ放映時期がピークであったと推察される。
稀に2013年末をピークと見る分析もあるようだが、これはこの時期に艦これの二次創作が爆発的に増え、増加量、言い換えれば勢いがすさまじかったとこによるものだろう。
実数をベースに見れば、最大値は2014年末~2015年初頭で、いくつかのピークを形成しつつも段階的に縮小しているというのが現在の状況だ。
かつては艦これの二次創作は乏しい公式展開を各々が補完しようとしたために流行したとも言われたが、これが事実であるとすれば、公式関連の矢継ぎ早な作品供給が見られる現在の状況で徐々に二次創作から公式作品へ人気の再移行が進むことは一定程度理解できなくもない。
しかしながら、主因はむしろ二次創作人気の高い作品が競合していることにあると考えている。
かつて東方Projectが二次創作を席巻した際は、二次創作にいおいて東方に変わる有力な作品というものが少なかった。
現在はその東方Projectが尚健在であり(一部増加傾向が見られるという報告すらある)、「アイドルマスター」も未だ強く、比較的新しい作品としては「ラブライブ」が驚異的な強さを誇る。
即売会の状況を見ても、東方Projectは博麗神社例大祭(春:4000サークル規模、秋:1500サークル規模)、東方紅楼夢(2000サークル)、東方名華祭(400サークル)、北⑨州東方祭(400サークル)など大規模な即売会が毎年開催され、ラブライブも単独即売会で500サークルを集める規模に成長した。(これは艦これ即売会二番手の「神戸かわさきこれくしょん」よりも規模が大きい)
他にも「グランブルーファンタジー」の即売会である騎空祭が一定の成功を収めたり、女性向けでは「刀剣乱舞」がコミケで1600サークル、単独即売会で5000サークルを越えたりと、二次創作の人気は競合状態にある。
様々なジャンルを掛け持ちするサークルも多いが、その分各ジャンルにつぎ込める労力は分散することになるため、競合が多いほど各ジャンルの規模が頭打ちになりやすいことは容易に想像できると思う。
個別の創作活動に影響が出るため詳細は伏せるが、集計したサークル数のデータを分析していると、艦これから東方Projectやアイドルマスター、ラブライブ、おそらく女性を中心に刀剣乱舞への移動も見られ、一部には艦これからの流出が超過となっているジャンルも存在し、艦これ二次創作関連の縮小が続く要因になっている惧れもある。
以上をまとめると、大雑把に「公式関連は増加、二次創作関連は減少」ということになる。
また、公式関連の人気と二次創作の人気は必ずしも一致しないという原則も再確認できた。(仮にこれが成り立たないとすれば、今ごろ世の中は「パズドラ」の二次創作だらけである)
そして、最も重要なことは艦これの人気を議論する上で、人によって見ている指標が異なっていることを認識しなければならないということだ。
ある人は公式関連の動向を見て人気を議論し、また別の人は二次創作関連の動向を見て議論している ―― このようなことが起こっているからこそ、冒頭に述べたようにファンの間でも認識の差が生まれるのではないだろうか。
「艦これはピークをすぎた」という発言は、必ずしもいわゆるアンチによる発言とは限らない。
一方で「艦これは人気絶頂」という発言も、盲目的なファンを装った荒らしの発言とは限らない。
これらは「対象としているもの」の違いで両立し得ることが、この分析結果から理解できたのではないかと思う。
また、いわゆるアンチや荒らしなどは、このような一見したギャップを突いてきて、議論を混乱させようとしてくる惧れもある。
正確な知見をもつことがこのような荒らしの排除に繋がり、「艦これ」の発展に繋がっていくと信じている。
(了)
普段ネットとかの記事を見たりして、少し感想を頭のなかで唱えることがある
時には問題になっていることに対して風呂に入りながら考察して、自分の少ない経験から自分だけの『考え』を出してみたりする
でも明日になるとどうでも良くなってしまう、結構ろくな意見じゃない?のかもしれないからだ(今打ち込んでるのも明日になればどうでも良くなるかも)
こういうふうに自分の意見を殺してしまうことが多々ある、しかしそれでいいのかもしれないと思うのだが、それでは良くないとも思う
というのも自分の今の境遇から出た『考え』に信憑性や自信がないからだ、
こういう自信や信ぴょう性は自分の中だけで風化してしまうからいろいろな場所でコメントを残して反応を伺えばいいのだろうか?
もしも「いろいろやってみるといいよ!!」なんて言われた日には「そうなのかな?」と思うし
「別にしなくてもいいんじゃない?」て言われたら「そうかも」と思うかもしれない
結局のところどう考えていようとも自分の『考え』が風化してしまうわけだ
『いいことはいい結果になりやすい』『悪いことは悪い結果になりやすい』『いいことだが悪いかもしれない』『悪いことだがいいかもしれない』
年を取るごとに上記のような問題を目にする機械が多くなるとおもう、でも自分の中の何か(経験かな?)が足りてないせいで自分の『考え』自信と信憑性眼持てないのだ
今回のこの文章を書くにあたって自分の中で出した『考えは』「意外と『考え』は自分の中で腐りやすい」ということだ
μ’s名付けの親の御児勇馬さんがネット上から消えた件について
という記事について。
ブログ主は御児勇馬氏と同じラブライブ!の古参ファンであることを自らの立場の説得力の盾にしつつ論じていますが、実際にはテレビアニメ以前の音楽以外の内容について愛着が皆無であり、
内容的に好きなのは元からアニメ版のことだけであるため、アニメ版ラブライブ!批判者を極めてアニメ以降の新参に近い立場から感情的に否定しているだけで、古参であることを後ろ盾にする資格が無いのではという話。
(ブログ主)
ここにあるツイートだけを見る限り「読者参加型企画として発足したのに現在のラブライブのやり方は制作者からの一方的な押しつけだ」という旨の発言をしていたところラブライブファンからたしなめられて消えていったμ’s名付け親という古参代表といった感じです。アンチにしたら彼もそう言っているんだからやはりアニメラブライブは駄作なんだという使い方が出来てとても便利だと思います。
では『一部のフォロワーからご意見をいただいた御児勇馬によるラブライブ!に関する発言』にどういったものがあったのかというと
コレとか
(御児勇馬氏)
テレビアニメ版の制服or衣装の真姫ちゃんなら吐き捨てる 2012年以前の真姫ちゃんなら首肯する 茶髪の真姫ちゃんなら描いた人を抱き締める
コレです
御児 勇馬 @umamiko
茶髪の真姫ちゃんなら僕の隣で寝てるよ。赤髪のレズビッチは消えろ http://t.co/acqU3Z6Mzt
4 months agoReplyRetweetFavorite
これとか最高に古参拗らせててヤバい— 13代目 (@GARIoftheyear) 2014年5月12日※ブログ主
御児 勇馬 @umamiko
茶髪の真姫ちゃんなら僕の隣で寝てるよ。赤髪のレズビッチは消えろ http://twitter.com/umamiko/status/418739888687554560/photo/1pic.twitter.com/acqU3Z6Mzt
4 months agoReplyRetweetFavorite
「読者参加型企画が蔑ろにされているというのは建前で、自分がμ’sの名付け親であることにプライドがあり自分が名付けたという設定がアニメや漫画で無視された事に不満がある」
