はてなキーワード: 行使とは
SESやってるとあまりにもこの組み合わせが多くて、実は間違ってるのはこっちなんじゃないかって思うほど多いから、改めて記す。
大前提として「請負と準委任契約」は、発注側から請負作業者への直接指示をしてはいけない。(直接指示が許されるのは、特定派遣か一般派遣の場合のみ)
発注側から指示がある場合は、必ず「請負側の管理責任者」に対して行われなければいけない。
つまり、「請負と準委任契約」は、最低2名からなるチームを持つ会社でないと請け負うことはできない。
現場に請負側の管理責任者と作業者がいて、管理責任者が何か作業する場合、これは「管理と作業の兼任」になるが、作業をしながらも作業者の管理や発注側との交渉を行う権限を行使できるのであれば、兼任でも問題はない。
ただし、これは「管理責任者と作業者」という最低2名が現場にいる場合に限っての話だ。
そもそも現場に1人しかいない場合、その作業者に発注側が作業指示しても、それは「管理責任者に対する指示」にはならない。
厚生労働省から出ている 労働者派遣・請負を適正に行うためのガイド から引用する。
請負事業主の管理責任者が作業者を兼任する場合、管理責任者が不在になる場合も発生しますが、請負業務として問題がありますか。
A
請負事業主の管理責任者は、請負事業主に代わって、請負作業場での作業の遂行に関する指示、請負労働者の管理、発注者との注文に関する交渉等の権限を有しているものですが、仮に作業者を兼任して通常は作業をしていたとしても、これらの責任も果たせるのであれば、特に問題はありません。
(中略)
さらに、請負作業場に、作業者が1人しかいない場合で当該作業者が管理責任者を兼任している場合、実態的には発注者から管理責任者への注文が、発注者から請負労働者への指揮命令となることから、偽装請負と判断されることになります。
これらの取り決めは、適正な労働環境を維持するため・労働者を守るためのルールである。
1年目の新人が、いきなり1人で客先常駐になり、会社名の違う人間から無理難題を押し付けられる。新人には発注側との交渉を行う権限もなければ、自分の作業分量を管理する権限もない。けれど、これが当たり前なのだと思って無理な作業を受け入れ、やがて潰れる。
あの発言は鰻の保護を訴えてた奴が実はこっそり蒲焼食ってたみたいな話で、
別に鰻を食うのは構わないし、仮に食ってようが論そのものに傷がつくわけでもない
では何が本当の問題かというと、自分が鰻を食う以上、他人にも禁止はできないことだ
自分が自由を行使して行動を変えないなら、他者の自由もまた尊重しなければならないし、
彼らに変化を求めることもできない
鰻を食うことを非難する人もいるだろうし、鰻保護自体の正当性を問う人も出てくる
前述の通りそれは無理筋だ
ただ、最大限好意的な解釈をしても、鰻を食わないという行動は誰にも強制できない
・人はおおかたが、内心はゲスいことを考えている。
・力を持つことでそのゲスさを外に出してもいいと勘違いする不届者も残念ながらいる。
世の中には、Aセクハラをするひと/Bセクハラをしそうになってもがまんできるひと/Cセクハラ発想がないひと、の三種類のひとがいて、Aセクハラをするひとは、力の行使範囲を勘違いしている人、と言っていいと思う。
多くの人間はBに所属し、聖人君子かと思うようなCは希少種である。
それはともかく、Aセクハラをする人は、なぜ行使範囲を勘違いするのか。幾多のセクハラを受けてきた当増田が観察した結果をまとめてみると、
1 力の行使範囲が広いほど自分が偉いと考えている(旧来型セクハラ人格、野良犬のマーキング)
2 プライベートとパブリックの区別をつけられない(空気読めない、もしくはおれら仲間だからつい的な境界症例的なアレ)
3 もともと「女(または男)は見下していい」と思っている(ネオ性差別、「分断」派)
あたりが、感情原型としてあるのかなと考えている。これは原型なので、多くのセクハラ事案はこれらがそれぞれ個別の比率でミックスされている。
少し前に話題になった、中西大介元Jリーグ常務理事のセクハラ事案などは、1と2の合体型というか、職場(や家庭内)で起こるセクハラの典型的なパターンだろうと推察できる。
偉いんだから何しても許されるという甘えた心と、自分たちは身内なのだから許されるだろうという甘えた心である。要するに甘えてんだあのタコ坊主一生戻ってくんなサッカー界隈に。増田はJリーグ好きなのでつい激昂してしまったが。
ちなみに、この数日話題になっている彼のケースだと、1に加え3の要素である性差別や性的対象へのコンプレックス感情などもありそうだと愚察している。
珍しい種類であるCは、大抵ちょっと非の打ちどころのないモテだったりして、世界の不公平さに思いを馳せたりもする。
彼らにはセクハラは不要なのだ。内心のエロ心を外に出す必要を感じていない。
権力範囲の確認をする必要がないほど対社会的承認欲求に満たされているし、自分と異なる人(性的志向対象含め)とは融和すべきで対立するメリットはゼロだと自然に考えることができる。
大抵の場合そのような聖人君子はプライベートにも満足感を得ているので公私を分けるのも比較的容易である。Cタイプの人は家族円満に加え子供まで優秀だったりするので、ほんとすごい。
話は逸れるようで逸れないが、増田は「モテ」をバランス力ととらえている。イケメンであるとかお金を持っているとか、それだけでは「モテ」は成立しにくい。
バランス力って、イケメン4、お金5、地位4みたいにモテ要素がバランスよく配合されてるヤツだろ?ケッ、と思う増田諸兄もひょっとしたらいるかもしれないが、当増田が主張したいのはそういう意味でのバランスではない。
人が持っている各戦闘能力(顔、金、能力、面白力、愛嬌、ギーク力、諸々さまざま)には、残念ながら個々人ごとにスコア差があるし、各戦闘能力間にも「社会における評価」差がある。
簡単に言えば「顔」は社会的に評価が高いが「ギーク」はそうでもない。でもタモリ倶楽部的世界観では「ギーク」のモテ力はかなり高まる、みたいなことだ。
当増田の言いたいバランス力とは、己が持ってる各能力とそのスコアに自分が納得しているか、ということである。自分と「自分の能力」に折り合いがついている状態を「バランス力がある」と表現したい。
増田諸兄は「おれと似たような顔面のあいつには可愛い彼女(彼氏)がいるのに…」と思ったことが一度ぐらいはあるだろうか。少なくとも当増田にはある。
そういう「あいつ」が、私からみても良いヤツならまだ納得できるが、それほど良いヤツではないむしろ悪いヤツなのに…ということも少なくない。
嫉妬含有率の高い感情に我ながらがっかりし、うっかり己の不運に絶望しそうになるところだが、一方で、この「むしろ悪いヤツで戦闘力もあるとは思えないのに良い思いをしているヤツ」は、己の戦闘能力を客観視し適切な戦略を実行しているからこそ、果実を得られている(当増田はそのやり方は必ずしも常に好ましいことだとは考えないが)と考えることができるのではと思うのだ。
