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(センター試験で話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)
底本:原民喜戦後全小説 下(講談社文芸文庫)1995年8月10日第1刷発行
I
私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫の魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老いた母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。
その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかに、もっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初「孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。
彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身の青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予で最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。
岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものをノートし、まず文体の研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。
それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。
私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのものを顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部に入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人と同棲した暁には、染料の会社を設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである。
日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線へ派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞の第一面、つまり雑誌や新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見たものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院で殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。
岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。
たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌に掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初の召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京で文化方面の役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズは役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。
既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活に飛込んだのだった。ところが、その相手は資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである。
II
私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに、満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇のほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。
私は妻の遺骨を郷里の墓地に納めると、再び棲みなれた千葉の借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃である。サイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである。
私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉の借家へ移った時のことである。私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それからは殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。
私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラと千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴムの長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。
「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。
「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、
「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。
その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。
私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日、八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋の小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊の姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好がおかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋の小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから、豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。
目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたとそっくりの写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。
冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥は簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。
翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真が満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。
その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体で台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである。
そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服の青年が歯医者に挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年も助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。
それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲の吏員に就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後の消息であった。その後私の妻の病気は悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。
その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。
あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境や機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか。親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客の歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅の作品の暗い翳を思い浮べるのであった。
緑の月 15日
砦の救援は成功した。
だが砦の守備を任されていたオーガン殿は、すでに矢傷が元で亡くなってしまっていた。
我々が駆けつけるのが今少し早ければ治療が可能では無かったかと、悔やむ。
このままでは指揮官が居なくなる為、ひとまず我々が砦に駐留する事になった。
早急に食料を手配せねばならない。
緑の月 20日
近隣の村は既にゴブリン共に襲われていた。
生き残った村人達を救出し、物資と共に護衛の兵を付けて王都へ避難させる。
食料を得る当てが無くなってしまったばかりか、さらに減らす事になってしまったがやむを得まい。
村を襲ったゴブリンは先遣隊だ。
敵の軍勢は既に近くまで迫っていると見るべきだろう。
青の月 13日
もしや逃散してしまったのかもしれない。
だが仮にそうだとしても責める気にはなれない。
私達の様に義務を課せられた者ならばともかく、召集されただけの兵達にそこまで求めるのは酷だろう。
青の月 19日
敵の主力はまだゴブリンであり、難なく蹴散らす事ができた。
敵の戦力集結が完了し、オークやダークエルフが主体であれば厳しかったかもしれない。
幸運だった。
襲われていたのは王都より帰還する途中の兵達だった。
なぜ帰還が遅れたのか問うと、馬車の積荷がその理由だという。
荷台を覗いてみると食料が満載されていた。
我が友が、自ら市中を走り回ってかき集めた食料を兵達に持たせたのだという。
「必ず救援を送る。それまで持ちこたえて欲しい」との伝言もあった。
兵達が逃げたのではないかと疑った事を恥じる。
そして友に心よりの感謝を。
物見の報告では敵の軍勢はあと3日というところまで迫っている。
赤の月 23日
砦に籠もって既に一月が経過した。
兵達は皆、懸命に戦っている。
あれに毒でも投げ込まれれば我々は一網打尽となるが、今の所は渇きで死ぬ心配はせずに済んでいる
だが食料はすでに心許ない。
それまでに救援が間に合えばよいが、それは難しいだろう。
どこも兵力不足だ。空の壺をひっくり返しても何も出ない。
黒の月 10日
いよいよ食料が尽きた。
ほぼ水だけで飢えに耐えている。
それでも戦い続ける兵達の姿には感動すら覚える。
せめて彼らだけでも逃してやりたい。
いざとなれば我らが血路を開くしかあるまい。
飢えた体でどこまでやれるか、不安は尽きない。
黒の月 13日
奇妙な出来事に遭遇した。
敵の襲撃をなんとか凌いだ後、少し仮眠を取ろうとした矢先だった。
突然、何も無いはずの場所に扉が現れたのだ。
何事かと呆然としていると、扉が開き、中から見たことも無い様な服を着た一団が現れた。
頭目と見られる男がいきなり「オソクナーモウワケアッセーン」と大声で叫んできた。
共用語ともこの地域の言葉とも蛮族共のそれとも違う。聞いたことも無い言葉だった。
困惑する私に頭目の男はつかつかと歩いて近づくと、今度は流暢な共用語で自分の持つ書類に私の署名を求めてきた。
手早く署名を済ませると「アザース。これどこまで運べばいいッスか」と問うてきた。
流暢ではあるが独特の訛りがある共用語だ。やはり遠い異国の民なのだろう、と推測した。
男たちは荷運びを依頼されたらしい。荷の中身は分からなかったが、空になった食料庫に運び入れて貰う事にした。
駆けつけた部下達と共にその作業を見守っていると、男達の一人が咳き込み蹲った。
叱り飛ばす頭目を宥めつつ、蹲った男を観察する。どうも風邪を拗らせてしまった様だった。
この様な風邪の時は直接魔法による治療を行うよりも、水や酒などを用いた方が良いと師から学んでいた。
どうやらこの異国の一団はこの手の神聖魔法には馴染みが無いらしい。
急に体調が回復して戸惑う男に「薬の様なものだ」と説明すると納得した様だった
戦場での病は蔓延しやすく重症化しやすい。警戒して、し過ぎる事はない。
一団の面々は口々に「アザース」と言い頭を下げてきた。どうやら「アザース」というのは感謝の言葉らしい。
荷物を運び終えると一団は扉の中へ帰還していった。
最後に頭目が「シッツレーサース」と呪文を唱えて扉を閉じると、扉はスーッとかき消えていった。
異国には一子相伝の秘術を伝える一族が居ると言うが、彼らもそういった集団なのだろうか。
男達が運んできたのは奇妙な箱に包まれた食料だった。開けて見たところ日持ちのするものでは無さそうだった。
さっそく兵達に食べさせる。
異国の食べ物らしく、見たことも無い素材や料理が箱の中にぎっしり詰まっていた。
兵達も困惑していたが、空腹は最高の調味料ともいう。とりあえず腹に収まるならそれで良い。
私も部下や兵達も、しばし言葉を忘れて貪った。
小麦で作った皮で刻んだ肉などを包み、蒸したと思われる不思議な料理が印象的だった。
黒の月 19日
夜ごとに冷え込みが増している。
あの奇妙な一団によりもたらされた食料によって、我々は息を吹き替えしたが、戦況そのものに変化はない。
あの箱に入っていた食料のうち、なんらかの穀物を蒸すか茹でるかした物が重宝していた。
水で洗った後に火で温めた空気を風の魔法で吹き付けて乾燥させると、保存食にできることが分かったのだ。
これをお湯でふやかしてスープにしたもので、我々は命を繋いでいる。
私は本当に麾下の者達に恵まれている。なんとしても彼らを生かして故郷に帰してやりたい。
黒の月 25日
早くも雪がちらつき始めた。
軽症の段階で浄化の魔法を用いれば対処可能ではあるが、しかし敵の襲撃を受けながらではそれも難しくなる。
寒さの為か敵軍の動きが鈍いのが幸いした。
援軍はまだだろうか。果たして本当に来るのだろうか。
友は私達が持ちこたえると信じているはずだ。私も友を信じよう。
白の月 3日
ついに援軍が到着した。
まさか友が自ら率いて来るとは思わなかった。
「立場を考えて欲しい」とは言ったが、部下達がニヤついていた事を考えると私の表情はそれに伴っては居なかったようだ。
気になるのは敵が援軍をほとんど素通りさせたという事だ。
もしや全ては友を戦場におびき寄せる罠だったのかもしれない。
敵は邪悪であっても愚かではない。むしろ策謀については常に我々の上を行く。
ならばここにとどまるのは危険だ。
どの道、この人数では籠城も難しい。
友と轡を並べて戦うのであれば、多少の数の不利などどうとでもなる。
これが罠だというのなら、内側から食い破ってくれよう。
それから例の異国の一団だが、友には心当たりが無いとの事だった。
一体彼らは何者だったのだろうか。
あの時の風邪がしっかり治っていると良いのだが。
白の月 7日
地獄とはどういうものかと問われたら、今後私はこの日に目にした光景こそが地獄だと答えるだろう。
寒さの為に腐敗した死体は少なかったが、一部は既にアンデッドと化していた。
数少ない生者も一様に病によって衰弱しており、病で死ぬか、飢えて死ぬか、アンデッドと化した同僚に貪られるか、という有様だった。
私は死体の浄化と埋葬、そして生存者の救出を命じた。最早、敵も味方も無い。
それにこのまま放置すれば病魔が街や村々、ひいては遠く離れた王都にさえも及びかねない。
彼らは私達が、敵である自分達を助けようとしている事に酷く驚いた様だったが、しかし抵抗の意思を見せる事は無かった。
敵軍の指揮官と見られるダークエルフを保護する事ができたが、症状は重い。
助かるかは彼の体力と運次第だろう。
https://anond.hatelabo.jp/20191001025606
読ませてもらった。活発な、Ingressのいちばん濃い部分を味わい尽くしたエージェントが執筆したものと見受けた。位置情報ゲームを遊ぶ者は全員情報産業の奴隷だといわれればそれまでだが、奴隷の鎖をきらめかせてみせるそのスタンスには共感しなかった。
が、それは大したことではない。自分には共感できないスタンスや哲学を持っているエージェント(プレイヤー)がいるのがIngressというゲームだ。失礼、「Ingressはゲームではありません」のだったっけ。
