はてなキーワード: 松崎とは
windows 98/95時代のゲームである。
簡単に言うとTGL社のファーランドシリーズに似ていると聞く。私は比べたことはない。
このゲームの凄いところは、魔法に該当するアーツというもののグラフィックである。
当時のゲーム、それもシミュレーションRPGのグラフィックとしてはかなり凄いと思う。
有限会社バロックはマイナーな会社だがよくこれだけ作ったと思う。もしかして外注だろうか?それにしたってどこに外注したのかと思うし。
また音楽も凄い。
シミュレーションRPGだが編成というか戦闘に参加する人数の選択はなし。
編成する楽しみが無いと思うか、シンプルで良いと思うかは人それぞれだろう。
ゲームの終盤は全体攻撃アーツを連打するゲームになってしまうと聞いたことがあるが、
このエレメンタルアーツ、韓国ではファイナルタクティクスという題名で出ているそうだ。
このファイナルタクティクス2は日本でいうとエレメンタルアーツ2というべきだろうか、しかし日本でエレメンタルアーツ2は発売していない。
ファイナルタクティクス2は韓国で独自に発売した作品のようだ。
エレメンタルアーツは成人向けで出して欲しかったという意見も見かけたが私はそれには反対である。
一般レーティングで良かったと思うし、出来るならパソコンではなくてコンシューマで、例えばプレイステーションやセガサターンなどで発売して欲しかったと思う。
当時のプレイステーションなどではやはりこのグラフィックが出せないだろうか。
バロックはすでに法人が無くなっているようでPS5やNSへの移植も望めない。
残念な限りだがこのゲームを他の人にも知って欲しい。
Twitter広告で見かけた東方Projectのオペラ配信がとんでもなかった。
一流のオペラもしっている
それでもとんでもなかった。
このメンバーでゲームの演奏(しかも<オペラ>)をやる意味がわからない。
しかし、これは違う。とんでもない。驚いた!
チェロ荒井結さん、オーボエ浅原由香さん、ホルン濱地宗さん、ギガスラッシュ
初めて知るメゾソプラノ山下裕賀さんやばいっ、ファンですっっっ
語彙力を失うとんでもなさ。とにかく聞け!
それしか言えない……………
第二に映像もとんでもない。
調べてみると
父上が
第三に編曲もとんでもない。
間違いないじゃないですか!!
ねえ!
ねえ!!!
頭飛び抜けたお方なのです!
文章もかける人……………天は二物を与える…る…
おかわりオーエン
ありがとうオーエンでした…………
第四に運営もとんでもない。
なんと
なんと…………
JAGMOをつくった人なのです!!!
小生は泉志谷さんファンでパトロネージュ会員になったのです!!
おはなしもしたことがあるのです!!
王子のような人です……
運営も落ち………………
BM(Before Mishiya)
ばかなことをいいますがそのくらいちがうのです
ひとつききたいこと。
残念ながら配信は昨日でおわりました。
おわってしまったので書きなぐりました。
心強いと思う
優秀な人ほど未来をみているなあ
1950年代に描かれた手塚治虫の漫画「ジャングル大帝」の中で、動物たちの共食いをやめさせるために人工の肉である「人造肉」を作る場面がある。
そこからおよそ70年。
“培養肉”のいま
筋肉の細胞を培養して増やし、固めることで肉にする“培養肉”の技術。
きっかけは、2013年にオランダの研究チームが発表したハンバーガーだった。
ただし、作るのにかかった値段は総額3000万円以上。
大量生産は難しいものの、培養肉が料理として使えることを示し、世界を驚かせた。
ことし6月、鶏肉の培養肉を大量に作ることができる工場が誕生した。
細胞を培養するためのタンクを7基備え、1日に最大で500キログラムの培養肉の製造が可能になった。
こうした技術によって、ハンバーガーのパテ1枚にあたる100グラムの原価が3.9ドル、日本円にして450円ほどにまで下げることができたという。
国内で販売の許可がおりていないため、食べられるのは従業員だけ。
アメリカの食品企業がホテルのレストランで、培養肉をつかった料理を提供している。
価格は一皿およそ2000円。
(GOOD Meatの担当者)
「今、培養肉を扱う企業は爆発的に増えています。世界の食肉市場は巨大で、私たちの力だけでは足りないので、今、多くの企業が参入して来ていることをとても心強く感じています」