戦闘能力を示すチャートグラフの数値や面積の広さが問題なのではない。いや問題ではある(初めから恵まれた果実を手に持って生まれる人間も世の中にはいる)が、それとは別に、「自分は今はその面積しか戦闘能力がない」「うむそれなら持っているもので戦おう」と己の能力を素直に受け入れ対社会への解釈を客観的に出来る者には、その後の成長力も含め、なんにせよ未来があるということだ。
例えば、ギーク力が突出して高いだけの人間だったとしても、場所とメンツを選べば合コンでいい塩梅の彼女をゲットすることだってできる。
ポイントは「いい塩梅の」である。社会的に100点満点の(自慢できる)彼女である必要性は、少なくとも内的にはないということに、気づけるかということ。
手に持っている武器では倒せない敵に向かっては(または向かいもせずに)ヘイトを貯め込んでいく、このような状況を、当増田は「バランス力のないヤツ」と定義したいのである。
全ての項目が10点満点のチャートグラフを書けなくても、あちこちでこぼこで尖っていびつなグラフの自分でも、持ってるもんでやりくりしてこう、と折り合いがついた、バランス力が取れた状態になると、不思議なことに(まぁ不思議ではない当然ではあるが)チャートグラフのへこんだ項目のスコアも伸びていく。そもそも足りない自分に折り合いをつけられること、それ自体が「戦闘力の開発」だったりもするし。
一方で、この折り合いがつかないと、どんどん生きにくい自分になって行くんだろう。無い能力や評価されにくい能力と相手を呪う前にやることがあるってことだ。
そうすりゃCの聖人君子にはなれなくても、B:ごく普通のセクハラ我慢できる小確幸的人生は、手にすることはできる。
セクハラする人生は、幸せな人生とは決していえないのだ。あれは統合できない自己が、己や周りを巻き込んで自爆していく作業でしかない。
本当に分からない。
どうやら、修正を入れないと頒布できないというのに、自分でプリンターやら買って印刷する気配もない。
https://twitter.com/macaronicheese0/status/852924068898643968
けど、男性向けではコピー本は無料配布と思われるのか?よく分からんが、コピー本だとか自分で刷るとか色々あると思う。
本当にこの国は北朝鮮みたいだ
本題なんだけど、コミケは「コミケの存続ガー」ってやたら振りかざして法に対抗するつもりもないよな。
マハトマ・ガンジーですら抵抗権を行使して不服従を実践したのに、なぜお前らはやんねーの、って話。
それ、純粋に疑問に思うんだけど。
ネットショップでも出来るじゃん。海外サイトならそういうもので検閲受けないし、BOOTHなら見本誌チェックなどない。普通に売れるし。
抵抗権でもっと言えば、ヨハン・クライフの息子がジョルディって有名やん?
クライフに息子が生まれた時、当時フランコ将軍により『ジョルディ』とかカタルーニャ系の名前を禁じていたわけ。
それでも『ジョルディ』って名付けた訳だよ。「オランダの出生届のコピーだ」ってアリバイも作った。
まあこれは、その前日に5-0でバルサが買ったこともあるんだよな。
なんで俺がこうやって増田さんに愚痴ってるかと言うと、純粋に疑問に思うわけ。
なんでこんなろくでなし子裁判でも批判が吹き出てるのに、抵抗権を行使しないのか。
世間体ってのもあるんだろうけど、本当に自分のこと信じられるならそんなモン乗り越えられるだろ。
清岡純子が一昔前は普通にあったんだが今はタブー視されてるんだぜ?
そんな風に世の中は変わるんだよ。すぐに。
世相なんてこんなモンだろ。
頭のおかしい痛い一部のやつが世間という皮を被って糾弾するわけで、それはかつての部落解放同盟のつるし上げとかまなざし村と変わらん。
これは個人的な意見になる上、私は表現規制を推進している訳でも何でもないんだが、覚悟が無いなら同人活動やるな、同人活動に文句言うな。
あれだけ印刷所が「成年向同人誌は何時でも逮捕される可能性がある!」って煽ってんだよ?
そんな煽りを真に受けるなら「覚悟のないやつはしない」が正解じゃん。
何を言ってんの。
俺の思う同人活動が違うのか、抵抗権を行使して無修正で頒布するのはカウンターカルチャーの一つとして見るべきか。
想像なんだけど、
例えば共謀罪とか集団的自衛権とかが今のまま罷り通った場合、多分それを良いって言っている人達は、なんか悪い所があれば引き返せると思ってるんじゃないかな?
これって凄い楽観主義で、歴史的には引き返す事は甚だ難しいというか、最近見てきたようなデモで市民が集まるとかいう牧歌的なもんじゃなくて、そこで起きる反発は本当に暴力による弾圧だったんだよ。
これは右翼が暴力的とか左翼が平和的とかじゃなくて、警察とか軍とか、本来的に暴力を内包する組織に曖昧な基準でそれを行使する権限を与えるとまずいよ、って単純な論理なんだよね。
だから、安倍政権は本当はそれ狙いなんじゃないかってくらい、基準が曖昧なままで警察や軍に有利な法案を通した、これは引き返せるって思ってる人達への意図された暴力を内包してる。
安倍総理とそのお仲間の本当の意図を知るのは、実は引き返したいと思った時、愛国心を持った組織がどう機能するかという事だろうね。
頼むから政治家や官僚や法律家の方にはまともに仕事をして欲しい。私は思想は人の勝手だと思うけど、仕事を雑にするのはロクデモナイ大人だと思う。
今の人達は仕事を評価しない。やれどんな思想なのかとか愛国だとかリベラルだとか良い人だとか。そんな曖昧なものより、通った法案を見よう。彼らの仕事はまともな法案を作ることであって、どれだけ愛国かとかいう事で評価されるべきじゃない。
https://anond.hatelabo.jp/20170715104142
を見て、職務質問うけとるやんと思ったので書いてみる。
過去のこんなことをしたが
https://anond.hatelabo.jp/20141109155144
経験則だが止められた時にすぐ動き出せば、ついてくるが最後はあきらめるので止まらないのが私の解決策です。
2人以上いる場合に回り込まれた場合があるが、その場合は1~2時間「任意なので断る、なぜ断るのか?」の質疑を無限に繰り返すとあきらめて帰っていく。
仲間を呼んで更にパトカーから質問上級者を召喚してくる場合もあるが、時間の無駄に気づいた人から職務に戻っていき最初のやつらのみ残されていく。
やつらは市民の協力で成り立つものを、さも当然の権利のように行使するのがおかしいので受けない事にしている。
時間の無駄ですのでさっさと答えた方が得ですと と上から言ってきたやつらに言い返したが
行政期間の末端が法律を貶める行為をするなら、善良な市民としては抵抗して是正させるよう努力するのは義務なので時間の無駄ではないと思っている。
各章が独立していた内容なので、どこから読んでくれてもかまいません。
要するに、今回の件の批判者の主張は「少年誌にふさわしくない」と「このような構造の表現は好ましくない」の2点に大別できます。そしてこれへの真っ当な反応としては表現媒体や販売場所の適不適に関する議論か、どこまでの表現なら現状の媒体で可能かといった議論しかありえません。