ポータルを占拠し、ポータルとポータルの間にリンクを繋ぎ、リンクを三角形に結んでコントロールフィールドを青く染める。基本ルールはシンプルなのに、いや、シンプルだからこそプレイスタイルに幅があった。
いろいろなエージェントを私は見かけた。
エージェントAは海岸線と山岳地帯に出没しては大きなコントロールフィールドを作り、凄い勢いで人々を洗脳していた。このエージェントには「お得意の場所」が何か所かあるらしく、飽きずに何度もコントロールフィールドを作っていた。ガソリン代は無限の様子だった。
エージェントBは妨害者だった。いつもいつもエンライテンド(緑)陣営の補給エリアに現れては補給の妨害をしていた。街じゅうに無意味なリンクを貼り、とにかく、邪魔をするのが大好きのようだった。Ingressには邪魔なリンクを特別にありがたがる人々があると聞いたが、彼はその一派のようだった。
エージェントCは旅をするのが趣味らしく、国内外のさまざまな街からミッションメダルを集めていた。かと思えばエージェントDは自分の街から出たことがない様子で、半径3kmほどの小さな世界でIngressを遊んでいた。エージェントEはおそらく専業主婦で、子どもを連れて公園に来るたびポータルを占拠して小さなコントロールフィールドを作って帰っていくが、ときどき都内のミッションメダルを集めていた。
ハングアウトに参加しているエージェントもいれば参加していないエージェントもいた。さまざまな人々が参加している以上、そしてシンプルなルール以外に束縛するものの少ない位置情報ゲームである以上、ときにはトラブルもあり、心無い発言をするエージェントや不正行為を働いてアカウントをBANされるエージェントも見かけた。どんなプレイをするのかがエージェント個人個人に委ねられているから、それは仕方のないことだったのかもしれない。むしろIngressというゲームの人口規模の小ささと地味なインターフェースのおかげで、最小限のトラブルや諍いで済んでいたのだろうと思う。ポケモンGOの人口規模にIngressと同等の遊びの幅を提供していたら大変な騒動になっていたに違いない。道交法違反、公妨、放火、殺人、あらゆる犯罪が発生して位置情報ゲームの心の闇がまことしやかに語られたに違いない。
Ingressはプレイヤー総数では後発の位置情報ゲームにかなわないが、シンプルなルールのうえにエージェントがそれぞれのプレイスタイルを貫く自由度の高さでは負けてはいない。
「位置情報ゲームを遊ぶ時はね、誰にも邪魔されず 自由でなんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……。」
ハングアウトで繋がってもいいし繋がらなくてもいい、なんなら全国のポータルキー集めだけをしても構わないのだ、Ingressというゲームは。
増田はIngress-Prime以前のUIを「旧スキャナのUIはお世辞にも良いものではなかった」と述懐しているが私はそう思わない。IngressのUIは最高水準だったと思う。キーロッカーで指定したポータルキーが手持ちのポータルキーのソートに反映される仕様は、そこらのクソなゲームのUIに爪の垢を煎じて呑ませたくなる。エージェントがポータルに埋められる8つのレゾネータのレベルが8,7,6,6,5,5,4,4なのも素晴らしいアイデアだ。ゲームデザインの最も基礎的な次元で、エージェント同士が協力するコンセプトがはっきりと示されている。
バッテリーへの負担が少なく、目にもやさしく、必要時には片手でも操作できるUIは、過酷な天候や地形にも対応できるタフなアプリだった。それでいて青や緑に輝くコントロールフィールドやポータルは美しかった。個人的には、このUIのおかげでA16までIngressを遊びきれた。他の位置情報ゲームに比べて地味だが、目や手によく馴染むUIだった。
新しいUI「Ingress-Prime」が実装されたので一週間ほど触ってみたが、あのタフなUIにはまだ見劣りする。これからのアップデートをお祈り申し上げる。だが新しいUIになってもIngressの本質は失われていない。commやIngress-Intel越しにみえるエージェントの挙動は変わっていない。誰もが自由でそれぞれのIngress人生を遊んでいるということだ。私は位置情報ゲームには自由な遊びであって欲しいと願うから、これからのIngressも自由な遊びであって欲しい。
私はもう現役のエージェントとは言えないが装備一式は揃えてある。いつかシェイパーによる地球侵略が始まった時には、レジスタンスの仲間と、いやエンライテンドのエージェントとも轡を並べて戦うつもりだ。予備役召集の日がやってきたら、エージェントとしての責務をまっとうするよ。
暑気厳しき折柄、参議院選挙まことにお疲れさまでした。これで亥年選挙も、年末解散とかいう法螺が実現しなければ概ね終了、何人の同志が再び議席を得、何人の同志が涙を呑んだことでしょうか。一部には議席の食い合いに終わっただけという評もありますが、ともかくその努力には敬意を払いたいと思います。
戦勝気分に水を差すようですが、共同通信試算によれば、この参院選、同日選だったらもう一回2/3の議席を自公側に与えるような大敗北です。いえ、もちろん同日選だったらもうちょっとうまくやっていたでしょうが、それはいつもの死児の年を数える行為です、生産性がない。
独裁安倍政権が樹立されてから、彼らの主張するには国政選6連勝と驕っているそうです。とりもなおさずそれは野党系にとっては6連敗。いや敗北はないとおっしゃるかもしれませんが、打撃を与えるほどではありませんでした。思い出してください、あなた方は嘗て政権を取っていた。にもかかわらず、今や議会の1/3を抑えたことに狂喜乱舞して勝利と喧伝する、この精神的退廃は一体なんでありましょう。
加えてこの選挙で明らかになったのは、国民の政治不信が飽和点に達しつつある、という点です。左右のポピュリスト政党が急激に伸長したのはひとえに「もはや既存政党、就中旧民主党系が占める野党勢力は過去の経緯から全く信が置けない」という国民的な意志の発露です。これは少なくとも近代民主政治の信奉者としては看過できません。これが飽和点に達した時どうなるか、まさか過去に欧米に学べないとは言いますまい。
思えば、私たちはあなた方の政権に3年間耐えました。さらにあなた方が何も考えずにアベガーアベガーと玉砕選挙を繰り返し、空費したこの年月も耐えてきました。もう沢山です。
今度は私たちが要求する番です。せめて3年ぐらい「アベガー」を言わないで、粛々と政策論争をする、そのぐらいのことはしていただけないでしょうか。
無論悪の権化極右安倍政権からは今にもまして罵詈雑言が飛んできましょう。内調のハッカー部隊がネトウヨを煽って卑劣な攻撃を仕掛けてくることでしょう。それによって次なる選挙もまた劣勢に陥るかもしれません。しかしそれに対して歯を食いしばって只々無言の抵抗をする、憲法9条を正に生かすが如くの気高い精神性は必ずや国民に受け入れられましょう。同時にきちんとした政策を練り上げることで、次期政権の受け皿たる力があるということを示してください。
競うべきは政策であって、トップ屋が持ち込む怪しい不祥事のケツを嗅ぎ回ることではありません。そんなことは共産党にでもさせておけばいい。アベの首さえ取れればいいのですか?で、取った後どうするんですか?取った後考える? またこの前の3年を、劣化させて繰り返すんですか? 地に足の着いた議論はできないのですか?
次の参院選は3年後、総選挙は間に挟みますが、そこで勝っても参院の構成が変わらななければ何一つできません。ならば石の上にも三年、真っ当な言動というモノを見せてください。
繰り返しますが、もう沢山です。無論今までの運動律から逃れるのは困難でしょう。無責任な社会党の地位は確かに楽しいでしょう。分派行動をしたあいつらは憎いでしょう。結局は取れもしない一人区の擁立国盗り合戦は面白いでしょう。ぬるま湯に浸り続けるのは楽です。現に国民も今の体制というぬるま湯から暑いとも冷たいとも知れぬ次の湯に入ろうという気概は湧きません。ましてその湯の色すら、湯船が現にあるのかすら判然としないのです。そんな霧の中にそこに清水の舞台から飛んで入れ、とは誰にも命じられる謂れはありません。せめて湯がちゃんと入ってるのだ、ということは見せてください。そのために土台を作り、まきを割り、水をくむ、そういう作業をちゃんと見せることが必要です。
あなた方はこの間政権を嘘と妄想で簒奪した時言いました。「一回試させてください」と。我々は試し、そして失敗しました。
ならばこんどはこちらが言います。「一回、政策議論をちゃんとする道を試してください」と。あなた方はそれを容れる度量すらもう失いましたか?人に要求するだけですか?妄執の繰り言をいつまで続けるつもりですか?