食糧危機に
世界中で培養肉の研究が進んでいるのはなぜか?背景には、世界規模の人口増加がある。
お祝いの日に「焼き肉」を食べにいく家庭もあるかもしれないが、経済的に豊かになると肉の消費量が増加するとも言われている。
人類が食べる肉の量は、2050年には2010年と比べて1.8倍に増えるという予想もある。
これに対して、既存の畜産では飼料となる大量の穀物や水が必要になるため、拡大が難しい。
食肉からタンパク質の摂取が難しくなる「タンパク質クライシス」が近い将来訪れるという懸念もある。
こうした畜産業では足りない部分を賄うために「昆虫食」や「植物性の代替肉」、それに「培養肉」などの新しい技術が注目を集めている。
アメリカのコンサルティング会社は、2040年には、世界の食肉市場の6割が「培養肉」と「代替肉」になり、培養肉の市場規模は69兆円になると試算している。
培養肉は、牛や鶏などの動物から少量の細胞を取り出して、動物の体の外で増やして作る。
広大な土地も必要ないため、将来、安く大量に肉が作れる可能性があると期待されている。
日本では、大型研究プロジェクト「ムーンショット型研究開発制度」などで培養肉の研究を国が後押ししている。
(太陽エネルギーを駆動源、藻類を栄養源とした培養肉工場のイメージ 画像提供:インテグリカルチャー)
現在大量生産が可能なのはハンバーグなどに使われる「ミンチ肉」にとどまっている。
そこで日本の研究者が目指しているのが、サシの入った和牛のような培養肉。
大阪大学の松崎典弥教授は、ことし8月、和牛と同じ構造をもつ培養肉を作ることに成功したと発表。
「細胞の繊維だけかき集めてハンバーグ状にしているが今の培養肉の主流です。でもそれではステーキにはならないんです」
肉は、繊維状の赤身と脂肪、それに血管などが複雑に絡まっている。
そこで目をつけたのが3Dプリンターだ。
(3Dプリンター)
特殊な容器の中に細胞を入れ込み形状を保ったまま細胞どうしを融合させる手法を開発。
筋肉、脂肪、血管、それぞれの繊維を作ることに成功し、これらをくみ上げることで、和牛と同じ構造をもつ1.5センチほどの大きさの培養肉を作ることに成功した。
(できあがった培養肉)
この方法の画期的なところは、赤身と脂肪の割合を自由に変えることができるところにある。
将来的に家庭にある3Dフードプリンターで肉が作れるようになれば「お母さんは胃がもたれているからきょうは脂肪を少なくしよう」とか「高校生の長男はサーロインで」などと、気分によって作る肉を調節できると期待されている。
ただ現段階では繊維をくみ上げる作業は手作業で行っていて、松崎教授は、メーカーと協力しながら、自動でステーキ肉を作る装置の開発を目指している。
「いまは、すべての行程を食べられる成分で作っていないので、食べることができません。ただ和牛と同じような構造ができたので、食べたらおいしいと思います。これから先にいくためにはスケールアップをしないといけませんし、自動化の装置開発もしなきゃいけません。細胞を大量に培養する技術も必要になります。まだまだ新しい技術開発が必要です」
大阪にあるダイバースファームは、肉を寄せ集めたチキンナゲットではなく、焼き鳥で使うようなかたまりの鶏肉の培養肉を作る研究を進めている。
副社長の島村雅晴さんは、独自の技術で鶏肉を培養する方法を確立。
できるのは薄いシート状の鶏肉だが、それを重ね合わせることで、4センチ四方で5グラムほどの大きさの培養肉を作ることに成功した。
実は、島村さんは星の数で店を評価する世界的なガイドブックに選ばれるほどの腕をもつ料理人だ。
いま、特定の種類の魚が手に入らなくなっているのだ。
また漁獲高が減っているというニュースも聞いたり、仕入れ先の養鶏業者から「飼料の値段があがり、経営が厳しい」といった話も聞いたりしてきた。
(ちゅう房に立つ島村さん)
そうした中で、細胞から培養することで肉を作る培養肉であれば、今の環境を守りながら、新しい食の選択肢も増えると感じ、取り組みを始めたのだ。
国のプロジェクトの代表を務める東京女子医科大学の清水達也教授の研究室にも出向き、勉強した。
その中で、研究がメインの大学ではなかなか“食べる”ところまでたどり着けないことを感じ、清水教授を通じて再生医療の研究者を紹介してもらい、ベンチャー企業を立ち上げた。