「推しだった真姫の性格が改変されたことが気に入らない」
という印象を持ちました。少なくとも真姫を赤髪レズビッチ扱いするのはμ’sの名付け親として…なんて以前の問題でろくでもない発言だと思います。
そんなわけで結局何が言いたいかというと、御児勇馬さんはそこまで聖人君子ではなかったし、上記のような発言をする彼の意見がたかだか名付け親で名が知られているというだけで古参の総意のように扱われるのはファーストシングル発売時から応援してきて、アニメ版ラブライブも好きな自分としてはとても気にくわないのでアンチ諸兄におかれましてはそんなモノに頼らずもっと自分の言葉でラブライブや花田十輝を批判するようお願い致します。
とブログ主は御児勇馬氏をこき下ろしつつ同様に従来設定を持ち上げてテレビアニメラブライブ!批判する者へ釘を刺しています。
しかし、ブログ主は「古参拗らせててヤバい」という言い方からも古参や初期原案設定を好むいわゆる原作厨の立場を適当に馬鹿にしているだけのように受け取れます。
ブログ主は、自分も御児勇馬氏と同じ古参であることを明かして古参にも自分のようなテレビアニメ設定ファンがいると自らの説得力の補強を図っているのですが、その割には御児勇馬氏の心情を「ろくでもない」と完全にぶった切っており、古参だからこそ従来の設定を愛するファンの心情への理解を示す姿勢が殆どありません。
それもそのはず。そもそもブログ主は古参ではあるがラブライブ!原案の作成者である公野櫻子が嫌いな様子で、初期設定や絵柄に元から愛着や思い入れはないことを仄めかしています。
公野せんせーの文章はただでさて修飾過剰で読むのしんどいのに穂乃果が書いてる体の文だから更にすごいことになっててもう。— 13代目 (@GARIoftheyear) 2013年6月4日
公野先生の文章はこんな女いねーよっていう思いと女性が描いてるっていう現実との間で押しつぶされそうになって読めない— 13代目 (@GARIoftheyear) 2013年9月3日
頑張って読んでみたけどやっぱり公野テキストは受け付けないし漫画は本になってからで良いし全部摂取しなきゃファンじゃないみたいなの面倒臭いから適当に行く— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年1月30日
ラブライブ初期って室田絵やゴッドポエムはアレだったけど掛かってる予算と曲の良さはあった— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年6月15日
ラブライブもアニメ化までにあったお話はゴッドのポエムとアルミ版で、あれにコンテンツの牽引力があったかというと疑問— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年9月24日
以上の発言から元から立場上古参だとして、アニメ化以前については音楽の良さは評価していても、キャラ設定や絵など大半の部分については従来から評価し応援してきた様子がないことが分かります。
それにしても、真姫の設定が改変されたことが気に入らない御児勇馬氏の心情を推測した後、それに関しての感想や考察をもう少し真面目に行ってほしい気がします。
その点は多数派と化したアニメ以降ラブライバー派閥に属しているため、適当にこき下ろしても楽に支持を得られるだろうという傲りが表れたようにも映ります。
ちなみに、御児勇馬氏が批判したアニメ版の西木野真姫は矢澤にこや東條希と並んでアニメ前後で設定が大きく改変されたキャラの一人です。
(簡単にいうとアニメ前の真姫がガルパンのアニメ本編の逸見エリカだとしたらアニメ版の真姫は、二次創作においてコメディ色強く歪められた西住みほにも簡単にデレデレになり、催眠オナニーが趣味のエリカというくらいに違います。)
ブログ主は古参でファーストシングルから応援してきたファンを自称し、それを立場の補強に使うならば自己紹介やCDドラマ部分含めた初期設定の内容についても多少好意的に捉える向きも欲しいところですが、
それらの内容には全く否定的な様子でテレビアニメ以降のみを賛美する状態では、興味があったのは音楽か声優だけ、または人気が出そうだから一応ウォッチしていたら人気が出て古参を名乗れてラッキーという立場のようにも思えてしまいます。
御児勇馬氏の設定改変への嘆きは、キャラや作品内容の当時の今とその延長線上にある未来を思って期待していたからこそ応援していたことが受け取れるため、むしろファンとして当然の姿のように思います。
それに比べると、前から作品買って追ってはいたけど人気が出たから、好きな脚本家がアニメ脚本書いたから本格的に推し出しただけであって、実は昔の内容は嫌いだったと言い出す人の方がろくでもない人のように映ります。
黙ってたけど実は俺もアレ嫌いだったんだよね~~~って言い出すタイプは積極的に殺していけ— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年12月1日
ブログ主は何かと古参であることを自説の後ろ盾にしたい様子が見られますが、
既に京極ラブライブ嫌いなオタクが結構いるし今後ロクでもない喧嘩が発生するだろうしそのたびにウザい古参オーラ出しまくります(^^)/— 13代目 (@GARIoftheyear) 2014年6月23日
今度こそ古参になれるとか思ってる弱いオタクにいつでも最古参パンチ食らわせられるようにですね— 13代目 (@GARIoftheyear) 2015年4月28日
アニメ版を大好きな古参の自分がいるのだから御児勇馬氏の嘆きを古参の総意としないでくれとも述べています。
実際に、古参でありアニメ以前の内容を好きでもありながらアニメ版も好き、またはアニメ版の方が好きという人もいるでしょう。
しかし、先にも述べたように彼はただ初期当時を知るだけであり、「ラブライブ!の従来の設定や世界観を愛する故に応援してきた古参ではありつつもアニメ版を評価している」という立場ではないため、立場上はむしろテレビアニメ化以降のコンテンツの姿が一変して人気が出た後に嬉々として本格的に乗っかったラブライバーに近い立場ではないでしょうか。
同時に、ブログ主はアニメ版ラブライブ!批判者をまとめてアンチと断定する態度(まるで昨今オタク世間を賑わしてきた新参ラブライバーのよう)で、御児勇馬氏に頼らず自分の言葉で批判するように訴えていますが、本人も古参であるという立場に頼らず自分の言葉で擁護や批判をするべきなのではないかと思いました。
ブログ主のように古参でありながら過去に何の思いもなくテレビアニメ以降を妄信的に愛するファンは他にも存在しますが彼らは新参同様に基本的に好きの内容を語ることは少なく、好きという立場を語ることが多いので、御児勇馬氏のように作品の内容を好きになって応援していた人の気持ちが分かりにくいのかもしれません。
http://anond.hatelabo.jp/20160221211019
に対する
kato_19 確かにすごい考察ではあるが・・・楽しめなくて可哀想としか。辻褄や現実にこだわる理由がわからない。私の感想『『ラブライブ!』は私達に何をもたらしたのか?』http://kato19.blogspot.jp/2016/01/lovelive.html