今こそが、国政はちゃんと議論ができるのだということを示す最後のチャンスです。極右安倍政権は変わりません。ならば変わる一歩は社会の前衛である勢力こそが踏み出すべきです。
出来ないなら?ならば、滅びるだけです。しかし、それが単にあなた方だけの自死だけで済むでしょうか。あなた方が無残に死んだあと、その生態ニッチを埋める者が果たして何者か、良くお考えください。それが果たして我が国のためになるのでしょうか。
御英慮を期待しております。
アイカツは知らんけど、要はとっくに終わった過去のシリーズなんだろ?
そんなの出られるだけありがたいと思えよ。
初代ラブライブのμ'sを始め、同じ状況で出られなかったユニットなんていくらでもあるのに。
最近活動が復活してたから高まってた(そして暴動起こした)ってのも理解不能。
他のイベントで召集されてたなら、そっちである程度満足すべきじゃねーの?
とりあえず他のコンテンツでも暴動が起きて当然みたいに言うのやめてくれる?
μ'sが何かのフェスに出て一曲で引っ込んだとしても、残念には思ってもさすがに暴動は起こさねーよ。
ランティス祭り3日目におけるアイカツオタクの振る舞いが物議を醸した。
簡潔にいうとランティス祭り2019というランティス20周年を記念した3daysの大型アニソンフェスにおいて、多くの演者が持ち歌一曲と別枠コーナーのカバー曲一曲で出番終了。ラブライブ・アイマス等大型コンテンツや主要な出番を与えられた演者と、その他大勢の演者の扱いに明白な差があったこと…、というよりその他大勢の演者に対するあまりにもお粗末な扱いに、不遇勢でおそらく最大勢力だったアイカツオタクがアイカツの出番が一曲で終わった直後ブチギレたというのが概要。
一部のアイカツオタクがブチギレてUOを投げ捨てたとか他オタクやスタッフに向かって暴言を吐いたという事実は決して許されるものではないし一人のアイカツオタクとして申し訳なく思うが、アイカツオタクが置かれていた特殊な状況とランティス祭り2019というフェスの決定的な問題点について理解せずこの話題に触れる人がいるのが我慢ならないのでまとめていく。
現行シリーズのアイカツフレンズ!は多くのアイドルアニメ同様キャラクターの声優が歌唱を担当しているが、前シリーズのアイカツ!とアイカツスターズ!ではキャラクターの声優とは別に歌唱担当のアイドルグループSTAR☆ANISとAIKATSU☆STARS! が存在した。そしてその歌唱担当のグループは2018年2月の武道館ライブでシリーズから卒業した…、にも関わらず何故か卒業から半年後のアイカツシリーズ5thフェスにメンバーが召集されそれなりの曲数を歌ったり声優とコラボしたりした。そして今回のランティス祭り2019においてもメンバーが召集されるとのことで、アイカツオタクは神経を擦り減らしつつ今後もあるかわからない機会に高いモチベーションで臨んでいた。
5年前のランティス祭り2014は歌唱グループSTAR☆ANIS名義でアイカツ曲を披露したが今回それぞれアイカツ!とアイカツスターズ!名義での参加となったのは歌唱担当グループは既に解散しているから使用しないという、よくわからない忖度によるものだと思う。
ランティス祭り2019年で行われた内容について納得のいく表現をするならランティス20周年記念コンサートだと思う。あんなのアニソン好きのためのフェスではなくランティスのためのコンサートであり1dayのホールコンサートでしか納得出来ない内容。
フェスにおいてより集客力のある演者がトップバッターやヘッドライナー等主要な場面を抑え出番が厚くなるのは当たり前だし、フェスならではのサプライズやコラボなんかあれば当然嬉しい。
そういう視点で見るとランティス祭り2019の運営が主要な演者とみていた人たちの出番や2日目のおれパラ、3日目のSOS団サプライズは大成功だったといえる。それは誇るべきことだ。しかし同時にその他多勢が蔑ろにされてしまった。
来た人には分かるけど各ブロックのオープニングに演者をモニターでまとめて紹介したら十分だと思っているのか、実際の出番では自己紹介もしないまま一曲歌ってすぐに捌けていく演者が何人もいた。ありえない。他にも一曲歌った後もう一曲くらい歌えたんじゃないのと思うくらい、不自然に長いMCで場を繋がされる演者も大勢いた。喋ることがないのでランティスさん20周年おめでとうございますやランティ水の宣伝で繋ぎざるを得ない演者さん達を見るのは本当に辛かった。悪魔の所業だと思った。
そして不自然に長いブロックごとの休憩時間。フェスなんていくつかのステージ作って観客に自分でタイテ組ませて自己都合で休憩させればいいだけなのに、わざわざ全員を一つのステージに釘付けにするならせめてひっきりなしに楽しませるための工夫を施さなければならない。しかし実際は無駄に長いMCの所為でそんなに体力を消費する場面もなく、休憩を求めない中フードや出店ブースにお金を落として来いという意思しか感じないブロックごとの休憩時間の長さ。これもきっと悪魔の所業。
持ち曲を一曲しか歌えなかった演者にはスペシャルコーナーでランティス楽曲をカバーする機会が与えられたが、主要な演者と判断されていた人たちはカバーには参加せず持ち曲を複数歌うことを許された。これもありえない。
フェスのテーマに「A・R・I・G・A・T・O ANISONG」なんて題を掲げ、時代を彩った各年代のアニメソングへの感謝を捧げさせられたのは持ち曲を一曲しか与えられなかった演者達だけ。本来逆じゃないですか?