島村さんは、みずから作った培養肉をコース料理の中の一品に加えようと試作を続けている。
培養肉は血が通っていないため、コクを出すためにみそを加えてつくねを制作。
こかぶらとシメジ、まごいも、金時にんじんとゆずを加え、あんかけをかけた料理などを作っている。
島村さんによると、培養肉はこれまでになかった薄さの鶏肉を作れるほか、骨が多くて食べることに適さなかった魚や、絶滅が危惧される種類の魚の肉を増やすこともできるという。
さらに、無菌状態でつくれることから、生の鶏肉やレバーなども気軽に食べられるようになるのではないかと期待している。
常連客の中には、培養肉の料理が食べられることを楽しみにしている人もいるらしい。
(島村さん)
「お客様に提供する食品なので、すべてを分かっておきたいので自分で研究も行っています。まだちょっと食べることができないですが、少し培養肉にも興味を持っていただけるような機会ができればなと思って、議論が始まっていくきっかけを提供したいと思っています」
安全性は?
これまで大阪大学とベンチャー企業の例を紹介したが、食べられないの?と疑問に思った方もいるかもしれない。
察しのとおり、日本では販売のためのルールが十分に整備されていない。
日本では去年10月、農林水産省のフードテック官民協議会の中に、培養肉のルールについて検討する細胞農業のワーキンググループが立ち上がった。
また、実用化に向け法整備や安全基準の策定を進める議員連盟の設立に向けた動きもある。
細胞農業研究会事務局の吉富愛望アビガイル広報委員長によると、主な論点は5つだ。
4. 名称
最終的な商品には、既存の食品や食品添加物として認められていないものが入っていなければいいのか。
日本は品質の高いブランド牛があり、畜産農家の細胞の知財をどう守るのか。
論点はたくさんある。
(多摩大学 ルール形成戦略研究所 細胞農業研究会事務局の吉富愛望アビガイル広報委員長)
「超高齢化社会が訪れる日本では、健康を意識して食生活送らないといけない人がいる。また、これまで動物愛護の観点でお肉を食べなかった人に対しても培養肉は需要があるかもしれない。日本にはいい食材がたくさんあるので、培養肉のもとになる質の高い細胞が手に入り、ブランド化ができるかもしれない。日本がいないところで新しい肉の世界基準が決められてしまわないように、ルール作りを進めたい」
科学技術振興機構の湯口玲子副調査役は、培養肉が普及するためには、情報の透明性が重要だと指摘する。
「培養肉が社会に受け入れられるために必要なこととして、2つポイントがあります。まず製造過程自体が安全なものであるかどうかということを、きちんと消費者の皆さんに伝えて理解いただけるかという点です。それからもう1点が、培養肉の原材料が体に取り入れて大丈夫なものであるということを、きちんと証明できるかどうかというところです。いずれにしろ、消費者と作る人とのコミュニケーションが重要な点だと考えます」
綿密なコミュニケーションを
迫るタンパク質危機に対しての選択肢の一つとして、大きな可能性を感じた。
一方、専門家が指摘しているように、消費者がどのように培養肉を受け入れるのか、また、畜産業との関係がどうなるのか、しっかりと議論することが重要だ。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211121/k10013354981000.html
以前ブログにも書いたのですが、
人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い・・・
原発を肯定しているわけではなく、自然エネルギーに移行していくべきだという考えです。
悪いのは人間です。
意識の持ち方は大切です。
安倍昭恵の2012年のフェイスブックへの投稿が話題になっている。
スピリチュアリズムの悪いところが前面に出ている酷い文章だが、論理の飛躍が大きいせいか、誤解にもとづく非難や賛同も多いようだ。とりあえずスピリチュアリズムとしての解釈を示してみたい。
安倍昭恵の記事の最大の問題は、「人間」を一枚岩で捉えて「放射能(ここでは原発関連の放射性物質のこと、以下同じ)」に「一億総懺悔&総感謝」的に反省することで、現実社会の問題や被害と加害の関係を等閑視することにある。とはいえ、ここで書きたいのはまた別のことで、「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所についてだ。