匿名でここまで書くのはすごい!でもおりあそ氏同様、脚本の物語性に非常にこだわる点が自分とは大きく違う所。現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像に魅力を感じるんだよなぁ。 https://t.co/C43GeQjkcD https://t.co/9DE4lPVVaB— kato19@アニメとスピーカーと‥‥。 (@id_kato_19) 2016年3月19日
について。
まず、彼に限らずアニメラブライブのファンが多少筋の通った批判を目の当たりにすると苦し紛れに発することが多い「楽しめなくて可哀想」という感想について。
この表現にこそ、とにもかくにも「ラブライバーである自分が好きだからラブライブが好き』という感情状態から生じた「ラブライバーでない奴は可哀想」という論理が見え隠れする。
一応、何事も楽しめたらそれは素晴らしいことだ、というのにも一理はある。
しかし、見方や立場を変えてアニメ前の作品内容や原案公野櫻子先生による内容を特に愛するファンから見た場合は逆に、アニメと同等以上に可能性に溢れているそれらの媒体をおまけ以下と扱って注目せずにアニメや声優のみに注目し楽しむ現在の大半のラブライバーこそ、楽しめなくて可哀想に映るともいえる。
本来であればもっと楽しかったもの、もっと楽しくなれるものに期待できず楽しめない状態でありながら、あんな物語性もキャラクターも薄く浅いアニメを萌えるとか尊いとかいって満足して楽しんでいることこそ可哀想だ。
と、子供の喧嘩のような言い合いになるので、楽しめなくて可哀想理論は微妙だ。
次に、「辻褄や現実にこだわる理由がわからない」「脚本の物語性に非常にこだわる点」について。
これもアニメラブライブなど、拙い脚本を持ち味とする作品のファンが内容を批判された場合に反論でよく用いる意見だが、この意見が出てくる時点で大体の場合勘違いが存在しているように思う。わざとの可能性もあるが。
アニメや劇場版のラブライブ、少しずれるが艦これなどに至るまで、脚本内容を批判している人達の大半は恐らく完全な辻褄や現実性、脚本の物語性に非常にこだわっているというわけではない。“最低限”の辻褄や現実性が脚本や演出に伴っていないからこそ批判しているのであって、辻褄や現実性絶対主義者だから批判しているのではないことを盲目的に賛美することしか念頭にないファン達は再認識してもらいたい。
もしくは、彼らにとってそれらの作品の「萌え」や「勢い」といったものが上級表現の「尊い」どころか脚本の物語性や辻褄・現実性の拙さと乏しさから来る違和感と物足りなさを補えるほどには全く至っていなかったのだ、ともいえる。
実際、辻褄やリアルさよりも萌えや勢いで全てを吹き飛ばして満足感をもたらしてくれる尊い作品を自分も欲しているが、アニメラブライブはそれには程遠いと思う。
そしてそのような細かい辻褄の拙さやおかしさを吹き飛ばせる萌えや尊さといったものが存在しているものこそ、アニメ以前の雑誌や漫画におけるラブライブ!だと自分は思うのであるが…。
京極尚彦氏や花田十輝氏、ラブライバー達にとってはそんなものより海外ドラマにのっぺりとした無個性の二次元美少女絵を貼り付けて動かしてたまにライブシーンで踊らせておけば萌えて尊い、物語性など要らないって思ってしまうらしい。そのような部分を見ていると、彼らが一体作品の何を好きなのか分からなくなってくる。(そこでラブライバーはラブライバーである自分のファンでしかないという説が起こる)
ラブライブ!はアニメ以降よりも1stシングルPVのキャラクターデザインの方がシンプルながら個性と卓越性があった。当時は黎明期だし全てが未熟だっただろうという雑な先入観から考えて初期の絵や内容を馬鹿にしている者はファンにも多いが、もう一度しっかり見直してみた方が良い。実際初期の雑誌の絵は拙いもっさりした感じの絵もあって、主にそれを持ち出して「初期のキャラデザはこんなに酷かった」なんてネタにされているのをよく見る。しかし、雑誌やスクフェスなどの公式絵はアニメ化以降でも当たり外れがあるのでそのあたりを踏まえて考え直してみる機会を設けてもいいだろうと思う。
次に「現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像」とそれに呼応する内容が述べられているブログの記事内容について。
『ラブライブ!』って本当に美しいですね!特に劇場版のラストライブ・・・極限まで高められた美しさに圧倒されました。『萌え』の上級表現である『尊い』って言葉がこれほど似合う作品ってあるでしょうか?
ここまで心に響く理由・・・それは『ラブライブ!』という作品がアイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事が出来たから。現実に囚われない理想のアイドル像を実現できたからだと思います。
(アニメの)ラブライブ!って何が美しいのだろう。ラストライブの何が美しかったのだろう…。個人の主観だから仕方がないが、同様に自分の主観だと1stシングルのPVの方がまだ美しかったように思うためによく分からない。
劇場版のライブは1期や2期と比べても心に響くものがなかった。楽曲の質が突き抜けてこないのはネタ切れもあって仕方ない所もあるだろうが、無理矢理終わらせようという勢いと都合に溢れていたからだろうか。
「『ラブライブ!』という作品がアイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事ができた」「現実に囚われない理想のアイドル像を実現できた」
この意味がよく分からないが、後の記述から推測すると、芸能界というビジネス的なしがらみのある世界から分離され、物語やキャラクター性といった辻褄や論理から脚本やライブ演出に特化され解き放たれたことで自由になった作品だと言いたいように感じた。
しかし、それと併せて考えて見てもラブライブ!という作品が「現実に根ざした物語を超えて」(いる)というのは、先述したような内容の辻褄や物語性の乏しさという都合の悪さを隠すために言い換えてみただけの取って付けたような表現に感じてしまう。
2013年、そこへ発表されたのが『ラブライブ!』という作品でした。架空のアイドルをつくるメディアミックス・プロジェクトを出自とする本作にとって、現実のアイドルという縛りは初めから希薄なものだったのです。
2013年からラブライブ!という作品が始まっており、その時点でメディアミックス・プロジェクトから分離され独立していることが前提であるかのような書き方に嫌悪感を覚える。
現実から解き放たれたラブライブ!という作品
当時、多くの人がアイドルアニメといえばアイマスのようなものをイメージするなか、京極監督はおそらく気づいていたんだと思います。『アイドルアニメはもっと自由になれる』という事に。
『ラブライブ!』のTV放送一回目。多くの視聴者の度肝を抜いた突然のミュージカル演出。これによって本作がダンスと楽曲のコラボレーションに重点を置いた作品である事を宣言しました。
この方に限らずアニメラブライブ!や京極氏を絶賛する人達はこのように言うのだが、そもそも元からラブライブ!は「スクールアイドル」作品で、キャラクターが外のしがらみから独立して作詞作曲・演奏ライブなどを自由に行う描写がある作品も、ブログでも言及されている『けいおん!』などのように以前から存在しているし、その点においてラブライブがそんなに画期的だったとは自分にはあまり思えない。
また、ダンスと楽曲のコラボレーションに重点を置いた作品であることを宣言しても、作品の脚本内容の致命的な拙さやキャラクター配慮の不備の免罪符にはならないし、海外ドラマからパクって間に合わせただけで許されるわけでもない。