性被害を肯定的に描いているのは、たしかに問題表現です。しかし、それを少年漫画に載せるのが不適格なのかと言うと、簡単な話ではありません。
例えば正義のために暴力をふるうアンパンマンも、私刑を肯定的に描いたという意味では問題表現だと言えます。また、サザエさんでは家事育児が女性の仕事とされていますから、これも女性差別を肯定していると解釈することができます。こうなると、あらゆる漫画に問題表現を見出すことが可能であって、どこで線引きをすればいいかは難しいです。
そもそも少年ジャンプに載せたらダメなのか、巻頭カラーで載せたからダメなのか、それとももっと読者層の年齢が高めの漫画雑誌に載せることもダメなのか。ジャンプ編集部に判断を迫るのではなく、批判者たちも責任を持ってその提案をすることが望ましいです。
それに、出版社に対して自主規制を求める活動というのは、仮に権力者ではなく私人がやっていることだとしても、一歩まちがえると危険を伴います。
例えば「LGBTは不快だから表に出てくるな」「反戦漫画を子供に読ませるな」という"批判"をしている人たちだっているでしょう。かつて性描写や暴力表現を潰そうとしていたPTAも今回の騒動とおなじ手法で、やたら大声で騒ぎ立てて世論をかきたてたり、出版社に要望を出してその世論を忖度させるという手口だったんじゃないですか。昔のことはよく知りませんけどね。そして、これが公権力と結託すると恐ろしいことになります。
自主規制の是非については、あくまでもケース・バイ・ケースですが、「世論に押されて自主規制に追いこまれるのも表現規制の一形態だ」という理解は持っておくべきだと思います。
つぎに二点目の「このような構造の表現は好ましくない」という批判ですが、これは非常に厄介です。かりに『ゆらぎ荘の幽奈さん』を年齢層が高めの雑誌に移籍させたとしても、この批判を免れることはできません。
このブログ主さんは触れていませんが、「このような構造の表現は好ましくない」というのは単に論評をしただけではなく、「好ましくないからゾーニングしろ」「好ましくないから内容を変えろ」という含意があることも多いです。
オタクは規制されそうになったり、ゾーニングを求められたりして、いつもピリピリしているんです。だから、作品名を名指しされてそんな批判を浴びせられると、オタク側が過敏に反応してしまうのは仕方ない気がします。
また、批判者は作品内容を論評するにとどまりません。「こんな好ましくない表現のある漫画を作ったり消費している奴らはクズだ」という侮辱をされることもあります。
オタクはこの侮辱に対して、どのように応答すればいいのでしょうか? 頭を下げて、「この漫画は性被害を肯定的に描いた作品です。こんなものを楽しんでいる私たちは罪悪な人間です」という懺悔をおこなえばよいのでしょうか? さすがにこの対応を求められるのは屈辱的だし、ハラスメントではないかと言いたくなります。
もちろん批判に応答する義務はないですから、黙殺しておくのが一番だと思いますけど、それはそれで「オタクは社会的責任を果たしていない」という攻撃材料を作ってしまいそうです。
(ところで、『ゆらぎ荘の幽奈さん』の件とは異なりますが、成人指定がかかっているエロマンガに対しても、「このような構造の表現は好ましくない」という批判をすることが可能です。しかし、その批判を名指しでやることは、嫌がらせ以上の意味があるのでしょうか。製作者側も好ましくないと思ったから成人指定にしているわけですし、仮にその批判を向けられたせいで炎上案件になってしまったら困ります。)
また規制を進めようとしているのはフェミニストではありません。第一日本国内のフェミニストはそこまでの政治権力を持ち得ていません。日本において議会の多数派はほとんどの場合右派(というか極右)が占めており、規制も彼らの手によるものです。
もしフェミニストが規制を進める権力がないのだとすれば、オタク側はフェミニストからの批判に耳を傾ける必要がなくなります。権力のない者からいくら批判を受けたとしても、こちらは黙殺か冷笑をしておけばいいんです。
ただし実際には、自民党が表現規制をおこなおうとするとき、リベラルやフェミニスト等の左派勢力がそれに加担・黙認する恐れがあります。こうなってしまうと、民進党、社民党、共産党がいくら反対をしたくとも、その足場が揺らいでしまいます。
オタクは普段、左派勢力からの批判をちょっとはまじめに聞き入れておかないと、いざというとき彼らに助けてもらえなくなるのです。
リベラルやフェミニストは、オタクが自分たちの批判を聞き入れようとしなかったり、自民党や山田太郎を支持している姿を見ると、激怒するでしょう。そうなると次は報復感情が芽生え、批判を押し通すために権力を頼ろうとするのが当然のなりゆきです。
その意味でリベラルやフェミニストは、自民党や右派勢力ほどではないですが、オタクにとって油断ならない存在です。
もっとも、オタクが彼らの批判を聞いたところで、批判は次から次へと出てくるし、あげくのはてに土壇場で裏切られる可能性があります。
自民党が表現規制をやるとすれば、その大義名分は、「性暴力を肯定している漫画はけしからん!」「こういう漫画が流通しているのは女性差別だ」というものになるでしょう。左派政党はともかくとして、その支持者たちがこの問題で自民党に加担するのは、けっこう容易に想定できる事態だと思います。
例えば自民党が、「少年誌から不健全な性表現(=女性蔑視を促すもの)を追放する」という法案を出したとすると、それは今回の騒動でジャンプ編集部に自主規制を求める人たちの目的と合致するものです。このとき、リベラルやフェミニストが「自主規制には賛成だが法規制には反対だ」という峻別をする人ばかりだとは限りません。
あーね、あとは、「リベラルがオタクの支持を集めそこねたのは、リベラルがクソすぎる責任もあるのに、その反省はないのか」とか、「"表現の自由戦士"みたいなオタク像ばかりを見ていて、このブログ主の現状認識もおかしいんじゃね?」とか、いろいろ言いたいことはあるけれど、そこは私もろくに把握できていないので語るのはやめておきます。
このブログ主は、『ゆらぎ荘の幽奈さん』が批判されているのはエロだからではないと言っていますが、それは違います。
絵としてエロいものだからこそ、我々の感情をゆさぶり、批判のやり玉に上がっているのです。その証拠に、私刑の暴力を肯定している『ジョジョの奇妙な冒険』等は、エロくないから批判のやり玉にあがりません。
今回のような批判が起こっているのは、この漫画の絵がエロく見えるからに他なりません。
もし視覚的には欲情を誘わない絵柄とか、エロくは見えない描写方法を採用していれば、女性蔑視・性被害うんぬんという指摘があったとしても、それが大勢の人たちを巻きこむ炎上案件にならなかった可能性が高いです。
今回の件で、はてなやTwitterのリベラルは「エロは問題ない」と繰り返していました。
しかし、私はそう思いません。
リベラルが褒め称えるような"エロ"ならば、それをどんどん子供に見せてよいですか? それを公衆に向けて掲示することは、ポリコレに沿っていると言えますか?