この解釈として、安倍昭恵の弟の松崎勲はこの記事におそらくは賛同の意を込めて「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」とコメントしている。これは道徳的価値において人間と物質の関係を「非対称的」に捉える思考だ。善や悪という道徳的概念は人間の領域に限定されていて、「善悪無記」の物質(自然物)にそれを押し付けることはカテゴリー・ミステイクであるという発想だ。
松崎勲と類似のコメントは数多くある。しかし、これらは安倍昭恵の思想を根本的に誤解している。
そもそも記事の前半の「もしも私が放射能だったら・・・」という想定が「対称性」の思考そのものである。そしてスピリチュアリズムとは、人間とそれ以外(生物や自然)を霊の次元において連続的・「対称的」に捉え、それらの霊の交わりを説く思想である。百歩譲って放射能を人格化し、感情を想定するのは共感能力だけで可能だとしても、その感情にもとづいて現実になんらかの力が行使される(「嫌われ者はいじけて大暴れするかも・・・」)とまで想定するのは霊のはたらきを考慮に入れないと不可能だろう。
このような「対称性」のスピリチュアリズムが記事の後半にも貫徹されている。
「放射能自体が悪いわけではない。悪いのは人間です」という箇所は、「人間が善悪無記の放射能を悪用した、すなわち人間社会にとって有害に用いた」という意味ですらない。安倍昭恵の関心は、人間社会そのものにはなく、あくまで「人間」が放射能にどのような心情・態度を示し、どのようにスピリチュアルな交わりを実現するか、にある。つまり、安倍昭恵が糾弾する悪とは、前半で想定されていた、人間が放射能を「人間のために一生懸命働いてきたのに、いきなり寄ってたかって悪者扱い」することの悪に他ならない。
問題の箇所をわかりやすく言い換えると、「放射能といういじめられる方が悪いわけではない。悪いのはいじめる方の人間です」となる。これは紛れもなく「対称性」のスピリチュアリズムである。(いじめる方といじめられる方の関係は非対称的だ、と思われるかもしれないが、ここでいう「対称性」とは「入れ替え可能性」のこと。)
要するに安倍昭恵はこの記事で一貫して霊の次元における「人間」と放射能の「対称性」を主張しているのである。したがって、スピリチュアルな感度のない弟の松崎勲の「全ての自然物(現象)に対し、人間の勝手な価値観を押し付けることは今すぐにやめるべき!!」というコメントは安倍昭恵への賛同どころか、アイロニーとなってしまっているのである。
安倍昭恵の記事を読んで、槇原敬之が2011年に発表した曲「Appreciation」(http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html)を思い出した人は多いと思われる。この曲にあるのは「僕ら」の原発への態度の豹変を反省し、感謝の大切さを唱える内省の精神である。言うまでもなく、それは外部の現実から目を閉ざすことと表裏一体であり、発表当時に物議を醸したのも当然といえる。
一方、安倍昭恵の場合は、同じように「人間」の放射能への態度の豹変をなじり、放射能へ感謝を捧げるわけだが、槇原と違って単なる内省ではないところがポイントだ。安倍昭恵は「意識の持ち方は大切です」と文章を結んでいるが、ここにあるのは「(無意識を含む、思考や欲望などの)意識は(霊のはたらきによって)現実化する」、つまり「意識の持ち方こそすべて」という自己啓発と結びついた安直なスピリチュアリズムに他ならない。安倍昭恵は人間が放射能に感謝すると、それだけで放射能の霊が喜び、人間に良いはたらきをすると考えているのだ。
安倍昭恵にスピリチュアリズムというレッテルを貼って終わるといかにも安易でつまらないので、最後にスピリチュアリズムの内部から批判してみる。さしあたりスピリチュアル知識人として影響力のある中沢新一の議論を援用する。上で用いた「対称性」という言葉も中沢の大好きな概念であるが、中沢ならば安倍昭恵を批判するに違いないからである。『日本の大転換』の冒頭の内容を可能なかぎり簡略化して述べてみよう。