そもそも、元々の設定が存在し、それがある程度当時のファンに支持された上で存在していたメディアミックス作品なのだから、どうせ別のどこかから適当に引用する程度にしか監督や脚本家に作品のキャラクターや物語性への真摯さと思い入れが足りていないのであれば、元の作品から丸々引用する方が良かったはずである。それならコピペでも文句を言われないどころか、原案原作を生かしていて素晴らしいと絶賛されていた可能性の方が高いくらいである。
実際、アニメのラブライブ!で古参新参問わず最も評価が高いシーンの一つである1期8話は1stシングルPVの内容をほぼコピペするようにリメイクした内容だった。
それを、わざわざ無関係の別作品から引用して作品やキャラクターの軸までねじ曲げてしまったのは悪意の盗作という見方がされても仕方がないし、別作品へのオマージュやリスペクトとして捉えてあげるとしても肝心のラブライブ!という作品内容への思い入れと配慮の無さが強く感じられてしまい、その意図と効果は肯定的に受け入れにくい。
その特異にも見える現実離れした演出は回を重ねるごとに深まり視聴者を戸惑わせます。しかし秀逸なストーリー構成は私たちの心を掴み、いつしか違和感を感じなくなっていきました・・・ここに、現実のアイドルという枷が外れた『ラブライブ!』という作品がひとつの完成を見たのだと思います。
分かりやすく「特異にも見える現実離れした演出」があったのは主に1期&2期1話・最終話だったと思う。それ以外は態々特異というほど現実離れした演出があったと自分はあまり思わなかった。そのため、時折挟まれる無駄に寒いコメディータッチな演出や描写に違和感と嫌悪感が生じた。
腐ってもキャラクターアニメであるのにキャラクター描写が雑すぎて、キャラクターの魅力が淡白で薄くなっていて消えてしまっている。とても演出や勢いがどうとかでは補えるものではなかった。その内容については先述の批判考察記事やそこで引用される元の批判記事で書かれているので省略。
また、自分でストーリーの物語性や現実性と辻褄にこだわってアニメラブライブ!を見ることを批判的に捉えておきながら、その作品のストーリー構成を秀逸と考えた根拠も少々謎である。
百歩譲ってその論理からストーリーにこだわらず演出やライブ(ダンス)シーンがいい、ストーリーはおまけだからというなら意味も分かるし、それに特化した自由なアイドルアニメ作品を評価する論理としても、その人の中でそう思えたなら仕方ないかと多少納得できるのだが、そこで、無理なおべっかを使うような賛美を繰り出す所にラブライバーらしい空虚で盲目的な部分を垣間見てしまう。そのような評価の仕方を見ているとやはり彼らの感覚と論理の間には齟齬が生じているように思う。
結局の所、ラブライバーはキャラクター描写の拙さや、脚本や物語性を批判されたら「ライブシーンが見所だから」「ライブ演出が~」と言い、その演出もさほど大したことがないと指摘されてしまうと「キャラクターが魅力的で~」「初期から紡がれてきた声優ライブとアニメとの融合によるコンテンツの包括的に捉えた中でのみんなで叶える物語(の物語性)が~」というような形のことを言って相反した発言を繰り出すために説得力がない。
そしてコンテンツの初期からの積み重ねやみんなで叶える物語という既に剥がれ落ちた空虚な幻想の影を掲げて信奉する割には、アニメ以前の作品像やキャラクター像には最低限の興味や配慮を払うことすら稀な人が殆どである。
そのような点を見ていると、彼らは結局作品の中身には興味がなく外部のパッケージだけを愛しているように思える。「よく分からないけど初期から歴史があって人気が出たからみんなで叶えた物語だ尊い」、「よく分からないけど結構可愛い声優がアニメキャラとシンクロしたダンスを踊るために頑張ってるから尊い」というような状態なのではないか。別に作品を楽しむためには必ず重厚で説得力のある感覚や根拠を必要とはしないが、そのあまりに粗雑な状態の感覚や根拠を掲げることが必ずいつでもどこでも許されるわけではないということは少しだけでも覚えていてもらいたいように思う。
一方で、そこで素直に「アニメラブライブはクソでもラブライバーとしてアニメやライブを楽しんでいる俺は最高だ、だからラブライブは最高だ」と言ってくれるのであれば、それはそれで確かに素敵だと思うし、納得できる。それを聞くことで作品内容自体の素晴らしさは相変わらず伝わってこないが、彼らが作品を最高だと思っている気持ちは本物なのだろうと思えるからだ。しかし先述のように取って付けたすぐに剥がれ落ちるような根拠ばかり持ち出して内容評価を繰り返すようだと、何かに洗脳されたり、駆り立てられたりして仕方なく作品を賛美している状態に見えて、彼らが作品を好きと思っている気持ちすら実は偽物なのではないかという疑念が生じてくる。
実体がなく抽象化したからこそ表現できるものがある。劇中の『飛べるよ』というセリフは、まさにこの作品自体に向けられた言葉のように思えてなりません。
現実のアイドルという縛りから飛び立った時、アニメーションはここまでの表現ができるという事を教えてくれました。アニメーションの可能性がさらに一歩広がった事を実感できたのです。
自分は劇場版の『飛べるよ』という台詞を聞いて、苦笑いを浮かべた。最近(2016年3月現在)話題の違法・脱法薬物使用によるトリップを「飛べる」と表現することがあるが、それになぞらえて、「ラブライブ!を見てば『飛べるよ』」「作品内容もキャラクターも全部積み重ねてきた歴史をアニメ化してから根こそぎ捨ててきたから中身は空っぽだけど、裏には歴史があると思い込みながら「今が最高!」と騒げば『飛べるよ』」というようなパッパラパーな意味に捉えられ、作品批評者にネタを提供しているなと感じた。
「アニメラブライブ!という作品は、包括的なストーリー性やライブ演出が魅力だから作中のキャラクター描写とかアニメ自体のストーリー性は雑でもいい、描写の足り無さは効果的な省略だからおかしくても逆にそれがいい(効果的な省略が得意なはずの監督なのに無価値な蛇足なシーンやキャラが多いのは何故?)」というような無理矢理な盲目擁護調の論理はこのブログの筆者や、某K氏やG氏S氏V氏などラブライブ!賛美系評論者の多くに共通しているように思う。京極尚彦氏や花田十輝氏の信者に共通しているのかもしれない。
よくできたアニメだった
それぞれのパーツがパズルのように組み合っており
そういう意味でもよくできている
各種ショートコントの後、最終的に六つ子はトト子ちゃんの家にいってクリスマスを過ごしてくれと土下座する
トト子ちゃんは帰ってくれと土下座する
トト子ちゃんの親は毎年の風物詩だとほのぼのする
六つ子もトト子ちゃんもお互いがああだからということで
終わりなきモラトリアム期間を過ごすことを許されてると思ってるフシがある
お互いに抜け駆けするでなく本当につきあうアプローチをするでなく
その距離感に安心して、安心しているからこそサザエさん空間でまったりと生きている
ところが24話。Aパートの「トト子ちゃん大あわて」でトト子ちゃんが動く
それを受けてのBパート
そう24話はつながっている
トト子ちゃんによりホレてる順に動きがあるんだよな
地下アイドルであるトト子ちゃんのマネージメントしていたチョロ松が最初に就職を決め
総集編でいっしょに「まわし」をした長男が拗ねてる
次いでトド、カラ、十四と
興味深いのは最後の一松だ