そんなはずがありません。どれだけ適切に描こうとも、やはりエロはゾーニングの対象にするべきです。
ところで、欧米の基準に従えば、二次元と三次元を区別せず、「児童の水着姿をエロティックに描くことは児童ポルノだ」という論を立てられると思います。
今日の日本のリベラルやフェミニストはまだこの基準を採用していないようですが、萌えキャラは童顔ばかりだし、それが水着姿になっている漫画はアウトだという意見が主流になる日が来るかもしれないですね。
女性が性被害を受けることをを肯定的にかいたというのは、じつは問題の本質ではありません。
例えば『ゆらぎ荘の幽奈さん』で、胸を強くさわられた女子が痛がっていたり、そのことで心が傷ついたシーンが描かれていれば、何も問題はなかったということでしょうか。
そういえば、この前に炎上していたクジラックスの漫画について、リベラルやフェミニストがどう思っているのかを知りたいです。
あの漫画はポルノとしては珍しく、レイプを正当化できない悪として描ききっていました。つまり、「レイプは被害者を傷つける暴力だ」「レイプをやる奴は卑劣な犯罪者だ」という認識を貫徹していたのです。
作中での性暴力の取り扱いが肯定的か否定的かということだけに注目していると、レイプ=悪という認識を徹底させたこの漫画が一周まわって健全だということになってしまいます。
これは私見になりますが、萌えという欲情を誘う絵柄で描いた漫画である以上、性被害は抜きどころです。
ストーリー上でいくら否定的なものとして描いていたとしても、それは性的消費の対象となります。
女キャラが性被害を受けているとき、その肉体が露出していると、男性読者はそれを見ながら欲情してオナニーするのです。
胸や性器の露出がなくても、その瞬間の女キャラの顔の表情を見るだけで、男性読者はきっとオナニーすることができるはずです。女キャラが恥じらいの表情ではなく、嫌がっている表情を浮かべているとしても、それはそれで抜けます。
これではどうやっても、「女キャラが性被害を受けている場面を男性読者が娯楽的に消費する」という構図を脱することができません。
この構図をなくしたい場合、萌え系の絵柄の漫画では、性暴力・性被害を作中で取り扱うことをやめるのが一番です。
また、該当箇所の絵を省略して、そういうことは文字で伝えるという方法もあるかもしれません。(しかし男性読者は、作中では省略された性被害の場面を勝手に妄想するし、あるいは性被害をうけた女性という属性に興奮し、それをオカズにしてオナニーすることができるでしょう。)
フェミニストが彼らの言うところのエロを批判するのは、主に女性の軽視、蔑視、搾取、モノ化といったことを肯定し助長すると認識しているからです。フェミニストがエロを憎んでいるように彼らに見えるのは、彼らの認識するエロが女性を独立した人物としてみなさないものであるからです。その前提をクリアするのであれば、むしろ女性の独立の証として肯定するフェミニストも大勢います。
この指摘は、いちいちもっともな話だと思うんですが、「そんな批判をされても知らんがな」という反発をしたくなります。
フェミニストが女性の独立の証として肯定するエロとは、どれだけ素晴らしいものでしょうか? "女性の軽視、蔑視、搾取、モノ化"を解消したとしても、今度は女性が男性に向かってそれをやり返すだけです。
例えば女性が自分の好みで男性を自由に選ぶということ、それは女性の権利です。しかし、その権利を行使するときの女性は、きわめて動物的な性欲を発揮しています。金、地位、容姿、安定感、人格、優しさ、そこには微塵もポリコレなどというものは存在しません。
パートナーに人格や優しさを求めるのは人間的な営みだと言われそうですが、じつは全然そうではありません。女性が恋愛において男性に求める人格や優しさとは、それはそれですごく動物的なものです。まるで獣のメスのようにオスを選別しているのです。女性が恋愛やセックスで感じる幸福も、すべてはこの獣性に支えられています。
いずれにせよ女の性欲も、男と変わらず獣のそれと同然なのであって、どこまでいっても身勝手で汚らわしいものなんです。性欲は、社会正義を求める意志とは根本的に矛盾しています。
こうなると結局、エロの正しいあり方というのは分からなくなります。表現物において女性キャラクターの主体性を重視すればポリコレに適するかといえば、すでに述べたとおり、決してそうではありません。
一つ言えることは、お行儀のよいエロ表現なんか絶対に楽しくないってことです。
人権や平等という正しい理念を詰めこんだエロ表現があるとすれば、おそらく私はそれを(ポルノ的な意味では)評価できないし、その偽善には吐き気を催すほどの不快感に見舞われるでしょう。私にとってのエロとは、どこまでいっても女性蔑視や暴力性と切り離せないものです。
お行儀のよいエロは、ジャンプを読んでいる子供にもウケが悪そうです。子供は不謹慎なもの、下劣なものが好きなのだし、性描写もそっちの方向でなければ楽しく受容されないでしょう。エロが野蛮さと結合してこそ楽しめるという子供の感性は、なまじそれを否認してみせる大人より正鵠を射ています。この感性のあり方は否認せず、内心の自由として尊重し、一方でこの野蛮さを制御する文明的な理念について子供に啓発することができるならば、多分それが最適解だと思います。
少年誌といえども、子供はその本を自発的に選んで買っているわけです。これを「少年誌にふさわしくない」と批判して自主規制に追いこむのは、子供の権利を奪っているのではないかという疑念があります。
これはゾーニングにおける根本的な問題ですが、「子供の目に入らないように大人が配慮する」と、「子供が自発的に見ようとしているものを大人が妨害する」を混同してはダメじゃないかと私は考えています。この配慮と妨害は重なる部分がありますが、前者が積極的におこなうべきものであるのに対して、後者は抑制的におこなうべきものでしょう。
今回は巻頭カラーだから目立っていて、その点は大人が配慮をせずに子供に見せつけたと言えるかもしれません。しかし、子供はこの雑誌が以前からこういう作風の漫画を連載したものだと知ったうえで購入しているのですよね? それがあくまでも子供の主体性の発揮だということは、議論の際にもっと考慮に入れるべきだと思うのです。
(なお、確か少年ジャンプの読者層は高校生~成人が大半、残りは中学生だったりするので、小学生の10歳以下となると、ほとんど読んでいないはずです。それを一律に"子供"扱いすることには違和感があります。)
ネトウヨは愛国者を名乗るが、彼の行う行為は「国旗を振り回す」「国家の斉唱」などといった、日本人目線での価値観とはかけ離れた行動をとっていることが多い。
シールズも同じ。学生運動にしては実力行使のシーンが少ない。しかも、教育的な知識にもズレがある。学生運動には暴力がつき物なのだが、彼らが暴力を行使する場面など見たことがない。
鉄道おじさんはこれまで外国を引き合いに日本の公共交通を批判したり、車社会を非難しているが、彼自身が運転免許を取得している時点で車社会に取り込まれているという自覚がない。
緯度おじさんは神奈川県の茅ヶ崎市民目線で地方を叩いているが、冷静に考えれば神奈川県茅ヶ崎市も地方都市と同等であるという認識が欠如している。
ネトウヨやシールズは薬の効かない馬鹿なのでどうしようもないが、鉄道おじさんや緯度おじさんの軌道修正は可能ではないか。前者は運転免許証、ついでにユタカな個人資産(自称)を返上し、後者は地方叩きを謝罪・撤回するか、都市圏に引っ越すことを期待する。彼の行っていることは、富裕層が貧民の代表を名乗るようなおかしな話なのだ。
以前ブログにも書いたのですが、
人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い・・・
原発を肯定しているわけではなく、自然エネルギーに移行していくべきだという考えです。
悪いのは人間です。
意識の持ち方は大切です。
安倍昭恵の2012年のフェイスブックへの投稿が話題になっている。
スピリチュアリズムの悪いところが前面に出ている酷い文章だが、論理の飛躍が大きいせいか、誤解にもとづく非難や賛同も多いようだ。とりあえずスピリチュアリズムとしての解釈を示してみたい。
安倍昭恵の記事の最大の問題は、「人間」を一枚岩で捉えて「放射能(ここでは原発関連の放射性物質のこと、以下同じ)」に「一億総懺悔&総感謝」的に反省することで、現実社会の問題や被害と加害の関係を等閑視することにある。とはいえ、ここで書きたいのはまた別のことで、「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所についてだ。