現在のランティスを代表する大人気アーティストがランティス20年周年の歴史における時代を彩るカバー曲を披露していたらとても意味のあるテーマになったと思うのですが、フェスという自分のファン以外にも多くの人の目に触れる大きなチャンスにおいて、碌なチャンスを与えられなかった方々がランティス20周年を祝うための供物に使われた。最悪の表現をするならそんな感じ。
フェスとして決定的に破綻している。音楽が、アニメソングが好きな人が作り上げるイベントでは決してなかった。フェスの出演者全員に敬意を払うという最低ラインを超えないままサプライズに走ったのは悪趣味すぎる。
過去のランティス祭りでは当たり前に出来ていたことが出来なくなった。ランティス祭り2019の運営に携わった主要スタッフがこの様なイベントにしようなどと考えるのは俄かには信じられないので多分スポンサーやランティス重役からの圧力や忖度があったとしか考えたくないが、それでもこのイベントに関わった人たちを許すつもりはない。
今回のアイカツオタクによる暴動は決して許されることではないと前置きした上で主張したいのは、直接的な被害を受けた人以外に誰がアイカツオタクを非難できるのかという点です。
今回アイカツオタクの暴動が表面化したのはイベントの割りを食った側の最大勢力だったのが大きいと考える。milktubさんが一曲で終わった後もアンコールが起こっていたし、このイベントに不満や疑心を抱いていた客は少なくなかった。milktubさんはブロックのトリだったので結果的に笑いで済んだが、3日目のアイカツの出番が終わった後のアンコールとアイカツコールが続いてしまったのは次の演者に迷惑がかかる最悪な行為で弁解の余地はない。最悪な空気の中アイカツ!で主役を務めた下地紫野さんが主演した「ハクメイとミコチ」のOP曲「urar」を歌われた Chimaさんには本当に申し訳なく思います。僕自身もこの時だけは周りでアイカツコールを続ける同士に対して正気を疑いました。
ただ本当に楽しみにしていた出演者の出番が一瞬で終わってしまった悲しさや虚しさを理解できないオタクはいないと思います。これは他コンテンツのオタクたちにとって対岸の火事なのでしょうか。
「Chimaさんの出番の時にゾロゾロと帰ったアイカツオタクはマナーが悪い」
フェスで自分が興味のない演者のタイミングで休憩に出るのは当たり前のことだし、それがこの時このイベントにおける最大数だったから表面化しただけ。その場に残ることが苦痛にしかならない場面で我慢しろといえる人間がどこにいる。
それは当然の感想だがどこのオタクの立場からそれを言っている。対岸の火事だと思っているからそう言えるのではないか?
一定数以上のファンを抱えるコンテンツのオタク達が今まで起こしてきた不祥事なんて数えたらきりがない。自分のコンテンツがこの様な扱いを受けた時暴動にならないと自信をもっていえる人がいますか。
正直今回の件は暴動とはいっても流血沙汰や物壊したりというのは知ってる範囲では聞いてないし、文句を言って退場してカラオケブースで厄介するくらいでよく収まったなとさえ思っている。一定数以上の人間の不満が集まった時暴動が起きるのは歴史が証明してきたって言ったら怒るか。でも本質的にはそういう話。
今回アイカツオタクがやったことはオタクとしてあるまじき行為だがそれを指摘するために"女児アニメ"だろみたいなそれっぽい単語で語調を強めようとする奴が一番嫌い。
あの場にいた人間は皆アニソンが好きなオタクたちだ。それぞれ好きなコンテンツは違えどそれは共通していたはずだ。それなのに急にお前らは女児アニメだから特にお行儀がどうとかコンテンツのカテゴリを意識しろみたいな論調なんなん?女児アニのイベントではなくアニソンフェスの話をしているんだぜ。自分達のコンテンツとはカテゴリの異なる対岸の火事だという無意識さが透けて見えて気分が悪くなる。
実際アイカツはメインターゲットである幼女先輩と共生しなければならないイベントもこれまで数多くあったけど問題を起こさず粛々とこなし、大人だけのイベントとはその振る舞いを分けてきたつもりだ。こちとら女児アニメのコンテンツであると同時に国内最大級のクラブ「ageHa」でのオールナイトDJイベントを成功させてきたコンテンツなんだ。
別にアイカツオタクを擁護するためにこんなクソ長文を書いてるわけではない。自分のコンテンツがクソに扱われた時どのコンテンツだってこういう暴動は起こり得るんだよ。
アイカツオタクがやったことを非難するのはされて当然だけど、ランティス祭り2019の根本的な問題に触れずアイカツオタクだけを槍玉にあげる人間がいるのだとしたらそれが一番許せない。
アニメソングが好きでフェスが好きでランティス祭り2019に参加した上で、あのイベントに違和感を覚えないオタクがいるんだとしたらそれこそ正気を疑う。
これは対岸の火事ではないよ。アイカツオタクを槍玉にあげるのだとしたらランティス祭り2019の根本的な問題にも触れないと意味がないし世の中何もよくならないと思う。
それと同時に今回の件に関してPやサンシャイナーに敵対意識を剥き出しにするアイカツオタクがいるんだとしたらそれも意味がないからやめろ。Aqoursの派生ユニットが2曲目を披露した時が最大のヒリつきポイントだったことは認めるが、それはランティスを嫌いになってもAqoursを嫌いになる理由には相応しくない。出番を与えられた演者はそれに全力で応えるしかないことは自分の推しを見てよく知っているはずだ。
最後にランティス祭り2019について僕は参加出来てよかったと思っている。
この曲を聴くためだけに3万円払うだけの価値があったと感じる瞬間があったし、SOS団のサプライズでボロボロに泣いた。
その上でサプライズや大人気コンテンツと大人気演者のことしか考えず、多くの演者に対して最低ライン以下の待遇を与えたランティス祭り2019を強く非難する。
※ただの愚痴です。気分を害する恐れしかないのでそういうのがダメな方はもっと楽しいブログを読んでくださると幸いです。前向きな言葉は何一つないです。
私は馬鹿で間抜けで可愛くなくてただ馬鹿みたいに作り笑顔しか浮かべられないクズで