彼は筋金入りのペシミストで家を出たところでなにがどうなるわけでもないし
マイナス面が多いと肌で感じている
もちろんトト子ちゃんとつきあえるわけもないと思っている
それでも今この家に残る理由がないし理由がないからこそ出なければならないと思っている
誰よりも場の空気を読んだ末に最後まで残るという手を選んだがそれ故に今出ないとダメだと
そして案の定野垂れ死に寸前にクリスマス回でちょっかいを出していたカップルに助けられる(ここもつながってる)
石油を掘り当てられずに骨になった六つ子にとって
今は手は届かないにしてもいつかなんとかなると漠然と思っていた存在がいきなり遠くに感じてしまう
そしてバラバラになった末におそ松はトト子ちゃんにデートに誘われても無視してしまう
そのまま最終話につながる
野球をすることになり
負けそうになる
そこでトト子ちゃんが出てくるわけです
勝てばやらせてあげると
これで六つ子とトト子ちゃんは気がつくわけです
そう彼らは「いっしょ」にトト子ちゃんを相手に童貞喪失したかったわけですよ
そしてトト子ちゃんも薄々は思ってたけどやっと肚を決めて
ひと肌脱いで応える覚悟をみせたわけです
ダメでしたが
六つ子は20歳すぎの青年らしく「セックスがしたい」という思いでがんばっていたわけです
ダメでしたが
だからおそ松が迎えに行ったときにめいめいが自慰行為にふけっていたわけです
だから24話から普通につづいて巣立っていって童貞喪失してニート脱却して視聴者を感動させちゃダメ
二期が楽しみですー
まだおそ松クラスタでつながっていよー
ってほうが健全
ほうぼうから「考察は無用」と言われてきたシュールギャグアニメが無事に最終回を迎えた。
このアニメが大人気になったのには様々な理由があると思う。大人気声優を起用したとか、OPやEDの中毒性が高かったとか、六つ子が個性化したのがよかったとか。
私は、このアニメにおいて一番ウケた要因は「ありえないほど穏やかな一家団欒を描いたから」だと思う。
だって、普通こんな楽しい生活ありえない。8人家族、成人男性のニートが6人。現実世界だったら目も当てられないくらい荒んでいる。家の中はもっと散らかっていて汚いだろうし、家族間はギスギスしているはずだ。
けど、松野家の六つ子は実にのんきにたのしく日々を過ごしていた。将来を憂うことなく、過去を悔やむこともなく、何か重い責任感に押しつぶされることなく、ギャンブルして逆ナン待ちしてライブ行って猫と戯れて素振りしてスマホいじくって1日が終わる。チョロ松なんかは一応就活らしきものをしていたが、それもだいぶ形骸的なものだ。時々ハロワに行ったり求人誌や自己啓発本を眺めているだけで、資格勉強などに勤しんだ描写はない。そんな気楽な就活があるか。
ありえない。
けれど、彼らの世界ではこれが正しいのだ。だってここは赤塚不二夫の世界。ここでは各々がありのままに過ごすことが良しとされる。まさしく、この世に要るのは良い子だけ。
そんな「おそ松さん」ワールドだけれど、ご存知24話で崩壊の危機を迎えた。
おそ松以外の5人が「このままではいけない」と思い立ち、次々に松野家から飛び出していったのだ。
まず、チョロ松が会社員になった。
そしてカラ松がチビ太の家に転がり込んで頭を地面に擦り付けながら就職活動を始めた。
狂人・十四松は工場だか配達業だかのバイトのためにデカパン博士の家へ。
最後に一松が「これでいいんだよ、多分」と言い残して家を出た。
これでいいんだよ多分、という台詞の直後に赤塚不二夫の遺影が映し出されたのが印象的な、弟たちの独立のエピソードだった。
残されたおそ松は終始不機嫌。ヒロイン・トト子のデートの誘いにも応じないほど、自分の殻にとじこもってしまった。
盤石だと思われていたお気楽六つ子、ついに離散………というシリアス展開のまま、24話終了。
どうなる松野家、と視聴者誰もがドキドキしながら最終回放映を待ったことだと思う。
24話で描かれた悲壮な決意を「ワガママ」の一言で片付けた長男。
それに即座に応じて一瞬にして出戻ってきた弟たち。笑ってそれを眺める母親。
視聴者代弁役の父親だけはついていけず「仕事はどうした?」という真っ当かつ野暮な質問を投げかけるが「そんなの辞めた」とあっさり返された上、母親から盛大にぶっ飛ばされた。
おそ松がサラッと発した「ワガママ」という言葉が全ての答えだったように思える。
この世界にはこの世界の理屈がある。将来に危機感を覚えてぬるま湯生活からの脱出を試みるのは、ついでに言うなら崇めるべきヒロインを無下にするのは「ワガママ」に過ぎないのだ。ここでは、宇宙でハチャメチャな野球やったり際どい下ネタを披露したり軽率に死んだりするのが「良い子」の道なのだ。
六つ子はお祭り騒ぎを続けなくてはならない。
喧嘩するなら砂埃の中でポカポカするべきであり、ガチギレしながら胴体蹴りをかましてはならない。
ヒロインが何か発言すればお目目ハートでめろめろにならなくてはいけない。
六つ子たちが初めて挑んだ謀反戦は不発に終わった。
彼らは、押しても引いても「良い子」であるだけだった。
さて。タイトルの時点で察しのいい方はお気づきかと思うが、私の考えとしては「思わない」なのである。
現プレイヤーの方々はここでもうタブを閉じられるかもしれない。もしかすると「どうせ盗用がトレスがとか言うんでしょうもう聞きあきた」なんて事を思う方も居るのかもしれない。
そういう方にこそ、この記事に目を通してほしいのだ。無理にとは言わないが少しだけこの文に付き合ってもらいたい。
まずは、少なくともこの記事には「盗用問題について糾弾する意図は無い」という事を理解してほしい。私がここで話題にしていきたいのは、あくまで「刀剣乱舞というゲーム自体は魅力のあるコンテンツなのか」という疑問についてなのだから。
さて、刀剣乱舞の魅力を知るのはやはり刀剣乱舞プレイヤー…というわけでTwitterでプレイヤーが布教の際に推しているアピールポイントを調べて、私なりに纏めてみた。
①様々な種類のイケメンがいる
②ながらプレイが出来る
③人気がある
主にこの3つがよく挙がるように思うので、これを一つ一つ考えてみよう。
①様々な種類のイケメンがいる
まぁこれは文字の通りである。イケメンとは程遠いデザインのキャラクターも居るのかもしれないが、「自分にとってのイケてるメンズが居たら面白くなる」といった意味だろう。
とはいえ私としては疑問に思うのだ。ゲーム内に存在するボイスや台詞、グラフィックはあまり多くない。これだけでプレイを継続させるにはあまりに内容が薄くないだろうか。本当に「ゲーム内のキャラ」への愛情でやっているかは不明な所である。
②ながらプレイが出来る
これが私が「本当に面白いのか?」と疑問に思う理由の一つである。このゲームをプレイしている中でゲームシステムに惚れ込んでいる人がどれくらい居るのだろうか。
ながらプレイが出来るって、それはゲームとしてつまらない事を堂々と表明している事にならないか?
自動戦闘で戦略などといった事も見受けられないのならそれはゲームとすら言えないだろう。そんな苦痛でしかないゲームシステムをプレイヤーはどう思っているかが気になるところだ。
何故そんな工場のラインのようなあるいは思考実験のような作業をプレイヤーは続けるのか。理由は①のイケメンをGETするためであろう。
要はこのゲーム、「単調作業をしてイケメンを掴まえるゲーム」なのである。そこに戦う楽しさやストーリーの展開にハラハラするような要素はないと言っても差し支えないだろう。
それでは③についても考えてみよう。