この解釈として、安倍昭恵の弟の松崎勲はこの記事におそらくは賛同の意を込めて「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」とコメントしている。これは道徳的価値において人間と物質の関係を「非対称的」に捉える思考だ。善や悪という道徳的概念は人間の領域に限定されていて、「善悪無記」の物質(自然物)にそれを押し付けることはカテゴリー・ミステイクであるという発想だ。
松崎勲と類似のコメントは数多くある。しかし、これらは安倍昭恵の思想を根本的に誤解している。
そもそも記事の前半の「もしも私が放射能だったら・・・」という想定が「対称性」の思考そのものである。そしてスピリチュアリズムとは、人間とそれ以外(生物や自然)を霊の次元において連続的・「対称的」に捉え、それらの霊の交わりを説く思想である。百歩譲って放射能を人格化し、感情を想定するのは共感能力だけで可能だとしても、その感情にもとづいて現実になんらかの力が行使される(「嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・」)とまで想定するのは霊のはたらきを考慮に入れないと不可能だろう。
このような「対称性」のスピリチュアリズムが記事の後半にも貫徹されている。
「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所は、「人間が善悪無記の放射能を悪用した、すなわち人間社会にとって有害に用いた」という意味ですらない。安倍昭恵の関心は、人間社会そのものにはなく、あくまで「人間」が放射能にどのような心情・態度を示し、どのようにスピリチュアルな交わりを実現するか、にある。つまり、安倍昭恵が糾弾する悪とは、前半で想定されていた、人間が放射能を「人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い」することの悪に他ならない。
問題の箇所をわかりやすく言い換えると、「放射能といういじめられる方が悪いわけではない。悪いのはいじめる方の人間です」となる。これは紛れもなく「対称性」のスピリチュアリズムである。(いじめる方といじめられる方の関係は非対称的だ、と思われるかもしれないが、ここでいう「対称性」とは「入れ替え可能性」のこと。)
要するに安倍昭恵はこの記事で一貫して霊の次元における「人間」と放射能の「対称性」を主張しているのである。したがって、スピリチュアルな感度のない弟の松崎勲の「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」というコメントは安倍昭恵への賛同どころか、アイロニーとなってしまっているのである。
安倍昭恵の記事を読んで、槇原敬之が2011年に発表した曲「Appreciation」(http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html)を思い出した人は多いと思われる。この曲にあるのは「僕ら」の原発への態度の豹変を反省し、感謝の大切さを唱える内省の精神である。言うまでもなく、それは外部の現実から目を閉ざすことと表裏一体であり、発表当時に物議を醸したのも当然といえる。
一方、安倍昭恵の場合は、同じように「人間」の放射能への態度の豹変をなじり、放射能へ感謝を捧げるわけだが、槇原と違って単なる内省ではないところがポイントだ。安倍昭恵は「意識の持ち方は大切です」と文章を結んでいるが、ここにあるのは「(無意識を含む、思考や欲望などの)意識は(霊のはたらきによって)現実化する」、つまり「意識の持ち方こそすべて」という自己啓発と結びついた安直なスピリチュアリズムに他ならない。安倍昭恵は人間が放射能に感謝すると、それだけで放射能の霊が喜び、人間に良いはたらきをすると考えているのだ。
安倍昭恵にスピリチュアリズムというレッテルを貼って終わるといかにも安易でつまらないので、最後にスピリチュアリズムの内部から批判してみる。さしあたりスピリチュアル知識人として影響力のある中沢新一の議論を援用する。上で用いた「対称性」という言葉も中沢の大好きな概念であるが、中沢ならば安倍昭恵を批判するに違いないからである。『日本の大転換』の冒頭の内容を可能なかぎり簡略化して述べてみよう。
人間は地球の自然生態圏のうちに社会をつくりだし、生きてきた。地球の生態圏には、太陽圏からの(核融合の)エネルギーが植物の光合成によって媒介されて持ち込まれ、さらに動植物の死骸の分解という何重もの媒介メカニズムによって化石燃料はつくられてきた。しかし、原子力は生態圏に太陽圏の(核分裂の)エネルギーを無媒介にもたらすものであるため、生態圏そのものを壊す危険性をもっている。
中沢の議論にもさまざまなツッコミどころがあるだろうが、ここでは措く。たとえば中沢は原発を一神教の神に比してもいるが、要するに、「対称性」の思考は生態圏のうちでのみ働くものであって、その外部の無媒介な導入である一神教の神・原発・放射能には適用できないということである。
中沢の議論にどれほど説得力を感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも安倍昭恵のような「対称性」が大好きなスピリチュアリストならば、傾聴すべきではないだろうか。
「原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたかも自然の事物のように扱うことは許されない。……生態圏の自然と太陽圏の『自然』を混同することほど、危険なことはない」(『日本の大転換』39頁)。
この物語は伝承などに従ったフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
また、伝承は諸説有り、違った見解や物語を持っているものがありますが、これはそれらを否定するものではないことをあらかじめ申し上げておきます。
昔々ある所に、地域に貢献しながら元気に頑張っている2人家族がいました。一人は雅、もう一人は晴と言います。
体力に自信がある雅は、山(※この家族は入会地の権利を持っています。許可無く私有地・共有地に立ち入ることは法により罰せられる場合があります)に芝刈りに、晴は川へ洗濯へ(※この家族は水利権を持っています。安全上問題の無い処置の他、特別な訓練を受けています。もし真似をしたことによる損害が発生しても責任は追いません。また環境に配慮した石けんを使用しており、環境に影響を与えることはありません)出かけました。もちろん、二人の役割は固定されているわけではなく、ジェンダーに捕らわれない公正な考え方、ジェンダーではなく個々人に目を向けた正統な役割分担によって相談し当番制を敷いていて、今日はたまたまこの役割だった事は、言うまでもありません。
すると、川の上流から大きな桃ののようなものがどんぶらこどんぶらこと流れてきました。晴は桃を拾い上げると、警察に届けました。警察は、桃はそのままで保管する事は困難であると判断して、遺失物法に基づき手続きを実施、売却をしてその代金を保管することにしました。
雅と晴は二人で相談して、合議の上でお互いの財産から半分ずつお金を出し合い入札をして、桃を手に入れました。入札額は桃の価値に対して十分な金額でした。
持ち帰った桃をわってみると、なかから元気な子どもが! 二人は大変驚きましたが、子どもが生まれたことは事実であり、桃から生まれたと言う一点だけで差別したりはしません。二人は適切に子どもの世話をすると共に、役場の担当者に連絡、村長が棄児発見調書を作成して戸籍がつくられ、児童相談所に預けられました。この時、従来からの慣例に従い、子どもの命名は発見した保護者が行う事にもなっているため、二人は悩んだ末、ジェンダーニュートラルな名前「桃」と名付けました。(※なお、桃は二人でおいしくいただきました)
その後、これも何かの縁(※特定の宗教を意図したものではありません)と考えた二人は、正式な手続きを経て、桃を特別養子縁組の仕組みをつかって引き取るり、大事に育てました。もちろん、二人は養子として迎えられなかった子ども達が一律に不幸だと考えてこの行動をとったわけではないのは、言うまでも無いでしょう。
時は流れて、大きくなった桃(※事実を述べたに過ぎず、病気あるいは遺伝的特徴から大きくなれない事を揶揄する意図はありません)は、鬼ヶ島へ鬼退治(※法的処置に基づく、強制行動のことをさします)に行くことになりました。
もちろん、鬼たちは、鬼というだけで差別されているわけではなく、特定の島を不法占拠した上で、強盗・誘拐など、日本国法、並びに国際法、国際通念などと比較して、多くの人が反社会的行為だと言うような行為を集団的に実施している上に、暴力的な行為によって不当に取り締まりを逃れているため、対処の必要があると判断されているものです。