人間は地球の自然生態圏のうちに社会をつくりだし、生きてきた。地球の生態圏には、太陽圏からの(核融合の)エネルギーが植物の光合成によって媒介されて持ち込まれ、さらに動植物の死骸の分解という何重もの媒介メカニズムによって化石燃料はつくられてきた。しかし、原子力は生態圏に太陽圏の(核分裂の)エネルギーを無媒介にもたらすものであるため、生態圏そのものを壊す危険性をもっている。
中沢の議論にもさまざまなツッコミどころがあるだろうが、ここでは措く。たとえば中沢は原発を一神教の神に比してもいるが、要するに、「対称性」の思考は生態圏のうちでのみ働くものであって、その外部の無媒介な導入である一神教の神・原発・放射能には適用できないということである。
中沢の議論にどれほど説得力を感じるかは人それぞれだろうが、少なくとも安倍昭恵のような「対称性」が大好きなスピリチュアリストならば、傾聴すべきではないだろうか。
「原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたかも自然の事物のように扱うことは許されない。……生態圏の自然と太陽圏の『自然』を混同することほど、危険なことはない」(『日本の大転換』39頁)。
行々林(おどろばやし)
飯山満(はさま)
幸田(こうで)
三ケ月(みこぜ)
三矢小台(みやこだい)
北方町(ぼっけまち)
松崎(まんざき)
安食(あじき)
都部(いちぶ)
中峠(なかびょう)
中尾余町(なかびょうまち)
日秀(ひびり)
高野山(こうのやま)
草深(そうふけ)
発作(ほっさく)
武西(むざい)
将監(しょうげん)
安食ト杭(あじきぼっくい)
酒直卜杭(さかなおぼっくい)
北風原(ならいはら)
猿楽場(さかくば)
香取(かんどり)
奉免町(ほうめまち)
国府台(こうのだい)
求名(ぐみょう)
砂(いさご)
砂古瀬(いさごぜ)
大豆谷(まめざく)
海士有木(あまありき)
飯給(いたぶ)
不入斗(いりやまず)
不入(ふにゅう)
廿五里(ついへいじ)
櫃狭(ひつば)
武士(たけし)
百目木(どうめき)
真砂(まさご)
小食土町(やさしどちょう)
生実町(おゆみちょう)
神門(ごうど)
臼作(うすくり)
馬乗里(まじょうり)
滑川(なめがわ)
墨名(とな)
欠真間(かけまま)
真間(まま)
神々廻(ししば)
狢野(むじなの)
登戸(のぶと)
園生町(そんのうちょう)
行川(なめがわ)
木内虫幡上小堀入会地大平(きのうちむしはたかみこぼりいりあいちおおだいら)
新(しむら)
城下(ねごや)
習志野(ならしの)
南波佐間(なばさま)
大谷流(おおやる)
小谷流(こやる)
勢田(せた)
実籾(みもみ)
生谷(おぶかい)
呼塚(よばつか)
篠籠田(しこだ)
船戸山高野(ふなとやまごうや)
平田(ひらった)
雪降里(ぶどうじ)
東芝町(ひがししばまち)
笠上町(かさがみちょう)
神余(かなまり)
部原(へばら)
丁子(ようろご)
新宿(にいじゅく)
羽計(はばかり)
滑谷(ぬかりや)
横渚(よこすか)
これ全部千葉県な。
【重要なお知らせ】
「JAPAN調査協会」様より、下記内容を特定記録メール便にて送信依頼がありましたのでご確認ください。
【送信内容】
弊社は調査業務、情報管理及び和解手続き代行等を主とした調査機関でございます。
本日ご連絡致しましたのは、現在貴方がご契約されている総合コンテンツ提供サービス会社からの再三の通告を放置し、利用料金を長期延滞している事に対して、同社が起訴準備期間に入った事を報告致します。
この通知を最終通告と致しますので、本日、当社営業時間までにご連絡が無い場合、管轄裁判所から裁判日程を決定する呼出状が発行され、記載期日に指定裁判所へ出廷となります。
尚、裁判を欠席されますと、相手方の言い分通りの判決が出され、執行官立ち会いのもと、給料、財産や不動産、有価証券等の差押えを含めた強制執行となりますので、ご注意下さい。
弊社は、今回運営会社様より和解等の最終判断を委託されましたので、双方にとってより良い解決に向かうためのご相談に乗らせて頂きます。本日弊社営業時間までに早急にお電話にてご相談ください。
早期解決を望まれるお客様から優先にて、弊社もご対応させて頂きます。
※時間帯によって繋がりにくい場合がございますので、その際は恐れ入りますが、再度お掛け直し頂きますようお願い致します。