優秀で美人で非の打ち所がない先輩とずっと比べられて惨めで
そんな先輩は産休に入るからもっともっと勉強しないとダメだってずっと不安なのに、
これから大変になるだろう人に、そんな劣等感丸出しの相談なんてできない
同期は任せられた仕事があって残ってるのに、私は空白の時間をしのぐ術を毎日探している
残業を愚痴る同期に、仕事がなくて辛いなんて、そんな贅沢は言えないし言わない
私が作った成果物なんて、目も通されずに「いいんじゃない」で終わってしまう
私の部署は自由にやらせてもらっていいよねって言われるけど、違うよ、私は空気だから
持て余しているんだろう、この部署には優秀な人しかいらないだろうから
会社に求められてない
嫌味だけは言われる
冗談を装った本気なんだろうなって思ったら、仕事中に涙目になってしまって、慌ててトイレに行った
飲み会に行けば、「あの先輩と付き合ってみない?」とか「支店長とか年の差だけどどう?」とか、一社員としてではなく、ただのヨメ要員として扱われてる
体のことも遠回しにからかわれてる 嘘だろもう平成も終わるっていうのに
それでもヘラヘラしちゃって言うのをやめてくれと断れないのは、自分に自信がないからだ
大学生のときやっていた居酒屋店員のときのセクハラも酷かったけど
客にトイレ前に呼び出されてハグしてとか言われたり、愛人に誘われたり、
私が恋人を作らないからって、知りもしない客となぜかデートに行かされそうになったり
苦しいよ
そんな簡単に人を好きになれるのなら、苦労なんてしてない
なのに、周りからは「遊んでるんでしょ」「弄んでいるんでしょ」って目で見られる
はっきり断っても「調子乗ってる」、やんわり断っても、「弄ばれた」と陰で噂されている
「あいつぐらいのブスならいけそうだ」って勝手に寄ってきて、勝手に離れていくのはどっちなんだろう
初めての彼氏だって、付き合っているときも他の素直でカワイイ女子に抱きつかれているときのほうが幸せそうな顔をしていた
それをずっと引きずっているのは、きっと世間的に見たらイタイ子なんだろう
でも、私の感じた痛みは私のものであって、軽んじられたくない
そんな馬鹿で子供じみた劣等感を誰かにぶつけたって、現状が変わりはしないのに
やっと、一人暮らしして、家族の冷たい視線から逃げられたと思ったのに
「生きていて、生まれてきてごめんなさい」って、毎日思うのをやめられたと思ったのに
私なんていないほうがいい
そんなこと分かりきっているけれど、電車に飛び込むのなんてよっぽど迷惑がかかる
私の死体を片付ける人も、帰りが遅くなる人にも、そんなニュースを朝から読まされる人たちにも、申し訳が立たない
40万円?で死ねると言われている、スイスのほとんどの安楽死施設は、うつ病患者は受け付けない
だれか、飲むだけで世界から記憶も記録も消滅できる薬を開発してくれないかなあ
誰かの大事な人が、代わりに生きてほしい
以前、短期間だけど、B2B通信のミドルウェアメーカーにいた。B2B通信っていうのは企業間でのデータのやりとりのこと。
あなたが近所のスーパーやドラッグストアで買い物をしているとする。お店は品物を仕入れるため、B2B通信で「冷えピタを20ケース売ってください」というデータを送り、受け取った卸売業者は「受注しましたよ」というデータを返す。卸売業者はさらに、メーカーに対して発注データを送り、メーカーは卸売業者に受注しましたよというデータを返す。
あるいは、あなたがAmazonで買い物をしたとする。Amazonはクレジットカード会社に請求データを送り、クレジットカード会社は成否をAmazonに返す。
あるいは、あなたが使っているA銀行の口座から、別のB銀行の口座に振込をしたとする。当然、銀行間でやり取りが行われる。
こういうデータのやり取りが、毎日恐ろしい件数で行われている。サマータイムが導入されるとしたら、B2B通信にも影響がある。ちょっと考えただけでも、
サマータイム導入が決まった場合、そういった問題が起きないように対応しなければいけないわけだけど、
限られた予算の枠内でサマータイム導入にコストを取られるということは、それ以外の施策は後回しになる。停滞のもとだ。
対応方法が企業によってばらけそうなところも問題だ。B2B通信しているすべての企業が揃って完璧な対応をできれば問題ない。でも、場合によっては、「うちはIT予算に余裕がないので、サマータイムの切り替わりタイミングでサーバの時計を2時間ずらすだけにします」みたいなところも出てくるだろう。そうすると、「時刻は確かに2時間ずらされているけど、タイムゾーンの指定はJSTのまま」みたいなデータが送られてくることになる。メーカーとユーザ企業の力関係にもよるけど、ミドルウェアでは「通信相手ごとにサマータイムの対応方法が違う」という前提で複雑なプログラムを組まないといけなくなるかもしれない。
おそらく、サマータイムの開始・終了時には、夜間にも関わらず関係各社の担当者が待機させられることになるだろう。B2B通信も夜中には頻度が下がるのが確かだけど、ないわけではない。データの種類によっては「毎日1回夜中の3:00に送る」みたいなケースもある。万が一何も起きなければ安心して寝ればいいけど、何か障害が起きた場合、影響が大きくなる早朝までに対応しなければいけないので、ミドルウェアメーカーの運用担当者も開発担当者も召集され、タクシーで集まって全員で対応するハメに、というのも十分ありうる。
海外との取引がある企業もあるから、日本だけの話でもない。「へぇ、日本でもサマータイム導入されるんだ。どれどれ、このJDTっていう1時間ずれるやつかな」なんて中途半端に対応されてトラブルになるケースもあるかもしれない。
……ここまで書いてきて思ったけど、サマータイムの対応で問題なのは、費用負担が一番大きいんじゃないだろうか。