法的な召還にも応じず、命令にも従わないため、強制捜査や代執行などが決定されたものの、治安機関による取り締まりや、軍隊の出動などを実施した物のいずれも失敗したため、法的な手続きを踏んだ上で実施されています。一方的に鬼の人権を排除するような点については違憲の可能性も考えられるため、国会では議論に議論が重ねられ、特別立法によって、一連の鬼退治を桃に委託することに決定されました。報道各社の世論調査でも、読売新聞の調査で支持する、どちらかというと支持するを併せて8割以上が賛成、朝日新聞の調査でも7割以上が賛成するなど、世論の支持も得ています。
(なお、この文章は、現在国会で行われている、組織犯罪処罰法(通称、共謀罪)や、改憲論議に対して、何らかの意見、影響を与えることを意図した物ではありません。)
当日の料理当番だった雅が作った(※雅はジェンダー的役割の押しつけによって料理当番を実施しているわけではなく、個人に着目した能力に応じ、二人で決めたルールによって自発的に実施しているものです)きびだんごを腰にぶら下げて鬼ヶ島へと出発しましたが、道中、犬、猿、キジが現れました。桃は、彼らに、脱酸素剤などをつかい、添加物などを使わずに適切に保存したきびだんご(※動物に有害なものは入っていない特別な物です。一般的なきびだんごを動物に与えると動物の健康に悪影響を与える場合があります。また、野生動物に食べ物を与える事は、条例によって罰せられる場合があります)を、アレルギーなどがないかを確認した上であたえ、動物愛護法などに定められた、また、社会的にも正しい動物福祉の元で彼らの協力を得て、鬼ヶ島へと渡ります。
鬼ヶ島では、鬼たちが【青少年の健全育成に不適切な表現。ゾーニングされていないバージョンは正式な手続きにより読む事ができますので、検閲ではなく、これは自主規制です】の最中でしたが、人道的に問題があるとされる奇襲などは行わず、あらかじめ用意された裁判所からの令状を、十分に聞こえる様に読み上げ、鬼たちがそれに従わないことを確認すると、法令に則り代執行を宣言、【青少年の健全育成に不適切な表現。ゾーニングされていないバージョンは正式な手続きにより読む事ができますので、検閲ではなく、これは自主規制です】の末に、鬼らを後からやってきた治安機関の職員に次々と引き渡していきました。この時の罪状は公務執行妨害の現行犯逮捕です。鬼たちは今後、弁護士がついて公正な司法のもと、裁かれることになりますが、罪が確定して有罪になる迄は、あくまでも罪人ではない事に配慮し、実名は記しません。
また、この行為について、鬼側に死亡者が発生しているのではないかという指摘がありますが、事実無根であり、ここで行使された武力は正統かつ、やむを得ない範囲で十分に配慮されたものでした。
鬼たちが悪行で集めた金銀財宝などは、特別立法に基づき、国が指定した弁護士、管財人によって管理されます。有罪が確定したあと、確認が行われた後に被害者に分配されることがきまっています。故に、桃らが横領したという指摘にはあたりません。桃はここから報酬を受け取るのではなく、国から各種規定に基づきあらかじめ定められた報酬を受け取りました。これは桃が果たした社会的な役割を鑑みると正統な報酬であると考えられる範囲の金額であり、会計検査院の監査を受けた上で、妥当だと証明を受けているものです。
個人のプライバシーがあるため詳細は省きますが、報酬の用途は、実家のすぐ隣に新たな家を構え、その後は自立した大人として暮らすために使われ、桃はこれが国民の血税であることを十分に認識しながら、感謝の気持ちを忘れることなく、決して不当な事に当てられたことはなかったということだけは記載しておきます。
被害に遭われた方々の事を思うととてもめでたしめでたしなどと言うことはできない凄惨な出来事ですが、それでも、桃が自らの役割を果たしたことで、社会秩序・治安といったものが守られ、公共の福祉が成されました。今回は暴力という手段によってしか解決ができなかったことは大変に不幸であり、桃、または登場する人物もその点に遺憾を表明しており、やむをえずおこなったものです。
これは、桃は特別な訓練と、公正な立法措置によって行われた事であり、通常行うと重大な事故に繋がったり、罪に問われる場合がありますので、真似をしないでください。
https://www.ad-c.or.jp/campaign/self_all/self_all_01.html
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1707/04/news117.html
http://www.huffingtonpost.jp/2017/07/05/ac-japan-ad-campaign_n_17389562.html
https://srad.jp/story/17/07/06/047224/
あの企業の旧経営陣が強制起訴された件で、全員が「罪状認否」したそうですね。
あの方々は、「企業責任」を認めて言葉ではお詫びをしながらも、経営者であった個人としての「経営者責任」は
認めていないという事です。
認めない理由のひとつが「マンモス企業」であり、役割と責任は階層的であるとして、現場レベルの事は完全には
把握できる立場になかったという事を挙げているようですね。
現場レベルの事を把握していなかった事を公然と認めて、それを理由に自分には責任は無いと言っているようにも
聞こえます。
あの企業に限らず、日本の大企業は皆、同じような病巣を抱えているのかもしれませんが、あの企業の内情を、
……
1)兵卒~下士官 : 実際の現場において、その技術を行使したり、現場の監督を行う
2)下級士官 : 現場の監督者の更に上として、中央(本店)の指針に基づき具体的な方針を立て、
3)上級士官 : 本店(本社)において、全社的な指針を策定し、総括を行う。主として現場に対して
実働的な部分は委託する
→ 本店 or 本店直轄 (主任クラスが主、キャプテンは近年准管理職化された旧副長クラス)
4)将官 : 本店、または下部組織において、それぞれの実働や立案、意思決定に対して、決裁を
行う
→ 管理職(マネージャー、部長、所長など) ※近年は決裁権を持たない課長クラスも多いが
……
こうして挙げてみると、確かに、と思える部分も見えてきます。それは何か。
軍隊において、例え将軍と言えども、作戦の失敗に関して、「現場の事はわからない」とは言えないでしょう。
作戦の成否は、戦術レベルの理由よりも、戦略レベルで決する事が多いのですから。
あの重大事故に、あの企業の責任があるとすれば、それは戦略レベルか、もしくは更に上のレベルのミスがあった
ということになるでしょう。
……
上の構造が仮に正しいとした場合、戦略レベルのミスを犯したのは、管理職クラスの人々ということになります。
……
しかし、本当にそうなのでしょうか。
……
確かに、戦略レベルのミスも大きかったのでしょう。しかし、それよりも更に上の、政治的レベルでのミスも
大きかったのではないでしょうか。
……
役員クラス(つまり経営者)は、上の例で言うならば、「制服組ではない私服組」の半分政治家レベルの人達
なのです。それが良いかどうかはここでは問いませんが。
……
その彼らに、戦略レベル、政治レベルのミスの責任が無いとは、とても言い切れないのではないでしょうか。
……
事故当時、主として現場レベルで奮闘し、世間からの批判にさらされながらも、社会的責任を果たそうとしたのは
上記の例で言うと、1)兵卒~下士官、2)下級士官 のレベルの人々なのです。
……
当のマンモス企業の純粋な社員も、かつて40千人以上居たのが、32千人にまで減少しています。
……
中学生時代、実はその気があるのではないかと気がついてからはや数年がたった。幸いにも生来オツムの弱い俺は自身がマイノリティであることを深くは気にも留めず、それより目下のところの悩みは人間関係をうまく構築できないことにあった。
高校に上がるときに状況は変化した。うまく人間関係が行くよう、仮面をかぶることで自分自身を作ってしまえば良いと悟ったのである。高校生になるまでそんなことにも気がつかない程度には頭が悪かった。考えてみれば、あたりを見渡すと、みんな真っ白で、まるで自分には負い目がないかのように振る舞っていたのだった。美しい世界だった。互いが互いを牽制し合うことで、負の部分は徹底的に平らかにされ、狭い学園内に、その生態系特有の標準像が形作られていた。もちろん、個々に特徴はあった。しかしそれは決してマイノリティではなかった。それを知った途端、皆がよそよそしくなり、あるいは全力で忌避しだすような。