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もはや部活動は児童虐待となっている。特に高等学校の部活動は、その傾向が著しく、実際のところ一時期よりはマシになっているのだが、現在も状況は続いている。
この児童虐待というのは体罰やいじめといった暴力事件の問題ではない。単純に現在の部活動は、その運用自体が虐待になっている。
一般の高校の場合、生徒は通常1日に6時間の授業を行うことになる。間に休憩時間を挟むがショートホームルームや掃除などを加えれば6時間程度になる。
そこに2時間も部活動をすれば8時間となり、これを5日間で労働者ならば法で定められる週40時間の労働に相当する。
大体朝の練習30分、放課後1時間30分も練習すれば丁度良い按配であり、その範囲内に留まる部活動も多い。
しかし大会で実績を残すような運動系の部活動では授業をあわせて8時間をゆうに超える活動が求められている。
相談に来る生徒の中には朝1時間半、放課に4時間、通学は自転車通学を部内規則とするため、学校から遠い家に帰るのは11時ごろという者もいた。
土日も午前午後の練習か公式or練習試合があり、1日の休暇もない部活動の相談もある。
企業ならば松崎茂と並べても完全にブラックといわれるような状況だ。だからこそ、運動部の経験がある人間はブラック企業に重宝される。
このような部活動の異常な活動時間が許されているのには一つの理由がある。
教育基本法など各種教育の法律には部活動を規定する法律の条文がほぼ存在しておらず、部活動は要約すれば『生徒が自主的な活動として課外活動をすることを援助し、教員が行動を監督しなくてはならない』といった趣旨のことが書いてあるだけだ。
つまり、部活動は本来「生徒の趣味」として行われているだけで、その援助をするため学校は場所を与え教員は事故や犯罪などのないように監督(指導ではない)するようにされている、ということである。
これは野球の甲子園などで確認できる。監督は審判に抗議してはならず生徒が行わなくてはならない、なぜなら生徒の自主的な活動だから。(どれだけ事実と馬鹿馬鹿しくかけ離れていてもだ。)
生徒の趣味であるのだから、どれだけ活動しようが学校による虐待に当たるはずもなく、教員も指導ではないのだから、そこに仕事としての給与や指導における特別手当が発生することは殆どない。(土日などの手当てはスズメが悔し泣きする位には出る。)
確かに部活動は完全に自由に選択でき所属非所属を選べる学校もある。だが当たり前のように部活動への所属が強制される学校も少なくはない。
部活動は指導の場ではないはずだが、部活動(特に運動部)を通して指導を行うことが期待されている現状は揺るがしがたく存在している。
部活動は教師の完全な指導と強制の下に行われ、自主的な活動が認められていない部も多くあり、退部すら許されず不登校になる生徒もいる。
部活動が生徒の趣味であり、教員は指導をするわけではないという建前があるからこそ、部活動は学校ごとに大きな不均衡をもたらす。(それが学校に利益をもたらすことにもなるが。)
まずもって問題なのは、教員には部活動を経営する教育は一切与えられていないということだ。
教員免許に部活動に関する必修講義は存在していないし、教員採用試験にも存在はしない。
現実の部活動においては教員が生徒を技術指導することが求められているが、その技術指導する教員が適切なスポーツ知識を持っているという前提はない。
そのため、公立高校ですらも部活動においては顧問となった教員によって生徒への教育成果に大きな差が現れる。
部活動は現実として、生徒への教育や指導となっており、その成果は後述するが生徒の進路にも大きくかかわってきている。
しかしながら、それは義務教育段階ですら機会も完全に不平等であり成果も完全に不平等である。
入試段階で学力偏重が問題であるならば、部活動の成果もまた評価の基準に含まれてよく、そしてその結果は生徒や学校によって偏りがあることは望ましくはない。
部活動が異常な拘束時間をほこっても行われるのには、これは誰でもわかることだが、そこに大きな利権が存在しているからだ。
学校の入学希望者は、その学校にどんな部活動があるかを明確に意識して選んでいく。ある部活動が全国的、県内でも有力であるかどうかは入学の大きな動機になっている。
部活動で大きな成果を出せば、(建前では成果の主体者ではないはずの)学校に大きな利益をもたらす。