③人気がある。
…これがミソなんじゃないかと私は思っている。
人気があるから同じ作品が好きな「仲間」が増える。「仲間」と沢山の情報を共有するのが楽しい。
他の「仲間」より早くイケメンをゲットできたら嬉しい。
…このゲーム、雑談の話題として機能している訳である。SNSでの知り合いがよく話しているからやってみる、などの理由で始めた人も少なくないのでは。
でも、本当にそれって面白いのだろうか。
別に色んな人と情報を共有できるコンテンツは刀剣乱舞以外にも色々あるわけである。
面倒なクリックを必要としないアニメやもっとシステム自体が面白いゲームがあるはずなのだ。
それをわざわざつまらないとプレイヤー本人も(!)言っているようなゲームをイケメンが見たいから、みんなやっているからなどの理由でやるのは何となく、ダサいような気がしてしまうのだ。
盗用に無断トレスに失言にと、様々な事でプレイヤーまでが非難されるような事態になっている刀剣乱舞だが、最初に述べた通り私はその問題についてどうこう言う気はない。
ただ、私は聞いてみたいのだ。「そこまで言われても続けるような価値、このゲームにありますか」と。
追記
今日本では貼りつき系のゲームはほぼ求められていないという意見、大変勉強になりました。
でも、ながら作業で出来るゲームの中でも刀剣乱舞は格段につまらないと思います。例えばポケモンなどだって片手間に出来ると思うのですが、どうでしょう。
わざわざこの面白くないゲームに貴重な時間をかけてしまうよりは、アニメなどを流して作業した方が有意義だと思います。
追記2
知識欲という視点からのご意見ありがとうございます。
そういった元ネタ重視の方は時間がなくてまともなゲームが出来ない方とはまた別の方々なのでしょうね、刀を見に行く時間の余裕があるのですし。
好きな刀を出すために面倒な作業を強いられるのは少し可哀想に思いますね…
追記3
ゲーム性の薄さについての考察、ありがとうございます。
何というか今の女性が声優さえ揃っていれば薄い内容と薄いゲーム性で釣れると証明されているような気になり、個人的に不快感を覚えます。
企業側としては都合の良い消費者でしょうから、今後サブカルチャーの方面でお金を稼ぎたい方はこのゲームを嬉々としてプレイする層にどう売り込んでいくかが重要なのかもしれませんね。
個人的には、校長の発言に非がまったく無いわけではないが、処罰の対象になるような事案ではないと思う。
以下、考察。
1、女性が子供を(平均して)二人未満しか産まない社会には重大な問題がある
3、女性が子供を二人以上生むことは、仕事でキャリアを積むこと以上に重要である
さて、以上の3つの主張のうち、どれがOKでどれがNGだと感じただろうか。
まず、1について異議のある人は、ほとんどいないと思う。
というか、1を否定してしまったら、少子化問題はまず間違いなく解決しない。
ところが、これが2になると、早くも抵抗を感じる人もいるのではないだろうか。
「何が重要なのかは個人の問題で、他人が指図するものではない」
そんな声が聞こえてきそうだ。
しかし、よく考えてみると2の主張は、1の主張を単に具体化しただけのものである。
論理的に考えて、1で示された問題(女性が子供を二人未満しか産まない社会)を解決する唯一の方法は、女性が子供を二人以上生むことである。
そして重大な問題を解決するための唯一の行動は、当然にして重要であるに違いない。
にも関わらず、多くの人は、感覚的に1はOKでも2はNGだと感じるのではないだろうか。
実際、ネット上に見られる批判意見の大部分は、2を問題視したものであるように思われる。
繰り返しになるが、1をOKだとして2をNGだとする意見は論理破綻している。
だから、今回の発言を問題と見るか否かの争点のひとつは、3から2を引いた残りの部分、つまり「仕事でキャリアを積むこと以上に」が適切だったかどうかに集約されるはずだ。
子供を二人以上生むことと、仕事でキャリアを積むことは、どちらが「社会」にとって重要か。
これは確かに校長の主観であって、実際には議論のある問題であろうから、発言が100%適切であったと擁護するのは難しい。
したがって、この点で校長の発言には一定の非があったと私は考える。
しかし、比較の問題である以上、どちらか一方が他方よりより重要であることは明らかだ。
そして、前者が後者よりも重要ではないと断言できる絶対的な根拠も存在しないだろう。
すなわち、校長の主張が完全に誤りであると断言できるような根拠もまた存在しないのである。
もうひとつの論点は、「社会」にとって重要な事柄を、「個人」の人生の指針として指導することの是非についてだ。
平たくいえば、「社会の役に立つ人になりなさい」と子供に教育することはOKなのかNGなのか、ということである。
おそらく、個人主義志向の人であればNGだと考えるであろうし、全体主義志向の人であればOKだと考えるはずだ。
ただ、個人の主張とは別にして、公人としての校長の責任という視点のみで考えるなら、この点について教育委員会は校長の非を問うことはできないと私は考える。
なぜなら日本では教育権の一部が国家にあると判例で認められており、実態としても、公教育の中で子どもたちに「国の役に立つ人になりなさい」という指導が当然のように行われてきているからだ(「道徳」の学習指導要領などを見れば、一目瞭然である)。
したがって、この点に関して校長の発言には非がなかったと私は考える。
前述のように、私は校長が「子供を二人以上生むこと」と「仕事でキャリアを積むこと」を比較して、前者の方が社会にとって重要であるという個人的意見を、あたかも絶対の真実であるかのように表明した点のみに問題があったと考えている。
また、校長の主張は根拠を欠いたものであったが、絶対に誤りだと否定できる根拠もまた存在していないと考える。
確かに校長の発言は正確性を欠いてはいたものの、そこに差別的な意図などは含まれておらず、またその他に問題と考えられるような主張も含まれていない。
以上の点から考えれば、少なくとも「辞職の勧告」などといった極めて重い懲戒処分を下すことは不適当であると私は考える。
歴代の名作アニメが流れる中「花は咲く」が流れるバージョンがある。NHK以外のなんでもありのアニメオールスターだ。
いいか若者よ。こういうのに絆されるんじゃねーぞ。
震災の復興はもちろん重要だが、こういうただ何か歴史性のあるものをひたすら羅列しただけのもので感動してはいけない。
このような「感動の構造」はあなたの感性を鈍らせる。これで感動してはいけない。こんなただの羅列で心を動かすな。
これは罠だ。大人の、しかも大したことのない大人の罠だ。
若者よ。お前がこの後一生プライドもなくプライドが何たるかもわからず、蒙昧として生きるならあれで感動でもしていればいい。
だが僅かでも、サブカルチャーに対して自分の頭で考察し楽しもうとするのであるならば、プロでも同人でも読者でもなんでも、少しでも自分自身で楽しもうとするならば、ああした構造には注意しなくてはならない。このあともいくらでも感動の構造は襲いかかってくる。24時間テレビとかがその典型例だ。気を付けてほしい。
最初に言っておくとこの作品ではタイムリープは起きてない。よくタイムリープものだとカテゴライズしてる人いるけどそれは間違い。
そこがこの作品のうまい所であり、大多数の人が騙されてるところ。
つまりリバイバルは時間を巻き戻してるわけじゃないんだよ。そこに気がついてる人はどれくらいいるかな?