まんまと学園の標準像を手に入れ、学園内における人間関係に満足できるようになった俺は、初めてやっと自分がマイノリティであることそれ自体を直視し、その孤独に深く怯えた。暇ができれば「ゲイ 割合」でググった。ググったところで孤独がどう収まるわけでもないのにね。けれど、動揺は表に出さないようにして、ひたすらに勉学に打ち込み、孤独と不安がよぎりながらも結局はマイノリティであることを見ないようにする努力を重ねた。
大学に入った俺は、Twitterで界隈の情報を知るようになっていた。そもそも自分自身が性的志向を隠していたこともあり、いわゆる「お仲間」は一人も知らなかったから、出会う人達が本当にLGBTsであることが信じられなかった。
そこには様々な人が暮らしていたのであって、ウェイ系や趣味を謳歌する者、社会人や地味な者が渾然一体として存在していた。それはもう殆ど社会と変わらないのであって、一つ違うのは皆がマイノリティであることだった。彼らは一緒にコミュニティを形成し、つるむことで根底にある孤独を紛らわしているかのようだった。
そして同時に、ネット文化(淫夢など)やネットでの論調を目にするにつれて、俺にある疑問が浮かぶようになった。
「LGBTsであることはそんなにも悪なのか」
一部のLGBTsに対して進んだ国・都市ではPrideを大きなスローガンとして、市民権を得られるような活動が続けられてきた。日本にもPride文化は輸入されたのであって、実際にパレードも行われているし、わりと盛況しているようだ。だけど、違うんだ。そうじゃない。そもそもそれらの国・都市はアイデンティティや個性を重視する文化を長い間かけて育んできた。この文化が素地としてあってこそ、LGBTsにかぎらず、他の多くのマイノリティも声を上げることで市民権を得ようとしてきた歴史がある。だから、Prideなんて言葉を使うようになったのだろう。
でも日本はそうではない。少なくとも日本にはアイデンティティや個性を重視しようという文化はない。こんな文化は自然発生するものではないのであって、意図的に育んでいくものだ。日本は残念なことに育んでは来なかった。日本において個性を尊重しているようにみえるのは、実際には個性を見世物にして消費するか、あるいは黙認という形式を取り、なかったことにするかにすぎない。高校時代の美しい世界もまさにその通りで、別に性的マイノリティに限った話ではなく、ひたすら皆が標準像を追い求める一方、標準像として収束される先にも残り続ける、ただひとつの「日本人」という個性の姿や文化といった共有資産が賛美されることに満足を得る人間も出現し始めた。マイノリティに関して言えば、ゲイのアイコンとしての「オカマ」や「淫夢」は見世物として消費され、その他のゲイはなかったことにされている。そんな国でPrideなどと言ってみても滑稽なのだ。だからこそ輸入されたコンセプト・スローガンでは対処ができない。
ゲイが理解されないことの一つに、「自分にも危害が加わる可能性があるから」というのがある。でも、考えてほしい。人が自分に好意を持ってくれることは少しも危害ではないのではないのではないか。そもそも性的暴力で実力行使に出るような輩は、ゲイを理解云々の以前に一定確率で行使しようとする。でもそれは、ヘテロ男性の中に女性を強姦する人がいるのと変わらないので、ご指摘には当たらないような。
そして、ゲイのくせにヘテロ男性に告白してきたらキモいというのもよくわからない。そのような人たちの中で、告白相手の女性がレズビアンである可能性を少しでも考え、躊躇した人間がどれくらいいるのだろう。結局、物事はすべてマジョリティが当然のこととして行っていることは当然のことで、同様のことをマイノリティが行おうとして、マジョリティの行動との間に違いが生まれた途端声高に主張し始める。マジョリティは自らの行動を顧みず、棚に上げた上で我々の一挙動を観察する。人から愛を向けられることがそんなに嫌なのだろうか。俺だったら、自分に魅力があるのだと知れて誇らしいことだと思うのに。
どんな社会を望むのかといえば、答えは明白で、「LGBTsの存在が当然のこととされている」社会だが、まあ無理だろう。こんな世の中じゃ。何か新たなネタが見つかるたびに、徹底して皆が食いつき叩き上げ、消費し尽くす。そこには様々意見が入るものの、結局はネタを消費する手段にすぎないから、意見は平行線上をたどったまま、次のネタ、次のネタへと移っていく。誰もが同じ生け簀から出ようともせず、古い水を変えようともしない。食い散らかした餌の破片と糞尿で薄汚れた生け簀の中で、同じ境遇であることに何故か安心感を覚える。そして誰も自分の意見を変えようとしない。それぞれが意見を表明し、その意見はどこか遠くへ流されていくのみだ。寛容などとは程遠い。日本の体質自体が変わらないと始まらない。俺だってなにも好き好んでこう生まれてきたのではないのに。
それにしても、「生物学的におかしい」とか「自然の摂理に反する」とか、「異常」「変態」「公の場には出ないでほしい」みたいな言説は読み飽きてしまった。もう死んでしまいたい。
バニラエアの件で、ブコメでちょくちょく出てくる類似案件の判例について簡単にまとめてみた。
2003年の出来事であり、バリアフリー新法以前であることに注意。
障害者である原告が車いすでの搭乗を航空会社に拒否され、債務不履行及び公序良俗に反するという不法行為責任で訴えたが認められなかった。
航空会社は言語障害により意思の疎通がスムーズでなく且つ上肢及び下肢に障害があることから、介助者の同行がなければ搭乗できないとした。
原告には、身体を抱えて移動させるとともに、緊急脱出を円滑に行うという客室乗務員にとって対応困難な援助が必要であるから、原告の身体の状態は、本件規定の安全上の理由があることが認められ、被告が原告のこのような身体の状態を知ったのは、本件飛行便の出発約2時間前であるから、被告において、原告の身体の状態を考慮した人的、物的な対応を期待するのも無理な状況であったと認定し、被告従業員による留保解除権の行使によって原告の単独搭乗を拒否したことは、本件規定に基づく正当なものである
公共の交通機関を提供している航空会社であれば、身体に障害のある乗客に対し、身体の状況を事前に告知すべきことを要求することはできないところではあるけれども、前記認定の控訴人の身体の障害の状態、動作の実情、これまで航空機に搭乗した経験等の諸事実に照らすと、時間的余裕を持って上記の諸事実が被控訴人に知らされていれば、控訴人が単独搭乗することについて必要とされる介助や緊急時の援助態勢に関する検討をすることは十分可能であり、それによって、被控訴人が控訴人の安全確保に関する不安を払拭できたのではないかと推測することができる。
控訴人の前記身体の状況や外観によって控訴人を差別的に取扱い本件搭乗拒否に及んだものではなく、控訴人についての限られた情報と時間的余裕のない中で、控訴人には単独搭乗を拒否できる前記特別の援助が必要との判断に基づき本件搭乗拒否に及んだものであって、このことが公序良俗に反するとまでは言えず、本件搭乗拒否について、被控訴人に不法行為責任を問うことはできない。
とあるように、交通サービスに求められるものがどの程度であるかを示す事例といえるのではないか。
航空会社が「介助者の同行がなければ搭乗することができない」と断ってるように介助者が居れば事前連絡は必要なかったであろうこと、乗客側の登場経験なども判断の対象になりうることなどが分かる。
http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170629092629.pdf?id=ART0009677741
はてなブックマーク - バニラ・エアに声をあげた障害者に「クレーマー」、広がるバッシングに疑問の声
id:(略)←無知 「公共の交通機関を提供している航空会社であれば、身体に障がいのある乗客に対し、身体の状況を事前に告知すべきことを要求することはできない」https://twitter.com/ktgohan/status/880081514070892544
はてなブックマーク - 車いすで飛行機に乗る時は | いすみ鉄道 社長ブログ
貴方敗訴します「公共の交通機関を提供している航空会社であれば、身体に障がいのある乗客に対し、身体の状況を事前に告知すべきことを要求することはできないところではある」https://twitter.com/ktgohan/status/880081514070892544
https://twitter.com/ktgohan/status/880081514070892544
あとになって見つけましたが、「公共の交通機関を提供している航空会社であれば、身体に障がいのある乗客に対し、身体の状況を事前に告知すべきことを要求することはできないところではある」(大阪高裁平19(ネ)2425、判例時報2024p20)との判例があり、本来の原則はこちらです。
これなん?