プロになれば知名度は上がる。プロでなくとも実業団や有名大学に入れば、そこに企業や大学とのパイプができる。
大学は厳しくなってきたが、それでも推薦枠がある。それはともすれば進学率就職率に大きくメリットとなる。
指導する人間には、その働きに対して金を払う必要はない。存分に働かせれば良い。
資金が出せず設備を整えられないが成果は出してほしいため、労働者(生徒)には労働時間を増やして成果を出させようとする。
私立で学費免除などで多いが、公立高校でも独自入試、つまり一芸入試のようなものなど、いわゆる入試に下駄をはかせる行為も未だに行われている。
確かに学力だけで生徒の可能性を測るのは良くないかもしれない、高校に入れるのが学力によって選抜されることは不平等かもしれない。
しかし学校の成績は学力でつけなければならないものが他の活動で評価される部分よりも多くあるのだ。
定められた教育内容を覚えたといえない限り、それを卒業できる学力に達しましたと認めることは難しくなった。
下駄を履かした生徒の授業を担当することになった教員も悲惨である。下駄を履かせてどら猫を追っかけさせればそれで優に出来るなら良いが。
下駄を履いていない生徒に定めた最低基準と同じだけの成果を出さないことには、成績に可をつけられない。特に公立高校では、明確に許すことは建前上できない。
授業は、その特待生に足を引っ張られ、入試を越せない人間にすら理解できる内容まで落とさなくてはならない。
その上、多くの生徒には授業によって良い大学を目指せる成績まで上げることを求められる。
そして特待生を抱えるような部活動はやはり長時間の活動時間を生徒に課す。
前記したように、夜遅くまで活動する部活動も多く、それによって予復習をする時間も余力もない生徒が多く現れる。
(部活動は特待生のみでは行われず、多くの一般生徒までもが、それによって時間を取られることにもなる。)
疲労した生徒は、授業中に集中することが出来ない。研究結果では睡眠時間が6時間と8時間の生徒には明確な学力の差が現れている。
学力の落ちた生徒は、テストで赤点を取り補習や追試を受けることになる。そのために他の教科すら更に成績が落ちていく。
ここまで問題をあげつらってきたが、しかし、部活動が多くのメリットを生んでいることも事実である。
部活動は日本の高いスポーツレベルを支えている大きな要因である。
野球が世界トップレベルであるのは甲子園という高校野球の大きな競争があるからこそだといえる。
文化系においても書の甲子園やロボットコンテストなど、生徒の育成に大きな力となっている。
また文化への影響も大きい。
複数の生徒が同じ活動することは交友関係を広げ、違う学年との交流を生むことで認識に大きな幅をもたらす。
そして、多くの生徒が共有の「部活動」という体験をしていることは、創作などで「部活動もの」と呼ばれるジャンルを生み出す要因となっている。
多くの人に共有体験があれば、それは一般に受け入れられる創作物の幅広げることになる。
問題なのは、そんな成果や影響の大きい部活動を何一つ政治的な援助も規制もせずに野放図となっていることだ。
一部の教員によって支配されている部活動が体罰などの問題を引き起こす。
それは教員が全て強制の無償活動で行っているからであり、そこに「俺がやってやっているのに」という感情がなきにしもあらずといえる。(実際にそういう声も相談に上ってくる)
育ち盛りで可能性のある若者が、知識のない指導者によって無理な運動を強いられ体を壊す事例もある。
特待生として入学した生徒が芽が出ずに、退学を強いられる問題も起きている。
野球でも度々問題となったが、人材を求める企業などとの癒着も未だに多く存在している。
部活動をなくすべきではない。しかし、現状の大人の建前と利益によって児童生徒が被害を受ける状態は改善されなければならない。
そして出来るならば部活動のメリットをより大きなものにするべきだろう。
部活動が生徒の教育に成果を生んでいるのならば、それを教育活動として認め労働としての対応をしていくべきなのだ。
運動部の指導を運動の素人である教員に任せず適切な指導者を雇い雇用を増やすべきであるし、
少なくとも自民党と日本ユニセフには、存在していない児童への性的被害を問題視するよりも、現実に存在している過酷な部活動を問題にしてほしいところだ。