オリンピックは、主催者や、そこから仕事をもらっている広告代理店、建築業者、スポーツ用品メーカーなどが収入を得る。それ自体は別にいいんだけど、そのためにサマータイムが導入されて、オリンピックと関係ない企業や、そこで働く人たちが負担を求められている。娯楽はそもそも、提供する側がサービスして、享受する側がお金を払うという交換をするわけだけど、サマータイム導入で反感を買っているのは、オリンピックから直接利益を受けない企業や人が、「あくまでサマータイム対応にコストがかかるのであって、オリンピックにお金を徴収わけではないから問題ない」という論理でタダ働きさせられることが大きい気がする。いわば、日本全体から金をふんだくって、オリンピック主催者・関係者に集約するかたちになっている、その構図が問題なのではないか。
そこで提案なんだけど、「サマータイムは導入してもいいから、対応にかかる費用を東京オリンピック主催者に請求できる」というかたちに持っていくのがいいのでは。
「いやいや、開始までの時間が残り少ないのが問題だよ」という意見もあると思うけど、費用が請求できるなら、優先度上げてできることが色々増えるよね。単純に人を増やしたり、深夜残業代にあてることだけじゃなくて。
たぶん、開催時刻をずらすんじゃなくてサマータイム導入、という話が出たのも、「IOCとの契約で時間が決まっちゃってるから変えると違約金払わされる」とかそういうことだと想像するので、サマータイム対応にかかる費用を主催者が負担して違約金回避できるなら、問題ないよね。……まさか、対応費用が払えないほど莫大になることがわかっていて、それを全国の企業に押し付けようとしているわけではないよね? もちろん、「サマータイム対応費用を都や国が補助金とか出して負担する」ではダメですよ。それだと結局、主催者が儲かるために国民全員に負担を押し付けるかたちになっちゃうので。
いやぁ、いい案を思いついた。これなら全員がニッコリ、Win-Winな感じになれそうですね。よかったよかった。
white_rose ほんとこの人叩かれ過ぎだよなあ。アンチが陰謀論で叩いてるのはともかくよくわからないままそれに乗って叩く人たちを見るともう
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.hochi.co.jp/soccer/world/20180514-OHT1T50285.html
ガーナ戦後の反応
http://b.hatena.ne.jp/entry/building-up.com/vahid-halilhodzic/post-2540/
評価が甘いなぁ。あの試合をちゃんと見たのだとして、采配方針の効いてなさとか本田のダメさを差し置いて初試合だからしょうがないって言えちゃうのか。それで『よくわからないままそれに乗って叩く人たち』を非難しちゃえるのか。
まぁ自由だけどさ感想は。あの試合で本田は采配方針通りに役に立つこともほとんどできてなかったと見えたが…、試合見たんかな。
white_rose そんなことになってるのか/子供も入れる球場でキャバクラ状態なのはどうなのって話でしょ。まなざし村ガーの人ばかりで絶望感
そういう困った人たちもいるんだろうが「子供も入れる球場ででキャバクラ状態」にはなってない(ハマスタ・神宮における増田の主観による)。増田の主観はさておいて、トップブコメにも「そんな酷いことまではなってないけどなぁ」というのが上がっているし。
実際に球場キャバクラが常態化しているところを目撃していないのに、勝手に絶望を表明しちゃうのはどうかと思う。そもそも球場に野球も見に行ってなさそうなんだよな。
自分は女で「まなざし村ガー」と言い募る輩どもは好きではないが、事実を知らなそうな人がネットの情報だけ聞きかじって批判をするのは更に分断を深めるし奴らを調子づかせるだけだから、大変困る。どうせなら聞きかじりに乗っかるのではなく、きちんと批判してほしい。
ついでにサッカーも、ちゃんと見てから批判も擁護もしてほしい。ちゃんと見てるというのなら申し訳ないけども、本当にちゃんと見る能力があるのか。あるんならまともなハリルホの戦略批判をぜひ聞いてみたい。
自分はハリルホは批判されるべき試合もあったが、勝たなきゃいけない試合では総じて(W杯予選のUAE戦以外)「勝つための召集&采配」をやっていたし、キリンでは「底上げをするための召集&采配」をしていると見ていたので、解任は、特にあの時期での解任は理解しがたいと考えているし、使われない選手が監督批判をするのは当然ではあるが、同時に大変くそみっともないものだと考える。
自分には女装の趣味がある。あくまで趣味だし、人様の前に出られるクオリティでも無いので、もっぱらひとけのない夜の公園などに車で出向いて、そこで小一時間散歩して帰ってくるという程度のものに過ぎない。
で、先日もそんな感じで女装散歩を楽しんで、メイクを落として着替えてから車で帰ってくる途中にパトカーに呼び止められて、職務質問を受けた。時間は夜11時半頃で、警察官は、まだ30歳代とおぼしき自動車警ら隊2名であった。
職務質問を受けた場所は散歩した公園からだいぶ離れていたので、それが理由で止められたのでは無いと判断したし、変に抵抗する理由もないから素直に応じた。
車で走行中に職務質問を受けた経験は過去にも5~6回あって、それは女装散歩の帰りが多く、その都度車内を調べられて「ご協力ありがとうございました」で気分良くお別れしてきたから、また今回も同じようなものだろうと考えていた。
ところが今回の職務質問は過去に無いくらい執拗で嫌悪感の残るものだった。車内にある自分のメイク道具は誰のものなのか。服は誰のものなのか、一回一回取り出して確認を求められた。最初からそういう趣味があると説明しているにも関わらず、だ。
そして、女装散歩用に持っているバックに護身用の催涙スプレーがあるのを見つけると、これまたこれはなんだ、誰のものなのか聞いてくるので、もちろん自分のもので、護身用の催涙スプレーであり、国内のネット通販で購入した事や、テレビ番組で護身用具の特集をしているのを見てその存在を知った事や、なぜ所持するに至ったのか事細かな経緯の説明もしたし、使用した事もないと説明したのだが、そこからが慌ただしかった。