この謎をとく鍵は悟が植物状態になったこと。この物語を植物状態になる前と後で分けて考えるとわかりやすい。
物語を順番に読んでいくと、リバイバルして何回も小学生に戻って、殺人犯を追い詰めるけど、逆襲されて殺されかけて植物状態になった、こういうふうに受け取りがち。
でもこれが間違い。作者がそういうふうに誘導しているのもあるから仕方ないけどね。
何度も言うけど鍵は植物状態の前と後。
つまりどういうことか?ぶっちゃけるとリバイバルは昏睡状態の悟がみた夢のなかでの出来事です。
現実に起きたことを時系列順に並べ直すと、小学生の悟は一発で八代を追い詰めけど逆襲される→植物状態になる(この間に長い夢を見る)→目が覚める→八代の犯罪を暴く。
とある得意先がある。
この会社は消費者向けのサービスを売っている日本の最大手企業で、社名は知らない人は居ないと思う。
で、この会社はとにかく金払いがしっかりしているんで、私のような零細企業にとっては有り難い限り。
支払いサイトも短く、こちらが見込んだ売上をほとんど通してくれる。
が、この会社は弱点もあって。
それは自分で実際、消費者として使ってみるととても使いにくいし、かなり不便な会社なんだよね。
自は彼らの広告のお手伝いをするのだけど、なんか複雑。
誇大広告にならないように欠点は言わず長所を徹底的に強調するのが王道なんだけど、なにより自分が使っていて、「なんじゃこりゃ」状態なわけで。
これでも日本で一位ということで、つくづく商品やサービス力じゃない所でモノは売れると痛感。
前に、何もしなくてもいい商品は売れると言った子供が増田にもいたけども。それ「だけ」じゃないわけで。
流通、サービス、ブランド、そして宣伝などの総合的なパフォーマンスを上げるか、どっかの切り口で勝負するか。
ソシャゲーはゲーム通はこぞって批判、子供の遊び、ガチャだけとか批判するがこれだけ普及している理由を一度でもまともに考察しているのを見たことがないのと似てる。
クラブのためという自己肯定意識が横行していて、歯止めが効かなくなっている
クラブの元選手やレジェンドといった、「今となってはただの部外者」でさえ、その立場をわきまえない
あまつさえたたのサポーターやファン(金を払って試合という対価を受け取っているだけの一般人)が、プロに対してプロであることを殊更に強調し
サポーター(ファン)はお客様だと思っているうえに、お客様は神様だと思っているので、選手やスタッフに対して敬意などを抱くことはなく、彼らはクラブの成功にしか興味がない
上記のように、自らは態度や発言、行動に責任を負わないくせに、クラブと自分を同一視し、クラブが「成功しない」と自分の価値を貶めたと考えてクラブを攻撃し始める
ファンやサポーターが表に出てくるときはほほ確実に批判、暴力、差別行為、恥知らずな言動(フラッグ等)であり
つまりサッカーという競技を競技だと受け止めていない事がわかる
優劣をつけるための代理戦争だと考えている
選手やスタッフに対しての短絡的な人格攻撃が主で、あれほど複雑、先鋭的に進化しているシステム、戦術考察のやり取りはほぼ無いに等しい
選手、スタッフの大半はビッグクラブに所属すればするほど自分たちがサッカー文化を背負っているという自負の元に行動しているのは見て取れる
それはプロ意識であると言えるが、このプロ意識におんぶに抱っこの甘えん坊がピッチの外側にあふれている
上記の内容から、サッカーという文化に対して穿った視点を払拭することは難しく、所為「DQNのスポーツ」というのは市場を形成してるファン、サポーター、マスコミ、解説者という名のこれらと同類の人種を見れば正しいと感じる
今月末からを予定しているPokemon GOのテストに向けて、
もう既にテスターへの連絡が始まっているのかいないのか知らないけど、どうやって選考するのか考察。
テスターへNiantic側が求める要素は、重要度順に以下の通りなんじゃないかと思う。
正式サービス開始前から警察沙汰になる等のトラブルの発生は一番避けたいかと。
次に、折角テストを実施するのにスプーファーの情報ノイズで正しいデータが集まらないという下らない状況は避けたがるはず。
不正せずに積極的にテスト参加するってことの優先度は、その次になるんじゃないかな。(テスター希望してる時点で皆積極的に参加する気満々だろうし)
情報を漏らさないって重要な点ではあるけど…そもそも一般人のモラルにそんなに期待してるのか…疑問。ある程度漏れることは織り込み済みなんじゃなかろうか。
で、ingressエージェントの中からだったら、上記の条件に一致する人は割と探しやすいんじゃないか。
1.を満たしてしまう人のフィルタリング=ingressで今まで騒動を起こしてきた人を対象から外す。
2.を満たしてしまう人のフィルタリング=ingressで今まで不正を行ってきた人を対象から外す。
3.を満たす人の抽出=ingressの活動量やG+での発言、コミュニティとの関わり方や質を材料として抽出
4.を満たす人の抽出=3.と同じくG+の活動を元に検討して(ingressの作戦機密の守り方とかの様子を見て?)抽出
↑こんな方法でテスターを選出するなら、Niantic側からテスター参加してくれと言われそうな有名日本人エージェントは、色問わずそこそこ居そう。
数年前に友達から借りた某家庭教師漫画で新しくペペロンファミリーの守護者を思い浮かぶままにノートに書き殴り最強主人公を作ってた頃とはもう違う。ニコニコ動画を初めて知り、獄寺隼人のアンチコメに顔を真っ赤にしてた中学生の私はもう成長したのだ。
フォレストは中学生の作るホムペだし〜笑ってナノで素材サイトを血眼で探してオシャレなサイトを作ってランキング自クリしまくった数年前。Twitterを知り鍵なしで推しキャラをペロムシャなどの擬音で可愛がったりクロスオーバーゴミカプを生産しまくりながらマイナーと嘆いたり、果てには推しキャラのなりきりとして様々な方々にすり寄っていたアイタタ高校生の頃の私も変わった(本当に当時関わった人たちに申し訳ないと思う)。
数年前とあるゲームにハマった。その中のあるキャラクターを推して数年が経つ。私は過去のアイタタ行動を顧みながら生きる昔よりは成長した人間になったと思う。Twitterで500倍ぐらいに脚色したリアルツイートでウケ狙いもしなくなったしフォロワーと適度にキャラの萌え語りをしながらジャンルに発展があれば静かに喜ぶ、自分の考えた最強の穏健派腐女子を演じるようにTwitterを使う。
ただ数年前までは自己顕示欲大爆発ブス関わりたくない腐女子だった私は成長しても結局はめんどくさい関わりたくない厄介腐女子になっただけだった。
数年前は私もあんなんだったし仕方ないよって笑って厨ちゃんの行動を静観とかできなくない!!??なんで数年前厨ちゃんだった私の相手してくれてた成人済腐女子は私の事殺さなかったの!!!?!?ってこの前不思議に思って高校生の頃のアカウントに久しぶりにログインしたらそこは相変わらず面白くない日常グチツイートと気持ち悪い推しキャラへの愛の押し付けと、なりきりアカウントに溢れててすごく地獄だった。結局厨ちゃんの相手は厨ちゃんだったってだけだし、成人した時点で厨ちゃんならもう一生厨ちゃんなんだろうな…とそっとアカウントを閉じた。
厄介腐女子の話に戻る。ゲームのジャンルの性質上仕方ないことだけれど、課金をすれば無課金よりもエピソードを多く入手できる機会が増える。そうするとそのエピソードから得られる情報は課金した人間のみが得られるため、無課金と課金勢には推しキャラ1人にしろそのキャラクターのプロフィールなどの情報の格差が生まれてしまう。もっとキャラクターとのエピソードが読みたかったりいろんな情報を知りたいなら課金してねという性質なのは仕方ないと思う。だから私は課金を強要してる!とほざくクソザコ無課金どもが嫌いだ。
課金できない理由が人それぞれあるのは分かってるけど、その中でも一番許さないのがグッズ無限回収無課金同担拒否ドリ豚ども。何がしたいの?グッズ買う金があるなら課金できない?何してんの?なんで無課金でそのキャラについて何も情報知らないのに同担拒否ドリ豚してんの?意味がわからない。
あと顔カプ腐女子。確かにこのゲームってキャラが多いからまあ確かに自分の好きなキャラ同士組み合わせて最強の顔カプ作りたい気持ちもわからなくもない。でも公式でなんでキャラ同士仲良くしてる描写もたくさんあるのにわざわざそっちでくっつけんの?公式で言及されてるならまあ許さないけどわかるしそういう腐女子もいるんだねって思うけどお前らそれ僕の考えた最強の受けちゃん可愛い❤️できる攻め様を勝手に見繕ってるだけじゃない?多分完全オリジナルキャラクターとして過去に私が作ったペペロンファミリーのほうが許せると思う。