http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170629092629.pdf?id=ART0009677741
判例の引き方を知らないから孫引きで長いから流し読みで略しまくりだけど。
(略) ⑵ 本件に至る経緯 ① 原告は、平成15年7月30日から同年8月 4日までの日程でタイ王国(バンコク)へ の旅行を計画した。 (略) ② 原告は、前記の予約に際して、両上肢及 び両下肢に障害があって車椅子を使用する こと、言語障害があること、同行者はなく 単独搭乗を予定していることを旅行会社に 伝えず、そのため、被告はこれらの情報を 当日まで知らなかった。 (略) ④ 同日午前8時50分ころ、被告の日本支社 関西国際空港支店空港カスタマーサービ ス部長である E は、原告及び B らに対し、 原告は介助者の同行がなければ搭乗するこ とができない旨告げるとともに、その理由 として、原告に言語障害があり、意思の疎 通がスムースにできないこと、上肢及び下 肢に障害があることを挙げた。 B らは E に対し、搭乗拒否の理由につ いて具体的な説明を求めるとともに、原告 の状態を説明するなどして単独搭乗を認め るよう要望したものの、E は原告の単独搭 乗を認めず、結局、原告はSQ973便に搭 乗することができなかった。 (略) 神戸地裁尼崎支部平成19年8月9日で は、航空会社である被告が原告の単独搭乗 を拒否したことについて、原告が、本件搭 乗拒否は旅客運送契約上の債務不履行であ り、かつ、公序良俗に反する不法行為であ るとして、被告に対して慰謝料等を請求し た事案において、原告には、身体を抱えて 移動させるとともに、緊急脱出を円滑に行 うという客室乗務員にとって対応困難な援 助が必要であるから、原告の身体の状態は、 本件規定の安全上の理由があることが認め られ、被告が原告のこのような身体の状態 を知ったのは、本件飛行便の出発約2時間 前であるから、被告において、原告の身体 の状態を考慮した人的、物的な対応を期待 するのも無理な状況であったと認定し、被 告従業員による留保解除権の行使によって 原告の単独搭乗を拒否したことは、本件規 定に基づく正当なものであるとして、原告 の請求を棄却した。そこで原告は、一審判 決を不服として控訴した。
2 大阪高裁平成20年5月29日(控訴棄 却・確定) (略) ⑴ 被控訴人の債務不履行の有無について 公共の交通機関を提供している航空会社 であれば、身体に障害のある乗客に対し、 身体の状況を事前に告知すべきことを要求 することはできないところではあるけれど も、前記認定の控訴人の身体の障害の状 態、動作の実情、これまで航空機に搭乗し た経験等の諸事実に照らすと、時間的余裕 を持って上記の諸事実が被控訴人に知らさ れていれば、控訴人が単独搭乗することに ついて必要とされる介助や緊急時の援助態 勢に関する検討をすることは十分可能であ り、それによって、被控訴人が控訴人の安 全確保に関する不安を払拭できたのではな いかと推測することができる。 しかし、E は、控訴人に対し、D からの 前記報告以外に、その情報を一切知らされ ていなかったために、SQ973便の搭乗手 続直前の段階における D からの情報に基 づいて、前記の検討をした結果、上記のと おり控訴人に対する介助や緊急時における 控訴人に対する援助態勢について不安を持 ち、介助者の同行を求めるという極めて慎 重な態度をとったものであるが、限られた 情報と時間的余裕のない中で、E の取った 対応が、航空会社として不合理に過ぎる判 断であったとまでは言い難いものである。 以上の点を考え合わせるならば、身体に 障害のある人の積極的な社会参加、そのた めの移動の自由の確保及び旅客航空機の社 会的役割に着目し、客室乗務員が乗客に対 し、これまでに述べた意味での適切な援助 を提供すべきであること等を考慮してもな お、E が留保解約権を行使して、控訴人に 対する本件搭乗拒否に及んだことが、当該 時点において E が認識していた事実関係 のもとでは、不合理であったとまではいう ことはできない。 したがって、本件搭乗拒否が E の故意・ 過失による違法な判断に基づくものとし て、被控訴人に対し、その債務不履行責任 を問うことまではできないと言わざるを得 ない。 ⑵ 本件搭乗拒否が公序良俗に反するとして 被控訴人に不法行為責任が生じるか否か) について 上記の事案の概要等で摘示した本件搭乗 拒否に至った事情及び判断に記載のとお り、E は、控訴人の前記身体の状況や外観 によって控訴人を差別的に取扱い本件搭乗 拒否に及んだものではなく、控訴人につい ての限られた情報と時間的余裕のない中 で、控訴人には単独搭乗を拒否できる前記 特別の援助が必要との判断に基づき本件搭 乗拒否に及んだものであって、このことが 公序良俗に反するとまでは言えず、本件搭 乗拒否について、被控訴人に不法行為責任 を問うことはできない。 ⑶ 以上のとおりであるから、原判決は結論 において相当であり、本件控訴は理由がな い。よって、主文のとおり判決する。
これ同じやつかな。
することはできないところではあるけれど
全確保に関する不安を払拭できたのではな
いかと推測することができる。
https://twitter.com/ktgohan/status/880081514070892544
で言われてる原則のあとに「けれども」つってなんか色々続いてるけど。