後方でサポート役を担っていた警官が繰り返し何度も電話をするのを見て、当初は何か別の事件でも起きて召集されているのかと思っていた位だったが、実はそうではなく、これから自分を所轄の警察署に連行するための連絡をしているのだとわかった。
自分はそこで初めて催涙スプレーの所持が違法であると聞かされて、知った。まさかテレビで紹介されている護身用グッズが違法であるはずもないと思っていたから、まさに青天の霹靂だった。その警察官いわく、女性が護身用で所持をしていても違法だから認められないと、ハッキリと断言していた。金属バットやヌンチャクを持ち歩くのと同じ扱いだと自信満々に力説された。
ひとまず、なぜ自分が護身用に催涙スプレーを持ち歩くに至ったのか、その経緯を説明したい。
先程も触れたように、自分は女装をする時に人目につきにくい夜間の公園を選んでいるのだが、以前、たまたま女装散歩の場所として選んだ公園で、目立ちにくい場所に潜んでいたバイク数台のDQN集団に追いかけ回されるという、大変恐ろしい経験をした。
彼らはバイクはおろか自転車さえ進入出来ない筈の場所でバイクに乗って女装散歩中の自分を奇声を上げながら追いかけ回してきた。自分は必死で逃げた。走りにくいミュールを脱いで素足で逃げた。公園だから岩や芝生が混在したようなエリアがあって、その先には車通りの少ない道路があったので、岩や芝生の合間を縫うようにして走って、そして道路に出た。バイクに乗ったDQN達はさすがに岩に乗り上げるわけにもいかず、少し離れた場所にある出口まで遠回りして、再び自分を追いかけてきた。
自分はいざ道路に出たものの引き続き追われる身であるから、道路脇の茂みに身を隠して、警察に110番をした。110番をすればすぐに助けてもらえると思っていた。しかし無情にも電話は数十秒間に渡って「トゥルルル、トゥルルル」のまま繋がらず、そうこうしているうちにバイクがこの近辺を威嚇するように爆音を鳴らしながら、繰り返し往復し始めた。
このままではスマホのディスプレイの明かりでDQNたちに気付かれるかもしれない。いや、きっと気付かれると思い、110番するのを断念し、ずっと息を潜めた。
すると、この車通りの僅かな道路に、偶然にも流しのタクシーが一台通りかかった。自分は蜘蛛の糸にでもすがるかのように、一気に道路に飛び出してそのタクシーを止め、事情を説明して、自分の車を停めてある駐車場まで運んでもらった。
タクシーには自分の車の真横に横付けしてもらい、自分が駐車場を出るのでその後ろに伴走するようにして欲しいと頼み、その分多めに料金を支払った。
さすがにそこまでした事でDQNたちは追跡を諦め、自分は九死に一生を得た。
そういう経験から、自分は女装散歩の際の護身用グッズの携行を必要に思い、購入したという経緯がある。この一連の話をすべて警察官の取り調べで包み隠さずに話した。
しかし、それでも警察官は認めようとせず、結局催涙スプレーは没収され、深夜3時にようやく警察から解放された。
不幸中の幸いで、これは事件としては立件されず、自分は上申書を書いて、催涙スプレーの没収を認めることで許されるという事にはなった。
全く納得の出来ない事だし、自分に裁判を闘うだけの財力がないのがとても悔しいのだが、せめてもの思いとして増田に書こうと思う。
読んでくれた方、コメントしてくれた方、どうもありがとうございます。
警察の職務質問は車を運転している途中に無違反でも止められていて、しかもメイクを落として普通に男の姿の時です。荷物を調べられる中で色々とそちら方面が出てくるのでそういう趣味があると説明したということです。
あと、クオリティ云々は他人が評価するもので、人に合う自身が無いし、できれば会いたくないので、そこは特に何もありません。
警察の職務質問を受けた場所は深夜でも大勢の人が行き交う繁華街でした。自分はひとけのない公園に行った帰りに車で繁華街を通っている時に警察に止められたのです。
本文に書いてませんでしたが、警察署から解放されるに当たって身柄引受人が必要だと言うので近所に住む知人女性に来てもらいました。で、その知人女性が「私が持ち歩いてもダメなんですか?」と問い詰めてくれたんですが、女性でもダメだそうです。性犯罪者に襲われたら警察に通報して下さい。通報できなかったら、警察官は言葉を濁してました。やられろって事じゃないでしょうか。
自分が警察にマークされてたと思いたい人が多いようなので追記しますが、今回自分が公園で女装散歩してから職質を受けるまでの間にスパ銭と牛丼チェーン店に立ち寄ってますし、仮に公園から自分を追いかけてきたとしたら、そもそも車を止める場所にも事欠くような繁華街までわざわざ数十キロに渡って泳がせる意味がわかりません。
あと、過去に車で職質を受けたのは複数の都道府県にまたがっていて、ある時は自転車でパトロールしていた警察官に止められましたし、ある時は大通りを走っている時でしたので、そこまで共通しているものでもありません。
今回の件で警察が車に職質をかける時の職質を受けやすい車に関するネットの情報を色々見てみて思ったのは、車が汚いと職質を受けやすいというのがあって、これは思い当たるので、これからは傷を直してきれいに保ちたいと思います。
全部、その古株の上司のいうことの受け売りなんだが、指輪は邪馬台国のころの奴国王が鍛造したものらしい(奴国は博多のあたりにあったと考えられていて、九州北部沿岸は考古学的にも我が国の製鉄の黎明期の遺構・遺跡が集中しているところなんだ)。
奈良盆地の邪馬台国→ヤマト政権の伸長に対抗するために、奴国王は南方との交易の中でレガリアとして鍛造した。その際は卑弥呼と台与がなんとかしたんだろうとのこと。
でも歴史の節目節目に指輪の持ち主が現れて、そいつが天下取ると最終的には古の奴国王が復活しちゃう。
現代に復活すると、国会の召集や衆議院が解散した時とかに明仁が押す「御名御璽」の印が、「漢委奴国王印」にとって代わられてしまうんだってさ。このように、世界が支配されてしまう。
平成も終わるし、早く捨てに行った方が良いって言われた。
で、わかると思うけど、ピナツボ火山で鍛造したから、ピナツボ火山に捨てないといけないらしい。これは幕末の探検家松浦武四郎も『撥雲余興』にそう書いているんだって。