それとクソザコ無課金同担拒否のことわからないってさっき言ったけどまあまあ課金してて私と解釈違う同担はもっとわからない。なんで!?そいつそんな、そんなあれだった……?あんなものすごいあれがあったのになんで!?運営と仕事できない後輩にキレる前に自分にキレ狂って死なない?ムカつく
穏健派腐女子だからリツイートで回ってきたりたまたま検索で目に入ったクソども全員ブロックなんかせずにミュートしてるけど、最近フォローしてるやつらも全員ミュートしたら世界で一番快適なTwitterライフになることに気付いてしまった。なんかもうTwitter辞めたほうが精神的にはいいんじゃないの?って思う。
でも私こんだけ言ってるけど正直別に絵が神がかり的に上手いわけでもないし文章も自分で読み返して死にたくなる(もうこの文章も半分わけがわからなくなりながら書いてる)し、やっぱり厄介ジャンルの癌腐女子なのは分かってる。でも客観的に見ても私が推しキャラ、推しキャラの周囲の人間を追って出てきた情報とかから長文考察したり下手ながらに自分の萌えを絵に表現する生き様は好きだしものすごく仲良くなりたい腐女子だと思う。
こんだけダラダラ言ってたけど結構何が言いたいかっていうと、私と解釈合わない腐女子全員死なねーかな〜〜〜!!!!!!!!!全員私の持つ何かにひれ伏してチヤホヤされたいし私と解釈違うキャラ推しども自分の過ちに気付いて私を褒め称えてから死んでほしい。厄介腐女子の歌でした。また悲しい推しキャラの解釈違いを踏んだのでムカつきました。それでは聞いてください「そもそも乙女ゲージャンルで腐女子してる私が一番の解釈違い」
かつて中央の大型私学にいて、現在は地方国立にいる大学関係者です。偏差値の議論がどこぞで上がっていますが。何処にとも書かずに心のなかにあった2つのお話を。
特に地方の大学にいると、それなりにかなり優秀な学生がいる。それこそ2つくらい上のランクを狙えるような。で、なぜ現在の大学にかよっているかを問いただしたところ、親が一人暮らしを許さなかったからという理由が多い。第一志望に落ちたからという理由はあまり聞かない。親が一人暮らしを許さないってのは、少し前までは女子学生に多かったのですが、最近は親にカネがないからか、男女問わず聞くセリフです。
偏差値はその学校に合格する最低ラインです。状況によっては偏差値以上の学生がゴロゴロいる大学も存在します、ってことは受験生らに伝えたい。
多くの予備校が公表する偏差値は、一般入試合格者数です。とくに大型私学を発端として、現在では国立を含む、多くの大学で、推薦、AOなどの複数回入試がとり行われています。
推薦、AO入学生の学力はその大学の偏差値には反映されません。結果どうなるかというと、推薦、あるいはそれに類似した名前の一般入試もどきを乱発させることで、一般入試の枠を狭くすることにより、一般入試の倍率を高めて一般入試合格者の学力を高める、ひいては偏差値を高めることができます。関西のR大学が率先して行ったこの方法は、いまや全国区になっております。
ちなみに推薦、AOで予め合格者を囲うのは、文科省の締め付けによるところも大きいです。文科省は定員より入学者が1.2倍(この数値は今後変更)を超えたら予算を減らしにかかります。なので、推薦、AOで予め入学者数を確定したいという意図が大学にもあります。
私学の場合は国公立の結果次第でかなりの数が逃げられます。そのことを考えると、一般入試合格者数はかなり年度による振れ幅が大きいので、そんな面倒なリスクを取って文科に睨まれるのはヤダという発想です。
で、ぶっちゃけ推薦、AOで入ってきた学生ってのは大学に入ってからがアレなので、内部者としてはできれば減らしたいのです。ただ上の理由があるから一筋縄ではいかない模様。
で、まぁ何を言いたいかというと、偏差値にはかなりの誤差があり、また実際の学生の幅は大学により大きく異なるということです。あまり教条的に見ないほうがよろしいかもしれません。
オールバック年配男性がネクタイをポッケに入れている姿が見れたので、星三つです。
「いつかやりたい事が出来た時にそのための知識がないから諦めるとか苦労するとかつまらんだろ」
ほんとうこれな。
ガルパンを楽しくみたいのに、
ロシア、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカ、が昔どんな国だったのかを全く知らないから、
上坂すみれが好きなのはどの国? ドイツかロシアのどっちかだよね?
アイドルマスターの765プロの面々が戦国時代? にタイムスリップする動画もよく理解できない。
こないだ、ポケモンが戦国時代の武将と戦うゲームをやってようやく、そのゲームに出てくる武将は少し覚えた。
ていうか、子供を持った時点で(男も女も)子供以外の全てを犠牲にする覚悟が必要ってことなんじゃないの?って思うが。
そりゃ犠牲にせずに済むケースもあるけど、それは単に運が良かっただけであって、必要になれば即座に犠牲にできるように価値観を変更する必要があるだろう。
それができないなら子供を持つべきではないわけで、実際に子供作る前にそのくらいは考えないの?って思うんだけど。
子どもを第一に考える、という点は同意だけど、子育て世代というのは会社にとっても戦力の中核であることが多いから、現実的には難しい問題かなと思う。
子供を持って実際に使えなくなった奴は既に中核でもなんでもないでしょ。
「子供以外の全てを犠牲にする覚悟」とは「必要になったら(本人が)会社を辞める覚悟」であり「犠牲にしなくても大丈夫なのに(会社が)本人を辞めさせる」ことに何の正当性もない。単に子供を人質にした会社の言い訳。
実際仕事が回っていなかったのでは?元増田には「社員さん」に関するポジティブな内容しか書いてないからわからないことだけど。
会社に入ったら仕事以外のすべてを犠牲にすることを要求される日本ならではの発想だな。なぜこの手の人達は先ず日本の生産性の低さの改善について考えようとしないのか、謎である
すぐ「生産性が」とか言い出す奴ほんと信用できない。生産性が低い原因は需要キャップじゃないの?日本人が少しはマシな英語できるようになって国外でモノ売れるようにならないとどうしようもないんじゃないの?あるいはアメリカみたいにクッソいい加減なサービスでクッソ高額の料金を要求するってことじゃないの?マズい定食食べただけで2000円とられる社会を目指せって本気で思ってるの?
ひと昔の人はそんなこと考えて子供作ってたの? そんなわけないでしょ
単に何も考えずに産んだ結果、事後的に全てを犠牲にするしか無くなってそのまま人生を終えてただけでしょ。
つーかその程度のこと言われるまでもなく考察済みに決まってんじゃん。
増田は、自分がそこまでの覚悟のある異性と知り合って子作りできる可能性が、微粒子レベルでも存在していると思っているのだろうか。
勘違いしてるようだけど、俺は子供のために全てを犠牲になんてしたくないので子無しだよ。既婚でいつでも作ろうと思えば作れるけど。
自己犠牲の考えは素晴らしいけど…『自分達の子供は自分達だけで』とギスギスしなくても。もう少し社会もネットも柔らかくなるといいですよね。
こういう「自己犠牲が素晴らしい」とか言い出す野郎がクソほど嫌いなので。
もはや「子どもを持つ奴のが例外的」な時代にあってはそれらは当然の要求ではなく自己責任で処理すべき問題となるという認識なのか
子供を持つのが例外的だとは思わないが、全体の生活水準は大幅に上昇して子育てとの両立が不可能になっているとは思っている。
庶民が子供を持ちながらこれだけの社会インフラを安価に利用し清潔で快適な生活を送り娯楽も楽しむ、なんていう事自体が不可能なんだろう。
こんなことちょっと考えれば分かるはずなのに、子供を持つまで(持ってからも)一切気付かず、よくわかんないけど子供作ったら生活レベル維持できないふざけんな!とキレてる馬鹿が多すぎる。
まあ、馬鹿がいっぱいいないと社会は回らないというのはそうなんだけど(俺みたいに子供持とうとしない奴らばかりになっても困る)、馬鹿が馬鹿のまま生活レベルを向上させられる時代は終わったのでこれからは臭いものに蓋をしていた地獄が徐々に溢れてくるだろう。
昔は子供がある程度育ったら労働力として使えたので産んでたのでは。年金やなんかもないし、子供がいないとどうにもならんだろう。そもそも犠牲にするほどのもん持ってなかったんじゃないか?
それはそう(そもそも持ってなかったという点)。上記の生活レベルの話参照。